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ワールドカップ


サッカーのロシア・ワールドカップが終わった。総じてよい大会だったと思う。その事は好意的な世評からも裏付けられているのではないか。私自身、ロシア・ワールドカップは今までのワールドカップで最も多くの試合を観戦した大会だ。全部で十数試合は見たと思う。

私がサッカーのワールドカップを見始めたのは、1990年に開催されたイタリア大会からだ。それ以来、三十年近く、八回のワールドカップを見てきた。その経験からも、ロシア・ワールドカップは見た試合の数、質、そしてわれらが日本代表の成長も含め、一番だと思っている。

総括の意味を込め、大会が終わった今、あらためて本書を読んでみた。本書が上梓されたのは、1998年のフランス大会が始まる直前のことだ。フランス大会といえば、日本が初出場した大会。そして若き日の私が本気で現地に見に行こうと企てた大会でもある。

最近でこそ、ワールドカップに日本が出場するのは当たり前になっている。だが、かつての日本にとって、ワールドカップへの出場は見果てぬ夢だった。1998年のフランス大会で初出場を果たしたとはいえ、当時の日本人の大多数はワールドカップ自体になじみがなかった。2002年には日韓共催のワールドカップも控えていたというのに。本書は当時の日本にワールドカップを紹介するのに大きな役割を果たしたと思う。

本書を発表した時期が時期だけに、本書はブームに乗った薄い内容ではないかと思った方。本書はとても充実している。薄いどころか、サッカーとワールドカップの歴史が濃密に詰まった一冊だ。1930年の第一回ウルグアイ大会から1994年のアメリカ大会までの歴史をたどりながら、それぞれの大会がどのような開催形式で行われたのか、各試合の様子はどうだったのか、各大会を彩ったスター・プレーヤーの活躍はどうだったのかが描かれる。ワールドカップは今も昔もその時代のサッカーの集大成だ。つまり、ワールドカップを取り上げた本書を読むことで、サッカースタイルの変遷も理解できるのだ。本書は、ワールドカップの視点から捉え直したサッカー史の本だといってもよい。

ワールドカップの歴史には、オリンピックと同じような紆余曲折があった。例えば開催権を得るための争いもそう。南米とヨーロッパの間で開催権が揺れるのは今も変わらない。だが、当初は今よりも争いの傾向が強かった。そもそも第一回がウルグアイで開かれ、そして開催国のウルグアイが優勝した事実。その事は開催当時のいびつな状況を表している。当時、参加する各国の選手の滞在費や渡航費用を負担できるのが、好況に沸いていたウルグアイであったこと。費用が掛からないにもかかわらず、船旅を嫌ったヨーロッパの強国は参加しなかったこと。それが元で第二回のイタリア大会は南米の諸国が出なかったこと。特に当時、今よりもはるかに強かったとされるアルゼンチンが、自国開催を何度も企てながら、当初は隣国の大会に参加すらボイコットしていたこと。

他にもまだある。サッカーの母国と言えばイギリス。だが、イギリス連邦の四協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)は母国のプライドからワールドカップへの参加の必要を認めていなかった。実際、開催からしばらくの間、ワールドカップに発祥国イングランドの諸国は参加していない。上記の四協会は、今もフットボールのルール改正に大きな権限を持っている。ところが、当時はそもそもFIFAにすら加入していなかった。それ以後もなんどもFIFAへの脱退と再加入を繰り返し、サッカーの母国としてのプライドを振りかざし続けた。そんな歴史も本書には描かれている。

つまり、ワールドカップの歴史の始まりには、さまざまなプライドや利権が付いて回っていたのだ。世界の主要なサッカー強国が初めてそろったのが1958年のスウェーデン大会まで待たねばならなかった事実は、サッカーの歴史の上で見逃してはならない。

本書の読みどころは他にもある。サッカースタイルの象徴である選手の移り変わり。なぜ、ブラジルのペレが偉大だといわれるのか。それは彼が1958年大会で鮮烈なデビューを飾ったからだ。当時、サッカー界を席巻していたのは1950年初頭に無敵を誇り「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表だ。その中心選手であるフェレンツ・プスカシュ。彼は当時の名選手として君臨していた。しかし、プスカシュはサッカーの王様とは呼ばれない。また、レアル・マドリードの五連覇に貢献したディ・ステファノも当時の名選手だ。ペレやマラドーナ、その他の世界的スターからサッカーのヒーローとして今も名前が挙げられ続けるディ・ステファノ。しかしディ・ステファノもサッカーの王様とは呼ばれない。それだけ、1958年のペレの出現は、当時のサッカー界に衝撃を与えたのだ。ワールドカップが初めて世界的な大会となった1958年の大会。真の世界大会で彗星のように現れたペレが与えた衝撃を超える選手が現れるまで、サッカーの王様の称号はペレに与えられ続けるのだろう。

