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ファインダーズ・キーパーズ 下


上巻を使って、ベラミーの凶行の動機がどうやって生まれたのか、そしてベラミーの狂気がピートとアンディにどういう運命をもたらそうとするかを描いた著者。

ピートとその家族に害を成すベラミーに対するは、前作と同じくビル・ホッジズの役目だ。上巻のレビューで、本作を読むまえに前作『ミスター・メルセデス』は読んだほうが良いと書いた。それは『ミスター・メルセデス』で果たしたホッジズの役割が何度も言及されるからだ。本書の肝はベラミーがロススティーンの残した未発表原稿への執着に尽きる。そのため、上巻の多くはロススティーンに対するベラミーの殺害の一部始終と、ピートが未発表原稿を見つけ、なぜそれをアンディーが営む稀覯本の店に持ち込もうとしたかの理由を描くことに費やされている。

そのため、上巻では探偵役であるホッジズは多く登場しない。そのかわり『ミスター・メルセデス』のエピソードを何度もはさむことで、ホッジズの人となりを描いている。著者はホッジズのことは『ミスター・メルセデス』を読んで理解してほしい。あらためて本書で紹介するには及ばない、と考えているのだろう。

下巻では、ホッジズに相談が寄せられるシーンで始まる。相談を持ちかけたのは、ピートの妹ティナ。ティナの友人が『ミスター・メルセデス』で重要な役割を果たし、ホッジズの友人であるジェロームの妹のバーバラだ。兄の不審なふるまいに不安を覚えたティナがバーバラに相談し、二人でホッジズのもとへ訪ねて来る。そこからホッジズはこの事件に関わってゆく。ここにきて『ミスター・メルセデス』で登場した主要な人物が顔をそろえ、物語が動き始める。このあたりの人物描写は『ミスター・メルセデス』を読んでいないと理解できないと思われる。なので、前作は読んでおいた方が良い。

上巻のレビューにも書いた通り、ベラミーの凶行がアンディーの稀覯本屋で繰り広げられる。そこにやってきたのがピート。当初、未発表原稿をアンディーの店に持ち込んだところ、盗んだ品ではないかと逆に脅される。それに対し、精一杯虚勢を張ろうとしていたピートが見たのは酸鼻に満ちた店内。ベラミーに遭遇したピートは、かろうじて惨劇の場から逃げ出すことに成功する。だが、ベラミーはピートがかつて自分が住んでいた住まいの今の住人であることを知る。やがてその家はベラミーに蹂躙される。さらに、万が一に備えてピートが未発表原稿を隠しておいた娯楽センターを舞台に、ベラミーの未発表原稿への執念は燃え盛る。

なお、本書のエピローグでは、『ミスター・メルセデス』その人が登場する。ホリーによってすんでのところで凶行を邪魔され、逆に脳が壊れるほどのダメージを負わされたブレイディ・ハーツフィールド。彼の登場は唐突なので、このエピローグは前作を読んでいないと全く理解できないはずだ。上巻のレビューで本書には細かな傷が見受けられると書いたが、これもその一つ。今までの著者の作品はキャッスル・ロックやデリーといった架空の地を舞台とし、世界はつながっていた。だが、ここまであからさまにシリーズを意識した書き方はしていなかったように思う。本書はシリーズを同士の繋がりが特に強い。だから前作『ミスター・メルセデス』を読まねば本書のいくつものエピソードは理解できないように書かれている。これはささいだが本作の傷だと思う。

だがその傷を含め、著者はどうやったら本書をミステリーとして成り立たせるかについて苦心したようだ。少なくとも私にはそう感じられた。どのようにしてそれぞれの作品のエピソードをつなぐのか。どうやってベラミーやピートの内面をストーリーに添わせるのか。本書ではそういった著者の手腕が堪能できるし、参考にもなる。

もう一つ、本書から感じられることがある。それは、著者が持つ純文学への憧れだ。ここ近年の著者の作品には純文学作家への言及が増えてきたように思う。たとえばサマセット・モーム。ジョン・アーヴィングを意識したと思える描写にも時折出くわす。本書もそうだ。ロススティーンという純文学の大家とその代表作。そしてその遺稿。ロススティーンの代表作とされるジミー・ゴールドの粗筋を本書の随所に挟みこむことによって、著者は読者が真に読みたがる純文学とは何かを問うているように思える。

