Articles tagged with: 宝塚

武庫川紀行―流域の近・現代模様


1999年の3月末に上京してから、そろそろ20年になる。それ以来、長女が産まれた時を除けば年末年始は必ず実家に帰省している。私の実家は西宮市にあり、帰省の度に必ず渡るのが武庫川だ。

私の実家は武庫川から歩いて数分の場所にある。だから武庫川は私にとって川の代名詞だ。石投げに興じ、たこ揚げで走り回り、釣りで水面を見つめた。ナマズを捕まえ、河原で焼いて食べたこともある。鯉を持ち帰って親に焼いてもらったことも。ランニングで顔をほてらせ、サイクリングで風を感じた。野球やサッカーにも興じた。小学校一年生の夏には川の土手の木に止まるセミを取りに行こうとして車にはねられ、十日ほど入院したことも忘れられない。私の前半生を語る上で武庫川は切っても切れない。長じてから帰省する度にmp、娘たちを連れて河原で花火をし、ヌートリアを追っかけ、たこ揚げをした。

武庫川を見るたびに実家に帰って来た実感が湧く。武庫大橋から見た北摂や六甲の山々。旧甲子園ホテルの屋根。ここは私のふるさとだ。おそらく死ぬまでずっと、私は武庫川に帰ってきては自分を培って来た風土を確認し続けることだろう。

ところが、私はきちんと武庫川を歩いたことがない。私が歩いた事があるのは、武田尾から生瀬までの武庫川渓谷と、宝塚大劇場周辺。あとは、宝塚から河口まで。上流についてはほとんど知らない。高校時代の同級生は夏休みに数人で武庫川の源流まで自転車で往復したそうだ。だが、私はとうとうそうした冒険をしそびれたまま上京してしまった。

本書は私にとってし残した忘れた武庫川探訪の替わりとなる一冊だ。

本書で著者がたどるのは、源流から河口までだ。流域をたどりながら、その付近の名所や歴史に触れつつ、川を下ってゆく。武庫川の流域といっても広く、さまざまな人々が歴史を作り上げる舞台にもなって来た。そのため、著者の筆はあちこちの寄り道をさまよう。だから、本書の構成は少しとりとめがない。

序章には「阪神間の母なる川」とタイトルが付き、流域のイメージが語られる。サイクリング道路を描いて人々の憩いの場であることを紹介したかと思えば、土手に並び立つ松の樹が減りつつあることを憂い、国道43号線以南の釣り人の様子と、そこに作られた堰堤の効果に疑問を投げる。武庫の地名と歴史に触れつつ、治水に苦心してきたいきさつを語る。著者が序章で武庫川の全容を描きたい意図は分かる。が、問題提起なのか、流域の描写なのか、今ひとつ分かりにくい。

第1章は「源流を探る」と題されている。実は武庫川の源流はとても分かりにくい。それは田松川の存在による。一応、河川法上で定められた武庫川の源流は、真南条川と天神川の合流点となっているようだ。だが、真南条川から分かれて北に伸びる田松川が、源流の存在を曖昧にしている。田松川はもともとは運河として開かれた川だ。途中に設けられた水門を境に、一方は武庫川へ、もう一方は加古川へと分水界を成している。さらにややこしいのが、少し北に違う分水界があることだ。そこでは加古川と由良川が分かたれ、それぞれ瀬戸内海と日本海を目指す。日本で最も低い分水界としてかつて訪れたこともある。その近くに武庫川と加古川を分かつ運河が設けられている事が、武庫川の源流の在りかを分かりにくくしている。

著者は役所や地元の人々に教えを請いながら源流を巡って歩き回る。こうした足を費やした調査が本書の魅力だ。著者は田松川からさらに篠山川へとさかのぼってゆく。かつて国鉄篠山線が走っていた廃線跡を訪れ、篠山市街からさらに東の京都府境の方まで足を伸ばす。一方では真南条川の源流である愛宕山へ登り、もう一つの天神川の源流である松尾山へも登る。私も一度、訪れてみたいと思う。

第2章は「丹波から摂津へー国境を下る」と名付けられ、武庫川の流れをたどりながら、風土が描き出される。武庫川は丹波篠山から宝塚までの区間の多くをJR宝塚線(福知山線)に沿っている。著者は駅をたどりながら、あたりの歴史や風物を語る。福知山線や国鉄篠山線の歴史をおさらいし、古市駅の成り立ちも語る。篠山の街が鉄道を誘致することに及び腰だったため、篠山を避けて線路が敷設されたが、古市は街の有力者である小林氏が無償で土地を提供したのが大きかった。戦時中は小林家に当時大阪鉄道局長だった佐藤栄作氏が疎開しており、佐藤栄作氏が揮毫した額が残されているなど、貴重なエピソードと写真が紹介される。古市はまた、赤穂浪士の一人、不破数右衛門のゆかりの地でもあり、江戸時代の道しるべも残されているとか。古市は古くからの市が栄えたが、今は寂れていることなども著者は記す。

武庫川はその流れの中で丹波と摂津の国境をまたぐ。旧道でいうと日出坂峠だ。旧道の今を紹介し、丹波杜氏がこの峠を往来していた在りし日に思いを馳せる。酒文化を語る上で、武庫川は避けては通れない。杜氏通った道というほかにも、この地には酒にまつわる酒滴神社が鎮座している。かつて伊丹の酒造家が偶然見つけた酒造に適した水がこの地の水だという。後日、酒滴神社の水と同じような水を求めて見つかったのが灘五郷の酒に欠かせない宮水だったとの伝承もあるとかまだこの神社には未参拝なので、ぜひ訪れてみたい。この付近で武庫川を見守って来たのが虚空蔵山。著者はそこにも登ったようだ。さらに著者は近くにある日本六名窯の一つ、立杭焼も紹介する。あと、大きく蛇行した武庫川が福知山線から離れた地に鎮座する駒宇佐八幡神社の由来にも触れる。この辺りは国道176号を通りすぎるだけでほとんど知らない。来てみなければ。

第3章「三田から有馬へ」は沿川の永沢寺の花しょうぶ園や、母子大池、有馬富士、福島大池などの紹介から始まる。江戸時代には九鬼氏の城下町でもあった三田。本書には三田の名の由来も書かれている。三田はまた、白洲次郎氏の先祖の地としても私にはなじみがある。なお、白洲次郎氏は本書には全く登場しない。そのかわりに10年ほど前、9年連続で人口増加率日本一だった三田がニュータウンとして発展する歴史や、急激な人口増加に対応するための用水の苦労などが紹介される。青野ダムはその一つだ。ところが青野ダムの貯水量の大半は、神戸の北神ニュータウンに回されてしまっているそう。今の水利権の詳細はわからないが、水道局がやりくりしているのだろう。とはいえ、川沿いの住民としてもっと意識しておかなくては。

