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ボヘミアン・ラプソディ


涙こそこぼさなかったけど、泣いてしまった。ここまで再現してくるとは。映像と音楽でクイーンとフレディ・マーキュリーが私の中で蘇った今、彼らの曲の歌詞が私の中で真の意味を持って膨らんでいる。ライブ・エイドに遅れて育った私自身の後悔とともに。

ロック少年としては、私はかなり遅咲きの部類だ。中学三年生の時。1989年の春頃だったと思う。友人に貸してもらった映画のサントラ(オーバー・ザ・トップ、ロッキーⅣ、トップ・ガン)から入った私は、一気に洋楽にはまった。高校の入学祝いにケンウッドのミニコンポを買ってもらってからは、バイト代や小遣いのほとんどをCDに費やしていた。それでもなお、私は時代に遅れたロック少年だと思っている。なぜなら私はライブ・エイドをリアルタイムで経験していない。私が音楽にはまった時、FM雑誌に新譜として特集されていたのはクイーンの「The Miracle」。クイーンの歴史の中では晩年に発売されたアルバムだ。フレディ・マーキュリーが存命の間でいうと最後から二つ目にあたる。だから私は、リアルタイムでクイーンを聞いていた、とはとても言えない。

しかし、私が今までの人生で訃報を聞いて一番衝撃を受けたのはフレディ・マーキュリーのそれだ。エイズ感染というニュースにも驚いたが、翌日、畳み掛ける様に死のニュースが届いた時は言葉を失った。洋楽にどっぷりはまり、当時すでに「A Night At The Opera」がお気に入りだった高校二年生にフレディ・マーキュリーの死は十分な衝撃を与えた。さらに数年後、フレディ・マーキュリーの遺作として出された「Made In Heaven」は、ラストの隠しトラックにトリハダが出るほどの衝撃を受けた。「Made In Heaven」を始めて聴いた時の衝撃を超えるアルバムには、昔も今もまだ出会っていない。それ以来、クイーンは私のお気に入りグループの一つであり続けている。

本作が公開されることを知った時、私は半年以上前から絶対見に行くと決めていた。クイーンというバンドの成り立ちから栄光の日々が描かれる本作。だが、より深みを持って描かれるのが、フレディ・マーキュリーの出自や性的嗜好だ。パールシーの両親のもとに生まれ、インドで教育を受けてイギリスに移り住んだ出自。バイ・セクシャルとしての複雑な性欲の発散の日々。それらは、クイーンの大成功の裏側に、複雑で重層的な深みを与えていたはずだ。その点はロック・バンドの成功という表面だけではなく、もっと深く取り上げられるべきだと思う。クイーンはそうした意味でもいまだに特異なグループであり続けている。本作はまさにクイーンの特異さを描いている。本作は、私の様なアルバムとWikipediaと書籍でしかクイーンをしらない者に、より多面的なクイーンの魅力と闇を伴い、心にせまり来る。

正直、私は本作を見るまで、フレディ・マーキュリーが自身の歯の多さを気にし、常に口元を隠す様な癖を持っていたことや、デビューの頃の彼女だったメアリー・オースティンが本作に描かれる様に公私でフレディ・マーキュリーを支えたほどの存在だったことも知らなかった。また、本作でフレディ・マーキュリーを操ろうとする悪役として描かれるポール・プレンターの存在も知らずにいた。こうした情報は私の様な遅れて来たファンにとって貴重だ。

本作はブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽を監修しているという。だから本作に描かれた内容もおおかた事実に即しているはずだ。内容にも明らかな偏りは感じられなかった。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがお互いの歌詞をけなし合ってケンカするシーンなども描かれていたし。ジョン・ディーコンが「Another One Bites The Dust」のベースラインを弾いて三人のケンカを仲裁するシーンとかも描かれていた。フレディ・マーキュリーを表に出しつつも、四人の個性の違いがきちんと書き分けられていたのではないか。もっとも、本作はオープニングとエンディングをライブ・エイドで締める構成にするため、事実とは違う時間軸で描いたシーンが多々あるようだ。フレディ・マーキュリーがエイズ感染をメンバーに伝えたのはライブ・エイドの前だったかのように本作では描かれているが、ライブ・エイドの後だったらしい。フレディ・マーキュリーがポール・プレンターに絶縁を言い渡す時期もライブ・エイドの後だったとか。

ただ、本作は映画であり、そうした脚色は当然あっても仕方ないことだと思う。脚色がありながらも、芯の部分を変えずにいてくれたことが本作をリアルにしていたと思う。何よりも、俳優陣の容姿が実物の四人にそっくりだったこと。それが一番、本作に説得力を与えていたと思う。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、以前友人から勧められて観ていた「Mr.Robot」の主人公としておなじみだった。また、娘たちが好きな「ナイト・ミュージアム」にも登場していた。確かに顔はフレディ・マーキュリーに似ているとは思ったが、本物より目が少し大きいな、とか。でも演技があまりにも迫真なので、次第に本物とそっくりに思えてくるから不思議だ。また、私の感想だが、ブライアン・メイにふんしたグウィリム・リーがあまりにもそっくり。彼がギターを弾くシーンだけで、事実との些細な違いなどどうでもよくなったぐらいに。「Bohemian Rhapsody」の有名な四人の顔の映像や、「 I Want to Break Free 」の女装プロモーションビデオも本作では四人が再現している。そうしたクイーンのアイコンともいえる映像を俳優たちがそっくりに演じているため、時間がたつにつれ、俳優の容姿が本物に近づいていくような錯覚を覚える。エンド・クレジットに本物の「Don’t Stop Me Now」の映像が使われることで、観客は映画が終わり、今までのドラマを演じていたのが俳優だったことにハッと気づかされる。

