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DevRelConに参加して思った技術者のこれから


3/9にサイボウズ社で開催されたDevRelCon Tokyo 2019に参加しました。
この参加は代表である私のキャリアパスにとって得難い経験となりました。なのでレポートとして報告いたします。

昨年の秋からお誘いを受け、私はDevRelJpに参加させていただいております。DevRelのサイトに載っている定義によれば、「DevRelとはDeveloper Relationsの略で、自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動になります。 一般的にエバンジェリストまたはアドボケイターと呼ばれる人たちが活動します。」とのこと。つまりkintoneのエバンジェリストである私にとっては参加するしかないのです。

DevRelのイベントには二度ほど参加しました。そこで感銘を受けたのは、プログラムの内容や設計よりも、いかにして自社またはイチオシのサービスを広めるかに注力していることです。その内容は私の思いにもマッチしました。なぜなら、私は昨年あたりから自分のなかで力を入れるべき重点を変えようとしていたからです。開発者から伝道者へ。技術者から経営者へ。そうしたキャリアパスの移行を検討し始めていた私にとって、DevRelJpへの参加は必然だったといえます。

さて、今回のDevRelConは私ともう一人で参加しました。もう一人とは、とあるイベントで知り合った若い女性。大手企業の安定を捨て、新たな分野に飛び込む志を持った方です。その志に感じ入った私は、ちょくちょくこうしたイベントにお誘いしています。

今回も「こうしたイベントがあるよ」とその方をお誘いしました。ところが当の私がDevRelConのサイトを熟読せずに申し込んだのだから始末が悪い。もちろん、英語のスピーカーが多いなどの断片的な情報は頭の片隅にありました。ハードルがちょっと高いかもしれないというほんのわずかな懸念も。ところがそれぐらいの情報しか持たず、聴きたいセッションも選ばず、ただ申し込むだけというノーガード戦法。

今回の会場は私も何度も訪れているおなじみのサイボウズ社。いつもの動物達がお出迎えしてくれ、ボウズマンもサイボウ樹も健在。日本人の姿も結構見うけられます。自分のホームに帰ってきたような安心感。それもあって甘く見ていたのかもしれません。

そんな私の思いは開催とともに打ち砕かれます。司会進行は中津川さん。DevRelJpでもおなじみです。ところが喋っている言葉は全て英語。ほかの日本人スピーカーも流暢な英語を操っているではありませんか。普段、日本語で喋っているのに、今日に限ってどうしたことでしょう。さらに驚くべきことに、その状況におののいているのはどうやら私たちだけらしいという事実。英語で威勢よく進行する状況を周りは当然のこととして受け入れているのに、私たちだけ蚊帳の外。

普段、こうした技術系イベントでは同時通訳の副音声が流れるイヤホンが貸し出されます。ところがDevRelConにそうした甘えは許されず、全てを自分の耳で聞き取らねばなりません。と、横のサイボウ樹のディスプレイに日英の両方の文章が流れていることに気づきました。どうやらスマートスピーカーが言葉を聞き取り、通訳して文章を吐き出してくれている様子。普段、サイボウ樹のディスプレイは沈黙しています。今回、初めて大活躍の場を見ることができました。ですが、何か様子がおかしい。精度が悪く、ディスプレイにはほとんど意味をなさない文章が流れているのです。たまに口にするのもためらうような言葉も混じったり。話者によってはある程度の長さの文章を拾ってくれますが、流暢なネイティブスピーカーの言葉はほぼ支離滅裂。私たちの目を疑わせます。その内容にはあぜんとしました。流暢な人の言葉こそ、いちばん通訳を求められるのに。

