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BLOCKCHAIN REVOLUTION


本書は仲良くしている技術者にお薦めされて購入した。その技術者さんは仮想通貨(暗号通貨)の案件に携わっていて、技術者の観点から本書を推奨してくれたようだ。投資目的ではなく。

ブロックチェーン技術が失敗したこと。それは最初に投機の側面で脚光を浴びすぎたことだろう。ブロックチェーン技術は、データそれ自体に過去の取引の歴史と今の持ち主の情報を暗号化して格納したことが肝だ。さらに、取引の度にランダムに選ばれた周囲の複数のブロックチェーンアカウントが相互に認証するため、取引の承認が特定の個人や組織に依存しないことも画期的だ。それによって堅牢かつトレーサビリティなデータの流れを実現させたことが革命的だ。何が革命的か。それはこの考えを通貨に適用した時、今までの通貨の概念を変えることにある。

例えば私が近所の駄菓子屋で紙幣を出し、アメちゃんを買ったとする。私が支払った紙幣は駄菓子屋のおばちゃんの貯金箱にしまわれる。そのやりとりの記録は私とおばちゃんの記憶以外には残らない。取引の記録が紙幣に記されることもない。当たり前だ。取引の都度、紙幣に双方の情報を記していたら紙幣が真っ黒けになってしまう。そもそも、現金授受の都度、紙幣に取引の情報を書く暇などあるはずがない。仮に書いたとしても筆跡は乱雑になり、後で読み取るのに難儀することだろう。例え無理やり紙幣に履歴を書き込めたとしても、硬貨に書き込むのはさすがに無理だ。

だから今の貨幣をベースとした資本主義は、貨幣の持ち主を管理する考えを排除したまま発展してきた。最初から概念になかったと言い換えてもいい。そして、今までの取引の歴史では持ち主が都度管理されなくても特段の不自由はなかった。それゆえ、その貨幣が今までのどういう持ち主の元を転々としてきたかは誰にもわからず、金の出どころが追求できないことが暗黙の了解となっていた。

ところが、ブロックチェーン技術を使った暗号通貨の場合、持ち主の履歴が全て保存される。それでいて、データ改ざんができない。そんな仕組みになっているため、本体と履歴が確かなデータとして利用できるのだ。そのような仕様を持つブロックチェーン技術は、まさに通貨にふさわしい。

一方で上に書いた通り、ブロックチェーン技術は投機の対象になりやすい。なぜか。ブロック単位の核となるデータに取引ごとの情報を格納するデータをチェーンのように追加するのがブロックチェーン技術の肝。では、取引データが付与される前のまっさらのデータの所有権は、ブロック単位の核となるユニークなデータの組み合わせを最初に生成したものに与えられる。つまり、先行者利益が認められる仕組みなのだ。さらに、既存の貨幣との交換レートを設定したことにより、為替差益のような変動利益を許してしまった。

その堅さと手軽さが受け、幅広く使われるようになって来たブロックチェーン。だが、生成者に所有権が与えられる仕様は、先行者に富が集まる状況を作ってしまった。さらに変動するレートはブロックチェーンに投機の付け入る余地を与えてしまった。また、生成データは上限が決まっているだけで生成される通貨単位を制御する主体がない。各国政府の中央銀行に対応する統制者がいない中、便利さと先行者利益を求める人が押しかける様は、ブロックチェーン=仮想通貨=暗号通貨=投機のイメージを世間に広めた。そして、ブロックチェーン技術それ自体への疑いを世に与えてしまった。それはMt.Goxの破綻や、続出したビットコイン盗難など、ブロックチェーンのデータを管理する側のセキュリティの甘さが露呈したことにより、その風潮に拍車がかかった。私が先に失敗したと書いたのはそういうことだ。

だが、それを差し引いてもブロックチェーン技術には可能性があると思う。投機の暗黒面を排し、先行者利益の不公平さに目をつぶり、ブロックチェーン技術の本質を見据える。すると、そこに表れるのは新しい概念だ。データそれ自体が価値であり、履歴を兼ねるという。

ただし、本書が扱う主なテーマは暗号通貨ではない。むしろ暗号通貨の先だ。ブロックチェーン技術の特性であるデータと履歴の保持。そして相互認証による分散技術。その技術が活用できる可能性はなにも通貨だけにとどまらない。さまざまな取引データに活用できるのだ。私はむしろ、その可能性が知りたい。それは技術者にとって、既存のデータの管理手法を一変させるからだ。その可能性が知りたくて本書を読んだ。