そして本作の音楽は、映像と違い、あえてフレディ・マーキュリー本人の声を多くのシーンで使っているそうだ。劇中でフレディ・マーキュリーが歌う、音源として残されていない歌声は、私もYouTubeで映像を観たことがあるカナダ人のマーク・マーテルが担当したそうだ。むしろ、それで良かったのではないかと思う。なぜならフレディ・マーキュリーの声はあまりにも唯一無二だから。マーク・マーテルのような手練れのそっくりさんが吹き替えるぐらいでなければ、いくら実際の俳優がうまく再現したとしても、観客の興を削いでしまう可能性が高い。

それよりも本作は、フレディ・マーキュリーという人物の志と成功、そして死に至るまでの濃縮された生の躍動に注目すべきだ。彼の生はまさに濃縮という言葉がふさわしい。たとえ45年しか生きられなかったとしても。おそらく普通の人の数倍も濃い密度をはらんだ人生だったのではないだろうか。本作にも「退屈などまっぴら」という意味のセリフが三度ほど出てくる。「俺が何者かは俺が決める」というセリフも登場する。一度やったことの繰り返しはしない、カテゴリーにくくられることを拒むクイーンの姿勢が本作の全編に行き渡っている。何気なく流され、生かされているのではなく、自分で選択した人生を自分で生きる。そしてその目標に向かい、時には弱音も吐きながら、理想は捨てぬまま、高らかに生の高みを歌い上げる。本作にはそのスピリットが貫かれていた。彼らの曲の歌詞の意味が真に理解できた、と冒頭にも書いたが、それは本作に一貫するテーマ、生の謳歌に通じる。本作が発するメッセージとは生きる事への賛歌だ。

私が訪れた回が満席で、次の回に回してもすぐに席がいっぱいになり、私が座ったのは前から二列目。とても見にくかったが、その分、迫力ある波動が伝わってきた。曲中で流れる実際の唄声の多くは私が好きな曲。私がクイーンで好きな「The Prophet’s Song」 、「39」や 「Innuendo」が流れなかったのは残念だが、最後に流れた「The Show Must Go On」が私の涙腺を緩めてしまった。人生という面白くも厳しく、愉快で苦しいショー。自分のショーは自分の力で演じてゆかねばならない。生きていく限り。表現者としてこれ以上のメッセージが発せられるだろうか。

‘2018/11/17 TOHOシネマズ六本木ヒルズ


夜になるまえに―ある亡命者の回想


私が本ブログでアップした『夜明け前のセレスティーノ』は、奇をてらった文章表現が頻出する小説だった。その表現は自由かつ奔放で、主人公とセレスティーノの間に漂う同性愛の気配も印象に残る一冊だった。(レビュー

本書は『夜明け前のセレスティーノ』の著者の自伝だ。本書の冒頭は「初めに/終わりに」が収められている。ともに著者自身による遺書のようなものだ。ニューヨークで本書を著した一九九〇年八月の時点の。著者はエイズに感染したことで自ら死を選んだ。自ら世を去るにあたり、著者が生涯を振り返ったのが本書だ。エイズが猖獗を極めるさなかでもあり、著者の心には諦観が漂う。エイズに罹ったことについても。著者の筆致は平らかだ。ただし、著者が生涯を通じて抱き続けた疎外感と怒りは消えない。「どんな体制であれその体制における権力者たちはエイズに大いに感謝しなくてはならない。なぜなら、生きるためにしか呼吸しない、だからこそ、あらゆる教条や政治的偽善に反対する疎外された住民の大部分はこの災いで姿を消すことになるのだから」(16-17P)

そして著者の自殺をもって本書は幕を閉じる。まだ著者がキューバから亡命する前から書き始められていたという本書は、著者の生きざまそのものであった。「初めに/終わりに」の筆をおいた時点で著者は速やかにに死へと向かう。「初めに/終わりに」で著者は自らの文学的業績についても振り返っている。五部作と位置付けた作品群が完結できぬまま、死ぬ自分を歎き、カストロ政権を民衆が倒してくれることを祈りつつ。

「仕事を仕上げるのにあと三年生きていないといけないんだ。ほぼ全人類に対するぼくの復讐となる作品を終えるのに」(17P)。五部作は完結に至らなかったが、本書が著者による人類への復讐であることは明らかだ。その刃はホモ・セクシャルを決して許容しなかった人類に対して向けられている。

本書はホモの営みを赤裸々に描いている。先に、『夜明け前のセレスティーノ』には同性愛の気配が漂うと書いた。本書は漂うどころではない。全編にモウモウと満ちている。著者がホモ・セクシャルへと目覚めた瞬間から、ホモのセックス事情に至るまで。その内容は本稿に引用するのもはばかられるほどだ。その発展家の様子はすさまじいの一言につきる。なにせ初体験が8歳だというのだから。そして「エロティシズム」と題された144p~169pまでの章。ここでは出会いと交渉、そして性行為に至るまで、ありとあらゆるホモの性愛のシチュエーションが描かれる。

