Articles tagged with: ゲーム

テトリス・エフェクト―世界を惑わせたゲーム


本書はテトリスについての物語だ。テトリスの名前を知らない人はあまりいないと思う。私の娘たちも知っていたくらいだから。単純明快。それでいて中毒性を持つのがテトリス。上から落ちてくる四マスからなる四種類の図形を回転させ、横一列にマスを埋めれば消える。上まで積み上がればゲームオーバー。ゲームの歴史を彩った名作は多々あるが、テトリスは単純さと中毒性において屈指のゲームといえるだろう。

私がどうやってテトリスを知ったのかは覚えていない。ゲーセンのアーケードゲームなのか、任天堂のゲームボーイだったのか。その頃、ある程度テトリスをやり込んだ記憶はある。が、それほどはまらなかったように思う。少なくとも本書で紹介されたような人々が陥った中毒症状ほどには。むしろ、私がはまったのはテトリスの系譜を継ぐゲームだ。それは例えばCOLUMNS。またはキャンディ・クラッシュ・サーガ。それらの持つ中毒性には当てられてしまった。だからこそ、ゲームの世界に落ち物ジャンルうを打ち立てたテトリスには興味があるし、それを扱った本書にも興味を抱いた。なお、余談だが私は本書を読み始めてすぐ、読み終えるのを待ちきれずにiPad版のテトリスをダウンロードしてプレイした。その体験は久々で懐かしかったが、中毒になるまでは至らなかった。

テトリスの歴史や魅力のほかにもう一つ、本書が私に教えてくれたことがある。それは、契約の重要性だ。本書は契約の重要性を知らしめてくれたことでも印象に残った。

本書はロシア製のテトリスがどうやって世界中に販売され、受け入れられていったかのドキュメントだ。当時、ソ連はペレストロイカ前夜。社会主義の国是が色濃く残っていた時期。契約についての観念も薄かった。そのため、テトリスの版権や著作権、そして販売代理店や手数料など、西側の資本主義国のビジネスマンがこの不思議な魅力を持ったゲームを販売するにはいくつもの障害を乗り越えねばならなかった。本書はそうしたテトリスにまつわる契約のあれこれが描かれている。巨額の利権を産んだテトリスの権利をめぐる攻防。それは商売における契約の重要性を的確に示している。もちろん、本書はそうした契約上の文言を開示しない。一字一句掲示したところで野暮なだけだ。だが、契約をめぐる熾烈な競争は、私のように、情報サービスの契約を日頃から結ぶ身としてはとても興味深い。

もちろん、技術者としてもとても本書は面白い。テトリスがどういう発想から生み出されたのか。テトリスのプログラムがどういったマシン上で動作し、それを他の機種に移植する苦労。今と違って貧弱な当時のハードウエアの制限をどうやって克服したのか。技術者としてはとても興味をそそられる。

平面のさまざまな形を組み合わせ、別の組み合わせを作るペントミノと回転。それを横一列にそろえて列を消すだけの単純なルール。それは、イデオロギーも言葉や民族の違いを超えて人々を魅了した。また、当時のソ連のマシンは西側に比べ圧倒的に遅く、初期のテトリスは文字だけで実装されたプログラムだったという。アレクセイ・パジトノフがエレクトロニカ60で初期版のテトリスを開発した時、文字だけで動作するゲームしか作れなかった。そして、そんなマシンでも動くゲームだったからこそテトリスは人々をとりこにしていったのだろう。

貧弱なマシンが、当時のソ連にもわずかながら存在したギーク(ワジム・ゲラシモフ)によって別のマシンに移植され、それが当時唯一西と東をつないでいたハンガリーを通って西に出ていき、あっという間に西のマシンにインストールされていくいきさつ。それは、まさに歴史のダイナミズム。ベルリンの壁が崩壊する前、ハンガリーで開かれたピクニックが東から西への人々の移動を勃発させ、それが東西冷戦の終結への流れを生み出した事実は有名だ。テトリスもまた、歴史の舞台の展開に一役買っている。それは歴史が好きな向きにとっても見逃せない。本書には「テトリスをソ連が世界に貢献した唯一の物」と言う文が収められているが、まさにソ連とはそういう存在だったのだろう。

冒頭にも書いたとおり、私が初めてテトリスに触れたのは任天堂のゲームボーイだ。ところが、任天堂がテトリスを出すまでには、一山も二山も超えなければならなかった。その中で大きな役割を果たした人物こそがヘンク・ロジャースだ。彼こそが本書の主人公といってもよいだろう。ところが彼はがテトリスのライセンスを巡る物語のなかでは後発組だ。