果たしてブロックチェーン技術は、今後の技術者が身につけねばならない素養の一つなのか。それともアーリーアダプターになる必要はないのか。今のインターネットを支えるIPプロトコルのように、技術者が意識しなくてもよい技術になりうるのなら、ブロックチェーンを技術の側面から考えなくてもよいかもしれない。だが、ブロックチェーン技術はデータや端末のあり方を根本的に変える可能性もある。技術者としてはどちらに移ってもよいように概念だけでも押さえておきたい。

本書は分厚い。だが、ブロックチェーン技術の詳細には踏み込んでいない。社会にどうブロックチェーン技術が活用できるかについての考察。それが本書の主な内容だ。

だが、技術の紹介にそれほど紙数を割いていないにもかかわらず、本書のボリュームは厚い。これは何を意味するのか。私は、その理由をアナログな運用が依然としてビジネスの現場を支配しているためだと考えている。アナログな運用とは、パソコンがビジネスの現場を席巻する前の時代の運用を指す。信じられないことに、インターネットがこれほどまでに世界を狭くした今でも、旧態依然とした運用はビジネスの現場にはびこっている。技術の進展が世の中のアナログな運用を変えない原因の一つ。それは、インターネットの技術革新のスピードが、人間の運用整備の速度をはるかに上回ったためだと思う。運用や制度の整備が技術の速度に追いついていないのだ。また、技術の進展はいまだに人間の五感や指先の運動を置き換えるには至っていない。少なくとも人間の脳が認識する動きを瞬時に代替するまでには。

本書が推奨するブロックチェーン技術は、人間の感覚や手足を利用する技術ではない。それどころか、日常の物と同じ感覚で扱える。なぜならば、ブロックチェーン技術はデータで成り立っている。データである以上、記録できる磁気の容量だけ確保すればいい。簡単に扱えるのだ。そして、そこには人間の感覚に関係なくデータが追記されてゆく。取引の履歴も持ち主の情報も。例えば上に挙げた硬貨にブロックチェーン技術を組み込む。つまり授受の際に持ち主がIrDAやBluetoothなどの無線で記録する仕組みを使うのだ。そうすると記録は容易だ。

そうした技術革新が何をもたらすのか、既存のビジネスにどう影響を与えるのか。そこに本書はフォーカスする。同時に、発展したインターネットに何が欠けていたのか。本書は記す。

本書によると、インターネットに欠けていたのは「信頼」の考えだという。信頼がないため、個人のアイデンティティを託す基盤に成り得ていない。それが、これまでのインターネットだった。データを管理するのは企業や政府といった中央集権型の組織が担っていた。そこに統制や支配はあれど、双方向の信頼は醸成されない。ブロックチェーン技術は分散型の技術であり、任意の複数の端末が双方向でランダムに互いの取引トランザクションを承認しあう仕組みだ。だから特定の組織の意向に縛られもしないし、データを握られることもない。それでいて、データ自体には信頼性が担保されている。

分散型の技術であればデータを誰かに握られることなく、自分のデータとして扱える。それは政府を過去の遺物とする考えにもつながる。つまり、世の中の仕組みがガラッと切り替わる可能性を秘めているのだ。
その可能性は、個人と政府の関係を変えるだけにとどまらないはず。既存のビジネスの仕組みを変える可能性がある。まず金融だ。金融業界の仕組みは、紙幣や硬貨といった物理的な貨幣を前提として作り上げられている。それはATMやネットバンキングや電子送金が当たり前になった今も変わらない。そもそも、会計や簿記の考えが物理貨幣をベースに作られている以上、それをベースに発達した金融業界もその影響からは逃れられない。

企業もそう。財務や経理といった企業活動の根幹は物理貨幣をベースに構築されている。契約もそう。信頼のベースを署名や印鑑に置いている限り、データを基礎にしたブロックチェーンの考え方とは相いれない。契約の同一性、信頼性、改定履歴が完全に記録され、改ざんは不可能に。あらゆる経営コストは下がり、マネジメントすら不要となるだろう。人事データも給与支払いデータも全てはデータとして記録される。研修履歴や教育履歴も企業の境目を超えて保存され、活用される。それは雇用のあり方を根本的に変えるに違いない。そして、あらゆる企業活動の変革は、企業自身の境界すら曖昧にする。企業とは何かという概念すら初めから構築が求められる。本書はそのような時期が程なくやってくることを確信をもって予言する。

当然、今とは違う概念のビジネスモデルが世の中の大勢を占めることだろう。シェアリング・エコノミーがようやく世の中に広まりつつある今。だが、さらに多様な経済観念が世に広まっていくはずだ。インターネットは時間と空間の制約を取っ払った。だが、ブロックチェーンは契約にまつわる履歴の確認、人物の確認に費やす手間を取っ払う。

