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日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


未成年


好きな海外の作家を五人挙げろと言われれば、私はそのうちの一人に著者の名を挙げる。本邦で翻訳された著者の作品はほとんど読んでいるはず。だが、私が読読ブログで著者を取り上げるのは実は初めて。というのも本作より前に出版された著者の作品は、本ブログを始める前に読んでしまっていたからだ。ちなみに、あとの四人はStephen King、John Irving、Gabriel García Márquez、Mario Vargas Llosaだ。

久々に読んだ著者の作品は、これぞ小説の見本といえる読み応えがあった。簡潔な文体でありながら内容は深く、そして展開も飽きさせない。

まず文体。簡潔でありながら、描写は怠りない。主人公のフィオーナ・メイの視点だけでなく、彼女の心のうちもきっちりと描く。ただ、心理を描くことは大切だが、凝りすぎるのもよくないと思う。特に今の文学は、心理に深入りした描写が主流ではないと思う。しかし、時には心理を描くことも必要だ。特に本書の場合はそう思う。なぜならフィオーナの職業は高等法院の裁判官だから。

本書は詳しくフィオーナの心の動きを描く。心理に深入りしているようであるが、さほど気にならなかった。むしろ必要な描写だと思う。言うまでもなく、裁判官とは人を裁く公正さが求められる。天秤のイメージでもおなじみの職業だ。原告と被告。弁護人と検事。真実と嘘。裁判官には法の深い理解と経験、そして絶妙な公平さが不可欠だ。法的には慎重な判断で定評を得た彼女。だが、私生活では判断を慎重にしすぎるあまり、ジャックとの結婚生活で子どもを作る機会を逃してしまう。

子供を持つことを犠牲にしてフィオーナが得た経験。つまり司法の徒としての経験もまた得難いものだ。例えばフィオーナが判決を下した事件はとても複雑で難しい。たとえばシャム双生児のように融合した双子のどちらを救うかの判断。宗教と倫理の間で慎重な判断が求められる中、彼女の判断は法的に適法であり、かつ倫理的にも人を納得させるものだ。著者はそれらのいきさつを冗長でなく簡潔に、それでいて納得させて描く。お見事だ。

そして本書のメインプロットだ。この内容がとても深い。シャム双生児の一件はフィオーナの賢明さを紹介するためのエピソードに過ぎない。だが、エホバの証人の信仰を法的にどうやって解釈するか。その問題はさらに深い。フィオーナが判断を下す対象は、未成年のアダム・ヘンリ。敬虔なエホバの証人の信者である両親のもと生まれた彼は、自らの信仰のもと輸血を拒否し、死を選ぶ。ただ、問題なのはその判断は未成年ゆえに法的には無効だ。彼が成人を迎えるまでには2,3カ月の時間が必要だ。そのため、信仰のもとに死を選ぶ彼の判断よりも両親の判断が優先される。さらに、医師の立場では両親の判断を差し置いても優先すべきはアダムの命だ。エホバの証人といえばその宗教的信念の強さは日本の私たちもよく知っている。そして信教の自由は保証されることが必須だ。少年の生命と信教の自由をどう判断するか。その判断はフィオーナだけでなく、読者の私たちにも信仰と法解釈の問題として迫ってくる。

現代とは、複雑な利害が絡み合う時代だ。それをジャッジする裁判官の苦労はとうてい素人には計り知れない。中でも法は社会の基盤であり最後の砦だといえる。その一方で、個人の基盤として最後の砦は信仰だ。その感覚は日本よりも欧米の方が切実なのだろう。そのような公と私の対立を、著者は簡潔な文体で、しかも説得力ある描写を交えて読者に提示する。著者は問題をよく理解し、深くかみ砕いて文章に抽出している。なので、私のような日本人にもその問題の奥深さとエッセンスがしっくりと染み込んでくる。ただ、理解できるが結論はつけられないだけで。だからこそ、フィオーナの下す判決が何なのかに興味を持って読み進められるのだ。内容に深みを持ちながら、読者を置き去りにせずしっかりと読ませる。しかも面白く読ませる。それはただ事ではない。それが本書が傑作である理由だ。