本書を読んでいて、いつか著者が作家としての集大成として純文学を発表するのではないかと思わされた。今までの著者の作品の中で、私があまり感心しなかったのが『アトランティスの心』だ。これは純文学のアプローチを著者が試し、うまくいかなかった例だと思う。だが、本書を読んだ結果、ホラー、そしてミステリーと範囲を広げてきた著者が、最後に向かうのは純文学ではないかと思うようになった。

著者はきっと成し遂げてくれるはず。読者を感動の渦に巻き込み、人間とは、世界とは何かを十分に感じさせてくれる作品だってものにしてくれるはずだ。ここまで読者を恐怖に叩き込み、読者を寝不足にさせる作家は古今東西を見回してもそうそういない。これだけの筆力を持つ著者であるからには、素晴らしい純文学の作品を発表してくれると信じている。著者は今までの作品でアメリカの人種差別にも触れてきている。その現実と融和も描こうと苦心している。例えば著者が現代アメリカの闇とその融和に苦しむ現実を世界のモデルケースとして描いたら、ノーベル文学賞だって夢ではないと思う。

私はぜひ、著者の純文学作品を読んでみたい。そしてもし、著者の未発表作品が手元に舞い込んできたら何をおいても読みたいと願い、狂奔することだろう。ちょうど本書のベラミーやピートやアンディーのように。本当に優れた本にはそれだけの魔力がある。著者はそれがわかっているし、そういう作品を世に問いたいと願っているはずだ。本書はそうしたことを意識して書かれているように思う。

今まで著者は読者を驚かせ、怖がらせるために読者の視点を大切にしてきたと思う。そして今は、読者の視点から純文学の構想を練っているのではないか。その視点を生かしたまま、著者の熟練のスキルが純文学で発揮されたら果たしてどんな傑作が生まれるのか。期待したい。

‘2018/07/01-2018/07/04


ファインダーズ・キーパーズ 上


『ミスター・メルセデス』は、ホラーの巨匠がミステリ作家としても一流である事を証明した。とても面白かった。

本書はその続編にあたる。だから、本書を読むのはなるべく『ミスター・メルセデス』を読んでからの方がいい。なぜなら本書は『ミスター・メルセデス』のエピソードに頻繁に触れるからだ。もちろん、知らなくても本書の面白さは折り紙が付けられる。でも、読んでおいた方がさらに面白くなるはずだ。

私は著者の作品のほとんどを読んでいる。そして、あまりハズレを引いた経験がない。著書がストーリー・テラーとして信頼できる作家であることに間違いはない。そう思っている。私は本書を読みながら、その面白さがどこから来るのか確かめたいと思った。本書はミステリ小説として書かれている。つまり、超常現象には頼れない。また、読者に対してフェアな書き方が求められる。本書を読み込めば、著者のストーリーテリングの肝が会得できるのでは、と思った。

そんな意気込みで読み始めたが、面白さに負けて一気に読んでしまった。さすがの安定感だ。

本作の粗筋はこうだ。現代アメリカ文学の大家として名声を得たロススティーン。最後に作品を発表してから10数年が過ぎ、世間からは引退したと思われている。そんな田舎に隠棲したままの大家のすみかに三人の強盗が押し入る。強盗のボス格ベラミーが狙っていたのは金だけではなく、ロススティーンが書き溜めているとうわさされていたジミー・ゴールド・シリーズの未発表原稿。ジミー・ゴールドに心酔していたベラミーは、ロススティーンがシリーズの最終作でジミー・ゴールドを平穏な小市民として終わらせたことに納得がいかない。押し入ったその場でロススティーンにそのことを問いただし、激怒のあまり撃ち殺してしまう。

ベラミーは、未発表原稿の束や現金とともに現場から逃亡する。そして、一緒に逃亡する仲間を途中で殺し、身をひそめるため故郷に帰ってくる。故郷で身を隠しつつ、ゆっくりとジミー・ゴールド・シリーズの最新作を読もうと思っていた。自らの望むジミー・ゴールドのその後が知りたくて。ところがロススティーン殺害のニュースは故郷にも届いており、かねてからロススティーンへのベラミーの偏執をしっていた友人のアンディーは、ベラミーに未発表原稿や金の詰まったトランクを隠すよう忠告する。その忠告に従ったベラミーはトランクを隠した後、酒を飲みにバーにしけこむ。そして強姦事件を起こす。それがもとで36年間の長きにわたって投獄されてしまう。

