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知の巨人 荻生徂徠伝


隔月で知り合いの税理士事務所からお便りのDMをいただいている。その表紙には毎回、代表の方があいさつを兼ねた文章を載せている。

ある号の表紙でとても印象に残ったことが載っており、弊社法人のFacebookアカウントで転載させていただいた。それがこちらだ。

一、人の長所を初めから知ろうとしてはいけない。人を用いて初めて長所が現れるものである。
二、人はその長所のみをとればよい。短所を知る必要はない。
三、自分の好みに合う者だけを用いるな。
四、小さい過ちをとがめる必要はない。ただ、仕事を大切にすればよい。
五、人を用いる上は、その仕事を十分に任せよ。
六、上にある者は、下の者と才智を争ってはいけない。
七、人材は心ず一癖あるものである。それは、その人が特徴のある器だからである。癖を捨ててはいけない。
八、以上に着眼して、良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものである。
九、小事を気にせず、流れる雲のごとし。

これは徂徠訓。ここでは九条までが載っている。が、一般には八条からなっているようだ。

原文はこうだ。

 一つ、 人の長所を、初めより知らんと求むべからず
     人を用いて 初めて、長所の現れるものなり
 二つ、 人は その長所のみを取らば、すなわち可なり
     短所を知るは要せず
 三つ、 おのれ が 好みに合う者のみを用うるなかれ
 四つ、 小過を、とがむるなかれ
     ただ事を 大切に なさばすなり
 五つ、 用うる上は 信頼し、十分にゆだねるべし
 六つ、 上にある者、下にある者と才知を争う事なかれ
 七つ、 人我は必ず 一癖あるものと知るべし
     但し、その癖は器材なるが、ゆえに 癖を捨てるべからず
 八つ、 かくして、上手に人を用うれば、事に適し
     時に応ずる人物、必ずこれにあり

これらは為政者向けの内容だ。組織の中で上に立つものの教えと言うべきか。私も年齢的にリーダーシップを発揮しなければならぬ年齢に差し掛かっている。ところが、人を教え導けるようになりたいと願ってはいるものの、なかなか思ったようにいかない。

そう悩んでいたところ、DMの表紙にあった徂徠訓の教えが私の心に刺さった。これを一つの原則として肝に銘じ、暗記できるぐらいになりたいと思った。そして、荻生徂徠という人物に興味を持つきっかけにもなった。

昨年と一昨年は上杉鷹山、細井平洲、徳川光圀、二宮尊徳といった江戸時代の高名な学者の遺跡や遺訓を集中的に学んだ。となれば、荻生徂徠も学ばねばなるまい。いや、むしろ遅すぎたくらいだ。

本書を読んで思ったのは、荻生徂徠の人間的な一面が描かれていることだ。人間臭さとでも言おうか。

私は聖人を簡単には信じない。自らの欲を滅し去り、品行方正で一生あり続ける。そんな人物が描かれていたとすればそれは絵空事。江戸時代の人物にしてもそう。学者として高名であることと、その人物が人間的に非の打ち所のない人物かどうかは別の話だ。本書で荻生徂徠が聖人ではなく人間的に描かれていたことは、私に本書への親しみを持たせた。

もちろん、本書で書かれた荻生徂徠がそのままの人物であるはずがない。著者の解釈や脚色が大いに混じっていることだろう。だが、それをおいても本書で描かれた荻生徂徠からは人間の生身の姿が漂ってくる。

荻生徂徠の教えの神髄は私にはまだつかめていない。が、荻生徂徠が学問を修めてきた道は理解できたように思う。それを要約すると徹底した原典への参照だ。原典を読み込むあまり、漢文を書き下し文に頼らず読めるようになった徂徠。私たちも中・高の古典の授業で漢文には触れた。その時、私たちは書き下し文を使って読むことを教えられた。書き下し文とは、レ点や一、二点が漢字の横につくあれだ。本書によると、書き下し文を使って漢文を読むことは江戸時代でも当たり前だったようだ。当時の人々もそうやって漢文を学び、読み解いていったのだという。しかし、荻生徂徠は書き下し文に頼ることを拒んだ。漢字そのもので読み下してこそ原典の精神に触れられる。それが荻生徂徠の掴み取った信念だったのだろう。

漢文へのこだわりは、荻生徂徠を唐音の習得へと向かわせる。そして仲間内で勉強会を開いてはひたすら学問に打ち込む日々が続く。

そんな荻生徂徠の生計は何で成り立っていたか。それは柳沢家の江戸藩邸の住み込みの学者として。自ら学ぶうちに柳沢家に取り立てられ、そこで長らく養われた身。それが荻生徂徠の生き方だった。その暮らしは確かに荻生徂徠の衣食住を保証した。しかし、一方で荻生徂徠を世に出る機会を妨げ続けた。

柳沢家といえば柳沢吉保公が有名だ。徳川綱吉の側用人として知られている。私はよく山梨に行く。恵林寺にも。恵林寺には柳沢吉保公の像が安置されている。もともと武田家の家臣だった柳沢家だが、吉保公が将軍綱吉のお気に入りとなり、出世を果たした。荻生徂徠も主家の隆盛に従い、藩邸でお抱えの学者として生活できたわけだ。