本書はまず、フィオーナとジャックの何十年目かの結婚生活に亀裂が入るところから始まる。そんなスリリングな出来事に動揺しながら、フィオーナはシャム双生児の件やその他の裁判の一切を遅滞なく進めていく。そしてジャックは愛人のもとへと行ってしまう。裁判官としての務めを全うしながら、一人きりの生活を過ごすフィオーナ。そんなところにアダム・ヘンリの審理を抱え込んでしまう。アダム・ヘンリの審理に時間の余裕はなく、審理を中断してフィオーナ自身が入院中のアダム・ヘンリのもとへと赴く。

親子以上に、場合によっては孫と祖母ほどに年の離れた二人。アダムはフィオーナの訪問によって心を動かされる。法的な立場を守りながら、法の型にはまらないフィオーナの判断にいたる心の動きが丹念につづられてゆく。実に読み応えのあるシーンだ。生命は信仰にまつわる尊厳より優先されるという彼女の判決と、その判決に至る文章。それは本書の最初のクライマックスを作り上げる。そのシーンは法に携わる人々がどのような思いで日々の職務を全うし、法を解釈しているのかを私たちのような一般人が知る上でとても参考になるはずだ。全ての裁判が公正・無私に行われているのかどうかはわからない。でも、多くの判決はフィオーナのような厳密かつ公正に検討された判断のもと、くだされているのではないだろうか。

しかし、本書はまだ終わらない。裁判は次々と続き、フィオーナの人生にはいろいろな起伏がやってくる。ジャックとの結婚生活。裁判官としての日々。そしてアダムとのかかわり。本稿を読んでくださった方の興を削ぐことになるのでこれ以上の展開は書かない。だが、本書の余韻は、とても深く永く響いたことは書いておかねば。とくに私の場合は親だ。しかもまだ未成年の娘の。親としてこれから大人になる子供をどう導くのか。どこまでが過保護でどこからが放任なのか。その判断はとても難しい。そして法の最後の判定者であるフィオーナであっても、完全な過ちなく下せる判断ではないのだ。

思えば、生きるということは絶え間ない判断、そして判決の繰り返しなのだろう。仕事として判決を下すフィオーナだけでない。私たち、一般人にしても、毎日が判決と判断を迫られつつ生きている。そして、そのことに責任を担わされているのが大人だと思う。つまり、本書のタイトルである『未成年』とは、その判断の重さが段違いに変わる境目でもあるのだ。最近でこそ成人式とはやんちゃな新成人の自己主張の場になりつつある。そんな中、成年の年齢も18歳に引き下げられるとか。しかし他の民族では通過儀礼をへなければ成人として認められなかったという。我が国にも古くから元服という儀式があった。それだけに成人になることは、ある儀式を通過したものだけが許された境目でもあるのだ。成人になって初めてその判断は尊重され、大人として認められる。

本書を読むと、私たちは成人の意味についてなにか取り返しのつかない見当違いをしつつあるのでは。本書を読んでそんな印象を受けた。

傑作である。

‘2018/01/28-2018/02/05


モナドの領域


本書の帯にはこう書かれている。「我が最高傑作にしておそらく最後の長編」

本書が著者の最高傑作かどうかは、書き手と読み手の主観の問題だ。私にとって著者の傑作短篇はいくつも脳裏に浮かぶ。が、長編の最高傑作と言われてもすぐには選べない。だが一つだけ確かにいえるのは、本書が著者の思索の到達点であることだ。

作品の舞台を全くの異世界に置き、異世界を訪れた人類が認識のギャップに右往左往する様を描いたSF的手法から始まった著者の作家生活。著者の文学的冒険は、読み手と書き手の世界を客観的に描写するメタ手法へと進む。さらに認識や現象の本質に迫る哲学的な作品まで。著者の扱うテーマはどんどんと進化を遂げてきた。

そして本書だ。

本書で著者は、あらゆる存在の創造主を登場させる。地球や地球の属する宇宙よりもさらに上のレベルの枠組みを創造した存在。人間が思い浮かべる神よりももっと先の超越した「それ」。「それ」が本書に出てくる創造者だ。

ある目的があって人間の体を借りた創造者は、人々の過去や正体をこともなげに当ててゆく。おりしも、街には片腕と片足だけが突如現れる事件が起こり、物騒な雰囲気が漂っている。創造者はあえて自分を公衆の目に晒す。創造主の目的は、本稿では書かない。だが、本書を掌る役目なのは創造者だ。そして創造者は著者の分身となって物語を自在に進行させる。