つまりDevRelConとは、英語ヒアリング能力がなければ、まったく理解がおぼつかないイベントだったのです。

うかつにも私はイベントが始まってからその残酷な事実に気づきました。そして心の底からヤバいと思いました。こんな体たらくで10時間以上の長丁場に耐えられるのか、と。一緒に来た方も英語力は私とそう変わらない様子。全く聞き取れない英語の流れる会場で、絶望に満ちた顔を見合わせながら、日本語でヒソヒソと言葉を交わす二人。しかも私はまだ技術的な単語に免疫がありますが、この方は技術者ではありません。なので私など比べ物にならないほどの苦痛を感じていたはず。お誘いして申し訳ない、と思いました。

ところが、そんな私たちは結局最後まで会場に残り、懇親会にまで出席したのです。それはなぜかというと、会場のスピリットが伝わったからです。そのスピリットとは、上にも書いたDevRelの定義「自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動」です。スピーカーのおっしゃる内容は正確な意味は分かりません。ですがニュアンスは伝わってきます。つながりを作る活動。その思いが会場に満ち、私たちの心に何らかの作用を及ぼします。

全てのスピーカーの方々が訴えるメッセージとは、好きなサービスをテーマとしたコミュニティを作り上げ、そこからより活発な発信を行う。それだけのことなのです。それはそうです。DevRelConである以上、DevRelの理念が話されるのですから。そして私たちはまさにそうした内容が知りたくてこのイベントに参加したのです。

そのことに気づいてからは、気持ちが楽になりました。三つ用意された部屋を移り、それぞれでヴァラエティにあふれたスピーカーの皆様のプレゼンを聞きながら、プレゼンの仕方や、画像の挟み方を学びます。そしてプレゼンのエッセンスを必死に吸収しようと集中します。実際、勉強になることは多い。だてに英語の千本ノックを浴びていただけではないのです。絶え間ない英語のシャワーに耳を洗われ、洗練されたスピーカーのプレゼン技術に見ほれながら、私は受け取るべきメッセージは受け取り、自分の中に知見を吸収していきました。

私が得た気づき。それは、日本の技術者が陥っている閉塞感と終末感です。そして切迫した危機感。私にとって英語だけが交わされるこの空間は、余計な雑念を排してくれました。それほどまでに英語だけの環境は新鮮でした。

私も単身でイベントに参加することはよくあります。何十人も集まるイベントで私が知っているのは招待してくださった方のみ。なんて経験はザラです。そこで一分間しゃべる事を求められても動じなくなりました。そのようなイベントに積極的に出るようになったのは法人化したここ三年ぐらいのこと。そんな孤独感に満ちたイベント参加に慣れた私ですら、DevRelConの英語の飛び交う会場からは強烈な新鮮さを受け取りました。強烈な危機感とともに。その危機感は今までも感じていましたが、しょせんそれは頭の中だけの話。上辺だけの危機感です。ところがいざ、英語に満ちたフィールドに身を置いてみると、その危機感がより切実に私に迫ってきました。

Rubyの創始者として著名なまつもと氏も登壇されておりましたが、内容はごく当たり前に英語。本邦で生まれたプログラム言語が世界で使われるすごさ。それは、技術の世界に身を置いていると痛切に感じます。そこにはまつもと氏による地道な発信があったのです。最初は小規模なコミュニティからスタートし、英語で発信を行う。それがある日、拡大局面をむかえる。そこまでの日々にあるのはただ地道な努力のみ。近道はありません。

もしRubyのコミュニティが日本語だけに閉じていたとしたら、当然、今の繁栄もなかったはずです。情報技術が英語を母語として発展したことに疑いをはさむ人はよもやいないでしょう。英語が母語の状況がこれからも覆りようがないことも。例えばExcelやWordのマクロをいじろうとしてちょっと検索すれば、すぐに英語のドキュメントがしゃしゃり出てきます。クラウドサービスのドキュメントも英語まみれ。プログラム言語のドキュメントとなればあたり一面に技術的な英語がバシバシ現れます。それらのドキュメントは日本語に翻訳されていますが、ほとんどは自動翻訳によってズタズタにされ、いたいけな技術者をさらに惑わしにかかります。これからの技術者にとって英語はさらに必須となる事実は、今でも簡単に証明できます。