著者が育ったのはカストロ政権下のキューバ。共産主義と言えば統制経済なので、国民に対して建前を強いる傾向にある。そして建前の国にあって同性愛などあってはならないことなのだ。だが、本書で書かれるキューバ革命前後までのホモの性愛事情はあけすけだ。それこそ何千人斬りという人数もウソではないと思えるほどに。「六〇年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う。」(157P)。と「エロティシズム」の章で振り返っている。そして返す刀で著者は何がキューバをそうさせたのかについても冷静に分析する。「何がキューバの性的抑圧を押し進めたのかといえば、まさしく性解放運動だったのじゃないだろうか。たぶん体制に対する抗議として、同性愛はしだいに大胆に広がっていったのだろう。一方、独裁は悪と考えられていたので、独裁が糾弾するものはどんなものであれば肯定的なものであると、体制に従わない人たちはみなしていた。六〇年代にはすでに大半の人がそんな姿勢だった。率直に言って、同性愛者用の強制収容所や、その気があるかのように装ってホモを見つけ逮捕する若い警官たちは、結果として、同性愛を活発化したにすぎないと思う」(159P)という辛辣な分析まで出てくる。

著者とて、キューバ革命が進行する時点では反カストロだったわけではない。キューバ革命の成功がすなわち、著者をはじめとしたホモ・セクシャルの迫害に直結ではないからだ。そもそも著者はキューバ革命においてカストロ軍の反乱軍と行動をともにしていた。むしろ、腐敗したバティスタ政権を倒そうとする意志においてカストロに協調していたともいえる。著者がキューバ政府ににらまれた原因は著者の作品、たとえば『夜明け前のセレスティーノ』が海外で出版されたことによる。それが評判になったことと、その内容が反政府だと曲解されたことで当局ににらまれる。だからもともとはホモ・セクシャルが原因ではなかったようだ。が、キューバが対外的に孤立を深め、統制を強め、建前を強化する中で、ホモ・セクシャルが迫害の対象になったというのが実情のようだ。そして、著者の周辺には迫害の気配がじわじわと濃厚になる。

カストロ政権はもともと共産主義を国是にしていていなかった。革命によって倒したバティスタ政権が親米だった流れで、反米から反資本主義、そして共産主義に変容していったと聞く。つまり後付けの共産主義だ。キューバが孤立を深めていくに従い、後付けされた建前が幅を利かせるようになったのだろう。

なので、本書の描写が剣呑な雰囲気を帯びるのは、1967年以降のこととなる。そこからはホモ・セクシャル同士の出会いは人目を忍んで行われるようになる。大っぴらで開放的なセックスは描かれなくなる。ところが、海外で出版した著者の作品が著者の首を絞める。小説が当局ににらまれたため、人目を忍んで原稿を書き、書いた原稿の隠し場所に苦労する。『ふたたび、海』の原稿は二度ほど紛失や処分の憂き目にあい、三度、書き直す羽目になったとか。投獄された屈辱の経験が描かれ、アメリカに亡命しようとグアンタナモ海軍基地に潜入しようとするあがきが描かれる。キューバから脱出しようとする著者の必死の努力は報われないまま10数年が過ぎてゆく。

本書の描写には正直言うと切迫感が感じられない。なので著者がグアンタナモ基地周辺で銃撃された恐怖感、原稿の隠し場所を探しまわる危機感、亡命への努力をする切迫感が、どこまでスリリングだったかは伝わってこないのだ。それは多分、私がキューバを知らないからだと思う。そのかわり、著者が独房で絶望に打ちひしがれる描写からは悲壮な気配がひしひしと伝わってくる。中でも著者がキューバ国家保安局のビジャ・マリスタで強いられた告白のくだりは悲惨だ。著者は「ビジャ・マリスタ」の章の末尾を以下のような文章で締めくくる。
「いまや、ひとり悲惨な状況にあった。誰もその独房にいるぼくの不幸を見ることができなかった。最悪なのは、自分自身を裏切り、ほとんどみんなから裏切られたあと、それでもなお生きつづけていることだった」(278P)

著者の悲惨さより一層、本書の底に流れているテーマ。それは、権力や体制に楯突くことの難しさだ。権力にすりよる文化人やスパイと化した友人たちのいかに多いことか。生涯で著者はいったい何人の友人に裏切られたことだろうか。何人の人々が権力側に取り込まれていったのか。著者の何人もの友人が密告者となり果てたことを、著者はあきらめにも似た絶望として何度もつづる。