今やIoTは市民権を得た。本書ではBoT(Blockchain of Things)の概念を提示する。モノ自体に通信を持たせるのがIoT(Internet of Things)。その上に価値や履歴を内包する考えがBoTだ。それは暗号通貨にも通ずる考えだ。服や本や貴金属にデータを持たせても良い。本書では剰余電力や水道やガスといったインフラの基盤にまでBoTの可能性を説く。本書が提案する発想の広がりに限界はない。

そうなると、資本主義それ自体のあり方にも新たなパラダイムが投げかけられる。読者は驚いていてはならない。富の偏在や、不公平さといった資本主義の限界をブロックチェーン技術で突破する。その可能性すら絵空事ではなく思えてくる。かつて、共産主義は資本主義の限界を凌駕しようとした。そして壮大に失敗した。ところが資本主義に変わる新たな経済政策をブロックチェーンが実現するかもしれないのだ。

また、行政や司法、市民へのサービスなど行政が担う国の運営のあり方すらも、ブロックチェーン技術は一新する。非効率な事務は一掃され、公務員は激減してゆくはずだ。公務員が減れば税金も減らせる。市民は生活する上での雑事から逃れ、余暇に時間を費やせる。人類から労働は軽減され、可能性はさらに広がる。

そして余暇や文化のあり方もブロックチェーン技術は変えてゆくことだろう。その一つは本書が提案する音楽流通のあり方だ。もはや、既存の音楽ビジネスは旧弊になっている。レコードやCDなどのメディア流通が大きな割合を占めていた音楽業界は、今やデータによるダウンロードやストリーミングに取って代わられている。そこにレコード会社やCDショップ、著作権管理団体の付け入る隙はない。出版業界でも出版社や取次、書店が存続の危機を迎えていることは周知の通り。今やクリエイターと消費者は直結する時代なのだ。文化の創造者は権利で保護され、透明で公正なデータによって生活が保証される。その流れはブロックチェーンがさらに拍車をかけるはず。

続いて著者は、ブロックチェーン技術の短所も述べる。ブロックチェーンは必ずしも良いことずくめではない。まだまだ理想の未来の前途には、高い壁がふさいでいる。著者は10の課題を挙げ、詳細に論じている。
課題1、未成熟な技術
課題2、エネルギーの過剰な消費
課題3、政府による規制や妨害
課題4、既存の業界からの圧力
課題5、持続的なインセンティブの必要性
課題6、ブロックチェーンが人間の雇用を奪う
課題7、自由な分散型プロトコルをどう制御するか
課題8、自律エージェントが人類を征服する
課題9、監視社会の可能性
課題10、犯罪や反社会的行為への利用
ここで提示された懸念は全くその通り。これから技術者や識者、人類が解決して行かねばならない。そして、ここで挙げられた課題の多くはインターネットの黎明期にも挙がったものだ。今も人工知能をめぐる議論の中で提示されている。私は人工知能の脅威について恐れを抱いている。いくらブロックチェーンが人類の制度を劇的に変えようとも、それを運用する主体が人間から人工知能に成り代わられたら意味がない。

著者はそうならないために、適切なガバナンスの必要を訴える。ガバナンスを利かせる主体をある企業や政府や機関が担うのではなく、適切に分散された組織が連合で担うのがふさわしい、と著者は言う。ブロックチェーンが自由なプロトコルであり、可能性を秘めた技術であるといっても、無法状態に放置するのがふさわしいとは思わない。だが、その合意の形成にはかなりかかるはず。人類の英知が旧来のような組織でお茶を濁してしまうのか、それとも全く斬新で機能的な組織体を生み出せるのか。人類が地球の支配者でなくなっている未来もあり得るのだから。

いずれも私が生きている間に目にできるかどうかはわからない。だが、一つだけ言えるのは、ブロックチェーンも人工知能と同じく人類の叡智が生み出したことだ。その可能性にふたをしてはならない。もう、引き返すことはできないほど文明は進歩してしまったのだから。もう、今の現状に安穏としている場合ではない。うかうかしているといつの間にか経済のあり方は一新されていることもありうる。その時、旧い考えに凝り固まったまま、老残の身をさらすことだけは避けたい。そのためにもブロックチェーン技術を投機という括りで片付け、目をそらす愚に陥ってはならない。それだけは確かだと思う。

著者によるあとがきには、かなりの数の取材協力者のリスト、そして膨大な参考文献が並んでいる。WIRED日本版の若林編集長による自作自演の解説とあわせると、すでに世の趨勢はブロックチェーンを決して軽んじてはならない時点にあるがわかる。必読だ。

‘2018/03/09-2018/03/25


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


運命の人(四)