有馬温泉の真ん中を流れる有馬川も武庫川の支流だ。有馬温泉から北に向かって流れており、南に向かう武庫川に慣れた身としては、土地勘から武庫川の支流ではないと勘違いしてしまう。まさに著者の指摘する通りだ。子どものころは道場から岡場や田尾寺など家族でよく訪れたので、この付近の景色は農村風景として私の脳裏に刻まれている。かつてはここに国鉄有馬線が走っていたとか。著者の探訪の足はその廃線跡にも向く。有馬線は戦時中に閑線として廃止されたという。だが、有馬温泉は今も賑わっている。私も温泉で、仕事で訪れた。だが、林立する旅館が有馬温泉に課題をもたらしているのも事実。街全体を博物館のようにしたいという神戸市の方の談話が載っているが、うまくやってほしいものだ。

この章ではほかに、千刈ダム、鎌倉峡、百丈岩、金仙寺湖、丸山などが紹介される。どこも西宮市民にとっては憩いの地。私自身、実家の墓がこの辺りにあるので、一度きちんと巡っておきたいと考えている。

第4章は「武田尾温泉から武庫川渓谷へ」。ここもまた、武庫川を語るには絶対欠かせない。武田尾温泉には何度か訪れ、温泉に入りに行く企画も立てたことがあるが、まだ一度も湯につかった事がない。今も風情が残り、いい場所だと思っている。近くの亦楽山荘は、西宮市民と宝塚市民だけでなく、桜の愛好家には名の知れた地だ。ここは水上勉氏の小説『櫻守』のモデルにもなった笹部新太郎氏の桜の演習林だったという。私はまだ訪れられていない。近いうちに訪問しなければ。

生瀬から武田尾までの区間、かつては国鉄福知山線が渓谷沿いにくねくね走っていた。今、軌道跡はあるハイキングコースになっている。私も二度走破した。手軽な冒険気分が味わえるのでオススメしたい。だが二度目に訪れた時、水面に生活排水の汚れを思わせる泡が無数に浮かんでおり、はなはだがっかりした。今から七、八年ほど前のことだ。渓谷美を堪能しようにも泡が気になり、ついて来た妻に武庫川の良さを誇ろうにも誇れなかったのが悲しい。

しかもこの地はあわやダムになってしまう所だった。その計画が持ち上がったのは1995年9月。ちょうど私が初めてハイキングコースを走破した頃だ。その計画に対する地元の反対運動が起こり、粘り強い運動の末、ダムの着工については20年間ほど凍結になったという。その中で練り上げられた自治体による提言は、全国にもまれに見る先進的な治水の観点を含んでいるという。私ももちろんダムには反対だ。飲料水の確保が喫緊の状態ならまだしも、治水だけであれば風景を犠牲とするには見合わない。万が一武庫川が決壊したら、多分、私の実家も浸水するだろう。けど、それを見越してもやはり反対だ。

本章ではほかに流域の名塩や蓬莱峡も紹介される。どちらも西宮市の小学生が地域学習として必ず学ぶ地だ。蓬莱峡など、家族で何回も訪れた。本書に登場するのも当然だろう。

第5章「宝塚から西宮・尼崎界隈」で取り上げられるのは、私にとっておなじみの場所だ。生瀬から宝塚温泉、大劇場、ファミリーランドにかけては、阪急文化の原点である。阪神間モダニズムの一角を担っているエリアのはず。ところが今はだいぶ様変わりを遂げている。ファミリーランドは閉園し、跡地利用もうまく進んでいない。少なくとも私にとって宝塚の再開発はうまくいっているとは思えない。ひょっとしたら阪急グループは都心に進出することで頭がいっぱいで、宝塚の土地の価値を忘れたとさえ思う。そんなファミリーランドの跡地利用のもたつきに乗じて、宝塚大劇場の武庫川を挟んだ対岸にラブホテルが煌々とけばけばしい見た目で対抗し、あたりの風情をかなり貶めている。宝塚大劇場は宝塚歌劇の中では東京の有楽町に並び立つ存在であり続けてはいる。が、ヅカファンの妻の情報では明らかに有楽町のほうが優遇されているとか。確かに宝塚は大阪から見て奥まった場所にある。これ以上の集客も発展も見込めないだろう。だからこそ、自社の文化の発信地として阪急グループには今後も宝塚を重視してほしいと願ってやまない。

さて、川はさらに流れてゆく。続いては小浜宿が紹介される。そして逆瀬川、仁川といった支流も。この二つの支流は独特の堰堤がよく目立つ。なぜなら上流から大量の土砂が流れて来るからだ。この川の堰堤は見ただけで印象付けられる。あまり他の川で見ない光景だからだ。仁川を紹介する際、著者は上流の地すべり資料館のことも忘れずに紹介する。兵庫県南部地震の時、ここで大規模な地滑りがおき、何十人もの命が失われた。それはつまり、逆瀬川と仁川の上流にある六甲山が花崗岩地質であるため土が風化しやすいことを意味する。要するにもろいのだ。以前訪れた蓬莱峡も同じく六甲山地に属しているが、とても足元がもろかったことを思い出す。

さらに著者は江戸時代の武庫川には橋がなく、替わりに渡しが五つ設けられていたことも紹介する。静岡の大井川に江戸時代を通して橋が架けられなかった理由を、江戸防衛のため徳川幕府が架橋を禁じたというのは有名だ。だが著者はそもそも当時の土木技術では常設の橋が架けられなかったのでは、との考えを披露する。つまり、武庫川もそれだけ暴れ川だったのだろう。一方で武庫川は豊かな水を流域に与えて来た。天井川の仁川の川底を掘り抜き南に流した百間樋も社会の授業で習った。上流にも武庫川の水は用水に利用されている。沿川の住民たちを潤してきた。少し場所は離れるが宮水にも西宮の街は恩恵を受けてきた。宮水は先にも書いたが灘五郷の酒の核だ。その酒が船で江戸に下る際、目印となった今津灯台も本書にはでてくる。

本稿の冒頭に書いた通り、このあたりの武庫川の姿、そして流域の文化は私にとってとてもなじみ深い。そうした目で読むと、本書には物足りなさも目につく。例えば本書では武庫大橋は触れていない。また、このあたりの武庫川に欠かせないサイクリングや松の並木は、序章で写真や文章で触れたためか書かれない。本書の構成に難があると私が思ったのはこうした欠点によるものだ。

阪神武庫川線ののどかな様子や、河口の付近にある釣り渡船も、武庫川の下流の光景ではセットになる。「一文字」といえば私も何度か行った釣りの堤防だ。船でなければ渡れず、魚が大量に釣れる。この辺りには釣りセンターがいくつかある。私もよく訪れた。ここの尼崎川の対岸もかつては西宮だったが、阪神競馬場に近い田近野町と替地で尼崎市になったことなど、著者は余さずそうした事情を詳らかにする。