だが、綱吉が亡くなり、家宣に将軍が変わった。柳沢家も吉保公から次の代に変わった。すると荻生徂徠のような学者をいつまでも養っておけない。つまり、荻生徂徠も世に出て糧を得なければならない。そのような境遇の変化があって初めて腰を上げるあたり、野心が少ないとみるのか、要領がよくないとみるのか。それは私にはわからない。ただ、本書で描かれる荻生徂徠は、自らの名声が世に伝わらないことを気に病む人物として描かれる。新井白石や室鳩室、伊藤仁斎といった荻生徂徠の学問を軽視する人々をけなし、誰かに自らの学問が認められたといっては喜ぶ。そんな人間的な荻生徂徠がたくさん描かれている。それが本書の特徴だ。

とはいえ、本書は軽いだけの本ではない。それどころか、至るところに漢文の読み下し文や古文訳が引用される。それらの部分を読み進めるのは、正直、古文に慣れていないとしんどい。私も苦しかった。

しかし、その部分を突破しないと、朱子学を凌駕した荻生徂徠の業績は見えてこない。晩年の荻生徂徠は将軍吉宗のブレーンとして政治の要諦を教える役目を担った。つまり、為政者が持つべき視点こそが、荻生徂徠の学問の要諦なのだろう。

本書の270Pにはこう書かれている。
「むろん儒学は老荘の学(道教)や仏学と違って政治を重視するが、宗儒や江戸期のこの時代までの儒者は道徳とか仁義とかを政治に優先させた。身を律することに重きをおいた。徂徠はそれを引っ繰り返し、政治を道徳や仁義から切り離した。儒学の世界を根底から覆した」
私はこの文にこそ荻生徂徠の業績の要点が込められていると思う。著者が言いたかったことも。

つまり徂徠は、来るべき科学万能時代を先取った人物。道徳や仁義ではなく、より科学的な営みとして政治をとらえた先進性こそ畏敬すべきなのだ。もちろん、その良し悪しや評価基準は時代によって変わる。だが、その思想を封建時代に打ち立てたことは評価されるべきだ。徳川吉宗の行った政治が享保の改革として今に伝えられているのも、徂徠の薫陶が少なからず影響を与えているに違いない。

今の私は荻生徂徠のすごさを上に書いたような内容でしか理解できていない。そして、冒頭に掲げた徂徠訓ですらまだ理解の途中だ。経営者としてはまだまだ荻生徂徠から学ぶべき事は多い。人間味を備えた経営を行うための教訓として。

‘2018/04/22-2018/04/26


民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


CO2と温暖化の正体


地球温暖化は人類の経済活動による現象なのか。それとも太陽と地球の位置関係によって引き起こされるのか。人類が今の消費型の経済活動をやめなければならないのはいつか。それともすでに手遅れなのか。それとは逆に、いや、地球は温暖化などしていない。地球は寒冷化しつつあるのだと主張する向きもある。さらには海洋が大気中の二酸化炭素を吸収してくれるため温暖化することはないとの説も聞こえてくる。地球温暖化に関する全ての懸念は杞憂だという意見も。

地球に住むの全人類の中で、上に書いたような温暖化の問題に日々関心を持つ方はどれぐらいいるのだろう。

先進国民(私を含んだ)は、大小の差はあれ今の快適な暮らしに慣れている。衣食住はあり余るほど満ち、文化への好奇心や自己実現の機会に事欠かない現代。その特権を失いたくないと思っている方がほとんどだろう。既得権益を守ろうとする思いが先鋭化するあまり「地球温暖化は嘘っぱちだ」と口走る米国トランプ大統領のような方もいる。

それとは真逆の方向に奔走する人もいる。国全体が海中に沈む危機に瀕している南洋の島国キリバスの状況を悲観的に解釈し、今の世界の大都市の多くもキリバスと同じように海に沈むと煽る方々だ。

地球温暖化の懸念が真実であるならば、本来なら人類全体で共有すべき喫緊の課題であるはず。なのに、それがイデオロギーの対立にすり替わっている現状。その状況にいらだつ人は私以外にもいるはずだ。いい加減、何が正しいのかを知りたい。何が起こっているのか。または、何が起ころうとしているのか。私たちにはいつまで時間が残されているのか。文明に慣れた今の先進国の暮らしは未来の人類からは非難されるのか。それとも全ては杞憂なのか。それを知りたい。そう思って手に取ったのが本書だ。

本書の著者の筆頭に名の挙がるウォレス・S・ブロッカー教授は、1950年代から地球温暖化の問題を研究するこの分野の泰斗だ。世界で始めて地球温暖化が起きていることを公式に報告した人物でもある。教授は地球の地理と歴史を総じて視野に入れ、この問題に取り組んで来た方だ。つまり本書に書かれる内容は、根拠なき自説を無責任に振りかざすような内容ではないはず。そう信じて本書を読んだ。

