CLS道東 2023 (極寒編)に参加しました


2/4に釧路で催されたコミュニティリーダーズサミット in 道東 2023 (極寒編)に参加してきました。

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昨年九月に催された第一回CLS道東にも参加し、ワーケーションを実践されておられる皆さんからの貴重な知見を学びました。
ワーケーションの意味をcls道東で教わりました

そこで学んだのは、アウトプットの質量にこだわらない姿勢です。
アウトプットにおいてワーケーションはリアルに劣る。それを率直に認め、ワーケーションで得られるインプットにこだわる。また、ワーケーションは地元でもできるとの気づき。
前後の懇親会や知床の旅や出会いなど、とても得難い経験でした。

前回の参加では大いなる知見を得た私。今回、私はアウトプットが必要な案件を多く抱えていました。そのため、釧路までの渡航自体が危ぶまれていました。正直参加は無理かなと。

ですが、行くと宣言していた以上は初志貫徹したい。そう思い、知床の流氷から海に飛び込むつもりで参加しました。
すると、参加したことで自分が次のステージに進めたのです。本稿ではそれを書きます。


今回のCLS道東のセッションで得た知見は、幾つもありました。

コミュニティの世代間格差の問題は、私も自分の課題として受け止めています。
私がサイボウズさんのエコシステムの世界に加わらせてもらったことで、人生も仕事も次の地平が拓けたことは、今までにあちこちで書き、話した通りです。
が、それはあくまでも私の経験からの話。私がそうだからといって、それは万人に共通のメソッドではありません。
私の経験を安易に若い技術者に勧める事について慎重にならなければ。世代間格差とは若い人の問題ではなく、むしろ年長者側に理由がある。
コミュニティ界隈の先達者たちが多く参加されたこのセッションは、私を諫めてくれました。そして、これからのコミュニティ運営についての大いなるヒントを与えてくれました。
得た気づきについては、下のnote
にも記しています。

もう一つ、得た知見は、会場の熱気です。
参加された方々はなぜ現地に行くのか。しかも忙しい仕事の合間を縫って。現地に行くことによって得られるものとは何か。
これも下のnoteに書いています。

上に書いた通り、今回の私はCLS道東に参加できるかすら危ぶまれる状態でした。ですが、現地に足を運んだことで次のステップに進めました。
躊躇した時はとどまらずに前に踏み出す。すると、必ず何かが得られる。
これは、今までの人生で得た私の人生観です。私の人生観は今回のCLS道東でより強化されました。

投資も同じ。投資や支出について人は慎重になるあまり、往々にして及び腰です。かつての私もずっと投資や支出には臆病でした。ただイベントに出るためだけに多額のお金を使うなどもってのほか。それが私でした。
支出が固定されており、それに対するリターンがあらかじめ見えている状態では、改善する理由を見いだすことはなかなか難しいもの。
が、お金や時間を使うとその元を取るために人は必死さを発揮します。取り組み方にも熱がこもります。工夫を凝らし、変化も生じます。

お金は使ったらその隙間を埋めようとかならず戻ってくる、という言葉は、私が法人を設立した頃に参加していた交流会でもよく聞きました。
が、当時の私はその言葉の中にわずかな胡散臭さも感じていました。
が、今はその言葉が一面の真理を示していると言えます。
問題は、この学びをどうすれば説教臭を抑えつつ次代に伝えていくか。これは引き続き試行錯誤します。

あと一つ、得た成果は肌感覚の大切さです。
今回のCLS道東は冬の北海道で行われました。
私が冬の北海道に向かうのは、プライベートを含めても初めてのことです。
(極寒編)と銘打たれた今回のCLS道東。私のような虚弱な体には耐えられないのでは、と行く前から戦々恐々としていました。

が、結論からするとそれは杞憂でした。むしろ快適でした。

確かに道東の冬は過酷です。軽視してはならないのは当然です。
今回も釧路の夕焼けをご案内いただいた際、その極寒を体感しました。短時間で釧路川の川面が蓮の葉を思わせる形に凍っていく光景は、関西や首都圏、私のルーツである福井ですらも味わえないでしょう。
雪が積もる屋外を歩いていると、その過酷な自然は随所に罠を仕掛けています。鋭く光るつららは剣呑。路面のあちこちには油断すると転倒するトリックが。

そうした過酷な寒気を長きにわたってしのぎ、暮らすための工夫を重ねてきた先人の知恵。
街を歩くと凍結防止剤や砂やロードヒーターのおかげか、あたり一面の積雪にもかかわらず交通は麻痺していませんでした。
おかげで大喜湯春採店から武佐駅へも歩いて移動できました。大喜湯春採店から釧路駅まではトランクを引きずって歩けました。
歩きながら、冬の道東の現実と生活の工夫の数々を体感できたのは今回の収穫です。
屋内では半袖でアイスを食べる、という話は冬の北海道を語る際の常套句です。この言葉、頭では理解していても、関西で育った私には都市伝説にしか思えませんでした。が、よもや今回の旅で自分がアイスを食べることになろうとは。

冬の道東は、過酷ではありますが、決して人が住めない場所ではないのです。
CLS道東に参加された皆さんがアップされたワーケーションレポートからも冬のアクティビティの豊富さとして、それは感じられました。
その事実を私が理屈ではなく、自分の五感で体感できた。これもまた、今回の旅の気づきでした。この気づきは、どれだけ動画サイトや人様のブログを見聞きしてもわからない感覚です。実際に参加したからこそ得た体験といえます。

釧路から帰京して一日空け、私は山形の米沢や仙台を訪問しました。そこでも雪国の厳しい自然と対峙しました。釧路だけでなく他の地域の冬と比較できたことは、私の中に道東の冬をより多面的な経験として蓄積しました。

最後に、ワーケーションの可能性です。

今回は、前回参加した昨年の9月に比べて、私の忙しさが一層増していました。
その様な状態だったので、今回はアクティビティにはほぼ参加していません。
前日は早朝の便で釧路に到着してから、夕方まで946BANYAで仕事や打ち合わせをしていました。CLS道東の開催当日の午前は作業をずっと946BANYAで。
翌日も春採湖や武佐駅まで歩いて散歩した以外は、大喜湯春採店さんにこもって作業や打ち合わせに集中していました。その翌日も大喜湯春採店さんやくしろフィスさんでの作業や打ち合わせに没頭していました。

今までも私は多くのワーケーションツアーに参加してきました。そして、その中で必ず一日は観光の日を設けていました。
ところが今回は観光の日は設けていません。
普通だと、私のような小市民はこう考えます。「せっかく旅に来たのに、仕事ばっかりやった」と悲嘆に暮れます。
ところが、今回は不思議なことに仕事をしていても、充実感が残ったのです。

それはなぜでしょうか。CLS道東の前日にジョイゾー社の皆さんとお風呂に浸かり、夕焼けツアーに同行させてもらったからでしょうか。また、前夜と当日にたくさんお酒を飲み、参加者の皆さんと豊かな会話が楽しめたからでしょうか。
確かにそれもあるでしょう。
が、私は充実感の理由を、異世界の光景にあると考えます。
946BANYAでは仕事をしながら、目の前を流れる釧路川の川面が凍る様子に歓声を上げました。大喜湯春採店さんでは一面の雪景色を眺めながらの仕事ができました。
これが山や海ではこうはいきません。私が住む町田からは、少し足を伸ばせば山や海を見ながらの仕事ができます。が、今回の様な極寒ならではの景色だけは得ようと思っても得られません。
これこそ、普段の仕事とは違う環境です。違う環境に身を置きながらの仕事。

これこそが、ワーケーションなのだ、とようやく眼が開かれた思いです。
今回のCLS道東の参加で得た最大の成果こそ、この開眼なのかもしれません。


最後になりましたが、CLS道東に参加された皆さま、ありがとうございました。登壇者の皆さま、貴重な知見をありがとうございました。前夜祭と懇親会でお話した皆さん、ありがとうございました。武市さん、いつもお写真ありがとうございます。今回も使わせていただきます。
釧路夕焼け倶楽部の芳賀さん、夕焼けのことや釧路のことなど教えてくださってありがとうございました。大喜湯の皆さん、延泊また延泊の私にいろいろとご配慮くださってありがとうございます。
Hokkaido Design Code社の皆さん、一新したすてきな946BANYAを使わせていただきありがとうございました。
最後にJOYZO社の皆さん、聖地巡礼への同行ばかりか、お風呂や夕焼けなどご一緒させていただきありがとうございました。他にも今回の旅で御縁のあった全ての方々に心から感謝します。

また、次回も参加させていただければと思います。もちろん、高知にも。


ワーケーションの意味をCLS道東で教わりました


北海道から戻って約二週間がたちました。
東京に一日いただけですぐ大阪へ。十日ほどシステム切り替えやその他の作業でこもっていました。

北海道での交流の日々。そして大阪での仕事の日々。どちらも私にさまざまな気づきを与えてくれました。それらの気づきのうち、最も大きく感じたのはワーケーションの意味でしょうか。

9月26日 何かを変えたい熱意は通じる
9月27日 伸び代は伸び代のある場で
9月28日 ワーケーションは人が必要

ワーケーションは、リアルとオンラインの使い分けを人々に問いかけます。
コロナの流行が始まってから二年半。今更、オンラインとリアルの使い分けを考えることに意味はあるのでしょうか。
確かにオンラインでの働き方は市民権を得ました。ですが、残念ながら人は今もリアルの働き方を最善とし、場合によってはそれを人に強いています。また、オンラインの会議に渋々参加しているものの、本心ではリアルが一番と思っている人も多いはずです。

私が感じたのは、どちらにも優劣はないと言う単純なことです。臨機応変に場面に応じてリアルとオンラインを切り変えればよいだけの話。
むしろ、どちらかに決めてしまうことがおかしいのです。コロナが人々に突きつけたのはこの問いです。TPOに合わせて考えることを放棄してはならないのです。

日々の定型業務のすべてをリアルで行わせたい。
イーロン・マスク氏に限らず、そのような上司や経営者はまだ多いことでしょう。
が、日々の定型業務をこなすため、リアルで出社させる必要は本当に必要なのでしょうか。私はオンラインとリアルのどちらかに決める必然はないと考えます。
今まではアウトプットの質や量の低下を理由に、リアルが圧倒的に有利でした。ですが、時間の自由度がないことや通勤の疲れなど、リアルにこだわる事はインプットの低下をもたらしていました。

一方、すべてをオンラインで済まそうとすることも弊害の元です。
今のオンラインツールは、まだリアルほどには信頼感の醸成ができません。メタバースにしても、人間の五感の代わりにはなりえていません。
また、オンラインでは多くの人と新たに出会えますが、リアルで会う時のような深い関係は築けません。築く以前に、発展的なつながりの構築が難しいことは皆さんが知ってのとおりです。
オンラインは、リアルな距離感を構築できず、人間関係にも見えない壁が残ります。一方、メタバースでアフリカの大地を旅しても、リアルでその場の空気に触れる感動とは比較になりません。今もなお、オンラインツールから得られるインプットは少ないのが現状です。
違う場所へ移動し、そこで新たな人と交流することは心を活性化しインプットを多く増やします。インプットの質に関しては、オンラインはリアルに叶わないことは認めるべきです。

インプットが枯渇すればアウトプットも決まりきった内容になってしまいます。枯渇したまま、オンライン上で業務を続けても、アウトプットの質の低下は否めません。オンラインツールにはまだまだ改善の余地があると割り切った方がよいのです。

人と会い、人と語り、人とつながることはリアルの方が強い。特に新しい人との出会いにおいては。
これを認め、リアルでの場には積極的に参加すべきです。たとえCLS道東のように遠方であろうと。
ただしリアルといっても、毎日、仕事する場には原則として同じメンバーが集います。そこからは新たな発想や新たな行動はなかなか生まれにくいことも認めなければなりません。つまり定型業務こそオンラインで行うべきなのです。
逆に、新たな場所を訪れ、新たな人とご縁を結ぶ機会はリアルの場に積極的に参加することを推奨すべきだと思います。

CLS道東では、そうした観点からのお話が多かったように思います。参加されている皆さんの多くは、仕事しながら旅をするワークスタイルを確立した方ばかりです。とても参考になりました。

私は今までに何度かワーケーションを経験してきました。その中で、どうしても拭えずにいた葛藤がありました。
それはワーケーションにおけるアウトプットの問題です。ワーケーションにおいては、アウトプットの量と質がどうしても低下してしまいます。

ある程度、普段の業務に余裕がある人ならワーケーションは問題ないのでしょう。が、私の場合それが許されません。私のように常にさまざまなタスクを抱えている現状では、アウトプットの減少は由々しき問題です。
ワーケーションには移動が必須です。移動中には通信や電源が確保できず、宿泊先でも会話や飲み会が集中を絶ちます。どう繕っても、ワーケーションの実質は「ケーション」が多めになっていることは認めなければ。

特にシステム構築は、オンラインでできるはずの業務でありながら、集中を求められる作業です。
いつもの作業場で仕事をするよりも、生産性に顕著な低下が生じてしまいます。

今回、CLS道東のセッションの中で話されていたことの多くは私の目を啓かせてくれました。
中でも、ワーケーションのアウトプットは落ちると明確に話されていた八子さんの言葉と、ワーケーションは地元でも出来るとの古地さんの言葉は、ワーケーションについての私のモヤモヤを払拭してくれました。
私の中で今後、ワーケーションはインプットの場として明確にします。もちろんアウトプットも忘れません。連絡や、簡単な設定作業などは積極的に行います。

私は普段から、コーディングや設定の作業が一段落すると散歩に出かけていました。そして、散歩しながら必要な連絡をこなしていました。それは、古地さんがおっしゃっていた「地元でもワーケーション」の実践だったことに気付きました。
私はそのことを普段から無意識でやっていましたが、これからは意識して近所のカフェを使おうと思います。これならば移動時間のロスも減り、ワーケションのアウトプットロスも減らせます。

日々のワーケーションでインプットとアウトプットの両方を満たしつつ、数カ月に一度は遠方へワーケーションに赴こうと思います。
遠方を訪れた際は、ワーケーションでアウトプットの質量が落ちることを自覚します。そして、失われたアウトプットを上回るインプットを得れば良いと割り切ります。それは、仕事上の気づきのインプットであり、日々の仕事に疲れた心を休めるインプットでもあります。
6月の高知と9月の道東で感じたメリットを自覚しながら。

じつは私は、ワーケーションによるインプットの効果は、一介のプログラマーやシステムエンジニアの役割にとどまっている間は、あまり感じられないと見ています。
そもそも、今はオンラインで仕事ができる環境が整いつつあります。かつてのように出勤を強いられ、開発ルームに詰め込まれ、ひたすらタスクをこなすだけの仕事は既に減りつつあります。これからもさらに減っていくでしょう。さらにいうと、今後のシステム業界は単なるコーダーや設計だけしていては生き残っていけない事は明白です。そうした仕事は人工知能がどんどん担っていくことでしょう。
ですが、人とのつながりや、ビジネスのプロセスから新たな価値を見いだす仕事は、まだまだ人が担うべき領域です。今後のエンジニアにはそうしたタスクが求められるはずです。それには想像力が要ります。アウトプットに終始した同じ場所での業務からは、新たな発想を生みだす事は難しい。ワーケーションとは、インプットをどんよくに取りこみ、アウトプットを充実させるだと考えるようにします。
結局、ワーケーションによるインプットのありがたみとは、人との交流が必要になった技術者になるか、メンバーを統括し、導き、プロジェクトを推進する立場、さらに経営する立場になって初めて得られるのではないか。それが私の率直な意見です。

今回、釧路や知床でのリアルのご縁をいただくとともに、知床や大阪ではオンラインやメタバース上で全国各地の人と会話を行いました。
皆さんに感謝するとともに、その触れ合いや交流が、私に上のような思いを強く抱かせました。
ワーケーションには可能性があると。そして、都会の心中からは、もはやイノベーションが生まれにくいと。
地方創生とは無理に都市から人を引きはがすことにあるのではなく、都市ではもはや得られないインプットを得る目的の延長にあるのではないかと。


この国の未来に私や弊社ができること


金曜日の朝に流れた安倍元首相が銃撃されたニュースはかなりの衝撃を私に与えました。

そのニュースを私は八王子に向かう電車の中で知りました。
八王子駅に着くと、ちょうど日本共産党の候補者の方が街頭演説をしていました。私が通りがかった時、先ほど入ってきたニュースとして銃撃のことに言及されていました。暴力は許されない、私たちは議会で議論してこの国を良くしていく、とその方は熱弁をふるっておられました。

用事を済ませた私がコワーキングスペースで仕事をしていたら、安倍元首相が死去されたニュースが飛び込んできました。
そこから、ジワジワと私の中に衝撃が染み渡ってきました。何か大切なものが抜け落ちてしまったかのような。

その喪失感がどこから来るものなのか。私はその感情を持て余し、衝動的にバーに飛び込みました。
バーから出て八王子の駅に向かうと、読売新聞の号外が配られていたので一枚手に取りました。

帰宅した後も今朝になってもまだその衝撃は去りません。さらに一日おいても。
衝撃を受けた理由を自分なりに考えるため、本稿に著してみます。なぜ衝撃は去らないのか。

その前に私の政治的な立場を明らかにしておきます。
私はどちらかというとノンポリのその他大勢に属しています。特定の政党にも宗教にも属していません。シンパでもなく、オルグもされていません。
改憲には賛成の立場です。ただし、それは武力行使を許すためでなく、逆に専守防衛のために自衛の軍隊を持つことを条文に明記するためです。他にも施行当時にはなかった国民の権利の考えを今の時代に合わせてアップデートすべきだと思っています。多様性を重んじ、LGBTQ+も加味した憲法として。

安倍元首相は改憲に向けてリーダーシップを発揮しておられました。私は氏に改憲の可能性を感じていました。安倍元首相とは目指す方向が違う可能性はありましたが、私は期待し、応援していました。ところが、疑惑を招くような数々の行いがありました。あれには失望させられました。日本を変えたいのなら脇を甘くせず、一切の疑惑を招かないよう、注意深く振る舞ってほしかったと。

ですが、政治家も官僚も人間です。私は人間の能力では皆が完全に納得できる政策を立案し、施行するのは不可能だと思っています。
そして、誤りを犯さない人間もいません。安倍元首相は聖人君子のパーフェクトヒューマンではありませんでした。が、それが逆に、人間の強さと弱さを兼ね備えた名政治家の証だったと思います。

衝撃を受けた理由を考えてみました。

事件が起きたのが、私が三週間前に通りがかった大和西大寺駅の北口だったから何かの数奇な縁を感じたのでしょうか。多分違います。
事件の夜、私は大和西大寺駅前で一緒に飲んだ後輩に連絡しました。すると、その後輩はたまたま大和西大寺駅にいたらしく、駅の写真を撮って送ってくれました。いつもと変わらないであろう駅の様子を見て、私が感じた衝撃の理由が最近に訪れた場所だからではないことが分かりました。

では安倍元首相が有名だからでしょうか。これも違うように思えます。アメリカのケネディ大統領やジョン・レノンが撃たれた時の世間の反応もこのような感じだったのでしょうか。ですが、ジョン・レノンが撃たれた時、私は7歳でした。全く記憶していません。

アメリカ同時多発テロ事件のような、私たちがよく理解できない主義主張による凶行だからでしょうか。これも違うと思います。
今のところ、報道によれば犯人には、政治的な信条の他に動機があるらしいとのことです。多くのアンチを抱えていた安倍元首相ですが、アンチが主張する理由をある程度は知っています。その理由があったからこそ、もっとも安倍元首相が標的に選ばれやすかったことも。

では、日頃から起きている悲惨な事件や事故と今回の事件は何が違うのでしょう。何がこれほどに衝撃を与えるのでしょう。

私は、ネットの暴力がついにリアルを侵食し始めた怖さにあると思います。
今までも、わが国では暗殺が多数なされました。元首相や現職の首相も。テロもそう。平成にはオウム真理教が暴走し、令和でも京都アニメーションの放火が世間に衝撃を与えました。他にも通り魔事件や凶悪な犯罪は何度も発生しています。
ですが、こうした暴力は、私たちにとっては突発のものでした。犯人の中で人知れず憎悪が増幅していたにせよ、私たちがそれを知る術はありませんでした。オウム真理教による脅威はサリン事件の前から一部のマスコミで報道されていましたが、当時はまだネットが未開拓でした。世間にオウム真理教の内情は知られていませんでした。
戦前のテロは社会に不安が高まり、それが新聞などで報道された中で行われていました。ですが、当時はネットもなく、今の情報の広がり方とは明らかに異なっています。
今までの事件は、どれも事態が起こってから、動機を後追いしてさかのぼる種類のものでした。それは論理による振り返りです。

ところが、安倍元首相の場合、ネットの中でアンチの世論が形成されていました。中には見苦しい暴言も散見されました。
今回、犯人の動機が報道されています。それによると政治信条ではなく、私的な理由が動機だそうです。ガードが堅い特定団体の関係者を襲うかわりに、その団体とのつながりを報道されていた安倍元首相を狙ったと。
ここからは私の推測ですが、その団体とつながりがあると報道されたことが犯人の矛先を向かせたのではないかと。もしそうだとしたら、ネットに渦巻くアンチの声は、リアルへの緩衝効果どころか、犯罪を後押しした結果を招きました。

私は今まで、こうしたネット内のアンチの声を鬱憤の発散の場として許容し、甘くみていました。
ですが、たまり続ける鬱憤はリアルの場で暴発する。そのことが実証されたのが今回の事件だったと思います。その恐ろしさが私に衝撃を与えたのだと考えています。論理による振り返りを許さない現実の恐怖。

ネットが出現する以前のメディアや通り魔事件犯人の心の中は、いわば閉じた情報でした。ですが、ネットにあふれる情報は、社会に向けて開かれています。そうした情報は社会に広がっているため、希釈され発散され、凝縮して暴発しない。私はそのように油断し、勘違いをしていました。
犯人の行為は許せません。罪を償ってもらうのは当然ですが、それで終わらせず、社会をなんとかしないと。

このような事態が起こった今、私や弊社のような情報技術に携わるものはどうすれば良いのでしょう。
まず、確認しておきたいのは、今まさに進んでいる情報社会の流れは絶対に後には戻らないことです。これからも社会にはますます情報が流れ、あらゆるものがデータで表現されていくはずです。それは間違いありません。

多分、情報技術に関わる人は、私も含めてこれからも忙しい日々を送ることでしょう。
その時、技術者は個人情報を含む機密情報の扱いには細心の注意を図ることが求められます。ヒューマンエラーをなくすための仕組みの導入を含めて。
ただし、秘匿すべき情報を除けば、これからは逆に情報を開示していく時代になると思います。
すでにビットやバイトなどのパケットの仕組みやネットプロトコルなどのレイヤー1からレイヤー6までは規格が策定され、公開されています。レイヤー7のアプリケーションに関わる部分は私や弊社が関わる部分です。そこも機密情報を公開しない限りにおいて、求められれば開示できるよう、備えておくことが必要です。

これからは、情報は原則として公開するものというポリシーを持つことが私たちに求められます。いわば情報の民主化です。
情報が特定の組織や立場に握られない社会。誰もが公平に世の中の情報を享受できる社会。
国や民族や性別や宗教や信条や立場や門地によって与えられる情報が区別されない社会。
社会から疎外されたと感じる人がいなくなり、いかなるパーソナリティの方でもなじめるような社会。

そうした社会を創るためには、そうした方々にあまねく情報を配信できる仕組みを作らねばなりません。
また、あらゆる方がきちんと情報を扱うリテラシーを備えることも大切です。そのための教育も必要でしょう。
今回の犯人のように、自らの中の衝動に追い詰められる人を少しでも減らしていかなければ。

弊社も私もそのような社会が実現できるよう、努力していきたいと思います。

今日は参議院議員選挙です。私も投票してきました。
皆さんも投票の権利を行使し、社会に参加して、まずは身の回りから不満に思う部分を変えていってほしいと思います。
ただし、それには時間がかかります。すぐに世の中は変わりません。身の回りもすぐには変わりません。何年も何年もかけて変えていかなければ。
事件の翌日、私が好きな場所の一つである、世田谷の慶元寺を訪れました。そこで門前に掲げられていた標語をアップしておきます。何事も好転するまでには若干のタイムラグがあるのです。

末筆になりましたが、安倍元首相に心からの哀悼をささげたいと思います。あなたの死を無駄にはしないように。そして改憲への志を引き継いでいけるように。


鉄道の廃止に物申す


JR西日本が自社の抱える路線網のうち赤字に陥っている路線についてその収支を公表したことは、沿線の自治体に波紋を広げました。
JRが国鉄から民営に変わって約35年。こうなることはわかっていたのかもしれません。
社会的なインフラとしての鉄道の使命を考えるならば、国や自治体が責任を持つべきでしょう。ですが、私企業であるJRにはその義務がありません。むしろ赤字路線を抱えていることは、他の優良線区を含めた企業としてのJRの存続にダメージを与えかねません。

私はもちろん廃止には反対の立場です。ですが、JRや地方の鉄道会社に赤字を背負わせ続けて良いとは思いません。
JRを含めた鉄道の存続の議論を真剣にしなければならないと思っています。


この連休の前半、岐阜の美濃加茂市に出張で訪れました。
翌日、美濃太田駅から始発の長良川鉄道に乗り、終点の北濃に行きました。一両編成の車内には、前平公園駅や関駅、美濃市駅と駅に到着するにつれ、自転車とそのオーナーが何台も乗り込んできました。そして、郡上八幡駅や美濃白鳥駅、北濃駅で降りていきました。いわゆるサイクルトレイン。ここまで大々的に活用されているのは初めて見ました。

一両編成のディーゼルカー。しかも始発。普通、こうしたローカル線では閑古鳥がないているはず。それが終点の北濃でもかなりの人数が乗っていました。この姿に鉄道の未来を見ました。
帰りの北濃発の列車は「ゆら〜り眺めて清流列車」と名付けられ、二両編成でした。クロスシートの車内は満員でした。