本書で圧巻なのは創造者と人々の対話シーンだろう。いや、対話とは言いすぎか。人々と創造者が対等なはずがないからだ。そのシーンでは人々が創造者に問い掛け、創造者がそれに答える。その様子は師と弟子の問答のよう。人々が創造者に問いたいことは様々だ。検事が、クリスチャンが、哲学者が、サラリーマンが、弁護士が、科学評論家が、経営者が、政治評論家が、それぞれの悩みを創造者に問う。

彼らの問いは、彼ら自身にとっては切実なものだ。創造者はそれらの問いを造作なくさばいてゆく。創造者にとっては取るに足りない問いといわんばかりに。多分、82歳の著者にとってもそれらの問いの多くは取るに足りないものなのだと思う。そして、本書に登場する問いからは、著者の関心分野も読み取れて興味深い。ちなみに問いの中には宗教間の争いも、科学技術の行く末や、環境問題の解決法についても登場する。ところが、国際政治、特に日中韓の関係について問いかけようとする人物はいるが、その質問者はすぐに退場させられる。本書で取り上げられる他の問題に比べれば、国と国の間の関係はあまり大したことではない、という著者の考えが垣間見える。国際政治に関する著者のスタンスがうかがえて興味深い。

さらに本書を読んで感じたのは集合知の未熟だ。本書を読んでいると、ITがもたらしたはずの集合知が人々の切実な問いに答えられない事実を痛感する。知恵袋やOK waveといったQAサイトはあるが、それらのサイト内で人々の悩みに答えるのは他の回答者。つまり人力だ。哲学的な問題や科学技術の問題もそう。ITがそれらの問題に回答できる日が来るのはいつの日だろうか。今のITに期待される知恵とは、ビッグデータの集積から導き出される人工知能による回答をさす。だが、今のITに蓄積されつつある集合知とは、人間の知恵の延長線上にある。つまり今の段階ではITは神にはなり得ていないのだ。

そして著者はSF的な設定手法を本書に持ち込みつつも、技術論や科学論の袋小路に入り込んむ過ちを犯さない。しかもそれでいて難解な人間存在のあり方について分かりやすく説く。SFにはこういうアプローチもあるのだと感心させられた。

思索の内容といい、アプローチの手法といい、本書は著者の思索の到達点だ。その思索の成果を創造者の口を借りて語ったのが本書だ。だからこそ、著者をして最高傑作と言わせたのだろう。私も本書を著者の代表作の一つに推したい。ただ著者のファンとしては、ここまでの高みに登ってからの作家活動が気になる。可能ならばあと一編は著者の長編を読みたいものだ。そんな願いを抱きつつ、著者のブログ「偽文士日録」をチェックしよう。

‘2017/03/17-2017/03/17


親鸞-悪の思想


2014年の後半に読んだ「人はなぜ宗教を必要とするのか」。この本によって、浄土真宗の創始者である法然、親鸞に興味を持った。

念仏を唱えさえすれば善人だけでなく悪人も極楽浄土に往生できる、いわゆる悪人正機の教え。一切の自力による努力を虚しいものとする他力本願の教え。鎌倉時代に現れたこの二つの教えは、今の秩序ある競争社会の目には異質に映る。人の世の清濁や人間の営みを退けず、むしろ受け入れた上で宏大な包容力で包むような教義は、我々に自らの小ささを思い知らせる。さしずめ、勤め人の状況からなんとか逃れよう、日々が同じ日々にならぬよう、バタバタしている私もまた、小さき人の一人に過ぎないのだろう。

本書は新書ではある。しかし内容は実に濃い。新書の紙数を最大限に使い、親鸞の教えについて緻密な検証を繰り広げる。その緻密さは、難解さでもある。本書において著者は親鸞の教えとがっぷり四つに組んで格闘している。半可な私には、その高度な闘いのほんの一部分しか理解できなかった。親鸞の思想の深みを知れば知るほど、私などの手には届かぬ距離を感じた。よしんば触れえたとしてもそれを掴み上げることは今の私にはまだ無理である。しかし、努力は放棄したくない。今回本稿の形で改めてレビューに起こすにあたり、本書で繰り広げられる著者と親鸞の格闘を見届け、中継と解説を試みたいと思う。