三巻の終わりでは、絶望し世を捨てようとする弓成元記者の姿が描かれた。続いての本書は、命を永らえた彼が沖縄で暮らすシーンで幕を開ける。

彼が向かったのは沖縄。それも本島ではなく、さらに離れた伊良部島だ。福岡生まれの弓成元記者は、何ゆえ沖縄へ渡ったか。

ここで読者は、弓成元記者がこのような境遇にたどり着いた経緯を思い起こすことになる。毎朝新聞記者の時代、彼が暴こうとしたのは沖縄返還に絡んだ密約だ。拙速に密約をリークしようとした勇み足の背景には、沖縄の立場に立っての義憤があった。

ここで、著者は本書の真のテーマを表舞台に出す。それは沖縄の戦後の総括だ。

なぜ著者は本書の一巻、二巻で裁判の様子を克明に描いたか。それは、沖縄返還の裏に交わされた密約の内容や締結された経緯を描くことで、沖縄を軽んじる日本政府の姿勢を明らかにするためではないか。

そこにはもちろん、取材のあり方や報道への敵視を隠そうとしない政府の傲慢さを問う意図もあったことだろう。だが、それは二の次ではなかったか。そうではなく、弓成記者の行為の裏には、沖縄の置かれた現状を問い質すという目的があった。だからこそ著者は、一巻では不自然さを覚悟で三木秘書との肉体関係の事実を書かなかったのではないか。

沖縄返還とは、裏を返せば米軍による占領の歴史そのもの。さらにいえば、沖縄は第二次大戦中に戦場として数え切れない悲劇の舞台となった。弓成記者を一巻で突き動かした義憤は、ヤマトンチューの立場からの半可通の義憤だった。最終巻である本書を通じ、弓成元記者は沖縄に癒されつつ、ウチナンチューとして沖縄になじみ、沖縄が過ごしてきた苦難の歴史を心からの義憤として引き受けるようになる。

著者の傑作群の中でも「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」の三作は良く知られている。この三作は戦争に大きく運命を左右された人生を描いた大作だ。それぞれ満州軍参謀、日系二世、中国残留孤児の戦中戦後が描かれている。戦争によって大きく運命を狂わされた人の物語は読む者の胸を打つ。だが、ほかにも当時の日本人が受けた悲劇がある。例えば原爆の被爆は忘れるわけにはいかない。だが、著者はすでに「二つの祖国」のエピソードで原爆病を取り上げている。となれば他に日本人の戦争被害を語るとなれば、全国各地の空襲被害と樺太からの引き上げ、そして凄惨な陸上戦と米軍による軍政を経験した沖縄が残る。著者は当然そのことを意識していたはずだ。沖縄を描かねば。著者の中で沖縄を書き残していることは常に意識していたはずだ。その想いが本書に込められていることは、本書の内容が雄弁に語っている。

一巻では、沖縄の密約を巡り、報道の権利とそれに抵抗する政府の対応が描かれた。そこでは本書の主題は報道の自由であるかのように読めた。ところがその時から著者の視線は沖縄問題に注がれていたのだ。四巻に来て改めて沖縄がクローズアップされた形だ。

弓成元記者は沖縄で生きる目的を見いだし、親しくなった女性謝花ミチや他の沖縄戦の悲劇を知る人々と交流しながら、沖縄の戦後を見直そうとする。妻由美子は夫からの手紙がきっかけで文通をはじめ、やがて夫に会いに沖縄に来る。夫との長い別離の時間のわだかまりも、夫が書き続けていた文章を観て氷解する。長きに渡って夫の傷に触れず、籍も抜かずに堪えた由美子の強さは本書の中でも印象的だ。

由美子の姿に女性の強さは現れているが、それ以上に印象的なのが道破れた弓成元記者を受け止めた沖縄の懐の深さだ。沖縄の懐の深さこそが本書で描きたかった女性の強さの源泉ではないか。女性の強さと沖縄の強さ、それは本書において相対した関係である気がしてならない。そんな沖縄を軽んじる日本政府の軽挙を、著者はどうにかして世に知らしめたかったのではないか。それを知らせるための材料として、西山事件に白羽の矢が立ったのではないか。もちろん西山元記者にもミスもあったし、自業自得との非難も受けねばならないだろう。だが、そんな日々を乗り越え、西山元記者は最後は沖縄へたどり着いたのだ。

そして、我楽教授がアメリカ公文書館で見つけた沖縄返還時の密約を示す文書。これによって弓成元記者の発したスクープが事実であることが世に発表された。取材過程に問題があったことは確かだとしても、確かに日本政府によって沖縄は軽んじられたのだ。沖縄からで始まり沖縄で終わる。これぞまさに弓成元記者の運命でなくてなんだろう。運命の人とは弓成記者、いや、西山記者が人生で背負った運命を指すことは言うまでもない。

