Articles tagged with: 小説

puzzle


魅力的な題名に加え、冒頭に並べられる記事抜粋や会話の切り取りに引き込まれる。さまよえるオランダ人、キューブリック監督の2001年宇宙の旅の当初の題名、新元号「光文」のスクープ記事、2万5千分の1の地図作成の方法、ボストンブラウンブレッドの作り方。

長崎の軍艦島を思わせる無人島が本書の舞台である。それぞれ違う死因で、ほぼ同じ時期に亡くなった三人の男。一人は、廃墟の屋上での全身打撲による墜落死。もう一人は感電死。残りの一人は老衰。彼らが持っていたものは、何の脈略もないように思える、上記に挙げた記事。電気のない無人島でどうやって亡くなったのか、そして記事の意味は・・・まさに魅力的なpuzzleのピースである。

登場人物はたった二人。事件の捜査のために島を訪れた二人の検事の会話でplayは進行する。

推理小説であるため、本稿ではこれ以上の内容には触れない。ただ、私にとっては出来上がったpictureで語られる謎解き部分に納得できないものがあった。推理小説は大きく拡げられた謎がすっきりと畳まれることにカタルシスを感じるもの。しかし、本書はその部分が少し弱い。魅力的なpieceが提示されていたが、出来上がった絵に驚きを感じられなかった。

本書は祥伝社文庫の15周年特別書下ろし作品ということだが、ちょっと書き急いだ感じを受けた。著者の他の著作には素晴らしい物が多いだけに残念である。

’14/2/7-’14/2/8


影男


本がないと生きていけない私の読書人生で転機になったのは、間違いなく江戸川乱歩の著作と出会ってからであり、小学三年生のあの頃、ポプラ社の二十面相やルパン、ホームズ物をむさぼるように読んだ日々がどれだけ幸せだったか。

ポプラ社の46巻シリーズ、前半は少年探偵団や明智探偵と怪人二十面相の対決を軸とした子供向けの性格が強いのだが、後半は大人向けの小説を子供向けに翻案したもので、小学三年生の私にも、後半のほうが起伏に富んでいて面白かった思い出が強い。

中でも本書は怪しげな世界観が、子供向けに翻案されている内容からも色濃く立ち上っており、子供心にもなにかぞくぞくするような感覚が去らなかったことを思い出す。

本書は無論、翻案なしの大人向けの内容そのものであり、在りし日に味わった幸福な読書体験を大人の目で楽しむことができる。

確かに今の仮想現実に慣れさせられた目からみるとパノラマ仕掛けにも、筋建てにも難を感じるところがあるのだが、それがかえって昭和初期のレトロな雰囲気を発し、本書の独特な魅力につながっているのではないかと思う。一度読んだだけでは本書の魅力を味わうには至らない。その証拠に、私が大人向けの本書を読むのは2,3度目である。

’12/03/26-12/03/27


天地明察


先日記したマルドゥック・スクランブルでも統計や情報についての著者の博識ぶりに触れたのだが、本書を読んでさらに著者が科学に対して底知れぬ興味と喜びを抱いていることが感じられた。

渋川春海という江戸時代に改暦を成し遂げた人物に焦点を当てた本書は、歴史小説・時代小説という範疇に分けることが無意味に思えるほど、汎時代的・汎人間的な小説であり、人が生きていく意味について深い共感と自信が湧いてくる一作である。

伝記小説は往々にして時代や社会環境に制限され、その中で苦悩する人間の生活が描かれるが、本書では時代や社会環境を超越した信念や思想、つまり科学の真理探究に一生を賭ける人間が書かれていることで、現代に生きる我々にも深い感動と理解を与えるのである。

星の運行を始めとした天文の奥義に対し、主人公の家業でもある囲碁の世界が採り上げられ、幕府の中で御城碁に甘んじなければならない囲碁の升目の世界と星々の宏大な宇宙をあえて対比させているのも非常に分かり易い。関孝和を始めとした脇役の配置も絶妙であり、人の偉業は独りだけではなく周りの助けを得てという、単純なヒーローものに堕していないのもよい。

ウィキペディアにはない著者の演出と作為が随所にみられるが、それがまた小説の醍醐味でもあり、本書の主題である人生のついての賛歌に繋がっている思う。

’12/03/24-12/03/25


競売ナンバー49の叫び


氾濫するシンボルとエピソードの数々。喧噪と反映の中で急速に繁栄への道を駆け上がってきたアメリカの縮図のような本書は、とにかくにぎやかである。

謎が謎を呼び、何重にも入り組んだ物語迷宮の中で、下手をすれば筋を見失いそうになることもあるが、謎を追うという趣向のため、比較的すらすらと読めるのではないだろうか。

それでも巻末に付された解説がなければスルーしてしまう箇所が多く、何度も読めるし、何度も読まねば全貌を理解できたとはいえない小説の一つかもしれない。

私もこの場で解説や批評できるほど理解できたとは思えないけれども、急速に世界の主軸に登り詰めたアメリカという国家を理解するために、本書を読んでおくことは無駄ではないと思える。

’12/03/17-12/03/22


邂逅の森


常々、人間たかが生物であり自然に対して思い上がることなかれ、との思いを肝に銘じているのだが、ITという仕事柄もさることながら、日々の忙しさにかまけた生活を続けていると、自然への畏敬の念を忘れがちになる。