序章 悪への視角
序章からして、深い。著者の筆致は端正であり、冷静だ。読者への媚びもない。序章から早くも、親鸞の思想への切り込み方が示される。

冒頭から歎異抄の有名な一説が提示される。

善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。

ここでいう悪人とはなにか。親鸞はどういう視角から、悪人を定義したのか。序章には「悪への視角」という題が付されている。その名にふさわしく、著者は悪への視角を追求する。

親鸞が起こした浄土真宗は、加賀の蓮如によって大いに栄えた。だが、蓮如は歎異抄を聖教の書としつつ、みだりに信者に読ませることを禁じたという。当時にあっても、この内容は誤解を招きかねないと思われていたのだろう。また、著者は親鸞の思想の深みに踏み入れる前に断りを入れる。それは、歎異抄が親鸞の教えを伝えている書かどうかについてである。歎異抄は、親鸞の弟子唯円によって書かれたが、親鸞が悪人正機の考えを持っていたことは確かであり、歎異抄の内容も親鸞の教えに相違ないという。実際、明治以降になって歎異抄については従来考えられていた論とは違う角度からの様々な論が提示されたという。そのような様々な論に対し、著者は次々と論破を試みる。その中には梅原猛氏や山折哲雄氏といった現代の碵学も含まれる。両氏もまた、歎異抄については疑問を述べ、独自の論を展開する。果たして唯円が表した歎異抄は、親鸞の思想を的確に伝えているか。著者は伝えていると考え、梅原、山折両氏は伝えていないとする。著者は両氏の論に真っ向から対論を挑み、序章からしてすでに濃密な論理が展開される。

また、返す刀で著者は思想研究のあり方についても論を進める。過去の思想を検証するにあたっては、現在の立ち位置から検証されなければならないと言う。客観的な親鸞像よりも、わたしたちにとっての親鸞像が重要という訳だ。

この視点はかなり私にとって重要だ。というのも、私は歴史問題を考える際は、時代背景が違う後世の人間が過去を断罪するなどおこがましいと考えているからだ。ただ、本書がいうように過去の研究が今に活かせないとすれば、それはただの骨董趣味という意見もその通り。上記の箇所を読み、私も今後、近代史や戦史について考える際は改めてその事を意識しなければと思った。

第一章 思想史のなかの親鸞
序章からして著者のペンの切っ先は鋭い。鋭く端正で、丁寧だ。翻って第一章では、その鋭さを一旦鞘に納め、著者は万葉集を例にとり、日本の無常をめぐる考えの移り変わりを説く。平安末期からの戦乱とそこにはびこった末法思想。その混乱の中で師法然がたどり着いた易行による救済。それらの時代背景を踏まえた上で親鸞の生涯が描かれ始める。天台宗の中で性欲に悩み、如意輪観音から啓示を得、法然の弟子となる経緯。浄土宗が弾圧され、流刑が解けた後も関東で布教を積んだ日々。20年後に京に戻るも、実子の善鸞が教えを曲げたとして義絶せざるを得なかった苦悩。孤独と苦悩のうちに90歳で亡くなった晩年。その中で親鸞自身が自分の中の欲望に悩み、「罪悪有力 善根無力」の法然の教えにすがる経緯や、それでいて、悪しき凡夫である自身から逃れられなかった苦しみに呻吟していたことなど、親鸞の生涯が簡潔になぞられていく。また、親鸞死後の浄土真宗の歩みを蓮如の時期まで概説し、蓮如の歎異抄にたいする考えを批判する。衆目に歎異抄を晒すことを禁じた蓮如は、悪人正機の一説を道徳・倫理の視点からでしか読み解かなかった。しかし、この一説は人間存在の根本に肉薄する重要な言説であること。

第二章 悪人正機の説
一章の最後で指摘した内容を受け、悪人正機説に切り込むのが本章だ。ここでは先に挙げた一節「善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。」と、それ以下に続く文章が引用される。その引用箇所では、他力本願の教えが明確に書かれている。つまり、一切を弥陀の本願に委ねきって他力の立場に立つ悪人こそが、まさしく救いにあずかるべき身である。したがって、善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は当然だ、と。これこそが他力本願の教えである。この引用文からは、悪人正機と他力本願の教えは歎異抄の中ですぐ隣に書かれていることがわかる。

