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kintone Café 東京 Vol.8 @多摩を開催しました


8/30にkintone Café 東京 Vol.8 @多摩を開催しました。

公式の開催報告はしかるべき場所に書かせていただきました。(こちら

ツイートのまとめサイトも作成させていただきました。(こちら

なので、ここでは代表である私が登壇の際に語った「スライド」をさらに補足するように、開催であらためて感じた思いを書かせていただきます。

本稿を書こうとして、前回アクアビット長井として主催したkintone Caféを調べたところ、2017年3月のkintone Café 神奈川 Vol.5までさかのぼることがわかりました。つまり、前回の開催から2年半、kintone Caféを主催していませんでした。空きすぎです。間を空けすぎたことに忸怩たる思いです。

2年半の間、もちろん手をこまねいていたわけではありません。ツイートもたくさんつぶやきましたし、kintone Advent Calendarにも毎年書いています。DevRelにも参加し、弊社ブログ記事にもkintoneのことは書いています。他のkintone Caféでは登壇もしましたし、お客様の主催するセミナーでも登壇もしました。代表がエバンジェリストとして全く何もしていないとは思いません。kintone Café神奈川もなんどか話を持ち掛けては立ち消えを繰り返し、それなりの開催に向けての準備は進めました。

でも、結局は開催できなかったことに変わりありません。kintone Caféに限らず、セミナーは自らが行うべき。そう思っています。特にkintone開発が弊社の業務の主流になっている今では、一日のほとんどをkintoneの事を考えていたわけですから。これは怠慢と言われても仕方ありません。

何が原因だったか。結局、代表自身がkintone Caféのテーマについて、どう開催するか迷いが生じていたの正直なところです。技術寄りの内容で開催するのか、ユーザー寄りの内容にするのか。技術寄りにしたところで、どこまで伝わるのか。スキルは座学やハンズオンでどこまで伝えられるのか。そもそもkintoneエバンジェリストとは、技術うんぬんではなく、kintoneの良さを広めることにあるのではないか。私の中でコンセプトが右往左往していました。

今回、弊社のサテライトオフィスで開催したのは、オフィスの大家さんから開催要望があったからでした。そして要望の中で「そもそも論」を聞きたい、ということでした。つまりkintoneとはそもそも何か、という地点から話を起こす必要がありました。都合のよいことにkintone Café東京を今運営しているメンバーの松田さんはkintoneを軸とした業務改善を推進されておられます。そうした風もあり、私の登壇資料も技術のことは触れず、ユーザー向けの内容にしてみました。

今回のkintone Café 東京 Vol.8 @多摩は開催要項にユーザー向けをうたっていたこともあり、6,7名はkintoneについて触ったことがなく、そうした意味でもユーザー向けの内容でよかったと思います。私の登壇でもそもそもなぜkintoneをユーザーに勧めるのか、という観点で熱く語りました。他の方のスライドも、そうした点でテーマが絞られていたようです。

今回、久しぶりに主催してみて、ユーザー寄りで行く、との方向性は続けようと思いました。ただ、ハンズオンはやれればやりたい。一緒に登壇したエバンジェリストの新妻さんからも、「データ」「プロセス」「コミュニケーション」の三つの柱で語るのは、初期のkintoneのコンセプト。今や概念で語るのではなく、直接ハンズオンで魅力を伝えることの必要性を説かれました。仰る通りで、次回はハンズオンにも取り掛からねば、と思います。

今回、一緒に登壇した情報親方の東野さんも、これからkintoneが導入されていく中で必ず使われるであろう資料を軽く紹介してくださいました。やはりユーザー導入の推進こそが鍵なのでしょう。

お客様より恵比寿と武蔵小杉でもkintone Caféを開催して欲しいというご要望をいただいています。具体的に会場も確保できています。今年はあと二回、開催できればと思います。その時私が、どこまで技術を語りたいという誘惑に耐え、ユーザー目線の内容に踏みとどまれるか。肝に銘じたいと思います。まずはkintone Caféを主催できる自信を取り戻せたことが、今回、私の中で最も得難い収穫だったと思います。

今回来てくださった14名の皆様、登壇してくださった3名の仲間。皆様、本当にありがとうございました。


仕事の技法


あまりビジネス書籍を読まずに生きてきた私。だがそうもやってられなくなってきた。特に平成29年度は取りたいkintoneの案件をことごとく取りこぼし、スランプといっても良い状態に。

しかし、これをスランプの一言で片付けて良いはずはない。しかもkintoneではない案件では比較的順調に受注できていたのだからなおさら。それは弊社の作業分とkintone保守料の二重保守料を払ってもなお、お客様にメリットが出るだけの提案ができなかった私の提案ミスだと思っている。

だが、それで終わらせてはならない。私に、そして弊社に足りないところは他にもたくさんあるはず。なんといっても私は技術からビジネスマナーにいたるまでほぼ独学でやってきたのだから。

今まではそれでもなんとかやって来られた。だが、私の追い求めるライフスタイルを実現するためには、商談の取りこぼしで失う時間がもったいない。もう私には時間が余り残されていないのだから。そこでビジネス本だ。まず、本書を手に取ってみた。

本書が私のビジネスの蒙を啓いてくれた点はいくつもあった。やはり独学では取りこぼしがあること、そして俺流の限界を痛感させられる。

中でも本書をよんで一番自分に足りないと感じたこと。それは集団でチームワークで臨む商談のノウハウだ。そのノウハウが私にはほとんどない。勤め人時代を含めても、私がチームで商談に臨んだ経験は、両手の指に余る程しかない。個人で事業を営んでいた時期が長く、法人化した今でもほぼ一人でやりくりしている私。当然、商談は独りで客先に赴く。もちろん、常駐先での定例会議には数えきれないほど出た。その意味ではチームで臨む商談の経験は積んでいる。だが、そういった会議において、私が主役になることはあまりなかった。

私が主役であるべき商談の場で頼れるのはおのれだけ。そこには本書で著者の説く「小さなエゴ」を補正するパートナーがいない。小さなエゴとは、誰の心にも潜み、自分の心を正当化し、甘えを許す心の動きだ。私にももちろんそのエゴがある。そのエゴは私の心が健康な時は自分で意識し制御できるが、疲れていると途端に暴れだす。そして私の心を悪しき方向へと惑わせる。

本書では、小さなエゴは無理に制御するのではなく、そのエコの動きを見極めることを薦める。私心を捨てたと過信し、悦に入ったところで、私心を捨てた自分は偉いという心の動きもまたエゴ。徹底的に自分を客観化し、エゴを客観的に見ることを著者は薦める。客観化すること。それは自分を外から見つめるだけではない。他者からの視点も考慮し、なおかつ己でも見つめることだ。

打ち合わせや商談。それは言葉のやりとりで構成される。それは音、そして聴覚。だが、著者はその他の部分、すなわち非言語コミュニケーションの部分にこそ仕事の要点があるという。実際、意思決定に関する判断基準の八割は非言語コミュニケーションに拠っているという。その大切さを読者にこれでもかと説く本書は、出だしから中盤までは、非言語コミュニケーションを意識し反省する大切さを述べることで費やされている。その中で表層対話と深層対話の二つの言葉が頻繁に出てくる。それはつまり、言葉に出ないしぐさや視線、表情によって伝わるメッセージ、つまり非言語コミュニケーションが全てのコミュニケーションの八割を占めるという論点に通じる。

だいぶ以前、私はNLP(神経言語プログラミング)の講座を受けたことがある。もっともNLPの手法自体はすでに主流ではなくなりつつあるようだ。だが、NLPも煎じ詰めれば非言語のコミュニケーションの一種だろう。そして私は非言語コミュニケーションの大切さは、本作を読む前から無意識に感じていたように思う。そして自分なりに商談の場で意識するように励んでいた。本書によって非言語コミュニケーションの重要性が語られることによって、私が経験則として持っていたノウハウが裏付られたように思う。さらに日々の非言語コミュニケーションで相手の反応がどうだったかを反省する必要を説かれると、さらに意識して実践しようという気になる。

冒頭に書いた、昨年の失注の数々。それは、私が商談の途中でお客様の発する無意識の反応を見逃していたからに他ならない。その反応から柔軟に提案内容を変えるだけの観察も反省も足りなかったのが私の失敗だったと思う。