そんな時は本書を読むとよい。明治から昭和にかけての一人のマタギの生の営みがあますところなく書かれており、山の人外の過酷さと静寂の中の美しさは、自然に対する畏敬を再び呼び覚まされるに違いない。

本書は山形秋田の奥深き山村を舞台に、自然の中で抗い、時には戦い、恵みに生を授けられるマタギの過酷な生活が書かれている。

自然描写の美しさもさることながら、写真を通じてや安全な麓から眺めていたのでは決して体験することのない、容赦ない山の厳しさについての緊迫した筆致の連続は、今の都会の暮らしに対して飽き足らぬ思いを頂き、淡い自然への憧れだけで自然保護を訴えることに対する警鐘ともとれる。

山の自然の荒々しさの中で抗う人としての生きる姿と対比して、里でのヒトの性の営みについても生々しく描かれているが、生物としてのヒトをこれほど思い起こさせることもなかろう。だが、生き物としての人を突き付けられても不快な気持ちにはならず、むしろすがすがしくさえ思えるのは、たかが生き物として蔑むのではなく、むしろ逆であり、本書が日々の暮らしを懸命に生きることへ大いなる賛歌であり、人が素朴に生き、人を愛し、敬虔に山、ひいては自然を体現する神に感謝を捧げることの素晴らしさを歌い上げているからではないかと思う。

明治から昭和に至るまでにマタギの世界に押し寄せる文化的な生活や工業的な実情についても克明に頁が割かれており、徐々に前近代的な自然と一体となったマタギが、文明の波に流されていく様子は、昔の暮らしに比べて失いそして得たものについて考えさせられる。

’12/03/09-12/03/16


小暮写眞館


人生の各情景を切り取って、小説の形に世界を形作るのが小説家の使命だとすれば、仮想世界が徐々に幅を利かせつつある現状について、彼らはペンでどう対峙し、どの視点から情景を切り取っていくのだろうか。

そんな疑問に対する一つの答えが本書である。

小暮写真館という閉店した事務所兼住居に引っ越してきた一家の日常が描かれていくのだが、どこにでもいるような一家であるはずなのに、主人公一家を応援せずにはいられなくなる。主人公だけではなく、出てくる登場人物や彼らが住む街についても、愛着が湧くに違いない。

なぜか。それは現実としっかり向き合い、それを自力で乗り越えていく意思に共感を覚えるからではないだろうか。

書かれている内容は、大事件でもなければ謎めいた出来事で満ち満ちているわけでもない。だが、それら一つ一つが実に丁寧に描かれている。心霊現象の解明や人形劇に興味を持ち、町の様子を老人たちに聞き込みに行き、鉄道に乗っては写真を撮り・・・

心霊現象は仮想世界にはそぐわないものだし、人形劇はデジタルではできない生の演劇。老人たちに聞きこむ街の様子はネットの口コミ情報とは対極をなしているし、鉄道に乗る臨場感はシミュレーターでは味わえない。キーボード越しに悪態をつくのではなく、相手に対面で啖呵を切る。

上に挙げた内容はほんの一例だが、現実世界と真摯に向き合う登場人物たちの姿、そして著者が書きたかった主張がそこかしこにみられる。

だからといって本書がアンチデジタル、アンチインターネットを訴えるような底の浅い作品でないことは、登場人物がSNSやネット検索も駆使する様が活写されていることで明らかで、その辺に対する著者の配慮もきちんとなされているところにも好感が持てる。

全編を通して仮想世界が徐々に幅を利かせつつある現状に対する著者の回答がこめられているのが容易にわかるのだが、実はそれを表現することは至難の業ではないかと思う。改めて著者の凄味を見せつけられた作品となった。

’12/03/03-12/03/09


震度0


警察内部というよりも組織の中で戦わねばならぬ閉じた世界のやるせなさ。仕事場だけでなく家庭にも裏表を持ち込む組織内の争いの陰惨さを描き出そうとした著者の意図がくみ取れる。

震度0というタイトルには様々な意味を込めてのものであろうが、それは、表だって力に訴えることなく、背後では後ろ暗い陰謀を張り巡らせる力の表現であり、物語の背景で同時進行している阪神・淡路大震災の震度7の惨状を尻目に身内で争う様を対比する指標としての震度0であったりする。もちろん、自然の力に対する人間の争いの小ささを表す尺度であったりもする。

実際の被災者である私にとっては、あの現場に立ち会っていない者どもの醜さとして、この対比の手法は効果を上げているように思えるのだが、本筋に関係ない、あくまで著者の意図をより鮮明に浮き彫りにするためだけの地震の取り上げ方については賛否両論があろうと思われる。

’12/3/2-12/3/3


追想五断章


残された遺作短編を元に、作者の素性と、そこに隠された事情を探っていく内容。

と書くと凡庸な内容のように思われるかもしれないが、遺作短編5編の内容に工夫をこらし、読者の予想を裏切る方向へ結末を進めていく筆力は見事である。

遺作短編5編の内容がいずれも陰惨な終わり方を予感させるリドルストーリー仕立てで、この形式自体あまり見ないため楽しめることと、陰惨な結末がどうなったのかの興味が解き明かされないまま5編分、次々と積もっていくため、話に引きずられていく。という仕掛けであるため、最後まで読んでしまうことは請け合いする。