ここで著者は悪人を道徳的・倫理的悪ではないとする。文字通りに読むと親鸞は悪人こそが往生できると述べた破戒僧になってしまう。だが、門人に対して悪行を諌める文書が残っているという。つまり、破戒を推奨した人物だったわけではないという。後世の暁烏敏による解釈では悪人と善人のそれぞれの意味は逆説的ではないかとあったが、それも違うと著者はいう。つまりは、悪を道徳的・倫理的悪と見るのではなく、存在論的悪とみることで、これらの疑問は解消されるという。

存在論的悪とは、何か。それは存在することとは、他人を殺すことによって生かされているということを意味する。仏教の考えでは生きとし生けるものは皆仏性を持つとある。つまり仏性を持つ他の生き物を殺さねば自分が生きられない。これこそが存在論的悪である著者は云う。

また、著者は存在論的悪の例をもう一つ上げる。それは私のような商売人にとって致命的ともいえる悪だ。つまり商売の悪である。商売とはつまるところ他人により自分を売り込むことであり、他人の損を自分の得につなげる営みである。商売とは、自らの利益を追う営みであることは否定しようがない。また、入学試験のように自らが入学できたことは、反対に落とされる人がいることも意味する。また、仮に皆で人助けをしたとしても、それすらも別の人に被害を及ぼす可能性は否めない。それらを著者は排除という言葉で表す。そこに存在することで例え悪意がなくとも他人に被害を及ぼしうる。まさに存在論的悪である。人が生きる限り避けられない悪。親鸞のいう悪人とは、存在論的悪をなす我々全てと見てよい、と著者はいう。

親鸞の自己への視線はあくまで客観的で、突き放している。我々煩悩に生きる人々にも、ふと物思いにふける瞬間がある。そんな時、自らの存在について、生きものを食べねばいきられない業について、利益を追う日々について自省することもある。しかし、私も含めたほとんどの方は、日々の多忙にかまけ、その様な考察を深めることをしない。またはしても忘れる。そもそも親鸞のように、四六時中、自らの存在や存在していることで生ずる悪業に考えを廻らすことなどできるはずもない。我々の精神は親鸞のようにそこまで頑丈ではないのだ。私は常に思うのだが、仕事という仕組みには、一面ではそういった思考に落ち込まないため、我々自身を多忙に追い込むために考えた仕組みではないかともいえる。

道徳的・倫理的意思に関わらず人は例外なく悪人である。親鸞の悪人正機説は、そこに基点を置く。だから、善人なおもって往生す、の善人とは「もし善人というものがありうるならば」との注釈が入るはずだ、というのが著者の解釈となる。

また、我々が悪を避けられないならば、全てを念仏に託し、念仏を通して阿弥陀の救いにすがる、という理屈も分かる。我々の存在がどうあっても悪でしかない以上、人間が善悪を云々するのもまた愚か、というわけだ。つまり、善人になろうと努力する人は在りもしない善を求め、悪を自覚できず存在の根本から誤っていることになる。親鸞のいう善人悪人について、著者はこう解釈している。つまり、悪人が自らの存在故に無力な悪人であるため、阿弥陀によって救済される、ここに親鸞の悪人正機説があると著者はいう。ただし、第四章で触れられるが、信心を持たず、悪業の限りを尽くす、道徳的・倫理的悪人が弥陀の本願として救われない存在であることはいうまでもない。

著者はその結論を携えて次章に移る前に、信仰の定義を確認しておくことを忘れない。その中で著者が訴えたいのは、科学的立場から、宗教を退けることの不毛さである。自然科学も根本まで突き詰めれば、この定理が正しいはずという「信仰」にすぎないと著者はいう。

この辺りの議論は、本書を読むきっかけとなった「人はなぜ宗教を必要とするのか」で展開された論理と同じである。

第三章 「信」の構造
ここでは、信仰の在り方について、親鸞の考えが述べられる。法然の忠実な弟子であった親鸞は、弟子を持っていなかったという。門人は多数いたが、仏門にあっては共に弥陀の弟子であり、弥陀の前では等しいと。信仰とは、弥陀から衆生に等しく一方向に与えられるもの。弥陀の前にはただ単独者として相対するだけ。単独者のはずなのに、別の単独者を弟子とすることは矛盾しているのではないか。親鸞はこう見ているのだという。しかし一方で、仏への理解には差があるため、親鸞は師弟関係は認めていたという。