本書の著者として挙がっているのは二名。教授とロバート・クンジグ氏だ。そして実際に本書を執筆したのはロバート氏の方だという。ロバート氏はサイエンスライターが本業であり、その職能をフルに生かしている。では教授は何をしているのか。おそらく、本書の監修のような立場だと思われる。本書には教授の生い立ちから研究に携わるまでの生涯、そして研究の内容と成果が書かれている。それらの記載が正しいか監修する立場で著者に名前を連ねているのだろう。

本書の序盤はロバート氏からみた教授の紹介にページが費やされている。温暖化の真実を本書からつかみ取ろうと意気込む読者は拍子抜けする。また、退屈さすら感じるかもしれない。だが、なぜ教授がこの道に入ったのかを知ることはとても大切だ。教授の生い立ちからうかがい知れること。それは、教授のバックグラウンドに宗教的、経済的な影響が少ないことだ。それはつまり、地球温暖化を指摘した教授の背景にはイデオロギーの色が薄いことを示唆している。あえて本書を教授の生い立ちから語るロバート氏の意図はそこにあるはずだ。

 ・教授の家族が敬虔なクリスチャンとなったこと。
 ・それに背を向けるようにブロッカー少年は科学への興味が勝り研究者の道を選んだこと。
 ・初期の研究テーマは炭素測定法による年代分析だったこと。
 ・この研究に踏み込んだのは偶然の出会いからだったこと。

炭素測定法の研究を通して世界各地に赴いた教授は、地球の気温の変化に着目する。それが地球が温暖化しているとの発見につながり、その事実を公表するに至る。本書は教授の研究が豊富に引用される。また、気候学者、考古気候学者など教授の研究に関する人々の研究成果やその人物像なども多彩に紹介される。

本書を読んで特に驚くこと。それは、過去の気温を類推するための手法がとても多岐にわたっていることだ。炭素測定だけではない。地層に含まれる花粉量。氷河が削り取った山肌の岩屑量。木の年輪の幅。もちろん、天文学の成果も忘れるわけにはいかない。地球が自転する軸のブレが周期的に変わること、太陽の周りを公転する軌道が歪んでいることや、太陽活動に周期があること。などなど。本書の中で言及され、積み上げられる研究成果は、本書だけでなく温暖化問題そのものへの信憑性を高める。

本書で紹介される研究成果から指摘できるのは、地球が一定の期間ごとに温暖化と寒冷化を繰り返して来た事実だ。長い周期、短い周期、中間の周期。そして、今の時期とは寒冷期と寒冷期の間なのだという。つまり、今の人類の発展とはたまたま地球が暖かいからだ、との結論が導き出される。

ならば、地球温暖化とは幻想に過ぎないのだろうか。人類の経済活動など地球にとっては取るに足りず、長期的に見ればその影響など微々たるもの。今の経済活動に一片たりとも非はない。既得権益に満ち足りていると、そういう結論に飛びつきがち。トランプ米大統領のように。

だが違う。

本書で紹介される科学者たちの研究は、そういう楽観的な早合点を一蹴する。観測結果から導き出される大気中の二酸化炭素の量は、天文単位の周期から予想される濃度を明らかに逸脱している。そしてその逸脱は産業革命以降に顕著なのだ。つまり、人類の経済活動が地球温暖化の主犯であることは動かしようもない明確な事実なのだ。

そして、海洋が二酸化炭素を吸収できる量を算出すると、あと数世紀分のゆとりがあるらしい。だが、その吸収速度は遅々としている。人類が排出する二酸化炭素を吸収するには到底追いつけないのだ。

学者たちが危惧するのは二酸化炭素の量そのものではない。むしろ気候のバランスが大幅かつ急激に崩れる可能性だ。そのバランスは二酸化炭素の割合によってかろうじて保たれている。過去の気候変動の痕跡を観察し、そこから推測できる結論とは、気候の変化が緩やかに起こったのではなく、地域によっては急激だったことだ。世界各地の神話に頻出する大洪水の伝説が示すように。例えばノアの箱舟が活躍した大洪水のような。

ある時点を境に南極の棚氷が一気に崩落する可能性。各所に残る氷河が一気に融解する可能性。そしてメキシコ湾流を起点として世界の海洋を長い期間かけて還流する大海流が突然ストップしてしまう可能性。世界の各地に残されている数々の証拠は、急激な気候変化が確実に起こっていたことを如実に示している。

今のままでは人類に残された時間はそう多くない。それが本書の結論だ。では、本書は単なる警世の書に過ぎないのだろうか。

いや、そうではない。

科学者たちは地球規模で発生しうるカタストロフィから救うため、さまざまなな可能性を研究している。本書に紹介されているのはそれらの研究の中でも温暖化抑止にとって有望と見られるアイデアだ。

アイデアのタネはシンプルなものだ。
「人間は自ら排泄したものを浄化するために下水システムを作り上げた。ならば排泄した二酸化炭素を浄化する仕組みがない現状こそがおかしい」