また、これからの日本には移民がさらに増えてくるはずです。国際的な取引にもますます英語が絡んでくることは疑いのないところ。英語を読み書きする能力もそうですが、会話する能力を磨かないと、これからのビジネスでは通用しなくなると言い切ってよいはず。正直、今までの私はたかをくくっていました。じきにドラえもんの「翻訳こんにゃく」が実用化され、英語を学ぶ必要はなくなるだろう、と。ですがサイボウ樹のディスプレイに流れる意味の分からぬ日英の文章の羅列は、私の甘い見通しを打ち砕きました。「翻訳こんにゃく」の実現にはあと10年はかかりそうです。

もう一つ、このイベントに出て思ったこと。それは日本人の閉鎖性です。異文化にさらされるようになってきた最近のわが国。ですが、しょせんは日本語で囲まれています。コンビニエンスストアで店員をしている諸外国の方も、たどたどしい日本語で頑張って対応してくれています。今はまだ。日本人が日本で暮らす分にはなんの脅威もなく、治安もある程度保たれています。ですが、その状況はこのまま移民が増えても大丈夫なのか、という危機感が私の脳裏から拭えません。その危機感とは治安に対してではなく、日本にいながら日本語が使えなくなることに対してです。すでに、クラウドや技術界隈の奔流が非日本語圏から流れてきています。その現状は、日本語文化への危機感をさらに煽り立てます。

日本人が大勢を占める職場で日本語だけを喋っていれば事足りる日々。実はその状態はものすごく恵まれており、極上のぬるま湯につかったような環境なのではないか。そして、その状況が取っ払われた時、日本人は果たして生き残っていけるのか。日本をめぐる危機がさまざまに叫ばれる今ですが、これから数十年の日本人が直面する危機とは、財政や年金や自然災害によるものではなく、実は文化や言語をめぐる根本的な変化が原因となるのではないか。その時、今の状況に甘んじている日本人はその変化に対応できず、没落するほかないのでは。そんな危機感に襲われました。かつて、新渡戸稲造が英語で武士道を書き、世界に向けて日本のすばらしさを啓蒙しました。英語を自在に操れるようになったからといって、日本の心は消えないはず。むしろより英語が必要になるこれからだからこそ、英語で日本文化を守っていかねば。日本語のみにしがみついていたらマズいことになる。そんな風に思いました。

DevRelConにいるのなら、コミュニケーションを取らねば。まつもと氏とは会話し、握手もさせてもらいました。TwitterブースにいたDanielさんとは英語で会話もし、Twitterのやりとりもしました。夜の懇親会でもさまざまな方と会話を交わしました。ですが、私の英語コミュニケーション能力は絶望的なままです。去年断念したサンノゼのGoogleイベントに今年もご招待されました。ですが今のままでは会話がおぼつかない。それ以前に異文化に飛び込む勇気が私には欠けています。日本のイベントに単身で飛び込むのとはレベルが違う恐怖。まず私が克服しなければならないのはこの恐怖です。

そうした強烈な気づきが得られたこと。それが今回DevRelConに出た最大の収穫だったと思います。まとめサイトもアップされており、私がイベント中に発信したつぶやきもいくつも収められています。

折しも、複雑なアルゴリズムの開発で苦しみ、私自身が技術者としての賞味期限を意識した途端、同学年のイチロー選手の引退のニュースが飛び込んで来ました。その翌日、EBISU Tech Nightというシステム開発会社のイベントで登壇依頼を受け、優秀な技術者の方々へ話す機会をいただきました。スライド