1958年大会以降、サッカーは世界でますます人気となった。そして、その大会で優勝したブラジルこそがサッカー大国としての不動の地位を築く。しかし、1966年のイングランド大会では地元イングランドが地元の有利を活かして優勝する。1978年のアルゼンチン大会でも開催国アルゼンチンが優勝した。著者はそうした歴史を描きながら、開催国だからと言って、あからさまなひいきや不正があったわけでないこともきちんと記す。

その一方で、著者はつまらない試合や、談合に思えるほどひどい試合があったこときっちりと指摘する。この度のロシア大会でも、ポーランド戦の日本が消極的な戦いに徹し、激しい論議を呼んだのは記憶に新しい。そのままのスコアを維持すると決勝トーナメントに進むことのできる日本が、ラスト8分間で採ったボール回しのことだ。だが、かつての大会では、それよりもひどい戦いが横行していた。予選のリーグ戦ではキックオフに時間差があり、他の会場の試合結果に応じた戦い方が横行していた。特に1982年大会。1982年のスペイン大会といえば、幾多もの名勝負が行われたことでも知られる。だが、その中で西ドイツVSオーストリアの試合は「ヒホンの恥」と呼ばれ、いまだにワールドカップ史上、最低の試合と呼ばれている。

そして1986年のメキシコ大会だ。神の手ゴールや“五人抜き “ ゴールなど、マラドーナの個人技が光った大会だ。当時の私にとっても、クラスメイトの会話から、生まれて初めてサッカーのワールドカップの存在を意識した大会だ。私が実際にワールドカップをリアルタイムで見るようになったのは冒頭にも書いた1990年のイタリア大会だ。だが、本書でも書かれているとおり、守備的なゲームが多かったこの大会は、私の印象にはあまり残っていない。

守備的な試合が多かったことは、1994年のアメリカ大会でも変わらなかった。だが、私にとってはJリーグが開幕した翌年であり、今までの生涯でも、サッカーに最もはまっていたころだ。夜中まで試合を見ていたことを思い出す。

そして1998年だ。この大会は冒頭に書いたとおり、私が現地で観戦しようと企てた大会だ。初出場の日本は悔しいことに一勝もできず敗れ去った。そして、その結果は本書には載っていない。

だが、本書の真価とは、初出場する日本にとって、ワールドカップが何かを詳しく記したことにある。それまでのワールドカップの歴史を詳しく載せてくれた本書によって、いったい何人の日本人サッカーファンが助かったことか。本書はまさに、語り継がれるべき名著だと思う。

本書がよいのは、ワールドカップをゲーム内容だけでなく、運営の仕組みまで含めて詳しく書いていることだ。ワールドカップが今の形に落ち着くまで、どのように公平で中立な大会運営を目指して試行錯誤してきたのか。その過程がわかるのがよい。それは著者が政治学博士号を持っていることに関係していると思う。組織論の視点から大会運営の変遷に触れており、それが本書を通常のサッカー・ジャーナリズムとは一線を画したものにしている。

本書には続編がある。そちらのタイトルは「ワールドカップ 1930-2002」。私はその本を2006年に読んでいる。2002年の日韓ワールドカップの直前に、1998年大会の結果を加えて出されたもののようだ。私はその内容をよく覚えていない。それもあって、2002年の日韓共催大会の結果や、その後に行われたドイツ、南アフリカ、ブラジル、ロシア大会の結果も含めた総括が必要ではないかと思うのだ。参加国が拡大し、サッカーがよりワールドワイドなものになり、日本が出場するのが当たり前のようになった今、本書の改定版が出されてもよいと思うのは私だけだろうか。

‘2018/07/18-2018/07/20


アラビアの夜の種族


これはすごい本だ。物語とはかくあるべき。そんな一冊になっている。冒険とロマン、謎と神秘、欲望と愛、興奮と知性が全て本書に詰まっている。

アラビアン・ナイトは、千夜一夜物語の邦題でよく知られている。だが、私はまだ読んだことがない。アラジンと魔法のランプやシンドバッドの大冒険やシェヘラザードの物語など、断片で知っている程度。だが、アラビアン・ナイトが物語の宝庫であることは私にもうかがい知ることが可能だ。