この原則は、私にとって目から鱗がはがれるようなインパクトをもたらした。私たちは排泄し垂れ流してきた二酸化炭素の処置についてあまりにも無関心だった。無味無臭で影も形もない二酸化炭素。それがために、何の良心の呵責を感じることなく放棄してきた。今、そのツケが人類を窮地に陥れようとしている。

教授の同僚ラックナー氏は、とあるプラスティックが二酸化炭素を有効に吸収することを発見した。あとはそれを炭酸ナトリウムで流して重曹に変化させ、そこからCO2を分離するだけだ。では、分離したCO2はどこに貯蔵するべきなのか。

一つは海洋だ。今も海洋は、 自然のプロセスの一環として二酸化炭素を吸収し続けている。このプロセスを人為的に行うのだ。深海に大量の液化二酸化炭素を注入し、海水と溶けあわせる。だが、この方法は既存の海洋生物への影響が未知数だ。

では、陸地に保存すればいいのか。CO2はカルシウムと結合して重炭酸カルシウムとなる。それはもはや固体。気体となって大気に拡散することはない。そしてカルシウムは玄武岩に豊富に含まれるという。ということは玄武岩の岩盤を深く掘り進め、地下にCO2を注入するとよいのではないか。その理論に沿って検証したところアイスランドが有力な貯蔵場所として上がっているそうだ。有効な温暖化対策としてプロジェクトは進んでいることが紹介されている。

他にも、成層圏に二酸化硫黄のガスを流すことで、太陽光線を反射して温暖化を回避する案も真面目に研究され議論されている。

このうちのどれが地球と人類と生物圏を救うことになるのか。おそらく温暖化の修復には数百年単位の時間がかかることだろう。その結末は誰にも分からない。だが、分かっているのは今、二酸化炭素の処分プロセスの対策をはじめないと、全ての人類の文明は無に帰してしまうということだ。営々と築き上げてきた建造物。世界中に張り巡らされたインターネット網。ビジネスのあらゆる成果。美しい景色。人類の文化のめざましい成果。それらがすべてうしなわれてゆく。

私たちは今、何のために生きているのだろう。家族を構え、子を育て、ビジネスに邁進する。それらの営為は、全て後世に自分の人生を伝えるためではないのか。少なくとも私にはそうだ。でなければこんなブログなど書かない。一方で刹那的にその場さえ楽しければそれでいいとの考えもあるだろう。だが、それすらもカタストロフィが起こったら叶わなくなる可能性が高いのだ。

私は情報業界の人間だ。つまり電気が断たれると飯が食えなくなる。そして、私は自然が好きだ。旅も好き。だが、旅先への移動は車や電車、飛行機だ。そのどれもが電気や燃料がないとただの重い代物。つまり私とは旅や自然が好きでありながら、電気や燃料を食い物にして自分の欲求を満たす矛盾した生き物なのだ。その矛盾を自覚していながら、即効性のある対策が打てないもどかしさに苦しんでいる。その矛盾はちまちまと電源のOn/Offを励行したからといって解消できる次元ではない。だから私はブログを書く。そして自然を紹介する。その行き着く先は、地球環境にビジネス上で貢献したいとの考えだ。

本書は、もっと世に知られるべきだ。そして、私たちは二酸化炭素の排出について意識を高めなければならない。もはや温暖化のあるなしなど議論している場合ではないのだ。本書は環境保護と経済優先の両イデオロギーの対立など眼中にないほど先を見ている。そして確固たる科学的確証のもと、データを提示し温暖化の現実を突きつける。そして突きつけるだけではなく、その解決策も提示しているのだ。

イデオロギーに毒された科学啓蒙書の類はたまに目にする。だが、本書はこれからの人類にとって真に有益な書物だと思う。少しでも多くの人の目に本書が触れることを願いたい。

‘2017/02/28-2017/03/03


絢爛たる悪運 岸信介伝


本稿を書いている時点で、安倍首相の首相在職期間は戦後第4位になるそうだ。長期政権に向けて視界も良好、といったところだろう。

安倍内閣の政策を一つ一つあげつらえばきりがない。だが、よくもわるくも自民党の伝統路線を堅実に歩んでいることは評価できるのではないか。私が本稿を書き始めたとき、安倍首相はトランプ米国大統領との首脳会談に臨んでいる。トランプショックに巻き込まれるのか、それとも新たな日米関係が構築できるのか。安倍首相はトランプ米国大統領ともリーダーシップの上では相性がいいのではないか、ともいわれている。ここで盤石の信頼体制が築けたら、安倍内閣の体制もさらに強固なものとなるに違いない。対米従順といわれようが、ポチと言われようが、日米関係が日本の外交戦略上無視できないことはもちろんだ。

そして安倍首相は長期政権が確立できる見通しがついた時点で祖父以来の懸案に取り掛かることだろう。その懸案こそ、憲法改正。

安倍首相の祖父、岸信介元首相の悲願でもあった憲法改正。それは、安保改正法案の議決と引き換えに岸内閣が総辞職したあと、60年近くも実現する見通しすら立っていない。岸氏は首相を辞任した後も後継者たちに憲法改正を託し続けていたという。そして、それがなかなか実現しない事に苛立っていたという。