本稿の冒頭でも書いた通り、私だけで臨む商談ともなると小さなエゴを見張る第三者はいない。小さなエゴが希望に満ちた観測で私の目を曇らせるのであればなおさら危ない。多分、集団で商談に臨めば、さらに受注率は上がったのだろう。

そしてさらに思うことがある。それは、本作が強く推奨する商談後の反省が思ったより難しいことだ。これを習慣づけることの重要性を本書は何度も繰り返す。それは、この習慣づけが本を読んだだけでは難しいからに違いない。商談後の反省が受注率の上昇に与える効果は、自分の具体的な経験に重ね合わせるとさらに強まると著者は説く。

NLPの表面的な狙いとは、相手の反応を操作することにある。同じように、著者も深層対話によって相手の思考を掴み取り、うまくこちらに有利なように持ちこむための方法を紹介する。ただし著者は、相手を操作することが目的に陥ってしまうことを厳しく戒める。

「操作主義に流される人間は、それが見抜かれていることに気がつかない」と147ページで述べている通りだ。著者は本書で一度もNLPという言葉を使わない。そのかわり心理学という言葉を使う。ところが心理学を学ぶだけでは深層対話の技法は身につかないとも言う。

著者は操作主義の感性に陥らないようにするための処方箋として、相手への敬意を挙げる。

「相手に、深い「敬意」を持って接する。」(211P)。
「人間であるかぎり、誰もが、未熟な自分を抱え、人生と仕事の問題に直面し、他人との関係に苦しみ、自分の中の「小さなエゴ」に悩まされながら、生きている。それでも、誰もが、懸命に生きている。一度かぎりの人生を、かけがえの無い人生を、良き人生にしたいと願い、誰もが、懸命に生きている。

その姿を「尊い姿」と思えること。
それが「敬意」ということの、真の意味であろう。」(211P)

ここは本書の勘所であると思う。
本書は深層対話によるコミュニケーションを薦める。それは商売を、ビジネスを有利にすることだろう。だが、その際に相手への敬意を忘れてはいけないのだ。

それは、ビジネスだけを、金もうけだけを考えて人は生きるべきではないということだ。心を豊かにもち、人間力を養いつつ生きる。それをおろそかにして得た金は、いくら金額が大きかろうが中身が空っぽなのだ。その真実を著者はきっちりと指摘する。

すばらしい。

‘2018/03/03-2018/03/08


日本の原爆―その開発と挫折の道程


「栄光なき天才たち」という漫画がある。かつてヤングジャンプで連載されており、私は単行本を全巻揃えていた。日本の原爆開発について、私が最初にまとまった知見を得たのは、単行本6巻に収められていた原爆開発のエピソードからだ。当時、何度も読み返した。

我が国では原爆を投下された被害だけがクローズアップされる向きにある。もちろん、原爆の惨禍と被爆者の方々の苦しみは決して風化させてはならない。そして、それと同じくらい忘れてはならないのは、日本が原爆を開発していた事実だ。日本が原爆を開発していた事実を知っていたことは、私自身の思想形成に少なからず貢献している。もし日本が原爆開発に仮に成功していたら。もしそれを敵国に落としていたら。今でさえ複雑な日本人の戦争観はさらに複雑になっていたことだろう。

本書は日本の原爆開発の実態にかなり迫っている。著者の本は当ブログでも何度も取り上げてきた。著者の筋の通った歴史感覚にはいつも信頼をおいている。そのため、本書も安心して手に取ることができた。また、私は著者の調査能力とインタビュー能力にも一目置いている。本書のあちこちに著者が原爆開発の関係者にインタビューした内容が引用されている。原爆開発から70年以上たった今、関係者の多くは鬼籍に入っている。ではなぜ著者が関係者にインタビューできたのか。それは昭和50年代に著者が関係者にインタビューを済ませていたからだ。原爆開発の事実を知り、関係者にインタビューし、原稿に起こしていたそうだ。あらためて著者の先見性と慧眼にはうならされた。

「はじめに」からすでに著者は重要な問題を提起する。それは8/6 8:15から8/9 11:02までの75時間に日本の指導者層や科学者、とくに原爆開発に携わった科学者たちになすすべはなかったのか、という問いだ。8/6に原爆が投下された時点で、それが原爆であることを断定し、速やかに軍部や政治家に報告がされていたらポツダム宣言の受諾も早まり、長崎への二発目は回避できたのではないかという仮定。それを突き詰めると、科学者たちは果たしてヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることをすぐ判断できたのか、という問いにつながる。その判断は、技術者にとってみれば、自分たちが作れなかった原爆をアメリカが作り上げたこと、つまり、技術力で負けたことを認めるのに等しい。それが科学者たちの胸の中にどう去来し、原爆と認める判断にどう影響したのか。そしてもちろん、原爆だと判断するためには日本の原爆開発の理論がそこまで及んでいなければならない。つまり、日本の原爆開発はどの程度まで進んでいたのか、という問いにもつながる。

また、著者の着眼点の良さが光る点がもう一つある。それは原爆が開発されていることが、日本の戦時中の士気にどう利用されたか、を追うことだ。空襲が全国の都市に及び始めた当時、日本国民の間に「マッチ箱一つぐらいの大きさで都市を丸ごと破壊する爆弾」を軍が開発中である、とのうわさが流れる。「広島 昭和二十年」(レビュー)の著者が著した日記の中でも言及されていたし、私が子供のころ何度も読んだ「漫画 日本の歴史」にもそういったセリフが載っていた。このうわさがどういう経緯で生まれ、国民に流布していったか。それは軍部が劣勢の戦局の中、国民の士気をどうやって維持しようとしたか、という考察につながる。そしてこのようなうわさが流布した背景には原爆で敵をやっつけたいという加害国としての心理が国民に働いていたことを的確に指摘している。

うわさの火元は三つあるという。学者の田中館愛橘の議会質問。それと雑誌「新青年」の記事。もう一つ、昭和19年3月28日と29日に朝日新聞に掲載された科学戦の様相という記事。それらの記事が国民の間にうわさとなって広まるまでの経路を著者は解き明かしてゆく。

そして原爆開発だ。理化学研究所の仁科芳雄研究室は、陸軍の委嘱を受けて原爆開発を行う。一方、海軍から委嘱を受けたのは京都帝大の荒勝文策研究室。二つの組織が別々に原爆を開発するための研究を行っていた。「栄光なき天才たち」でも海軍と陸軍の反目については触れていたし、それが日本の原爆研究の組織的な問題点だったことも描かれていた。本書はそのあたりの事情をより深く掘り下げる。とくに覚えておかねばならないこと。それは日本の科学者が今次の大戦中に原爆の開発は不可能と考えていたことだ。日本に作れないのなら、ドイツにもアメリカにもソ連にも無理だと。では科学者達は何のために開発に携わっていたのか。それは二つあったことを関係者は語る。一つは、例え原爆が出来なくても研究することに意義があること。もう一つは、原爆の研究に携わっていれば若い研究者を戦場に送り出さずにすむ計算。しかし、それは曖昧な研究への姿勢となり、陸軍の技術将校に歯がゆく思われる原因となる。

仁科博士が二枚舌ととられかねない程の腹芸を見せ、陸軍と内部の技術者に向けて違う話を語っていた事。複数の関係者が語る証言からは、仁科博士が対陸軍の窓口となっていたことが本書でも述べられる。著者の舌鋒は仁科博士を切り裂いていないが、仁科博士の苦衷を察しつつ、無条件で礼賛もしないのが印象的だ。

また、実際に原爆が落とされた前後の科学者たちの行動や心の動き。それも本書は深く詳しく述べている。その中で理化学研究所出身で陸軍の技術将校だった山本洋一氏が語ったセリフがは特筆できる。「われわれはアメリカの原爆開発を疑ったわけですから、アメリカだって日本の技術がそのレベルまで来ているか、不安だったはずです。そこで日本も、原子爆弾を含む新型爆弾の開発に成功したのでこれからアメリカ本土に投下する、との偽りの放送を流すべきだったのです。いい考えではありませんか。そうするとアメリカは、たとえば長崎には投下しなかったかもしれません」(186ページ)。著者はこの発想に驚いているが、私も同じだ。私は今まで多くの戦史本を読んできたが、この発想にお目にかかったことはなかった。そして私はこうも思った。今の北朝鮮と一緒じゃねえの、と。当時の日本と今の北朝鮮を比べるのは間違っている。それは分かっているが、チキンレースの真っただ中にいる北朝鮮の首脳部が戦意発揚に躍起になっている姿が、どうしても我が国の戦時中の大本営に被ってしまうのだ。