長良川鉄道も二期前と三期前は自然災害やコロナで苦しかったそうです。ですが、昨季は黒字転換しています。
決算公告

長良川鉄道は、ほぼ全線で東海北陸自動車道が競合相手です。しかも、始発駅の美濃太田駅までの名古屋からのアクセスはあまり良くありません。
それにもかかわらずこの健闘は素晴らしい。
美濃市や関市を沿線に擁し、郡上八幡という観光地を持っているからでしょうか。

そんなふうに長良川鉄道の健闘に対して好印象を抱いた私ですが、始発駅である美濃太田駅への最初の印象はあまり良くありませんでした。
私が美濃太田駅に着いたのは夜の21時半過ぎ。東山動植物園にあるお客様のオフィスを出て、千種駅前で夕食と乗り換えをこなし、多治見で乗り換えた長い旅でした。
駅こそ立派な作りだと思いましたが、とにかく駅前に何もなさすぎます。駅の北口と南口を歩きましたがコンビニ一つさえも見つかりませんでした。私が見つけたのは駅から相当離れた場所にあるファミリーマートでした。

美濃太田と言えば、中山道の太田宿を擁する町。私も太田宿の面影を残す旧街道を歩きましたが、旅情を感じるには良い場所です。観光地のような繁栄とは無縁の、風情が今に残された建物を歩きました。

ですが、風情が残されていることは、再開発の対象にすらならなかったことでもあります。つまり、交通の担い手としての役割がとうの昔に太田宿から奪われたからこそ、保存されていただけです。
次に太田宿から交通の主役を奪ったのは鉄道。かつては美濃太田駅が国鉄の三本の路線を集約させ、一大ターミナルとして街の中心でした。その名残が、駅の広大な構内からも感じられました。
ですが、JRや長良川鉄道が行き交う美濃太田の駅前も今は寂れています。
そして、にぎわいは郊外の国道沿いに移っていました。お客様の工場への行き帰りに送っていただいた車内から、その様子を見ることかできました。
美濃太田駅がある美濃加茂市は、地方の都市がおかれた現状をよく表しているように思いました。旧街道に続き、衰退の対象が鉄道に移り、さらに車が交通の主役を担った姿。
では、鉄道は車にその役割を譲ってしまっても良いでしょうか。私はそう思いません。

鉄道は駅と駅を結ぶ線です。一方、車は鉄道より自由が利きます。線を自由に描くことができます。線から面へと。
てすが、その自由さが限度を超えると、無軌道になります。そこに集中が加わると渋滞が発生します。

鉄道の線と線の不自由さは、大量の、そして遠距離の運搬に向いています。例えば、長良川鉄道が実施しているヤマト運輸の貨客混載など。
そして、点と点から面を広げるためのサイクルトレインやレンタサイクルなどを組み合わせれば、より可能性も増えるはずです。

要は、鉄道が担うべき大量かつ遠距離の運搬までも車に担わせているから歪みが発生しているのです。
その歪みは交通渋滞となり、大気を汚染し、人々の時間を奪っています。そして鉄道は衰退し続けています。都会だけに過密ダイヤが組まれ、ギリギリの状態で運行されています。

今回の出張でも美濃太田の後、大阪に向かいました。そして、福知山線列車脱線事故の慰霊施設を訪れました。そこで感じたことは今の交通の歪みです。

日本全国で適正な人口の分布と交通の分散。私たちに課せられた数多い課題の一つです。

そのためには長良川鉄道が行っているようなサイクルトレイン、ヤマト運輸との貨客混載のような施策はもっとやるべきでしょう。ITの力を駆使して各無人駅にもレンタサイクルを置くべきでしょう。当然、各ステーションごとに乗り捨て可能なポートを設けて。
今回も北濃駅にレンタサイクルがあれば、と思いました。15、6キロも歩かずに時間をもっと有効に活用できたのに。

冒頭に書いたとおり、今、鉄道の維持が難しく、廃止を含めた論議が起こっています。
ですが、一度廃止されてしまった鉄道が復活することはあまり例がありません。難しいでしょう。
温暖化を含め、私たちに負わされた課題はとても多い。その課題がこうやれば解消できる、いや、すでに解消に向けて実現できていることを長良川鉄道の取り組みに感じました。再び駅が街の核となれば、地方創生にもつながるでしょう。東京への一極集中も是正されるはず。

安易に鉄道を廃止してはならない。
これは、各鉄道会社や自治体だけでなく、それぞれの住民が考えていく問題だと思いました。


私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)


令和三年、夏から秋にかけて、私の個人的な境遇に変化がありました。
自分の誕生した病院を訪れたことや、死の恐怖に怯えたこと。そしてその十日後にコロナに感染したこと。山で遭難して野宿したこと。
それらの経験は、私に人生の深さと自分の無知をあらためて教えてくれました。

遡ること8月の20-22日。私は妻と2人で福井、豊川稲荷、久能山東照宮を旅しました。この旅については別のエントリーで詳しく書く予定です。

2日目の朝、私は初めて自分の生まれた病院(福井愛育病院)を訪問できました。48年目で初めてです。
その後、福井市と越前市のあちこちを観光しました。そして夜は豊川稲荷まで移動し、駅のそばにあるホテルに投宿しました。
その夜、私はベッドで自分が死ぬ恐怖に襲われました。
なぜ急に恐怖を感じたのか、わかりません。体調の悪化でしょう。越前市の柳の滝を訪れた際、大きなアブに襲われました。足を三カ所、血が流れるほど噛まれたのですが、それが影響したのかもしれません。

自分の生が終わってしまう。その恐怖は本物でした。自分がいなくなった後、会社はどうなるのか。メンバーの人生は。お客様に依頼された案件は全うできるのか。今自分が死んでも情報共有に不備はないのか。
そして、家族は誰が養うのか。妻や娘に自分の考えや生き方は伝え切れたのか。
そして、自分の人生がこの瞬間に終わってしまうことによって、自分がやりたいことの100,000分の1もできずに死んでゆく未練と無念をどう扱えばいいのか。

かなり煩悶しました。そして、人に比べて人生を積極的に過ごしてきたつもりの自分が、実は全然そうじゃなかったことを痛切に感じました。
自分の人生、このままで終わってしまうのか。そんな諦めと、そうさせてはならじという反抗心。それが私の中でせめぎ合い、朝まで寝られずにベッドの上でのたうちまわっていました。

翌朝、豊川稲荷に妻と訪れました。本堂に参らせてもらった刹那、雨がザーッと降り、そしてすぐに止みました。まさに清めの雨のように。
夫婦で広大な境内を三周ほどしました。最後の一周は、妻が何か思うところがあったのか、私のためにもう一度奥の院などを巡ってくれました。

妻は、少しだけスピリチュアルな能力を持っています。参拝の最後の一周は、豊川稲荷の荼枳尼天が妻の口を通して私に伝えたいことがあると言うので、妻が連れて行ってくれました。荼枳尼天から私への啓示の内容は、その後のドライブの間に妻が教えてくれました。

そこで告げられたのは、私には中身がない。と言うことです。その中身とは、能力や意志や人格を示すのではありません。もっと奥底にある自我やエゴに相当する概念でしょうか。
中核にあるべき中身がない。中身がないため、私は新規なものや新しい概念に目移りし、本を読んで新しい知識を得たいと腐心するようです。

自分の欠落が何かについて、私は自分でもこの数年でうすうすと気づいていました。
一方で、今の私は、スキルや技術がある程度身に付いてきています。商談の場でも立て板に水を流すように言葉が出てきます。ご要望を伺ったその場でシステムの概要がほぼ見えてしまいます。
ですが、それを言わせているのは私自身の自我やエゴではなく、私の職業人のスキルです。ここ数年、商談の技術が上がるごとにその事実に気づき、それとともに新たな疑念が湧いてきました。スキルがアップしていても、魂がこもった商談ができているのだろうか。スキルに乗っかった惰性の商談をしていないか。
それまで仕事だけだった私が、40代になってから急に活発になった事情。そこには、今更ながら自分を探したいとの切実な理由がありました。

妻を通した荼枳尼天の言葉によると、沢庵和尚について調べると良いそうです。

この後、私たちは久能山東照宮に訪れ、1159段の階段を登ったのですが、それは本稿では割愛します。

東京に帰ってから数日後、四谷で商談の機会がありました。良い機会なので、その前の時間を利用して豊川稲荷東京別院に参拝しました。
参拝方法は事前に妻からアドバイスをもらいました。境内を巡る順番やお供え物の供え方など。
この時、私はより深く自我の底から願いを唱え、口にしました。普段から神社仏閣に詣でる時は、いつも自分なりに心で名乗り、感謝して願いを告げていたつもりです。が、より深くより心を込めて。
もし今までの私の祈り方が良くなかったのであれば正さないと。

それとともに、自分なりに励んできた自我の育て方が良くなかったとすれば、今後はそれも直さなければ。
果たして私は、残りの40-50年の余生が尽きる間に自分の中身を満たせるのでしょうか。分かりません。そもそも満たすべき中身が何かすら、今も分かっていませんし。

ただ一つだけ分かるのは、空虚な自分であり続けたくはないということ。
おそらく仕事上のスキルや能力をいくら高めても、それは私の中身の充実とは無関係のはず。
今の私は死ぬ直前にも未練はたらたらで煩悩まみれのままであることは明らかです。では、私が完全に満ち足りた悟りの境地で死ぬにはどうすれば良いのでしょうか。

四谷からの帰り、新宿の紀伊国屋書店により、水上勉さんの「沢庵」を購入しました。そしてその数日後に読破しました。
その本が教えてくれたこと。それは沢庵和尚の権力や名利を求めない生き方でした。清貧の生き方です。禅や武道、茶道といった文化を極めながら、徳川幕府や大寺院、朝廷に媚びへつらわない生き方。
それでいて世を捨てず、朝廷や幕府とは付かず離れずの距離感を保つ。そして、徳川幕府の寺院政策に異論があれば、敢然と意見を開陳する。それが元で流罪になっても。
私は山形の上山にある春雨庵を訪れたことがあります。そこは沢庵和尚が逼塞していた建物です。落ち着いた佇まいでした。その後、三年で流罪を許され、三代将軍家光の帰依と信任を得ても、その境遇に甘んじなかった沢庵和尚の矜持。

私が沢庵を読み終えた次の日、今度は新型コロナウィルスに感染してしまいました。
コロナにかかった経緯はコロナ感染記に書いたので、ここでは繰り返しません。
ですが一つだけ伝えておきたいことがあります。
それは、私の商談のスキルにコロナが悪影響を及ぼした衝撃です。話していてフリーズし、しどろもどろになり、支離滅裂になった自分。自分の空虚な中身を満たす前に、表層の仕事人としてのスキルすら崩れ去ろうとした衝撃がどれほど強かったか。

幸い、コロナはそれ以上重症にならずにすみました。今は若干の咳が残るだけで、商談のスキルにも深刻な後遺症は残りませんでした。
コロナ後、初めてのリアル商談は9/17にありました。
この機会を利用し、私は晩年の沢庵和尚が住職として勤めた東海寺をはじめて訪れました。

かつて東海寺が三代将軍家光から賜った寺領は幕末から明治維新にかけての混乱で大幅に削られてしまいました。今の東海寺の寺領は、かつての塔頭の一つが引き継いでいるだけです。他の寺領は全て運動公園、品川学園、タワーマンションなどに侵食されてしまいました。今の東海寺は表からは分かりにくい場所にあります。
沢庵和尚の没後から360年。年月とは残酷です。

私は東海寺の近くにある沢庵和尚の墓にも詣でました。この大山墓地は、かつては東海寺の境内の一部として隣接していたそうです。
ところが今や、この墓地は新幹線、横須賀線、湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線の線路に囲まれています。ひっきりなしに電車が行き来するこの墓地に静寂さを望むのは不可能です。
地元出身の島倉千代子さんや鉄道の父である井上勝氏は生前に望んで墓地を定めたそうですが、賀茂馬淵や渋川春海、沢庵和尚に至っては今の環境など想像の外だったことでしょう。春雨寺(ここも旧塔頭)と大山墓地の間にある土地では何か大規模な工事の最中でしたし。

そもそも沢庵和尚は、死を前にして墓は建てないことを言いのこしたそうです。それが、ないがしろにされただけでなく、今では騒々しい場所にあります。

ですがここで、「きっとあの世で沢庵和尚は嘆いている」などと思ってはいけません。
あくまでも私見ですが、そもそも沢庵和尚は騒々しい場所に墓を建てられたことを何とも思っていないはずです。なぜなら、死ねば無になるから。沢庵和尚の遺言を読んでみると、沢庵和尚は来世や輪廻など一切考えていなかったのではないかと思うのです。死ねば全ては無に帰す。そのことに大悟していたからこそ、沢庵和尚はあらゆる権力や名利に目もくれなかったのではないでしょうか。

死ねば無になる。かねて私が感じていたことです。いくら本を読んでも、旅をして見聞を深めても死ねば無。
そう分かっているのなら、私の中身が空虚であっても問題ないですよね。
死ねば無になるのなら、生きている間から無であっても何も問題ないわけです。

では、豊川稲荷の荼枳尼天は何を意図して私に沢庵和尚のことを調べるように伝えたのでしょうか。
私は荼枳尼天の真意を考えました。
そして、並行して自らの中身を求めるとしたらどこにあるのかを追い求めました。

まず一つは強烈な目的意識です。今までの私は状況に流されるままに対応し、その都度、好奇心を発揮してスキルを身に着けてきました。
ですが、その経緯に私自身の強い意志はあったのか。なかったはずです。
そもそも私は物事に対して強い意志を持っているのか。本を読みたい、旅がしたい、という欲求は、空虚な私の真空を埋めようとする衝動に過ぎないのでは。
私はその真実が知りたいと思いました。

私が先日、滝子山に登ろうとしたのは、まさに自分の衝動の源を確かめたかったからです。
そして、それが不首尾に終わったことで、私は自分のふがいなさに対して心の底から怒りました。
これは、私にとっては意外なことでした。今まで私が怒ることがあるとすれば、他人からの理不尽な攻撃に対してのみ。自分の不首尾については、あまり怒ることもなく生きてきたのですから。

この怒りはどこから湧いているのでしょう。ようやく空虚な中身を埋めようと私の自我またはエゴが動き始めているのか。
私が無理やりに山を登って達成感を得ようとしたのは、コロナ病原菌からの体力の回復を確かめたかったからではなく、空虚な自分が初めて意志を発揮した表れではないか。

私はその翌週、午後からの時間を利用し、再び山登りにチャレンジしました。ところが登山道が荒れていて、袖平山、鐘撞山、焼山を断念せざるを得ない状況でした。
私はまた自分の不首尾に怒るのか、と思った帰り、三角山を見つけました。標高525メートルと低山ですが、山を一つでも登って達成感を味わえば、何かが変わるのではないか。
その思いだけで199段の階段を登り、そこから藪を漕いで三角山の三角点に到達しました。私は自分に勝ちましたし、意志の力を発揮したのです。

ところが、三角山に登った時点で17時過ぎ。そこから同じ道を帰ったのですが、暗くなってきた道で迷ってしまいました。焦った私は尾根に沿って降りていたつもりでしたが、その時点ですでに誤った谷に迷い込んでいたようなのです。足元は刻一刻と暗くなっていきます。何回も足をとられ、場合によっては沢の水たまりをいとわずに飛び込んだものの、沢の岩が見えなくなりました。そうなると危険度は増します。
そのため、沢に沿った道に復帰しながら里への道を探しました。ところが足元の木や茂みが見えません。歩いているうちにまた滑べり落ち、メガネがどこかに吹っ飛びました。この時に至ってさすがにやばい、と思いました。メガネをなくしたら万事休す。必死になって手あたり次第にあたりを探したところ、奇跡的にメガネは見つかりました。でも、もうこれ以上、沢を下ることは危険だと判断しました。翌朝、確認してみると私が滑べり落ちたのは3メートルほど。一歩間違っていれば骨折やより悲惨な事故もありうる高さでした。

滑落した場所のそばに平地のようなものを見つけ、私はそこに屹立しているスギと思われる木の根元で横になりました。同時に家族にLineを打ちました。帰れない、野宿すると。
娘からは私の父にも連絡が行き、必ず警察や消防に連絡するように激怒の連絡が。妻がその時に一緒にいた友人のご主人も私の身を案じ、近くまで探しに来ようかとまでおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

私がこの時、申し出を断った理由を何個か挙げられます。
・着ていたポロシャツに加え、山登りモードでリュックを持ってきており、そこにラガーシャツとポンチョを入れていた。マスクも二つを持っていた。
・私の身体の状況を確認すると、どこにも捻挫や骨折はなさそうだった。
・遭難したのが人里からあまり離れておらず、朝になって道がはっきりすれば必ず人里に戻れる確信があった。また、獣に襲われるほど山奥でなかった。
・少し小雨が降っていたが、事前に記憶していた天気予報では大雨になる兆しはなかった。
・19時の時点でiPadの充電は70%以上あり、節約すれば朝になって連絡ができるはず。そもそも妻とはLine通話や連絡も可能だった。
・そもそも私がどこにいるのか分からず、助けに来てもらってもすぐには見つからず、皆さんに迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

そこで私は一晩ビバークを決断しました。
ビバークの間に考えたことは三つ。
一つは、kintone案件で迷っていた構成をまとめることでした。構成は熟知していたので、脳内だけで検証ができました。
一つは、28日に予定のkintone CaféのLTで話す内容。これも決めました。
残りの一つ。それこそ、本稿で書いてきた内容の結論です。空虚な自分を埋める方法。私と沢庵和尚の間にある違いとは何か。

せせらぎと雨音、虫の音がたまに聞こえるだけの世界。そこにいるのは自分だけ。頼れるのも自分だけ。考えるにはうってつけの機会です。むしろ私は、この問題をじっくり考えるためにビバークを選んだのかもしれません。安全が確保できているとはいえ、遭難は異常なこと。その状況で考えた時、結論はより自分の本能を反映するのではないだろうか。
生きたいのか、それとも人生を諦めようとしているのか。

その時に考えたのは、以下のようなことです。

沢庵和尚も自分が死ねば無になることを感じていた。つまり、生きている間も自分の中核にある空虚に気づいていたのではないか。
私も死ねば無になる。そして今の自分の中核は空虚。そう考えると、今の自分が中核の空虚を無理に埋める必要はないのでは。
では沢庵和尚と私の違いは何か。沢庵和尚は話を面白く伝える能力や、禅、武道、茶道などに対する知識を豊富に持っていた。豊かな知識があってこそ話に深みが出る。それが面白く伝える能力の源だった。沢庵和尚の内面の空虚さを補ってありあまるほどに。
私と沢庵和尚を隔てるものとは、この世間に分かりやすく伝えるスキルではないだろうか。
豊川稲荷の荼枳尼天は、そのことを私に伝えたかったのではないだろうか。

私は自分の中に何かをしたいという強い意志を発見しました。そして、その意志を押し通した結果、誰も助けのない世界に一人で横たわって夜を過ごす羽目に陥りました。
その意志の力をこれからも殺さずに生かしていこう。読書、旅、歴史、山、滝、鉄、神社仏閣。意志を強く持ち、自分の興味を満たしていこう。
その一方で当時の仏教界や徳川幕府が帰依した沢庵和尚の発信力を見習おう。それにはきちんとした学識と良識が必要。
今の私がシステム・エンジニアを生業にしているのなら、その方向で発信すればいい。ただし、内容を充実させなければ。発信の裏打ちとなる知識をより深く学び、当代でも指折りの人物にならなければ。
その努力が、きっと自分の空虚な中身を少しでも満たしてくれるはず。

私はそうしたことを朝まで考えました。何度も何度も。

目が覚める5時半。空は白んできました。その時、妻からも連絡が来ました。私は行動を起こし、そこから荒れに荒れた沢を落ちないように進みました。すると、道にたどり着きました。そこは私が駐車した側とは山の反対側でした。私は完全に逆側の沢に迷い込んでいたようです。あらためて夜の山の恐ろしさと、迷ったらみだりに動くなかれという教訓を肝に刻みました。

私の年齢から考えると、次に遭難すると命に係わるはずです。ですから、このようなことは二度とないように自分を律しなければ。
ですが、自分が危地にある状態で考えた思索は、私にとって宝物となりました。孤独と危機が両立した状況で自分だけの時間を持てる機会は二度とないでしょうから。

令和三年の夏から秋にかけてのさまざまな出来事。生まれた場所や死の恐怖やコロナ感染は、私にこれを伝えるためだったはず。
であれば、せっかくの機会は生かしつつこれからも生きていこうと思います。


コロナ感染記


9月1日(水曜)。
この日はサテライトオフィスで作業と三件の打ち合わせを予定していました。
いつもは家から最寄駅までバスで向かうのですが、この時なぜか車で向かったのは、何かの虫の知らせだったのでしょうか。3.11の時、常駐先に行かず家で仕事をしていたように。

虫の知らせがリイイインと告げたのは、電車に乗ってサテライトオフィスの最寄駅で下車し、サテライトオフィスに着く直前です。
妻からの連絡が全てを暗転させました。
妻によると、次女が体調の悪化で学校から早退したので迎えに行ってほしいとのこと。さらには大阪から新幹線で戻っている妻も体調が悪くなっているとのこと。それがコロナの第一報でした。

妻子の願いをむげにもできず、サテライトオフィスで二時間ほど慌ただしく打ち合わせなどをこなした後、逃げるようにそそくさと帰りました。そして、家の最寄駅まで電車で戻ったところ、次女と大阪から戻ってきた妻を拾うことができました。特に次女の体調が悪い様子。

私はその後、家で作業をこなしていました。

次女の体調は悪く、熱が出ている模様。妻もあまり体調が良くない模様。
すると、私の体調にも異変が。喉に違和感が生じたではありませんか。

その後、PCR検査薬を買いに妻と一緒に駅前まで一緒に向かいました。
戻ってから、翌日に打ち合わせを予定していたお客様のもとに、以下のようなメッセージを送りました。それが17時45分。

「一応、正直にお伝えしておくと、まだ定かではないのですが、
家族がコロナに感染した可能性があります。

PCR検査薬を購入したのですが、おそらくこの後発送しても結果が明日になってしまいます。

私は30日に一回目のワクチンを打ちましたが、今、少しだけ喉に違和感を感じています。○○の状況を見ると、オンラインで参加させていただいたほうが良いかもしれません。
それ以外は問題ないのですが、いかがいたしましょうか。」

すると、メッセージを送ってから少したって、急に倦怠感が私の身体全体を覆い始めました。いわゆるインフルエンザの症状のような。
あ、コロナになってもうた、とすぐに感じました。コロナの暗黒面が口を開けて私を飲み込んでいきます。

9月2日(木曜)。
この日はもともと、朝から四件の打ち合わせが予定されていました。

昨日のメッセージにも書いていた通り、都心の客先に行く予定も絡めていましたが、昨日のメッセージの後、オフラインの打ち合わせは延期にしていただきました。
私は自分が確実にコロナ患者であることを自覚しながら、完全に仕事モードで一日を送っていました。三件の打ち合わせはリモートで対応。

11時から12時に新規打ち合わせ一件。14時から15時に新規打ち合わせ一件。16時から17時まで新規打ち合わせ。
この時点では、まだ私の頭は明晰で、やり取りもきちんと普段通りにできていました。
コロナ何するものぞ。負けへんで~。

妻と次女は、15時に病院に行きその場で抗体検査をしてもらい、陽性反応をいただいてきました。私は打ち合わせがあったので病院には行けず。

9月3日(金曜)。
この日は2件の打ち合わせが予定されていました。10時半から11時と、15時から16時。
あと内部の打ち合わせを2件。
発症後、二日間はそこまで熱がなかったのですが、少しずつ疲労と熱が私の身体をむしばんでいるのがわかります。打ち合わせをしていてもしんどくなってきました。
そんな中、昨日今日と新たな案件の引き合いもいただいています。休んでいる場合ではないのです。

そんな中、念のため8月の26、27日に訪問したお客様にもコロナ感染の報告を。
さらに、妻にも許可を取って、家族のうち三人がコロナ陽性になった旨をSNSで書き込みました。

コロナであることを公表したとは言え、この日は週末には終えておかねばならない作業があり、私が寝たのは夜中の二時半過ぎ。

なお、妻と長女はPCR検査でも陽性が確定したらしく、保健所から自宅療養の指示を受けました。
この時、わが家で無事なのは長女一人のみ。買い物やその他の家事は彼女にお任せの状態。感謝感謝です。
頼もしい長女は、自分以外全員が陽性にもかかわらず、ワクチンを打たずに陰性のまま、乗り切ってくれました。

9月4日(土曜)。
この日は土曜日。お客様から連絡がない一日。ですが、私にはやるべき作業があったので作業していました。
この日、私も病院で抗体検査とPCR検査をしに行くつもりでしたが、いざ出かけようとした時、既に午前の診療受付の時間は過ぎていました。

なお、私の味覚・嗅覚障害が始まったのはこの日からだったように記憶しています。
娘が買ってきてくれたBaskin Robbinsのアイスクリームは甘いだけの塊に。味噌汁は塩辛く生暖かい未知の汁へ。

9月5日(日曜)。
この日の私は、完全に仕事をする気力と体力を失い、終日ベッドに寝て読書に勤しんでいました。
この日から発熱が37℃を超えたように記憶しています。

9月6日(月曜)。
午前。一人で車を運転して抗体検査とPCR検査を受けに行きました。確か朝の時点で私の体温は37.7℃。
病院に着きましたが、病院の中には入りません。外の駐車場で検査が完結します。他の患者さんに移すとまずいので。
そのため、先生と二人の看護師さんが完全防備で駐車場に現れ、その場で抗体検査のセッティングを。細く禍々しいほど長い綿棒が左の鼻の穴から喉の奥へと侵入し、コロナはいねえが~と巣を漁ります。この異物混入感はヤバい。
苦痛に満ちた時間の後、私は唾を容器になみなみと満たす作業に没頭しました。