36年後、ベラミーが住んでいた家にはソウバーズ一家が住んでいた。そして、ソウバーズ家は、家長が職を失ってしまう困窮の中にあった。『ミスター・メルセデス』がひき起こした大量ひき逃げ暴走事件によって体にダメージを負ったからだ。そんな中、13歳の長男ピートは、偶然にもかつてベラミーが埋めたトランクを見つけ出す。そして一家の困窮を救うために、トランクに詰まっていた金を匿名で自分自身の家に送る。さらに、その中に隠された未発表原稿を読み、文学に目覚める。ところが、一家の経済状況は一息ついたとはいえ、妹のティナの進学費用が工面できない。そこでピートはロススティーンの未発表原稿をアンディーの経営する稀覯本の店に持ち込む。そして足元を見られたアンディーに逆に脅される。ベラミーが仮釈放を勝ち取ったのは、ちょうどその時。仮釈放で保護観察中の身でありながら、さっそく36年前に隠したトランクを掘り出したベラミーは、その中が空になっていることを知る。36年の月日が彼の未発表原稿への狂気を熟成させ、それが盗まれたとしったベラミーの理性は沸騰し、その刃はかつての旧友アンディーに向けられる。

今回、私は本書を分析的な眼で読もうとした。それだからだろうか、一つの大きな傷を見つけた。

まず、ストーリーの構成だ。事件が起こるタイミングに作者の意思が見え隠れする。それはつまり、作者のストーリー展開の都合に合わせて登場人物が動かされていることを示す。登場人物が、著者の組み立てたプロットの上で動かされる。その感覚は本当に優れている小説を読むと感じないものだ。だが、本書からはその感覚が感じられた。著者の今までの優れた傑作群には見られなかったように思う。

もちろん、今までの著者の作品にも著者の作為は見受けられた。著者の作品では多くの登場人物が交わり合い、感情をぶつけ合う。その中には、著者によって仕組まれた偶然の出会いや偶然の産物から生まれた悲喜劇も含まれる。それは当然のことだ。たくさんの人々を自在に操る手腕こそが著者を巨匠の高みに押し上げたのだから。そもそも小説である以上、全てが著者の作為の結果でしかない。だからこそ、それをいかにして自然に見せるが作家の腕の見せ所なのだ。それを巧みに紡ぐ筆力こそ、ベストセラー作家とその他の作家を分ける違いではないだろうか。

本書は、著者の作為がうまくストーリーの中に隠し切れていない。「神の手=著者の筆」が随所に見えてしまっている。むろん、登場人物の動きは可能な限り自然に描かれていた。だが、出獄したベラミーが、自らが過去に埋めたトランクの中身がからになっていることに気づくタイミングと、ピートがその中身を稀覯書店主のアンディに持ち込み、逆に脅されるタイミングの一致。それは、ミステリーとしての整合性を優先させるため、著者が仕組んだ都合の良さに思えた。今までの著者の作品には、人物が著者の都合に合わせることが感じられなかった。多分、多数の登場人物が入り乱れる中、そこまで気にしなかったのだろう。だが、本作は、ピートとベラミーとアンディの動きが胆となる。だから、この三人の動きがクローズアップされ、その行動があまりにも筋書きにはまっていると不自然に感じてしまうのだ。

ただし、かつて殺した大作家の遺稿を隠した後、長年にわたって別件で投獄されていたベラミーが原稿を読みたいという動機については納得できる。著者は作品の中で、小説作品や作家を題材にすることがある。本書でもそれが存分に発揮されていたと思う。なぜベラミーはそれほどまでにロススティーンの遺稿に執着するのか。なぜベラミーはロススティーンを撃たねばならなかったのか。本書は事件の発端を描くことに紙数を費やし、ベラミーの動機を詳細に描いている。そうしないと本書の構成そのものが乱れてしまうからだ。著者はその動機を丁寧に描いている。おそらくは著者にとって最も苦労したのではないだろうか。

ところが、動機に多くの労力を割いて丁寧に描いた割に、ベラミーの出獄とピートの行動、そしてピートがアンディと交渉するタイミングがあまりにも近すぎる。保護観察中のベラミーの狂気がアンディーに向かい、その場にピートを引き寄せてしまう。もちろん、ストーリーの展開上、行動人物の動きを同じ時期に合わせなければならないのは分かる。だが、登場人物の動かし方に、あと少しの工夫があっても良かったと思う。著者の今までの作品には、その工夫が絶妙に施されていたような気がする。