ところが、本書に登場しない沿川の施設もある。例えば競馬場だ。武庫川流域を語る際に、競馬場は外せないはず。仁川と武庫川の合流地にある阪神競馬場は日本でも有数の競馬場だが本書にはほぼ登場しない。また、今も阪神競馬場の重賞レースに名を残す鳴尾記念は、武庫川の河口から少し離れた地にあった鳴尾競馬場を記念した名だ。ここも登場しない。同様に甲子園球場も出てこない。かつて武庫川から分かれ三角州を成した枝川を埋めた跡地に甲子園球場が建てられたことはあまりにも有名。中等野球が甲子園で開催される前、鳴尾競馬馬の近くにあった鳴尾球場で開かれていたことも知られた話だが、そこも出てこない。本書の編集方針として、近世以降の人工物はあまり出さないと決めたのだろうか。

だがその代わり、武庫川ダムのいきさつがそうだったが、近世に企てられた武庫川の景観に大きな影響を与えたであろう計画について、著者はかなりの紙数を費やす。

第6章は「武庫川河口周辺の環境を守る市民の戦い」と題され、武庫川ダムの他に西宮を大きく揺さぶった三つの計画について詳しく紹介される。これらは、本書を読むまで私は全く知らず、それだけでも本書を買った意味がある。一つは西宮、甲子園浜の大規模な埋め立て計画だ。昭和三十五年、当時の田島西宮市長が甲子園浜沖を埋め立て、そこに日本石油を誘致しようと動いたことがある。先の武庫川ダムの計画もその工業用水の確保という側面があったという。埋め立て計画は長年の運動の末、誘致も含めて白紙になった。もう一つは、武庫川の河川敷沿いに阪神高速を走らせるという計画だ。これも住民の猛反対の末、撤回されたという。最後に、甲山にロープウェイを通す計画だ。これも猛反対に遭い、実現しなかったという。どれもが西宮の景観を大きく変えていたはずの計画であり、私はそれらが実現されなかったことに心底ほっとしている。それと同時に先人たちの努力に感謝しなくてはならない。

今の甲子園浜、西宮浜、香櫨園浜の渚にたつと、沖を阪神高速湾岸線が横切っている。だが、私が子供の時はまだ水平線が見えていた。西宮浜や鳴尾浜はすでに私が物心ついた時には埋め立てられていたが、香櫨園浜の沖には何もなかった。その時、香櫨園浜で見た浜際を走る大量の鯖の光景はいまだに忘れられない。そんな見事な自然の恵みがつい30年ほど前までは見られたのだ。今や西宮の浜辺から水平線は消えた。もう戻らない。ならばせめて、本書に紹介されたような計画が実現されなかったことに感謝すべきだと思う。

本書もはじめに、でそうした意図が込められてはいる。が、より本書の趣旨が武庫川の豊かな自然と近世の環境破壊からの戦いを紹介するとより強くいっておいてもよかったと思う。そうした観点で本書はとても参考になり、勉強させてもらったからだ。ずっと手元に置いておこうと思うほどに。

‘2018/01/20-2018/01/21


ベルリン、わが愛/Bouquet de TAKARAZUKA


本作は、私にとって初めて独りだけで観た舞台だ。独りだけで観劇することになった事情はここでは書かない。ただ、私の妻子は事前に本作をみていた。そして妻子の評価によると本作は芳しくないようだ。むしろ下向きの評価だったと言ってよいくらいの。そんな訳で、私の期待度は薄めだった。正直、事前に妻子が持っていたパンフレットにも目を通さず、あらすじさえ知らずに客席に座ったくらいだ。

そんな消極的な観劇だったにも関わらず、本作は私に強い印象を残した。私の目には本作が、宝塚歌劇団自らが舞台芸術とは何かを振り返り、今後の舞台芸術のあり方を確かめなおそうとする意欲作に映った。

なぜそう思ったか。それは、本作が映画を取り上げているためだ。映画芸術。それは宝塚歌劇そのものである舞台芸術とは近く、それでいて遠い。本作は舞台の側から映画を描いていることが特徴として挙げられる。なにせ冒頭から舞台上に映画館がしつらえられるシーンで始まるのだから。別のシーンでは撮影現場まで登場する。今まで私は舞台の裏側を描く映画を何作も知っている。が、舞台上でここまで映画の内幕を描いているのは本作が初めてだ。

舞台の側からこれほどまでに映画を取り上げる理由。それは、本作の背景を知ることで理解できる。本作の舞台は第二次大戦前のベルリンだ。第一次世界大戦でドイツが課せられた膨大な賠償金。それはドイツ国民を苦しめナチスが台頭する余地を生む。後の1933年に選挙で第一党を獲得するナチスは、アーリア人を至上の人種としユダヤ人やジプシー、ロマを迫害する思想を持っていた。その過程でナチスによるユダヤ人の芸術家や学者を迫害し、大量の亡命者を生んだことも周知の通り。そんな暗い世相にあって、映画はナチスによってさらにゆがめられようとしていた。映画をプロパガンダやイデオロギーや政治の渦に巻き込んではならない。そんな思いをもって娯楽としての映画を追求しようとした男。それが本作の主人公だ。脚本は原田諒氏が担当した宝塚によるオリジナル脚本である。

冒頭、舞台前面に張られたスクリーンにメトロポリスのタイトルがいっぱいに写し出される。私はメトロポリスはまだ見ていない。だが、メトロポリスをモチーフにしたQUEENの「RADIO GA GA」のプロモーションビデオは何度も見ている。なので、メトロポリスの映像がどのような感じかはわかるし、それが当時の人々にとってどう受けいれられたかについても想像がつく。

あらすじを以下に記す。METROPOLISのタイトルが記されたスクリーンの幕が上がると、プレミアに招待された人々が階段状の席に座っている。期待に反して近未来の描写や希望の見えない内容を観客は受け入れられない。人々は前衛過ぎるメトロポリスをけなし、途中退席して行く。メトロポリスを監督したのはフリッツ・ラング監督。この不評はドイツ最大の映画会社UFAの経営を揺るがしかねない問題となる。

そこで、次期作品の監督に名乗りを上げるのが、本作の主人公テオ・ヴェーグマンだ。彼はハリウッド映画に遅れまじと、トーキー映画を作りたいとUFAプロデューサーに訴え、監督の座を勝ち得る。

テオは友人の絵本作家エーリッヒに脚本を依頼する。さらに、当時ショービジネス界の花形であるジョセフィン・ベーカーに出演を依頼するため、楽屋口へと向かう。ベーカーは自らが黒人であることを理由に出演を辞退するが、そのかわりテオはそこで二人の女優と出会う。レニ・リーフェンシュタインとジル・クラインに。テオは、果たして映画を完成させられるのか。