5編の内容から作家の無念と愛情、そして男として親としての矜持をいかに読み解くか、について、結末を知った後に各編を再読したくなるのが本書である。

’12/02/22-’12/02/23


マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉


SFを読まなくなってだいぶ経つのだが、面白い作品に巡り会えず読まなくなったのではない。むしろSFこそは想像力の限りを尽くして世界観を構築する刺激的なジャンルだと思っている。それゆえに読者にもその技術に裏打ちされた世界観を理解することが求められ、私の未熟さでは太刀打ちできずに読まなくなったのが本当のところである。

なので、独自の世界観の上に載る技術や環境を創造し、なおかつその環境に溶け込んだ登場人物の行動や心中を描ききった作品、つまり読みやすい作品に出合えた時の喜びは格別である。

本書は上の条件を兼ね備えた、日本SF史に残る作品だと思う。

また、本書に現れる登場人物には、世界観にあった性格や状況設定だけでなく、その設定の中でもさらに数捻り加えた巧みな人物造形を施しており、世界観だけに頼りがちなSFとは一線を画した複雑な筋運びが楽しめる。

私のようにSFを読まなくなったり、読まず嫌いな人は技術や世界観の説明だけで読む気を失った人が多いと思うが、本書はそのあたりの配慮も行き届いている。筋運びに停滞を感じさせない工夫
がある。

見せ場であるギャンブルの場面などは、SF設定だからこそできる圧巻の描写であり、SFであることの有利さを最大限に活かしている傑作場面ではないかと思う。

’12/02/16-’12/02/22


闇の子供たち


著者の作品は本書が初見。

本書はノンフィクションとフィクションの境をあえて曖昧にした内容で、論議を呼び起こし映画化もされた作品である。

タイ農村部の人身売買の取引と、少女たちが売られ、性の欲望に蹂躙されていく様が、ポルノと見間違えるぐらいのえぐい筆致で描かれており、読んでいて気分が悪くなったほど。エイズに感染した少女が売春宿をたらいまわしにされた後、必死にたどり着いた故郷で村八分にされ、生きながら焼却処分されるなど、酸鼻極まりない描写がこれでもかと眼前に突き付けられる。

中盤からは人身売買を業とする闇組織の暗躍と、それを食い止めようとする現地NPOの奮闘、日本人スタッフや日本から取材に来た記者などの努力を元に内容の展開に没頭できるだけに、衝撃は幾分和らげられるものの、後半では臓器売買の提供者として闇から闇へ取り扱われる少女と、その恩恵を受ける日本人の児童という構図が取り上げられ、子を持つ日本人として否応なしに考えさせられてしまう。

本書の内容があまりにも生々しく、しかも我々平和な国に住む人間に対して刃のような問いを突き付ける内容だけに、ノンフィクションとフィクションという区分けや、内容の真偽も含め、レビューにも否定的な内容が多い。内容から目をそむけたくなる気持ちもわかるが、そういう評価は本来小説の内容とは関係ない次元の話であり、あえて事実か虚構かを曖昧にして発表した著者の術中に嵌っているのではないかと思う。

フィクションであればそこまでの衝撃を与えた著者の文才を賞賛すべきであり、ノンフィクションであれば我々が享受する繁栄の代償としてある未知の犠牲について少なくとも思いを致す機会とすべきであろう。

私自身は事実か虚構かという二分論に与するつもりはなく、本書の内容が事実の断片を元にした虚構ではないかと考えているが、元となった事実の断片だけでも存在すると仮定すれば、子を持つ親、または日本人としての今を真摯に考えなければならないと思った。

’12/02/06-’12/02/07


傾いた世界―自選ドタバタ傑作集〈2〉


ミュージシャンのベスト盤に相当する、筒井氏のベスト集。ベストというに相応しい収録作である。関節話法は読むたびにゲラゲラ笑ってしまう。

難しいことは考えず、ただひたすらに笑いに徹することのできる、稀有な短編集。

ベスト盤が出せる小説家というのもそうそういないのだが、筒井御大についてはさすがというべきか。

’12/2/5-’12/2/5


雨の日には車をみがいて


2月から忙しくなったため、今年の目標の一つとして掲げていた「読んだ本全てのレビューを記す」が早くも頓挫しそうなことに、忸怩たる思いを抱いている。遅きに失した感もあるが久々にレビューをアップしてみる。

本書はFacebookで仕事上お世話になっている方からのお勧めであり、私の乏しい読書体験の中でも著者の作品はエッセイ以外では初体験である。

本書は昭和30年代から40年代を舞台として、青年の成熟していく様を、所有する車の変遷に合わせて書くスタイルを採っている。主人公は章ごとに移り変わる車であるともいえるが、青年を通して著者の視点が切り取った当時の日本の世相であるともいえる。