ここからは、徹底的に仏の前にあっては皆無力であり、小賢しく徒党を組むことを拒むのが親鸞の思いであることが見てとれる。宗派の勢力争いなどもってのほか。また、親鸞は師法然の念仏という行の重要性も認めつつ、信、つまり思いこそを重視する。念が優先されるとするならば、言語が不自由な方は往生できなくなる。親鸞がこの事を認識していたこともまた、当時にあっては尊敬すべき点だと思う。

ここで著者はアウグスティヌスを引き合いに出す。神から一方的に与えられる信仰。そしてキリスト教に知られる原罪の考え。著者は敢えて書かないが、キリスト教への真摯な宗教心と、親鸞の意図した信には共通点があると言いたいのではないか。そして著者は、徹底した受動性が信であるとするならば、不信心者が自らの不信心を述べることについても、その基盤が不徹底であればそもそも不信心とすら云えないと喝破する。この点も「人はなぜ宗教を必要とするのか」に書かれていた。

第四章 悲憐
前章では、受動性が説かれた。では我々にできることはないのか。親鸞は何も行わず、誰にも与えようとしなかったのか。本章ではこの点に詳しく触れる。

まず、往相廻向と還相廻向の考えが示される。前者は、人間が自分の力に基づいて自己を弥陀に駆り立てることではなく、弥陀が人間を弥陀自身にむかって駆り立てる(往生させる)ことだという。後者は、浄土に往生した者が現生に帰ってくることと同義だという。その上で親鸞は、まず往相廻向によって人は弥陀によって導かれ、そして往生後、還相廻向によってこの世に現れ、人々を弥陀道へと導くという。そして還相廻向の営みおいては、悲憐の情を伴うべきという。つまり往相廻向が受動性であるならば、人々に弥陀の悲憐を差し向ける営みこそが能動性、還相廻向であると著者はいう。それはまた、共に悲しむ共悲にも通ずるものだろう。

思うに、往相廻向と還相廻向の違いとは、仏教の成り立ちからついて回る小乗仏教と大乗仏教との違いに当てはまるのではないか。自己の研鑽とそれによる成仏が小乗仏教とすれば、民に等しく仏の慈悲を広めるのが大乗仏教であると。こう考えると、仏教とは、大きな二つの考えの間を揺れなから育ってきた宗教だと思える。(これを書くにあたって調べた所、現在は小乗仏教という言葉は差別的な意味を含むため使われなくなっているらしい。)

ここで、著者は歎異抄のそもそもの成り立ちに読者の注意を向ける。歎異抄は唯円が親鸞の教えと異なる教えが横行することの歎きを書いたものという。そして、歎異抄について唯円は、親鸞の教えから逸脱した教えを信ずる人々を非難せず、共悲の心をもって歎異抄を編んでいるはずだと著者はいう。そして、その姿勢にこそ、歎異抄が親鸞の教えを正統に受け継いでいる所以ではないかと。

結章 悪の比較論
ここでは、まとめに入る。まとめではアウグスティヌスが再び登場し、親鸞のいう悪とアウグスティヌスのいう原罪について、精緻な比較がなされる。そこでは存在論的悪こそが神に救われ、高ぶるものや傲慢といった道徳的・倫理的悪は神に見出されることすらない。このあたりの論理はアウグスティヌスと親鸞に共通していると思う。

アウグスティヌスは、マニ教とキリスト教のどちらを選ぶか悩んでいたことが示される。マニ教。高校の世界史で出てきたことは覚えているが、私にとってほぼノーマークの存在。マニ教は、キリスト教にとある問いを突きつけたという。

  悪はどこから来るのか

つまり、全知全能な神が作り上げた善なる世界において、現実に悪は存在する。その悪とはどこから来るのか、という問いだ。そこでアウグスティヌスは、自らの放蕩の過去も踏まえ、悪の一切を拒絶したマニ教でなく、罪びとをも包容する力を持ったキリスト教を選んだ。だが、悪はどこから来るのかという問いは解消されぬままであり、アウグスティヌスは答えを出す必要があった。

その結果、善の欠如が悪であり、悪は神にかかわるものでなく人間の自由意思に生ずるとアウグスティヌスは考えた。

そして、理性を持つかどうかによって、下位の動物に対する生殺与奪の権利を持つと規定し、原罪の考えを解決しようと試みた。それは現代にも通ずる科学中心、人間中心の考えに繋がる、西洋式の考えに繋がるはずだ。著者もその点には気づいており、そこにアウグスティヌスの限界があったとしている。