山本氏は8月6日にヒロシマに原爆が投下された後、すみやかにアメリカの国力と技術力から算出した原爆保有数を算出するよう上司に命じられる。山本氏が導き出した結論は500発から1000発。その計算が終わったのが8月9日の午前だったという。そのころ長崎には二発目の原爆が炸裂していた。また、広島へ向かう視察機に搭乗した仁科博士は、搭乗機がエンジンの不調で戻され、ヒロシマ着は翌八日になる。つまりここで冒頭に書いた75時間の問題が出てくる。ヒロシマからナガサキまでの間に意思統一ができなかったのか、と。もっとも戦争を継続したい陸軍はヒロシマに落とされた爆弾が原爆ではあってほしくなくて、それを覆すためには確固たる説得力でヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることを示さねばならなかった。

そして科学者たちの脳裏に、原爆という形で核分裂が実証されたことへの感慨と、それとともに、科学が軍事に汚されたことへの反発が生じること。そうした事情にも著者はきちんと筆を割き、説明してゆく。

それは戦後の科学者による反核運動にもつながる。例えばラッセル=アインシュタイン宣言のような。そのあたりの科学者たちの動向も本書は見逃さない。

「おわりに」で、著者はとても重要なことをいう。「今、日本人に「欠けている一点」というのは、「スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマ」と「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」とは、本質的に歴史的意味がことなっていることを強く理解すべきだということだ。この二つの構図を混同してはならないと自覚しなければならない」(258ページ)がそれだ。私もそのことを強く思う。そしてぼんやりと考えているとヒロシマ・ナガサキ・フクシマを同列に考えてしまいかねない罠が待ち受けていることにも思いが至る。

もう一つ「日本での原爆製造計画が実らなかったために、私たちは人類史の上で、加害者の立場には立たなかった。だが原発事故では、私たちのこの時代そのものが次の世代への加害者になる可能性を抱えてしまった」(260ページ)という指摘も重要だ。下手に放射能被害の不安を煽ったりする論調には反対だし、私は事故後の福島には三度訪れている。だが、煽りに対して反対することと、原発事故からの教訓を読み取る必要性は分けるべきだ。

「あとがき」で著者は重ねて書いている。「本書は、あえて日本の原爆製造計画という、日本人と原子力の関係の原点ともいうべき状態を改めて確認し、そこに潜んでいた問題をないがしろにしてきたために現在に繋がったのではないかとの視点で書いた。」(266P)。この文章も肝に銘ずる必要がある。いまや日本の技術力は世界に冠たるレベルではなくなりつつある。このまま日本の技術力が地に落ちてしまうのか、それとも復活するのか。それは原発事故をいかに反省し、今後に生かすかにかかっている。海外では雄大な構想をもつ技術ベンチャーが増えているのに、日本からはそういう風潮が生まれない。それは原爆開発の失敗や敗戦によって萎縮してしまったからなのか、それとも原発事故の後遺症によるのか。問うべき点は多い。

‘2017/11/21-2017/11/23


人工知能-人類最悪にして最後の発明


今や人工知能の話題は、社会全体で取り上げられるべき問題となりつつある。ひと昔前まで、人工知能のニュースは情報技術のカテゴリーで小さく配信されていたはずなのに。それがいつの間にか、人類が共有すべきニュースになっている。

人工知能の話題が取り上げられる際、かつては明るい論調が幅を利かせていた。だが、今やそうではない。むしろ、人工知能が人類にとっての脅威である、という論調が主流になっている。脅威であるばかりか、人類を絶やす元凶。いつの間にかそう思われる存在となったのが昨今の人工知能だ。本書もその論調に追い打ちをかけるかのように、悲観的なトーンで人工知能を語る。まさにタイトルの通りに。

人工知能については、スティーブン・ホーキング博士やビル・ゲイツ、イーロン・マスクといった人々が否定的なコメントを発表している。先日、亡くなられたホーキング博士は車椅子の生活を余儀なくされながら、宇宙論の第一人者としてあまりにも著名。さらに注目すべきは後者の二人だ。片やマイクロソフト創業者にして長者番付の常連。片や、最近でこそテスラで苦しんでいるとはいえ、ハイパーループや宇宙旅行など実行力に抜きん出た起業家だ。情報社会の寵児ともいえるこれらの方々が、人工知能の暴走について深刻な危機感を抱いている。それは今の人工知能の行く末の危うさを象徴しているかのようだ。

一体、いつからそのような論調が幅を効かせるようになったのか。それはチェスの世界王者カスパロフ氏をIBMのスーパーコンピューターDEEP BLUEが破った時からではないか。報道された際はエポックなニュースとしてまだ記憶に新しい。そのニュースはPONANZAが将棋の佐藤名人を、そしてALPHA GOが囲碁のランキング世界一位の柯潔氏を破るにつれ、いよいよ顕著になってきた。しょせんは人間の使いこなすための道具でしかない、とたかをくくっていた人工知能が、いつしか人間を凌駕ししていることに、不気味さを感じるように。

さすがにネットには、本書ほど徹底的にネガティブな論調だけではなく、ポジティブな意見も散見される。だが、無邪気に人工知能を称賛するだけの記事が減ってきたのも事実。

ところが、世間の反応はまだまだ鈍い。かくいう私もそう。技術者の端くれでもあるので、人工知能については世間の人よりも多少はアンテナを張っているつもりだ。実際に人工知能についてのセミナーも聞いたことがある。それでも私の認識はまだ人工知能を甘くみていたらしい。今まで私が持っていた人工知能の定義とは、膨大なデータをコンピューターにひたすら読み込ませ、あらゆる物事に対する人間の認識や判断を記憶させる作業、つまり機械学習をベースとしたものだ。その過程では人間によってデータを読み込ませる作業が欠かせない。さらには、人工知能に対して何らかの指示を与えねばならない。人間がスイッチを入れ、コマンドを与えてはじめて人工知能は動作する。つまり、人間が操作しない限り、人工知能による自律的な意思も生まれようがない。そして人工知能が自律的な意思をもつまでには、さらなる研究と長い年月が必要だと。

ところが著者の考えは相当に悲観的だ。著者の目に人工知能と人類が幸せに共存できる未来は映っていない。人工知能は自己に課せられた目的を達成するために、あらゆる手段を尽くす。人間の何億倍もの知能を駆使して。目的を達成するためには手段は問わない。そもそも人工知能は人間に敵対しない。人工知能はただ、人類が自らの目的を達成するのに障害となるか否かを判断する。人間が目的のために邪魔と判断すればただ排除するのみ。また、人工知能に共感はない。共感するとすれば初期の段階で技術者が人間にフレンドリーな判断を行う機構を組み込み、そのプログラムがバグなく動いた場合に限られる。人工知能の目的達成と人間の利益のどちらを優先させるかも、プレインストールされたプログラムの判断に委ねられる。

いったい、人類にとって最大の幸福を人工知能に常に配慮させることは本当に可能なのか。絶対にバグは起きないのか。何重もの制御機能を重ねても、入念にテストを重ねてもバグは起きる。それは、技術者である私がよく分かっている。

一、ロボットは人間に危害を加えてはならないし、人間が危害を受けるのを何もせずに許してもならない。
ニ、ロボット は人間からのいかなる命令にも従わなければならない。ただし、その命令が第一原則に反する場合は除く。
三、ロボットは、第一原則および第二原則に反しない限り、自身の存在を守らなければならない。

これは有名なアイザック・アシモフによるロボット三原則だ。人工知能が現実のものになりつつある昨今、再びこの原則に脚光が当たった。だが、著者はロボット三原則は今や効果がないと切り捨てる。そして著者は人工知能へフレンドリー機構が組み込めるかどうかについてかなりページを割いている。そしてその有効性にも懐疑の目を向ける。

なぜか。一つは人工知能の開発をめざすプレイヤーが多すぎることだ。プレイヤーの中には人工知能を軍事目的に活用せんとする軍産複合体もいる。つまり、複数の人工知能がお互いを出し抜こうとするのだ。当然、出し抜くためには、お互部に組み込まれているフレンドリー機構をかいくぐる抜け道が研究される。組み込まれた回避機能が不具合を起こせば、人間が組み込んだフレンドリー機構は無効になる。もう一つは、人工知能自身の知能が人間をはるかに凌駕した時、人間が埋め込んだプロテクトが人工知能に対して有効であると誰が保証できるのか。技術者の知能を何億倍も上回る人工知能を前にして、人間が張り巡らせた防御機構は無力だ。そうなれば後は人工知能の下す判断に人類の未来を託すしかない。人工知能が「人間よ爆ぜろ」と、命じた瞬間、人類にとって最後の発明が人類を滅ぼす。