というのも、青年の仕事上の地位や内容の移り替わりが、一見繁栄を謳歌しつつあるように見えても内に矛盾や葛藤を抱えこんだ当時の我が国に思えたからである。

章ごとに青年が所有する車が何を象徴としているのかは、車に疎い私には分からない。だが、青年の人生に現れては消えてゆく車やヒロインとのドラマは、著者にとって戦後の日本とその中で小説家として身を立てつつある自身を象徴していたのではないだろうかと思う。

章ごとに入れ替わる車やヒロインとの出来事は、華やかな世界の出来事として描かれているように一見思えるが、乾いた筆致で統一されており、たとえば結婚生活のような日常感の描写が一切省かれている。

最近は仏教系の著作が目立つ著者だが、この時すでに、○○景気だ高度経済成長だと浮かれる自国を、無常の境地で醒めた目でリアルタイムに描いたのが本書ではなかったか。

’12/2/4-’12/2/5


チャイナ・レイク


スティーブン・キングをはじめとして、アメリカのエンターテインメント小説の書き手には優れた方が多数いるけれど、読む本全てがハリウッド映画のようなスピード感とスリルに満ち溢れた一品かというとそうでもなくがっかりさせられることもある。ところが、本書はがっかりどころか、一気に物語の結末にたどり着かせる、いわゆる寝不足本の類である。

カルト教団に対決するヒロインというとありきたりのプロットが想像されるかもしれないけれど、二重三重にも伏線が貼ってあり人物造形も豊かなので、著者に振り回されるままに物語世界に嵌っている間に、ラストまで引っ張られるという読後感である。

本書のヒロインがSF作家という設定なのだけれど、SF作家の機械的なイメージが、本書の大半で舞台となる荒涼とした砂漠のイメージとの落差を生み、読後も作品世界に妙な後味を覚える。シリーズの続きがあるとのことだが、また読んでみたいと思える作品。

’12/1/31-’12/2/3


そうか、もう君はいないのか


巻末の児玉清さんの解説にすべてが書かれている。本文でも静かな共感と感動が、そして読み終えた終わった後には児玉さんの文章にまた心を動かされる本である。

著者が亡くなった後に、依頼を受けて書いていたという奥様とのなれそめや思い出を綴った原稿を、残された遺族の方がまとめたという本書は、原稿に対する気負いも重圧もなく、ただひたすらに著者の愛妻家ぶりと自分の一生への肯定的な気持ちが伝わり、すがすがしい気持ちになる。

私の少ない読書体験の中では、著者の自伝にはまだ巡り会っていないけれど、愛妻との出会い、そして名古屋への通勤から茅ヶ崎への転居、小説家としてのデビューが淡々とした筆致で語られており、本書こそが著者の自伝といっても過言ではないだろう。

巻末には原稿を編纂した遺族の娘さんによる文章も載っており、著者の主観的な文章と、娘さんの客観的な視点から、氏の愛妻家や人柄が伝わってくる。

職住近接のススメとして、本書を取り上げてもいいかもしれない。

なお、この本の解説を児玉さんが書かれたのは、なくなる一年前である。あくまで想像だけれど、お亡くなりになる前に、改めて本書の想いを味わいつつ、旅立たれたのではないだろか。

’12/1/30-’12/1/31


運を天に任すなんて―人間・中山素平


自分が政治の世界に身を置いてみたところで、彼らを凌ぐような実績を残せる域にはまだ達していないと思うだけに、今の政治家の体たらくについてはあまり批判したくはないけれど、戦後の日本の高度成長を支えてくれた先達と比較して、これはという巨星が少ないような気がする。

日本の戦後復興にあたり、財界が果たした役割についての異論はないと思うけれど、財界に錚々たる人物が揃っていたことが、どれほど日本に発展をもたらしたか。

今までに様々な方を取り上げた評伝を幾冊も読んできたけれど、彼ら成功者と言われる方々に通ずるのは、運や能力よりも、意思の力が強い事ではないかと思う。特に会社勤めの頃よりも独立した今、そのことを感じるようになってきた。もとより自己啓発本の類はあまり手に取らない私だけれど、おそらく同じようなことが書かれているのではないかと思う。

本書のタイトルは、組織の中で理不尽とも思われる流れに逆らうことなく生きぬき、財界の重鎮となった中山素平氏に対して著者が言った言葉に対し、中山氏が返した強い反発の言をもとにしている。

中山氏の一生を概観すると、大勢の流れに抗せず、あるがままに生きたように見えるエピソードがあるため世間ではそのように評する向きもあったようだが、中山氏の中では、大したことでない場合には我を見せず、ここぞというところで意思を通したことに誇りを持たれているのだと思う。

実際、本書の中では中山氏の物事に拘泥しない普段のエピソードとともに、強固な意思の強さを表すエピソードも描かれている。その両のエピソードの結果として氏の社会的な実績が築きあげられたように受け取れた。

平素に柔軟な氏の人柄があったからこそ、肝心な時に意思を通せたのだということがよくわかる。どちらかが欠けても駄目なのであり、そのバランス感覚と、いざというときの抑揚、つまりメリハリの重要性が人生の荒波を乗り切るに有効であることを教えられる。