そこで話したのはDevRelConの経験です。簡潔に私の得た気づきを語りました。技術者だからこそこれからの時代でコミュニケーションを身につけねばならない。それにはDevRelConのようなイベントに飛び込んで行くだけの気概を持たないと。そんな内容です。冒頭の自己紹介を英語でしゃべり、盛大に自爆したのは御愛嬌。終わった後の懇親会でも私の趣旨に賛同してくださる方がいました。その方からは殻に閉じこもる技術者がいかに多いかという嘆きも伺いました。どうすればザ・グレート・シタウケから日本の技術者は脱却できるのか。それを追い求めるためにも、私も引き続き精進し、全編フルのスペクタクルに満ちた英語のプレゼンテーションができるようになりたい。ならねばならないのです。


CO2と温暖化の正体


地球温暖化は人類の経済活動による現象なのか。それとも太陽と地球の位置関係によって引き起こされるのか。人類が今の消費型の経済活動をやめなければならないのはいつか。それともすでに手遅れなのか。それとは逆に、いや、地球は温暖化などしていない。地球は寒冷化しつつあるのだと主張する向きもある。さらには海洋が大気中の二酸化炭素を吸収してくれるため温暖化することはないとの説も聞こえてくる。地球温暖化に関する全ての懸念は杞憂だという意見も。

地球に住むの全人類の中で、上に書いたような温暖化の問題に日々関心を持つ方はどれぐらいいるのだろう。

先進国民(私を含んだ)は、大小の差はあれ今の快適な暮らしに慣れている。衣食住はあり余るほど満ち、文化への好奇心や自己実現の機会に事欠かない現代。その特権を失いたくないと思っている方がほとんどだろう。既得権益を守ろうとする思いが先鋭化するあまり「地球温暖化は嘘っぱちだ」と口走る米国トランプ大統領のような方もいる。

それとは真逆の方向に奔走する人もいる。国全体が海中に沈む危機に瀕している南洋の島国キリバスの状況を悲観的に解釈し、今の世界の大都市の多くもキリバスと同じように海に沈むと煽る方々だ。

地球温暖化の懸念が真実であるならば、本来なら人類全体で共有すべき喫緊の課題であるはず。なのに、それがイデオロギーの対立にすり替わっている現状。その状況にいらだつ人は私以外にもいるはずだ。いい加減、何が正しいのかを知りたい。何が起こっているのか。または、何が起ころうとしているのか。私たちにはいつまで時間が残されているのか。文明に慣れた今の先進国の暮らしは未来の人類からは非難されるのか。それとも全ては杞憂なのか。それを知りたい。そう思って手に取ったのが本書だ。

本書の著者の筆頭に名の挙がるウォレス・S・ブロッカー教授は、1950年代から地球温暖化の問題を研究するこの分野の泰斗だ。世界で始めて地球温暖化が起きていることを公式に報告した人物でもある。教授は地球の地理と歴史を総じて視野に入れ、この問題に取り組んで来た方だ。つまり本書に書かれる内容は、根拠なき自説を無責任に振りかざすような内容ではないはず。そう信じて本書を読んだ。

本書の著者として挙がっているのは二名。教授とロバート・クンジグ氏だ。そして実際に本書を執筆したのはロバート氏の方だという。ロバート氏はサイエンスライターが本業であり、その職能をフルに生かしている。では教授は何をしているのか。おそらく、本書の監修のような立場だと思われる。本書には教授の生い立ちから研究に携わるまでの生涯、そして研究の内容と成果が書かれている。それらの記載が正しいか監修する立場で著者に名前を連ねているのだろう。

本書の序盤はロバート氏からみた教授の紹介にページが費やされている。温暖化の真実を本書からつかみ取ろうと意気込む読者は拍子抜けする。また、退屈さすら感じるかもしれない。だが、なぜ教授がこの道に入ったのかを知ることはとても大切だ。教授の生い立ちからうかがい知れること。それは、教授のバックグラウンドに宗教的、経済的な影響が少ないことだ。それはつまり、地球温暖化を指摘した教授の背景にはイデオロギーの色が薄いことを示唆している。あえて本書を教授の生い立ちから語るロバート氏の意図はそこにあるはずだ。