本作は幕開けからテンポよく展開する。そして無理なく出演者を登場させながら、時代背景を描くことも怠らない。ここで見逃してはならないのが、人種差別の問題にきちんと向きあっていることだ。ジョセフィン・ベーカーはアメリカ南部出身の黒人。当時フランスを中心に大人気を博したことで知られる。本作に彼女を登場させ、肌の色を理由に自ら出演を断らせることで、当時、人種差別がまかり通っていた現実を観客に知らしめているのだ。先にも書いたとおり、ナチスの台頭に従って人種差別政策が敷かれる面積は広がって行く。それは、人種差別と芸術迫害への抵抗という本作のテーマを浮き彫りにさせてゆく。

本作が舞台の側から映画を扱ったことは先に書いた。特筆すべきなのは、本作が映画を意識した演出手法を採っていることだ。それはスクリーンの使い方にある。テオが撮った映画でジルが花売り娘として出演するシーンを、スクリーンに一杯に映し出す演出。これはテオの映画の出来栄えと、ジル・クラインの美しさを際立たせる効果がある。だが、この演出は一つ間違えれば、舞台の存在意義を危うくしかねない演出だ。舞台人とは、舞台の上で観客に肉眼で存在を魅せることが使命だ。だが、本作はあえて大写しのスクリーンで二人の姿を見てもらう。この演出は大胆不敵だといえる。そして私はこの演出をとても野心的で意欲的だと評価したい。しいて言うならば私の感覚では、モノクロの映像があまりにも鮮明過ぎたことだ。当時の人々が映画館で楽しんだ映像もフィルムのゴミや傷によって多少荒れていたと思うのだが。わざと傷をつけるのは「すみれコード」的によろしくないのだろうか。

美しい花を売る演技によって、端役に過ぎなかったジル・クラインはヒロインのはずのレニ・リーフェンシュタインを差し置いて一躍スターダムな評価を受ける。さらには、そのシーンに心奪われたゲッベルスに執心されるきっかけにもなる。

プライドを傷付けられたレニは、ジル・クラインがユダヤ人の母を持つこと、つまりユダヤの血が流れていることをゲッベルスに密告する。そしてナチスという権力にすり寄っていく。そんなレニのふるまいをゲッベルスは一蹴する。彼女がユダヤ人であるかどうかを決めるのはナチスであると豪語して。ジル・クラインに執心するあまりに。史実ではゲッベルスはドイツ国外の映画を好んでいたと伝えられている。本作でもハリウッドの名画をコレクションする姿など、新たなゲッベルス像を描いていて印象に残る。

あと、本作で惜しいと感じたことがある。それはレニの描かれ方だ。史実ではレニ・リーフェンシュタインは、ナチスのプロパガンダ映画の監督として脚光を浴びる。ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の監督としても名をはせた彼女。戦後は逆にナチス協力者としての汚名に永く苦しんだことも知られている。ところが、本作ではレニがナチスに近いた後の彼女には一切触れていない。例えば、レニが女優から監督業にを目指し、ナチスにすり寄っていく姿。それを描きつつ、そのきっかけがジルに女優として負けたことにある本作の解釈を延ばしていくとかはどうだろうか。そうすれば面白くなったと思うのだが。もちろん、ジル・クラインは架空の人物だろう。でも、レニの登場シーンを増やし、ジルとレニの関係を深く追っていけば、レニの役柄と本作に、さらに味が出たと思うのだが。彼女の出番を密告者で終わらせてしまったのはもったいない気がする。

もったいないのは、そもそもの本作の尺の短さにも言える。本作がレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」と並演だったことも理由なのだろうけど、少し短い。もう少し長く観ていたかったと思わせる。本作の幕切れは、パリへ向けて亡命するテオとジルの姿だ。客車のセットを舞台奥に動かし、降りてきたスクリーン上に寄り添う二人を大写しにすることで幕を閉じる。この流れが、唐突というか少々尻切れトンボのような印象を与えたのではないか。私も少しそう思ったし、多分、冒頭にも書いた妻子が低評価を与えたこともそう思ったからではないか。二人のこれからを観客に想像させるだけで幕を下ろしてしまっているのだ。ところが本作はそれで終わらせるのは惜しい題材だ。上に書いた通りレニとジルのその後を描き、テオに苦難の人を演じさせるストーリーであれば、二幕物として耐えうる内容になったかもしれない。

惜しいと思った点は、他にもある。本作にはドイツ語のセリフがしきりに登場する。「ウィルコメン、ベルリン」「イッヒ! リーベ ディッヒ」「プロスト!」とか。それらのセリフがどことなく観客に届いていない気がしたのだ。もちろん宝塚の客層がどれぐらいドイツ語を理解するのかは知らない。そして、これらのセリフは本筋には関係ない合いの手だといえるかもしれない。そもそも他のドイツを舞台にした日本の舞台でドイツ語は登場するのだろうか。エリザベートは同じドイツ語圏のウィーンが舞台だが、あまりドイツ語のセリフは登場しなかった気がするのだが。

なぜここまで私が本作を推すのか。それは権力に抑圧された映画人の矜持を描いているからだ。 ナチスという権力に抗する映画人。この視点はすなわち、大政翼賛の圧力に苦しんだ宝塚歌劇団自身の歴史を思い起こさせる。戦時中に演じられた軍事色の強い舞台の数々。それらは、宝塚自身の歴史にも苦みをもって刻印されているはず。であれば、そろそろ宝塚歌劇団自身が戦時中の自らの苦難を舞台化してもよいはずだ。なんといっても100年以上の歴史を経た日本屈指の歴史を持つ劇団なのだから。 本作で脚本を担当した原田氏は、いずれその頃の宝塚歌劇の苦難を舞台化することを考えているのではないか。少なくとも本作のシナリオを描くにあたって、戦時中の宝塚を考えていたと思う。私も将来、戦時中の宝塚が舞台化されることを楽しみにしたいと思う。

それにしても舞台全体のシナリオについて多くを語ってしまったが、主演の紅ゆづるさんはよかったと思う。彼女のコミカルな路線は宝塚の歴史に新たな色を加えるのではないか、と以前にみたスカーレット・ピンパーネルのレビューで書いた。ところが、本作はそういったコミカルさをなるべく抑え、シリアスな演技に徹していたように思う。歌も踊りも。本作には俳優さん全体にセリフの噛みもなかったし。あと、サイレントのベテラン俳優で、当初テオには冷たいが、のちに助言を与えるヴィクトール・ライマンの名脇役ぶりにも強い印象を受けた。