本書で著者が攻撃するのは、裏切者だけではない。そこには文化人も含まれる。ラテンアメリカ文学史を語る上で欠かせないアレホ・カルペンティエールとカストロの友人として知られるガブリエル・ガルシア=マルケスに対する著者の舌鋒は鋭い。日本に住む私からみると、両名はラテンアメリカ文学の巨人として二人は崇めるべき存在だ。それだけに、キューバから亡命した著者の視点は新鮮だ。あのフリオ・コルタサルですら、著者の手にかかればカストロのダミー(359P)にまで堕とされているのだから。著者はラテンアメリカ文学の巨匠としてボルヘスを崇めている。そして、ボルヘスがとうとうノーベル文学賞の栄誉を得られなかったのに、ガルシア=マルケスが受賞したことを著者は嘆く。
「ボルヘスは今世紀の最も重要なラテンアメリカ作家の一人である。たぶんいちばん重要な作家である。だが、ノーベル賞はフォークナーの模倣、カストロの個人的な友人、生まれながらの日和見主義者であるガブリエル・ガルシア=マルケスに与えられた。その作品はいくつか美点がないわけではないが、安物の人民主義が浸透しており、忘却の内に死んだり軽視されたりしてきた偉大な作家たちの高みには達していない」(389-390P)

著者が亡命に成功したいきさつも、本書にはつぶさに描かれている。それによると、キューバ国民によるデモの高まりに危機感を覚えたカストロは、国から反分子を追放することで自体を収拾しようとする。著者は自らをホモと宣言することによって、堂々と反分子として出国した。そこにスリリングな密航はない。キューバからみれば著者は反分子であり、敗残者であり、追放者なのだ。著者は平穏な中に出国する。ただ、その代償として、著者は自らの意に反した告白文を書かされ、そればかりか、名誉ある出国すら許されなかったが。

そうした亡命を余儀なくされた著者の魂がニューヨークで落ち着けるはずがない。ニューヨークを著者は「何年かこの国で暮らしてみて、ここは魂のない国であることが分かった。すべてが金次第なのだから。」(401P)

著者が友人たちに残した手紙。その内容が公表されることを望んで著者は本当に筆をおく。「キューバは自由になる。ぼくはもう自由だ。」(413P)

「全人類に対するぼくの復讐」(17P)を望まねばならないほど絶望の淵に立つ著者が自由になるには、もはや死という選択しか残されていなかったのだろう。

ホモというマイノリティに生まれついてしまった著者。著者が現代のLGBTへの理解が進みつつある状況はどう思うのだろう。おそらく、まだ物足りない思いに駆られるのではないか。そもそも著者の間接的な死因であるエイズ自体への危機感がうせている昨今だ。私にとって、エイズとはクイーンのフレディ・マーキュリーの死にしか直結していない。フレディー・マーキュリーがエイズに感染している事を告白し、その翌日に亡くなったニュースは、当時の私に衝撃を与えた。フレディ・マーキュリーの死は著者側亡くなった11カ月後だ。

私が性欲を向ける対象は女性であり、著者のようなホモ・セクシャルの性愛は、正直言って頭でも理解できていない。それは認めねばならない。偏見は抱いていないつもりだが、ホモ・セクシャルの方への共感にすらたどり着けていないのだ。著者が本書で書きたかったことは、偏見からの自由のはずだ。だが、私にとってそこへつながる道は遥か彼方まで続いており、ゴールは見えない。

著者が自由になると願ったキューバは、著者がなくなって四半世紀が過ぎた今もまだ開かれた状況への中途にある。それはカストロの死去やオバマ米大統領による対キューバ敵視政策の見直しを含めてもなお。

そのためにも、本書は読み継がれなければ、と思わせる。そして、赤裸々なホモ・セクシュアルの性愛が描かれている本書は、LGBTの言葉が広まりつつある今だからこそ読まれるべきなのだろう。

‘2018/01/01-2018/01/09


夜明け前のセレスティーノ


著者もまた、寺尾氏による『魔術的リアリズム』で取り上げられていた作家だ。私はこの本で著者を初めて知った。寺尾氏はいわゆるラテンアメリカにの文学に花開いた\”魔術的リアリズム\”の全盛期に優れた作品を発表した作家、アレホ・カルペンティエール、ガブリエラ・ガルシア=マルケス、ファン・ルルフォ、ホセ・ドノソについては筆をかなり費やしている。だが、それ以降の作家については総じて辛口の評価を与えている。ところが著者については逆に好意的な評価を与えている。私は『魔術的リアリズム』で著者に興味を持った。

著者は共産主義下のキューバで同性愛者として迫害されながら、その生き方を曲げなかった人物だ。アメリカに亡命し、その地でエイズに罹り、最後は自殺で人生に幕を下ろしたエピソードも壮絶で、著者を伝説の人物にしている。安穏とした暮らしができず、書いて自らを表現することだけが生きる支えとなっていた著者は、作家として生まれ表現するために生きた真の作家だと思う。

本書は著者のデビュー作だ。ところがデビュー作でありながら、本書から受ける印象は底の見えない痛々しさだ。本書の全体を覆う痛々しさは並みのレベルではない。初めから最後まであらゆる希望が塗りつぶされている。私はあまりの痛々しさにヤケドしそうになり、読み終えるまでにかなりの時間を掛けてしまった。

本書は奇抜な表現や記述が目立つ。とくに目立つのが反復記法とでも呼べば良いか、いささか過剰にも思える反復的な記述だ。これが随所に登場する。これらの表記からは、著者が抱えていた闇の深さが感じられる。それと、同時にこう言った冒険的な記述に踏み切った著者の若さと、これを残らず再録し、修正させなかった当時の編集者の勇断にも注目したい。私は本書ほど奇抜で無駄に続く反復表現を読んだことがない。