私の凌辱され放題の喉の奥からはその場で陽性反応が出ました。これで私も名実ともに陽性者です。
唾からのPCR検査の結果は翌日。
なお、この時に酸素飽和度を測ってもらったのですが96%でした。8/30に一回目のワクチンを受ける直前は98%だったので、肺に違和感はないけれど2%も下がっていたのですね。

なお、お医者さんに払う料金の1700円を持っておらず、慌てて近くの郵便局で出金してきました。何も手が触れぬようにして。私は今や世に隠すもののない陽性保菌者。一切のおさわりは厳禁!
病院に行く前は、せっかくなので近くの城跡や牧場に行こう、などとのんきなことを考えていた私。病院を後にする時、そんな気力は雲散霧消していました。一刻も早く帰って休みたい。

身体がしんどく、作業をするのも一休みずつ。ですが、メールやチャットの連絡は多く届きます。その度に一つ一つ対応します。

9月7日(火曜)。
この日、妻と次女を対象に町田市保健所より自宅療養のためのサバイバル物資を送ってもらいました。飲料や食料の数々。ありがたい。
前日に受けたPCR検査の結果も陽性判定となり、私も保健所による自宅療養者の一員に仲間入り。これから毎日、指示を待つ身です。
この日から発熱が38℃台を超えることが当たり前になりました。

熱がある中、お客様とのやり取りはいく度も発生しました。そして、私の正気もだんだんと怪しくなっていきます。メールやチャットの内容を後で読み返した時の誤字脱字の多さ。仕事のクオリティが保てない自分に怒る気力すら湧きません。後から考えるとこれだけの誤字脱字をよくも送っていたと思います。平常時にはありえない状態です。

夜、あまりにもしんどいので保冷剤を枕に寝ました。

9月8日(水曜)。
この日の翌朝にとあるお客様との打ち合わせが予定されていました。その打ち合わせまでに53件のkintoneのデータを正しいデータに修正する必要に迫られていました。ところが、53件のデータを開き、そのレコードの三項目を修正して保存するだけの作業がなかなか進みません。
休んでは気力を振り絞って作業に戻る。その繰り返しで、ようやく作業を終えられました。
平常では10分も掛からないはずの作業に、3時間近くかけた気がします。これでは、とても仕事になりません。朦朧とした脳裏に、さすがに仕事人として絶体絶命ではないかという思いがよぎります。

9月9日(木曜)。
早朝、大量の発汗で起きました。すると、熱も下がっていました。

ところが午前に久しぶりにオンライン・ミーティングを行ったところ、受け答えすらままならない自分に気づきました。次に話そうとしたことが脳内で像を結ばず、フリーズしてしまいます。話している最中に咳が出てしまい、途中で失礼することもしばしば。およそ商談を行うには不適切な状態。あまりのことに焦りよりも前に呆ける自分。

午後には、弊社内部での打ち合わせも行いました。ところが、私の状況は午前と同じです。話すべきことがまとまらず、論旨が一貫しない。直前に話した内容を忘れ、自分の中で支離滅裂になってしまう。
仕事人として相当ヤバい状況です。私はそのことに絶望しました。このままだと廃業もやむをえないかも。弊社の社員に申し訳ない、これから家族をどう養っていこうか。そんな思いが頭の中で生まれては消えていきます。
これがコロナの恐るべき後遺症かと戦々恐々とし、落ち込みました。

一方で、この日の夜に9/3にいただいた新規案件の納品報告を行いました。翌日には先方より状況が良好であるとのご連絡もいただけました。その後、9/14にお客様環境へのインストールも終わり、無事に納品・検収となりました。
コロナの症状がピークに達している間にどうやって納品した?と、自分でも信じられない思いでした。私の中のコビトさんに感謝ですね。

9月10日(金曜)。
熱は下がったのですが、私の咳が治まりません。
次女は9/7には熱が下がり、平常の暮らしに戻りつつありました。妻も9月8日には熱は下がった模様。ところが、妻の咳が一向に治まらないのです。ひょっとすると私から再び妻にコロナウィルスを送り返している可能性が。夫婦でコロナをパスし合っているほど暇じゃないので、妻は夜、別の部屋で寝ました。

私一人で寝室を占拠したのですが、この日の夜、病状が次の段階に進んでいることに気づきました。
肺の違和感です。いわゆる肺炎の症状と思われます。息苦しく、きちんと息が肺に行き渡っていない状態。気づかぬうちに肺にウィルスが忍び込んでいたのです。
無理やり深呼吸を繰り返し、肺が死滅しないように努力しました。ここで眠ったが最後、二度と目を覚めない恐怖。コロナの軽症患者が突然死亡したとの報道が眼前にちらつきます。
自分のし残したことの多さに絶望する暇すら与えられず、命と意識がフッと虚無の中に消える。そんな恐怖が私を脅かします。
この時の私の酸素飽和度は何パーセントだったのでしょうか。測っていないので何とも言えないのですが、あるいは80%台にまで落ち込んでいたのかもしれません。

9月11日(土曜)。
保健所からの定期電話で、咳と肺の違和感のことを話しました。
ところが、私の症状はまだ軽症に属する様子。酸素飽和度すら測られずに、私の自宅療養期間は12日で終了とのご指示をいただきました。

この日、気力を奮って読読ブログを一本書き上げました。「アンジェラの灰」。ブログを書くにもエネルギーが必要です。何よりも論旨を整合させる知力が求められます。内容の良しあしはともかく、自分がまたブログを書き上げられたことに満足しました。

9月12日(日曜)。
先に自宅療養期間を終えた妻と次女が、新大久保に買い出しに行きたいと願っています。私もいい加減、外に出たい。そのため、新大久保まで運転しました。
妻子を新大久保で降ろした後、私は一人で中野の哲学堂公園へと向かいました。
初めて訪れた哲学堂公園の園内は、上り下りの勾配があります。園内を歩きながら上り下りを繰り返しましたが、体力の衰えは顕著です。咳もときおり飛び出してきます。
園内には数多くの哲学の概念が設けられています。そうした場所で向かい合い、哲学に頭を働かせられません。哲学とは無縁の知力。とはいえ、異変に襲われず、園内を歩けたのは吉兆です。

この日、携帯電話を家に忘れてしまいました。その間、保健所から日曜日にもかかわらず何度かご連絡をいただいていました。申し訳ないです。
保健所のご担当者は毎日連絡を絶やさずにくださいました。ありがたいことです。感謝です。

私の発熱は治まり、残る症状は咳だけ。後は私の仕事人としての能力が元に戻っているのか。後遺症は残るのか。それらを見極めないことには、私の将来が不透明です。

味覚・嗅覚障害ですが、この日の前日ぐらいに戻った気がします。この日、新大久保で買ってきた食材を家族で久々に食卓を囲んで食べたのですが、その美味しかったこと!

9月13日(月曜)-14日(火曜)。
まだ本調子ではないのですが、作業を行い、指示を出して過ごした両日でした。
合間には、近所を散歩しました。自らの体力の回復具合を見定めるためです。というのも、10日近くも外に全く出ずに過ごす経験はこれまでの私の人生でもめったにありません。予想通り、私の足腰はめっきり弱っていました。

自分の気力・知力・行動力・判断力がどの程度まで衰えたのか。
私の仕事人としての能力はコロナ前のレベルから比較してどれほど低下したのか。それが知りたいという切実な思い。

13日と14日にも読読ブログをそれぞれ一本アップしました。「殺人鬼フジコの衝動」「日本昔話百選」。自分にとってこの二つの記事は、分析や論旨など満足していません。ただ、記事をアップするごとに、自分のロジカルな力の回復を信じることができました。

9月15日(水曜)-16日(木曜)。
咳が一向に治りません。ですが、それぞれ両日にオンライン会議を一件ずつこなしました。
しゃべると咳が口を飛び出してきます。ですが、少しずつ商談をこなしていくにつれ、自分の口に滑らかさや判断力が戻ってきているのが感じられます。
これは自分の救いとなりました。
15日にも読読ブログを一本アップできました。「その後の鎌倉 抗心の記憶」。書いていて、少しずつ自分の文章に論旨が備わってきていることを感じました。

9月17日(金曜)。
この日は、もともと9/10にリアルで渋谷で打ち合わせの予定がありました。ところが私がコロナに罹患したため、延期をお願いしました。延期をご快諾いただいた後も、私は自分の体力や商談に臨む能力に自信を失っていました。そのため商談のタイミングを遅らせてもらっていました。
でも、大きな案件。私も腹をくくらねばなりません。
この日の朝、渋谷にお伺いしました。二件のリアル商談を合わせて二時間。商談の間、私はフリーズもせず、自分で話していることの脈絡も失わずに過ごせました。ホッとしました。
私と同行してくれたのは、この案件で一緒に組む技術者さん。彼にカニ味噌ラーメンをごちそうしました。

私は商談の後、行きたい場所がありました。新馬場です。沢庵和尚が徳川家光より賜った東海寺と、東海寺から離れた場所にある大山墓地の中にある沢庵和尚のお墓が目当てでした。
渋谷から大崎まで電車で移動し、大崎から東海寺と墓地までを歩く。さらに墓参りの後は、大井町まで歩きました。
沢庵和尚については、この後のブログに書くつもりです。
私の体力の衰えは顕著です。ただ、自分の知的好奇心が衰えていないことと、何かを知ることについての自分の思いが失われていないことが確認できました。限りのある人生の尊さに思いをはせたことも。

この日は夕方から二件の打ち合わせがあり、サテライトオフィスから対応する予定でした。ですが、疲れたので自宅まで戻ってから打ち合わせに参加。
商談をこなすごとに口が滑らかになってきているのがわかります。ときおり咳き込む以外は。

夜は、新たな案件で、複数のPaaS/SaaSの連携フロー図の作成を一気に行いました。
そうした作業を通じて、コロナ前の自分に戻りつつあることが実感できました。自分はまだ仕事がこなせる。そんな状況に感謝しつつ。

9月18日(土曜)。
雨だったので、家の中で作業を行っていました。作業を行うための知力や集中力はだいぶ元の水準に戻りつつあることが感じられました。
この日も読読ブログを一本アップしました。「日本書記の世界」。こうやって文章を書くことが、仕事の上でも有効なリハビリテーションになっています。

9月19日(日曜)。
せっかくの休みで、快晴なので妻と二人で房総半島をドライブしてきました。海岸で波と戯れつつ、美味しいものを食べる。コロナから生還した夫婦にまばゆく映る人生。
この時の往復の道中、妻とたくさんのことを話せたのは旅ならでは。人生とは何か。何のために生きるのか。夫婦にとって今の人生の中で何が障害だったのか。多くのことを話し合いました。

夫婦ともにコロナを経験した今、残り余生が急に現実感を伴って迫ってきました。
コロナ前から常に考え続けてきたこと。それは仕事だけで終わるにはもったいない人生の豊かさです。豊かな人生を全うするにはどうすればよいか。そして、何をしなければならないのか。
そうした私の考えについて、腹を割って話し合いました。ドライブは話し合いにはうってつけです。

9月20日(月曜)。
三連休の最終日。まだ咳き込む自分が残っています。
知力・気力はだいぶ戻ってきた感触があります。
ですが、体力はどうか。本当にこれからの人生を生き抜ける体力は戻ってきたのか。

それを試すため、一人で山登りへ。電車を乗り継ぎ、笹子駅まで。そこから滝子山へアタックしました。
ところが、高尾駅で30分乗り継ぎに待たされたこともあり、滝子山の登山道に着いたのは14時過ぎ。そこから登れるところまで登ったのですが、日が暮れた後の自分の体力に全く自信がなく、16時前に三丈の滝で越前撤退を決断しました。
帰路、私は自分の体力のなさや準備不足の失敗に心の底から憤っていました。
立ち寄った笹一酒造の酒遊館で購入した日本酒を一合、帰りの電車で飲み干しました。そして見事に酔っぱらってしまいました。目がちかちかし、目の前の明かりが異様にまぶしい。
八王子の駅前広場をさまよい、ベンチで横になる私。横になっている私の横では若者がスケボーを持ちながらしゃべっています。この時、狩られていたら、おじさんは瞬殺されたはずです。

横たわりながら、酔っぱらいながら、私は自分の情けなさに心の底から失望し、コロナごときで体力を落とした自分の体たらくに強烈な反発を感じていました。
今後の自分に課す目標は、山梨百名山制覇。それぐらいやってやる、という決意とともに。

ですが、そうした自らの怒りの底に、自分の可能性もかすかに感じていました。
それは、自分の中に相変わらず強烈な現状維持への拒否感があること、人生に変化をつけたいと言う意思の強さが再確認できたことです。
コロナに負けてたまるかという意思が残っているのなら、自分はコロナに打ち負かされることはない。
強烈な怒りの奥底に、自分の芯の手ごたえを確かめられた一日でした。

9月21日(火曜)。
この日も多数、打ち合わせをしました。
打ち合わせしていて、頭の中が真っ白になったり、自分の脳の動きが制御不能になったりの恐怖に襲われることはなかったです。仕事人として役に立てないという絶望感に覆われることも。
さまざまなプログラミング作業にも手を染めましたが、ロジックを構築する能力に支障はなさそうです。
後は、いつになれば私から咳が去るのか。

9月22日(水曜)。
この日は、サテライトオフィスに赴いて作業していました。
サテライトオフィスを訪問するのはコロナ発症の日以来です。この時、サテライトオフィスに訪れてすぐ、妻子を迎えるために急遽帰宅したのでした。

朝一にも家で打ち合わせをこなし、サテライトオフィスでもオンライン・オフラインを含め、複数の打ち合わせをこなした一日でした。
サテライトオフィスに始まり、コロナからの回復に向けたサテライトオフィスにいる今。そろそろ自分のコロナについて著す時期だろうと思いました。
ただし、咳はまだ残っており、決して完治ではありません。私に可能なのは、いずれ完治すると信じることのみ。
くしくもこの日は、とうとうコロナから逃げ延びた長女が一回目のワクチンを打った日。

私もコロナ患者として、その痛みを多少なりとも知ることができました。
今後、コロナが世界中から根絶されることはないでしょう。だからこそ、少しでも多くの人がコロナに罹患せず、そして家にこもらずにそれぞれの人生を全うしてほしい。そう願います。
まずは皆さんがワクチンを可能な限り打ってくださることを。私も二回目のワクチンを九月末には打ちたいと考えています。

コロナのわが家にかかわってくださった皆さま、本当にありがとうございました。


76回目の終戦記念日にあたって


今日は76回目の終戦記念日です。

おととしにこのような記事をアップしました。今年も思うところがあり、振り返ってみようと思います。
なぜそう思ったか。それは今日、昭和館を訪れ、靖国神社に参拝したからです。

今年は初めて終戦記念日に靖国神社に参拝しました。その前には近くにある昭和館を訪れました。こちらも初訪問です。
さらにここ最近に読んでいる本や、レビューに取り上げた書物から受けた感化もありました。そうした出来事が私を投稿へと駆り立てました。

つい先日、東京オリンピックが行われました。ですが、昨今の世相は新型コロナウィルスの地球規模の蔓延や地球温暖化がもたらした天災の頻発、さらなる天災の予感などではなはだ不透明になっています。本来、オリンピックは世界を一つにするはず。ですが排外主義の台頭なども含め、再び世界が分裂する兆しすら見えています。

なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか。私たちはその反省をどう生かしていけばいいのか。
戦争を再び繰り返してはならないのは当たり前。それを前提として、自分なりに考えてみました。

太平洋戦争を語る際に必ずついて回るのは、1929年のウォール街の株価大暴落に端を発する昭和恐慌であり、第一次世界大戦の戦後処理の失敗から生まれたナチスの台頭です。

当時のわが国は恐慌からの打開を中国大陸に求めました。それが中国からの視点では、満州事変から始まる一連の侵略の始まりだったことは言うまでもありません。
しかも中国への侵略がアメリカの国益を損なうと判断され、ABCD包囲網からハル・ノートの内容へと追い込まれたことも。ハル・ノートが勧告した内容が満州事変の前に状況を戻すことであり、それを受け入れられなかった指導層が戦争を決断したことも知られたことです。
結局、どちらが悪いと言うよりも、恐慌に端を発した資源獲得競争の中で生じた国際関係の矛盾が、戦争につながった。それは確かです。真珠湾攻撃を事前にアメリカ側が知っていたことは確かでしょうし、在米領事館の失態で宣戦布告交付が遅れたとしても。
一年くらいなら暴れてみせると言った山本五十六司令長官の半ばバクチのような策が当たり、太平洋戦争の序盤の大戦果につながったことも周知の通りです。

私は、そこまでのいきさつは、仕方がないと思っています。では、これからの私たちは敗戦の何を教訓にすれば良いのでしょうか。

私は三つを挙げられると思っています。
まず、一つ目は戦を始める前に、やめ時をきちんと決めておかなかったこと。
二つ目はトップがそれまでの出来事を覆す決断力を欠いていたこと。
さらに三つ目として、兵隊の統率の問題もあると考えています。

山本司令長官が、開戦前に一年と決めていたのなら何があろうと一年でやめるべきだったはずです。それをミッドウェイ海戦で敗戦した後もずるずると続けてしまったのが失敗でした。この時に軍部や新聞社の作る世論に惑わされず終戦の決断を速やかにしておけば。悔いが残ります。
また、日露戦争の際には国際法を遵守し、捕虜の扱いについても板東収容所のように模範となる姿勢をとれた日本軍が、日中戦争にあたっては軍紀が大きく崩れたことも悔やまれます。
経済の打開を求めて中国に進軍したのであれば、絶対に略奪行為に走ってはならばかったはず。侵略された側から三光作戦と呼ばれるきっかけを与えたら大義が崩れてしまいます。それも悔やんでも悔やみきれない失敗です。

そうした教訓をどう生かすか。
実は考えてみると、これらは今の私に完全に当てはまる教訓なのです。
経営者として広げた業務の撤退は考えているか。失敗が見えた時に色気を出さず決断ができるか。また、従業員に対してきちんと統制がとれているか。教育をきちんと行えているか。
私が仮に当時の指導者だったとして考えても同じです。戦の終わりを考えて始められただろうか。軍の圧力を押しのけて終わらせる決断ができただろうか。何百万にも上る軍の統率ができただろうか。私には全く自信がありません。
ただ、自分で作った会社は別です。自分で作って会社である以上、自らの目の届く範囲である今のうちにそれらができるように励まなければと思うのです。

ただ、その思索の過程で、わが国の未来をどうすべきかも少しだけ見えた気がしました。

まず前提として、わが国の地理の条件から考えても武力で大陸に攻め込んでも絶対に負けます。これは白村江の戦いや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役や、今回の太平洋戦争の敗戦を見ても明らかです。

であれば、ウチに篭るか、ソトに武力以外の手段で打って出るかのどちらかです。
前者の場合、江戸時代のように自給自足の社会を築けば何とかなるのかもしれません。適正な人口を、しかもピラミッド形を保ったままであれば。多分、日本人が得意な組織の力も生かせます。
ただし、よほど頭脳を使わないと資源に乏しいわが国では頭打ちが予想されます。おそらく、群れ社会になってしまうことで、内向きの論理に支配され、イノベーションは起こせないでしょうね。世界に対して存在感を示せないでしょうし。

ソトに出る場合、日本人らしい勤勉さや頭脳を駆使して海外にノウハウを輸出できると思います。
日本語しか使えない私が言うのはふさわしくないでしょうけど、私はこちらが今後の進む道だと思っています。今までに日本人が培われてきた適応力はダテではないからです。あらゆる文明を受け入れ、それを自分のものにしてきたわが国。実はそれってすごいことだと思うのです。
日本人は、組織の軛を外れて個人で戦った時、実は能力を発揮できる。そう思いませんか。今回のオリンピックでも見られたように、スポーツ選手に現れています。
ただ、そのためには起業家マインドが必要になるでしょう。組織への忠誠を養うのではなく、自立心や自発の心を養いたいものです。ただし、日本人の今までの良さを保った上で。
固定観念に縛られるのは本来のわが国にとって得意なやり方でないとすら思えます。

私は、今後の日本の進む道は、武力や組織に頼らず個人の力で世に出るしかないと思います。言語の壁などITツールが補ってくれます。

昭和館で日本の復興の軌跡を見るにつけ、もう、この先に人口増と技術発展が重なるタイミングに恵まれることはないと思いました。
そのかわり、復興を成し遂げたことに日本人の個人の可能性を感じました。
それに向けて微力ながらできることがないかを試したい。そう思いました。

任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け
道義を篤くし 志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし


スポーツの感動は人類に必要


東京オリンピックが閉幕式を迎えようとしています。
よくぞ終わったといえるほど、波乱の大会でしたね。
開会式の前日まで、各地で行われていた開催を反対する訴え。開会式の演出をめぐる人々の相次ぐ辞任や更迭。その結果を受けた開会式の酷評。
開催中には新型コロナ患者数が連日過去の数字を更新し、医療崩壊が叫ばれていました。

そんな中で行われたオリンピックの各競技は、さまざまな感動を私たちに与えてくれました。
私もロードレースのルートが家のすぐ近くだったので、女子決勝を沿道から応援してきました。それ以外の競技も仕事の合間を縫ってテレビで何時間も観戦しました。

開会式の前日にアップしたブログにも書いたとおり、私はオリンピックの開催に賛成の立場でした。
今もその考えに変わりはありません。むしろ、期待以上にスポーツ選手から多くの感動を分けてもらった今、その考えはより強固になっています。
勝者も敗者も含め、日頃の努力を披露する場が選手に与えられたことを祝福したいと思います。

その一方で、ある論者はスポーツが始まった途端、にわか愛国心を刺激されて熱狂する日本人の姿に太平洋戦争の過ちを結びつけていました。
医療が現実に崩壊しつつある中、スポーツにうつつを抜かすなんてけしからんと。
そもそも、国民からさまざまなイベントを取り上げておいて、なぜオリンピックだけが優遇されるのか。
もっともな意見だと思います。

前のブログで書いたとおり、私は無条件に開催を喜ぶつもりはありません。東京に経済や文化や人口が集中するリスクが全く改善されなかったことや、日本の前例主義の限界が露呈したこと。官僚や政治家の実務能力にも限界が表れました。
今回のオリンピックはさまざまな課題を突き付けたのではないかと思います。
先のブログに書いたとおり、商業主義はもうやめて、開会式や閉会式もシンプルで良いのではないかと思います。オリンピックとは選手の頑張りに感動するだけで十分。

ただ、オリンピックはこれからも行われるべきです。スポーツから受ける感動は、これからも私たちの生きる活力になるはずだからです。組織の失敗や商業主義に対する非難とスポーツのあり方は別に考えるべきではないでしょうか。

オリンピックとはスポーツの優劣を決める最高峰のレベルであるべきです。そこで勝ったメダリストには最大級の栄誉が与えられて良いと思います。プロアマを問わず金銭上の利益も含めて。

ただし、オリンピックの期間中は、スポンサーも含めて一切の商業主義の匂いを排除する。放映権すら、民間ではなく国が掌握して良いとすら思います。

そのかわり、オリンピックではドーピングも含めた不正には厳重に対処していただきたい。
公正な最高峰の舞台をみせてくれるのなら、これからのオリンピックも無観客でもいいくらい。国際交流すら断念して。
そのくらいの覚悟でやるのなら、国民のイベントを中止してまでオリンピックを行っても、国民に理解されるのではないでしょうか。

今回のオリンピックで出た課題を今後に活かさなければ、何のためにコロナ下でオリンピックを敢行したのかわかりません。

スポーツに打ち込む姿は美しい。だからこそ、今後のオリンピックは原点に立ち戻って純粋なスポーツだけが見たいと思います。

その意味でも、商業主義の香りが薄いパラリンピックも引き続き見ようと思います。


東京オリンピックが開幕しますが


すでに一部の競技では予選が始まっていますが、明日はいよいよ東京オリンピックの開幕式ですね。
言うまでもなく、開幕前からケチが付きまくってるのですが。
もう、取り返しは付かないでしょう。

ですが、私はスポーツ観戦が好きです。だから、いまさら中止を訴えようとは毛頭思いません。
それよりも競技の中身に期待したいと思っています。
バルセロナで古賀選手が、北京でソフトボールチームが感動を与えてくれたように、選手たちの競技から感動を受け取れると信じて。
今回は白血病からの復活を遂げた池江選手もいます。
無観客のテレビ越しだっていいじゃないですか。今までのオリンピックだってテレビ越しの競技を見ているだけで感動できたのですから。

むしろ、これほどまでにオリンピックとそれにまつわる商業主義や国家の威信が傷ついた後だからこそ、純粋な競技そのものに集中したいと思うのです。
誰もが忘れ去っていますが、クーベルタン男爵が理想とした古代ギリシアのオリンピックとは、純粋に競技だけに熱狂するものだったはず。

もちろん、私も経営者の端くれです。商機がある時に稼いでしまいたくなる気持ちはわかります。
ですが、今回のオリンピックはその路線に限界が生じたことを如実にしめしてくれました。

1976年のモントリオールオリンピックで出た莫大な赤字への反省から、オリンピックは商業主義に舵を切ったことはよく知られています。
その前にもナチス・ドイツによって国威発揚に利用され、ミュンヘンオリンピックではテロリストによって蹂躙され、東西のイデオロギーの争いによってボイコットもされました。
そこに今度のコロナによる延期と、運営の不手際による問題です。
もう、オリンピックの拡大主義と商業主義には無理が生じているのです。

ですが、いまさらJOCの責任を言い募っても仕方がありません。
段取りと前例踏襲を擁したわが国の得意技がコロナによって封じられた以上、こうなっても当然だと思うのです。今さら誰を非難してもオリンピックは始まるし、傷ついた威信は改善されません。

そもそも、復興をうたっていながら東京で行う前提からして間違っていたのですから。
これ以上東京に富と人口を集中させても仕方がないのに、東京に招致してしまったこと。

私は以前からこのことをあちこちで書いてきました。

東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典

東京から地方へ・・・・

むしろ、地震や富士山噴火でダメにならず、無観客とはいえ開幕できたことだけでもよしとしなければ。

開幕式を演出する方も二転三転としていますが、それもシンプルな開幕式でよいではありませんか。
商業主義から脱却する記念の大会としてはふさわしいと思います。
その代わりに競技から感動を受け取ろうではありませんか。