先に舞台上に演出された映画的なセットや演出について書いた。ところが、本作には舞台としての演出にも光るシーンがあったのだ。そこは触れておかないと。テオがジルにこんな映画を撮り続けたいと胸の内を述べるシーン。テオの回想を視覚化するように映写機を手入れする若き日のテオが薄暗い舞台奥に登場する。銀橋で語る二人をピンスポットが照らし、舞台にあるのは背後の映写機と二人だけ。このシーンはとてもよかった。私が座った席の位置が良かったのだろうけど、私から見る二人の背後に映写機が重なり一直線に並んだのだ。私が今まで見た舞台の数多いシーンでも印象的な瞬間として挙げてもよいと思う。

あと、宝塚といえば、男役と娘役による疑似キスシーンが定番だ。ところが本作にそういうシーンはほとんど出てこない。上に書いたシーンでもテオはジルに愛を語らない。それどころか本作を通して二人が恋仲であることを思わせるシーンもほとんど出てこない。唯一出てくるとすれば、パリ行きの客車に乗り込もうとするジルの肩をテオの手が包むシーンくらい。でも、それがいいのだ。

宝塚観劇の演目の一つに本作のような恋の気配の薄い硬派な作品があったっていい。ホレタハレタだけが演劇ではない。そんな作品だけでは宝塚歌劇にもいつかはマンネリがくる。また、本作には宝塚の特長であるスターシステムの色も薄い。トップのコンビだけをフィーチャーするのではなく、登場人物それぞれにスポットを当てている。私のように特定の俳優に興味のない観客にとってみると、このような宝塚の演目は逆に新鮮でよいと思う。そういう意味でも本作はこれからの宝塚歌劇の行く先を占う一作ではないだろうか。私は本作を二幕もので観てみたい、と思う。

ちなみに、この後のレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」は、あまり新鮮味が感じられず、眠気が。いや、このレビューというよりは、もともと私がレビューにあまり興味のないこともあるのだが。でも、それではいかんと、途中からはレビューの面白さとはなんなのかを懸命に考えながらみていた。それでもまだ、私にはレビューの魅力がわからないのだが。でも「ベルリン、わが愛」はよかったと思う。本当に。

‘2017/12/20 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/berlinwagaai/index.html


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
http://kageki.hankyu.co.jp/revue/2015/guysanddolls/


ミュージカル エリザベート


昨年10月以来の観劇は、奇しくも同じ演目であるエリザベートとなった。前回は宝塚歌劇団花組の、しかも娘役トップの蘭乃はなさん退団公演を兼ねていた。今回は帝国劇場での一般公演。しかもエリザベート役は宝塚を退団したばかりの蘭乃はなさんが再び演じ、宝塚退団前後の蘭乃はなさんの成長ぶりを目撃することができた。これも縁であろうか。今回は前から3列目という間近で一部始終を観劇することができた。いつも素晴らしいお席を取って頂き、田中先生本当にありがとうございます。

宝塚花組による公演は大変素晴らしく、二幕物の正統派ミュージカルが好きな私は、どっぷりとその世界観に浸ることができた。その際にアップしたレビューにも書いているが、役者の演技もさることながら、舞台装置や演出の工夫が実に美しく、舞台美術の有るべき姿を見せつけられた思いだった。今回の公演も同じ小池氏による演出である。同じ演出家が同じ素材を元にどのような調理を見せてくれるのか。宝塚歌劇団と宝塚以外の公演、しかも男性役者が入ることで演目がどのように変化するのか、非常に楽しみにしていた。

とはいえ、普段観劇の機会も少ない私。失礼ながら蘭乃はなさん以外はキャストの方々に対する予備知識もないまま、舞台に臨んだ。

死神トートは、宝塚版では中性的なキャラクターとして設定されていた。ただでさえ中性的な宝塚男役が演ずるにははまり役といってよい。今回は男性がトートを演ずる訳だが、男性が中性的な雰囲気をいかにして身に纏うか。死神の感情を超越した冷徹さと、エリザベートへの愛をいかに両立して演じ切るのか。客席が暗くなり、固唾を呑んで舞台を見つめる私の関心はそこにあった。

ところが冒頭の裁判シーンからして驚かされることになる。妻からは事前知識として宝塚版とほぼ同一の内容と聞いていた。ところが、このシーンからすでにはっきりとした演出の違いが見られた。エリザベート殺害犯であるルイジ・ルキーニ裁判の流れは同じだが、今回版では裁判の証人として、エリザベートの時代を生きた人々を墓から蘇らせる演出が採られていた。埃にまみれたベール状の衣装はかなり独創的で、子どもから大人からが墓から一斉に蘇るシーンは鮮烈に印象付けられた。宝塚版ではこのあたりの演出が曖昧で、証人も現れないまま、あっさりと次の展開に進んでしまい、印象が残りづらい演出となっていた。さらに今回版では証人が舞台に現れきったところでルキーニが上を指さす。そこに吊られて降りてきたのは死神トート。ここで独唱のソロを響かせる。ここで私の心は一気に井上芳雄さん演ずるトートに魅入られた。それはまさに魅入られたといっても過言ではない。中性的な美声と登場シーンが鮮烈なあまり、私だけでなく観客の多くが井上さん演ずるトートに印象付けられたといってもよい。そこあったのは男性や中性といった性別を超えた美しさ。

ここで先に今回版の難点を指摘しておく。今回版は登場人物の歌声にブレが感じられたことが心残りだった。特に主演である蘭乃はなさんの声がたまにひっくり返ったりしたのは惜しい。いずれも感情を表に出す部分、歌詞になると荒れてしまった。もっともそれは、良くとらえるならば感情表現の一つとして許せる範囲ではある。また、フランツ・ヨーゼフ演じる佐藤隆紀さんも一か所だけだが声がひっくり返ってしまった箇所があった。とはいえ、他の方々の台詞にトチリは見られず、歌声も声量も内容もはっきりと耳に聞こえたため、難点と言えるのは上の二か所ぐらいだろうか。しかしそういった難点は、全てトート演ずる井上さんの圧倒的な歌唱力で帳消しになったといってもよい。まだ30回ぐらいの私の浅い観劇経験の中でしか言えないのが残念だが、今まで聞いた中で一番魅了された声だった。

硬軟取り混ぜ、抑揚や声のトーンも実に感情豊か。中でも「最後のダンス」のシーンはとてもよかった。宝塚版よりも幾分かロック調を増したアレンジにロック調の節回しやシャウトを響かせたそれは、荒々しさが粗暴に陥らず、感情溢れる中にも冷徹さを残す絶妙な歌唱だったといえる。