本作は、動機をきちんと説明していたのに、イベントのリンクの繋げかたを少々焦りすぎたような気がする。

‘2018/06/30-2018/06/30


嘘をもうひとつだけ


私がまだ読んでいない「加賀恭一郎」シリーズは数冊ある。本書もその一つ。本作は連作短編集だ。五編が収められている。

本書の全体に共通しているテーマは女性のうそについて。女性がつくうそにはさまざまな目的がある。その多くは自らの過失や犯した罪を隠すため。そんなうそはその場しのぎであり、入念な計画もなく、狡知をこらしてもない。全ては急ごしらえなうそ。だから聡い人物にかかるとばれてしまう。それが加賀恭一郎であればなおさら。

どの謎も、あとから分かればいかにもその場しのぎの偽装だ。ところが、偶然が重なったり、部外者が後からみた程度ではすぐには見当がつかない。しかし、わずかなほころびが加賀恭一郎には矛盾と映る。そしてそれを見越した巧妙なカマをかけると、背後の犯罪が暴かれる。すべてが推理小説の、捜査の常道に沿っている。五編ともお見事だ。ただし、この後に発表される『赤い指』に比べると、少し物足りなさは感じた。本書は「加賀恭一郎」シリーズでも中期に位置する。『赤い指』は冷徹な頭脳を持つ加賀恭一郎を豊かな人情を秘めた魅力的な人物として書かれた傑作だ。「加賀恭一郎」シリーズはここで確立したともいえる。それからすると、本書は短編集だ。どちらかといえば優れた頭脳の持ち主としての加賀恭一郎が前面に出ていた。キャラクターの魅力が確立される直前の作品といえる。

だが、加賀恭一郎が持つ別の魅力は、五編においてきっちり書かれていた。それは謙虚さだ。聞き込みのセリフの一言一言に、加賀恭一郎の謙虚さがにじみ出ている。そういえば、このシリーズ全体に通ずるのが、物的証拠より聞き込みによって事実に迫ることを重んじていることだ。物的証拠とは聞き込みで得た結果を補強するものでしかない。聞き込みによって事件の全貌を見いだしてゆく加賀恭一郎の特徴が、本書ですでに確立しているのがわかる。

「嘘をもうひとつだけ」
「冷たい灼熱」
「第二の希望」
「狂った計算」
「友の助言」
とある五編のそれぞれのタイトルは、それぞれを読み終えてから見てみると、言いえて妙なタイトルになっている。その中でも「冷たい灼熱」という反語的なタイトルをもつこちらは、一番ひねりが効いているように思った。内容も「冷たい灼熱」は、他の四編と一線を画している。本編のキーとなるのはとある悪癖だ。だが、最期までその悪癖の固有名詞は明かされないままだ。多分業界への配慮なんだろう。けれど、それがかえって印象に残った。

うそとは多くの場合、自分にとっての利益が他人にとってのそれと相反する場合に生まれる。自分の願う利益が他人にとって不都合な場合、それを押し通すためには事実を隠したりうそを言ったりしなければならない。それは本来、許されることではない。だが、人はうそをついてしまう。もしばれた場合には社会から制裁が科される。だが、それを覚悟してまでうそをつく。人をそうまでさせる理由は人によってそれぞれだ。そこをいかに現実にありそうな理由として書くか。そして、うそを付くほか選択肢がなくなった、追い詰められた人間の弱さをどうかくのか。それもまた、推理小説にリアルさを与える。しかも短編の場合は、うその原因を簡潔に記さなければならない。推理小説の作家の腕前が試される点はここにもある。そこがしっかりと説得力を備えて書かれているのが、本書の魅力だ。

そもそも推理小説とはうそを出発点としなければ成り立たない。動機よりもアリバイよりもトリックよりも、まずはうそが優れた短編を生む。どうやってうそにリアルさを持たせるか。どのようにうそに説得力を持たせるか。そして、いかにして簡単にばれないうそを仕込むのか。優れたうそをひねり出すのは、簡単なようでとても難しいはず。あえて言ってしまうと、推理小説を書く作家とは、とびきりのウソツキでなければならないのだ。多分、著者はそれを十分に理解していたはず。だからこそ本書が生まれたのだろう。うそに目を付けたのはさすがだ。