若く、そして無限に深い闇を抱えた主人公。著者の半身であるかのように、主人公は虐げられている。母に殺され、祖父に殺され、祖母に殺され。主人公は本書において数限りなく死ぬ。主人公だけではない。母も殺され、祖父も殺され、祖母も殺される。殺され続ける祖母からも祖父からも罵詈雑言を投げつけられ、母からも罵倒される主人公。全てにおいて人が人として認められず、何もかもが虚無に漂い、無に吸い込まれるような救いのない日常。

著者のような過酷な人生を送っていると、心は自らを守ろうと防御機構を発動させる。そのあり方は人によってさまざまな形をとる。著者のように自ら世界を創造し、それを文学の表現として昇華できる能力があればまだいい。それができない人は自らの心を分裂させてしまう。例えば統合失調症のように。本書でも著者の母は分裂した存在として描かれる。主人公から見た母は二人いる。優しい母と鬼のごとき母。それが同一人格か別人格なのかは文章からは判然としない。ただ、明らかに同一人物であることは確かだ。同一人物でありながら、主人公の目に映る母は対象がぶれている。分裂して統合に失敗した母として。ここにも著者が抱えていた深刻な状況の一端が垣間見える。

主人公から見えるぶれた母。ぶれているのは母だけではない。世界のあり方や常識さえもぶれているのが本書だ。捉えどころなく不確かな世界。そして不条理に虐待を受けることが当たり前の日々。その虐待すらあまりにも当たり前の出来事として描かれている。そして虐待でありながら、無残さと惨めさが一掃されている。もはや日常に欠かせないイベントであるかのように誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺される。倒錯し、混迷する世界。

過剰な反復表現と合わせて本書に流れているのは本書の非現実性だ。\”魔術的リアリズム\”がいう魔術とは一線を画した世界観。それは全てが非現実。カートゥーンの世界と言ってもよいぐらいの。不死身の主人公。決して死なない登場人物たち。トムとジェリーにおける猫のトムのように、ぺちゃんこになってもガラスのように粉々になっても、腹に穴が開いても死なない登場人物たち。それは\”魔術的リアリズム\”の掲げる現実とはかけ離れている。だからといって本書は子供にも楽しめるスラップスティックでは断じてない。なぜなら本書の根底に流れているのは、世界から距離をおかなければならないほどの絶望だからだ。

むしろ、これほどまでに戯画化され、現実から遊離した世界であれば、なおさら著者にとってのリアルさが増すのではないだろうか。だからこそ、著者にとっては本書の背景となる非現実の世界は現実そのものとして書かれなければならなかったのだと思う。そう思わせてしまうほど本書に書かれた世界感は痛ましい。それが冒頭にも書いた痛々しさの理由でもある。だがその痛々しさはもはや神の域まで達しているように思える。徹底的に痛めつけられ、現実から身を守ろうとした著者は、神の域まで自らを高めることで、現実を戯画化することに成功したのだ。

あとは、著者が持って生まれた同性愛の性向にどう折り合いをつけるかだ。タイトルにもあるセレスティーノ。彼は当初、主人公にとって心を許す友人として登場する。だが、徐々にセレスティーノを見つめる主人公の視点に恋心や性欲が混じりだす。それは社会主義国にあって決して許されない性向だ。その性向が行き場を求めて、セレスティーノとして姿を現している。現実は無慈悲で不条理。その現実を乗り切るための愛や恋すら不自由でままならない。セレスティーノに向ける主人公の思慕は、決して実らない。そしてキューバにあっては決して実ってはならない。だから本書が進むにつれ、セレスティーノはどんどん存在感を希薄にしてゆく。殺し殺される登場人物たちに混じって、幽霊のように消えたり現れたりするセレスティーノ。そこに主人公の、そして著者の絶望を感じる。

繰り返すが、私は本書ほどに痛々しい小説に出会ったことがない。だからこそ本書は読むべきだし、読まれなければならないと感じる。

‘2017/08/18-2017/08/24


ひとりの体で 下


上巻のレビューの最期で、本書にまつわるほとんど布石が撒かれ尽したと書いた。下巻では冒頭からミス・フロストが実は男であったことが著者に明かされる。実は上巻で主人公とミス・フロストが結ばれるシーンでは、ミス・フロストは主人公に注意深く挿入させず、裸も晒さなかった。そのため、そうとしらずに思いを遂げたと信じた主人公に衝撃が走る。さらに主人公はミス・フロストが自らの学校の卒業生であることを知る。そして、学校に残されたイヤーブックからミス・フロストの素性を探る中、自分の前から姿を消した実父の姿もイヤーブックから探り当てる。

男が女に姿を変えることは可能。今でこそ、そのようなことは誰でも知っている。が、60年代が始まったばかりのアメリカでは、それは容易なことではなかったはず。ましてやそれが、主人公の親の高校時代1930年代となれば。