本書はアラビアの物語の伝統を著者なりに解釈し、新たな物語として紡ぎだした本だ。それだけでもすごいことなのだが、本書の中身もきらびやかで、物語のあらゆる魅力を詰め込んでいる。内容が果たしてアラビアン・ナイトに収められた物語を再構成したものかどうかは、私にはわからない。ただ、著者は一貫して本書を訳書だと言い募っている。著者のオリジナルではなく、著者が不詳のアラビアン・ナイトブリード(アラビアの夜の種族)を訳したのが著者という体だ。前書きでもあとがきでもその事が述べられている。そればかりか、ご丁寧に訳者註までもが本書内のあちこちに挿入されている。

本書が著者の創作なのか、もともとあった物語なのかをそこまで曖昧にする理由はなんだろうか。それは多分、物語の重層性を読者に意識させるためではないかと思う。通常は、作者と読者をつなぐのは一つの物語だけだ。ところが、物語の中に挿入された別の物語があると、物語は途端に深みを持ちはじめる。入れ子状に次々と層が増えていくことで、厚みが増えるように、深さがますのだ。作者と読者をつなぐ物語に何層もの物語が挟まるようになると、もはや作者を意識するゆとりは読者にはない。各物語を並列に理解しなければならず、作者の存在は読者の脳裏から消え失せる。そして本書の様に何層もの物語で囲み、ご丁寧に著者は紹介者・翻訳者として入れ子の中心に身を隠すことで、読者からの眼は届かなくなる。読者は何層にも層を成した物語の皮をめくることに夢中になり、芯に潜む著者の存在にはもはや関心を払わなくなるのだ。

それによって、著者が目指したものとは何か。著者の意図はどこにあるのか。それは当然、物語そのものに読者を引き込むことにある。アラビアン・ナイトを現代によみがえらせようとした著者の意図。それは物語の復権だろう。しかも著者が本書でよみがえらせようとした物語とは、歴史によって角を丸められた物語ではない。より生々しく、より赤裸々に。より毒を持ち、より公序良俗によくない物語。つまり、物語の原型だ。グリム童話ももともとはもっとどぎついものだったという。今の私たちが知っている童話とは、年月によって少しずつ解毒され、角がとれ、大人に都合のよい物語に変容させられていった成れの果ての。だが、本来の童話とはもっとアバンギャルドでエキセントリックなものだったはず。著者はそれを蘇らせようとしている。私のような真の物語を求める読者のために。

では、いったい何層の物語が隠れているのだろうか。本書には?

まず最初の物語は、アラビアン・ナイトブリードという著者とそれを翻訳し、紹介した著者の物語だ。それは、薄皮のように最初に読者の前に現れる。それをめくった読者が出会うのは、続いては、アラビアン・ナイトブリードの物語世界だ。その世界では今にもナポレオン軍が来襲しようとするエジプトが舞台となっている。強大なナポレオン軍を撃退するには、長年の平和に慣れすぎたエジプトはあまりにも脆い。そこで策士アイユーブは読めば堕落すると伝わる「災厄の書」を探し出し、それをナポレオンをへの贈り物にすることで、ナポレオンを自滅に追い込もうと画策する。首尾よく見つけ出した「災厄の書」は、その力があまりに強大なあまり、読むと翻訳者にも害を与えるという。だから分冊にして、ストーリーとして意味のない形にしたうえでフランス語に翻訳し、翻訳を進めながら物語を読み合わせようとしたのだ。ところがそれはアイユーブが主人であるイスマーイール・ベイをたばかるための仮のストーリー。その実は、魅力的な物語を知る語り部に物語を語らせ、それを分冊にしてフランス語に翻訳するという策だ。ここにも違う物語の層が干渉しあっているのだ。

そして次の物語の幕が上がる。直列に連なる三つの物語は、これぞ物語とでもいえそうな幻想と冒険に満ちている。その中では魔法や呪文がつかわれ、魔物がダンジョンを徘徊し、一千年間封じられた魔人が復活の時を待ち望む。裏切りと愛。愛欲と激情。妖魅と交わる英雄。剣と謀略だけが生き残る術。そんな世界。極上のファンタジーが味わえる。読むものを堕落させるとのうたい文句は伊達ではない。