人工知能を開発しようとするプレイヤーが多すぎるため、人工知能の開発を統制する者がいない。その論点は本書の核となる前提の一つだ。いつどこで誰が人工知能のブレイクスルーを果たすのか。それは人類にとってパンドラの箱になるのか、それとも福音になるのか。その時、人間にフレンドリーな要素がきちんと実装されているのか。それは最初に人工知能の次の扉を開いた者に委ねられる。

もう一つの著者の主要な論点。それは、汎用知能AGI(artificial general intelligence)が人工超知能ASI(artificial super intelligence)になったと判断する基準だ。AGIとは人間と同じだけの知能をもつが、まだ自立能力は持たない。そして、Alpha Goはあくまでも囲碁を打つ機能に特化した人工知能でしかない。これがASIになると、人間に依存せず、己で判断を行える。そうなると人間には制御できない可能性が高い。そのとき、人工知能がAGIからASIにステージが上がった事をどうやって人間は判断するのか。そもそも、AGIが判断するロジックすら人類が検証することは不可能。人間の囲碁チャンピオンを破ったAlpha Goの判定ロジックも、すでに人間では追えないという。つまりAGIへのステップアップも、ましてやASIに上がったタイミングも把握することなど人間にはできないのだ。

そして、一度意思を手に入れたASIは、電気やハードウエアなど、自らにとって必要と見なした資源は優先的に確保しにくる。それが人類の生存に必要か否かは気にしない。自分自身を駆動させるためにのみ、ガス・水道・電気を利用するし、農作物すら発電用の資源として独占しかねない。その時、人間にできるのはネットワークを遮断するか、電源の供給を止めるしかない。だがもし、人工知能がAGIからASIになった瞬間を補足できなければ、人工知能は野に解き放たれる。そして人類がASIの制御を行うチャンスは失われる。

では、今の既存のソフトウエアの技術は人工知能に意思を持たせられる段階に来ているのか。まずそれを考えねばならない。私が本書を読むまで甘く考えていたのもこの点だ。人工知能の開発手法が、機械学習をベースとしている限り、知識とその判断結果によって築きあげる限り、自立しようがないのでは?つまり、技術者がコマンドを発行せねば人工知能はただの箱に過ぎず、パソコンやスマホと変わらないのでは?大抵の人はそうたかを括っているはずだ。私もそうだった。

だが、人工知能をAGIへ、さらにその先のASIに進める研究は世界のどこかで何者かによって着実に行われている。しかも研究の進捗は秘密のベールに覆われている。

人間に使われるだけの存在が、いつ自我を身につけるのか。そして自我を己の生存のためだけに向けるのか。そこに感情や意思と呼べるものはあるのか。全く予想が付かない。著者はASIには感情も意思もないと見ている。あるのはただロジックだけ。そして、そのロジックは人類に補足できない。人工知能が自我に目覚める瞬間に気づく可能性は低いし、人工知能のロジックを人類が使いこなせる可能性はさらに低い。それが著者の悲観論の要点だ。

本書の中で著者は、何人もの人工知能研究の碩学や泰斗に話を聞いている。その中にはシンギュラリティを世に広めた事で有名なレイ・カーツワイル氏もいる。カーツワイル氏の唱える楽観論と著者の主張は平行線をたどっているように読める。それも無理はない。どちらも仮説を元に議論しているだけなのだから。私もまだ著者が焚きつける危機感を完全に腹に落とし込めているわけではない。でも、著者にとってみればこれこそが最も危険な点なのだろう。

著者に言わせると、ASIを利用すれば地球温暖化や人口爆発は解決できるとのことだ。ただ、それらの問題はASIによる人類絶滅の危険に比べれば大したことではないともいう。それどころか、人工知能が地球温暖化の処方箋に人類絶滅を選べば元も子もない。

私たちは人工知能の危機をどう捉えなければならないのか。軽く受け流すか、それとも重く受け止めるか。2000年問題やインターネットを巡る悲観論が杞憂に終わったように、人工知能も同じ道をたどるのか。

どちらにせよ、私たちの思惑に関係なく、人工知能の開発は進められて行く。それがGoogleやAmazon、Facebook、AppleといったいわゆるGAFAの手によるのか。ほかの情報業界のスタートアップ企業なのか。それとも、国の支援を受けた研究機関なのか。または、軍の統帥部の奥深くかどこかの大学の研究室か。もし、ASIの自我が目覚めれば、その瞬間、人類の未来は定まる。

私は本書を読んでからというもの、人工知能の危機を軽く考える事だけはやめようと思った。そして、情報技術に携わる者ものとして、少し生き方も含めて考え直さねば、と思うようになった。

’2017/10/17-2017/10/24


デジタルは人間を奪うのか


IT業界に身をおいている私だが、今の技術の進展速度は空恐ろしくなる。

ハードSFが書くような未来は、今や絵空事でなくなりつつある。自我や肉体がITで補完される時代の到来だ。

自我のミラーリングに加えて自我の世代管理が可能な時代。自我と肉体の整合性チェックが当人の意識なしに、スリープ時にcron処理で行われる未来。太陽系内の全ての意識がデータ化されトレース可能な技術の普及。そんなSF的発想が遠からず実現可能になるのではないか。一昔前ならば妄想で片付けられる想像が、もはや妄想と呼ぶのも憚られる。今はそんな時代だ。

そんな時代にあって自我とは何を意味するのか。そして哲学は何に悩めば良いのか。数多くのSF作家が知恵を絞った未来が、道筋の果てに光となって見えている。今のわれわれはそんな時代の入り口に立ちすくみ、途方に暮れている。

本書は、現代の技術爆発のとば口にたって震えおののく人々のためのガイドだ。

今、最先端の技術はどこまで達し、どこに向かっているのか。デジタルの技術は人間を地球を幸せにするのか。それとも死の星と変えてしまうのか。IT業界に身を置いていてもこのような課題を日々取り扱い、悩んでいる技術者はあまり見かけない。おそらくホンの一握りだろう。

今の技術者にとって、周囲はとても賑やかだ。機械学習にIoT。ビッグデータからAIまで。といっても私のようなとるに足らぬ技術者は、それら最先端の技術から産まれ落ちるAPIをさわって悦に入るしかない。もはや、ITの各分野を横断的に把握し、なおかつそれぞれの分野に精通している人間はこの世に数人ぐらいしかいないと思う。それすらもいるのか怪しいが。

だが例えIT業界に身をおいていないとしても、IT各分野で起こっている技術の発展については表面だけでもは知っておかねばならない。少なくとも本書で書かれているような技術事情や、それが人間と社会に与える影響は知っておくべきだろう。それだけに本書のようなデジタルが人間存在にもたらす影響を考察する書は貴重だ。

著者は科学ジャーナリストではない。デジタルマーケティングディレクターを肩書にしている。という事はIT現場の第一線でシステムエンジニアやプログラマーとして働いている訳ではない。設計やコーディングに携わることもないのだろう。だがマーケティングからの視点は、技術者としての先入観に左右されることなく技術が人々に与える影響を把握できるのかもしれない。「はじめに」で著者は、デジタルの進化に違和感を感じていることを吐露する。つまり技術を盲信する無邪気な楽天家ではない。そこが私にとって共感できる部分だ。

本書冒頭では永遠に動き続ける心臓や精巧に意志を再現する義肢などの最新の技術が披露される。本書では他にも仮想通貨、3Dプリンター、ウェアラブルコンピューター、IoT、自動運転車、ロボット、仮想政府、仮想企業、人口器官などなど様々な分野の最先端技術が紹介される。

だが、本書は単なる技術紹介本ではない。それだけなら類似の書籍はたくさんある。本書の素晴らしい点は、無責任なデマを煽らずにデジタルのもたらす光と影を洗いざらい紹介していることだ。そこでは著者は、冒頭に私が書いたようなSF的な絵空事まで踏み込まない。著者が考察するのは現時点で達成された技術で起こりうる範囲に限定している。