高校を去るにあたり、主人公はミス・フロストと別れの儀式としてレスリングの技を伝授される。かつて男だった時、レスリングのチャンピオンとして有望だったというミス・フロストは、将来同性愛者として迫害を受ける恐れがある主人公に、護身術を贈ったのだ。そしてまた、キトリッジもまた高校時代はレスリングで鳴らしていたことが述べられる。キトリッジがミス・フロストへ向ける視線はまた、キトリッジの性癖がヘテロセクシャルのそれでないことを連想させる。本章から連想させられるのが、肉体を密着させるレスリングという競技と同性愛の関係である。著者もそのあたりの危険は考えていたとは思うが、この描写はかなりレスリング界からの論議を呼んだのではないだろうか。私自身、レスリングについての偏見は持っていないつもりだが、本書を読んで以来、意識しないと云えばうそになる。上巻のレビューでも書いたが、著者の作風は著者自身の人生を誤解させかねない危険がある。それは、著者のレスリングへの思いも誤解させかねないことにも繋がる。少し微妙なシーンである。

高校を卒業した主人公は、ヨーロッパへと旅立つ。誘ったのは、予てから主人公に熱烈な崇拝を捧げていたトム。トムからの誘いを機会とし、主人公は青年期に生活を送ったフェイヴォリット・リヴァーから去る。それはミス・フロストやエレインやキトリッジへの思い出を置きざりにすることとなる。もちろん、下巻でも折に触れ、三人の名前は登場するのだが。ヨーロッパでは主人公とトムとの仲は上手くいかなくなり、ウィーンに落ち着いた主人公は、バイセクシャルである自らをカミングアウトする。しかしカミングアウトの発端は、キトリッジへの思いではなく、トムからの同性愛としての崇拝だった。上巻と下巻を含めた全体に言えることだが、主人公の性的嗜好の原因の多くは外的なものである。主人公が進んで身を投じる能動的な描写よりは、主人公が受け身に回るシーンが多いように思える。それでいて、同性とのセックスにおいて、主人公はトップとして自覚する。ヘテロな私にはそのあたりの心理的な部分が理解できないが、面白いところである。

下巻は、祖父をはじめ、主人公の周りの人々が次々に死んでゆく。ハイスクール時代の仲間達はベトナム戦争やその他の人生の障害によって死んでゆき、一緒にヨーロッパにいったトムは堅い職業につき、自らの性的嗜好を隠したまま女性と結婚して一家をなす。キトリッジは実の母とのセックスに耽っていたことが発覚し、以来、主人公の前から姿を消す。それらは人生につきものの別れであり、それらの別れを経て主人公は作家としての熟成を高めてゆく。そんな中、父がスペインにいることが明かされる。ここで、本書は終わってもおかしくなかった。事実、次の章は「エピローグの世界」と名付けられている。

しかし「エピローグの世界」と次の「自然的原因ではなく」は、本書を語る上で避けては通れない章である。なぜなら、ゲイやバイセクシャルについて回るAIDSの章だからだ。両章では80年代を席巻したAIDS禍による様々な悲劇が書かれている。私も数冊、AIDSに関する本は読んだことがある。しかしこの両章で書かれたAIDSの実態は、それらに勝るとも劣らない。作家的な技巧が悲劇を彫琢し、患者の悲惨な末路を色濃く印象づける。トムもまた、その中で病に蝕まれてゆく。主人公と床を共にしたパートナーたちもまた、次々とAIDSの毒牙に掛けられてゆく。しかし主人公はなぜかAIDSには犯されない。そのあたりの不条理なことも描きつつ、社会的なマイノリティを狙い撃ちするかのようなAIDS禍の実態を、著者はえぐるように書き続ける。

本章は「エピローグの世界」と名付けられているが、内容は下巻の幹を成すものだ。公式には著者はゲイでもバイセクシャルでもないそうだ。しかし、実際に80年代にこうした悲劇を目撃したという。作家として人間として、後世に語っておかねば作家の魂が許さなかったのかもしれない。それはゲイやバイセクシャルとして生きることの苦しみに添ったものではなかった。また著者自身による蔑視がゲイやバイセクシャルへ注がれていた訳でもない。本書では様々なゲイを指すスラングが登場し、それらのスラングに蔑視の意味が含まれていることは承知の上で書かれている。しかし、著者自身がそういった性的嗜好についての侮蔑の念を抱いていたとは思えない。AIDSの悲惨な実態を知ってしまったものとして、自分の嗜好や性的マイノリティの人々への蔑視に関係なく、ゲイやバイセクシャルの間で蔓延してしまったAIDSという業病のことは、どうしても書かずにはいられなかったのであろう。上巻のレビューで、著者が作風柄受けがちな作中のエピソードと著者個人のエピソードが混同されるリスクを覚悟で、性を前面に出した本書を書いたことを指摘した。おそらくはそこにはAIDSの実態を書かねばならないという思いも含まれていたのではないだろうか。

最終章、作家として名を成した主人公は、60年代のフラワームーブメントを経て、AIDS禍の80年代を乗り越え、同性愛が一定の理解のある現代に住んでいる。フェイヴォリット・リヴァーで教壇に立つという機会も得、劇団で演劇指導も行っている。それは自分を育ててくれた祖父母や母、継父のように。昔のようにシェイクスピア劇ができる環境ではないが、作家としての老境を不満も抱かずに過ごしている。そしてなお、主人公の人生に影響を与えた人々の動向は風の便りに聞こえてきている。しかしそこにはもはや、かつてのような濃密な空気はない。性的嗜好のことなることがこれほどまでに人の人生にインパクトを与えていたのか、といわんばかりに。性的嗜好が自由になった今、人間関係までも軽やかになってしまったかのように思わされる。