冒頭に書いた通り、本書は推理小説の短編はこう書くべき、の見本だ。「加賀恭一郎」シリーズというより、すぐれた推理小説の短編として読むのがオススメだ。

‘2017/08/11-2017/08/12


硝子の葦


帯のうたい文句にこう書かれている。
「爆発不可避、忘却不能の結末
ノンストップ・エンタテイメント長編!」
さすがにこの文句は盛りすぎだと思う。
でも、一気に本書を読めたのは確か。

序章で厚岸の街を舞台に起こった爆発事故。そこで亡くなった幸田節子は、なぜ死ななければならなかったのか。本書は冒頭に爆発事故を置くことで、なぜ爆発事故が起こったのかという謎を読者に提示する。その謎を解きほぐすため、爆発事故までの出来事を追ってゆくのが本書の構成だ。厚岸といえば、北海道の東に位置する牡蠣が有名な海辺の町だ。だが、厚岸はさほどにぎやかな街ではない。それどころか単調な気配が濃厚だ。

ところが、そんな街に住む幸田節子の周囲は単調とは程遠い。複雑な家に生まれたためか、節子は人間をさめた目で見る。さらに人生に対しても乾いた感性でしか向き合えないようになってしまった。彼女は厚岸で飲み屋を営んできた母の律子から虐待を受けていた。律子の男との関係は奔放で、節子の父親も流しの漁船員だという。一夜だけの関係を結んだだけで行方知れずになった父。父を知らず、奔放な母に育った節子は、尖ったりグレる前に、人生を達観してしまった。達観のあまり、人生を平板なものと考えている。そして何の期待も希望も持たずに人生を過ごしている。だからこそ節子は母の元愛人だった喜一郎からの求婚を受け入れたのだ。喜一郎の求婚は、気楽な人生を送らないか、という愛情とは遠い言葉だった。そして節子は、喜一郎の経営するラブホテルに隣接した住居で日々を送っている。

節子は日々を無意味にしないため、短歌の会に参加している。喜一郎の援助のもと、自費出版で歌集も出した。そのタイトルが「硝子の葦」。葦は中が空洞であり、うつろ。硝子は折れやすくもろい。まさに節子の人生観そのもののようなタイトルだ。

そんな節子の日々は、喜一郎が事故を起こし、意識が不明のままというニュースで一転する。ニュースが入って来たその時、節子は結婚する前まで勤めていた税理士事務所の所長澤木と情事の最中だった。澤木は長年喜一郎の事業の経理を担当しており、なにくれとなく節子にも目をかけてくれている。喜一郎の事故をきっかけに、次々に節子の周りに事件が起こる。

節子の作風は性愛。男女の営みをテーマに取り上げるのは、ラブホテルの隣に住むことで己の人生に溜まってゆくオリを取り除くためだろうか。だが、節子の歌は、会の中で節子を少し浮いた存在にしていた。ところがもっと浮いているのが同じ会に属する佐野倫子。家族の健やかな平和と穏やかな日常を描く彼女の短歌に何か偽善のにおいを感じ、節子は佐野倫子を遠ざけていた。それなのに、佐野倫子の方から節子に近づいてくる。

節子の予感は正しく、佐野倫子の旦那の渉は倒産した地元百貨店の親族。日々、生活感のなさを発揮し、落ちぶれた己のうっぷんを妻子にぶつけるダメ夫。娘のまゆみは日々虐待を父から受けている。

そんな日々を描きながら、物語は徐々に疾走を始める。冒頭にあげた帯の文句ほどにはスピード感はないが、物事が次々につながっていき、そして冒頭の爆発事故に至る。その後、どうなってゆくのかは、これ以上書かない。ミステリの要素と犯罪小説の要素が濃い本書。その中で核となる節子の人生の転換がわざとらしくないのがいい。

なぜわざとらしさを感じなかったのか。それは、本書の中で随所に描かれる色彩と関係があるのかもしれない。冒頭から爆発の火と煙で幕を開ける本書。そして主な舞台となるのは、けばけばしいラブホテル。カバーイラストにもある壊れた車の鮮やかな朱色。読者は本書にちらつく艶やかな原色のイメージに気づくはず。ところが、節子の心情を表わすかのような乾いた世界観と、原野を思わせる北海道のイメージが本書の色合いを徐々にセピアに変えてゆく。原色からセピアへと色褪せていく描写。それが節子のあり方にわざとらしさを感じられなかった原因かもしれない。短歌の会という限られた場の閉塞感とラブホテルから漏れ出る性愛の爛れた感じが、節子の乾いたセピア色の世界にアクセントを加える。本書の色相はセピアの中に原色が時折混じり、それが本書のアクセントだ。その原色は節子という一人の女性が願った輝きだったとも解釈できる。