人の身に起こる死について


先日の大雨による熱海の土石流による被害によって亡くなられた方々。
そして、元プロ野球選手の大島選手が大腸がんでお亡くなりになったこと。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

私自身の行動にリンクするところがあったので、一文をしたためてみました。

土石流が起こった7/3の3週間前、私は熱海駅の三つ隣の根府川駅を訪れていました。
関東大震災で駅舎や列車が海に流され、多数の死者を出した災害。私はこの災害のことを書籍などで知っていましたが、駅をきちんと訪れたことがありませんでした。どのような地形でどのような土石流が流れたのか、一生懸命イメージを膨らませてきました。
その後、駅舎のすぐ脇に建てられた慰霊碑、近くの道に沿って立っていた慰霊碑、白糸川鉄橋の下にある慰霊碑などを訪れ、手を合わせてきました。
いつ、同様の事故が起こっても備えられるように。

その日から3週間後、土石流による災害が起こってしまいました。動画で見た土石流の威力の前には、人の備えなど無力です。
災害は決してひと事ではありません。私はそのことを心に刻むとともに、亡くなられた方の身になって心を痛めました。
私もいつ、同じような被害にあってもおかしくないのです。

そして、大島選手の死去です。昭和のプロ野球に親しんだ私には、大島選手の姿はおなじみでした。
70歳は早すぎますね。

大島選手の命を奪ったのが大腸がんだったとのことですが、ちょうどその日、私は市から案内された大腸がん検診の申し込みをしたところでした。
その後に大島選手の逝去のニュースを聞いたので、何かの暗合のように思いました。私も健康ケアに心を配らないと、という思いを新たにしたのが大島選手の死でした。

大島選手のブログ https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/ はこのような言葉で締めくくられていました。

命には
必ず終わりがある

自分にもいつか
その時は訪れる

その時が
俺の寿命

それが
俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない

俺の寿命を
生ききったということだ

その時が来るまで

俺はいつも通りに
普通に生きて

自分の人生を、命を
しっかり生ききるよ

全くその通りですね。とても心にしみます。

私も必ず死にます。自らの残りの余命を常に感じながら生きています。
その一方で、自分の命を生ききれているか、日々の生活が惰性に落ちていないか、を常に感じています。

今の私は大島選手のように生ききれているとは、思っていません。やりたいことが多すぎるのに、時間は足りない。
寿命は甘んじて受け入れるとしても、絶対に死ぬ前に後悔はするまい、と思います。
70歳といえば、定年が65歳だとして、5年間。65歳で引退できたとして、5年で自分のしたいことが本当にできるのでしょうか。
それを考えると、今のうちから一瞬も無駄にしてはならないと思うのです。

土石流によって亡くなられた方も、ある日突然このような形で命を奪われるとは思っていなかったことでしょう。

大島選手のように、自らの死に対して気持ちを整える時間があればまだ救いがあるのかもしれません。

私もやり残したことがないようにしなければ。

弊社のメンバーにも私の技術などを伝えていきたいと思います。
うちの娘たちにも、私の少々枠をはみ出した生き方などを伝えていければ。


3度目の緊急事態宣言に際し


3度目の緊急事態宣言が出されました。
「またか!」と言う悲鳴や政府の対応を批判する声など、世間の反応はさまざまです。

この機会に改めて私の考えを述べてみたいと思います。

そもそも、わが国の状況が欧米に比べて深刻ではない状態で、どういう状態を目指せばよいのでしょう。
さらに、前提として考えておきたい問いがあります。それは、今の複雑な社会において、特定の誰かに責任を被せられるのか、という疑問です。

政治家や官僚。医師や医師会をはじめとした医療関係者。そもそもの拡散地とされる中国。営業自粛に応じないお店。家にこもらずに外出する人々。
今回のコロナ禍において槍玉に挙げられるのはこのような方々でしょうか。

まず、政治家や官僚。
たしかに、個々の事例では非難されるべき不祥事もあります。ですが、全体としては今以上の成果を求めるのは難しいのではないでしょうか。
あらゆる利害関係者や諸外国との関係を調整し、国民の声も考慮しながら国としての全体最適を追求する。
私が同じ立場になったとしても、今以上の成果を出す自信はありません。

続いて医療関係者。
医師の立場として人命救助は最も優先すべきです。コロナの感染経路の最も濃厚な場所が飲食店である以上、飲食店の営業の自粛を国に進言するのは当然でしょう。
その決定的なエビデンスがいまだにないとしても、医療に携わる以上、言いにくくても言わざるを得ません。人は酒が入ると身構えを解き、たやすく感染源になってしまう生き物です。医療関係者はむしろよくやっていると思います。
また、ワクチンの製造競争で欧米におくれをとっていることや、感染のメカニズム解析のおくれも非難のタネになりえます。
ですが、それを責めるべきではありません。努力はなされているはず。であれば、素人が後講釈で非難すべきではありません。

営業自粛に応じないお店。
お店を開けなければ経営が立ち行きません。当たり前のことです。
支給される補助金で何とかして、というのは酷な話です。一人でやりくりしているようなお店ならまだしも、従業員を抱えるようなお店にとって、今の支給額は雀の涙。足りないのです。
経営者の立場では休業に応じず営業するお店の気持ちはよく分かります。
そもそも、支給金申請のための書類が煩雑で、その作成だけで、支給金分の人件費が賄えるのではないかと思えるほどです。むしろ、ここを何とかすべきでしょう。

家にこもらずに外出する人々。
人の価値観やライフスタイルはそれぞれ。ですが、私のように家にこもるのが苦手な人にとって、家へ閉じこめられる苦しみは大変なものです。
その一方で、コロナをきっかけに家にこもりがちの人の世間からの視線は大幅に改善したとか。
そもそも、誰も外に出なければ、特定の業種にとっては死活問題です。
それこそ逆に、人々の心身の不調が生じ、社会に無益な出費を強いてしまうのではないでしょうか。

では、国や官僚が補助金を無尽蔵に支給すればよいのでしょうか。
それは、残念ながら得策ではありません。
昨年の緊急事態宣言で支給されたような一括支給は現実的ではありません。国の財政にとってよくないことは当然です。
たとえ、いくら国民の貯蓄額が大きいから国の財政は赤字でも国は安泰、との論が正しいとしてもです。国の財政赤字をこれ以上悪化させることに渋くなるのは当然です。

国は全体最適を考える組織。特定の個人や団体に恩恵を与えることは建前として無理でしょう。
たしかに、国の予算が最適な組織に適正な価格で配分されているかは、甚だ疑問です。
ですが、こうした予算の配分については、すでに政治家や官僚の調整能力の範疇を越えていると思います。今の複雑な社会の中で国民すべてが納得できる方法などどだい無理なのです。

結局、誰にも責任を求められないのが現実ではないでしょうか。
誰にも責任を求められない社会。これ、どこかで聞いたことがありますよね。そう、わが国の文化です。
わが国の、いや日本の文化の特徴。特定の人間に責任を負わせず、責任の所在を曖昧にする。これは日本のオハコと言うべきでしょう。

冒頭に書いた通り、わが国の状況は諸外国に比べて深刻ではありません。
でも、コロナは私たちの何かを変えるチャンスでもあります。コロナが起こる前から長期低落傾向が顕著だったわが国の将来。それを変えるチャンスなのです。

日本には和を以て貴しとなすの精神が強く根付いています。歴史を振り返ってみてもそう。
日本の歴史を紐解くと、歴史はさまざまな教訓を教えてくれます。
私たちは歴史から何を学び、どのように変えるべきでしょうか。

今回のコロナをきっかけに変えるべきこと。それは制度だと思います。
日本の歴史の中で、既存の仕組みを壊す人物は多数現れました。木曽義仲、新田義貞、織田信長などはそうした人々です。ですが、彼らの栄華は短いものでした。彼らの後には最後の勝利者がいます。源頼朝、足利義満、徳川家康。彼らが行ったことこそ、制度の整備です。制度をもって国を治める。最近では明治政府がそれを成し遂げました。

歴史から学ぶ教訓とは制度の整備です。社会制度を少しずつ変えていく。これしかないと思います。
過去、わが国は外圧によって何度か大きな変革を遂げてきました。最近では明治維新や、第二次大戦の敗戦がそうでしょう。

今回のコロナは言うならば外圧です。
であれば私たちは外圧であるコロナをきっかけに大きく変われるのではないでしょうか。
いまや、疲弊した制度を変えるべき時だと思います。
もう、日本の高度成長を支えた制度は破綻しています。そのことを認め、新たな方向に舵を切るべきです。

もちろんこれは当時の制度を設計した人々の責任ではありません。むしろその方々こそ、日本の高度成長を成し遂げたのであり、彼らは褒められこそすれ、非難されるいわれはありません。ですが、制度はいつか疲弊し、磨耗します。不磨の制度などありえません。

ということは、われわれはこの機会に今の制度を変える努力をすべきです。特に働き方に関する制度変更は喫緊です。
もはや儀式のための儀式、運営のための運営、統制のための統制はやめなければ。無意味で形骸化したあらゆる儀式はこの機会に取りやめるべきでしょう。
かつての成功事例を捨て去り、新たな制度設計を!
コロナによって強いられた変革であっても、これを前向きな機会ととらえ、制度を見直す!
そのためにはITの力はどんどん使うべきです。情報処理の力を最大限に生かす。

情報処理の力を生かすには、われわれが知恵を絞らなければならないことがあります。
それは、対面ではなく、ディスプレイ越しに意思の疎通を図る方法についてです。

くしくも今年になり、弊社もスタッフを募り体制を増やしました。
となると私が教える必要があります。ですが、情報の伝達には苦労しています。
リモートを前提とした体制を作ったものの、実際、会って話したほうがスキルや要件の伝達ははるかに効率的です。
これは私が感じているだけでなく、スタッフさんからも同じことを言われました。

リモートは対面での伝達に劣る。
この事実を錦の御旗として、一体どれだけの会社がテレワークへの道を閉ざしてきたのでしょう。
とはいえ、あの無残な通勤の混雑は、決して人間にとってあるべき姿だとは思いません。
テレワークを閉ざすのと引き換えに、通勤が残されるとすれば、それは進歩でもなんでもありません。

リモートワークを進め、なおかつ意思の疎通をきちんと行うには何が足りないのか。それを考える必要があります。

国も東京都もテレワークの推進を訴えてはいるものの、実際、国の制度を決めるべき官僚自らが通勤を余儀なくされている現状では、何を言っても説得力はありません。
単純な作業からやめていくのは当然のことです。その意味では脱ハンコは当然です。また、電話番などの無意味な慣習も止めるべきでしょう。

さらに、国全体が電話ではなく官民合わせてデジタルツールを使った連絡を推進すべきだと思います。
また、国中がコロナによってテレワークに移行しつつある今、Zoomのようなオンラインコミュニケーションツールを使うためのよりよい知見は溜まってきています。
複数のコミュニケーションツールも各社から出されています。
国は、こうした事例を積極的に集め、国民により積極的な啓発活動をしていく必要があるのではないでしょうか。

最後に、何より訴えたいことがあります。
それは私たち国民が、国や自治体や特定の誰かに責任を負わせるのではなく、自らで変革の道を探っていかなければならないことです。
明治維新でも先の敗戦後にも制度を整えたのは国です。ですが、その時に復興の力となったのは民間の力です。民間が国に頼らず責任をせず、前を向き、未来を見る。

今回のコロナは外からやってきた外圧です。
この機会を生かし、民間からもっと積極的にデジタルを使い、テレワークを推進する。そして、ディスプレイ越しでのコミュニケーションの効率的な方法をより突き進める。
それがコロナによって強いられた現状を逆手にとる策だと思うのです。
上記に書いた緊急事態宣言の効果や責任の所在は直近で見るべきとし、私たちはより先の未来を見つめようではありませんか。シン・ニホンを目指して。


あの日から10年


今日は東北地方太平洋沖地震から10年目の節目の日です。

10年前、私の動きは以下の二つのブログに書いています。
東北地方太平洋沖地震(発生日編)
東北地方太平洋沖地震(3/12-18編)

阪神・淡路大震災は、私の人生に強烈な影響を与えました。
東北地方太平洋沖地震もまた、阪神・淡路ほどではなかったものの、私の人生に大きな影響を与えました。

その影響を五つ、挙げてみたいと思います。

一つ目は、私に危機感を植え付けたことです。

上記のブログ内で3月25日に納品を予定していた某開発案件があったことは書きました。
その案件とは、ウェブサイトの作成とコンテンツを管理する仕組み(CMS)を含めたウェブサイト構築の二つでした。

ところが、地震とその後の激動の日々は、私から開発案件への時間と気力を奪いました。
その結果、納品がぎりぎりとなってしまったのです。
納品がぎりぎりになったことにより、お客様が前もって確保していたエンドユーザー様への納品までの余裕も使い果たしてしまいました。もちろん、相当にお叱りを受けました。
地震が理由なのは間違いないのですが、地震を理由にしてはなりません。当初の見積額からの減額を求められました。私の苦い思い出の一つです。

地震直後、私は少し躁状態で舞い上がっていました。
ところがしばらくして、私は逆に抑うつ状態に陥ったのです。
その理由は三つほど挙げられます。
地震によって若干の躁状態になった反動が来たこと。そして、上に書いたようないきさつでご迷惑をかけたこと。
最後の一つは地震とは直接関係ないのですが、私がとてもお世話になった大学の先輩がなくなったのが地震の起きる数日前で、そのお知らせが届いたのが地震が終わって数週間後。そのお知らせは私を強烈に揺さぶり、抑うつ状態へと落としました。

その当時の私は、都心の某銀行の本店に常駐していました。正直、この現場はいろいろと恵まれていました。銀行の本店ならではの雰囲気は、開発現場のような殺伐さとは無縁です。残業もなく、社食は安く。
ですから、この現場でずっと骨を埋める選択肢もあったのかもしれません。

ですが、この地震は私に危機感を植え付けました。
やがて抑うつ状態から上向いた私は、外部への働きかけを活発に始めました。
そうした私の外への活動は行員の方によく思われなかったのでしょう。私はその常駐現場を翌年の3月末で離任しました。

地震から離任するまでの一年、私はいろいろと動き回りました。
kintoneのβテスターに応募しました。また、自治会で役員の当番が回ってきた機会に総務部長を引き受けました。後にも書く通り、歯科診療所の開設の準備を進めました。
それらの活発な行動は、地震をきっかけに生まれた危機感が原動力となっていました。

その原動力は私を突き動かし、kintone・法人設立・自治会・エバンジェリストなどの今につながっています。

二つ目は、テレワークの必要を痛感したことです。

地震の当日、私がたまたま家で仕事をしていたため、さまざまな危険に遭わずに済んだこと。
錦糸町に行っていた妻が翌朝まで帰れず、しかも学童の保護会長としての仕事や、当時診療のアルバイトに通っていた鴻巣との行き来でかなり疲弊したこと。
妻が行けなかった代わりにたまたま家にいた私が娘たちを迎えに行けたこと。

こうした経験は、都心で仕事をするワークスタイルへの疑問とつながりました。
この先、都心への通勤を数十年続けた場合、やがて起こるはずの首都圏直下型地震や東南海地震によって同じ目に遭うに違いない。
その恐れは、私の中にリスクを回避する働き方への決意を固めさせました。

これまでの働き方ではどうにもならない、という決意。
その時の私の決意にkintoneが刺さったこと。
kintoneならば通勤せず、自宅で仕事をするスタイルが貫けるのではないか、というほのかな期待。

2012年の4月から私が常駐の技術者として参画したのはめちゃめちゃ忙しい現場でした。リスク回避どころか、平日はほぼ休めず、毎日終電が当たり前の現場でした。PMOと呼ばれるプロジェクトマネジメントの部署といえば、わかる人にはわかります。
そのような忙しい現場に、最初の一年間、町田からお台場まで毎日通っていました。
そんな日々の中、私は自治会の総務部長をこなし、後述する妻のココデンタルの開院準備に奔走していました。
そうした激動の日々に耐えられたのも、地震をきっかけとして芽生えた危機感を生かし、絶対に独立するという決意があったからです。

この現場でのお台場の日々は一年で終わりました。そこから同じプロジェクトの別現場である麹町に移動して四年。さらに稼働時間を半分に減らした麹町での一年半。
その間も終電で帰ることなどしょっちゅうでした。だから、独立するための準備にもなかなか時間が割けませんでした。ですが、そんな日々にあっても私は、自分で常駐に頼らずテレワークを武器にやっていくための覚悟や準備を数年かけて練っていました。
おかげでその常駐先を離脱して以降、私は常駐現場には一度も参画していません。今は常駐に頼らず、何とか法人を運営できています。

三つ目は、妻の歯科診療所開設です。

地震が起こった当時、妻は鴻巣の某歯科医院まで週一度ほどアルバイトに通っていました。
上のブログにも書いた通り、地震の当日から翌朝まで錦糸町に足止めを食らった妻は、地震の翌日に鴻巣に行かねばなりませんでした。ところが、学童の保護者会長だった妻は、地震への対応もこなさねばならず、その上に交通機関がマヒして疲弊の極にありました。
結局、翌日の鴻巣での診療はなくなったのですが、遠距離の通勤をいつまでも続けてはいられないとの思いが強まりました。

その経験は、妻と私に開業への気持ちを高めさせてくれました。
その時、ちょうど物件のご紹介をいただきました。妻がココデンタルクリニックを開院したのは、地震の翌年の6月です。

地震がなかったら、妻はココデンタルクリニックを開いていなかったかもしれません。
そして今もまだ、ココデンタルクリニックは続けられています。

四つ目は、地域に関心が向いたことです。

この地震によって東北地方、特に福島が大変な苦しみにあったことは誰もが知っています。

地震は私に地方への関心を呼び起こしてくれました。特に福島へのご縁と関心を。

地震の起こった翌秋のこと。次女が通っていた学童の秋祭りで飛ばした風船。
その風船が、偶然にもいわき市のスパリゾートハワイアンズに近いクレストヒルズゴルフ倶楽部さんに落ちました。
それがご縁で、家族でスパリゾートハワイアンズに泊まりに行ったのは2013年の8月のことです。

さらに福島とのご縁は続きます。kintone Caféからつながったご縁で郡山に行く機会をいただいたのは2016年。
そこで味わった温かさには感銘を受けました。また、夜の懇親会では、皆さんが風評被害への憤りとやるせなさを抱えていることも知りました。
郡山駅前では福島を襲う放射能の危機と福島からの脱出を訴える街頭演説に出会いました。人々の不安をあおるような演説に私は憤りました。

そうしたきっかけから、私は郡山や福島を応援するようになりました。それ以降、私が福島を訪れたのは六回。
おそらく地震がつないでくれたご縁だと思っています。

また上に書いたように、地震の翌年から就任した自治会の総務部長の活動も、私に地域への関心を向かせてくれました。

五つ目は、家族との絆です。

地震の当日、娘たちや妻と離ればなれになった経験は、家族への思いを強めました。
それまでも家族は大切にしていたつもりです。が、災害は家族をいやおうなしに引き離してしまいます。それをまざまざと感じさせてくれたのがあの日でした。

やがて起こるであろう首都圏直下型地震や東南海地震は、私から家族を引き離すかもしれません。
それどころか、私の命すら奪いかねません。
そのためにも、今のうちからやりたいことをしておかねば。

危機感をバネにリモートワークの体制を作り、地域と家族を大切にする。
私がこの地震で感じたことです。

上にも書いたとおり、阪神・淡路大震災の方が私に与えた影響は甚大でした。でも、その当時の私は学生であり、できることなどわずかでした。でも、今は違います。長じて経験を積み、それなりに社会的な立場もあります。
そんな今だからこそ、地震から受けた影響を社会に還元しなければ、と思うのです。
もちろん、私の力などまだまだ未熟です。が、そろそろ未熟だといって責任から目を背けていられません。

先日も余震とみられる揺れが東北を襲いました。まだ、3.11は終わっていないのです。
これからも地震で無念の死を遂げた方々に哀悼の意を込め続けたいです。そして、十年後の今も地震の苦しみを抱えていらっしゃる方を応援したいと思います。

地震から十年。私に何ができるのか。私が自らの一生を悔いなく全うし、しかも社会に対して貢献するにはどうすればよいのか。
あの日から十年たった今、その思いをかみしめたいと思います。


弊社では身内への呼び捨てをやめます


商談でお客様と話す際、身内の名前を呼び捨てにする。
メールでも身内のことを呼び捨てにする。
昔から私は、こうした慣習に違和感を持っていました。

商談の場において身内同士で話す際はお互いがさん付け、または役職で呼び合いますよね。ところが同じ商談の場で、お客様に対して話す時は打って変わって身内を呼び捨てにする。

なんかこれって一貫してなくね?と思っていたのです。

お客様に対して身内を呼び捨てにするのであれば、同じ場で身内に話しかける際にも呼び捨てにしなければ一貫性が保てません。

なんのためにそうした使い分けが必要なのか。私はずっとその意味が分からずにいました。
それでありながら、今までの私は慣習に従って身内を呼び捨てにしていました。違和感を抱えながら。

今年から弊社でも新たに二人の仲間に参加してもらい、身内の概念ができました。
この機会に弊社は、身内に対する呼び捨ての習慣をやめることにしました。

商談の場でも、身内を呼ぶ際は呼び捨てにしない。メールやチャットの中でも。
それを貫くことが普段からの身内への敬意につながると思っています。

そもそもなぜ身内を呼び捨てにする習慣が生まれたのでしょう。
おそらく、身内をおとしめることによってお客様を持ち上げることが狙いなのでしょう。謙譲語の考えと同じですね。

確かに、リアルな商談が商いを左右していた時代ならそれも理解できます。
というのも、リアルな商談は応接室で話します。応接室は上座と下座を意識したレイアウトになっていて、お客様と身内が向かい合って座る配置になっています。つまり、机を挟んで身内とお客様が相対します。
前を向いて話す際は、お客様に対して敬語を使い、視線を向けない左右の身内は呼び捨てにする。左右を向いて話す際は、身内であっても向き合って話すからさん付けで呼ぶ。いちおう、つじつまは合います。
リアルな場における商談では、身内を呼び捨てにする習慣が根付いたのもわかる気がします。

ですが、今や打ち合わせのほとんどがオンラインです。
数あるオンラインの会議ツールには、上座も下座もありません。スピーカー以外は同じパネルの中で並びます。
場の構成がフラットである以上、身内を呼び捨てにする意味は薄れている。そう思いませんか?

もっとも、マナー講師によってはオンライン会議の場にまで、妙なルールやマナーを持ち込もうとしているようです。ですが、もうナンセンスでしょう。

もう一つ、呼び捨てを無意味だと思う理由は、今や身内といっても同じ会社に所属していないことです。
これは弊社が活動する情報処理業界に特有なのかもしれませんが、身内といっても複数の企業や個人事業主などで連携して商談に臨むことがよくあります。
つまり、身内でありながら実態は属する組織がバラバラ、というケースが増えているのです。その場合、身内というよりも同じ目的に向けて集まった仲間です。ということは、たとえ商談の場であっても呼び捨てにできる関係ではないですよね。
同じ目的を目指す意味では、お客様も身内も同じ仲間と考えてもよいと思うのです。であれば、お客様も身内も等しくさん付けで呼んでよいのではないでしょうか。敬意を表す意味でも。

そういう訳で、弊社は身内であっても商談の場では○○さん、と呼ぶことにします。
メールでも同じ。
まずは代表の私からそれを徹底したいと思います。

もちろん、反論もあるでしょう。
今、思いつく反論は二つです。
一つ目は、身内もさん付けで呼ぶことで商談の場における主客が分かりにくくなること。
二つ目は、先に書いた通り身内をおとしめることでお客様を持ち上げる効果があること。

前者については、商談の流れの中で主語と述語を意識して使い分けるようにすれば、主客は簡単に判別できるはずです。むしろ、曖昧な言葉を改めることで商談の効率も上がるはず。
後者については、普段からお客様に対して敬意を払うのは当たり前であり、身内を卑下してまでお客様への敬意を表すのではなく、ストレートにお客様に敬意を表すのが当然と考えます。

ただ、お客様への敬意を持ち続けるには、コツがいります。
たとえば、内輪だけの会話であってもお客様を呼び捨てにしない習慣を保ち続けること。普段からこの慣習ができていれば、商談の場でわざわざ身内を呼び捨てにする必要もありません。自然とお客様への敬意が伝わるはずですので。お客様への敬意を持つのは当然、という前提がありますが。
もちろん、敬意を持ちにくいクレーマーのお客様や合わないお客様もいるでしょう。その時はすぐに取引をやめるようにすればよいだけ。

また、身内への呼び捨てをやめるようにすることは、別の利点もあります。それは、お客様にもお互いを尊重する社内の関係性を伝えられることです。
お客様にしても、社内がギクシャクしている会社には仕事は任せにくいですよね。
社内の関係が円滑であることを分かっていただくことで、お客様にも安心してお仕事をお任せいただけるのではないでしょうか。

ということで、今後弊社からお送りするメールや商談の際は呼び捨てをしない、を励行していきます。
なお、これは弊社の外に強制するつもりもありませんし、呼び捨ての習慣を続けるからといってたしなめるつもりもありません。

今後ともよろしくお願い申し上げます。


人の道を踏み外さぬ経営を


コロナに振り回された一年も終わりを迎えようとしています。
今、福島出張の帰りの新幹線です。その中でこれを書いています。

12/25日のクリスマスには、ジョン・レノンのHappy Xmas (War Is Over)の歌詞を読み、そのシンプルかつじかに心に響く歌詞に惹かれました。

Happy Xmas Kyoko

Happy Xmas Julian

So this is Xmas

And what have you done?