 ・教授の家族が敬虔なクリスチャンとなったこと。
 ・それに背を向けるようにブロッカー少年は科学への興味が勝り研究者の道を選んだこと。
 ・初期の研究テーマは炭素測定法による年代分析だったこと。
 ・この研究に踏み込んだのは偶然の出会いからだったこと。

炭素測定法の研究を通して世界各地に赴いた教授は、地球の気温の変化に着目する。それが地球が温暖化しているとの発見につながり、その事実を公表するに至る。本書は教授の研究が豊富に引用される。また、気候学者、考古気候学者など教授の研究に関する人々の研究成果やその人物像なども多彩に紹介される。

本書を読んで特に驚くこと。それは、過去の気温を類推するための手法がとても多岐にわたっていることだ。炭素測定だけではない。地層に含まれる花粉量。氷河が削り取った山肌の岩屑量。木の年輪の幅。もちろん、天文学の成果も忘れるわけにはいかない。地球が自転する軸のブレが周期的に変わること、太陽の周りを公転する軌道が歪んでいることや、太陽活動に周期があること。などなど。本書の中で言及され、積み上げられる研究成果は、本書だけでなく温暖化問題そのものへの信憑性を高める。

本書で紹介される研究成果から指摘できるのは、地球が一定の期間ごとに温暖化と寒冷化を繰り返して来た事実だ。長い周期、短い周期、中間の周期。そして、今の時期とは寒冷期と寒冷期の間なのだという。つまり、今の人類の発展とはたまたま地球が暖かいからだ、との結論が導き出される。

ならば、地球温暖化とは幻想に過ぎないのだろうか。人類の経済活動など地球にとっては取るに足りず、長期的に見ればその影響など微々たるもの。今の経済活動に一片たりとも非はない。既得権益に満ち足りていると、そういう結論に飛びつきがち。トランプ米大統領のように。

だが違う。

本書で紹介される科学者たちの研究は、そういう楽観的な早合点を一蹴する。観測結果から導き出される大気中の二酸化炭素の量は、天文単位の周期から予想される濃度を明らかに逸脱している。そしてその逸脱は産業革命以降に顕著なのだ。つまり、人類の経済活動が地球温暖化の主犯であることは動かしようもない明確な事実なのだ。

そして、海洋が二酸化炭素を吸収できる量を算出すると、あと数世紀分のゆとりがあるらしい。だが、その吸収速度は遅々としている。人類が排出する二酸化炭素を吸収するには到底追いつけないのだ。

学者たちが危惧するのは二酸化炭素の量そのものではない。むしろ気候のバランスが大幅かつ急激に崩れる可能性だ。そのバランスは二酸化炭素の割合によってかろうじて保たれている。過去の気候変動の痕跡を観察し、そこから推測できる結論とは、気候の変化が緩やかに起こったのではなく、地域によっては急激だったことだ。世界各地の神話に頻出する大洪水の伝説が示すように。例えばノアの箱舟が活躍した大洪水のような。

ある時点を境に南極の棚氷が一気に崩落する可能性。各所に残る氷河が一気に融解する可能性。そしてメキシコ湾流を起点として世界の海洋を長い期間かけて還流する大海流が突然ストップしてしまう可能性。世界の各地に残されている数々の証拠は、急激な気候変化が確実に起こっていたことを如実に示している。

今のままでは人類に残された時間はそう多くない。それが本書の結論だ。では、本書は単なる警世の書に過ぎないのだろうか。

いや、そうではない。

科学者たちは地球規模で発生しうるカタストロフィから救うため、さまざまなな可能性を研究している。本書に紹介されているのはそれらの研究の中でも温暖化抑止にとって有望と見られるアイデアだ。

アイデアのタネはシンプルなものだ。
「人間は自ら排泄したものを浄化するために下水システムを作り上げた。ならば排泄した二酸化炭素を浄化する仕組みがない現状こそがおかしい」