これを書いている今、西山元記者は存命だと聞く。本書を通して弓成記者として描かれた西山元記者の姿がどの程度実像を反映していたかは知らない。本書の最終ページで弓成記者はこのようなせりふを言う。「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないのだ。書いて知らせるという私なりの方法で、その役割の一端を担って行こうと思う」ここに表れた沖縄への想いは、弓成元記者も西山元記者も同じではないか。これこそが、ジャーナリズムの芯を貫く言葉だと思う。沖縄に目覚めたジャーナリストは、知るべきことを知らせるという使命にも目覚めたのだ。ジャーナリズムとはゴシップや権力の腐臭に群がることだけが本分ではない。本当に国民が知るべきことを知らしめるのがジャーナリズムのはず。

私は本書を読み終えてから八カ月ほど後に沖縄を一人訪れた。沖縄のさまざまな場所を訪れるにつれ、沖縄についての本土の意識が低いことを痛感した。せめて弓成元記者が語ったような沖縄の姿は脳裏に刻み付けておきたい。ジャーナリストにはなれなくても、ジャーナリズムの精神は受け継げるはず。本書から私はそのような精神のあり方を教わった。

‘2016/10/05-2016/10/06


運命の人(一)


報道のあり方。それはジャーナリズムにとって常に問われる課題だ。ジャーナリズムには二つの権利がついて回る。それは、大衆が知る権利とニュースを発信する権利。その二つは限りなく近く、表裏の関係だ。だが同じ権利ではない。大衆が知る権利とは受身の権利。一方、ニュースを発信する権利は行動の権利。後者は、報道する者が自ら動き、取材し、発信する行為となる。そして、発信する権利には、内容のチェックの義務が伴う。いい加減な内容を発信したり、発信に当たって特定の人物の立場を損ねたりすることは厳に慎まねばならない。そのため、報道機関自身の内部統制は欠かせない。統制が失われた瞬間、報道のあり方や報道機関としての理念が問われることになる。

発信のための取材活動の中で、ニュースソースの秘匿は統制の範囲外、いわば治外封建となっている。これだけ情報が飽和した今でも、ニュースソースの秘匿は記者にとっては金科玉条のようだ。報道機関が営利企業である限り、質のよい取材源と素早い発信が求められる。そのため、記者は内部情報を知るニュースソース、つまり情報提供者をとても大切にする。ニュースソースが今の立場にあることがニュースソースの価値である以上、ニュースソースが誰かは決して明かさないのが記者の不文律でもある。

戦後、ニュースソースの秘匿が争われた著名な事件が二つある。一つは、読売新聞の立松記者による売春汚職防止法に関する件、もう一つが毎日新聞の西山記者による沖縄密約スクープの件。本書は小説として仕立てるため後者の事件を題材に採っている。

本書は小説なので実名で登場する人物はいない。たとえば西山記者に相当するのは弓成記者だ。敏腕記者として毎朝新聞でも将来を嘱望される存在として描かれている。本書では敏腕記者のイメージにふさわしく、押しもアクも強い人物として書かれる。社内でも自らの裁量で取材を敢行し、向かうところ敵なし。

だが、幼い息子たちには子煩悩な一面も持っている。本書で描かれた弓成記者のイメージが、西山記者の実像をどこまで伝えているかはわからない。だが、ステレオタイプな昭和の新聞記者像にははまっている。

弓成記者以外に登場する人物たちも仮名だ。仮名とはいえ、即座にモデルが想像できる名前が付けられている。なにしろ、佐橋首相に、小平、田淵、二木、福出なのだから。いうまでもなく佐藤首相に、大平、田中、三木、福田といった歴代総理をモデルとしている。いわゆる三角大福そのものだ。情報漏洩の火元の審議官の名前は本書では安西であり、肉体関係を持ち、情報の入手元となった秘書は三木となっている 。また、実際の西山事件で証人として法廷に立った読売新聞のナベツネこと渡邉恒雄御大までもが、ライバル紙記者の好敵手山部として登場する。

飛ぶ鳥を落とす勢いの弓成記者にとっては、そういった顔を合わせる誰もがニュースソースなのだ。本書である一巻は特に、勢いある弓成記者が中心に描かれる。そのためもあってか、登場人物の誰もが著名な人物に思えてしまう。

本書は、沖縄返還交渉の裏にある密約が鍵となる。その密約とは米国の沖縄駐留の撤収により生じる費用、いわゆる復元補償費を日本が負担するもの。 本来はアメリカが担うべき金額であることは間違いない。だが交渉の結果、日本は譲歩した訳だ。そして日本政府としては負担の事実を知られたくない。そこで密約として隠密裏に進めることになる。