Another year over

And a new one just begun

And so this is Xmas

I hope you have fun

The near and the dear one

The old and the young

A very Merry Xmas

And a happy New Year

Let’s hope it’s a good one

Without any fear

ここに書かれているとおり、来年こそは何の恐れもない年を願いたいと思います。
ジョンの残したシンプルでかつ力のある歌詞に心を揺り動かされたクリスマスでした。

歌詞の余韻の醒めやらぬ中、次の日は福島出張の前乗りで、新白河の隣の駅にあるアウシュヴィッツ平和博物館を訪れました。

かつて、グラフィックデザイナーの青木進々氏が、1980年代後半から1990年代後半にかけ、全国で「心に刻むアウシュヴィッツ展」を開催していました。ここアウシュヴィッツ平和博物館は、その時の展示品を集めた場所です。

かつて、私は「心に刻むアウシュヴィッツ展」が京都で催された際、単身でボランティアに志願しました。どういういきさつで参加したのか思い出せませんが、1時間ほどかけて会場に向かい、一日中、案内係をした記憶があります。
その後の打ち上げ会も、誰も知り合いがいないにもかかわらず一人で参加しました。青木進々氏とも言葉を交わしたように思います。
1997年ごろのことですから、私がようやく鬱から立ち直り、いろいろと外に向いて活動を始めたころです。

正直にいうと、青木進々氏と何を話したかも覚えていません。アウシュヴィッツ展の展示物も、人体から作った石鹸やかつらや衣服や靴やメガネの山に強烈な印象を受けた以外は、あまり覚えていません。

それ以来、23年の月日がたちました。その間の私はあまり社会貢献ができていませんでした。
むしろ自分の家族を築き、家を処分し、仕事を覚え、自らの立場を確立するので精一杯でした。

今年、コロナで世の中は非常に苦しんでいます。
そんな世相にあって、弊社はご縁があって町田市地域活動サポートオフィスの皆さんとご一緒にお仕事をさせていただく機会がありました
その中で、私の中で忘れかけていた社会貢献の熱がよみがえってきました。
町田市地域活動サポートオフィスさんの立ち上げたクラウドファンディングにも寄付させていただいたのも今年です。

コロナがもたらしたリモートワークの促進もあって、弊社は忙しくなったと同時に、金銭的には少し余裕ができつつあります。
それが社会貢献にもつながっています。そして、その余裕を生かして雇用にも目を向けられるようになりました。
年末でお一方を雇用するめどはつきました。来年からは外注先に頼む以外に、自社のリソースを活用できるはずです。

雇用するということは、その方の人生や暮らしにも責任を持たねばなりません。
悪辣な経営者であれば、責任は持たずに搾取して使役して疲弊させることに腐心するのでしょう。

いうまでもなく、私はそうしたくありません。
たとえ微力であっても、弊社のために働いてくださる方の人生にとって糧となるような会社でありたい。そう願っています。
ましてや、私がかつて属していたような圧力で社員を萎縮させるブラック企業のようには。
そのような企業に堕してしまうことは、ナチス・ドイツがかつてアウシュヴィッツをはじめとした収容所で強制労働に駆り立てたことと同じです。
アウシュヴィッツの言語を絶する所業の数々を見るにつけ、経営者の立場として襟を正さねばと思います。利益追求や人を傷つけるような思想に与することのないように。

そのためにも弊社として何をなすべきか。
正当な労働対価を受け取り、それをきちんと社員に還元できるようにしなければ。
今までの安価な見積金額は改めねばならないでしょう。
また、不要な残業ももってのほか。それには生産性を上げるような施策を打たねばなりますまい。
ただ理想を語るだけでは、何も変わらないことは今までの人生で思い知らされてきました。語るだけでなく動こうと思います。

今年の正月はそのあたりのことも、きちんと心機一転して考えたいと思っています。
ジョンがかつてこう歌ったように。

A very Merry Xmas メリークリスマス

And a happy New Year そして新年おめでとう

Let’s hope it’s a good one よい年になるように祈ろう

Without any fear 何の恐れもないように

War is over! 争いは終わる

If you want it もしそれを望めば

War is over! Now! 今、争いは終わる

人々が、そして弊社が争いもなく過ごせるようになる方法。
それは、人や他社と比べるのではなく、自らと比べ、自らを成長させていくことだと思っています。
このような会社にしていきたいですね。年の瀬によい気付きができたように思います。


地方への流れはまずプロ野球から


今年の日本シリーズはホークスが完全にジャイアンツを圧倒しましたね。
二年続けて四タテでジャイアンツを破ったホークスの強さに隙は見当たりません。

この圧倒的な結果を前にして、私たちは「球界の盟主」という古びた言葉を久々に思い出しました。仮にこの言葉に意味があったとして、それが今回の日本シリーズの結果によって東京から福岡へと移ったという論調すら見かけます。

東京と福岡。古くからのプロ野球ファンは、この二つの土地から象徴的な関係を思い出すはずです。それは読売ジャイアンツと西鉄ライオンズ。
かつて、ジャイアンツの監督を追われ、西鉄ライオンズの監督に就任した三原監督は「我いつの日か中原に覇を唱えん」と語ったと聞きます。数年後、西鉄ライオンズはジャイアンツを三年続けて日本シリーズで破り、三原監督の宿願は見事に成就しました。
三原監督のこの言葉からは、この頃の東京が中原=中心と位置づけられていたことが読み取れます。
なにせ、この頃の世相を表す言葉として有名なのが「巨人、大鵬、卵焼き」なる言葉だったくらいですから。これは、当時の子どもたちに愛された対象を並べたキャッチフレーズですが、地方の野球少年少女にとって巨人が羨望の的だったことは事実でしょう。

全国からの上京者を飲み込み続けた東京が文字通りの首都だった時代。
それが今や、コロナにあって四カ月連続で転出超過となっています。
(記事はこちら
これはまさに時代を表す出来事だと思います。
この出来事は、東京への一極集中に異常さを感じていた私にとっては歓迎したい現象です。ようやくあるべき姿に戻りつつある傾向として。

実はプロ野球は、地方への流れを先んじて実施していました。プロ野球、というよりパ・リーグが、です。
今や、プロ野球において、強いチームとは地方に比重が移りつつあります。かつてはセ・パー両リーグともに東名阪にプロ野球チームが集中していました。わずかに広島と福岡に本拠を置くチームがあった以外は。
その頃に比べ、今は福岡・広島・仙台・北海道にチームが移り、それらのチームが一時代を築くまでになりました。
その流れはパ・リーグに顕著です。
その流れが近年のパ・リーグの強さにつながっていると思います。

かつて「人気のセ、実力のパ」という言葉がありました。
私はかつての西宮球場の状況を知っています。戦力的には黄金期であったにもかかわらず、試合中でも閑散とした球場の異様さを。それは、近くの甲子園球場で行われた試合の観客が盛り上げる様子に比べると悲壮さすら漂うほどでした。
最も格差が開いた時期(1975年)では、セ・リーグの観客数がパ・リーグの2.96倍、つまりほぼ3倍に達していました。
それが今や、ここ数年は1.20倍前後に落ち着いています。人気の面でもパ・リーグがセ・リーグに伯仲しようとしているのです。
セ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf
パ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf
セ・パ両リーグの観客数の推移グラフ

その理由はいくつでも挙げられると思います。
その中でも、今の都市圏にはかつてのように地方の野球少年を惹きつける魅力がないことに尽きると思います。
テレビ放送の黎明期を担った方がジャイアンツのオーナーであった頃、地方で放映されるプロ野球の試合といえばジャイアンツのみでした。それが全国の野球少年の憧れをジャイアンツに向けさせていたことは否めません。それが入団希望者の多さにもつながっていました。
その時の影響は、今もなお、FAで巨人を希望する選手や、逆指名でジャイアンツを希望する選手もいる現象として見られるくらいです。

でも、少しずつジャイアンツの占める重みは減り続けています。
「球界の紳士たれ」なる窮屈な言葉がある球団に入るより、地方の球団でのびのびしたいという選手の思い。
今や、ジャイアンツの選手であることのブランド力は薄れ、それが今回の日本シリーズの結果でさらに拍車がかかるような気がします。

情報が流通する社会において、都市に集まる利点はどんどん減っています。
かろうじて、ビジネス面では首都であることの利点があるのかもしれません。でも、そのメリットはプロ野球の世界ではもはや効果を失いつつあります。
それにいち早く気づき、活路を見いだしたのがパ・リーグの球団。であるとすれば、いつまでも東名阪に止まっているセ・リーグの各球団はそろそろ地方に目を向けるべきだと思うのです。

特に、首都圏に五球団というのは多すぎます。埼玉、千葉、横浜はいいとしても、東京に二つというのはどうなんでしょう。例えば思い切って、キャンプ地の宮崎を本拠地にするぐらいの改革をしても良いのではないでしょうか。
今回の二年続けてのような体たらくでは、やがては観客数すら逆転しかねません。

もちろんこれはプロ野球だけの話ではなく、東京に集中して報道しがちなマスコミやビジネス界についても同じです。
もはや東京への一極集中はデメリットでしかない。それが今回の東京からの転出超過につながっているように思います。

これは、何も東京を軽んじているわけではないのです。
私は常々、日本の健全な発展とは、東京一極集中ではなく地方と東京が等しく発展してこそ成されるものだと思っています。それが逆に東京の魅力をよみがえらせる処方箋であると。

ジャイアンツも、いつまでも首都の威光を傘にきて「球界の盟主」なる手垢のついた言葉に頼っているうちは、地方の活きのいい球団の後塵を拝し続ける気がします。
今回の日本シリーズの結果がまさにそれを証明しているのではないでしょうか。


アクアビット航海記-営業チャネルの構築について


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ営業チャネルの築き方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

起業する上で切実な問題。それは、お客様の確保だと思います。
お客様が確保出来なければ売り上げが立たず、経営も破綻します。
破綻すると分かっているのに起業に踏み切る人はいないでしょう。

私もエイヤっと起業したとはいえ、顧客の確保は心のどこかに不安の種として持っていました。
しかも私の場合、貯金がほぼない状態での独立でした(その理由は本編でいずれ描くと思います。)
ですから、最初は安全な方法を採りました。

それは、常駐の技術者としての道です。
まず、技術者の独立について検索しました。そして、いくつかのエージェントサイトに登録し、エージェントに連絡を取りました。
その動きがすぐに功を奏し、常駐の開発現場に職を得られました。そこから、十年以上にわたる、常駐開発現場を渡り歩く日々が始まりました。
毎日、決まった場所へ出勤し、与えられた業務をこなし、毎月、決まった額を営業収入として得る。
実際、個人事業を営む技術者のほとんどはこのようにして生計を立てているはずです。

ところが、この方法は自分自身で営業チャネルを構築したとはいえません。なぜなら、エージェントに営業を依存しているからです。あくまでもお仕事を取ってくるのはエージェントです。
複数のエージェントに自らを売り込めば、頼りになる技術者として営業にはなります。エージェントも実際の顧客に対して有能な技術者だと熱意をもって推薦してもらえるはずです。
ですが、あくまでも直接の顧客と相対するのはエージェントであり、あなた自身の営業チャネルが確立できたわけではありません。
あなた自身の技術力が仕事につながったことは確かですが、その結果を営業力や営業チャネルによるものだと勘違いしないほうが良いです。
そこを間違え、技術力だけで案件がずっと潤沢にもらい続けると考えてしまうと、後々にリスクとなって返ってきます。

そのリスクは、社会が不安になったり、年齢を重ねることによってあらわになります。
実際、私はエージェントに頼った年配の技術者さんが、リーマン・ショックによって仕事を失い、苦しむ様子をそばで見ています。
見るだけでなく、私自身がかわりに営業を代行していたので、なおさらそのリスクを私自身のこととして痛感しています。
なので、私はエージェントさんには頼らないと決めています。
そう、営業チャネルは自分自身で構築しなければならないのです。

では、自社で営業チャネルを確保するにはどうすれば良いでしょうか。
本稿ではそれを語ってみようと思います。
ただし、本稿で語れるのはあくまで私の実践例だけです。
これが普遍的に使えるノウハウで、あらゆる会社や個人に当てはまるとは全く考えていません。
一人一人、一社一社の業態やワークスタイルによって答えはまちまちのはずです。そもそも業種によって営業チャネルの構築方法はさまざまのはずです。だから、本稿が参考にならないこともあるでしょう。そのことはご了承くださいませ。
本稿では私の携わっている情報業界を例にあげたいと思います。
情報業界と言っても幅広く、コンサルタントやウェブデザイナも含めて良いと思います。

まず、身内、肉親、親族は除外します。
もし、そうした身近な存在を営業チャネルとしてお考えなら、やめた方が良いです。むしろ親族は、初めから営業チャネルと見なさないことをお勧めします。

営業チャネルとなってくださるよう働きかける対象は、まだお会いしたことがない方です。
まだ見ぬ方にどうすれば自社のサービスを採用してもらえるか。そして、その中であなた自身の魅力に気づいてもらえるか。

一つの方法はメディアの活用です。
ここでいうメディアは、TVCMももちろんですし、新聞や雑誌などもそうです。ウェブ広告やSNSも含みます。

ただし、私は実はこうしたメディアを使うことには消極的です。
これらのメディアを使って効果を出すには、ある程度の規模がないと難しいと思っています。

なぜかというと、こうした媒体ではこちらのメッセージを受け取ってほしい相手に届く確率が少ないからです。
弊社の場合だと、システムを必要とする方でしょうか。今、切実にシステムを導入したい、または、ホームページを今すぐ作りたいという会社様。または下請けとなってシステムを構築している技術者を求める会社様や、協業する技術者を欲する会社様が対象です。
そうした相手に弊社のメッセージが届かないと、いくら広告費を掛けても無駄になります。
ただし、自社の名前がある程度知られている場合は、見知らぬ相手にもあなたのメッセージは届くことでしょう。

もし、知名度がない場合、広告の予算を潤沢に投入しないと、受け取ってほしい相手にこちらのメッセージが届かない可能性が高いのです。
今はまだ、アカウントに紐づいた検索履歴などの情報や端末に保存されたCookieでピンポイントに広告を届けられるほど、ウェブマーケティングの精度は上がっていません。
そもそも、そうした情報の二次利用を嫌がる方も多く、それがウェブマーケティングの精度の妨げとなっています。

そうした現状を省みるに、Google AdWordsに費用をかけても、コンテンツによっては無駄に終わる可能性が高いです。
ウェブ広告に携わっている方には申し訳ないですが。
(弊社も上限額の設定を間違え、20万円以上もGoogleに支払ってしまった苦い経験があります。もちろん反応はゼロで、ムダ金に終わりました。もちろん何も対策をせずにいた私が悪いのですが。)
メールマガジンやTVCMや雑誌、タウン誌なども同じです。これらの媒体では営業チャネルの構築は難しいと思っています。

仮にユニークな広告によってこうしたメディアでバズらせることが出来たとしても、そこで得た効果を生かせるかどうかはまた別の話。バズッたことはフロックだと考えておいた方がよさそうです。
起業直後で人的リソースに限りがある場合に、まぐれ当たりで大量に問合せが来ても、対応ができず、品質や納期に問題を生じさせたのでは意味がありません。

だからこそ、まずは身の丈にあったリアルな場での営業チャネルの構築が必要と思うのです。

ただし、ウェブでも使える味方があります。それは、マッチングサイトです。CloudworksやLancersなどが有名ですね。

これらのサービスを利用することによって案件につながることは間違いありません。私も他のマッチングサイトなども含め、さまざまに利用していました。また、そこから多くの案件をいただくことができました。

ですが、マッチングサイトには一つ問題ががあります。
それは商談を含めた未来のやりとりをマッチングサイトに通すことを求められることです。つまり、マッチングサイトを通さない直取引に制約がかかるのです。
利用者にとっては不便ですが、マッチングサイトの運営者の立場を考えれば当然です。せっかくプラットホームを作ってビジネスの縁組をしたのにお金が入って来ないからです。
それもあって私は、マッチングサイトを使ったご縁は営業チャネルになりにくいとの印象を持っています。これは私の未熟さも影響していることでしょう。
もちろん、この課題はマッチングサイト側でも当然認識しているはずで、私が盛んに利用していたころに比べると徐々に改善されているようです。今後の取り組みに期待したいところです。

もう一つ、ウェブで使える営業チャネルを挙げるとすれば、YouTubeなどの動画配信サービスが真っ先に思い浮かびます。
これらのサービスを私は営業チャネルとして使っていません。なので語る資格はありませんが、動画配信サイトは良い営業チャネルの手段となると見ています。

もう一つ、ウェブで使える手段として、SNSやオウンドメディアを忘れるわけにはいきません。これらは、動画配信サービスの利用と同じく利点があると思っています。そのことは後で触れます。

私にとって、営業チャネルの構築でもっとも経営に役立った手段。それはリアルの場です。

私は起業の前後、どこかの交流会から声がかかるたび、とにかく可能な限り顔を出すようにしました。

そうした交流会によっては運営のためのルールを設けています。例えば、皆の前で一分間のスピーチをしたり、四、五人でグループセッションを行ったり。かといえば、完全に自由にしゃべるだけの会もありました。
そうした集まりに参加する中で経験を積み、どうすれば自分を売り込み、営業チャネルが構築できるかを私なりに体得してきました。

本稿では、私なりに得たいくつかのノウハウを挙げてみます。
・話上手より聞き上手。
・知り合いは一人だけでも飛び込む。
・名刺コレクターにはならない。
・全員と語るより、少数の方とじっくり語る。
・お会いした方には数日以内に御礼のメールを送る。
・あれこれ欲張らず、一つに絞ってアピールする。

交流会に出たことのある方はご存じでしょうが、交流会には多くの方が来られます。
例えば、三十人の方が集まる交流会に初めて出た場合を考えてみましょう。
三十人の全ての方の顔と名前、趣味や得意とする仕事。これを一週間後に思い出せ、と言われてどこまで覚えていられるでしょうか。まず無理だと思います。
だからこそ、あなたを相手に印象付けなければなりません。印象付けられなければ、渡した名刺はただの紙切れです。

交流会に出ると、人々の中を回遊しながら、話すことより名刺を集めることを目的とするかのような方をよく見かけます。ですが、そうした方と商談に結びついたことはほとんどありません。それどころか、一週間もたてば名前すら忘れてしまいます。
それよりも、じっくりと会話が成立した方とのご縁は商談につながります。
私の場合、三十人が出席する交流会で10枚ほど名刺を配らないこともあります。残りの二十人とは話しすらしません。
ですが、浅いご縁を二十人と作るよりも、十人の方とじっくりと語り、深いご縁を作ったほうが商談につながります。

さらに、じっくり語る際は、唾を飛ばして自らを語るよりも、相手の語る事をじっくりと聞きます。そして相槌を打ちながら、自分がビジネスとして貢献できる事を返します。相手の目を見つめながら。
話をよく聞いてくれる人は、語る側にとって心地よい相手として記憶に残ります。それが、ビジネスの相談もきっちりと聞いてくれるに違いないとの安心感にもつながり、商談へと結びつくと私は思っています。

ことさら自らの仕事をアピールしなくてもよいのです。相手の話を伺いながら、相手の中で自分が貢献できる事を返答するだけで、十分なほどの営業効果が見込めます。
こちらから一生懸命アピールするよりも、相手が抱えている課題に対してこちらのビジネスで貢献できることを真摯に返しましょう。それだけでよいのです。
それが相手にとって課題の解決に役に立つと思ってもらえればしめたものです。
相手に対して真剣に関心を持ち、自分が貢献できることを考える。それは相手を尊重しているからこそです。単にビジネスの相手だと思ってくる相手は話していてすぐにわかります。相手にも見透かされます。
まずは相手を尊重し、受け入れ、関心を持ち、貢献しようと思えばよいのです。

もし自分の得意分野では貢献できないと思っても、周りの友人関係の中で、相手のビジネスにとって有益なご縁を探すのもよいです。
それを聞き出すため、相手により深く質問することも効果的です。
人は、質問してくれる相手に対して、自分に興味と好意を持ってくれていると考えます。するとますます会話が進み、相手はあなたにますます好印象を抱いてくれるはずです。

また、交流会には単身で飛び込むぐらいの気持ちが必要です。
たとえ交流会の中で知っている方が、紹介してくださった方のみだとしても、一人で飛び込むべきです。
よく、顔見知りとつるんで交流会に参加する方がいらっしゃいます。ですが、つるんでしまうと人との交流ができません。その中に逃げてしまうからです。
私もはじめの頃は臆病で、誰かを誘っていました。ですが、途中から単身で飛び込むことも平気になりました。
ただし、逆もいえます。誰も知らない交流会に単身で飛び込むのはやめた方が良いです。誰との縁もないのに飛び込むと、手練れの勧誘者と思われ、逆に警戒させてしまうからです。
そして、お会いした方にはできれば翌日に、最低でも先方があなたのことを覚えている数日以内にメールを送ることをお勧めします。

一旦、交流会で絆が出来たら後日、相手からきっと何かのお誘いが来ることでしょう。
そうしたら、万難を排して参加しましょう。それによってますます絆は強くなります。そうなればもう営業チャネルは築けたも同然です。

ここで挙げたノウハウは、私が自分で築き上げました。ですが、最初は逆でした。
名刺を配ることに腐心し、自分の持っている得意分野や趣味のアピールに必死で、御礼メールの送信を怠り、仲良しを誘って参加しては、身内だけで話していました。
だから、交流会に参加し始めたころは、全く商談につながりませんでした。それどころかお金と時間だけを支払い続けていました。
私はそれを改善しなければ人生が無駄になると考えました。
そして、今までの自分を全て反面教師としました。そうすることで、商談につながる割合が劇的に増えました。
今では何かの懇親会に出ると、必ず一件は商談につながります。

さて、絆が作れました。
そこからはあなたの人間を知ってもらえるとよりよい絆が結べます。
そこで初めてSNSの登場です。
よく、交流会の当日や翌日に交流会で知り合ったからからFacebookのお友達申請をいただきます。
ただ、私はあえて最初からフランクなSNSは使わず、最初はフォーマルなメールを使うようにしています。
そこでフォーマルなあいさつを行ったのちに、SNSを使ったやりとりに進みます。その方が後々の商談につながるように思います。
最初からフランクな感じで始まった方が、ビジネスにつながらない。不思議なものです。

SNSの活用については本稿では深く踏み込みません。
ですが、一つだけ言えるのは、いいねやコメントをいただく数と、営業チャネルの成果は比例しないということです。

私の場合、SNSの投稿がバズったり、大量のいいねをもらうことに重きは置いていません。
むしろ、私のSNSの使い方はいいねをもらうためのノウハウとは逆行しています。だから、SNSでいいねをもらいたい方にとっては私のやり方は逆効果です。
私は他人の投稿に反応するのはやめました。それどころか、一日の中でSNSに滞在する時間は20分もないでしょう。
ただ、他人の投稿に反応しないよりした方が良いのは確かです。そして、なるべくSNSの滞在時間を増やした方が、いいねにつながることは間違いありません。それは、SNSのアルゴリズム上、優先的に投稿が表示されなくなるからです。また、いいねは相手への承認ですから、いいねが返ってくる割合も増えることは間違いありません。
私の場合、限られた時間を活用するにはSNSの巡回時間を減らさねばならないと考え、ある時期からSNSでいいねを押すことをやめてしまいました。
ですが、もし時間があるのであれば、なるべくSNSの滞在時間や反応はしたほうがいいです。

ただ、いいねが少なく、コメントがもらえていないからといって、投稿が見られていないと考えない方が良いです。いいねやコメントがなくても、継続することであなたの投稿は必ず誰かの目に触れています。その繰り返しがあなたの印象となるはずです。

要はSNSを通して、あなたという人間を知ってもらうことです。
何かを勧誘してきそうな人ではないか。書き込みにうそや誇張や見えが感じられないか。日々の投稿でそれを知ってもらえれば良いのです。
それが達成できれば、いいねやコメントの数などささいな問題に過ぎません。気にしなくて良いです。

それよりも、日々の投稿は必ずや日常を豊かにし、しかも仕事にも結び付きます。
まずは投稿を継続することが肝心だと思います。ぜひやってみてください。

結局、営業チャネルの構築とは、サービスの営業窓口があなた個人である限り、あなた自身の人間で勝負するしかないのです。
私はそう思っています。
動画配信であなたの人間が伝えられればなお良いですし、そこまでは難しくても、リアルな場でも仕事をお願いするに足る信頼をもっていただくことは可能なはずです。それは、業績となって必ず戻ってくるはずです。

本稿が皆さんのご参考になればと思います。


75年目に社会活動に思いをいたす


原爆が落ちて75年目の今日。

切りの良い数字だと思い出したところで、被爆者の方の無念は晴れません。
それは分かっているのですが、切りの良い数字は、自らの人生を振り返るきっかけにもなります。

25年前の今朝は、私は原爆ドームの前にいました。そして、世界中の人たちとダイ・インに参加していました。
(ちなみにその前日は原爆ドームの前にテントを立て、友人達と野宿していました。)

当時、私は大学の政治学研究部の部長を退任した直後だったので、国際関係や政治には深い関心を持っていました。
ですが、今や疎くなってしまいました。会社を経営しながら自分でも商談や設計やコーディングに携わっていると、そんな時間はなかなか取れません。
私の中の関心も当時に比べて隔世の感があります。

ですが、それでは駄目なんですね。経営者の立場としても、そして年齢の上でも、こうした問題にもっとコミットしなければ、と反省しています。
なぜなら、今の複雑に絡み合った動きの速い社会に対して、官僚や政治家が有効な政策を迅速に立案できるとは、とても思えなくなっているからです。
つまり、私たち民間の人間がもっと自覚し、民間で世の中を回すようにしなければなりません。
小さい政府を想定し、それに備えた動きをしなければならない。そう思うようになってきました。

忙しい毎日。
そんな中でも、どこかで理想を追う自分を維持し、どこかで社会のために役立つ自分を持っておく。
そうでないと、日々の売上や支出や進捗に自分が引き裂かれてしまいそうです。