著者の作品を読むのは初めて。Wikipediaの著者の項に書かれていたが、著者の実家は本書と同じくラブホテルだったそうだ。しかも名前まで同じ「ホテルローヤル」。だからこそ著者は、ここまで実感を持ってラブホテルを書けるのだろう。しかもどこか距離をおいて男女の営みを眺めるような視点で。しかも著者は釧路出身だという。厚岸にほど近い地に育ち、道東に広がる原野になじみ、それでいてラブホテルの色彩感覚を知る。だからこそ本書のような色彩感覚が生み出せたのだと思う。

私はあの道東の色を忘れたような色彩感が好きだ。厚岸も。その近くの霧多布湿原も。かつて訪れた道東の静寂にも似た色合い。本書から感じたのは道東の色遣いだ。本書を読み、また道東に行きたくなった。そして、著者の他の作品にも目を通したくなった。旅情にも通じる色彩の描写を楽しむのも、本書の読み方の一つかもしれない。

‘2017/08/04-2017/08/05


隻眼の少女


著者の本を読むのは随分久しぶりだ。かつて著者のデビュー作である「翼ある闇」を読んで衝撃を受けた。読んですぐ弟に凄いから読んでみ、と薦めたことを思い出す。それなのになぜかその後、著者の作品からは遠ざかってしまっていた。「翼ある闇」のあまりに衝撃的な展開に毒気を抜かれたのかもしれない。

多分、著者の作品を読むのはそれ以来だから20年振りだろうか。本書で著者は日本推理作家協会賞を授かっている。江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞の受賞作を欠かさず読むようにしている私にとっては本書を読むのが遅すぎた。というよりも著者の作品に戻ってくるのが遅すぎたといっても過言ではない。本書は20年前の衝撃を思い出させる内容だったから。

ノックスの探偵小説十戒は、ミステリー好きにとってお馴染みの格言だ。本書はその十戒に抵触しかねないぎりぎりの域を守りつつ、見事な大団円で小説世界を閉じている。横溝正史の作品のようなムラ社会の日本を思わせる世界観に沿いつつも、現代ミステリーとして成立させる技は並大抵のものではない。

もちろん、本書の構成を実現するにあたっては力業も使っている。つまりは牽強付会というか無理やりな設定だ。私もなんとなく違和感を覚えた。だがそれは、本書で著者が仕掛けた大きなミスディレクションによるためだ。たいていの読者はその点を気にせず読み進められる。そして読み進んでいき、著者が開陳する真相に驚愕するだろう。私自身、違和感は感じたとはいえ、まさかの真相にやられたっと思ったのだから。その驚きはまさに「翼ある闇」を読んだ時の体験そのもの。

さて、これ以上本書の真相を仄めかすようなことは書かないでおく。書くとすれば、本書で著者が作り上げる世界観についてだ。上に横溝正史的な世界観に沿いつつと書いた。本書で著者は横溝正史が傑作の数々の舞台とした世界観の再現に成功している。しかし一方で、そういった世界観が今の時流に逆らっていることを著者が自覚しているからこその描写も登場する。それは作中の展開上、仕方のないことだったとしても。今や建て売りの2×4や画一化された間取りのマンションに日本人は住む。そのような住まいはトリックの舞台として相応しくない。もう底が割れてしまっている。あまりにも機能的でむやみに開放的な今の住居の間取りは、我が国からお化けや幽霊、妖怪だけでなく、ミステリーの舞台をも奪い去った。

本書はあえてその課題に挑戦した一作だ。著者が挑んだその偉業には敬意を表したい。敬意を表するのだが、私の感想はもう一つ別にある。それは、本書以降、現代を舞台として横溝正史的な世界観のミステリーを書き上げることは無理ということだ。本書は、著者の力量があってこそ成り立った。そもそも他の作家であれば本書のような道具立ては採らないのではないだろうか。著者がいくら筆達者であっても、もはや読者の知識がついていけなくなっている。そう思う。鴨居や床の間、欄間や雨戸。それらを知る読者はこれからも減っていくに違いない。