一つ目は王子でありながら醜い面相を持つアーダム。彼が身を立てるために妖術師になっていく物語だ。醜い面相を持ちながら、醜い性格を隠し持つ。裏切りと謀略に満ちているが、とても面白い。

二つ目は、黒人でありながらアルビノとして生まれため、ファラーと名付けられた男。生き延びるために魔術を身に着け、世界を放浪して回る。その苦難の日々は、成長譚として楽しめる。

三つめは、盗賊でありながら、実は貴い出自を持つサフィアーン。盗賊でありながら義の心を持つ彼の、逆転につぐ逆転の物語。予想外の物語はそれだけでも楽しめること間違いない。

三つの物語はどんな結末を迎えるのか。三つの物語がアイユーブ達によって読み上げられ、一つの本に編まれた暁には何が起こるのか。それは本書を読んでもらわねばなるまい。一つ思い出せるのは「物語とは本来、永遠に続かねばならない」という故栗本薫さんの言葉だ。

もちろん本書は終わりを迎える。何層にも束ねられた物語も、本である以上、終わらねばならない。仕方のない事だ。それぞれの物語はそれぞれの流儀によって幕を閉じる。ただ、読み終えた読者は置き去りにされたと思わず、満足して本を閉じるに違いない。極上の物語を同時にいくつも読み終えられた満足とともに。

本書はとても野心に満ちている。複雑さと難解さだけに満ちた本は世の中にいくらでもある。本書はそこに桁違いのエンタメ要素を盛り込んだ。日本SF大賞と日本推理作家協会賞を同時受賞できる本はなかなかない。本書は何度でも楽しめるし、何パターンの読み方だってできる。その時、作家が誰であるかなど、どうでもよくなっているはず。それよりも読者が気をつけるべきは、本書によって堕落させられないことだけだ。

‘2017/08/27-2017/09/17


ミッション:インポッシブル フォールアウト


イメージがこれほどまでに変わった俳優も珍しい。トム・クルーズのことだ。ハンサムなアイドルとしての若い頃から今まで早くも30年。今なお第一線にたち、相変わらずのアクションを見せている。しかもスタントなしで。ここまで大物俳優でありながら、芸術的な感性を感じる作品にも出演している。それでいて、50歳も半ばを超えているのに、本作のような激しいアクションにスタントなしで挑んでいるのだからすごい。もはや、若かった頃のアイドルのイメージとは対極にいると思う。

正直言うと、本作も半ばあたりぐらいまでは、『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズなどに共通するアクション映画のセオリーのような展開が目についてしまい、ほんの少しだけだが「もうおなかがいっぱい」との感想を抱きかけた。だが、本作の後半は違う。畳みかけるような、手に汗握る展開はシリーズでも一番だと思う。それどころか、今まで私が観てきたアクション映画でも一、二を争うほどの素晴らしさだと思う。

なぜ本書の後半の展開が素晴らしいのか。少し考えてみた。二つ思いついた。一つは、トム・クルーズふんするイーサン・ハントだけを完全無欠なヒーローとして描いていなかったことだ。もちろん、ハントのアクションは驚異的なものだ。それらのアクションのほとんどを50代半ばになるトム・クルーズがスタントなしで演じないことを考えるとなおさら。だが、彼にはIMFのチームがある。ベンジーとルーサー、そしてイルサのチーム。クライマックスに至るまで、ハントとハントのチームは最後の瞬間まで並行して難題に取り組む。普通、こうした映画の展開は、主人公が最後の戦いに挑むまでの間に、露払いのように道を開く仲間の活躍を描く。それは主人公を最後の戦いに、最大の見せ場にいざなうためだけに存在するかのように。だが、本作ではハントが最後の努力を続けるのと同時に、ハントの仲間たちもぎりぎりまで戦う。その演出はとてもよかった。もはや一人のスーパーヒーローがなんでも一人で成し遂げる展開は時代にそぐわないと思う。

また、超人的な活躍を繰り広げるハントの動きも本作のすばらしさに一役買っている。ハントの動きにうそが感じられないのだ。スタントが替わりに演じていたり、ワイヤーアクションによる動きは目の肥えた観客にはばれる。要するにトム・クルーズ自身がスタントなしで演じている様子が感じられるからこそ、本作の後半の展開が緊迫感を保てているのだと思う。