ですが、私は今、そうした政治や国際関係を語るだけの知識や見識が失われています。
少なくとも大学時代に比べると。

だから、今の私は、自分にできることをしようと考えを変えています。
それは地道な方法で社会貢献することしかないです。

昨日は生まれて初めてクラウドファンディングに寄付しました。
町田市地域活動サポートセンターさんが今、実施されているものです。
https://camp-fire.jp/projects/view/305818

また今夜、行われるfreee & kintone Biztech Hackも活動自体は無償です。
https://page.cybozu.co.jp/-/fk-biztech/
私には一銭も入りません。
これも技術を社会に広める意味では、社会貢献の一つだと感じています。

そもそも、日々の仕事を正直に公正に行うことも、立派な社会貢献だと思います。
それが社会を回し、人々の役に立っている限り。
だから、ことさら社会貢献にとらわれなる必要はないと思います。

ですが、せっかくの仕事も、組織のためだけで完結してしまうとなると、社会に及ぼす効果は薄いです。
管理のための管理、時間をつぶすための仕事になっていないか。そこは気を付けたいですね。
日々の行動を外部に直接的な影響を及ぼす。それが結果として社会貢献につながればよい、と思っています。

75年前に非業の死を遂げた方々のためにも。


47歳。若いとみるか、老いとみるか。


おとといの6/6で、私は47歳になりました。

その年齢を若いと見るか、それとも老いとみるか。
人によってとらえ方はさまざまです。

ですが、私は自分の余命がわずかだと感じています。
根が楽観的な私であるにもかかわらず、「まだ」47歳ではなく、「もう」47歳だと感じています。

だからこそ、仕事だけで時間が過ぎていくことに気を尖らせています。
よく言われるような「楽しみや趣味は引退後に」という考えにはどうしてもなじめません。

十数年前に亡くなった私の父方の祖父の享年は95歳でした。一方、父方の祖母は十年ほど前に亡くなりましたが、100歳を超えていました。
つまり、父方は長命の家系のようです。
そして、私の年齢は祖父の享年の半分に達しました。

長命だった祖父母の年齢を考えると、私の年齢など若造に過ぎません。
実際、わたしの人格、実績、教養、知識は、わたしが自分にそうあれかし、と思うレベルに比べて、百分の一にも達していません。
焦っています。危機感を感じています。

なぜ私がそういう価値観を抱くようになったか。
それは老いてゆく両親を見ているからです。
私が子供の頃、エネルギッシュにあちこちへと連れて行ってくれた両親。
ところが、寄る年波には勝てません。
体力がついていかず、気力もそれにつれて衰える。
その様子を帰省するたびに感じています。

47才の誕生日の翌日、出張もあって、甲子園の実家に帰りました。
母が4/2に結構大きな手術を受け、そのお見舞いが出来たのはよかったです。
5カ月ぶりに会う母は、ひと回りだけ小さく見えました。

わたしの両親は、まだ大量の読書を続けているから、気力はまだあるでしょう。ですが、かつてを知る私からすれば、老いた両親を見るのは寂しい。

6/6は両親の結婚記念日です。ちょうど二年後に生まれたのが私。
あと一年で両親は金婚式を迎えます。
そんな49回目の結婚記念日に、両親が長らく飼っていたモルモットのレオンが亡くなったそうです。これも何かの縁かもしれません。

最近は連日、コロナによる死のニュースが報じられています。慣れから、統計上の数字に過ぎなくなっていることは否めません。
ですが、死は必ずやってきます。一という数字を伴って。一とは自分自身の死です。

おとといの誕生日、妻にシェリー・ケーガンの「「死」とはなにか」を買ってもらいました。
ただ、その本に救いを求めたところで、死とは何か、生とは何かを私が悟ることはないでしょう。
一つだけ言えることは、老いた自分が今の自分と同じか分からない、ということです。

祖父の年齢まで生きたとして、あと47年。そのうちの何年、健康でいられるか。
ひょっとしたら数日後に不慮の事故で亡くなるかもしれません。
それがわからない以上、私は自分に授かった生の喜びを全力でまっとうしようと思うのです。
いまや、老いてから好きなことをする、という人生プランすら、コロナによって無意味にされようとしているのですから。

47歳を迎え、実家へ帰省する。
このイベントは私の危機感を再び高めました。そして、人生の後半を生きる気力を湧かせました。
そこには、私の同年代に元気が感じられず、挑戦の心が失われつつあることへの反発もあります。

引退後を待たず、今のうちからしたいことをする。これが私の人生訓です。
仕事も遊びも。
行くべき場所、読むべき本、達すべき仕事の目標、果たすべき社会貢献、見るべき映画。
家族や両親を元気にし、両親も連れて海外へと。
私がやるべきことは多い。

47歳は私にとっては老いの年齢です。が、老いている場合ではありません。
これからもフルパワーで動くつもりです。
娘が幼稚園の頃、おじいちゃんおばあちゃんのために書いたリンゴ。このリンゴのように豊かな人生を目指して。

今、これをアップしながら、私の眼前には、私が四年間を過ごした大学や、地震の後に一年半住んだ家が見えています。それだけでなく、私があちこちをさまよった大阪の北部が一望のもとに。私の迷いの日々をこうやって眺めると、若い頃の迷いも遠くなり、しかも迷っておいてよかったと思えます。

最後にSNSで、お祝いの言葉をくださった皆様。ありがとうございました。


コロナをSDG’sの実現に活かすために。



コロナウィルスが世界を席巻して三カ月弱。
我が国でも4/7に発令された緊急事態宣言が50日弱で解除され、コロナに翻弄され続けた日々に終わりが見えています。

とはいえ、世界にはまだ流行が盛んな地域や、これから拡大が予期される国もあります。コロナの第二波、第三波が来た場合、後の流行の方が甚大な被害を出した二十世紀初頭のスペイン風邪の例もあります。

技術の進展が人々のライフスタイルを変えることは間違いない。
そうした予測は、随分以前から数多くの識者によってとなえられていました。
ところが、コロナの流行は変化のスピードを急激かつ広範に速めてしまいました。

何よりも、コロナは35万人を超える尊い命を奪ってしまいました。
亡くなられた方には謹んで哀悼の意を表したいと思います。
また、業種によっては耐えがたいストレスにさらされた方も多かったでしょう。

そうした犠牲を今後に活かすにはどうすべきか。
私たちは真剣に考えなければなりません。
このタイミングで起こったコロナをどのように教訓にし、後世に伝えるべきか。

もちろん、医療の体制や研究は進めるべきでしょう。行政の手続きや情報体制にも見直すべき課題は多いはず。
でも、もっと根本の部分で見直せる論点があると思うのです。
その論点とは、人口密度の高さです。
今、空間と時間の二つで人口密度が限界まで近づいています。

空間とは、具体的にいうと東京一極集中です。
総務省統計局のサイト
時間とは、具体的にいうと平日朝夕の混雑です。
国土地理院
それらの混雑が解消されない限り、コロナのようなリスクはいつまでも人類を苦しめることでしょう。これは日本だけでなく世界にも同じことが言えます。
この解消が急務です。

今回、緊急事態宣言が解除されたことによって、朝夕のラッシュが復活しているとの話もあります。休日に観光地に人混みが復活するのでは、という予測も出されています。
リモートワークの流れに抗うように、元のワークスタイルを貫こうとする会社。これはいけません。
物理的にリモートワークが難しい業種は仕方ないでしょう。ですが、リモートワークができる職種でありながら、社内制度や慣習を理由として朝夕の出社を義務付けることは、人口密度をいつまでも高く保ち続け、リスクの元凶であり続けるに違いありません。

リモートワークの推進により、時間の拘束から自由になれます。
例えば打ち合わせがある時だけ11時に出社して、それが終われば昼を同僚と食べ、二時に帰宅するなど。
そうすれば朝夕のラッシュは分散されることでしょう。
なおかつ、都心の飲食業や鉄道事業者に与える影響も抑えられます。

また、リモートワークは場所の拘束からも自由になれます。
地方でも仕事ができればわざわざ混雑した東京で働く必要はありません。
地方の活性化につながります。

そうした流れを読み、今後もリモートワークを続けると宣言する企業も増えています。大手企業ですら。もはや変化の流れは確定的ともいえます。

コロナが引き起こした変化の流れに乗るだけではなく、そのスピードを利用して、さらに人類の今後に向けて加速する。
今はそのチャンスと言えるのではないでしょうか。

人類の今後とは、SDG‘sの一語で言い表せます。
持続可能な開発目標。
コロナが発生する前から唱えられていた言葉ですが、コロナ前はSDG’sへの進みは遅々としていました。
ところがコロナによって経済活動が停滞したことで、環境が改善したとの報告が挙がっています。
Natureの記事(英語)

皮肉にも、コロナが経済の流れを止めたことで環境が改善し、SDG‘sの目標に近づいた。
この現実を認めることは、快適な生活を享受する私たちにはつらい。
ですが、そうした経済の果実とそれを産み出す人類の活動が環境に悪い影響を与えていたと結論づけるしかありません。

「経済を回さないと」
コロナの間、一体何度、この言葉を口にし、耳にしたでしょう。
今の世界は資本主義で回っています。そして人類はいまだに資本主義に変わる社会体制を見つけ出せていません。

私も経営者の端くれである以上、自粛による経済活動の停滞は座視できません。
同時に、コロナによる直接の生命の危機と金回りの停滞による間接の生命の危機。どちらかを選ぶこともできません。

とあれば、今私たちにできることは限られてきます。
その一つこそ、リモートワークによる人口密度の分散です。
人口密度が分散すれば、集中による環境への負荷も軽減でき、しかもある程度の経済活動も維持できます。なおかつ、新たなるウィルスの危機からもある程度は身を守れるのではないでしょうか。

なおかつ、それはSDG‘sの実現に向けた大きな寄与にもなるはずです。

もちろん、リモートワークと言っても簡単ではありません。
なぜ企業の多くがリモートワークに及び腰かというと、統制や社風や生産性が守れなくなる恐れがあるからでしょう。
そこには信頼の欠如が大きな理由となってはびこっています。

社員をどこまで信頼できるか。
それは、どの企業にも突きつけられた大きな課題であると同時に、従業員にとっても課題となっています。
統制がない中、どこまで自主的に自律的に成果を出すか。
この自己コントロールがリモートワークの鍵だと思います。
自己コントロールが出来ない労働者が一定の割合でいる以上、企業もリモートワークには踏み切れないはずです。
全ての労働者にも意識の改革が迫られています。

他にも実際のオフィスにあってリモートワークにはない長所はいろいろとあります。
たとえば雑談の効用。雑談がないことは、リモートワークにとっては、統制の欠如よりも大きな課題といえます。
ただ、雑談は無数にあるチャットツールや進捗ツールを使えば、解消できそうです。
そうしたツールの導入や、意識改善に向け、企業側にも研究の余地は多いでしょう。
まだまだ労使双方にやるべきことは多いと思います。

リモートワークを導入しなければ仕事すら覚束なくなる。
コロナは私たちにとても大きな変化と課題を突きつけました。
だからこそ、制度が整うまで、といった悠長なことは言ってられません。まず一歩踏み出す必要があるのです。
その踏み出した足は、最初の数歩はよろめくことでしょう。混乱もあることでしょう。
それでも長く歩いていれば、次第に歩調は整ってゆくのです。赤ちゃんが歩み始めた頃のように。

私たちにできることは、コロナによって一歩後退を強いられたとしても、それを逆手にとって大いなる二歩の前進を成し遂げることだと思います。
私たちは経済を回すことだけでなく、SDG’sのことも視野に含めなければならないのですから。

弊社もリモートワークの実現のため、SDG’sの実現のため、少しでもお手伝いできればと思います。


世界が音楽で熱くなった頃-The Beatles


中国の武漢から発生したコロナウィルスが世界を止めてほぼ一カ月。
私たちは今、人類の歴史の中でも有数の事件のまっただなかにあります。

コロナウィルスに翻弄される今を、第二次世界大戦以来の危機とたとえる人もいます。
ここまで世界中に影響を与えた事件が他に思い浮かばないことを考えると、この例えもあながち間違っていないと思います。

私は家で過ごす時間が増えたため、その時間を生かし、二十世紀を振り返る年表に目を通しました。
年表の中には、数え切れないほどの事件が載っており、激動の時代を如実に表しています。

私は年表を眺めるうちに、世界中に影響を与えた事件の多くが、良くない出来事で占められていることに気づきました。
良いとされる出来事も、実は苦しみからの復活に過ぎないことがほとんどのようです。既存の差別からの解放や災害や戦災からの回復という意味で。

世界的に明るさをもたらした出来事を数えると、万博、五輪、W杯などの定期的に催されるイベントが目立ちます。それらを除けば、アポロ11号による月面着陸ぐらいでしょうか。

そんな中、目についたのはビートルマニアの存在です。
彼女、彼たちが熱狂した対象。それはThe Beatles。言わずと知れた世界を熱狂させた四人組のロック・バンドです。
その熱狂は全世界を席巻し、20世期の年表の中にはまず間違いなく掲載されています。
悲劇で塗りつぶされた世界の歴史の中にあってまぶしく光りつづけている、それがThe Beatles。

今、止まってしまっている世界。
それに比べ、かつて世界を熱くさせた彼らの実績は色あせていません。
1969年のウッドストックまで、ロックとは人々にとって自由と希望の象徴でした。その流れに乗ったのがThe Beatlesでした。時代の空気が彼らの絶大な人気の源泉だったことは言うまでもありません。

私はこの二日間、The Beatlesが残した全てのアルバムを聴き直しました。そして、あらためて彼らの残した音楽の素晴らしさに聞き惚れました。

彼らが巻き起こした旋風のすさまじさは、今さら振り返るまでもないでしょう。
それよりも、私が全てのアルバムを聴き直して思ったのは、彼らの音楽から感じられるエナジーです。
50年前に解散したグループとは思えない創意工夫とエネルギー。
初期の音源こそ、古びて聴こえるのは否めません。ですが、後期の作品からは今なお新鮮さすら感じられます。
何よりも、メロディーが普遍的なメッセージとなり、英語のわからぬ私の耳になじんできます。

音楽が世界をつなぐ、との使い古されたスローガン。
彼らの音楽からは、そうしたスローガンを具現する力がまだ放たれているようです。
そして、世界が動きを止めた今こそ、そうした音楽の力が求められている。そう思うのは私だけでしょうか。

ロックン・ロールが生まれて65年。以来、あらゆるジャンルの音楽が生まれ、消費されてきました。
さらに、LP盤からCD、そしてストリーミングへ。音楽の消費も形を変えてきました。
そうした変化の波は、あまたの曲を生み出してきました。
その結果、残されたメロディーも枯渇しつつあるように思えます。
私は最近の曲もなるべく聴くようにしています。ですが、斬新かつ耳になじむメロディーにはなかなか出会えません。
それは、俗説にある通り、私の耳が老化しているからなのでしょうか。

とはいえ、今の音楽が50年前とは変わってしまっており、それらの変革がThe Beatlesから始まったことに異論はありますまい。

そんな今だからこそ、彼らの残した音楽を味わってみるべきだと思ったのです。
世界的な出来事に不慣れな1973年生まれの世代として。
彼らが解散して50年が過ぎた節目の年にこうした奇禍に襲われたことをきっかけとして。

The Beatlesが活動した1962年から1970年までの年月とは、世界中で学生運動など、変革を求める嵐が吹き荒れた時期と重なっています。
そうした嵐の象徴として彼らがいた。

今、世界は動きを止めています。
ですが、いずれ世界は再び動き出すことでしょう。
その時、何か巨大で革新的なムーヴメントが世界を席巻し始めるような気がしてなりません。60年近く前にThe Beatlesが巻き起こしたような何かが。

今回のコロナにより、政治、社会、経済、文化などが大きく揺さぶられています。コロナウィルスが地球史の年表の中で大きくページを占めることは間違いないでしょう。
ただ、おそらくコロナが明けた世界からは、CO2の濃度が減って大気がクリアになったように、既存の価値観も除去されてクリアになっているはずです。
働き方、移民、科学技術、経済体制。リモートワークが市民権を得、通勤という習慣が廃れるばかりか、さらに大きな変革にさらされることは間違いないと思った方が良さそうです。
さしずめ、二十世紀の年表の中で苦難からの回復が重要な出来事として刻まれているように。

何がどう変わろうとしているのか。
何が生まれようとしているのか。
私にはまだ見えていません。

ですが、彼らの音楽には、50年前に世界を動かしたうねりの余韻が感じられるのです。私は、彼らの音楽をききながら、ばく然とした未来への期待に身を委ねていました。
再び彼らが起こしたのと同じぐらいの規模で、人類が熱狂するような何かが起こる期待に。

もちろん、私も弊社もその何かが起こった際には、微力でも協力したいと思っています。

最後に213曲あると言われる彼らの曲の中から、私が好きな20曲を選んで以下に載せています。上から順に好きな曲を並べましたが、私の好みなど、時が過ぎれば違ってゆくはず。このリストも違う順番に変わっているでしょう。

ですが、リストに挙げたうちの一曲「Here Comes The Sun」の歌詞が示すメッセージは変わらないはず。

Here comes the sun
Here comes the sun, and I say
It’s all right

きっと世界はコロナを克服し、太陽がまた昇るに違いないと信じてこの曲を口ずさもうと思います。

20曲のリストです。
Here, There And Everywhere
Strawberry Fields Forever
Come Together
Please Please Me
All My Loving
Let It Be
Here Comes The Sun
Hey Jude
Good Day Sunshine
Yesterday
When I’m Sixty-Four
While My Guitar Gentry Weeps
Michelle
If I Fell
Girl
Helter Skelter
A Day In The Life
Octopus’s Garden
Two Of Us
In My Life


アクアビット航海記-リモートワークの効用


「アクアビット航海記」の冒頭では十回分の連載を使い、起業の長所と短所を述べました。
本稿ではその長所となる自由な働き方を実現する上で欠かせない基盤となるリモートワークについて語りたいと思います。

そもそも、私自身の「起業」に最大のモチベーションとなったのは、ラッシュアワーが嫌だったためです。
ラッシュアワーに巻き込まれたくない。巻き込まれないためにはどうするか。嫌なことから逃れる方法だけを考え続けて今のスタイルに落ち着いた、というのが実際です。

では、ラッシュアワーはなぜ起きるのでしょう。
それは周辺都市に住んでいる労働者が、首都に集まった職場に通うためです。
リモートワークやテレワークなどという言葉がなかった時期、人々は一つ所に通い、そこで顔を突き合わせながら働くしかありませんでした。
そうしなければ仕事の資料もありません。指示すら受けられません。そして雇う側も管理するすべがないのです。
そのため、一カ所に集まって仕事をするのが通念となっていました。

今、情報技術の進化によって、リモートワークが当たり前になりつつあります。リモートワークによって、ラッシュアワーからはおさらばできるのです!

ただし、それには条件があります。その条件とは、置かれた立場の違いによって変わります。
大きく分けて、雇われているか、そうでないか、の違いです。

まず、あなたが雇われているか、契約によってどこかに通う条件に縛られているとします。
雇用契約を結んでいる場合は、雇い主の人事発令に応じた部署で働くことが前提です。
その企業の人事制度が自由な働き方を認めている場合は、喜び勇んでその制度の恩恵にあずかればよいでしょう。
そうでない場合は、まずリモートワークを認めてもらうための運動を始めなければなりません。

おそらく、その企業にはそれまでの慣習があるでしょうから、リモートワークを見越した業務の設計がなされていません。
リモートワークを申請しようにも、体制が整っていないから無理、と却下されるの関の山でしょう。
その体制を上司や別の部署を巻き込んで変えてもらう必要が生じます。おそらくは大変で面倒な作業となることでしょう。
それをやりぬくには、あなたの日ごろの業務への姿勢と、あなたが扱う情報の性質にかかっています。
上司の理解と信頼、という二つの味方が支えてくれていれば、決して不可能ではないはずです。

もう一つの立場とは、個人事業主か経営者の場合です。この場合、上司はいません。あなたの意思が組織の意思です。リモートワークまでの障壁は低いはずです。
ただし、顧客先との契約によってはリモートワークが無理なこともあります。契約に特定の場所で作業することが定められている場合、リモートワークはできません。
そうしたケースは情報処理業界の場合によく見られます。
常駐でなければならない理由は、情報漏洩のリスクです。ハッキングのリスクもさることながら、監視がゆるいため、モラルがない故意に情報をさせてしまうのです。
また、情報処理業界といってもまだまだ対面による打ち合わせが主流です。そして、進捗管理や仕様の伝達に手間がかかります。そうした手間がリモートワークの普及を妨げています。

しかし、それらもリモートワークのためのツールは多く存在しています。実際は、組織や企業の考え方次第で、リモートワークの導入は進むはずです。
また、労働者の側でも意識を変える必要があることは、言うまでもありません。

ここでは、労働者として、私自身がどういうことに心がけてきたかを述べたいと思います。

・連絡をこまめに。
リモートワークは、相手の顔が見えません。だから発注側はお願いした仕事がきちんと納品されるのか不安です。だからこそ、こまめな連絡は必須です。
初めて出会った方は、こちらの人物をまだよく知りません。私の場合、さまざまなイベントで出会った方にはメールで丁寧なメールを返すことを心がけています。
最初はメールで、そのうちに徐々にチャットツールでの連絡に導きます。その方がメールよりも簡略に連絡ができるからです。電話もよいのですが、やりとりが後に残りません。また、電話は相手に準備の時間を与えないため、チャットツールをお薦めします。
ただし、連絡をもらったら返信は即座に。原則として受け取ったボールは相手に預けるようにしましょう。

・コンプライアンス意識
リモートワークは信頼がなければ成り立ちません。
情報を意図して漏洩させることは論外ですし、ミスも起こさないように気をつけたいものです。
その意味でもメールではなくチャットツールは有用です。添付ファイルは後でも取り消せますし、暗号化通信が基本です。堅牢な防御体制をクラウド事業者に任せてしまうのです。もし、印刷して紙の情報に頼ってしまう癖があるのなら、あらためた方が良いです。

・リモート端末の操作に通じる
リモートワークである以上、ノートパソコンは欠かせません。タブレットやスマートフォンは連絡程度であれば可能ですが、業務や作業にはまだまだ不向きです。
また、最近は有線LANが張りめぐらされている光景もあまり見なくなりました。ほとんどがWi-Fi接続による無線LANです。だから、お使いの端末にWi-Fiアダプタがあるか、また、出先でもWi-Fiのアクセスポイントをうまく拾う方法をチェックしておきましょう。
キャリアや鉄道会社、コワーキングスペースが提供しているWi-Fiが安全です。コンビニのものも連絡程度ならよいでしょう。
また、電源の確保も重要なので、どう言った場所に電源があるのか、チェーン別に把握しておくことは大事です。モバイルバッテリーの準備も検討してよいですね。
また、ブラインドタッチに慣れてしまうと、タブレットやスマホで文字入力がやりにくく能率が落ちます。フリック入力などもマスターしておくべきでしょうね。

・移動中はスマホやタブレットの操作に十分注意する。
これは最近、鉄道会社のマナー啓発キャンペーンでも良く登場します。実際に操作しながら移動するあなたは動く凶器です。
なので操作と移動はきっちりメリハリをつけた方が良いです。
そもそも、せっかくリモートワークを行なっているのですから、もっと外の景色を楽しみましょうよ。外の景色から刺激を受けることは、あなたの生産性の向上にもきっと寄与してくれるはずです。


福島県お試しテレワークツアー


今回の「福島県お試しテレワークツアー」の募集要項を読み、三年前の思い出が蘇りました。
その時に感じた郡山の皆さんの温かみ、そして復興への想い。その経験は私に地方への目を開かせてくれました。
それ以来、機会があるごとに、福島にできることは何かを考えていました。なので今回のお誘いも、すぐに参加を申し込みました。
https://www.facebook.com/191888961588176/posts/575688259874909

初日(1/16)、郡山で集合した私たちは、今回のツアーを主催する株式会社LIFULLの内田さんの運転で、co-ba koriyamaへと向かいました。
ここは三年前、kintone Café 福島Vol.1が開催され、私が登壇した場所です。
運営されている三部さんからは、co-ba koriyamaのご紹介と、取り組みのご説明を行っていただきました。
今後も農業経営のセミナーや、エストニアの動向の報告会、シェアリング・エコノミーを紹介するイベントなど、面白そうなイベントが開催されるようです。
前回にも感じたco-ba koriyamaの存在感と役割がさらに強く広がり、今の郡山の商業をつなぐハブとなっていることが感じられました。うれしいですね。
https://co-ba.net/koriyama/

続いてはランチトーク「⼆拠点ワーカーの実践者の話を聞こう」です。
普段、co-ba koriyamaを拠点にされている株式会社フリクシーの片岡さんは、実際に二拠点ワークを実践されている技術者です。しかも、株式会社フリクシーさんは医療系のアプリ開発を主な業務とされていらっしゃるとか。
https://www.flixy.co/

医療情報ガイドラインが用意されているとおり、医療情報には機微な内容が含まれます。そのため、まだまだクラウドへの取り組みが遅れている分野です。ネットワークでつながり、クラウドを利用されていても、開発は都心の開発センターでまかなわれている事が多いようです。
ですから、片岡さんのワークスタイルは相当に先進的ではないかと思います。郡山に住むと、首都圏で住むのに比べ生活のレベルが向上することは自明です。そうした実感を語る片岡さんの目は輝いておられました。
私もとても興味をもってお話を伺わせていただきました。たけやさんのお弁当をおいしく頬張りながら。

さて、テレワークを行うには無線LANが欠かせません。なのでタブレットやPCなどはWi-Fi対応が当然です。
ところが、私のノートPCはco-ba koriyamaのステルスSSIDがうまく拾えませんでした。タブレットは速攻でつながってくれたのに。
なので、テレワークをされる方はステルスSSIDもきちんと取れるようにしておいたほうがよいです。
ちなみに私がco-ba koriyamaで挙げた成果は以下の通り。
  ・弊社サイトのSSL化に欠かせない証明書取得のための仕様調査
  ・多数のお客様とのやりとり
  ・Zenrin APIとkintoneの連携の調査
合間には三年前にお世話になった方が二人、私に会いにco-ba koriyamaまで足を運んでくださり、旧交を温められました。ありがたいことです。うれしかった。

18時になり、内田さんの運転で向かったのは磐梯町。まずはLIFULLさんが運営されているLivingAnywhere Commons会津磐梯へ。
ここはとても立派で、仕事にも旅にも住めそうな施設でした。
今は伊豆下田と会津磐梯の二カ所が開設されていますが、今後、全国にLivingAnywhere Commonsのブランドで展開を予定されているようです。私も加入を検討したいと思いました。
https://livinganywherecommons.com

LivingAnywhere Commonsでは福島県の地域振興課の橋本さんと中根さん、さらにお隣の猪苗代町で株式会社アウレを経営されている遠藤さんと石川さんがお出迎えしてくださいました。
ここであらためて、皆さんと仕事を忘れて語らいの場を。

大きなお鍋に盛られた「ちゃんこ やぐら太鼓」さんのちゃんこ鍋と、地元の銘酒七重郎の純米大吟醸と会津ほまれの純米大吟醸。そしてビールのどれもが旅人のこころと初対面のぎこちなさをほぐしてくれます。
https://retty.me/area/PRE07/ARE235/SUB23501/100000362314/
こういう場を設けていただいたことに本当に感謝です。福島を何とか盛り上げたいという気持ちが伝わってきますし、私もなんとかしたいという思いが募ります。
福島県の地域振興課ではさまざまな機会を用意しているそうです。これを見逃すのはもったいない。
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11025b/

続いて私たちは、猪苗代町の道の旅籠「椿」へ。こちらが今回、二泊お世話になる宿です。
ゲストハウスには泊まらせていただいた経験がありますが、この椿さんもまた居心地がよく、良い時間を過ごさせていただきました。少々お酒をたしなみすぎましたが・・・・
https://hatago-tsubaki.net/

二日目(1/17)、ご用意いただいた朝ごはんをいただき、まず向かったのは猪苗代町のアスパラ邸。
ここは遊休不動産活用事業のケースとして、コワーキングが可能なように民家をリノベーションした施設です。とてもすっきりとした邸内は仕事にうってつけの様に思えます。
私はアスパラ邸でも作業してみたかったのですが、今回はスケジュールの都合でここでの作業は行いませんでした。
https://m.facebook.com/events/2369790489957237

続いて向かったのは、集まりいなです。
「こどもたちのサードプレイス」と銘打たれたこちら、現在進行形で施設の拡充が進んでいる様子。
今回のツアーの参加者にはお子さんもいましたが、熱心にロボットを組み立てている様子が印象的でした。そして見事に動かしていたことに感心しました。
https://atsumarina.jp/

集まりいなのWi-Fiと私のノートPCは無事につながったので、さまざまな作業が進められました。
  ・前夜、遠隔ミーティングを開きたいとのご要望をいただき、zoomを使って首都圏の方と打ち合わせ
  ・Zenrin APIとkintoneの連携の実装完了
  ・某kintone案件の項目および画面設計(ほぼ完了)

合間には猪苗代町のまるいち食堂でソースカツ丼をいただきました。うまい!!!