こういった宝塚版にはないロック調のアレンジ。このような宝塚版との演出の違いは随所に見られた。例えば少女時代のエリザベート(=シシー)が父と過ごすシーン。エリザベートの性格形成に大きな影響を与えた父は、今回版ではフランスの家庭教師と浮気をしていたことを独白する。宝塚版には無かった演出である。また、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの結婚初夜のシーン。尾上松也さん演ずるルイジ・ルキーニからは「やることやったら世継ぎが生まれ」という台詞が吐かれ、同時に卑猥なしぐさをクイっと見せる。エリザベートが夫フランツの浮気を知る場面は、自身が夫から移されたと思われる性病の症状によってだし、マダム・ヴォルフの館のシーンでは、出てくる娼婦たちの衣装はかなりぎりぎりで、ある娼婦の貞操帯を開け閉めする音まで舞台に響かせる。いずれもいわゆるスミレコードの枠内では不可能な演出であり、演出家の小池氏にとっては腕の見せどころだったのではないだろうか。また、舞台上でフランツ・ヨーゼフとエリザベート。トートとルドルフといった方々が披露した接吻も、宝塚版では見られないことは無論である。

一方では、私が宝塚版で印象に残った舞台の美しい演出の数々が省かれていたのは残念であった。おそらくは舞台装置の違い(宝塚版は東京宝塚劇場、今回版は帝国劇場)によるものと思われる。そもそも帝国劇場の舞台は少々狭く感じた。舞台上にはセットが所狭しと置かれ、舞台上に潤沢な余裕を感じられなかった。とはいえ、プロセミアム・アーチの装飾は死神の意匠を反映して実に重厚、それでいて東京宝塚劇場のそれよりも数段凝った造りとなっていた。広さの都合で舞台装置の演出が省かれていたことは認めるとしても、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが出会うシーンの出演者がタイミングを合わせて行う早回し食事の演出や、絶望にくれるエリザベートが一転して自らの人生の自由へと決意する場面の完全な静寂、窓に浮かぶ月に向かって歌い上げる場面など、舞台装置に関係なく演出に取り入れて欲しい場面までもが削られていたのは惜しいところである。

とはいえ、今回版ではスミレコード以外にも宝塚版ではできなかったと思われる演出の工夫が随所に設けられていた。例えば演者の老け方。本作はエリザベートの生涯を追想していくのが筋である。つまり演者は老けて行かねばならない。宝塚版では辛うじて北翔海莉さん演ずるフランツ・ヨーゼフが3~4段階ほどに老けていく姿が見られた程度であった。しかし本作ではフランツ・ヨーゼフはもちろんのこと、ハプスブルグ帝国の官吏たちや、革命家たちに至るまで、舞台を経るごとに等しく老けさせていた。それも3~4段階ではなく、私の見た所5~6段階に分けて。場面の度に髭が蓄えられ、髪は灰色から順に白くなっていく。この様は見事であった。場面ごとに他の登場人物が老けていく一方、全く変わらない容姿を見せる死神トートとルイジ・ルキーニ。二人の異質性が自然と浮き彫りになる見事な演出と云えよう。そもそもエリザベートの息子ルドルフ。ルドルフの少年時代を演ずるのは小学生(大内天さん)であり、青年となったルドルフは古川雄大さんがきっちりと青年の姿を演じてくれる。メイクや衣装替の都合上、また少年の配役など宝塚版では制限のある演出であり配役が、今回版ではきちんと演出に取り入れられていたのはお見事。

また、今回版のほうが史実の人物であるエリザベートにより密接したアプローチを採っていたように思える。例えば二幕冒頭でルイジ・ルキーニが売り子に扮してエリザベートのグッズを客席に配りまわる。妻の隣の方がマグカップをもらっていたが、配られたそれらのグッズには史実に残されたエリザベートの写真が転写されていた。同時に舞台上のハプスブルク家の紋章が刻まれた石版には、エリザベートの写真が投影されるという演出が施されていた。また、ルドルフが死す場面でも、葬儀の祭壇にひれ伏すエリザベートの実写真が投影され、物語の史実性を高める効果を与えていた。また、舞台によってはセットの背後に画像や画像を投影することで、舞台の作り物の印象をそらすような演出がされていたのも心に残った。

ただ、役者さんについては宝塚のほうが良かったと思える点もあった。例えば宝塚版のフランツ・ヨーゼフはトップ就任前の専科時代の北翔海莉さんが演じていたわけだが、母親ゾフィーとエリザベートの間に板挟みになる苦悩。この苦悩が今回のフランツ役を演じた佐藤隆紀さんの演技には少し見られなかったように思う。前回観たレビューにも書いたが、
 フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなので
 ある。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすれば
 するほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも
 甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。

この点で、もう少しフランツの有能さやそれゆえの苦悩が前面に出せていればさらに良かったと思う。

また、狂言回しであるルイジ・ルキーニ。本作の肝ともいえる人物であり、この人物が操作する筋、観客への内容紹介は重要である。ここが揺らぐと本作のねらいが観客に伝わらず、劇自体がブレてしまう。本作の尾上松也さんの演技は無論素晴らしく、ルキーニらしさが出ていてとても良かった。私にとっては甲乙付けがたいのだが、宝塚版で見た望海風斗さん演ずるルイジ・ルキーニのほうが、伝法さ、無頼さにおいて印象に残った。それは女性である望海風斗さんが演じたため私の印象に残ったのかもしれない。

結論として違う観点や演出でエリザベートを観られたことは幸運であった。蘭乃はなさんの歌声は宝塚版のほうが良かったとはいえ、今回版の歌声の荒れも、かろうじて感情表出の範囲として受け入れられる範囲だった。彼女にとって退団前と退団後、同じ役に続けて出られたことは本当に幸せだったといえるだろう。そしてそれは、はからずもその両方の舞台を観ることのできた私にとっても同様である。今回はカーテンコールも3回。最後のカーテンコールではスタンディング・オベーションで送られたわけだが、私もその一人となり、立って拍手で閉幕を見送ることができた。

2015/7/12 帝国劇場 開演 12:30~
http://www.tohostage.com/elisabeth/


宝塚歌劇百周年によせて


 数日前、「宝塚歌劇100年展 夢、かがやき続けて」を観てきました。本展は宝塚歌劇100周年記念と銘打たれたものです。今夏に兵庫県立美術館で開催されていたのですが、行かれずじまいでした。それが東京でも催されるというので、妻子と有楽町まで足を延ばしました。

 今年は宝塚歌劇が生まれて100年。各メディアでも大きく取り上げられました。宝塚に縁のない方でもあちらこちらで関連イベントを目にしたことと思います。

 宝塚。まだ観たことのない方にとって、その世界は奇異なものに映るかもしれません。女性だけの劇団で、男性も女性が演じ、洋物も和物もなんでもござれ。同じスカーフを巻いたヅカファンが目を輝かせて出待ち入待ちと称して劇場前で列をなし、目当てのスターに嬌声を浴びせる。劇場内外で繰り広げられる独特の世界観は、宝塚に偏見を持つ人をますます遠ざけさせるものがあります。