外務審議官とのパイプを築く弓成記者はその密約を知ってしまう。秘書の三木と情事の関係を結び、証拠を集めにかかる。ところが、内容が内容だけに密約を明かせばニュースソースも明らかになってしまう。ニュースソースを守る手前、密約の内容は弓成記者から実名でリークすることはできない。そのジレンマとこんな不正が罷り通っていいのか、という私憤が弓成記者に軽率な行動をとらせる。野党議員への情報リークという方法で。それもコピーそのものを渡すという拙劣なやりかたで。野党議員はそれをもとに議会質問に臨むが、軽はずみにも議場でコピーの実物を振りかざしてしまう。かくしてコピーは世に出てしまい、ニュースソースの面目は丸潰れとなる。一方、密約を暴かれた佐橋首相は怒り心頭に発し、司法を動かして弓成記者と審議官の秘書を逮捕させる。

本書では西山事件の前段となる沖縄密約から、事件へと物語が進む。そして任意聴取で警視庁に訪れた弓成記者がその場で逮捕される場面で終わる。後世のわれわれは、敏腕記者と政府の戦いという対立軸に目がいってしまう傾向にある。しかしよく読むと、一巻からすでに男の生きがいや大義について描かれているのがわかる。

先にニュースソース秘匿にかかる戦後の二大事件を紹介した。前者の読売新聞の立松記者は、記者生命を断たれた後、自らの命をも絶ってしまう。果たして、弓成記者がどういう経緯をたどるのか、気になる。

おそらくここで描かれている内容は大枠では事実なのだろうと思う。私は西山事件に詳しい訳ではない。ただ一点、気になる点があった。それは事件の全体像に関わる点を著者が一巻では故意にぼかしているのではないか、ということだ。それは多分、著者による小説的な効果を狙っての事だろう。その内容は続いての二巻で明かされる。だが、私には事件の発端や経緯を描くために用意された本書でそれをぼかした理由がよく分からなかった。

‘2016/10/04-2016/10/05


百年法 下


上巻では、百年法を成立させる過程で笹原が自死を遂げる。その志を継いだのが内務省で笹原の部下であった遊佐。

遊佐は百年法を国民にあまねく浸透させるためには民主主義では生ぬるいと考える人物だ。権限を持った施政者による強力な指導がこれからの日本共和国には必要との持論を持っている。その持論にのっとり、遊佐は首相の座に就く。そして大統領に野党党首だった牛島を擁立する。大統領といっても、現代フランスやアメリカのような任期制の大統領ではない。内政にも強大な権限を持つ終身大統領だ。遊佐は自らの信ずる政治体制を実現するため、合法的に大統領へ無限の権力を集中させる。上巻は、自らが擁立した牛島大統領により、足を掬われる遊佐の狼狽で幕を閉じる。

下巻では政治と国民の断裂は深刻になる。百年法は施行されたが、その徹底はおざなりになる。百年たったにも関わらず当局に出頭しない者は増加し、彼ら逃亡者は各地でコミュニティを作って自活の道を選ぶ。闇IDカードが横行し、政府が派遣した軍隊が逃亡者コミュニティを掃討することが頻発する。生存権の制限を徹底したい政府と生存本能に忠実な国民の間の争い。それが描かれるのが下巻だ。

下巻では、政府内部の権力闘争も執拗に描かれる。それは牛島大統領と遊佐首相による暗闘だ。著者は本書のサブテーマにマキャベリズムのあり方も取り上げる。為政者とは国民に対してどうあるべきなのか。権力を得る前と得た後で人はどう変わりうるか。人は権力を手にした時、どう振る舞うべきか。そして、権力闘争を勝ち抜くために求められる資質とは何か。

マキャベリズムとは、ルネサンス期の政治思想家マキャベリが唱えた思想のことだ。ウィキペディアの定義を引用すると、どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想だ。だが、マキャベリズムが生まれでたのは、かつてマキャベリが活躍したフィレンツェやその周辺の都市国家が群雄割拠した中世の時代背景があってこそ。いまや覇道が大義として通用した中世ではない。21世紀半ばの情報技術の豊かな日本共和国を舞台として、いかにマキャベリズムを具体化するか。著者の思考実験には、生死という人間にとっての究極の選択が欠かせなかったのだろう。

上巻のレビューで、著者は本書において主張したかったことが多数あるはずと書いた。その一つは家族のあり方だ。不老が実現した社会では、子が親を養う事が不要となる。つまり親子の縁はもはや足枷でしかなくなるということだ。