岸氏を描いた本書には、幼い頃の安倍首相が登場する。安保デモ隊の群れは岸首相宅の周辺にも押し寄せた。そんな周囲の騒ぎをよそに、岸首相は悠然と孫たちを呼び寄せ、のんきに遊んでいたという。幼い安倍首相がデモ隊に向けて水鉄砲を発射していた微笑ましいエピソードも本書には登場する。おそらく安倍首相は、祖父から憲法改正の悲願を繰り返し刷り込まれて成長したことだろう。安倍首相に与えた祖父岸氏の影響とはかなり大きかったと思われる。

私が本書を手に取った理由。それは安倍内閣の政策の源流が岸信介元首相に発することを確かめるためだ。そして本書を読んで、その目的は達せられたと思う。今の安倍政治を読み解く上で、岸氏の生涯を振り返ることは意味がある。

自民政治の後継者とみられる安倍首相だが、出身派閥は清和会だ。清和会といえば岸氏の流れを汲む派閥だ。一方で安倍首相にとって大叔父であり、岸氏の実弟にあたるのが佐藤栄作元首相だ。佐藤栄作氏といえば、吉田学校に学んだ吉田茂直系の後継者として知られている。岸氏は反吉田色の強い政治家として知られている。兄弟でも政治的な立場に違いがある。そして、安倍政治とは大叔父の佐藤栄作元首相よりも、岸氏の流れをくんでいる。ということは、吉田池田佐藤路線が戦後の日本の本流と仮に見なせば、安倍政治とは、自民政治の本流ではないということになる。

では、岸氏とはどのような人物だろうか。岸氏を一言で表す言葉として著者が選んだのは「絢爛たる悪運」。「絢爛」とは氏の栄達に満ちた一生を表し、「悪運」とは氏の波乱の生涯を表しているのだろうか。

波乱の生涯とは言っても、岸氏の生まれは恵まれていた方だ。岸氏が生まれた佐藤家が、長州藩でも名家にあたる家だからだ。岸氏の曾祖父にあたる佐藤信寛は、吉田松陰に兵法を伝授した人物として、長州藩に重きをなした人物。明治初期には島根県令を勤めたとも伝わっている。つまり、岸氏は長州閥として恵まれた一族に産まれたのだ。岸氏が産まれた時も明治の世を謳歌していたことだろう。

ところが岸氏の場合、父が養子だったことで波乱の人生に投げ入れられる。父の実家、岸家に婿養子で出されるのだ。以来、岸氏は、佐藤家と岸家の双方に気を遣って生きることになる。それは岸氏に硬軟取り混ぜた処世の術を身につけさせる。結果として岸氏は逆境に遭っても身を処すためのスキルを身につけた。

東大から商工省へ。ここで頭角を現した岸氏は革新官僚として統制経済を推進する。統制経済は、軍にとっては都合の良い政策である。その推進者として軍に目を掛けられた岸氏は、満州国の経済責任者として関東軍から招聘される。そして、商工省を辞めて満洲国へ。さらには東条内閣の閣僚に抜擢され、開戦の詔書に署名する。この辺りの経歴は、「絢爛たる」といってよい。

ところが戦局の悪化は、岸氏の主管である戦時生産に悪影響を及ぼす。生産が戦局の悪化で計画通りに進まなくなり、東条首相との関係が悪化する。その結果、岸氏は一転、東条内閣の総辞職に一役かうことになるのだ。岸氏は敗戦後に極東軍事裁判、いわゆる東京裁判でA級戦犯として訴追される。だが、東条首相と対立したことや、開戦二カ月前の戦争指導者会議に出ていなかったこともあり、無罪となる。この辺りが「悪運」と言われるゆえんだろう。

著者はここで悪運にまつわるエピソードとして、岸氏が巣鴨プリズンから無罪で出てくることや将来は総理となる託宣を告げにやって来た占い師のエピソードも挟む。

公職追放が解除されてからの岸氏は、政界復帰に向け準備を進める。その結果が、石橋内閣の副総理格である外相で入閣する。ところが石橋首相が病気で退陣を余儀なくされるのだ。そこで首相代理に昇格したのが副総理格だった岸氏。そのまま次期総理として二期に渡って組閣することになる。この辺りの岸氏の経歴こそが、昭和の妖怪と揶揄されたゆえんだろう。並みいるライバルは次々に病で舞台を去り、労せずして首相の椅子を手に入れるあたりが。

岸内閣の業績は、実は安保以外にもいろいろとある。だが、首相を退陣した後の岸氏にとって思い出されるのは、安保改定の攻防とデモ隊に囲まれる日々だった。樺美智子さんの死亡とアイゼンハワー米大頭領訪日断念といった一連の流れは特に印象深い出来事だったようだ。審議時間切れで安保が自動的に決議されるのを待つ間、首相官邸で過ごす岸氏の元を訪れていたのは実弟の佐藤栄作氏。ここで岸氏の口をついたのは幕末の長州で奇兵隊を立ち上げた高杉晋作の一句。「情けあるなら今宵来い、明日の朝なら誰も来る」