一方で親鸞はそうした逃げを打たなかったとする。人間が存在する限り逃れられない悪。アウグスティヌスや他の思索者が道徳的・倫理的悪で思索を止めてしまったのに対し、親鸞はその先を行った。が、著者は親鸞ですら矛盾を完全に超克したわけではないと補足する。つまり、すべての存在が仏性を持つはずなのに、なぜ存在論的悪が存在するのか、との理屈だ。

著者は結びとしてこう提言する。存在論的悪を受け入れ、そのことを有り難く、申し訳ないと思うことが、他人への配慮に繋がる。そして、その謙虚さは、自らの存在を無反省に認識すべきではなく、自らの存在論的悪を見続けてこそ、新たな変貌を遂げられるはずだ。そこに、親鸞の思想が現代にも通ずる余地がある。このような結論で本書を締める。

私の理解は親鸞の思想の深淵には程遠いが、著者の闘いの跡だけはかろうじて追えたのではないかとおもっている。

‘2015/02/17-2015/02/26


川の名前で読み解く日本史


私の関心対象のひとつに川がある。川は面白い。上流部の岩場や滝は荒々しく。中流部の草生い茂る川面と緑豊かな土手はのどかに。清濁合わせ呑んだ下流部の拡がりは悠々自適。川を人の一生に例えることは昔から行われてきたが、その気持ちもわかる。

私は、未熟で無鉄砲な上流部が好きだ。生まれたての雫が人跡未踏の沢を下り、木々の間を自由にすり抜けるかと思えば、断崖を急落下する。思うままの独り旅。憧れる。

しかし、人間と川の歴史を語るのであれば、それは中下流部だろう。水在るところ人々は集い、歴史を作ってきた。

本書は、4章にわたって日本各地の川と人々の関わってきた歴史を紹介する。本書に登場するのは本邦の有名河川たち。多々良川以外は全て一級河川である。それらが4章のそれぞれの切り口から取り上げられている。

第一章 名前で読み解く川の歴史
淀川・九頭竜川・球磨川・利根川・筑後川・多々良川
第二章 合戦のゆくえを知る川
千曲川・姉川・手取川・長良川
第三章 川の恵みに育まれた信仰
四万十川・信濃川・吉野川・富士川・天竜川
第四章 アイヌ語に秘められた川の由来
最上川・北上川・石狩川・日本各地の「金」の川

第一章は、それぞれの川の名前から、その地域の歴史や風土を絡めて紹介する。第二章は、合戦の舞台として著名な川である。なお、千曲川の合戦という合戦はないが、川中島の舞台といえばお分かりだろうか。

本書は紙数の限界もあって有名な川のみの紹介にとどまっているが、まだまだ我が国には見るべき河川が多数ある。小さな川まで数えれば、河川の数だけ故郷があるといっても過言ではあるまい。私にとっても武庫川・久寿川・猪名川・芦屋川といった河川には愛着があるし、ほぼ毎朝晩に渡河している多摩川・鶴見川も捨てがたいものがある。本書を通して川に興味が湧き、少しでも美化意識が高まることを願ってやまない。

‘2014/10/26-10/31


1Q84 BOOK 1


本稿を書き始める数日前、今年度のノーベル文学賞受賞者が発表された。有力候補とみなされていた村上春樹氏は、残念ながら受賞を逃した。毎年のように候補者に名が挙がる氏であるが、本人は同賞に対しそれほどの拘りはないように思える。私の思い込みであるが、今までに読んだ氏の著作からはそういった色気があまり感じられなかったためである。茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作からは、ノーベル賞といった世俗の栄誉は縁遠いように思えた。今までは。

本作は、今までの著者の作品とは現実との関わり方が違うように思える。より近寄っていると言っても良い。その近寄り方は、現実にすり寄り媚を売るのとは少し違う。本作のテーマを際立たせるため、あえて現実に近寄って描写した。そんな感じである。テーマを浮かび上がらせるため、背景となる現実を彫っては捨て、削っては捨てる。そうすることで、提示されるテーマはより鮮明になる。