 妻が両足どころか腰まで浸かったレベルのヅカファンであることから、私はその世界にはある程度親しんでいます。もっとも私の場合、初めて宝塚を観劇したのは、妻と一緒ではありません。大学時代にお付き合いしていた女性がヅカファンで、その時に連れて行ってもらったのが最初でした。

 それまでは宝塚に対する知識も皆無で、世間のイメージに歪められた少しの偏見も持っていました。さぞやカルチャーショックを受けただろうと思われるかもしれません。しかし、全く宝塚に対する免疫のなかったその時ですら、舞台の素晴らしさに衝撃を受けました。阪神・淡路大地震の記憶も新しい中、宝塚大劇場で、大勢の女性と一緒に早朝から並び、ファンクラブのお世話役さんに席を取って頂いた経験も想い出深いです。

 その時の舞台は天海祐希さんのサヨナラ公演でした。彼女を始め、タカラジェンヌの多くがテレビを始めとした芸能界で活躍されています。今回観た100周年展でも退団された歴代のタカラジェンヌの色紙が飾られていました。宝塚が100年永らえたのも、創設した故小林逸翁の先見の明と、日本に老若男女誰もが楽しめる国民劇をという意識が連綿と受け継がれたことに加え、歴代の生徒、スタッフの努力があったからに他なりません。

 たとえそれが、箕面有馬電気軌道という弱小会社の苦肉の策とはいえ。関西の奥座敷にある温泉場の余興が始まりとはいえ。プールに蓋をして舞台とした発祥は、忘れたい過去であるどころか、むしろ誇るべきものと思います。

 最近、ヅカファンたちに「ムラ」と親しみを込めて呼ばれる宝塚大劇場の近辺が、さびれつつあるような気がしてなりません。宝塚ファミリーランドの跡地は住宅展示場やガーデンフィールズなる施設として放置されています。一基残されたメリーゴーランドが、かつての賑わいを今に伝えています。いや、そうではなく、忘れ去られようとしている創設当時の夢と熱意を体現しているのかもしれません。

 このところ、演目は宝塚大劇場で上演された後、有楽町の東京宝塚劇場で千秋楽を迎えるのが恒例になりつつあるようです。本当にこの順番でよいのでしょうか。演目の千秋楽や、トップスターのさよならショーが宝塚大劇場でなく、東京で行われることが当たり前になりつつある現状。宝塚から有楽町へ、本拠地を気づかぬうちに少しずつ移そうという動きが透けて見えるかの如く。

 東京、有楽町、銀座。日本の繁華街の代表的な存在です。確かにここに劇場を構えることは、一つの到達点と言えると思います。山梨出身の逸翁にとっても、或いは泉下で本懐を遂げた想いでいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、宝塚には発祥の地を忘れて欲しくないと思います。

 プールの上でドンブラコを演じた幕開けから、華々しいレビューを花咲かせた昭和初期。戦時下の不条理にも思える戦意称揚演目の数々から、戦後の復興。凄惨な舞台上での死亡事故やブロードウェイミュージカルの導入、ベルバラブーム。先人の築き上げた歴史の上に、今のプラチナチケット化した星組の隆盛があるのではないでしょうか。そこには華やかさだけでなく、苦労と苦難が下積みになってのものだと思います。

 これからも日本発の本格的な劇団として、宝塚は続いていくことと思います。宝塚の名を残すため、登記上の本店は宝塚市に置いているけれど、実質的な本社機能は有楽町に、といった上辺を飾った劇団には堕ちて欲しくないと思います。便利でステータスのある有楽町ではなく、わざわざ奥まった宝塚-ムラに呼び寄せるだけの魅力。これこそが宝塚の原点だと思います。当初しのぎを削った松竹歌劇団が衰退したのも、安易に東京と大阪に分けたことにも一因があるとか。東京で大いにやるのも結構。東京宝塚劇場も結構。経営が安定してこその劇団です。でもそれは宝塚の出先としての東京であってほしい。発祥を忘れて東京に軸を移した途端、東京の喧騒に呑みこまれて存在感を失くす。そんな将来図が目に浮かびます。

東京集中の流れに異を唱えるかのように、大正から昭和にかけ、阪神間モダニズムが栄えました。その頃の阪神間は、日本でも有数の文化ゾーンでした。阪神間モダニズムのエリアは、そのまま今の阪急阪神ホールディングスの路線網に重なります。宝塚歌劇団のバックボーンには、阪神間モダニズムを線路でつなぎ続けた誇りがあるはずです。その流れを汲み、しっかりと本拠を宝塚に置き、東京への誘惑に屈しないで頂きたい。

今回100年展を観覧し、改めてそんな思いに駆られ、本稿を書きました。


エリザベート 愛と死の輪舞


今年100周年を迎え、衰えることを知らない宝塚。100年の長きに亘り劇団が存続してきたことは、実に素晴らしいことである。歴代のスタッフや生徒、OGや観客の貢献はいうまでもない。それに加え、時代の節目でモン・パリやパリ・ゼット、ベルサイユのばらに代表される素晴らしい演目に恵まれてきたことも大きい。

私が初めて宝塚を観劇したのは、今から18~9年ほど前の「ミー・アンド・マイガール」。天海祐希さんが主演の舞台で、かなりの印象を受けた。次に観たのが「ロミオとジュリエット」。3年半前の正月にみたこの作品によって、妻の宝塚熱は再燃し、娘二人も宝塚好きになった。思い出深い一作である。この2作によって、私にとっての宝塚が印象付けられた。ともに2幕物で、起伏に富んだ物語が舞台の上で所狭しと演ぜられる。エリザベートも2幕物であり、海外ミュージカルの輸入翻案というのも同じである。以前から機会があれば観ようと思っていたところ、今回ご招待を頂き、妻と観劇してきた。

結論からいうと、素晴らしい、の一言である。

本作は従来の物語にない構成を採っている。題名にもなっているエリザベートは、ハプスブルグ王朝の末期を生きた、フランツ・ヨーゼフⅠ世の妃でありながら、自由を愛する精神の持ち主として著名な人物である。しかし、トップ演ずる主役は彼女ではない。主役であるのはトート。死神である。エリザベートが見せる奔放な行動の背景に、死への無意識の憧れ、つまり死神トートに魅入られていたのではないか、という発想から成り立つのが本作である。そこに魅入られる=愛という要素を加え、ミュージカルとして成り立つ作品として仕上がっている。

本作は史実にも残るエリザベート暗殺犯のルイジ・ルキーニの裁判から幕を開ける。裁判の審理を進める上で、エリザベートの生涯を追想するというのが全体の構成である。そのため、全編に於いて狂言回しとしてルイジ・ルキーニが登場し、観客と舞台をつなぐ架け橋となる。本作では望海風斗さんが演じていたが、発声が実によく、耳の聞こえにくい私にもよく届いた。ともすれば台詞の聞こえにくいミュージカルで、狂言回しのセリフが聞こえないことは致命傷である。過去にルキーニを演じてきたのも、私でも名を知る錚々たる方々である。妻にそのことを聞いたところ、ルキーニ役はトップへの登竜門である役なのだとか。納得である。