今年の一年をメリハリ、に置く私にとっても非常に参考になる生き方である。

’12/1/28-’12/1/30


鹿男あをによし


デビュー二作目にして、この世界観の飛躍もさることながら、この筆力の充実ぶりといったら。

発想も大枠自体はそれほど突飛でもないのだけれど、細かい部分での描写や動きが自由な発想で楽しめる。それは終盤で明かされるとあるアイテムの正体や、それぞれの登場人物の役割などに代表される発想の飛躍に代表される。拡げた大風呂敷の空間を精いっぱい使い切っているだけに、設定に無理があると思わせないところがすばらしい。

そして著者が、設定のユニークさだけの作家でないことを見せてくれたのが、本書の剣道のシーン。胸が熱くなる。ここまで臨場感あふれる剣道の試合風景を描いた小説はまだ読んだことがない。飛び散る汗や竹刀の音、刻々と押し寄せる疲労の波。それらを操ってここまで熱く読ませるシーンが描けるからこそ、壮大な世界観と細かなディテールが相乗効果を生み、流れるように奔放に、破綻を全く感じさせることなく作品世界を完結させられるのだということを、思い知らされた。

それにしても鴨川ホルモーといい、本書といい、プリンセス・トヨトミといい、私の読んだ三冊は、どれも地理的な感覚が豊かな人にしか書けない設定になっている。おそらく著者は地図を眺めるのが好きな方ではないかと思う。 

’12/1/26-’12/1/26


孤闘―立花宗茂


柳川のお堀めぐりを堪能したのは、今から17年前。大学の面々数人で廻った柳川の街並みは今も覚えており、再訪したい場所の一つ。

のんびりとした舟旅の中、行く先々の景色も良かったが、お堀めぐりの終盤に現れる、御花の広大な様子も印象深いものがある。ところが同行者に歴史好きが揃っていて、私自身もそうだったにも関わらず、時間の都合もあって御花には立ち入らずじまいだった。

立花家で最も著名な宗茂公の事は当時から知っていたものの、私がその後で訪れた各地の史跡には宗茂公に関するものがなく、宗茂公が関ヶ原合戦の本戦に参戦しなかったこともあり、事績や故事、さらには書物にも触れぬまま、御花に感銘を受けてから永い年月が過ぎてしまっている。

ところがその名は忘れるどころか、ゲーム内での勇猛さ、関ヶ原後の改易にも関わらず復活を遂げた大名として、私の中でより深く知りたい人物の一人としてますます存在は大きくなるばかり。

そんなところに本書を手に取る機会があり、面白く読ませてもらった。高橋家から立花家へ養子に行ってからの苦労に話の重点が置かれており、有名なイガのとげを踏み抜いた際のエピソードなど、入門書としては最適ではないかと思う。養子ゆえの正室との確執や改易後の仲直りなど、誾千代との感情の行き違いの歴史も一つの主要テーマになっているため、単なる武勇伝の要約に堕していないところも評価できる。

ただ、難点としては、話がするすると進み過ぎるように思う。タメの部分が少なく、一気に読めてしまうことと、浪人時の苦難の生活にも宗茂公の人物史の豊かさが含まれているように思えるので、この部分をもう少し読みたかったように感じた。

’12/1/24-’12/1/25


ポトスライムの舟


芥川賞の受賞作には、ちょっと目を引くような小道具がアクセントに使われることが多いように思う。本書においてはそれがポトスライムなのだろうけど、あくまでその立場は物語の背景を彩るアクセサリー的な感じ。物語の時間軸の流れを分かり易くしめすためだけにポトスライムが使われているところに注目したい。

突飛な奇矯な目を引くような設定もなく、いたって常識的な日常の描写だけでここまで読ませるというのも、著者の筆力によるものなんだろうけど、ポトスライムを食べたり、世界一周のポスターや、奈良の仏像など、物語世界の外を破るようなイメージの描写が合間合間に挟まれていることで、単調に描いている日々の流れにうまく起伏を挟み込んでいるからではないだろうか。

賞の選評で宮本輝氏が、清潔な文章と書かれていたけれど、賞狙いのような突飛な言動や設定に頼らず、ポトスライムをも物語のスパイスではなく、静物として置ききった著者の我慢の勝利といったところか。

本書には受賞作以外にも一編「十二月の窓辺」が収められており、その生生しさは、著者の経験がかなり色濃く私小説的なまでに込められているのではないかと思うほど。私もなんか他人事ではない気がした。逆にそれゆえに私には窮屈な作品に思えてしまったけれど、今の世間での企業内人間関係を切り取るという意味では小説として役割を全うしていると思う。

’12/1/21-’12/1/21


となり町戦争


著者については知識がなく、この本も題名に惹かれ手に取った。筒井康隆氏の小編に「三丁目が戦争です」というのがあって、その世界観を想像したため。

ところが本書は雰囲気や世界観はもう少しシリアスな感じを持っている。行政の一環として町単位での戦争事業が行われていて、一般市民はその戦争の実態をほとんど知らぬままに日常を送るような世界が舞台。舞台といってもSF的な設定ではなく、どこにでもあるような日本の地方都市を中心であり、行政組織や日常の出来事にも現実から乖離したような描写は見受けられない。