それを是が非でも訴えたいかのように、パンフレットにもスタントなしの撮影の大変さに言及されていることが多かった。トム・クルーズが撮影中に足を骨折したシーンと、全治9カ月と言われたケガからわずか6週間で撮影に復帰したトム・クルーズの努力。トム・クルーズがけがしたシーンは、パンフレットの記述から推測するに、ハントがイギリスで建物の屋根を走って追いかけるシーンで起こったようだ。骨を折っても当然と思えるほど、本書のアクションは派手だ。そして、ここで挙げたシーンの多くは、本作の前半のシーンだ。私が「もうおなかがいっぱい」とほざいたシーンとは、実は他のアクション映画ならそれだけでメインアクションとなりえるシーンなのだ。それらのシーンを差し置いても、終盤のアクションの緊張感が半端ないことが、本作のすごさを表している。

なお、50代半ばというトム・クルーズの年齢を表すように、直接肉体で戦うアクションシーンは本書にはそれほど出てこない。だが、本書にはそのことを感じられないほど、リアルで斬新なアクションシーンが多い。例えば成層圏を飛ぶ飛行機から飛び降りたり、ヘリコプターから吊り下げた荷物へと10数メートル飛び降りるシーン。パリの街並みを逆走してのバイクチェイス。イギリスで建物の屋上を走り抜け、ジャンプするシーン。そもそも、ミッション:インポッシブルのシリーズにはアクション映画におなじみの格闘シーンはさほど登場しない。それよりも独創的なアクションが多数登場するのがミッション:インポッシブルのシリーズなのだ。

ちなみに、本作はIMAXでみた。本当ならば4Dでみたかった。だが、なぜか4Dでは字幕ではなく、吹替になってしまう。それがなぜなのかわからなかったが、おそらく4Dの強烈な座席の揺れの中、観客が字幕を読むのが至難の業だからではないか、という推測が妻から出た。IMAXでもこれだけの素晴らしい音響が楽しめた。ならば、4Dではよりすごい体験が得られるのではないだろうか。

よく、映画は映画館でみたほうがよい、という作品にであう。本作は、映画館どころか、4Dのほうが、少なくともIMAXで観たほうが良い作品、といえるかもしれない。

なお、スタントやアクションのことばかり誉めているが、共演陣が素晴らしいことはもちろんだ。だが、本作の俳優がどれほど素晴らしかろうとも、アクションシーンの迫力がそれを凌駕している。

また、本作は少々ストーリーがややこしい。誰が誰の味方で、誰が誰の敵なのか、かなり観客は混乱させられる。私自身、本作の正確なストーリーや、登場人物の相関図を書けと言われると詰まってしまう。多分、そこは正式に追っかけるところではなく、アクションシーンも含めて大迫力の映画館で何度でも見に来てね、という意図なのかもしれない。私もそれに乗ってみようと思う。

‘2018/08/14 TOHOシネマズ ららぽーと横浜


恐るべき子供たち


ジャン・コクトーは、昨年観劇した「双頭の鷲」の作者として興味を抱いた。レビュー(http://www.akvabit.jp/%e5%8f%8c%e9%a0%ad%e3%81%ae%e9%b7%b2/)の冒頭では、ジャン・コクトーの異才ぶりを表現した有名なコラージュ写真を引き合いに出し、その異才の一部に触れた。実際「双頭の鷲」自体がとても面白く、ジャン・コクトーがなぜこれほどまでに高名なのか、その理由が少しだけ理解できた気がする。

ジャン・コクトーは作家としても才能を発揮したとされている。私は本書を読むまで作品を一冊も読んだことがなかった。だが、私は岩波文庫に収められた本書を持っていた。異能の人が描く小説とはいかなるものか。「双頭の鷲」のように今の私たちにも理解できる作品に仕上がっているのか。それで本書を読んだ。

私は本書を期待して読み始めたのだが、ちょっと期待値を高く持ちすぎたようだ。しっくり来ない。小説の世界に没入しきれないまま読み終えてしまった感じだ。

なぜ小説の中に入れなかったのか。それが何かをつらつら考えながら本稿を書いている。まず思ったのは、訳文が古いということ。しかも”てにをは”にいくつか間違いがある。この2つは読みながら感じたことだ。本書の奥付には、本書の初版が1950年代と書かれている。さすがに半世紀前の訳文は今の時流にそぐわない。訳文のあちこちに時代のずれを感じる。