著者は本書で様々な社会実験を行う。そのうち、私が被験者に置かれたくない実験。それこそが家庭の意味が崩壊した社会に生きることだ。こと家庭に関しては私は保守的な考えを持っている。多分、不老が実現した社会では本書の予言通り家族制度は溶解することだろう。だが、仮にそうだとして、それを今の日々にどう活かすのか。家庭だけでなく、労働のあり方にも相当な変化が起きるはずだ。社会構造が変わることで、子を持つ意味も根底から覆る。本書はそういった思考訓練にも使えるかもしれない。

本書下巻には正体不明の阿那谷童仁というテロリストが暗躍する。政府にたてつく反百年法のシンボル。活動年代の長さは、HAVI処置による長命だけでなく、複数の人間が何代にもわたって阿那谷童仁を襲名しているかのようだ。その存在は、生存権を脅かされた国民による反旗のシンボルのよう。だが、阿那谷童仁の行動からはこれといった信念が感じられない。阿那谷童仁が仮に逃亡者の代弁者であったとして、逃亡者の信念の根底にあるのは国に生殺与奪権を握られていることの反抗だけなのか。それとも逃亡者とはただ本能に正直なだけの人々の集まりなのか。

その判断は読者に委ねられる。家族という価値観が崩れた後、人は何を支えに生きて行くべきなのか。それを問う事は、本書の底流を成す重要なテーマだと思う。国家による生存権の掌握や、その運営にあたる政治家の持つべき矜持も重要だ。だが、人が生きる目的を探る事は、そもそも小説という芸術の根幹にも関わることだ。本書では、種族の繁栄という大義名分が喪われた人が何を目標に生きるのか、との問いがなされる。この問いは表立って出てこないが、本書を読む上で見逃せない。

著者は、最終的には本書の筋を国家としてのあり方につないでゆく。宗教や思想、主義、哲学、生きがい、人生観、価値観。そういった精神的なものは、国民の一人一人に任せておけばよい。と著者はその是非を読者に預ける。上にも書いたような人としての生きがいは本書の重要なテーマではあるが、最終的にはそれは読者それぞれの価値観によるとでもいうかのように。

では、国政を預かる者の責務はなにか。結局は、国民の生活基盤を整える事ではないか。国民がそれぞれの生きがいを全うし、人間らしい生活を営むための基盤。それを整え、提供することが国の責務なのだろう。なぜなら、それができるのは国家だけだからだ。

国と国民とはしょせん同化できるものではない。個人と国の価値観は常に対峙しあい、依存しあい、反発しあう。立場や視点によって国の立場も国民の立場も変わる。そして、国は国民がいなければなりたたない。国は国民の生存権を左右することはできても、それでもなお、一人一人の国民がいなければ、立ちゆかないのが国なのだ。そこを見据え、さらに先の未来を描き、バランスの取れた統治に徹するのが正しいマキャベリズムの姿なのかもしれない。

本書はこのように、様々な角度から社会や国の現状認識を揺さぶる。それだけの力を持った小説だ。ぜひ味わってみて欲しいと思う。

‘2016/6/23-2016/6/25


百年法 上


国家を成り立たせるための最低要件。それは政治学の初歩の問いではないか。この場で私が思いつく限りでも、国民、国境、そして軍隊も含む外交主体などが浮かぶ。最後に挙げた主体とは、国の実態を対外折衝を行える組織に置く考えに基づいている。つまり、対外折衝を国に対して行うからには、その組織を国と見なしても良い、ということだ。

一方、国を考える上で内政とは何を指すのだろうか。国民と統治者の間にサービスを介した関係が存在すること。それは誰にも異論がないはずだ。国民は国からサービスを受けるため税金を払い、国はその見返りにサービスとしての教育や福祉、治安を提供する。これは、政府の大小や主義主張の違おうとも、一般に認められる考えではなかろうか。今、私が考える国の内政機能といえば、せいぜいこのくらいしか思いつかない。

国防の名において、国民を外敵から守るといった秩序維持も国家の機能の一つに挙げてもよさそうだ。それだけにとどまらず、外交も内政も行き着くところは国内の秩序維持に集約される、といった意見にも私は反対しない。

国家が秩序維持を御旗に掲げた場合、個人の権利は縮小される。国民福利の原則を盾に、強制代執行の行使がなされる事案はよく耳にする。国家権力の名の下に、個人の権利は制限される。今さら基地問題や市街地開発を話題に出すまでもなく、お馴染みの話だ。