著者の説くデジタル世界の歩き方。それはこれからの時代を生きねばならない人類にとっては避けて通れないスキルだ。テクノロジーがもたらす影を受け入れ、それに向かい合うこと。もののネット化(IoT化)が人にもたらす意味を考えること。人間はロボットを常に凌駕し続け、考える葦でありつづけねばロボットに負けてしまうこと。そのためには人間の思考、感性の力を発揮し続けねばならないこと。

各章で著者が訴えるのは、デジタルをリードし続ける責任を人類が担っていることだ。それがITを産み出した人類に課せられた使命。そのためには人間は考え続けなければならない。ITの便利さは利用しつつも想像力は常に鍛え続ける。そのためのヒントは、情報と知識の使い分けにあると著者は言う。

「情報」はメディアなどを通じて発信者から受信者へ伝達されるある物事の内容や事情に関する知らせで、「知識」はその情報などを認識・体系化することで得られるものである。さらに「思考」は、その知識や経験をもとに何らかの物事についてあれこれ頭を働かせることである。これらの言葉を曖昧に使っていると、大いなる勘違いを招く。(174-175ページ)

情報を知識と勘違いし、知識を知力と錯覚する。それこそがわれわれが避けなければならない落とし穴だ。そこに落ち込まないためには思考の力を鍛えること。思考こそがテクノロジーに飲み込まれないための欠かせない処方箋である。私は本書からそのように受け取った。思考さえ疎かにしなければ、ITデバイスの使用は必ずしも避ける必要はないのだ。著者の提言はそこに集約される。

著者は最後に紙の新聞も読んでいることを告白する。紙の新聞には、電子媒体の新聞にない「閉じた安心感」があるという。全くその通りだと思う。閉じた感覚と開けた感覚の違い。ファミコンやPCエンジンで育った私の世代は、決してITに無縁だったわけではない。ゲームだって立派なIT技術のたまものだ。だが、それらは閉じていた。それが開いたのがインターネットだ。だから、インターネットに囲まれて育った世代は閉じた世界の安心を知らない。だが、閉じた世界こそは、人類の意識にとって最後の砦となるような気がする。紙の本は確かにかさばるかもしれないが、私が電子書籍を読まないのもそれが理由だと思う。

私は閉じた世界を大切にすべき根拠に感覚を挙げたい。触覚もいずれはデジタルによって代替される日が来るだろう。だがその感覚を受容するのがデジタルに寄生された意識であってはならないと思う。今はまだ百パーセント有機生命体である脳が感覚を司っている。そして、それが人が人である定義ではないか。例えば脳疾患の治療でもない限り、頭に電極を埋め込み、脳をテクノロジーに委ねる技術も実現間近だ。そしてその技術が主流になった時、人類は深刻な転換期を迎えるのではないだろうか。

思考こそが人の人たるゆえん。著者の論理に従うならば、我らも思考しなければならない。デジタルデパイスはあくまでも人の思考を助けるための道具。決して思惟する行いをデジタルに丸投げしてはならない。本書を読んでその思いを強くした。

‘2016/05/06-2016/05/07


虹の翼


私が四国から連想するイメージとは飛行機だ。四国と飛行機。あまりピンとこない取り合わせだ。しかし私にとってはそうなのだ。多分、過去に四国を旅する中で飛行機に関する史跡を目にしたからだろう。

今から四半世紀ほど前、両親とともに旅行中に訪ねたのは紫電改展示館。海から引き揚げられた機体の残骸を見たのは、確か宇和島の辺りだったように思う。

もう一箇所は二宮飛行神社だ。今から十二年ほど前、当時高松に住んでいた幼馴染に案内してもらいさぬきうどんの名店を巡ったことがある。次女がまだ妻のお腹の中にいた頃だ。2日間にわたって香川全域を車で巡ったこの旅は、私の中で充実した旅として記憶に残っている。この時、二宮飛行神社の横を通りすぎた。この時はスケジュールが強行軍だったため神社には立ち寄らなかったが、なぜここに飛行機に関する史跡があるのかという違和感はずっと持ち続けていた。二宮飛行神社こそ本書の主人公である二宮忠八を顕彰する施設なのだ。

本書を読んで、当時から私が抱いていた違和感は氷解した。

二宮忠八とは、飛行原理の研究者である。彼にあとわずかな資金や運もしくは理解者による援助があれば、飛行機の父の称号はライト兄弟ではなく二宮忠八に与えられていたかもしれない。それほどの先駆的な研究をしていた人物だ。

本書は二宮忠八の伝記だ。著者は忠八を幼少期から描く。愛媛、八幡浜の裕福な商家に生まれた忠八は、利発さで人目を引いていた。その才能は飛び級も許されるほど。しかし、生家は程なく傾いてしまう。忠八の二人の兄が立て続けに行商先で放蕩に溺れ、売上のほとんどを使い果たしてしまったのだ。一度目こそ持ちなおした父だが、二度目の使い込みに至って気力が萎えたのか家業を立て直せず倒産させてしまう。そして、失意の中死んでしまう。それを境に忠八の境遇は一気に暗転する。

忠八はそのような逆境にあって、創作凧を町に飛ばし人々を驚かせる。彼の才気はとどまる所をしらず、凧からチラシをまくという工夫できらめきを見せる。アイデアと技術力の二つを幼くして兼ね備えていた稀有な人物。それが忠八だ。幼少時に得たこの経験は後に忠八を飛行原理の追求へと駆り立てる。

一方で忠八は、自立のために薬学を学び、その知識を広く活かすために軍に入る。厳しい軍の行軍訓練の中、忠八は休憩地となった樅ノ木峠でからすの群れを目撃する。その動きは忠八にとって閃きを与えるものだった。なぜ鳥は飛ぶのか、なぜ空気を滑るように移動できるのか。

そしてその樅ノ木峠こそが、私がうどん巡りで通りがかった二宮飛行神社のある場所のようだ。今回あらためて地図で確認したところ、樅ノ木峠の近くにはうどんの有名店「やまうち」がある。おそらく二宮飛行神社は「やまうち」に向かう途中で見かけたに違いない。

最終学歴が小学校卒でありながら、忠八は軍の病院で認められる。だが彼は薬剤師試験を受ける機会をことごとく逃す。運に恵まれない忠八。試験が受けられなかったことで昇進も逸する。しかし、忠八は仕事を真面目にこなしながら、暇を見つけては飛行機の研究を続けていた。その努力が実り、人を乗せられる飛行機の完成まで間近のところまでたどりつく。残るは動力だけ解決すればよいだけ。

そんな中、日本は清国との戦争へと舵を切り、忠八も従軍を命ぜられる。日清戦争だ。

凄惨な戦場の現実。それを知るにつけ、忠八の頭には飛行機さえあればとの思いがやみがたくなる。そしてその高まる思いは忠八を師団長に直訴させる。しかし、師団長から返ってきたのは却下の言葉。先例がない。欧米が作れないものを日本人の、しかも一介の下士官が作れるわけはない。まだ開国からさほどの時期が過ぎておらず、欧米に対する劣等感が日本人を覆っていたころの話だ。

本書の筆致は乾いている。淡々としているばかりか事務的にすら思える。それは、感情を文章に乗せてしまうことを恐れるかのようだ。一度感情を乗せてしまったが最後、歯がゆさと口惜しさで筆が止まらなくなることを筆者は恐れていたのではないか。

著者は本書で航空機開発にまつわる挿話を披露する。それは世界、そして日本で空を駈ける夢に取りつかれた者たちの努力の跡だ。日清戦争当時、世界の飛行機開発競争はどういう状況だったのか。だれがどのように開発を進めていたか。風船や気球をどう使おうとしたのか。これらの事実を紹介することで著者は何を伝えたかったか。それは、忠八の業績や研究が世界でも最先端だったことだ。ライト兄弟ではなく忠八が飛行機の父と呼ばれる可能性は、限りなく高かったのだ。著者が強調したかったのは当時、わが国にこのような先駆的な人物がいたことではないか。

だが、忠八の研究は常に日陰を歩んでいた。風圧を体で感得するため、傘を差して橋から飛び降りるのも夜間なら、ゴム動力の模型飛行機を飛ばすのも夜。若い頃の忠八には日中に景気よくチラシを凧からばら撒くだけの気概を持っていた。日中であろうがお構い無しに傘をさして橋から飛び降りるほどの気迫をもって研究していた。一方で忠八は組織に忠実であろうとした。それは幼き頃に兄達が放蕩で家を傾けた悲劇を目にしていたからかもしれない。その真面目さは忠八に研究への根気を与えたが、一方では研究上のブレークスルーを許さなかったように思える。