そういった意味でも本書は、古い日本を世界観に採ったミステリーとしては最後の傑作ではないだろうか。

‘2016/05/04-2016/05/04


造花の蜜〈下〉


下巻である本書では、視点ががらっと変わる。

上巻では圭太君の母香奈子や橋場警部に焦点が当たっていた。しかし、本書では犯人側の内幕が書かれる。その内幕劇の中で、実行犯とされる人物は逃亡を続ける。何から逃亡しているのか。そしてどこに向かっているのか。やがてその人物は逮捕され、取調べを受けることになる。本書は、実行犯であるその人物の視点で展開する。そして、視点は一瞬にして転換することになる。読者にとって驚きの瞬間だ。

実行犯の背後には黒幕がいる。その人物は狡知を張り巡らせ、正体をつかませない。実行犯の視点で描かれているとはいえ、それはいってみれば遣いッ走りの視点でしかない。黒幕は一体誰なのか。いや、これからこの物語はどこへ行こうとするのか。読者は本書の行く末が読めなくなる。

圭太君の誘拐劇の背後に家庭事情が絡んでいることは上巻のあちこちで触れられていた。本書ではそれらの事情も種明かししながら、実は圭太君の誘拐劇の裏側には違う犯罪が進んでいたことが明らかとなる。複雑な構成と胸のすくような転換の仕込み方はお見事という他はない。そう来たかという驚きは優れた推理小説を読む者にのみ与えられる特権だ。

そして、この時点で黒幕である人物はまだ捜査の網の外にいる。事件はまだ終わっていない。

ここで、本書は2回目となる視点の転換を迎える。圭太君の誘拐劇の舞台となった小金井や渋谷ではなく、今度の場所は仙台。圭太君誘拐劇から1年後のこと。ここに圭太君誘拐劇に関わった人物は誰一人現れない。たまたま仙台に来ていた橋場警部を除いては。人物の入れ替わりの激しさは、もはや別の物語と思えてしまうほどだ。本書はここで大きく二つに割れる。

第三部ともいえる仙台の事件をどう捉えるか。それは本書への評価そのものにも影響を与えると思う。私自身、仙台の話は蛇足ではないかと思ってみたり、黒幕の知能の高さを思い知る章として思い直してみたり。第三部については正直なところいまだに評価を定めきれずにいる。

誤解しないでもらいたいが、第三部も完成度は高いのだ。そして一部と二部で打たれた壮大な布石があってこその第三部ということも分かる。しかし第一部と第二部だけでもすでに作品としては完成していることも事実だ。それなのに第三部が加えられていることに戸惑いを感じてしまう。実は本書の最大の謎とは第三部が加えられた意味にあるのではないかとまで思う。読者を戸惑わせる意図があって曖昧に終わらせたのならまだ分かる。しかしそうではない。第二部が終わった時点で読者は一定の達成感を感ずるはずだ。

読者は本書を読み終えて釈然としないものを感じることだろう。そしてその違和感ゆえに、本書の余韻は長く続くこととなる。

第三部のうやむやを探ろうと著者自身に聞きたいところだが、それはもはや叶わない。残念なことに著者は亡くなってしまったからだ。どこかで著者が本書の第三部について語った内容が収められていればよいが、その文章にめぐり合える可能性は低い。あるいは著者は、死してなおミステリ作家であり続けたかったのかもしれない。自らの作品それ自体をミステリとして存在させようとして。あるいは、著者の他の作品に謎を解く鍵が潜んでいないとも限らない。私自身。著者の読んでいない作品はまだたくさんある。それらを読みながら、第三部の謎を考えてみたいと思う。

‘2015/11/21-2015/11/22


造花の蜜〈上〉


本書のレビューを書くのはとても難しい。

推理小説であるため、ネタばらしができないのはもちろんだ。でも、それ以上に本書の構成はとても複雑なのだ。小説のレビューを書くにあたっては最低限の粗筋を書き、レビューを読んでくださる方にも理解が及ぶようにしたいと思っている。しかし、本書は粗筋を書くのがはばかられるほど複雑なのだ。そして粗筋を書くことで、これから読まれる方の興を削いでしまいかねない。

本書下巻ではテレビドラマ脚本家の岡田氏による解説が付されている。岡田氏も本書の解説にはとても苦労されている様子が伺える。そして、私も本稿には難儀した。本書はレビュアー泣かせの一冊だと思う。

でも、本書はとても面白い。そして構成が凝っている。ミステリーの系譜では誘拐ものといえばそうそうたる名作たちが出揃っている。本書はその中にあっても引けをとらないほど面白い仕掛けが施されている。子供を間に置くことで、視点の逆転をうまく使っているのが印象的だ。