BOOK 1<4月-6月>と名付けられた本書は、芸事にいう序破急の序にあたる。青豆なる殺し屋稼業の女性と、川奈天吾なる小説家志望の塾講師。この二人が本書全体の主人公となる。何も関わりの無いように思える二人の日常が交互に章立てされて物語は進む。序といっても退屈な状況説明が続くわけではない。のっけから読者を引きつける展開が待っている。青豆は、首都高の上でタクシーを降り、非情出口まで歩いてそこから降りていくといったような。目的地のホテルで鮮やかな手技で男の命を奪うといったような。天吾の方は、天才少女作家の応募作を改作し、添削して世に出すといったような。

二人が過ごす、彼らなりに穏やかな日常。そのような日常を転換すべく訪れた展開。そんな中、二人の考えや生い立ちが徐々に語られていく。物語の行く末に興味を持たせ続けながら序の状況説明や人物説明まできっちり行ってしまうあたり、さすがの熟練の技である
先に、本書は今までの著者の作品よりも現実に近づいた描写が目立つと書いた。しかし、近づいたといっても近づきすぎず、現実の瑣末なディテールには踏み込まない。現実の描写とは、あくまで二人の人物像を際立たせるための小道具である。青豆の殺人者としての技量は殊更に誇張しない。性欲が溜まると男をあさりに行く程度の日常。そこには現実のディテールは不要で、その少々危険な香りのする日常を追うだけで読者は次の展開が待ち遠しくなる。一方、危うい行動とは無縁に思える天吾の日常も同じである。塾講師としての日常の雑務にはあまり触れない。小説の応募や選考や出版といった祭り事からも距離を置く。天才少女作家である「ふかえり」を配し、そのエキセントリックでマイペースな行動が天吾を振り回すだけで、読者はますます目が離せなくなる。

話は天吾の代筆した「空気さなぎ」の爆発的なヒットと、仲介した編集者である小松の存在、さらには「ふかえり」の幼少期から、謎の信仰集団が登場するに至って、天吾の日常は破天荒なそれへと変わっていく。柳屋敷に住む謎の老婦人からの青豆への依頼と、柳屋敷の謎めいた執事タマルとの関わりを通し、青豆の世界も大きく動く素振りを見せる。彼女を取り巻く日常がいつの間にか別のものにすり替わり、少しずつ現実が幻想的な色を帯び始める。

ここまで読んでいて、私はテーマと思われるものが浮かび上がっていることに気付いた。それは現実からの疎外である。謎の信仰集団は、当初は現実に背を向けて自給自足を営むだけの集団だったが、急速に閉鎖的になっていく。天吾の幼少期、NHKの集金人である父に休日ごとに集金に連れまわされ、学校ではNHKというあだ名で呼ばれ疎外される。「空気さなぎ」があまりにも大ヒットし、代筆がばれないよう、喧騒から逃れるように世間から疎外された日常をふかえりと過ごす。青豆はあゆみという婦人警官と世界との疎外感を埋めるために、性の逸脱に精を出す。

謎の信仰集団の成立過程、NHK集金人、あゆみを通した婦人警官の描写。ここにきて、著者の筆は精緻を描き、詳細を語る。今までの著者の小説にはない描きっぷりである。その結果、浮かび上がってきたのが世界からの疎外感である。私などは、疎外感が本書の唯一のテーマである、と序の時点で早合点してしまったほどである。

’14/05/27-‘14/06/01


チャイナ・レイク


スティーブン・キングをはじめとして、アメリカのエンターテインメント小説の書き手には優れた方が多数いるけれど、読む本全てがハリウッド映画のようなスピード感とスリルに満ち溢れた一品かというとそうでもなくがっかりさせられることもある。ところが、本書はがっかりどころか、一気に物語の結末にたどり着かせる、いわゆる寝不足本の類である。

カルト教団に対決するヒロインというとありきたりのプロットが想像されるかもしれないけれど、二重三重にも伏線が貼ってあり人物造形も豊かなので、著者に振り回されるままに物語世界に嵌っている間に、ラストまで引っ張られるという読後感である。

本書のヒロインがSF作家という設定なのだけれど、SF作家の機械的なイメージが、本書の大半で舞台となる荒涼とした砂漠のイメージとの落差を生み、読後も作品世界に妙な後味を覚える。シリーズの続きがあるとのことだが、また読んでみたいと思える作品。

’12/1/31-’12/2/3