この原則は、私にとって目から鱗がはがれるようなインパクトをもたらした。私たちは排泄し垂れ流してきた二酸化炭素の処置についてあまりにも無関心だった。無味無臭で影も形もない二酸化炭素。それがために、何の良心の呵責を感じることなく放棄してきた。今、そのツケが人類を窮地に陥れようとしている。

教授の同僚ラックナー氏は、とあるプラスティックが二酸化炭素を有効に吸収することを発見した。あとはそれを炭酸ナトリウムで流して重曹に変化させ、そこからCO2を分離するだけだ。では、分離したCO2はどこに貯蔵するべきなのか。

一つは海洋だ。今も海洋は、 自然のプロセスの一環として二酸化炭素を吸収し続けている。このプロセスを人為的に行うのだ。深海に大量の液化二酸化炭素を注入し、海水と溶けあわせる。だが、この方法は既存の海洋生物への影響が未知数だ。

では、陸地に保存すればいいのか。CO2はカルシウムと結合して重炭酸カルシウムとなる。それはもはや固体。気体となって大気に拡散することはない。そしてカルシウムは玄武岩に豊富に含まれるという。ということは玄武岩の岩盤を深く掘り進め、地下にCO2を注入するとよいのではないか。その理論に沿って検証したところアイスランドが有力な貯蔵場所として上がっているそうだ。有効な温暖化対策としてプロジェクトは進んでいることが紹介されている。

他にも、成層圏に二酸化硫黄のガスを流すことで、太陽光線を反射して温暖化を回避する案も真面目に研究され議論されている。

このうちのどれが地球と人類と生物圏を救うことになるのか。おそらく温暖化の修復には数百年単位の時間がかかることだろう。その結末は誰にも分からない。だが、分かっているのは今、二酸化炭素の処分プロセスの対策をはじめないと、全ての人類の文明は無に帰してしまうということだ。営々と築き上げてきた建造物。世界中に張り巡らされたインターネット網。ビジネスのあらゆる成果。美しい景色。人類の文化のめざましい成果。それらがすべてうしなわれてゆく。

私たちは今、何のために生きているのだろう。家族を構え、子を育て、ビジネスに邁進する。それらの営為は、全て後世に自分の人生を伝えるためではないのか。少なくとも私にはそうだ。でなければこんなブログなど書かない。一方で刹那的にその場さえ楽しければそれでいいとの考えもあるだろう。だが、それすらもカタストロフィが起こったら叶わなくなる可能性が高いのだ。

私は情報業界の人間だ。つまり電気が断たれると飯が食えなくなる。そして、私は自然が好きだ。旅も好き。だが、旅先への移動は車や電車、飛行機だ。そのどれもが電気や燃料がないとただの重い代物。つまり私とは旅や自然が好きでありながら、電気や燃料を食い物にして自分の欲求を満たす矛盾した生き物なのだ。その矛盾を自覚していながら、即効性のある対策が打てないもどかしさに苦しんでいる。その矛盾はちまちまと電源のOn/Offを励行したからといって解消できる次元ではない。だから私はブログを書く。そして自然を紹介する。その行き着く先は、地球環境にビジネス上で貢献したいとの考えだ。

本書は、もっと世に知られるべきだ。そして、私たちは二酸化炭素の排出について意識を高めなければならない。もはや温暖化のあるなしなど議論している場合ではないのだ。本書は環境保護と経済優先の両イデオロギーの対立など眼中にないほど先を見ている。そして確固たる科学的確証のもと、データを提示し温暖化の現実を突きつける。そして突きつけるだけではなく、その解決策も提示しているのだ。

イデオロギーに毒された科学啓蒙書の類はたまに目にする。だが、本書はこれからの人類にとって真に有益な書物だと思う。少しでも多くの人の目に本書が触れることを願いたい。

‘2017/02/28-2017/03/03