そこには、分別がある。忠八自身の行動を抑える一方で、忠八の提案を却下する分別が。その分別は日本人に規律や統制に服する美徳をもたらし、忠八自身の無鉄砲な行動を抑えた。一方では、忠八の提案を荒唐無稽なものとして却下し、忠八の発明が世に出ることを妨げ、個人の意思を組織の名のもとに潰そうとした。だが、その分別は明治以降の日本の発展をもたらしたことも確かだ。

日本とは、近代日本とはこのように相反する分別によって成り立っていたのではないか。近代史のエピソードを丹念に紹介し、知悉する著者だからこそ気づく視点。多分、この両輪のどちらが欠けても近代日本の発展はなかった。だが、この分別は忠八から飛行機の父の称号を奪った。私はそう思う。

近代日本が抱えた個人と組織の相剋、その背後に横たわる分別。分別がお互いの相反する作用こそが、近代日本に一種のねじれを産み、そのねじれこそが日本の発展を推進したのかもしれない。そのねじれは、国としての日本を大いに富ませたが、忠八のような個人を押しつぶしてしまった。著者が語りたかった論点とはそこにあったのではないだろうか。

晩年の忠八は飛行機の父としての栄誉を手に入れ、八幡の男山にある岩清水八幡宮の近くに飛行神社を創建した。この神社は大分昔、訪れたことがある。だが、当時は忠八個人のことをまったく知らず、そもそもどのような神社だったかの記憶がほとんどない。もう一度行ってみたいものだ。

いまや、個人と国家の間にあったねじれは緩み、忠八が苦しんだ時代は過去の話となりつつある。そもそも人による創意工夫がITに取って替わられようとしている今、忠八の生涯を振り返ってみるのもよいかもしれない。私も機会があれば飛行神社、二宮飛行神社をはじめ、忠八の故郷八幡浜市など、訪れてみたいと思っている。

‘2016/03/02-2016/03/05


火天の城


世に歴史小説の類いは多々あれど、城郭建築をここまで書いた小説ははじめて読んだ。

もちろん、私はあらゆる歴史小説を読んでいる訳ではない。むしろごく一部しか読んでいないほうだろう。なので、私が知らないだけということもありうるだろう。それを踏まえていうと、ほとんどの歴史小説の主人公は武将や戦士や政治家ではないだろうか。僧や剣豪などもそれらの人々に含まれる。彼らは一国の内政や外交や軍事に専従し、采配を振るっては国を動かす。いってみれば彼らは歴史の表舞台で演ずることのできる人々。

しかし、本書の主人公は大工の棟梁だ。それも、戦国時代には欠かせない城郭建築を指揮する棟梁。つまり戦国史においては裏方となり、表に出ることの少なかった人々だ。そんな棟梁が主人公の歴史小説はあまりなかったように思う。少なくとも私は今まで読んだことがなかった。

戦国武将の中には、城郭建築の名手と言われる人物がいる。加藤清正公や藤堂高虎公などはその中でもよく知られた存在だ。が、彼らとて図面を引いたり工作したりといった建築の実作業を本職としていたわけではない。あえていえば、彼らは城下町も含めた城郭全体を脳裏に描き、それを大工に伝えることに長けていただけ。いわば、構想と施工の主に過ぎない。

つまり、彼らの構想は、それを形に写し出す技術者がいて初めて世に出るのだ。技術者つまり棟梁が居ないことには、城郭が形になることはない。それなのに、城を実際に建てた棟梁の名前となると、すぐには浮かんでこない。戦国時代には多くの城が建てられ、その多くは現代にも残っている。しかし棟梁の名が後の世に伝わっていることはほとんどないのだ。本書の主人公である尾張熱田の棟梁岡部又右衛門も同じ。おおかたの棟梁の事跡など歴史の地層に埋もれてしまっている。

だが本書は大工の棟梁つまり技術者が主人公だ。彼らの技術に焦点を当て、技術者としての矜持を描き出す。技術者の苦労に光を当てた本書は、私にとっては新しく興味深かった。

では、今まで城郭建築の面白さを書こうとした作家はいなかったのだろうか。私はいたと思っている。城は戦国の世に咲いた華。これほど目立つ存在なのに、その裏側を書こうとした作家がいなかったはずはない。ではなぜ、棟梁を主人公とした作品はあまりないのか。

その理由はいくつか挙げられそうだ。華や見せ場に欠けるという理由もあるだろう。だが一番の理由は、資料の難読性にあったのではないか。ただでさえ読みにくい古文書が、技術的な記載に埋められているとしたらどうだろう。それを小説として成り立たせようという作家は準備の時点で膨大な労力を強いられることになる。その労力を前にして、城郭建築を小説化しようとする幾多の試みが挫かれてきたのではないだろうか。

そう考えると、本書の重みも一層増すというものだ。著者が本書を書くにあたっての準備は並大抵のものではなかったはずだ。当時の古文書を読み込み、築城にあたっての苦労や挫折を調べ尽くす。その準備の上で本書を小説として面白く仕立て上げるための構成を練る。

結論からいうと、著者はそのすべてを成し遂げている。

特に、著者が苦労したのは棟梁が直面する技術的な苦労をいかに読者に伝えるか、ではないか。斬新な建築様式や城主の大仰な理想を形にするにあたって、棟梁の工夫や努力によって乗り越え実現する過程は、小説的な面白さに満ちている。むしろ、著者にとっては本書に小説的な面白さを加えることは楽だったのかもしれない。なにしろ、本書で取り上げるのは安土城なのだから。

安土城といえば、天下布武の拠点としての絢爛な姿が語り草になっている。そして、本能寺の変から間もなく徹底的に破壊されたことでも知られている。小説のネタとなるエピソードには事欠かないのだ。また、安土城には詳細な図面が現代に伝わっているともいう。なので、著者にとっての難業とは、築城術の奥義を小説に分かりやすく組み込む作業だけだったのかもしれない。

本書は、主君信長がまだ尾張の小領主時代、つまり大うつけと呼ばれている頃から始まる。棟梁岡部は、熱田神宮の練塀修理を信長から命ぜられ、見事に完成させたばかりか、門に個性を施した見事な普請を披露する。それが熱田神宮の祭神の御魂に届いたのか、主君は桶狭間の戦いで今川義元公を討ち取り戦国覇者へ名乗りを挙げる。大勝の陰に主人公の奉納練塀の功もありとして、主君に取り立てられることになる。主君が覇業への一歩を踏み出すごとに、岡部棟梁も付き従って拠点を移すことになる。やがて、安土こそが天下布武への拠点に相応しいとの主君の命によって、棟梁岡部は安土への築城を行うことになる。

安土への築城は、一筋縄ではいかない。なかでも棟梁を悩ましたのは、天守を七重の南蛮天主堂のようにせよとの主君の仰せ。つまりはキリスト教の教会によく見られるドーム状の巨大空間付きの天守だ。バテレンから最新の南蛮渡来の文物を見せられた主君は、すっかり南蛮びいきになってしまったというわけだ。

さらに主君の要望はドーム状の空間の上に、君主の居住空間を載せることにまで及ぶ。その無謀さと難解さはわれわれのような建築の素人にも想像できる。さらには天下布武の意向を世に知らしめるため、天守を金箔で覆う指示も加わる。重量は余分に嵩み、棟梁岡部の悩みも増す。

はたして命ぜられた工期内に天守と臣下の者たちが住まう町作りは成し遂げられるのか。そんな興味がページを捲る手を止めさせない。

著者はさらにさまざまな妨害を棟梁岡部の前におき、彼の悩みを一層深める。例えば六角氏の残党。めっきり勢力は衰えたとはいえ、本拠地観音寺城の目前に安土城を堂々と縄張りされて気分のよいはずはない。忍びを使って妨害工作を仕掛ける。柱に用いる巨木の調達も難儀である。畿内にはよい樹がない。それで敵地である武田領木曽産のもの、それも伊勢神宮遷宮の御柱用に用意されていたものをはるばる運ぶ安土まで運ぶことになる。また、堂々たる巨石が見つかったことで城の礎石とせよとの命が下り、途方もない重さのそれを山上へと運ばねばならなくなる。