対米戦争を始めた内閣の閣僚であった岸氏は、アメリカに対しては複雑な思いを持っていたことだろう。安保改定を単なる対米追随から推進したのではないはずだ。戦後の日本が置かれた状況や国際関係の行く末も秤にかけた上で、最善手として安保改定を選んだはず。

最近、この年のノーベル平和賞候補として現職の岸首相が推薦され、候補に挙がっていたことを知った。もし受賞していたら実弟佐藤栄作元首相の受賞以上に物議を醸した事だろう。資料によれば、ノーベル平和賞に推薦したのはアメリカの上院議員だったとか。おそらくは推薦事由とは戦後国際政治を冷静に見極め、安保改定を推進したとかそんな事だろう。東條開戦内閣の閣僚でありながら、米国と手を握った現実感覚が推薦理由だったのかもしれない。こういった得体の知れない処世の鮮やかさも、悪運の強さとして、昭和の妖怪と言われた理由だと思う。

自民党金権政治のハシリ、対米追随のハシリ、と岸氏を誹謗するのはそれほど難しくない。それよりも難しいのは岸氏の構想に乗った憲法改正の実現だ。国際政治の変化に対応し、対米追随路線を進めたとはいえ、岸氏は憲法改正を悲願としていた。吉田元首相や岸氏は、GHQの権力の強さを肌で知っている。だからこそ、戦後の出発にあたっては、GHQから押し付けられた憲法を飲むしかないとの現実認識をもっていた。だが、それはあくまでも一時の方便に過ぎない。日本人が主体となって制定した自主憲法を望む思いは強いはず。一方、憲法が思いの外長期にわたって有効であり続けたことは、日本人は制定当初の憲法がいびつな手続きであったことを忘れ、慣れてしまった。その結果、改憲の機運も依然として弱い。

だが、当時は弱体だった中国が強大になっている今、果たして今の憲法が有事に対応できるのか。そう問われれば言葉につまるほかない。

祖父が果たせなかった改憲を孫の安倍首相は実現できるのか。トランプ大統領との首脳会談では、尖閣諸島は安保条約の適用範囲であるとの言質をトランプ大統領から得た。これによって安保の威光がいまもまだ失われていないことが明らかとなった。そして、米国の庇護が期待できれば、改憲の必要は少し弱まる。だが、それでもなお国防を自国でやるか他国に委ねるか、という問題は解決されていない。岸首相の時代から何も変わっていないのだ。

岸氏の生涯は、実は妖怪どころか、超現実主義の原則に沿っていた。現実主義とは、これからの日本を舵取りする上で欠かせない視点だと思う。その意味でも、岸氏の衣鉢を継ぐ安倍首相のこれからに注目したいと思う。

‘2017/02/06-2017/02/07


ベルリン、わが愛/Bouquet de TAKARAZUKA


本作は、私にとって初めて独りだけで観た舞台だ。独りだけで観劇することになった事情はここでは書かない。ただ、私の妻子は事前に本作をみていた。そして妻子の評価によると本作は芳しくないようだ。むしろ下向きの評価だったと言ってよいくらいの。そんな訳で、私の期待度は薄めだった。正直、事前に妻子が持っていたパンフレットにも目を通さず、あらすじさえ知らずに客席に座ったくらいだ。

そんな消極的な観劇だったにも関わらず、本作は私に強い印象を残した。私の目には本作が、宝塚歌劇団自らが舞台芸術とは何かを振り返り、今後の舞台芸術のあり方を確かめなおそうとする意欲作に映った。

なぜそう思ったか。それは、本作が映画を取り上げているためだ。映画芸術。それは宝塚歌劇そのものである舞台芸術とは近く、それでいて遠い。本作は舞台の側から映画を描いていることが特徴として挙げられる。なにせ冒頭から舞台上に映画館がしつらえられるシーンで始まるのだから。別のシーンでは撮影現場まで登場する。今まで私は舞台の裏側を描く映画を何作も知っている。が、舞台上でここまで映画の内幕を描いているのは本作が初めてだ。

舞台の側からこれほどまでに映画を取り上げる理由。それは、本作の背景を知ることで理解できる。本作の舞台は第二次大戦前のベルリンだ。第一次世界大戦でドイツが課せられた膨大な賠償金。それはドイツ国民を苦しめナチスが台頭する余地を生む。後の1933年に選挙で第一党を獲得するナチスは、アーリア人を至上の人種としユダヤ人やジプシー、ロマを迫害する思想を持っていた。その過程でナチスによるユダヤ人の芸術家や学者を迫害し、大量の亡命者を生んだことも周知の通り。そんな暗い世相にあって、映画はナチスによってさらにゆがめられようとしていた。映画をプロパガンダやイデオロギーや政治の渦に巻き込んではならない。そんな思いをもって娯楽としての映画を追求しようとした男。それが本作の主人公だ。脚本は原田諒氏が担当した宝塚によるオリジナル脚本である。