最初にテトリスに目を付けた西側で最初の人物は、ヘンク・ロジャースではなく、ロバート・スタインだ。マクスウェル社のスタインは、ハンガリーから西側に登場したテトリスに真っ先に目を付け、そのライセンシーを獲得しようと奔走する。ところがスタインは、テトリスの開発者アレクセイ・パジトノフと直接コンタクトを取り、FAXでやりとりをして契約を結ぼうとする。それはもちろん過ちだった。よりによって一人のプログラマーに過ぎないパジトノフに西洋流の契約についての知識はない。もちろんスタインも正式な調印無しに事を進めることの危険性を理解していたはず。だが、テトリスの製品化は西側のプログラマによってあっという間に進められてしまう。そして未契約のまま西側で製品を流通させたことに焦ったスタインが時間を稼いだにもかかわらず、西側の市場に出回ってしまう。ソ連側や開発者のパジトノフにまったく利益が還元されないまま。スタインは板挟みになり、ますます契約締結を焦る。

それ以降の本書は、ヘンクがどうやってスタインに先行されたテトリス・ビジネスの劣勢を挽回していくかの物語になる。本書の冒頭で、ヘンクはつてもコネもアポも全くないままモスクワを訪れる。何もあてがなかったヘンクは街中でチェス愛好家と知り合い、それを手がかりにソ連の情報関連の管理を一手に行うERLOGに接近することに成功する。そしてスタインとの契約がソ連側に何ももたらさなかったことを、ERLOGの責任者アレクサンドル・アレクセンコに知らせる。そのことを知らされたERLOGのアレクサンドル・アレクセンコはスタインとの契約に失望を覚え、怒りにかられる。

そこでヘンクはまず契約の不公平さをあらためるため、即座に小切手でソ連が本来取るべきだった取り分を提示する。この誠実さに打たれたERLOGの担当は感銘を受け、ヘンクを信頼する。アレクサンドル・アレクセンコも、後継者のエフゲニー・ベリコフも同じ。ただし、スタインに悪気があったわけではない。ただ、スタインがやってしまった失敗とは、契約の調印が済んでいないのに、FAXのやりとりだけを頼りに西側への販売権をマクスウェル社やスペクトラム・ホロバイトに販売してしまったことだ。

スタインに比べ、後発のヘンクには、先人スタインの犯した過ちを挽回するチャンスも機転もあった。彼はまず誠実な対応をとり、ヘンクという人間を売り込む。ヘンクの対応はベリコフを信頼させるのに十分だった。そこでベリコフはスタインとの契約にとある修正をほどこす。その修正はスタインとERLOGの間に交わされた契約の条項にハードウエアの条件を書き加えるものだ。その修正はスタインの契約をパソコンに限定させる効力を持っていた。それに気づかぬまま調印したスタインは、ヘンクにまんまとポータブルゲームや家庭用業務ゲーム機器にライセンスを与える契約をさらわれてしまう。

ヘンクはその勢いで、テトリスをめぐるアタリ社やテンゲン社とのライセンス契約締結の競争にも勝利する。ヘンクの勝利の裏には、任天堂の山内溥、荒川實、そしてハワード・リンカーンの全面的なバックアップがあった。彼らに共通していたのは、任天堂が発売するゲームボーイに載せるゲームとして、テトリスがもたらす巨大な可能性を見抜く先見性だ。目的を一つにした彼らは、ライバルに契約面で勝利を収め、テトリスとゲームボーイのセットを世界中で売りまくる。

かつてファミコンが世界を席巻する前、ゲーム業界はアタリ社が優勢を占めていた。そのアタリ社が事実上、ゲーム業界で任天堂に覇者の座を譲ったのは、このできごとがきっかけだったのではないだろうか。

本書はパソコンの、そしてゲーム専用機の黎明期、さらに商売の面白さと怖さを知る上でも興味深い。

また、本書はテトリスの歴史に欠かせないヘンクの経歴にも触れる。その中で、ヘンクが開発したザ・ブラックオニキスの話など、初期のゲーム開発の苦労がよくわかるのが面白い。私はザ・ブラックオニキスの名前は知っていたが、プレイしたことがない。本書を読んでいてやってみたくなった。

本書はここまでのいきさつだけでも読み物として十分に面白い。が、それだけでない。本書にはテトリスの科学的な分析が三つのコラムとして挿入されている。BONUS LEVEL 1-3と題されたそれぞれのコラム。そこではプログラムの面からみたテトリス。テトリスの中毒性を心理学からみた考察。PTSDの治療にテトリスを使う試み。それらのどれもが知的興奮を誘う。