そんな中、裁判員制度のような形で無作為に戦争業務に任命された主人公が戦争に参加しているという実感もないままに巻き込まれていくという話が展開されていく。

行政の無機質性を強調するとともに、本書の筆致も冷静なトーンで統一され、それが戦争に関わる主人公の戸惑いを増幅させている。戦争って熱いはずなのに、なぜこんなに他人事なの、という主人公の思いが随所に出てくるのだが、実はこれは私も含めた戦争を知らない世代が心の奥にぼんやりと感じ取っているもどかしさではなかろうか、と思う。

個人から見た、自分に関係のない大衆との関係性の捉え方。私も含めた殆どの人はあえてその問題を考えずにスルーし、マスメディアからの報道によって大衆の問題に関わったような気持ちになって済ませているのが大方のところだと思う。

本書はその捉え方をあいまいなままで終わらせずに追求したいという著者の努力の跡が見える。

’11/12/22-’11/12/26


幻夜


後味が強烈に悪い。こんなことが許されるのだろうか、と思えるほど。

そしてその思いを後から振り返るにつれ、まんまと著者の術中に嵌ったことを悟る。後味が悪ければ悪いほど作中人物への感情移入の度合いが強いことを意味し、おそらくはそれを狙って書いた著者のほくそ笑む顔が浮かぶようだ。

私もまんまと思惑に乗せられてしまった口だけど、私の場合は個人的な経験も相まって、余計に思いが強かったのかもしれない。本書は阪神・淡路大地震の描写から始まる。揺れる神戸の街の様子が写実的に描き出されていく。阪神・淡路の被災者である私の記憶を呼び起こすには充分すぎるほどに。

私の記憶を呼び覚ました上に、本書を読んだのが2011年も暮れようとしている時期で、東日本大震災の映像が繰り返される中、本書冒頭の描写が私個人の思い出にフラッシュバックしたことも理由の一つだろう。後味が強烈に悪いのも、神戸のがれきの中で巡り会った二人の若者のその後の運命に感情が入ってしまったまま、結末を知ってしまったための感情なのかもしれない。

本書は映画化もされた「白夜行」の姉妹編ともいえる本で、「白夜行」にでてくるヒロインのミステリアスな部分よりも、こちらで出てくるヒロインのほうがより冷静かつ酷薄に書かれている。「白夜行」のヒロインは実家で潜んでいた頃の描写があるだけ、まだ薄倖の少女時代に同情できる感情がわずかに残るが、本書では神戸の街以降の描写が中心で、同情が芽生える余地もない。

私の個人的な思い出はともかくとしても、本書では「白夜行」のヒロインと違った書き方を意識的にし、ああいった結末に持って行ったことは間違いない思う。本当に読者の感情を揺さぶるのがうまい作家だと思う、東野氏は。

’11/12/18-’11/12/20


リーシーの物語 下


上巻のレビューに書いたけれど、じっくり読むという目標が、もろくもくずれ、下巻は3日で読み終えてしまっている。

これは退屈になって斜め読みになったのではなく、物語の面白さに追われてしまったため。

上巻のレビューに書いたように、大枠の展開は今までの作品と似たような感じなんだけど、それは読んだ後だから言えることであって、著者のストーリーテリングの手妻に翻弄されてしまった下巻の読書体験であったといえる。

加えて下巻になってからは展開も時制と語り手と場所が縦横無尽に入れ替わりたち替わり現れるため、じっくりと考えながら読み進めると却って混乱することになると思う。そう思えるほど大量に敷き詰められた布石がつぎつぎとひっくり返っては眼前に現れていくような下巻の展開だから。

本書は再読をし、何度も味わったほうがよい類の小説ではないかと思うし、再読を促すことこそがまさに著者の狙いなのではないかと勘ぐってしまう程だ。

物語の喜びを味わわせることのできることが作家の喜びであるとすれば本書は成功していると思う。何せ、本書は死んだ作家が生前に残した意思が、死後に大活躍する話だからだ。著者が死して後も、物語を読む喜びを読者に与え続けられるとすれば、それこそ作家冥利に尽きること間違いないだろう。

著者の作家としての意思が込められた小説として、後世に残る作品ではないかと思う。

’11/12/14-’11/12/17


リーシーの物語 上


著者の本も大分読んできているけれど、最近はちょっと展開がマンネリ化の方向にあるなぁ・・・と思うことが多い。

正直言ってこの本も展開としては今までの名作たちと同じような部分もあるにはあるのだけれど、著者の凄いところはその描写のディテールにあり、大枠の展開は同じであったとしても、場面場面に今まで見たことのない新しい驚きと謎を提示していくことで、読者をぐいぐいと物語の渦にひっぱっていくところにあると思う。

本書もまた、伏線を多数敷きまくるところで上巻を費やしているのだけれど、その伏線の敷き方が巧みで、人物造形や出来事の描き方がすぐれているため、後から思い返すと大筋の展開が似たものであったとしても、読んでいる間はそのことを全く感じさせない内容となっている。

効果的な小道具の使い方やキーワードの見せ方など、本当に読んでいて万華鏡のようにつぎつぎとワンダーストーリーが繰り広げられることに感嘆を禁じ得ない。

本書を読むにあたっては、筋を追っかけてしまうと著者の本の豊かさに触れられないということが分かっていたので、今回はこのあたりの細かい描写をじっくり味わうため、あえてゆっくりと時間をかけて読んでみた。