冒頭、舞台前面に張られたスクリーンにメトロポリスのタイトルがいっぱいに写し出される。私はメトロポリスはまだ見ていない。だが、メトロポリスをモチーフにしたQUEENの「RADIO GA GA」のプロモーションビデオは何度も見ている。なので、メトロポリスの映像がどのような感じかはわかるし、それが当時の人々にとってどう受けいれられたかについても想像がつく。

あらすじを以下に記す。METROPOLISのタイトルが記されたスクリーンの幕が上がると、プレミアに招待された人々が階段状の席に座っている。期待に反して近未来の描写や希望の見えない内容を観客は受け入れられない。人々は前衛過ぎるメトロポリスをけなし、途中退席して行く。メトロポリスを監督したのはフリッツ・ラング監督。この不評はドイツ最大の映画会社UFAの経営を揺るがしかねない問題となる。

そこで、次期作品の監督に名乗りを上げるのが、本作の主人公テオ・ヴェーグマンだ。彼はハリウッド映画に遅れまじと、トーキー映画を作りたいとUFAプロデューサーに訴え、監督の座を勝ち得る。

テオは友人の絵本作家エーリッヒに脚本を依頼する。さらに、当時ショービジネス界の花形であるジョセフィン・ベーカーに出演を依頼するため、楽屋口へと向かう。ベーカーは自らが黒人であることを理由に出演を辞退するが、そのかわりテオはそこで二人の女優と出会う。レニ・リーフェンシュタインとジル・クラインに。テオは、果たして映画を完成させられるのか。

本作は幕開けからテンポよく展開する。そして無理なく出演者を登場させながら、時代背景を描くことも怠らない。ここで見逃してはならないのが、人種差別の問題にきちんと向きあっていることだ。ジョセフィン・ベーカーはアメリカ南部出身の黒人。当時フランスを中心に大人気を博したことで知られる。本作に彼女を登場させ、肌の色を理由に自ら出演を断らせることで、当時、人種差別がまかり通っていた現実を観客に知らしめているのだ。先にも書いたとおり、ナチスの台頭に従って人種差別政策が敷かれる面積は広がって行く。それは、人種差別と芸術迫害への抵抗という本作のテーマを浮き彫りにさせてゆく。

本作が舞台の側から映画を扱ったことは先に書いた。特筆すべきなのは、本作が映画を意識した演出手法を採っていることだ。それはスクリーンの使い方にある。テオが撮った映画でジルが花売り娘として出演するシーンを、スクリーンに一杯に映し出す演出。これはテオの映画の出来栄えと、ジル・クラインの美しさを際立たせる効果がある。だが、この演出は一つ間違えれば、舞台の存在意義を危うくしかねない演出だ。舞台人とは、舞台の上で観客に肉眼で存在を魅せることが使命だ。だが、本作はあえて大写しのスクリーンで二人の姿を見てもらう。この演出は大胆不敵だといえる。そして私はこの演出をとても野心的で意欲的だと評価したい。しいて言うならば私の感覚では、モノクロの映像があまりにも鮮明過ぎたことだ。当時の人々が映画館で楽しんだ映像もフィルムのゴミや傷によって多少荒れていたと思うのだが。わざと傷をつけるのは「すみれコード」的によろしくないのだろうか。

美しい花を売る演技によって、端役に過ぎなかったジル・クラインはヒロインのはずのレニ・リーフェンシュタインを差し置いて一躍スターダムな評価を受ける。さらには、そのシーンに心奪われたゲッベルスに執心されるきっかけにもなる。

プライドを傷付けられたレニは、ジル・クラインがユダヤ人の母を持つこと、つまりユダヤの血が流れていることをゲッベルスに密告する。そしてナチスという権力にすり寄っていく。そんなレニのふるまいをゲッベルスは一蹴する。彼女がユダヤ人であるかどうかを決めるのはナチスであると豪語して。ジル・クラインに執心するあまりに。史実ではゲッベルスはドイツ国外の映画を好んでいたと伝えられている。本作でもハリウッドの名画をコレクションする姿など、新たなゲッベルス像を描いていて印象に残る。

あと、本作で惜しいと感じたことがある。それはレニの描かれ方だ。史実ではレニ・リーフェンシュタインは、ナチスのプロパガンダ映画の監督として脚光を浴びる。ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の監督としても名をはせた彼女。戦後は逆にナチス協力者としての汚名に永く苦しんだことも知られている。ところが、本作ではレニがナチスに近いた後の彼女には一切触れていない。例えば、レニが女優から監督業にを目指し、ナチスにすり寄っていく姿。それを描きつつ、そのきっかけがジルに女優として負けたことにある本作の解釈を延ばしていくとかはどうだろうか。そうすれば面白くなったと思うのだが。もちろん、ジル・クラインは架空の人物だろう。でも、レニの登場シーンを増やし、ジルとレニの関係を深く追っていけば、レニの役柄と本作に、さらに味が出たと思うのだが。彼女の出番を密告者で終わらせてしまったのはもったいない気がする。