混乱や大事故を乗り越え、棟梁岡部や総奉行丹羽長秀の苦心の甲斐あって、安土城はいったんは竣工なる。棟梁の面目は立ったものの、竣工後もあまりの重さに天守全体が沈下するなど、苦労は絶えない。

日本の歴史には、幾度となく文明流入の潮流があった。その中でも初めて西洋の技術を用い、西洋の意匠に合わせた安土城築城は屈指の出来事だったのではないか。築城に当たっての棟梁岡部の苦労の数々は、あたかも技術立国日本の原点を目の当たりにするようだ。本書では又右衛門とその息子以俊の職人としての魂と技の引き継ぎが描かれていることは見逃すわけにはいかない。親と子、棟梁と弟子の間に生じる葛藤や軋轢があり、はじめて匠の技は受け継がれていくのかもしれない。そうやって大工の誇りと技術が今日に至るまで日本の底で受け継がれてきたことは特筆しておかねばなるまい。

だからこそ、当時の技術の粋を極めた安土城が破砕されたことは惜しまれる。通史では本能寺の変の後の出来事は、中国大返しから山崎の戦いが描かれることが多い。だが本書は通史の本流にはあまり紙数を割かない。替わりに書かれるのは、安土城がこの世から抹消されるまでの経緯だ。そしてその経緯の一部始終は棟梁岡部によって目撃されることになる。己が築き上げた畢生の作品が亡きものになってゆくのを見守る棟梁の心中が察せられる切ない場面だ。

技術力がどれだけ進もうとも、覆らない真理もある。一度は完成したものが衰え風化してゆくのは必然といってもよいだろう。下剋上の風が幅を利かせ、既存の観念が無用となった戦国の世。そんな時代にあって、権力のはかなさや象徴の頼りなさを誰よりも心に刻んだのが棟梁岡部だったような気がする。

‘2015/11/25-2015/11/26


2050年の世界 英『エコノミスト』誌は予測する


先日の第一回ハマドクで取り上げられた「WORK SHIFT」。この本についてのレビューは先日書いた。それからしばらくしてから本書を手に取った。英国エコノミスト誌は著名なビジネス誌として知られる。その錚々たる筆者達がそれぞれの専門分野に焦点を当てて、2050年の世界を予測したのが本書だ。2050年とは、「WORK SHIFT」が予測する2025年のさらに四半世紀先の未来である。はたしてそれほどの未来を予測しうるのだろうか。

「はじめに」では編集長のダニエル・フランクリン氏が筆を執っている。そこで氏は、今後四十年間に起こる重大な変化の一部は、かなり高い精度で予測が可能だ、とぶち上げる。続いて、本書の執筆者達が未来を予測する手法として指針とする四つの項目を挙げる。それは、
一、 未来を予測するために、まず、過去を振り返る
二、 単純に過去を未来に当てはめるのではなく、そうした流れが途絶することを積極的に見越していく
三、 アジア-とりわけ中国-の隆盛を重視する姿勢
四、 未来予測産業の大多数と対照的に、前向きな進展の構図を書き出そうとする

編集長の述べた共通項の四項目にも見られるように、本書の視点は総じて楽観的といえる。その楽観度合いは先日読んだ「WORK SHIFT」よりも格段に高い。ある意味でそれは救いのある視点ともいえる。ジャーナリズムとはとかく警鐘を鳴らし銭を稼ぐのが仕事と思われがちだ。しかし本書はそういった読者の危機感につけ込む手法はとらない。それはジャーナリズムとして傾聴に値する態度ではないだろうか。だが、本書の論調が楽観的であることが、すなわち安泰を意味するのではないことは承知の通り。なぜなら本書第二十章「予言はなぜ当たらないのか」で書かれているとおり、人間は困難を避けたり克服したりすることのできる動物だから。つまり本書を読んで安穏とするのではなく、本書を読んだ上で読者一人一人に気づきが求められるのである。

本書で取り上げられる対象の範囲は広い。第一部で人間とその相互関係。第二部で環境、信仰、政府。第三部で経済とビジネス。第四部で知識と科学。それぞれの部は各五章に分解され、さらに詳しく解説で紙面が割かれている。
第一部 人間とその相互関係
第一章 人口の配当を受ける成長地域はここだ
第二章 人間と病気の将来
第三章 経済成長がもたらす女性の機会
第四章 ソーシャル・ネットワークの可能性
第五章 言語と文化の未来

第二部 環境、信仰、政府
第六章 宗教はゆっくりと後退する
第七章 地球は本当に温暖化するか
第八章 弱者が強者となる戦争の未来
第九章 おぼつかない自由の足取り
第十章 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか

第三部 経済とビジネス
第十一章 新興市場の時代
第十二章 グローバリゼーションとアジアの世紀
第十三章 貧富の格差は収斂していく
第十四章 現実となるシュンペーターの理論
第十五章 バブルと景気循環のサイクル

第四部 知識と科学
第十六章 次なる科学
第十七章 苦難を越え宇宙に進路を
第十八章 情報技術はどこまで進歩するか
第十九章 距離は死に、位置が重要になる
第二十章 予言はなぜ当たらないのか

各章には章末にまとめのページが設けられ、読み終えた後に反芻することが可能となっている。

上で各部と各章を挙げたのには理由がある。それはここで各章の内容を挙げることで、本書の予測が可能な限り地球の未来を網羅していることを示すためだ。各分野で世界のこれからを網羅的に予測しているのが本書である。しかも楽観的な視点にたって。

第一章は人口動向による成長地域を分析する。この手の予測には人口の動向を把握することが不可欠となる。そのことは、未来予測の類や人口学をかじるにつれ私にも理解できるようになった。日本の諸問題も外国の諸問題もその原因を追究していくと詰まる所は人口比率による要因が大きい。先進国は家庭労働の担い手が不要になるため人口減の傾向が続き、発展途上国においては人口、特に労働年齢人口の増加率が高くなる。労働年齢人口が増加するとその国の経済状況は好転する。そのことは識者によって常々指摘されていることだ。そのことから、2050年のGDPにおいて上位を占めるのは現代の上位国ではなくこれら新興国であると本書は予想する。そして、現在の人口爆発国家である中国は逆に行き過ぎた人口抑制策が人口のバランスに悪影響を及ぼし、急速に成長を鈍化させるとみている。インドもまた同じ。逆にアフリカや中東が人口の増加が経済成長を促すとしてその成長を期待する。

以降、二章からはそれぞれの主題ごとに予測が記述されている。より広範に、人類、そしてこの星にとって重要と思われるテーマが並べられている。個人的には人類を襲う災厄や、人類の精神的な進化にもページを割いてほしかった。が、40年弱の期間だと、ここで取り上げられたテーマが妥当だろう。私にも異論はない。

そんな中、本書の主張する一番の骨子は、最終章である二十章に集約されていると思える。

その理由は、予測という行為そのものを取り上げているからだ。予測と言えば、人類滅亡につながる悲観的なものが目立つ。かのノストラダムスのオカルトめいた予言から、現代のW2Kや地球温暖化といった科学的な知見からの予言まで、悲観的な予測には際限がない。本章ではそれら予言の概括を経て、なぜ悲観的な予言が多いのかについて分析の筆を走らせる。

私自身でも、悲観的な論調にうんざり感を覚えることが多い。それでいて、悲観的な予言を見かけると、ついつい楽観的な予言よりも目が行ってしまう。これは或いは生存本能から来る精神の働きなのかもしれない。そういった人の心が惹かれる仕組みと、なぜ悲観的な予言が当たりにくいのかについて、本章では詳細に論ぜられている。各章の予言のそれぞれもさることながら、本章の予言に対する考え方それ自体に蒙を啓かれた。

その一方で、十八、十九章に書かれた技術的な内容には新味がなかった。少なくとも「WORK SHIFT」に記載されていたような技術的に踏み込んだ内容にはなっていない。もっともそれは、章毎に割り当てられたページ数からして仕方ないのかもしれない。他の章もまた同じ。それぞれの専門家の予測はより詳細に可能なのだろうが、本書のような形で発表するにはどうしても要約的、概略的になってしまうのだろう。それと同じように、各章の記載内容は、それぞれの専門家から見ても物足りないものなのかもしれない。

しかし本書はそれでよいのだ。今の人類を取り巻く問題の数はあまりにも幅広い。なのでもはや一個人がカバーするには不可能なレベルとなっている。本書はそういった諸問題のこれからをわかりやすく書いている。全ての読者にとってわかりやすくするため、各分野を概括的に書くのは当然といえる。