上巻のレビューで著者がよく用いるモチーフを挙げた。その中に敢えて書かなかったが、著者の作品に必ずと言ってよいほど出てくるモチーフがある。それは再会である。終章で、70歳になろうとする主人公は自分の人生に影響を与えて行った人で、最も重要な人に再会する。その人は、本書、または本レビューを読んだ方にはお分かりだと思う。主人公の実父である。主人公が性的に翻弄された人生を送ってきた間、実父はスペインで同性のパートナーを伴侶とし、長く平穏な同性愛者としての人生を送ってきた。そこにはもはやなんの驚きもなかったが、本書の締めくくりとしては、一番納得のいく再会といえる。

丁度本作のレビューを書いている時、世界的にゲイ・バイセクシャルからの献血が解禁方向にあるとの記事を読んだ。80年代のAIDSに震撼した世界が、ようやく落ち着きを取り戻しつつある兆候なのかもしれない。ゲイ・バイセクシャルへの言及がそれほどエキセントリックでもなくなった今、実はまだそれらの世界は大手を振って表舞台に出ているとは思えない。ここまでレビューを書いてきた私も実は、ゲイの世界はよく分かっていない。ビデオの類も見たことがなく、明らかにゲイの世界を描いたと思しき小説も「禁色」か「フロント・ランナー」くらいしか読んだことがない。しかし、ゲイ・バイセクシャルを扱った文化が表に出ても良い気がしている。むしろ、音楽の世界ではかのY.M.C.Aがそうであるように、随分前からミュージシャンもカミングアウトし、歌詞にもゲイ文化を表現する文化が盛んだ。小説も続々と世に問われてもよいのかもしれない。

とはいえ、それは私が単に知らないだけに過ぎないともいえる。かつて三島由紀夫が「禁色」を世に問うたように、世界的な作家がゲイ・バイセクシャルを世に問うことは私のような無知なるものにとって良いのかもしれない。その意味でも、世界的に名の知られている著者がこういった題材を選んだことは、性的マイノリティにとっても或いは福音といえるのかもしれない。とすれば、本書はまさにエポックメイキングな一冊といえるのだろう。20世紀に性文化の多様性が一気に花開いたことを、本書が後世に証明することになるかもしれない。

‘2014/12/8-2014/12/11


ひとりの体で 上


著者の作品はほとんど読んでいる。どれも壮大なスケールの大きさと、細部まで行き届いた描写がない交ぜになった傑作である。

愛読者にはよく知られていることだが、著者の作品には特定のモチーフが様々に登場する。熊、軽業、レスリング、飛行機、母への思い等々。それらモチーフを小出しにしつつ、壮大な旅路を突飛な挿話の数々と共に歩むのが著者の作品に共通する構成となる。

著者の一連の優れた作品もここ数作は、幼少期より老境に至るまでの人生を大河のように下るような内容となっている。まるで老境に入った著者自身の生を総括するかのように。それらは、遺された作家生活の全てを振り絞り、あらゆる生の有り様を純化して、文章の中に彫り込んだかのように想わされる力作揃いである。

細かいエピソードを集めて一本の筋を作り上げる描写をお手の物とする著者だけに、それら作品では、些細な挿話が主人公の人生を様々に彩る。それら些細なエピソードは、著者が自分自身を事細かに語るかのような細やかさに充ちている。余りのリアルさに、読者によっては、これらの作品は著者自身の自叙伝であると思う向きもあるかもしれない。そう錯覚してもおかしくない。もちろん、全ては著者の創作である。だが、読む人によって作中の想像力に基づいたエピソードと著者個人のエピソードを混同して受け止めることもあり得る。その可能性は避けられないだろう。性的な嗜好や描写満載の本書などは、まさにそのリスクが溢れるばかりに詰まっていると思う。

これは私の推測だが、著者の長い作家生活の中で、そのことを恐れていたのではないだろうか。つまり、作風のエピソードからそのように私生活が勘違いされるリスクを。元々、著者の作品には性的な描写が頻繁に随所に現れていた。が、本書のようにテーマとして前面に出した作品はなかったと思う。だが、本書は性という、ある意味では人間存在の根源へと迫っている。しかも性を生殖の手段として取り上げていない。つまり男と女の関係だけではなく、男と男、性転換、フェティシズムなど、人間のある限り避けては通れない文化の一つとして様々な性の姿を取り上げている。本書は、老境に入った著者が、私生活と本書の内容を混同されるリスクを省みず、畢生の大作のつもりで性を世に問うた一作ではないか。そう思った。

著者の作品にとって筋を追うことはあまり重要でない。というより、本書のように無数に入り組んだ筋を紹介するには、私の文章では心もとない。むしろ筋よりも、章ごとの主人公を取り巻く境遇を説明する方が相応しい。

主人公は発音障害を患う十三才の少年として読者の前に登場する。一緒に暮らすのは、母と母方の祖父母との四人。実父は母によれば「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで別れたことになっている。母は地元劇団のプロンプターをやっており、その劇団には祖父母も俳優として所属しており、祖父は専ら女形を得意とした役者として女装に磨きをかけている。