もったいないのは、そもそもの本作の尺の短さにも言える。本作がレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」と並演だったことも理由なのだろうけど、少し短い。もう少し長く観ていたかったと思わせる。本作の幕切れは、パリへ向けて亡命するテオとジルの姿だ。客車のセットを舞台奥に動かし、降りてきたスクリーン上に寄り添う二人を大写しにすることで幕を閉じる。この流れが、唐突というか少々尻切れトンボのような印象を与えたのではないか。私も少しそう思ったし、多分、冒頭にも書いた妻子が低評価を与えたこともそう思ったからではないか。二人のこれからを観客に想像させるだけで幕を下ろしてしまっているのだ。ところが本作はそれで終わらせるのは惜しい題材だ。上に書いた通りレニとジルのその後を描き、テオに苦難の人を演じさせるストーリーであれば、二幕物として耐えうる内容になったかもしれない。

惜しいと思った点は、他にもある。本作にはドイツ語のセリフがしきりに登場する。「ウィルコメン、ベルリン」「イッヒ! リーベ ディッヒ」「プロスト!」とか。それらのセリフがどことなく観客に届いていない気がしたのだ。もちろん宝塚の客層がどれぐらいドイツ語を理解するのかは知らない。そして、これらのセリフは本筋には関係ない合いの手だといえるかもしれない。そもそも他のドイツを舞台にした日本の舞台でドイツ語は登場するのだろうか。エリザベートは同じドイツ語圏のウィーンが舞台だが、あまりドイツ語のセリフは登場しなかった気がするのだが。

なぜここまで私が本作を推すのか。それは権力に抑圧された映画人の矜持を描いているからだ。 ナチスという権力に抗する映画人。この視点はすなわち、大政翼賛の圧力に苦しんだ宝塚歌劇団自身の歴史を思い起こさせる。戦時中に演じられた軍事色の強い舞台の数々。それらは、宝塚自身の歴史にも苦みをもって刻印されているはず。であれば、そろそろ宝塚歌劇団自身が戦時中の自らの苦難を舞台化してもよいはずだ。なんといっても100年以上の歴史を経た日本屈指の歴史を持つ劇団なのだから。 本作で脚本を担当した原田氏は、いずれその頃の宝塚歌劇の苦難を舞台化することを考えているのではないか。少なくとも本作のシナリオを描くにあたって、戦時中の宝塚を考えていたと思う。私も将来、戦時中の宝塚が舞台化されることを楽しみにしたいと思う。

それにしても舞台全体のシナリオについて多くを語ってしまったが、主演の紅ゆづるさんはよかったと思う。彼女のコミカルな路線は宝塚の歴史に新たな色を加えるのではないか、と以前にみたスカーレット・ピンパーネルのレビューで書いた。ところが、本作はそういったコミカルさをなるべく抑え、シリアスな演技に徹していたように思う。歌も踊りも。本作には俳優さん全体にセリフの噛みもなかったし。あと、サイレントのベテラン俳優で、当初テオには冷たいが、のちに助言を与えるヴィクトール・ライマンの名脇役ぶりにも強い印象を受けた。

先に舞台上に演出された映画的なセットや演出について書いた。ところが、本作には舞台としての演出にも光るシーンがあったのだ。そこは触れておかないと。テオがジルにこんな映画を撮り続けたいと胸の内を述べるシーン。テオの回想を視覚化するように映写機を手入れする若き日のテオが薄暗い舞台奥に登場する。銀橋で語る二人をピンスポットが照らし、舞台にあるのは背後の映写機と二人だけ。このシーンはとてもよかった。私が座った席の位置が良かったのだろうけど、私から見る二人の背後に映写機が重なり一直線に並んだのだ。私が今まで見た舞台の数多いシーンでも印象的な瞬間として挙げてもよいと思う。

あと、宝塚といえば、男役と娘役による疑似キスシーンが定番だ。ところが本作にそういうシーンはほとんど出てこない。上に書いたシーンでもテオはジルに愛を語らない。それどころか本作を通して二人が恋仲であることを思わせるシーンもほとんど出てこない。唯一出てくるとすれば、パリ行きの客車に乗り込もうとするジルの肩をテオの手が包むシーンくらい。でも、それがいいのだ。

宝塚観劇の演目の一つに本作のような恋の気配の薄い硬派な作品があったっていい。ホレタハレタだけが演劇ではない。そんな作品だけでは宝塚歌劇にもいつかはマンネリがくる。また、本作には宝塚の特長であるスターシステムの色も薄い。トップのコンビだけをフィーチャーするのではなく、登場人物それぞれにスポットを当てている。私のように特定の俳優に興味のない観客にとってみると、このような宝塚の演目は逆に新鮮でよいと思う。そういう意味でも本作はこれからの宝塚歌劇の行く先を占う一作ではないだろうか。私は本作を二幕もので観てみたい、と思う。

ちなみに、この後のレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」は、あまり新鮮味が感じられず、眠気が。いや、このレビューというよりは、もともと私がレビューにあまり興味のないこともあるのだが。でも、それではいかんと、途中からはレビューの面白さとはなんなのかを懸命に考えながらみていた。それでもまだ、私にはレビューの魅力がわからないのだが。でも「ベルリン、わが愛」はよかったと思う。本当に。

‘2017/12/20 東京宝塚劇場 開演 13:30~

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