お昼を食べた後、LivingAnywhere Commonsと集まりいなの二カ所に分かれて作業することになりました。
私は前者にも惹かれましたが、作業に集中できそうだったので、そのまま後者にとどまりました。
その決断が吉と出たのか、上に挙げたタスクは13:30にはほぼ完了しました。
いくらワーケーションやテレワークといっても、遊んでばかりだと能率が落ちます。
仕事と遊びの両立を行うには、集中力が肝心だと思います。
そうした私のモットーを実証するのに、co-ba koriyamaと集まりいなで集中できた事は、会心の事例となりました。

タスクに一区切りをつけられたことで、猪苗代の街へ散策にでました。
猪苗代駅、猪苗代町観光案内所、猪苗代町役場、猪苗代城を1時間半で巡り、見聞を広めました。そこで感じたことについては、稿をあらためたいと思います。
ただ一つだけ書いておくべきなのは、雪不足で苦しむ猪苗代駅前の閑散とした様子でした。
鉄道が地域交通の主役の座から降りて久しいとはいえ、その様子は、何とかしたいと思わせるに十分でした。

さて、3時過ぎになって合流した私たちが向かったのは、車で三十分ほど離れた中ノ沢温泉の花見屋旅館です。
広大な露天風呂につかり、ボーッとする。これぞ旅のだいご味です。

しかもこの温泉郷は見覚えがあると思ったら、三年前に一人で訪れた達沢不動滝の道中に通っていました。当時はこんなに素晴らしい温泉郷だとは全く気付かずにいました。
豊かな温泉が周囲に点在していることも首都圏ではなかなか味わえない旅の喜びではないでしょうか。

十分に英気を養ったところで、再び道の旅籠「椿」へ。
遠藤さんが猪苗代の夜をご案内してくださるというので、喜び勇んで散策に出かけました。
かつては映画館を擁する繁華街があったそうですが、今は残念なことにそれほどの賑わいは感じられません。
それでも、歴史の重みは感じられます。
  ・郷土の誇り野口英世氏のゆかりの地が点在しています。
  ・松平会津藩祖の保科正之公が眠り、祀られている土津神社(今回、とうとう行かれませんでした)。
  ・伊達軍と蘆名軍がかつて矛を交えた摺上原の戦いもこのあたりが舞台です。
猪苗代町は歴史が好きな方にとって、魅力的なアピールがまだまだ可能だと確信しました。

私たちが訪れたのは「すし割烹 はなまる」さん。
ここでも会津の豊かな農産物や銘酒を心行くまで堪能し、会話に花をまるっと咲かせました。
https://www.inawashiro-hanamaru.jp/

私は、この機会に遠藤さんに猪苗代で住む利点やきっかけや、今の状況などを失礼も顧みず質問しました。
遠藤さんが猪苗代で仕事をしようと思った動機は、
・海外か福島か、今後の身の振り方を考えたとき、地震後の被害に苦しむ福島のためになりたい。
・郡山や会津若松にはない磐梯山の雄大な景色に惹かれた。
・行政の中心福島、商業の中心郡山、ITの中心会津のどこにもアクセスしやすい場所に猪苗代が位置している。
・東京はプレイヤーが多く、やれることが限られている。猪苗代には一人ひとりにやるべき責任ややりがいが多い。
どれもがとても有意義な示唆でした。私にとって移住も視野に入れた情報としてとても参考になりました。
遠藤さんが経営する株式会社アウレさんのサイトはこちら。https://awre.co.jp/

道の旅籠「椿」に戻ってからも、日本酒を相当飲ませていただきました。酒どころ福島を旅する幸せを五臓六腑で味わい尽した二泊でした。
仕事と旅と飲食のどれもに満足できる。これぞワーケーションの妙味ではないでしょうか。

三日目(1/18)、朝ごはんをいただいた後、お世話になった「椿」のオーナーに別れを告げます。ありがとうございました。
続いて私たちが向かったのは「はじまりの美術館」。あいにく、美術館は閉館していましたが、猪苗代の周辺の風景に溶け込んだ外観にとても好感が持てました。
http://www.hajimari-ac.com/

猪苗代の街は、アートの街でもあります。夜の散策でも町のあちこちにアートが点在しています。
これらのアートはドイツをベースに活動するアーティストのTONAさんに猪苗代青年会議所さんが依頼したもののようです。
https://www.instagram.com/tona_one/

こうした活動が、街並みに活気を与えています。こうしたアートを巡るだけでも猪苗代は楽しめそうです。
猪苗代青年会議所には遠藤さんと石川さんも関わっていて、今後の活動が楽しみです。
https://www.facebook.com/647jc/

今回私たちがお世話になった稲川酒造さんを訪れた後、続いて向かったのは雪下野菜の収穫体験です。
会津猪苗代激甘フルーツ雪下キャベツ-猪苗代キャベツ研究会という名前で雪下野菜の栽培と普及を行っていらっしゃる深谷さんと古川さんにご案内いただき、キャベツ畑へ。

その前にご自宅でご用意してもらった長靴に履き替えながら、農家の風情にひたりました。飾られたアンコールワットの拓本が見事で、ネコちゃんやワンちゃんの人懐っこさとともに皆さんの心の温かさが感じられます。
去年も会津若松で会津伝統野菜や無農薬栽培に取り組む方のご自宅にお邪魔させていただきましたが、農家のたたずまいは東京では味わえないゆとりに満ちています。

雪下野菜のキャベツは、本来なら1メートルにもなる積雪の下で甘味を蓄え、収穫されます。
ところがニュースにもなった通り、今年の異常な暖冬は猪苗代にも影響を及ぼし、キャベツ畑に雪はまったく見られません。
ところが、収穫を体験させてもらい、その場でかじったキャベツの甘いこと!
凍って固い歯応えが、口の中で溶けて広がって甘みへと変化します。
雪の下に育つ野菜は徐々に雪の中で甘味を失うそうです。だから、雪の下にあっても甘味を失わないため、甘味に富んだ品種を植えるのだとか。そんな甘みの糖分がキャベツの体内を巡っているため、生命と甘みは維持される。私たちが口にしたキャベツはまさに甘みの結晶でした。
そうした説明を聞くにつけ、植物のたくましさと、それを活かす農家さんの英知が感じられます。そして農業とはつくづく奥深いものだという感慨も。

聞けば雪下野菜は首都圏には出荷されておらず、農協も通らずに直接地元のスーパーに下ろしているとのこと。産地ならではの貴重な体験をさせていただきました。
そして、雪下野菜を育てているのに雪下野菜を名乗れないこの冬の異常。そんな切実な危機感を感じたのも今回の旅の経験として残ることでしょう。

お花や野菜などを栽培しつつ、会津の未来に思いをはせる。お二方の取り組みは今後も応援させていただきたいですね。
会津猪苗代激甘フルーツ雪下キャベツ-猪苗代キャベツ研究会さんのページhttps://m.facebook.com/cabbaken/

そこからいよいよ猪苗代駅へ。ここで内田さんとはお別れです。
運転やアテンドなど、内田さんにはとてもお世話になりました。本当に感謝です。
飲んべえが集ってしまい、さぞ大変だったことでしょう。
https://lifull.com/

郡山へ向かう皆さんとは逆に、私は会津若松へ。
街並みを歩き、飯盛山を訪れ、会津若松への見聞を深めました。が、その内容はまた別の記事に譲りたいと思います。

この旅でご縁をいただいたあらゆる方に感謝です!

Twitterまとめ


ラグビーワールドカップがくれたもの


ラグビーワールドカップが南アフリカの優勝で幕を閉じましたね。
開幕戦から優勝戦まで、ほんとうにたくさんの感動をもらえました。選手の皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。

私は、多くの人たちと同じくラグビーのにわかファンです。
ジャパン・ラグビー・トップリーグは六~七年前に秩父宮で一度だけ観戦したきり。前回のイングランド大会で南アフリカを破ったブライトンの奇跡でラグビーの面白さに目覚め、その直後にさいたまブリティッシュ・フェアで日本大会を告知するブースをみて、寄せ書きを書くほど盛り上がったにもかかわらず、結局それ以降、ジャパン・ラグビー・トップリーグも見ることなく、今回の大会のチケットも購入しませんでした。
しょせんは私もにわかだった、ということでしょう。

でも、にわかでもいいと思うのです。
誰でも最初はにわか。これから好きになればよいのです。にわかを恥じることもなければ、揶揄されるいわれもありません。

今回のラグビーの何が良かったって、多様性を実現しながら、日本の良さを体現していたからでしょうね。
それは多くのブログや記事でも指摘されていたから、詳しくは繰り返しますまい。
多国籍でありながら君が代をうたい、献身的なプレイで組織の力を見せつけてくれた。その姿は、今の閉塞する日本をうちやぶる可能性に満ちていました。
だからこそこれだけ国民が熱狂したのでしょう。

これからの日本は移民に頼らなければ立ちいかなくなる。これは明らかです。
もう、今の出生率では日本の国力が高度経済成長期のような発展を見込むことは無理でしょう。技術によって生産性が上がったとしても、既存の経済理論が需給の活性化に依拠しているからです。
どうやって移民を受け入れ、しかも日本の良さを維持するのか。そのヒントをラグビー日本代表「ブレイブ・ブロッサムズ」は与えてくれました。

ヘッド・コーチとコーチは試合中、スタンドから指示をだすだけ。事前の練習やフォーメーションを決めるだけで、実業務は現場の判断に任せる。
そして、15人の選手はキャプテンも含めて全てフラット。等しく走り、汗を流す。ポジションによって役割はあるけれど、そこに上下はなく、皆が目的に向けて奉仕する。

思うに今のわが国は、階層を分けすぎたのでしょう。いわゆる大企業病というやつです。
そこから脱し、再び日本に活力を与えるためには、ブレイブ・ブロッサムズの姿を参考にするのが良いはずです。
多様性をもったメンバーが一つの目的のために集まる。
上下関係をなくし、フラットに目的にまい進する。
そして経営層は過度に現場に介入しない。スタンドから指示を出すようにITを活かしてリモートで指示を出す。

今回のラグビーは競技としての感動だけでなく、組織のあるべき姿に多大なヒントを与えてくれました。
私を含めたにわかファンは、ジャパン・ラグビー・トップリーグの試合に足を運ぶべきです。私もがんばって試合を見くようにします。今回、やっぱりチケット買えばよかったーと後悔したので。
きっと個人としての生き方、組織の中での生き方にヒントをもらえるはずだから。


74回目の終戦記念日に思う


74回目の8/15である今日は、今上天皇になって初めての終戦記念日です。令和から見たあの夏はさらに遠ざかっていきつつあります。一世一元の制が定められた今、昭和との間に平成が挟まったことで、74年という数字以上に隔世の感が増したように思います。

ところが、それだけの年月を隔てた今、お隣の韓国との関係は戦後の数十年で最悪の状況に陥っています。あの時に受けた仕打ちは決して忘れまい、恨みの火を絶やすなかれ、と燃料をくべるように文大統領は反日の姿勢を明確にし続けています。とても残念であり、強いもどかしさを感じます。

私は外交の専門家でも国際法の専門家でもありません。ましてや歴史の専門家でもありません。今の日韓関係について、あまたのオピニオン誌や新聞やブログで専門家たちが語っている内容に比べると、素人である私が以下に書く内容は、吹けば飛ぶような塵にすぎません。

私の知識は足りない。それを認めた上でもなお、一市民に過ぎない私の想いと姿勢は世の中に書いておきたい。そう思ってこの文章をしたためます。

私が言いたいことは大きく分けて三つです。
1.フェイクニュースに振り回されないよう、歴史を学ぶ。
2.人間は過ちを犯す生き物だと達観する。
3.以徳報怨の精神を持つ。

歴史を学ぶ、とはどういうことか。とにかくたくさんの事実を知ることです。もちろん世の中にはプロパガンダを目的とした書がたくさん出回っています。フェイクニュースは言うまでもなく。ですから、なるべく論調の違う出版社や新聞を読むとよいのではないでしょうか。産経新聞、朝日新聞、岩波書店、NHKだけでなく、韓国、中国の各紙の日本版ニュースや、TimesやNewsweekといった諸国の雑誌まで。時にはWikipediaも参照しつつ。

完璧なバランスを保った知識というのはありえません。ですが、あるニュースを見たら、反対側の意見も参照してみる。それだけで、自分の心が盲信に陥る危険からある程度は逃れられるはずです。時代と場所と立場が違えば、考えも違う。加害者には決して被害者の心は分からないし、逆もまたしかり。論壇で生計を立てる方は自分の旗幟を鮮明にしないと飯が食えませんから、一度主張した意見はそうそう収められません。それを踏まえて識者の意見を読んでいけば、バランスの取れた意見が自分の中に保てると思います。

歴史を学んでいくと、人間の犯した過ちが見えてきます。南京大虐殺の犠牲者数の多寡はともかく、旧日本軍が南京で数万人を虐殺したことは否定しにくいでしょう。一方で陸海軍に限らず、異国の民衆を助けようとした日本の軍人がいたことも史実に残されています。国民党軍、共産党軍が、民衆が、ソビエト軍が日本の民衆を虐殺した史実も否定できません。ドレスデンの空襲ではドイツの民衆が何万人も死に、カティンの森では一方的にポーランドの人々が虐殺され、ホロコーストではさらに無数の死がユダヤの民を覆いました。ヒロシマ・ナガサキの原爆で被爆した方々、日本各地の空襲で犠牲になった方の無念はいうまでもありません。中国の方や朝鮮の方、アメリカやソ連の人々の中には人道的な行いをした方もいたし、日本軍の行いによって一生消えない傷を負った方もたくさんいたはず。

歴史を学ぶとは、人類の愚かさと殺戮の歴史を学ぶことです。近代史をひもとくまでもなく、古来からジェノサイドは絶えませんでした。宗教の名の下に人は殺し合いを重ね、無慈悲な君主のさじ加減一つで国や村はいとも簡単に消滅してきました。その都度、数万から数百万の命が不条理に絶たれてきたのです。全ては、人間の愚かさ。そして争いの中で起きた狂気の振る舞いの結果です。こう書いている私だっていざ戦争となり徴兵されれば、軍隊の規律の中で引き金を引くことでしょう。自分の死を逃れるためには、本能で相手を殺すことも躊躇しないかもしれません。私を含め、人間とはしょせん愚かな生き物にすぎないのですから。その刹那の立場に応じて誰がどのように振舞うかなど、制御のしようがありません。いわんや、過去のどの民族だけが良い悪いといったところで、何も解決しません。

それを踏まえると、蒋介石が戦後の日本に対して語ったとされる「以徳報怨 」の精神を顧みることの重みが見えてきます。

「怨みに報いるに徳を以てす」という老子の一節から取られたとされるこの言葉。先日も横浜の伊勢山皇大神宮で蒋介石の顕彰碑に刻まれているのを見ました。一説では、蒋介石が語ったとされるこの言葉も、台湾に追い込まれた国民党が日本を味方につけるために流布されたということです。実際、私が戦後50年目の節目に訪れた台湾では、日本軍の向井少尉と野田少尉が百人斬りを競った有名な新聞記事が掲げられていました。台湾を一周した先々で、人々が示す日本への親しみに触れていただけに、国の姿勢のどこかに戦時中の恨みが脈々と受け継がれていることに、寒々とした矛盾を感じたものです。先日訪れた台湾では、中正紀念堂で蒋介石を顕彰する展示を見学しましたが、そうした矛盾はきれいに拭い去られていました。

でも、出所がどうであれ、「以徳報怨」の言葉が示す精神は、有効だと思うのです。この言葉こそが、今の混沌とした日韓関係を正してくれるのではないでしょうか。人間である以上、お互いが過ちを犯す。日本もかつて韓国に対し、過ちを犯した。一方で韓国も今、ベトナム戦争時に起こしたとされるライダイハン問題が蒸し返され、矛盾を諸外国から指摘されています。結局、恨むだけでは何も解決しない。相手に対してどこまでも謝罪を求め続けても、何度謝られても、個人が被った恨みは永遠に消えないと思うのです。

外交や国際法の観点から、韓国の大法院が下した徴用工判決が妥当なのかどうか、私にはわかりません。でも、日韓基本条約は、当時の朴正熙大統領が下した国と国の判断であったはず。蒋介石と同じく朴正熙も日本への留学経験があり、おそらく「以徳報怨」の精神も持っていたのではないでしょうか。それなのに、未来を向くべき韓国のトップが過去を振り返って全てをぶち壊そうとすることが残念でなりません。そこに北朝鮮の思惑があろうとなかろうと。

戦争で犠牲を強いられた方々の気持ちは尊重すべきですが、国と国の関係においては、もう徳を以て未来を向くべきではないかと思うのです。来年には75年目の終戦記念日を控えています。今年の春に発表された世界保健機関の記事によると女性の平均寿命は74.2年といいます。つまり75年とは、男性だけでなく女性の平均寿命を上回る年数なのです。もうそろそろ、怨みは忘れ、人は過ちを犯す生き物であることを踏まえて、未来へ向くべき時期ではないでしょうか。

一市民の切なる願いです。


平成から令和へ思うこと


 令和の御代がすぐそこに来ています。新たな時代への期待が高まっているのを感じ、私も楽しみです。
 
 今上天皇のご意向による譲位は、国民の間でもさまざまな意見を生んだようです。ただ、私は全く賛成です。そもそも今の伝統を謳う方々の意見をよくよく吟味してみると、明治以降に作り上げた伝統に根ざしているように思えてなりません。光格天皇が譲位したのも十九世紀初めの事。長きに渡った天皇制の歴史でも、つい最近まで譲位が行われていたのです。だから、私にとって、譲位に反対する理由などありません。むしろ今上天皇の誠意を感じたぐらいです。

 今上天皇が象徴となっていただいた平成の世。それは私にとって生涯消えることのない思い出であり続けるでしょう。平成の時代が始まったの私が中学三年生の時。以来三十一年。その期間は、現在四十五歳の私にとって、三分の二を占めています。私が成長し、挫折し、また蘇るまでの日々。中学から高校、大学。そして地震からニートをへて上京、結婚、引っ越し、独立、法人化。そうした私の激動の日々に寄り添ってくれたのは平成なのです。思い出に残らないはずがありません。

 平成という字は、「平らに成る」と書きます。この字面を指して、日本が悪平等に陥った時代であったという説を唱える方もいるようです。皆が平らに成ろうとするあまり、冒険を恐れ、出る杭は打たれる時代。それが長期にわたる不況につながった。確かに一理ある意見です。

 古来、元号の文字には次なる時代への願いがこめられていたといいます。天変地異や疫病が流行する度、凶事を吉事に変えるための改元が行われ、吉兆を祝うためにも改元が成されました。その意味でいえば、平成の前の昭和は、本邦の歴史上でも有数の振幅を示した時代でした。だから、昭和の次の時代は平らかに成って欲しい、との提案者の意図は理解できます。そして願い通り、平成の世の日本は戦争とは無縁でした。災害やテロに苦しめられたとはいえ、総じて良い時代だったといえるのではないでしょうか。

 では次の令和はどういう時代になるのでしょう。令和には政府発表によれば美しい調和の意味が込められているとか。美しい調和。まさに日本のこれからの道を示していると思います。今の日本の一番の問題は少子高齢化です。そのため、移民に門戸を開かねばどうにも社会が維持できない。そのことに異論を唱える方はあまりいないと思います。

 これからのわが国は、諸外国からやってきた移民との調和が欠かせません。わが国は歴史上、何度となく移民の波にさらされてきました。全国各地に点在する「秦野」「太秦」「高麗」「百済」の地名はそれを物語っています。日本はもともと移民で成り立ってきた国なのです。だから移民に対して神経質になることはありません。ただ、今回の移民の波は、多種多様な国・民族を受け入れます。これまでの移民とは質量ともにレベルが違います。そのため、新たに来られた方々によって日本の良さが打ち消されないよう、国民にも意識の向上が求められます。それでいながら移民の方々を調和しながら受け入れ、皆で日本の文化を育てていく必要があるのです。

 元号は不要という意見も聞きます。ですが、私は元号は時代の流れを象徴する、とても良い制度だと思っています。もちろん、情報屋の立場から言わせてもらうと、システムの仕組み上、元号を使うことは不利益でしかありません。ですが、あらゆる年月計算は西暦をベースとし(Unix Timeが2038年までしか用意されていないことは脇において)、元号による表記はあくまでローカライズされた表示用の値とすればよいだけの話。そうすればなんら問題はないはずです。

 むしろ、元号によってわが国の時代の総意が象徴されることのほうが大切ではないでしょうか。私は象徴天皇制には賛成です。そして象徴の立場であり続けるためにも今の皇室は努力されていると思います。今上天皇・皇后の両陛下の姿勢からもその事は感じられます。何度か皇居の奉仕活動に参加した妻は両陛下からの気品を感じ、襟を正したとか。私も先日、こどもの国を訪問された両陛下のお姿をお見掛けしました。そして本稿を書いた前日には、令和の御代の象徴となる皇太子殿下が三年半前に登られたという石老山に登り、富士を眺め、令和に思いを馳せてきました。そうした機会に触れる度、平成への感謝と令和への期待が増していきます。

 ここにきて日本でも多様性を求める声が増えてきています。平らかに成る世から、多様性をベースとしたハーモニーの時代へ。時代は明らかに変化し、しかも良いほうに向かっているはず。私も令和への改元を楽しみに待ち望みたいと思います。


DevRelConに参加して思った技術者のこれから


3/9にサイボウズ社で開催されたDevRelCon Tokyo 2019に参加しました。
この参加は代表である私のキャリアパスにとって得難い経験となりました。なのでレポートとして報告いたします。

昨年の秋からお誘いを受け、私はDevRelJpに参加させていただいております。DevRelのサイトに載っている定義によれば、「DevRelとはDeveloper Relationsの略で、自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動になります。 一般的にエバンジェリストまたはアドボケイターと呼ばれる人たちが活動します。」とのこと。つまりkintoneのエバンジェリストである私にとっては参加するしかないのです。

DevRelのイベントには二度ほど参加しました。そこで感銘を受けたのは、プログラムの内容や設計よりも、いかにして自社またはイチオシのサービスを広めるかに注力していることです。その内容は私の思いにもマッチしました。なぜなら、私は昨年あたりから自分のなかで力を入れるべき重点を変えようとしていたからです。開発者から伝道者へ。技術者から経営者へ。そうしたキャリアパスの移行を検討し始めていた私にとって、DevRelJpへの参加は必然だったといえます。

さて、今回のDevRelConは私ともう一人で参加しました。もう一人とは、とあるイベントで知り合った若い女性。大手企業の安定を捨て、新たな分野に飛び込む志を持った方です。その志に感じ入った私は、ちょくちょくこうしたイベントにお誘いしています。

今回も「こうしたイベントがあるよ」とその方をお誘いしました。ところが当の私がDevRelConのサイトを熟読せずに申し込んだのだから始末が悪い。もちろん、英語のスピーカーが多いなどの断片的な情報は頭の片隅にありました。ハードルがちょっと高いかもしれないというほんのわずかな懸念も。ところがそれぐらいの情報しか持たず、聴きたいセッションも選ばず、ただ申し込むだけというノーガード戦法。