また、各章にもミニ知識としてテトリスに関するあれこれの豆知識が仕込まれている。例えば初期のテトリスにはボスが来た(1キー押下で仕事をしている振りを見せる画面を表示させる)機能があったり。

本書はすべての技術者やゲーマーにおすすめできる一冊だと思う。さらには、私のような契約の実務にも携わる方や営業に駆け回る方にも良い教材として勧めたい。

‘2018/05/10-2018/05/17


ゲームの名は誘拐


2017年の読書遍歴は、実家にあった本書を読んで締めとした。

私は誘拐物が好きだ。以前に読んだ誘拐のレビューにも書いたが、この分野には秀作が多いからだ。本作もまた、誘拐物として素晴らしく仕上がっている。本作の特色は、犯人側の視点に限定していることだ。

誘拐とは、誘拐した犯人、誘拐された被害者、身代金を要求された家族、そして、捜査する警察の思惑がせめぎ合う一つのイベントだ。それをどう料理し、小説に仕立て上げるか。それが作家にとって腕の見せ所だ。なにしろ組み合わせは幾通りも選べる。例えば本書のように犯人と被害者が一緒になって狂言誘拐を演ずることだってある。本書は誘拐犯である佐久間駿介の視点で一貫して描いているため、捜査側の視点や動きが一切描かれない。犯人側の視点しか描かないことで物語の進め方に無理が出ないか、という懸念もある。それももっともだが、それを逆手にとってうまくどんでん返しにつなげるのが著者の素晴らしいところだ。

誘拐犯の佐久間駿介は、サイバープランの敏腕社員だ。ところが心血を注いだ日星自動車の展示会に関する企画が日星自動車副社長の葛城勝俊によって覆されてしまう。己の立てた企画に絶対の自信をもつ佐久間は、屈辱のあまり葛城家に足を向ける。俺の立てた企画を覆す葛城の住む家を見ておきたいという衝動。ところがそこで佐久間が見たのは塀を乗り越えて逃げ出す娘。声をかけて話を聞くと、葛城勝俊の娘樹理だという。樹理は、父勝俊から見れば愛人の子であり、いろいろと家に居づらいことがあったので家を出たいという。その偶然を好機と見た佐久間から樹理に狂言誘拐を持ちかける、というのが本書のあらすじだ。

本書は上に書いたとおり、一貫して佐久間の視点で進む。犯人の立場で語るということは、全ての手口は読者に向けて開示されなければならない。その制約に沿って、読者に対しては佐久間の行動は全て筒抜けに明かされる。それでいながら本書はどんでん返しを用意しているのだから見事だ。

本書は2002年に刊行された。そして本書の狂言誘拐にあたってはメールや掲示板といった当時は旬だったインターネットの技術が惜しげもなく投入される。だが、さすがに2017年の今からみると手口に古さを感じる。例えばFAXが告知ツールとして使われているとか。Hotmailと思しき無料メールアドレスが登場するとか。飛ばし電話をイラン人から買う描写であるとか。でも、佐久間が日星自動車の展示会用に考えたプランや、佐久間が手掛けた「青春のマスク」というゲームなどは、今でも通用する斬新なコンセプトではないかと思う。

「青春のマスク」とは、人生ゲームのタイトルだ。私たちが知る人生ゲームとは、各コマごとの選択の結果、いくつものイベントが発生するゲームだ。ところが、この「青春のマスク」はその選択の結果によってプレーヤーの顔が変わっていく。スタートからの行いがゲームの終わりまで影響を与え続け、プレーヤーに挽回の機会が与えられなければ興が削がれ。その替わりに救いが与えられている。それがマスクだ。マスクをかぶることで顔を変え、その後の展開が有利になるような設定されている。しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在。そんな佐久間の人生観が垣間見えるゲームシステムが採用されている。

「青春のマスク」のゲームの哲学を反映するかのように、佐久間と樹理の周囲の誰もが何かのマスクをかぶっている。それもだれがどういうマスクをかぶっているのかが分からない。犯人の佐久間の視点で描かれた本書が、犯人の手口を読者に明かしながら、なおも面白い理由こそが、犯人以外の登場人物もマスクをかぶっているという設定にある。だれが犯人役なのか、だれが被害者なのか。だれが探偵役でだれが警察役なのか。読者は惑わされ、作者の術中にはまる。 それが最後まで本書を読む読者の手を休ませない。そのせめぎあいがとても面白かった。

しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在という、佐久間の哲学。私たちの生きている世間の中ではあながち的外れな考えではないと思う。何も正体を隠さなくてもよい。正々堂々とあからさまに生きようとしても、大人になれば考えや立場や属する領域が幾重にもその人の本質を覆い隠してしまうのが普通だ。この人は何クラスタに属し、どういう会社に属し、という分かりやすい属性だけで生きている人などそういないのではないだろうか。少なくとも私自身を客観的に外から見るとまさにそう。そもそもどうやって稼いでいるのかわかりづらいと言われたことも何度もあるし。そう考えると私の人生もゲームのようなものなのだろう。

本書はそうした人生観を思い知らせてくれる意味でも、印象に残る一冊である。

‘2017/12/30-2017/12/31


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


ダークゾーン


著者の大分前の作品にクリムゾンの迷宮という作品がある。いきなりどこへと知れぬ場所へ連れ去られた男女達が、命をかけた生き残りゲームを強いられる話だ。私が読んだのは記録によると2001年。14年前だ。本書を読み終えて思い出したのはクリムゾンの迷宮。作風が実に良く似かよっている。

違うのは、登場人物達が自らの戦う場所を認識していること。本書の舞台は長崎にある端島(軍艦島)だ。さらにもう一つ違うのは、登場人物達の姿形が人ならぬものに化けること。化けただけではなく、化けた姿の属性に応じた能力が付与されていることだ。

異形の姿に成り果てた男女は、赤と青の二勢力に分けられる。そしてその異形の能力を操り、敵を殺す。殺された敵は敵方の勢力として命を吹き込まれ、大将によって任意の場所に打ち込まれる。それはまるで将棋でいう持ち駒のようだ。そう、このゲームはまるで将棋。そうはいっても異形の者達の動きはチェスや将棋のような単純な動きではない。しかし一定のルールに従っている。

本書は青の大将(キング)である塚田の視点で進む。塚田は将棋差しが腕を磨きプロを目指す奨励会に所属していることになっている。青の駒は姿形こそ異形になっているが、人間だった時の記憶を持っている。そしてそれらは皆、塚田が人間だった頃の知己という設定になっている。

なので、塚田が人間だった時にその駒とどういう関係だったか。それが各駒への指示や勝負の行方にも影響を与える。とくに塚田の恋人理沙や大学での恩師は塚田にとって近しい関係だったため、塚田の判断や戦略に大きく影響を与える。

また、千里眼のように周囲の状況を把握できる一つ眼の赤ん坊の外見を持つ存在もいる。今はいつで、なぜここにいるのか、この勝負の胴元はだれか、負ければどうなるか、などの情報。それは話が進むにつれ、一つ眼が小出しに開示する。

対する赤の軍勢の正体も徐々に明らかにされてゆく。赤の大将は塚田の親友であり、奨励会で互いに切磋琢磨する奥本。実力も伯仲した二人が赤と青に分かれ、死の七番勝負を戦うことを余儀なくされる。一度負けたら持ち駒や配置はすべてリセット。前試合の殺された痛みや戦跡の記憶を保持したまま、先にどちらかが4勝するまで勝負は続く。

冒頭にも書いたように、本書は明らかにクリムゾンの迷宮を下敷きとし、それを発展させたものだ。そこにはここ十数年のオンラインゲームの発展も取り込まれている。偶然にも本書を読む少し前に、ターン制を廃した画期的なチェスが発表されたばかり。

本書はそのような新たなゲーム世界の創造を意図して書かれたと思われる。その意図は著者の意図であるが、読者はそれとは別にこの異形のゲームの創造者は誰かという著者から提示された作中の謎も忘れてはならない。各章の合間には断章が挿入される。そこでは人間の塚田の日々が描かれる。奨励会での日々や大学での日々。本書の種明かしとなるのでこれ以上は述べないが、これらの断章がやがて本編の異形のゲーム世界の生成の謎へとつながる。

我々も遠からず本書で描かれたような異形のゲーム世界に迷い込むのかもしれない。あまり歓迎したくない本書のようなゲーム世界の実在。それを現実のものとして考えざるをえないような、そんな未来が遠からず待っているように思えなくもない。Virtual Realityが当たり前のようになり、ゲームにも取り入れられつつある今の延長の近未来では、人はどのようにしてゲーム世界と現実世界を区別していくのだろうか。ゲームの世界から現実の世界に戻ったときの感覚が、本書の結末で書かれたようなものでない誰が言えるだろう。本書は著者なりのゲーム論、仮想現実論として捉えることも出来るかもしれない。

その意味で、本書はクリムゾンの迷宮で提示した世界観をはるかに凌駕したといえる。

‘2015/9/29-2015/10/2