私は、宝塚も好きだし、お声を掛けて頂ければ出来るだけ観させて頂いている。しかし、宝塚のスターシステムにはそれほど興味がない。もちろん、歴代スターの存在感や演技については文句のあるはずもない。ファンがトップの一挙手一投足に目を煌めかせ、青田買いと称して若手に注目するのも良くわかる。が、私の好みはそこにはない。宝塚以外の演劇も含め、私が興味を持って観るのは演出面の工夫である。そして、演出面での工夫にこそ、宝塚の素晴らしさと、100年続いてきた秘密があるのではないかと考えている。

本作は小池修一郎さんの潤色・演出であるが、随所に面白い仕掛けが施されていた。例えばエリザベートをフランツが見初める場面。その瞬間にいたるまでの過程を、映像を早送りするかのように全員の動きを速める。実にコミカルで、かつ流れを壊さない絶妙な演出であると感じた。この動きを舞台で実現するために、出演者たちは何度もリハーサルを繰り返したことだろう。また、舞台背景にガラス張りのセットが配されるシーンでは、セットの背景に宮廷の出席者たちを一瞬で移動させ、宮廷の賑やかさを保持したまま、その宮廷とは一線を画するエリザベートの孤独と、その孤独に付け入ろうとするトートを演出する。姑にあたるゾフィーからつらく当たられ、エリザベートが自死しようとする場面では、ロック調のオーケストラが目立つ本作において、一転して完全なる静寂に舞台を浸す。エリザベートの啜り泣きだけが舞台に響き、本作の転調ともなる抑えが効いた名場面である。そして静寂の後、彼女は人生の自由を求め、その魂を蘇らせる。それとともに、背景の空に自室の窓だけを浮かび上がり、スモークが舞台脇から湧いて舞台を覆う。この場面の美しさは本作のクライマックスとも思えるほど素晴らしく、窓を吊っているはずのピアノ線もうまく隠され、本当に浮いているかのようであった。

本作は愛と死の輪舞という副題が付いている。輪舞とは寄り添うだけでなく、すれ違いの動きに特徴がある。ルキーニが再三台詞を発したように、本作ではエリザベートとフランツの夫婦間のすれ違いが描かれる。しかし本作で描かれるすれ違いはもう一つある。それは、エリザベートとトートの間で交わされるすれ違いである。愛を求める心と死へ誘惑のすれ違い。ある時はエリザベートが持つ生への渇望にトートが退き、ある時は息子の自死の衝撃で死を求めるエリザベートに、「死は逃げ場ではない」とトートが一蹴する。人と交わってこその人生であるが、そこにすれ違いが生ずる。そして人に意識がある限り、その時々によって自分の心の中でさえすれ違いが生ずる。本作では、独りの人間の内と外でのすれ違いによって、苦しむ人間を描いている。

このように、演出上の効果や原作に込められた意図は、それだけで深く考えることも可能なのだが、それも役者あってのこと。演出家の意図を再現する生徒さん(演ずるのは全てプロのタカラジェンヌであり、宝塚音楽学校の生徒さん)たちの演技が見事でなければ、演出の意図など観客には届かない。私のような素人が見ている限りでは、目立つ失敗もなく、見事な演技であった。本作がトップお披露目公演という明日海りおさん演ずるトートの冷徹とニヒルが混ざった様も良かったし、妻子からは歌に難ありと聞いていた、本作が退団公演である蘭乃はなさんの歌も十分素晴らしく、傾聴に値したものであった。そして上にも挙げた狂言回しルキーニを演ずる望海風斗さんもよかった。しかし本作でキーとなったのは、フランツ・ヨーゼフⅠ世を演ずる北翔海莉さんであろう。本作で、エリザベートの抱える苦しみにリアリティを与えるのは、エリザベートを苦しめる姑ゾフィーとともに、その息子でありエリザベートの夫であるフランツ・ヨーゼフの優柔不断さである。一般に、エリザベート贔屓の人々からは、フランツ・ヨーゼフⅠ世は、愚夫にしてダメな国王と思われがちである。しかし実際の彼はそうではなかったと言われている。母に頭が上がらなかったこと以外は、勤勉で真面目な国王として後世に知られている。つまり、フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなのである。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすればするほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。そのあたりの難しい役柄を北翔海莉さんは見事に演じており、本作を先に見ていた妻がその演技を絶賛していたのも良くわかる。

愛と死のすれ違い、というテーマ以外にも、本作では自由を求める人の精神、がテーマとして流れている。皇后という立場でありながら、自由を求めずにはいられなかったエリザベートの精神。立場や組織の中で、人はどうやって自由を求める心を失わずに生きるのか。妻に聞いたところでは、北翔海莉さんは実力や人気でトップに立てる人材として衆目一致するところであった。が、トップにはなれないまま、専科として各組の舞台を引き締める役に引き下がったという。それに関しては歌劇団の人事上の都合という憶測が囁かれているとか。北翔海莉さんが抱えている屈託や葛藤を全く感じさせない溌剌とした演技。この姿に、エリザベートが立場を超えて自由を求め続けた精神の気高さを重ね合わせずにいられなかった。

2014/10/25 開演 11:00~
http://kageki.hankyu.co.jp/elisabeth2014/


硫黄島に死す


本書には7編の短編が収められており、そのうち5編が太平洋戦争中の激戦に題材を採っている。いずれも当時の国際情勢や政治に無関係の、前線で任務を全うするために挺身する人々の姿を様々な角度から描くことで、戦争の意味を問うている。

太平洋戦争の戦記文学というと飢餓に苦しみつつ、ジャングルをさまよう陰惨な印象が漂うが、本書は前線の、スポーツ選手の、特攻隊員の、予科練生のそれぞれの戦中や戦後の人生を通して、多様な軸から戦争を描いているのが印象を残す。

中でも表題作の「硫黄島に死す」は主人公に西大佐を据え、馬術競技での栄光と挫折、生まれ育ちからくる軍の中での孤立など、重層的な人物造形が物語に深みを与えている。たとえば、ロス五輪での金メダル獲得から一転、ベルリン五輪で惨敗した理由についても、ドイツ側の妨害工作があったにも関わらず敗因について一言も弁明しない姿。硫黄島への移動航海中に起きた二人の死者に対する限りない哀惜の念。

軍内で軽薄、気障と言われた主人公が、最期まで誇りと気概に満ちた人物として、硫黄島の過酷な戦場でも死を従容として受け入れる姿には、読者に戦争のやるせなさを否応なしに突き付けるも
のがある。

’12/03/25-12/03/26