’11/12/07-’11/12/13


鷺と雪


著者の本はそれほど読みこなしておらず、円紫さんシリーズを少し読んだ程度。だが、日常の些細な謎をミステリに仕立てあげる手腕にはかねてから敬服しており、直木賞受賞作である本書も数ある著者の本の一つという程度の認識で手に取った。

様々な日常の事件をベッキーさんが解いていく小編が集まったオムニバス形式の本書でも、小編のそれぞれを構成する謎は、さして大がかりなものでもなければ誰かの人生に重大な影響を与えるものでもないのだが、それを小編として構成しつつ、なにがしかの余韻を残させるあたりはさすがといったところ。

それぞれの小編で謎として提示されるエピソード、実は昭和史で類似のエピソードが実際にあり、事実と虚構の境界をあえてぼかすような書き方になっている。それらエピソード以外の、本筋とは外れたようにみえる部分に昭和初期の世相を感じさせる出来事を挟み込んでいくのだが、その挟み方が絶妙で、それら謎や出来事の集合として、小編を跨いだ本書全体として、昭和史の一大事件の勃発に向けた一触即発の雰囲気を作り上げていくところに読み応えを感じた。

太平楽な時代に生きる我々が、昭和初期の世間に漂う何かの予兆を感じ取ることは不可能に近いと思うけれど、この本では小説という形式故にその予兆の一片を拾い上げることに可能な限り努力したと思える。

’11/12/06-’11/12/07


骨の記憶


著者の名前はミステリ関係のランキング本や新古書店などで目にしていたけれど、手に取るのは初めて。

浅い見方をすればプロットは集団就職での裸一貫での状況からバブルに踊るまでの日本昭和史を背景に絡めたサクセスストーリーで、有りがちといえば有りがちな内容である。が、それだけで切って捨ててしまうには惜しいほどのディテールが込められている。特に前半部、主人公が東北で貧富の差をかみしめつつ、とある出来事にまきこまれるまでの展開において、実に骨太で気合の入った描写が続く。東北弁が縦横に駆使されていて、ほとんど意味がつかめないほどである。私は東北出身者ではないので東北弁が妥当な使われ方をしているのかどうかわからないが、上京後の主人公の運命の変遷によって主人公の言葉が徐々に標準語に置き変わっていく様など、丁寧な描写がなされていることに好感が持てた。

凡百の成功譚や、見せかけの成功を戒める教訓譚からこの本が一線を画しているのも、この丁寧な描写に尽きると思う。

主人公が運をつかみ始めるところから話の展開が速くなるのは、よくある偉人伝と同様な流れであり、成功者の孤独やむなしさ、それを覆う上流社会の暗さの描写もきっちりと押さえた筋の展開は安心して読み進められる。だからといって単調な筋展開に陥らないのは、冒頭に仕掛けられた伏線がかなり印象に残るものであるからであり、どのように主人公が自らの人生の落とし前をつけるか、についての興味は持続し、ページを繰る手は休まらない。

戦後日本が国際経済で覇を唱えるまでの道行と、主人公のそれを重ねて読むことで、戦後日本の光と闇を、集団就職という視点から追体験することも可能な小説である。

’11/12/03-’11/12/05


チボの狂宴


ノーベル賞を受賞してからというもの、翻訳される機会がふえたのだろうか、この本も翻訳されありがたい限りだ。ドミニカ共和国の独裁者として一時代を築いたトルヒーリョを描いたこの作品、以前、ガルシア=マルケスが『迷宮の将軍』でも取り上げたのだけれど、その小説ではマルケス流のマジックリアリズムに満ち溢れた描写がされていて、その主人公や登場人物の内面描写がぼやけてしまったように記憶している。

ところが本書ではトルヒーリョ本人や周りの人物描写に前半部のかなりの枚数を費やしていて、実に丁寧。トルヒーリョ本人の視点、暗殺犯の視点、そして閣僚の娘の数十年後の視点、トルヒーリョ暗殺後に大統領になったバラゲールの視点。この4つの視点を時制を変えて堅実に描いていく前半部の展開では読者の理解を促すためか、筆者お得意の時制や視点の故意の混在が控えめで分かり易く読み進むことができた。

中盤以降、徐々に時制や視点が交錯し始めるのだけれど、最後まで一定の節度を保ったまま、巧みに独裁者の孤独、暗殺者の憤り、追随者への嘲り、後継者ゆえの冷静を通してドミニカに一時代を築いた人物と独裁という政治制度それ自体を小説化していく手腕は見事というほかない。

もちろん、単に事実そのものを時間や視点を変えて追っていくだけでは読者の興も削がれるところだが、そこはきちんと配慮が行き届いており、冒頭からとある人物の身に起こった出来事が何なのか、という謎を提示することで、ぐいぐいと読者を最後のページまで誘ってゆく。

ずっと生き続けて小説を読ませて欲しいという作家は多数いるけれど、この方もその一人。『迷宮の将軍』も読んでから10数年はたっており、当時の私の読み方が浅かったと思えるので、再読してみたいと思う。

’11/11/26-’11/12/02


希望の国のエクソダス


10年ほど前は著者の本をよく読んでいた。ところがなぜかぱったりと読まなくなってしまった。現代風俗に著作の方向が変わったように思えたからか。それとも経済的な方向に関心が向き始めたのを嫌ったからか。5年ほど前に「半島を出でよ」を読んで、面白かった気がするのだが、どうもこの数年もなかなか手に取る機会がないままに過ぎてしまった。