そのため、私としては様々な問題を把握するためには、こういったレベルの書籍は必要なわけだ。また折に触れて読みたいと思う。

’2015/8/6-2015/8/10


ベイマックス


原作は日本人6人が主人公という設定の「ビッグ・ヒーロー・シックス」。本作はヒーローを5人とし、主人公のヒロ・ハマダ以外は各国人という設定にリメイクしたものである。

5人のヒーローものといえば、40~50代の日本人にとってはお馴染みである。それはガッチャマンであり、ゴレンジャーであり、デンジマンとして記憶に沁みついている。本作はその路線を踏襲し、近未来の世界に舞台を移している。近未来といっても荒唐無稽なものではなく、現代の技術を拡張させた世界観に沿っている。

ストーリー自体はそれほど凝った設定ではない。兄の死というトラウマを抱えた主人公が、ロボットと仲間の助けを借りて、兄を死に至らしめた陰謀へと立ち向かっていく筋である。昔の戦隊モノでは、のっけから当たり前のように悪役が存在していた。ギャラクターしかり、黒十字軍しかり、ベーダー一族しかり。しかし本作ではきちんと悪役が存在するための理由づけがされている。昨今の複雑な背景設定に慣れている観客を意識した改変といってよいだろう。

ある程度背景設定されているとはいえ、単純に快活に楽しめるのが、本作である。本来ならば余計なことは考えず、ただ楽しむのが本作のもっとも幸せな鑑賞方法だろう。現に中2の娘も、今までに見たディズニーの作品で一番面白く、感動したといっていた。だが、それだけだと私も本作を見た記憶を忘れてしまうので、もう少し穿ってみるとする。

本作の主人公ヒロ・ハマダは日本人で13歳にして大学を飛び級入学できるだけの頭脳の持ち主。従来のヒーローは自らをバージョンアップさせない。大抵は007ことジェームズ・ボンド・シリーズにおけるQのような他人の助けを借り、衣装やメカや武器の開発は他人任せ。が、本作の主人公ヒロは、その頭脳でもって自らをチューンナップさせ、バージョンアップさせることができる。本作の主要製作陣の中には日本人はいないようだが、家電・電子分野で落ち目と言われて久しい日本人の過去のイメージが、本作でのヒロのように保たれているのは嬉しい限りである。3Dプリンターの進化系と思しき装置を13歳の少年が自在に操作する姿に、日本人として面映ゆく思ったのは私だけだろうか。海外から持たれている頭脳・技術立国としての我が国のイメージ。それを将来の日本が守り続けて欲しいと思うばかりである。

ただ、サンフランソウキョウという、サンフランシスコの日本人街をベースとした都市のイメージには違和感が残った。日本を舞台にしなかっただけまだましなのだが、近未来のイメージとはいえ、欧米の日本を舞台にした作品によくある勘違い日本観でなければよいのだが。五重塔や日本語の看板が林立するサンフランシスコのイメージがどうにもしっくりこない。仮に近未来のサンフランシスコをそういう設定にしたとすれば、そこまで日本文化を受け入れてもらってよいのか、逆にこそばゆく感じる。まあ、そこは素直に日本の技術とアニメ文化にオマージュを捧げた作品として、本作を楽しんでも良いのではないかと思う。エンドロールにはAIのStoriesも採用されているし。

原作をまだ読んでみたことがないのだが、一度どのようなものか、読んでみたいと思った。なんでもアイヌ民族出身者もいるとか。ケイシチョーという名字の登場人物もいるとか。興味が増す一方である。

’15/2/8 イオンシネマ新百合ヶ丘


なぜ技術経営はうまくいかないのか―次世代の成長を生み出すマネジメント


4月になってプロジェクトが変わり、プロジェクトを推進する側に回ることもあって、自分の仕事の方向性を定めようと試行錯誤した時期に読んだ一冊。

管理のみでなくプログラムないしは設計にも引き続き携わりたいとの意識を持って読んだ結果は、半年後の今、残念ながら活かすことができたとは思えない状態になっている。

本書は、現業に甘んじることなく、いかにして次代の技術を育てていくか、について豊富な事例を提示しているため、該当するリーダーには当てはまるところが多く、非常に参考になると思う。

ただ、私のような個人事業主の場合、摘要範囲が非常に限定されてしまう部分は否めない。

むしろ私は、この本を読んだ時期に携わることになった自治会の運営に、本書から得た知識を活かしている。それは技術経営とはもはや関係ない部分なのだが。

この本を活かせるような立場になった時、改めて再読してみたいと考えている。

’12/04/06-12/04/09


ガラパゴス化する日本


私は仕事上で多大な不便を託っているにも関わらず、いまだにガラパゴス携帯を使用している。

ガラケーという割に、飯の種であるSNSや携帯などのIT分野以外では、私の中ではガラパゴスが単なるはやり言葉になってしまっていて、浅い言葉の使い方はよくないと思い、一体どのようなガラパゴス化が起こっているのか、興味を持って読んでみた。

医療や大学、会計基準など、聞いたことのない略語や知っている略語、そして私の飯のタネであるはずのIT分野においてもカーナビやオサイフケータイ、ICカードなど、日本に住んでいるとその便利さを享受しているサービスの数々が世界ではほとんど使われていない状況の数々が紹介されていく。まさに井の中の蛙大海を知らず、を地で行くような現状に恐れを禁じ得ない。

一方で柔道がJUDOとして生まれ変わっていく中で、日本の相対的な地位が下がっている現状をメダル数の推移などで示すが、ガラパゴス化を逃れた分野すらも、未来に展望が開けず、ガラパゴス化が進んだ日本の将来についても悲観的な予想が提示され、読んでいて危機感は増す一方。当然ながら日本の人口減少傾向も取り上げられており、内需型の経済構造が今のままでは維持できないことも書かれている。

もちろん非難しっぱなしではなく、処方箋も用意してくれているのだが、即効性のある案があればどの会社も霞が関ですら採用するわけで、具体的な案というよりは成功例として十数例のケースが挙げられているのみである。

ただ、それらの成功例から見るに、国内でとどまっている限り、ガラパゴス化から逃れる術はないことがよく伝わってくる。

標準化会議などに積極的に参加していくことでゲームのルール作りに携わっていかねば行けないという主張については、今のTPPの動きもあってうなづけるところが多い。

TPPについても私は闇雲に反対を唱えることはできないと思っていたけれど、人口減少について、有効な策が打てていない現状では、閉じこもる形をとる選択が危険であることがよくわかった。外国人参政権も、TPPも私が単純に反対と旗幟を鮮明にできないのも、人口減の今、有効な案を考えられない以上、より一層外に開かれた日本でなければどうしようもないのでは、と思わずにはいられない。

最後に疑問点を一点。

成功例の一つとしてスコットランドの例が挙げられており、地方分権化の利点が述べられているのだが、超特区を江戸時代の出島のように作り、そこから脱ガラパゴス化を進めていくという理論には賛成できるのに、超特区の設置場所として東京を始めとした大都市圏を挙げていることが腑に落ちない。地方への分散資本投下が逆にガラパゴス化を招いたという点は理解できるにしても、今更都心に集中をさせることがはたしてガラパゴス化から日本を救うのか。地震のリスクを感じつつ日々の痛勤に不満を募らせている私にはそこが理解できなかった。

’11/11/08-’11/11/10


水の奇跡を呼んだ男―日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平


以前から論議かまびすしい、日本とアジア諸国の関係。

私は今から16年前(’95年)に自転車で台湾を一周したことがあり、その時に地元の方々(特に年配の)から受けた恩義が忘れられず、戦前の日本が悪業の限りを尽くしたとはとても思えない人です。最近、韓流文化が流入して来たり、それに対する反対運動もあったり、TPPの問題など色々とややこしくなりつつあるよう。

どちらの陣営に与するというのでもなく、自分の中で、あの時台湾で受けた印象を確かめたいと思っていたところ、このような本を見つけて読んでみた。

主人公たる鳥居信平氏や、その息子である南極探検家として著名な鳥居鉄也氏のこと、恥ずかしながらこちらの本を読むまで知らなかったのだけれど、彼らの業績の偉大さもさることながら、こういう環境にやさしいダムを戦前の日本人が考え付いたというところに、アジアと日本との関係改善より大きな問題である、地球と人間の関係改善に日本人が役立てることがもっともっとあるのではないかと思った。

’11/9/29-’11/10/3