上巻である本書では、圭太君の母香奈子と橋場警部に焦点を当てつつ話は展開する。圭太君があわや連れ去られそうになるが、実は誘拐未遂であり、しかも実行犯が父親というのがミソだ。そしてその体験を語るのが幼い圭太君であることが、混乱を誘う。圭太君の言葉は無垢な言葉であり、その言葉には作為は混じらない。だからこそ大人は惑わされるのだ。冒頭の誘拐未遂の挿話で読者ははやくも著者の仕掛けた謎に惑わされてゆく。

はたして一カ月後、圭太君は再度誘拐される。犯人の知略にもてあそばれる警察側。著者によって小道具が効果的に出し入れさえ、巧妙に視点と語りが混ぜ込まれる。著者の幻惑の筆は冴え渡る。なるほど、こういう誘拐の手口もあるのか、と読めば驚くこと間違いなし。造花の蜜という題名のとおり、本書では金という甘い蜜を巡って虚虚実実の駆け引きが繰り広げられる。ここでいう蜜とは、金の暗喩であることは言うまでもない。そして蜜は金としてだけでなく、小道具としても印象的に登場する。蜜に群がる蜂を多く引き連れて。

鮮やかな誘拐劇の中、ほんろうされ続ける橋場警部。

上巻は、犯人への対抗心に燃える橋場警部の姿で幕を閉じる。これが下巻への布石となっていることはもちろんだ。

‘2015/11/20-2015/11/21


彼女はもういない


本稿を書き始めてから、個人的に驚いたことがある。それは著者の作品を今まで読んだことがなかったということだ。本書の面白さに触れ、著者の実力を知り、それなのに今まで著者の作品を逃していたことはちょっとしたショックだった。

著者の名前は当然知っていた。毎年年末に宝島社が出す「このミステリーがすごい」は欠かさず買っている。著者の名前はその中で何度も登場している。なぜ、今まで著者の作品を読まずに来たのか、さっぱりわからない。

本書は倒叙ミステリーである。つまり、犯人側の視点を通して話は進む。明確な殺意と動機も最初から読者に提示される。やがて始まる連続殺人。殺害手口の一部始終をDVDに録画し関係者宅に電話した上で投函する。それはまるで劇場型犯罪のよう。派手派手しく、遺留品も大量に残したままの杜撰にも思える連続殺人を重ねる犯人。

一方で、各連続殺人の合間には、警察側の視点で物語は書かれる。やがて、城田理会警視の慧眼によって、着々と犯人像は絞られるが・・・・

本書は実に素晴らしい。私も想像していなかった結末で締めくくられる。しかもそれらの伏線は読者の前に早い段階で提示されている。実にお見事な犯罪計画であり、それを見破った警視の推理も半端ではない。

だが、惜しいと思ったのは、本書の冒頭ですぐに明かされる殺意の説得力が今ひとつだったことだ。犯人である文彦の憎悪がどこから湧くのか、殺意の源泉が述べられているのだが、ここの説得力が少し欠けるように感じた。もっというと犯罪へと至る直接の引き金になった出来事が、如何にして殺意へと昇華されたのか、という描写がピンと来なかった。

本書を解く鍵はとあるキーワードにある。本書の半ば過ぎでそのキーワードは登場する。そのキーワードは、文彦の殺意には直接は関係しない。なので、なおさら冒頭で殺意が湧きおこる瞬間の動機を練って欲しかったと思う。惜しい。同じことは、繰り返し本書で歌詞が引用されるスティーヴィー・ワンダーの「Isn’t She Lovely」からも言える。言わずとしれた名曲である。そして、その歌詞は、おそらくは冒頭で描かれる文彦の殺意に直結している。しかし、それが先に上げたキーワードとは直結してない。ここでもう少し違う曲が採り上げられ、文彦の殺意の動機と、キーワードを橋渡すものになってくれたらと思った。つまり、文彦の殺意の理由と謎を解くキーワードが今一つ連結されておらず、唐突なのだ。

あえて言えば、その役を担っているのは、Isn’t She Lovelyではなく、本書の題名になるのではないか。この題はうまくダブルミーニングになっていると思う。文彦の殺意の唐突さが、とっぴであればあるほど、文彦の犯す犯罪が大仰であればあるほど、このタイトルがもつ意味が理解できる仕掛けだ。

その点を除けば、本書の謎の提示の仕方と推理の経緯には実に読み応えがあった。著者の他の作品をこれから読んで行かねば。

‘2015/10/9-2015/10/11