もう一つは本書に付けられた『恐るべき子供たち』という邦題だ。確かに本書の原題は『Les enfant Terrible』で、直訳すると『恐るべき子供たち』に間違いない。ただ”子供”という単語の語感からは10歳以下の児童を想像する。だが、子供たちという割に、登場人物の年かさはティーンエージャーのそれだ。 しかも、本書に登場する”子供”は、娼婦と一夜を過ごすこともある。つまり、子供と呼ぶには年を食いすぎている。

それでいて現代の感覚から見ると本書の”子供”たちは、それほど大それた事をしでかしていない。 本書で描かれたような出来事が仮に10歳以下の子供たちだけで行われたとすれば、現代でも”恐るべき”で通用するのかもしれない。だが今や海外では10歳以下の子供による銃発砲事件も起きているという。本書のように雪つぶての中に石を仕込んで相手を気絶させる程度では驚かない。これは時代の変化であり、どうしようもないことだ。そもそも本書の”子供たち”が”子供たち”でいるのは一部の間だけだ。数年たった後が書かれる二部では結婚もするし、登場人物の一人はフランスと海外を行き来するビジネスマンになっている。となると、”子供たち”という表現からはますます遠ざかる。

一つは、本書にちりばめられた詩的表現だ。詩人としても名作を残したジャン・コクトーであるがゆえ、文章のあちらこちらに詩的表現が目立つ。その表現は古びた訳文の中にあってなおも光を放っている。だが、訳文が古いため、それらの詩的表現は光を放つ前に訳文の中で浮いている。

と、散々本書には批判を加えた。が、私の批判にもかかわらず、本書は今でも名作となりうる要素がたくさん詰まっていると思う。
それは登場人物たちの関係性が明確に定まっているからだ。主人公のポール。その姉のエリザベート。エリザベートを愛してしまうジェラール。エリザベートの勤める店にいた娘アガート。ポールとエリザベートは姉と弟だが、二人の絆は強い。だが、もろく崩れやすい。本書は複数の人物がポールとエリザベートを翻弄し、はかなげな二人に人間の運命を突きつける物語だ。

ポールが思春期に入ってすぐ、ダルジュロスが彼の心を魅了する。そこには同性に対する憧れがある。異性に興味を持つ前、少年は自分を導き、支配してくれる同性に憧れる時期がある。私もそうした心の動きには心当たりがあるからわかる。ところがダルジュロスはポールが自分を崇拝する気持ちに乗ずるあまり、石入りの雪玉を胸に投げ、ポールの前から退学という形で去ってしまう。ポールの胸を体の痛みに加え、ダルジュロスを失った空白がむしばむ。ついでポールの依存する心は姉のエリザベートに向かう。ところが姉弟の母が亡くなったことで、姉弟を守るものがいなくなったばかりか、ジェラールとエリザベートが結婚し、ポールの心の落ち着き先がなくなる。

エリザベートはジェラールと結婚したものの、ポールに対して複雑な感情を抱き続けている。それは異性に対するものでなければ、一人の弟としてでもない。年の若い、弱い者への支配欲とでもいおうか。だからこそ、ポールがアガートと結ばれそうになると、エリザベートの心には嫉妬心が芽生える。そんなエリザベートに付け入ったのが、再び現れたダルジュロス。彼は本書の物語に波紋を生じさせ、物語を進めるために姉弟の関係を乱す。いわゆるトリックスターだ。第一部ではダルジュロスのこしらえた石入りの雪玉がポールを倒す。そして第二部で再登場したダルジュロスはエリザベートを通じて、ポールを再び倒す。

弟の関係を頼り、頼られる関係から描いたこと。そこに、ティーンエージャーの持つ心の揺らぎが加わり、周りの人間たちとの関係がますます存在自体をかき乱す。人間とは不安定な運命の下にある。その真理をティーンエージャーの群像の上に投影したのが本書だ。

関係性をきっちり読者が把握しないと、本書はわけが分からない。だからこそ、今の文体でもう一度日本語訳を行なければならない。そうすれば、本書はジャン・コクトーの傑作として再び評価されるのではないだろうか。

おそらく「双頭の鷲」も当時の脚本をそのまま脚本として使えば古めかしいはず。それを今のスタッフが現代の感覚で翻案したからこそ見応えのある舞台になったのだろう。多分、本書も新訳で読むと違った印象を受ける気がする。光文社からも新訳が出ているというし、萩尾望都さんが漫画化もしているという。私もそれらを読んでみたいと思う。