主人公は町の図書館でミス・フロストに恋をする。それは少年が漠然と抱く憧れにも似た恋心ではない。セックスしたいという、直接的な欲望を伴ったものだ。

本書の語り手は作家として名を成した、七十代にならんとする老境の語り手である。語り手が自分の少年時代から自分の人生を振り返るというのが本書の構成となる。

語り手である主人公は、自らの作家人生の出だしが、ミス・フロストの手解きにあることを述壊する。図書館の司書であるミス・フロストは、少年に読むべき本を指南する。「トム・ジョーンズ」や「嵐が丘」、「ジェーン・エア」などの自分と不適切な相手と恋する話を。ミス・フロストの薦める本は周到になっていて、まずは不適切な相手への恋物語から、そののち、主人公の成長につれて薦める本に工夫を加えてゆく。異性に恋する話だけではなく、同性もその対象に含まれるような話も。上巻は少年が作家となるまでの成長の話でもあるが、自分の性的嗜好を育ててゆく内容にもなっている。そして、主人公がミス・フロストに対する思いを遂げ、クライマックスを見せる。

その間、主人公は地元の寮のある学校(フェイヴォリット・リヴァー)に入り、多感な青春期をすごす。母はその学校の教師であるリチャード・アボットと再婚し、主人公の父役のバトンは祖父から継父へと受け継がれる。ただし主人公は寮生であり、家にいない。そのため、継父が父として主人公に接するのは専ら教師の立場としての教育面に限られる。つまり、情操教育を担うべき父不在のまま、主人公は成長していく。姿を消した実父は第二次大戦の英雄でありながら、「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで母と主人公の前から姿を消し、祖父は劇団で女装姿の似合う祖父として主人公の情操に影響を与える。

上巻では合間を縫って、バイセクシャルとして生きる青年時代の主人公の挿話が挟まれる。時代はまだ1950年代から1960年代に移ろうとする時期。ヒッピー文化の開花にはまだ早い時期である。フラワーチルドレンもまだ時代の先におり、フリーセックスもまだ時代に抑圧されている。古き良きフィフティーズ末期である。そこで主人公はウィーンでの日々を送る。ウィーンもまた、著者お得意のモチーフの一つである。ゲイが市民権を得る前のウィーンの社会状況も豊富に描かれる。ガールフレンドであるエズメラルダとのセックスも経験するが、一方でトップかボトムか、といったゲイ文化にも造詣を深めてゆく。本書においてウィーンという場所設定は、著者が好むモチーフである以前に、主人公の性的成長を遂げる舞台としては、真に相応しく思えた。

著者の作品は、空間と時間を行き来して語るのが特徴的だ。しかし、本書では基本的な時間の流れは、過去から未来への時間として流れている。時間軸を行き来するのは、いくつかの合間に挟まるエピソード紹介のほかは、ウィーンでの挿話だけである。理由は語り手である主人公自身が作中で独白している。バイセクシャルとしての主人公を語る上では、女性との普通のセックスは通っておかねばならないからであろう。本書はいずれの性的嗜好にも属さず、しかもそれで疎外感を覚えることなく老境まで生き延びた男の話なのだから。

ウィーンの挿話は終わり、1963年のウィーンから、再び50年代終盤のヴァーモントへ。

寮生活を送る中、劇団で娘役を祖父から受け継ぐ主人公は、全寮制の学校で閉鎖的な寮の中でエレインというガールフレンドを得る。さらには、年下の少年トムから熱烈な崇拝を浴びる。しかし主人公の恋心は、同じ寮のキトリッジという餓鬼大将的な少年に向く。キトリッジは主人公に色々とちょっかいを掛けてくる。女性的な面を目ざとく発見し、ニンフというあだ名をつけて。エレインとの仲も詮索しては大声でからかいの声を投げつける。それなのに主人公はキトリッジが気になってしまう。そのあたりの同性への思慕の情が、ぎりぎりの曖昧さで描かれる。

性的に早熟な振りをするキトリッジは、結果として主人公とエレインが結ばれ「かける」のに手を貸す。そのくせキトリッジ自身は主人公にとってミステリアスな存在のまま学校生活を送る。エレインはその一夜のことが原因で、主人公との仲を疑われ、離れた学校へと遠ざけられる。しかしエレインとのドタバタの中、エレインのブラジャーは主人公の手元に残り、主人公にフェティシズムの何たるかを間接的に教えることとなる。

主人公は自分がはっきりと恋する対象がエレインではなく、キトリッジであることに気付く。そしてその告白をミス・フロストに告げる中、とうとうミス・フロストと結ばれることになる。ミス・フロストが本当は男であることに気付かぬまま。そしてその場を祖父に見つかってしまい、一方で、母によってエレインのブラジャーは切り刻まれてしまう。このあたりの流れは、ややこしいが、様々なメタファーや布石があちこちに置かれていて、実に興味深い。それらは全て主人公の性的嗜好の成長にとって欠けることのできないピースとなり、下巻で効果を発揮する。

上巻の終わりまでに、主人公を巡る性的冒険の布石はほぼ撒かれ尽した。読者はすでに主人公がバイセクシャルの作家であることを知っている。このあと、下巻では上巻で撒かれた多数の布石が著者の手によって拾い集められてゆく。いかにしてバイセクシャルの作家は、人生を生き延びたか、について。

‘2014/11/28-2014/12/6