ただ、権利が制限されると言っても我が国の憲法には、生存権をはじめとする権利が明記されている。それら謳われた権利の保護は、たとえ建前であったとしても尊重されているといってよいだろう。なかでも生存権については、前憲法下で蔑ろにされた反省から現憲法ではかなり気が遣われていると思う。

日本国憲法が施行されて70年がたった今、生存権について国家が制限をかけるという試みはタブーに等しい。本書は、そのタブーにあえて踏み込んだ一冊だ。

そのタブーを描き出すため、著者は近未来SFの手法を採る。それは、パラレルワールドにおける近未来として読者の前に示される。なにせ、本書の舞台は日本共和国なのだから。1945年までは同じだが、第二次世界大戦の戦後処理の過程で共和国形態を採った日本。パラレルワールドの日本には大統領がいる。実務は首相が執る。本書に描かれる日本共和国の政体は、現代フランスの政治体制に近いだろうか。

ふとした偶然で発見されたヒト不老化ウィルス、略してHAVI。このウィルスこそが本書の着想の肝だ。不死を手に入れた人類の壮大な社会実験。そして、死なないということは、際限なく人が増え続けること。つまり、国家による生存権の制限が必須となる。その制限の根拠こそ百年法だ。

本書の扉や表紙折り返しには条文が掲載されている。
【生存制限法】(通称:百年法)
不老化処置を受けた国民は
処置後百年を以て
生存権をはじめとする基本的人権は
これを全て放棄しなければならない

自然死や事故死ならともかく、国家によって強制される死。それはかつての日本にあっては、赤紙に象徴された。なぜ著者は本書のパラレルワールドとわれわれが生きる世界の分岐点を1945年に設定したか。私はその理由は二つあると思う。一つは、日本共和国成立には太平洋戦争の敗北が必要だったこと。もう一つは、百年法施行に踏み切る指導者の背景に太平洋戦争前の死生観をおく必要があったからではないか。

本作中で百年法が最初に議会に提出されるのは西暦2048年。百年法を主導するのは内務省。内務省次官の笹原は、太平洋戦争を闘った軍人あがりの人物。HAVIウィルスに感染、つまり、不老となった。

笹原は、死と生が隣り合わせになっていた時代の空気を知り、国家による生存権の制限を知っている。つまり、国家による生存権の制限に再び踏み切るには適任な人物だ。

笹原自身も、百年法が施行されれば、一年後に生存権が停止されることになる。だが、彼は、自らも自死を前提とした覚悟で国民に決断を突きつける。まさに命がけで政治を行うとはこのことだ。

本書を通して、著者が訴えたいのは死生観の多様性を描くことだけではない。国家による生存権の制限は、著者のテーマの素材を活かす舞台に過ぎないと思う。著者が訴えたいことの一つは、政治家に求められる覚悟だ。

つまり、笹原が選んだような、国の行く末のためには命すら賭す信念。為政者が身にまとうべき矜持ともいえようか。

だが、それは云うは易し、の理想論に過ぎないようにも思う。笹原のような命を賭ける政治家が不在である今の日本。これは、今の日本がまだそこまで追い詰められていない事の証だと思う。まだ、今の日本には余裕があるということでもある。少なくとも本書で日本共和国が陥った状況には、今の日本は至っていないように思う。

つまり、著者が百年法や日本共和国という舞台を創造してまで描きたかったこととは、政治家の本分ではないだろうか。

本書では多様な登場人物が死生観を披露する。百年法の適用対象となっても当局に出頭せず逃亡者となる者。HAVIをそもそも受けず、自然のままの老化を選ぶ者。未練がましく葛藤しながら自らの終末まで生きようとする者。人によって価値観は十人十色だ。そんな多種多様な死生観を持つ人々を率いるには、生半可な信念では務まらない。本書で著者が一番訴えかけたかったのは死生を統べる為政者としての覚悟だろう。

そう考えると、なぜ著者は本書の日本を共和制にしたのか、天皇制を廃したのはなぜか、という疑問にも答えがでる。たとえ象徴とはいえ、国民の死生を左右する国に天皇がある設定。その設定に著者は踏み切れなかったのではないだろうか。

ここから強いて何かを受け止めるとすれば、国と国民の間に死生観が介在すること、だろうか。戦後70年を経た今、為政者ではなく、天皇の名の下に国民に死生を強いたことの影響。その微妙な影響は今なお残り続けている事実を本書からあらためて突きつけられたと思う。死生観の強制があった事実は、今も国と国民の間に抜き難く残っている。そんな感想を抱いた。私自身は、象徴としての天皇の在り方に賛成する立場だ。だが、この先、IT技術の進歩は国と国民の関係に深く関わってゆくことだろう。

本書からは、それらのあり方も含めて考えさせられた。

2016/06/22-2016/06/23