‘2017/06/13-2017/06/18


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


フランス人は10着しか服を持たない パリで学んだ“暮らしの質”を高める秘訣


本書もまた、曰く付きの一冊だ。妻から勧められ、次に読もうと鞄に入れていた。そしてすぐ、出来事は起きた。仕事をしていた私の机の横で雪崩が起きたのだ。机の脇に積み上げられ、立派なタワーとして成長を続ける観光パンフレットの倒壊。

それらは決して無価値なパンフではない。思い入れもある。しかし、目前に起きた惨事を前に、意を決して処分を始める。その後、妻と庭園美術館に出かけた私は、本書を携えていた。

大量のパンフを処分する決意に燃える私には、著者の言う意味がよく沁みた。タイミングと読書がぴったりはまった好例だ。

本書は、南カリフォルニアガールだった著者が半年のフランス留学で得た暮らしの極意が書かれている。極意とはフランス流のシンプルライフの勧め。本書の原題はLessons from Madame Chic。訳すとマダムシックから学んだこと、の意味か。

マダムシックとは、著者が半年間の留学でホストマザーとしてお世話になった方のことだ。実名は憚られるので、仮名でシックと呼んでいるのだろう。

シックとはフランス語だが、日本語に訳しにくい言葉だ。侘び寂びとでもいえばよいか。英語ではクレバーでクールといえばしっくりくるか。

要はつつましく、シンプルに、ということだ。それは、アメリカ式の大量生産、大量消費の思想とは対極にある。邦題となっている「服を10着しか持たない」とは本書のある章の題である。ある章のタイトルを本全体のタイトルとした訳である。充分インパクトのある邦題だと思う。お洒落なイメージの強いフランス人があまり服を持たない、という逆説は読者の目を惹く。だが、目を惹くだけではない。この邦題は、本書で著者が言いたいことの本質を言い表している。大量消費、大量購入とは反対に、服を持たないことを推奨するのだから。

南カリフォルニアといえば、明るく開放的な印象を受ける。何の疑いも持たずに消費文化を受け入れ、謳歌する。倹約や節約など一瞬たりとも考えないライフスタイル。著者は南カリフォルニア出身者であり、大量消費のライフスタイルにはまっていた一人。それゆえに、フランスでマダムシックのライフスタイルに触れて衝撃を受けたのだろう。

たとえば、リビングで食事をしない。それだけでなくそもそも食事時間以外に間食をしない。カウチポテトの文化とは正反対だ。服もみだりに持たず、少ない持ち服をパリエーションで着こなす。クローゼットにぶら下がる様子とは無縁の。テレビをめったにみない、という習慣も大量購入、大量消費に毒されないためにはかかせない。

実は私はこういった思想には全く抵抗がない。抵抗がないばかりか、20代前半には実践していたからだ。

ただ、私ができなかったのがものを持たないことだ。買い物には興味がなかったが、自分の興味分野については収集癖が昔から強いのだ。冒頭に書いたパンフレット雪崩はまさにその一例。わかっちゃいるのに止められない、と歌わずにはいられない程に。

本書でハリウッド大作主義を嫌い、フランス映画のもつ深みとゆとりを勧める。私もミニシアターにはまりたかった時期があるが、そもそもそのようなゆとりからは遠かったこの十数年だ。

パンフ雪崩と本書の読書をきっかけに、私もライフスタイルを見直してみようと思う。

‘2017/06/27-2016/06/28


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


Facebookのフランス国旗騒動について


Facebookのプロフィール画像のフランス国旗化の話。案の定騒ぎになっていますね。

とはいえ、変える変えないは個人の自由です。言うまでもなく。なので、変えたからと言って引け目を感じる必要もなく、変えなかったことを誇る話でもありません。

ただ、皆さんのプロフィール画像が一斉に三色に染められて行く様は、興味深いものがありました。で、しばらくするとある記事がシェアされ始めました。プロフィール画像を設定すると個人情報が抜かれるというあれです。すると、みるみるうちに皆さんの画像が元へ戻っていきました。

その様子をみていて、思う事があったので、記事を書いてみます。

思う事とは、情報の受け止め方とその反応についてです。時代に合わせて、新聞、テレビ、ネットとメディアの主役は移り変わりました。それに伴い情報を受け取った我々の反応も変わりつつあります。

新聞が情報源だった頃、我々は時間をおいてニュースを知り、時間をおいて義援金を送るなどして現地に反応していました。その際も我々にはニュースに対して考える時間が与えられていたように思います。テレビが情報源だった頃は、リアルタイムで情報は届きました。しかし、それに対する反応の時間はまだ与えられていたように思います。