この本を読み終え、私がすごい小説を読み逃していたことを知り、忸怩たる思いだ。経済の方面へ関心を深める氏の方向性が間違っていなかったことを思い知らさせれるとともに、まだサラリーマンに甘んじていた10年前の私の未熟さをも突きつけられた感じ。

先日、ガラパゴス化する日本を読んだ。その中では閉塞化した日本の未来図が描かれていたけれど、2001年に出版されたこの本では、その状況をかなりの確度で小説として再現してくれている。

ぬるま湯の日本を出てゲリラに身を投じる中学生の出現をきっかけに、日本の中学生たちが日本という国に牙をむき、日本という国そのものの存在意義にすら刃を向ける。そんな内容なのだが、経済に関心のある氏にしか書けないようなディテールの連続は、ちょっとした可能性のずれや時間軸の揺れによって、今の現実の日本が陥っていたかもしれない状況をつぶさに描いていて、他人事でない思いだ。とくに物語の舞台が私の自宅から程遠くない場所で設定されているだけになおさら。

物語終盤では中学生たちが日本国内の某所に実質上の自治領を作り上げてしまうのだけれど、そこで描かれる施策がはたして今の日本人に出来うるのか。私も含めて日本人がどのような国家を作り上げていきたいのかを、既に10年前に世に問うていた作家がいたことを、どれだけの人がしっているか。今改めて読み直されてもいい本だと思う。

’11/11/25-’11/11/25


ブランコのむこうで


著者の本を手に取るのは久しぶり。長編は初めてかな。スウィフトのガリバー旅行記を思い起こさせる内容。あちらは架空の国々を訪問していく中でそれらの国々の人々を通して人間を風刺していたけれど、こちらの本は夢の国を次々と訪れていく。

現実の主人が寝ている間には夢の国を、起きている間は現実の国を、交互に訪れるという設定が秀逸。現実が苦しければ苦しいほど夢の世界に逃避し、しかも現実のうっぷんを晴らすようなゆがんだ世界を形作る人間の心の弱さを風刺している。

実際の著者も猜疑心や自尊心に自ら苦しんでいたとは評伝にも紹介されていることだけど、自身の弱さをわかっていたがゆえに、こういう形で自らをも風刺していたんだろうか、と思わされた。

ことすれば余分な装飾を省いたショートショートだけが注目されがちな著者だけれど、きちんと自らの内面と向き合ったこういうすぐれた作品も残していたことも世間にもっと知ってもらいたいと思った。

’11/11/18-’11/11/19


ユージニア


夜のピクニックを読んでから、著者の本を読むようになったのだが、この本も評価が高いと聞き読んでみた。

最後まで明かされないけれど誰にも読めばすぐにわかる北陸の都市で起こった毒物大量殺人事件に対する関係者のインタビュー形式で話が進んでいく。帝銀事件を彷彿とさせると作中では述べられているけれど、名張毒ぶどう酒事件のほうがイメージに近いような感じ。

インタビューの描写の語り口や内容から、少しずつ確信に迫っていく感じが絶妙。

犯人が早いうちから示されているにも関わらず、最後のほうで作者の筆に幻惑され、非常に不可解な終わり方をするため、思わず最初から読み直したくなる。

’11/11/14-’11/11/16


アヒルと鴨のコインロッカー


この本も著者の本で読めていなかった本の一つ。

読み終えた直後にブータン国王夫妻来日のニュースを耳にし、ブータンの風土や国民性に色々の描写があっただけに興味深かった。

過去の様々な出来事とその2年後の現在とが交互に登場し、現在の謎の出来事が2年前の出来事のどういう結果から生じるのか?ということで否応なしに話に引き込んでいくところはさすがというか。

単純に殺害や事件の謎というよりも、奇妙な行動を提示し、そこから出来事の理由に迫っていく作風は、初期の著者の特徴だったのだな、と改めて思った。

謎がさらりと明かされつつ、その謎が解明されると小説の盛り上がりも余韻以外残らない、といった推理小説とは違った魅力を再確認した。

’11/11/13-’11/11/14


横道世之介


大学生活を描いた小説にはとにかくよわい。

この本を読んでいて自分の大学生活のことを色々と思い出してしまった・・・

この本が面白いのは単に大学生活だけをえがくだけでなく、挿話として登場人物たちの十数年後の日常も描かれていること。

そのことによって、すごく話の奥行きが深くなっていると思う。

そういえば私も大学を卒業して十数年たっているけど、作中の登場人物が在学時と想像もしなかった将来の姿で描かれているのと同じように、私も今の自分がこのような今を歩んでいるとはまったく想像できていなかった。そのことがまた、余計にこの本に対して愛着を持つ理由でもある。

後を振り返ることに否定的な考えを持つ人もいるけれど、そんなことはなく、楽しかった時期を単純になつかしもうよ。

と私は強く思った。私にとっては著者の代表作と目される「パレード」「悪人」よりも印象が強かった。また読みたいなあ・・・・

’11/11/11-’11/11/12