今、ネットの時代の真っ只中です。ニュースは発生から間髪入れずに我々の元へと届けられます。国民総ジャーナリストですから。また、我々にも現場に対する反応が即座に返せる環境が整いました。

ただ、その便利さを享受する替わりに、我々には無言無形の圧力が課せられるようになったのかもしれません。それは、ニュースを受け取ったら反応しなければならない、という圧力です。今のニュースに対する反応を見ると、そのような圧力が生まれ、それに流されてはいないか、と思うのです。

勿論、ニュースにたいし、無反応でいることは自由です。また、ニュースにたいしてじっくりと考え、考えを表明する自由もあると思います。

しかし、今生まれつつある圧力はそれを許さない方向へと向かっているように思います。ニュースを吟味し考える余裕も与えられぬまま、情報に対して即座にレスを返すことが求められているように思えるのです。
情報に対する判断力、決断力は無論重要でしょう。特にビジネスの世界においては。でも、今回のフランスでのテロに関しては、なにかそういう圧力が働いていたかのようでした。

情報に対して無反応であったり、時期を逸して意見を発したりすると情報弱者と見なされる風潮。そういう風潮にはなってほしくないですね。そう思いません?


ローマ亡き後の地中海世界 下


上巻では、ローマ帝国分裂後も東ローマ帝国として永らえてきたビザンチン帝国の滅亡をもって幕を閉じた。下巻では、そのビザンチン帝国を滅ぼした、オスマントルコの台頭をもって幕が開く。

ルネサンスを迎え、長きにわたって忍従の時にあったヨーロッパ文化が花開こうとする時、著者は地中海にのみ焦点を当て続ける。ハプスブルグ家にも、パリやウィーンの栄華にも、百年戦争やバラ戦争にすら、著者は目もくれない。

なぜなら地中海にはルネサンスを経た後も、海賊の跋扈が後を絶たず、沿岸部の庶民は、海賊の襲撃や奴隷としての運命に脅かされ続けているから。下巻は、あらゆる海賊行為の厳禁を宣言した1856年のパリ宣言で幕を閉じるが、それは19世紀半ばになっても海賊の狼藉が止まなかったことを示している。

むしろオスマン・トルコは、ヨーロッパ諸国への攻撃の一手段として、海賊を奨励し続けた。そのため、暗黒の中世にも劣らず、ルネサンス盛んな時代になっても地中海沿岸部の人々は苦しんでいたことを、著者はこの本書を通して訴え続ける。宮廷人による華やいだ饗宴や、革命騒ぎだけがヨーロッパ史ではなく、名もなき庶民の苦しみにも彩られていたが現実だったのですよ、と。また、キリスト教からイスラム教へ改修させられた人々の生き方を通し、イスラムの寛容についても突っ込んだ考察を行っており、キリスト教中心史観にも一石を投じている。

一方で、本書を通して、地中海を縦横無尽とした海の男たちの生き様も活写される。下巻では、ローマ法王、トルコのスルタン、スペイン皇帝、フランス王が主役となって歴史を動かしているように読める。しかし、その配下となって働いた海の男たちの活躍なしでは本書は成り立たないといってもよいだろう。例えばトルコの海賊から最高司令官に登りつめた「赤ひげ」を始めとする海賊の親玉たち。80代の年齢になっても意気盛んに海賊やトルコと対峙し続けたアンドレア・ドーリア。マルタ島をオスマン・トルコの攻撃から守りぬいた、マルタ騎士団と騎士団長のラ・ヴァレッテ。

歴史の中心が地中海から大西洋に移っていく様が、淡々と描写されていき、本書は幕を閉じる。読み終わってみて、従来の西欧中心史観でしか歴史を知らなかった己の無知を改めて知る思いであ
る。

昨年、私の大学時代のゼミの教授が亡くなられた。中世ヨーロッパの商業史が専門であったゼミでは、本書でも紹介される、フェルナン・ブローデル著の「地中海」を輪読する形式を採っていた。「地中海」も購入したはずが、そもそも一巻通して読んだ記憶もなく、内容もほとんど忘れてしまっている。不肖の教え子として、いまさらながらではあるが、「地中海」も読んでみることで、より一層の理解を深めるとともに、泉下の教授に不勉強の詫びを入れねば、と思った次第である。

’14/01/02-14/01/12