今回の会場は私も何度も訪れているおなじみのサイボウズ社。いつもの動物達がお出迎えしてくれ、ボウズマンもサイボウ樹も健在。日本人の姿も結構見うけられます。自分のホームに帰ってきたような安心感。それもあって甘く見ていたのかもしれません。

そんな私の思いは開催とともに打ち砕かれます。司会進行は中津川さん。DevRelJpでもおなじみです。ところが喋っている言葉は全て英語。ほかの日本人スピーカーも流暢な英語を操っているではありませんか。普段、日本語で喋っているのに、今日に限ってどうしたことでしょう。さらに驚くべきことに、その状況におののいているのはどうやら私たちだけらしいという事実。英語で威勢よく進行する状況を周りは当然のこととして受け入れているのに、私たちだけ蚊帳の外。

普段、こうした技術系イベントでは同時通訳の副音声が流れるイヤホンが貸し出されます。ところがDevRelConにそうした甘えは許されず、全てを自分の耳で聞き取らねばなりません。と、横のサイボウ樹のディスプレイに日英の両方の文章が流れていることに気づきました。どうやらスマートスピーカーが言葉を聞き取り、通訳して文章を吐き出してくれている様子。普段、サイボウ樹のディスプレイは沈黙しています。今回、初めて大活躍の場を見ることができました。ですが、何か様子がおかしい。精度が悪く、ディスプレイにはほとんど意味をなさない文章が流れているのです。たまに口にするのもためらうような言葉も混じったり。話者によってはある程度の長さの文章を拾ってくれますが、流暢なネイティブスピーカーの言葉はほぼ支離滅裂。私たちの目を疑わせます。その内容にはあぜんとしました。流暢な人の言葉こそ、いちばん通訳を求められるのに。

つまりDevRelConとは、英語ヒアリング能力がなければ、まったく理解がおぼつかないイベントだったのです。

うかつにも私はイベントが始まってからその残酷な事実に気づきました。そして心の底からヤバいと思いました。こんな体たらくで10時間以上の長丁場に耐えられるのか、と。一緒に来た方も英語力は私とそう変わらない様子。全く聞き取れない英語の流れる会場で、絶望に満ちた顔を見合わせながら、日本語でヒソヒソと言葉を交わす二人。しかも私はまだ技術的な単語に免疫がありますが、この方は技術者ではありません。なので私など比べ物にならないほどの苦痛を感じていたはず。お誘いして申し訳ない、と思いました。

ところが、そんな私たちは結局最後まで会場に残り、懇親会にまで出席したのです。それはなぜかというと、会場のスピリットが伝わったからです。そのスピリットとは、上にも書いたDevRelの定義「自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動」です。スピーカーのおっしゃる内容は正確な意味は分かりません。ですがニュアンスは伝わってきます。つながりを作る活動。その思いが会場に満ち、私たちの心に何らかの作用を及ぼします。

全てのスピーカーの方々が訴えるメッセージとは、好きなサービスをテーマとしたコミュニティを作り上げ、そこからより活発な発信を行う。それだけのことなのです。それはそうです。DevRelConである以上、DevRelの理念が話されるのですから。そして私たちはまさにそうした内容が知りたくてこのイベントに参加したのです。

そのことに気づいてからは、気持ちが楽になりました。三つ用意された部屋を移り、それぞれでヴァラエティにあふれたスピーカーの皆様のプレゼンを聞きながら、プレゼンの仕方や、画像の挟み方を学びます。そしてプレゼンのエッセンスを必死に吸収しようと集中します。実際、勉強になることは多い。だてに英語の千本ノックを浴びていただけではないのです。絶え間ない英語のシャワーに耳を洗われ、洗練されたスピーカーのプレゼン技術に見ほれながら、私は受け取るべきメッセージは受け取り、自分の中に知見を吸収していきました。

私が得た気づき。それは、日本の技術者が陥っている閉塞感と終末感です。そして切迫した危機感。私にとって英語だけが交わされるこの空間は、余計な雑念を排してくれました。それほどまでに英語だけの環境は新鮮でした。

私も単身でイベントに参加することはよくあります。何十人も集まるイベントで私が知っているのは招待してくださった方のみ。なんて経験はザラです。そこで一分間しゃべる事を求められても動じなくなりました。そのようなイベントに積極的に出るようになったのは法人化したここ三年ぐらいのこと。そんな孤独感に満ちたイベント参加に慣れた私ですら、DevRelConの英語の飛び交う会場からは強烈な新鮮さを受け取りました。強烈な危機感とともに。その危機感は今までも感じていましたが、しょせんそれは頭の中だけの話。上辺だけの危機感です。ところがいざ、英語に満ちたフィールドに身を置いてみると、その危機感がより切実に私に迫ってきました。

Rubyの創始者として著名なまつもと氏も登壇されておりましたが、内容はごく当たり前に英語。本邦で生まれたプログラム言語が世界で使われるすごさ。それは、技術の世界に身を置いていると痛切に感じます。そこにはまつもと氏による地道な発信があったのです。最初は小規模なコミュニティからスタートし、英語で発信を行う。それがある日、拡大局面をむかえる。そこまでの日々にあるのはただ地道な努力のみ。近道はありません。

もしRubyのコミュニティが日本語だけに閉じていたとしたら、当然、今の繁栄もなかったはずです。情報技術が英語を母語として発展したことに疑いをはさむ人はよもやいないでしょう。英語が母語の状況がこれからも覆りようがないことも。例えばExcelやWordのマクロをいじろうとしてちょっと検索すれば、すぐに英語のドキュメントがしゃしゃり出てきます。クラウドサービスのドキュメントも英語まみれ。プログラム言語のドキュメントとなればあたり一面に技術的な英語がバシバシ現れます。それらのドキュメントは日本語に翻訳されていますが、ほとんどは自動翻訳によってズタズタにされ、いたいけな技術者をさらに惑わしにかかります。これからの技術者にとって英語はさらに必須となる事実は、今でも簡単に証明できます。

また、これからの日本には移民がさらに増えてくるはずです。国際的な取引にもますます英語が絡んでくることは疑いのないところ。英語を読み書きする能力もそうですが、会話する能力を磨かないと、これからのビジネスでは通用しなくなると言い切ってよいはず。正直、今までの私はたかをくくっていました。じきにドラえもんの「翻訳こんにゃく」が実用化され、英語を学ぶ必要はなくなるだろう、と。ですがサイボウ樹のディスプレイに流れる意味の分からぬ日英の文章の羅列は、私の甘い見通しを打ち砕きました。「翻訳こんにゃく」の実現にはあと10年はかかりそうです。

もう一つ、このイベントに出て思ったこと。それは日本人の閉鎖性です。異文化にさらされるようになってきた最近のわが国。ですが、しょせんは日本語で囲まれています。コンビニエンスストアで店員をしている諸外国の方も、たどたどしい日本語で頑張って対応してくれています。今はまだ。日本人が日本で暮らす分にはなんの脅威もなく、治安もある程度保たれています。ですが、その状況はこのまま移民が増えても大丈夫なのか、という危機感が私の脳裏から拭えません。その危機感とは治安に対してではなく、日本にいながら日本語が使えなくなることに対してです。すでに、クラウドや技術界隈の奔流が非日本語圏から流れてきています。その現状は、日本語文化への危機感をさらに煽り立てます。

日本人が大勢を占める職場で日本語だけを喋っていれば事足りる日々。実はその状態はものすごく恵まれており、極上のぬるま湯につかったような環境なのではないか。そして、その状況が取っ払われた時、日本人は果たして生き残っていけるのか。日本をめぐる危機がさまざまに叫ばれる今ですが、これから数十年の日本人が直面する危機とは、財政や年金や自然災害によるものではなく、実は文化や言語をめぐる根本的な変化が原因となるのではないか。その時、今の状況に甘んじている日本人はその変化に対応できず、没落するほかないのでは。そんな危機感に襲われました。かつて、新渡戸稲造が英語で武士道を書き、世界に向けて日本のすばらしさを啓蒙しました。英語を自在に操れるようになったからといって、日本の心は消えないはず。むしろより英語が必要になるこれからだからこそ、英語で日本文化を守っていかねば。日本語のみにしがみついていたらマズいことになる。そんな風に思いました。

DevRelConにいるのなら、コミュニケーションを取らねば。まつもと氏とは会話し、握手もさせてもらいました。TwitterブースにいたDanielさんとは英語で会話もし、Twitterのやりとりもしました。夜の懇親会でもさまざまな方と会話を交わしました。ですが、私の英語コミュニケーション能力は絶望的なままです。去年断念したサンノゼのGoogleイベントに今年もご招待されました。ですが今のままでは会話がおぼつかない。それ以前に異文化に飛び込む勇気が私には欠けています。日本のイベントに単身で飛び込むのとはレベルが違う恐怖。まず私が克服しなければならないのはこの恐怖です。

そうした強烈な気づきが得られたこと。それが今回DevRelConに出た最大の収穫だったと思います。まとめサイトもアップされており、私がイベント中に発信したつぶやきもいくつも収められています。

折しも、複雑なアルゴリズムの開発で苦しみ、私自身が技術者としての賞味期限を意識した途端、同学年のイチロー選手の引退のニュースが飛び込んで来ました。その翌日、EBISU Tech Nightというシステム開発会社のイベントで登壇依頼を受け、優秀な技術者の方々へ話す機会をいただきました。スライド

そこで話したのはDevRelConの経験です。簡潔に私の得た気づきを語りました。技術者だからこそこれからの時代でコミュニケーションを身につけねばならない。それにはDevRelConのようなイベントに飛び込んで行くだけの気概を持たないと。そんな内容です。冒頭の自己紹介を英語でしゃべり、盛大に自爆したのは御愛嬌。終わった後の懇親会でも私の趣旨に賛同してくださる方がいました。その方からは殻に閉じこもる技術者がいかに多いかという嘆きも伺いました。どうすればザ・グレート・シタウケから日本の技術者は脱却できるのか。それを追い求めるためにも、私も引き続き精進し、全編フルのスペクタクルに満ちた英語のプレゼンテーションができるようになりたい。ならねばならないのです。


灘五郷の矜持を待ってます。


元旦。今津の大関酒造の隣にある「やまや」に立ち寄りました。その「やまや」は天下の大関の隣に軒を構えています。場所柄、さぞや大関の色とりどりの銘柄が置いてあるはず。そう思いきや。私の思いは裏切られました。種類こそさまざまの日本酒がそろっていました。が、その中で大関は埋もれていました。ラミネート加工されたポップで今津郷や西宮郷の紹介こそされていましたが、これでは量販店の陳列と変わりません。とてもがっかりしました。

灘五郷といえば日本酒の中では不動のブランドのはず。その中の一郷と称されるのが今津郷であり、大関はその代表銘柄のはず。なのに、大関本社の隣にある「やまや」にしてこの扱い。少しは灘五郷について詳しい紹介があるべきではないでしょうか。いや、これは「やまや」のせいではありません。そもそも今の灘五郷の日本酒の状況が「やまや」の陳列に現われたに違いありません。

私が酒蔵通りを自転車で訪れ、やまやに寄ったのも、灘五郷の酒が今の日本酒の中でどのような位置付けなのかを確かめたかったからです。いや、確かめるまでもなく、すでに知っていました。

昨年、私はさまざまな日本酒のイベントにお呼ばれしました。「まさるや2018仲秋 日本酒呑んでる会in町田(9月)」「Tokyo Rice Wine 日本酒の会(9月)」「酒家 盃爛処(10月)」「かもすや酒店(10月)新政呑みくらべ」「中澤酒造株式会社(12月)」の五つです。どれも味わいが繊細かつ多彩。日本酒の世界が深く、広がっている事を如実に感じました。素晴らしい経験だったと感謝しています。ところが、そうした場で私が西宮の出身であることを明かし、灘五郷のお膝元で育ったことを語ります。するとそして、私が地元の酒がおいしくないと感じていたことをいうと皆さんは納得するのです。なぜ?

各地に豊潤な日本酒の世界が実現する中、日本酒の源は伊丹であり、池田であり、灘五郷のはず。ところが今や、私が顔を出す日本酒のイベントで灘五郷の酒に出会うことは皆無。私はそれがすごく不満であり、かつ悔しい。

私は今回、「やまや」であえて大関を買いました。純米の山田錦。果たして何が違うのか。どう呑み心地が替わるのか。その思いで1/2に全部空けました。飲み口は遜色がない。そう思いました。ちょっと後味に酸味が残ってしまうかな、とも。

なお誤解しないように伝えておくと、私はなにも、灘五郷の酒が日本でオンリーワンである必要もナンバーワンである必要もないと思っています。むしろ日本の至る所に意欲的な日本酒メーカーがあり、それらが切磋琢磨している今の状況はとてもすばらしいと思うのです。だからこそ、その中の一つとして、灘五郷の酒は存在感を発揮してほしいと思います。

私は去年、ウイスキーのイベントにいくつか顔を出しました。そこにはサントリーやニッカといった日本を代表するメーカーが出ていました。その姿勢なのです。私が求めているのは。

そのためには、灘五郷という大看板を捨て、大企業の構えを解き、挑戦してほしい。そう思います。機械化だけが、効率化だけが酒造りではないはず。職人の魂がこもった酒に回帰して欲しい。切にそう思います。まずは首都圏のイベントに出て、渾身の灘五郷の味を問うてほしい。矜持を見せて欲しい。例えるなら、ドームツアーを満席にするアーチストがライブハウスを巡るような心意気で。

私の故郷、西宮で誇るべきものはたくさんあります。宮水を擁する日本酒造りもその一つ。甲子園だけが、タイガースだけが、阪神競馬場だけが、阪急西宮ガーデンズだけが、えべっさんだけが西宮ではない。まず西宮が日本に名を轟かせたのは、「下らない」酒の真反対である銘酒のブランドによって。今年は無理でも来年あたり、首都圏のどこかの酒イベントで灘五郷の酒にであえること。私はそれを願っています。


SNSはライフログツール

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はじめに

今回、kintone advent calendarで記事「ライフログのkintone 盛り alasqlとGoogle chartを添えて」を書きました。
記事の中では私はライフログをこう表しました。「システムが行った作業の結果がログ。ウェブ上にログを残すからウェブログ。略してブログ。そして、人生のイベントを記録するのがライフログ。」

記事を書いている私の心に居座っていたのは「私にとってライフログとは何か」です。
いったい、ライフログの本質ってなんだろう。私にとってのライフログは実践可能なものだろうか、と。
その結果、私にとってSNS「ソーシャル・ネットワーク・サービス」がすなわちライフログにほかならないことに気づきました。

人生の意味とライフログ

人は何のために生きるべきか。
これは古来から延々と考え続けられてきたテーマです。人は誰もが死にます。一個人としての意識は死んだ瞬間、消え去る。後には何も残らない。貧富の差も、宗教の違いも、身分の差も関係なく平等に死は訪れる。これは霊界通信を読むまでもなく、生きている人にとって疑いのない真理です。
ただ、それをもって人生をむなしいと捉えるのは間違い。一人一人の個人は、人類という種を構成する一部であると考えれば、私という個人の意識は絶たれても、人類としての存続は続く。そう考えれば死のむなしさの恐怖から逃れられるのではないでしょうか。
そして生の意義とは、人類という種の存続になにがしかの寄与をすることにあると思います。それは子を作り育てるだけではありません。子を養わなくても、人類が存続するため、社会に貢献することだって立派な行いです。
そして私はもう一つ寄与できる事があるのではないかと思います。それは時代の集合意識をのちの世に残すことです。

人類の集合意識。
それは各時代、各地域によってさまざまな形を持ちます。
かつての常識は今の非常識。東のしきたりは西のタブー。だからこそ、古人によって描かれた日記の類が、将来の歴史家にとってその地その時代を映し出す第一級の資料とされるのです。
ただ、一方で現代とは日ごとに膨大な写真や文章が生み出される時代。だから今の時代をトータルで捉えたければ、それらをビッグデータとして解析することで事足りるかもしれません。
ですが、そうしたとらえ方では時代の全体としてしか精神をとらえきれないような気がしています。
一個人としての連続した言動、日々のつぶやきや日記として残された意識の断片をつなげると、そこには一貫した意識が残されるのではないかと思うのです。私はそれこそがライフログの意味だと思います。
だから私自身のライフログが重要なのは私自身よりも、むしろ未来の人々が参照する時代意識の資料としてではないかと思っています。
むしろ私は、ライフログを日々の膨大なイベントを忘れるために使っています。いったんSNSにあげてしまえば、速やかに忘れ去る。必要があれば取り出す。そして一人の個人の生きた歴史としてのちの世に委ねる。個人史のサンプルとして。
私はライフログとはそういう営みだととらえています。

今回の記事をキッカケとして、私にとってSNSとはすなわちライフログの手段、と肚に落ちました。

SNSとライフログ

そもそも人はなぜこれほどSNSにハマるのでしょうか?
自己表現、自己顕示、承認欲求、つながりの明示化、人脈作り、商機の拡大。その動機は人によってさまざまです。
利用者の抱える多様なニーズに合わせ、いかようにも使える可能性があったからこそ、SNSはここまで支持されたはず。
では私にとってのニーズは何か。SNSを通して、発信し続ける理由はなんなのか。それを自らに問うた時、出てきた答えがライフログだったのです。
今回の記事をキッカケに、SNSの意味がやっと見えたように思います。

ここでSNSの一般的な意味を考えてみます。SNSは古くはfriendsterやmixi、LinkedInから、今のFacebook、Twitter、Instagramなどに至るまで多くのサービスが産まれては消えて行きました。
今もまだ、いくつものサービスがしのぎを削っています。全てを合わせるとかなりの利用者数を誇り、ハマる人は1日何時間もSNSに浸っていると聞きます。
SNSはそんなところから企業の生産性悪化の元凶として、また鬱などの元凶として槍玉にあげられる一方、イベント集客やつながりの構築が便利になり、遠方の友人の消息を知るのにも使われています。

さらに考えを進めると、SNSによって特性が違うことにも気づきました。
例えばFacebookです。最近、Facebookばなれがよく言われます。当のFacebookから、よくアンケートを求められ、Facebook自身も危機感をもっている事を感じます。
若年層がFacebookから離れた原因として、中高年のキラキラ成功体験がFacebookに埋め尽くされているのがウザい、という声をよく聞きます。多分私の書いている内容もその一つなのでしょう。

それは、Facebookに書かれる内容の多くが過ぎ去った事という実情に関係しそうです。そう思いませんか?
今日のイベントの結果。こんな食事を食べた。こんな景色を見てきた。こんな内容で登壇した。こんな記事を読んだ。エトセトラエトセトラ。もちろん私自身が書く内容もそう。
そこには実名主義であるFacebookの特質が潜んでいそうです。実名であるがゆえに、未来の展望も控えめにしか書けない。なぜなら書いたことに責任が生ずるから。大風呂敷は広げた以上、きちんと畳まねばなりません。そして未確定な予言である以上、必要最小限のことしか書けない。

それに対し、Twitterは実名も仮名も許されています。
そして140字という制限があるため、そもそも込み入ったことが書けません。つまり理屈や自慢が入りにくい。
わが国のTwitter利用率は諸国の中でも高いと聞きますが、それはおそらくFacebookの実名主義や人との距離感が日本人には合わないからだと思います。むしろ最近の技術者界隈ではTwitterの方が情報発信ツールとして重視されているような感触も持っています。
それもまた、未来志向であるTwitterの特性なのかもしれません。

ただ、過去志向であれ、未来志向であれ、個人を発信することに違いありません。
記事のシェアや他人のつぶやきをRetweetすることだって個人の意見の発信です。つまりはその時々の関心事であり、全てはその人の生きた証です。
よく言われるのが、発信する内容がプライベート寄りだと避けられてしまうということ。
ですが私に言わせると、そもそも対象が公共だろうが閉じたサークル内だろうが、内容が仕事のことだろうがプライベートのことだろうが、発信すること自体がすでに自分の顕示だと思っています。全ては「自分語り」なのです。
SNSとは結局、自分を顕示し、語ると同時に、記録してくれるツールに過ぎません。
でもそれを認めると、かえってスッキリしませんか?。
そして最後に書いた「記録する」という点こそ、SNSがライフログツールである理由だと思うのです。

SNSとは発信する人がその時々で生きる証(行動、言葉、考え)を記録するツールだと考えられないでしょうか。つまりライフログ。
今日何を食べた。こんなキレイな景色をみた。セミナーで登壇した、私はこういう意見がある、他人はこう言っていると紹介する。全てはその人の人生のログです。
ここまで考えを煮詰めてゆくと、私がなぜ今までSNSへの書き込みを続けているのかが腑に落ちました。

もちろん、SNSの重要な機能としてネットワーキングは外せません。ですがネットワークを構築するには、まずあなた自身がどういう人間か開示しないことには、相手もトモダチにはなってくれません。
その意味でもSNSのベースとは自己顕示のツールと考えてあながち的外れではないと思います。

一方で、プライバシーの問題もあります。
自分の行動を開示することによる不利益をおそれる。もっともなことです。
死んだあとにまで自分の行動を詮索されるのはいやだ。そう思う人もいます。当然です。
自分が死んだらライフログもまとめて闇に葬って欲しいと思う。当たり前です。
SNSなどしょせん、ビジネスのつながりが構築できて、その場の承認欲求が満たせればいい、そう思う人もいるのも理解できます。
だからこそSNOWやSnapchatやInstagramのStoriesのような一定時間で投稿が消えるSNSにプライベートな内容を書く利用者が流出しているのでしょう。

そもそも、若い頃はだれもライフログなど興味を持ちません。未来が輝いて見える以上、過去には興味をもたないものです。
私もそうでした。私の20代のころの記録などほとんど残っていません。なので、今になって過去のことをブログに書く度に苦労しています。
そもそも40半ばになった今ですら、過去の記録を覚えていようとも、しがみつこうとも思いませんし。

だからこそ、SNSをライフログツールととらえるとよいのではないかと思うのです。目的は完全にプライベート。将来の自分のために記録するための、今の行動の詳細な情報を忘れてしまうためのツール。
老年に入って死が近づけば「終活」の一環で過去のアカウントを消してしまってもよいし、先に述べた通り時代精神の資料としてのちの世に委ねるのもあり。
当初からSNSをビジネス目的のみで考えず、ライフログの副産物として何かしらの反応があったらそれはありがたく利用させていただく。
こう考えるとSNSへの付き合い方がずっと楽になるのではないでしょうか。
少なくとも私はSNSを巡回し、「いいね」を押して回るのをやめてからは時間もできました。そしてずいぶんと楽になりました。

今回の記事を書いてみて、ライフログとSNSの関係がはっきりするとともに、SNSへの付き合い方への指針のようなものが自分にたったのではないかと思います。
結局のところ、日々の人生は「どう幸せに生き、どう悔いなく死ぬか」にかかっているのですから。


日本代表はこれからも成長し続ける。


ロシアワールドカップが佳境を迎えています。

今朝未明には、日本がベルギーに対して後一歩まで追い詰める戦いを見せてくれました。私もテレビの前で応援していました。そして感動しました。サッカーの試合をみた後、ここまで放心状態になったのは久しぶりです。多分、ドーハの悲劇以来かも。でも、今は日本代表の選手やスタッフの皆さんに激闘をねぎらいたい気持ちでいっぱいです。特に今回のワールドカップの日本代表は攻める気持ちに満ちていたのでなおさらうれしかった。

もちろん、ポーランド戦の最後の8分+アディショナルタイムは、観ていた私もイライラが募りました。でも、よく考えると当然ありうる批判を承知であういう戦術を取ったのだから、それは逆説的に攻めの姿勢だといえます。ポーランド戦のあの時間の使い方にはさまざまな方から多様な意見がでました。それでいいと思います。いろいろな意見が同居してこそ成熟していけるのですから。さまざまな意見は成長にもつながります。私はあのパス回しは、ドーハの悲劇を経験したからこその成長だと思っています。

私は何よりも今回の戦いで日本の成長が感じられたことがうれしかった。感謝です。私にとって日本代表のあるべき姿とは、奇跡でもジャイアント・キリングを成し遂げることでもなく、着実な成長によって一歩一歩成長していくことなのです。ベスト8に行けなかったとしても、成長の結果があれば胸を張れます。なぜならそれは私自身の生き方にかぶるからです。

1993年のドーハの悲劇も同点シーンの直前までテレビ観戦していました。あの同点ゴールの瞬間、私はやきもきしていたあまりに見ちゃいられないと目を離しました。その悔しさから1997年のジョホールバルの歓喜はテレビで目撃していました。そして1998年、日本が初めて参加するフランス大会を応援に行こうと一念発起しました。スコットランドの蒸留所で働きながら、フランスへ休暇をとって遠征しようと。英文で蒸留所に履歴書を送りもしました。結局、渡英も渡仏もできませんでしたが、そのエネルギーは単身東京に出て一人暮らしする推進力となりました。上京した私は、2002年の日韓ワールドカップをスカパーのカスタマーセンターで体験しました。それはまさにワールドカップ景気の真っただ中でした。以来、2006年、2010年、2014年と毎回テレビで観戦しています。日本代表がワールドカップで戦う日々は、私が勤め人から個人事業主へ独立し、家族や家の問題で悩む私の人生の浮き沈みと軌を一つにしています。だからこそ、今回の日本代表チームがオフェンシブな姿勢を見せてくれたことがうれしいのです。守りではなく攻めの姿勢でいてくれたことが。

私の人生には失敗もたくさんあります。それは全て攻めの姿勢から出た失点です。でも、私は後悔していません。その失敗は私の糧となりました。ちょうど日本代表がドーハの悲劇で攻め続けたことで逆襲を食らい同点にされた経験を、今回のポーランド戦で生かしてくれたように。それが成長の証なのだと思っています。そして、批判されたポーランド戦の振る舞いを倍返しするかのように、ベルギー戦では躍動する姿で見返してくれました。ベルギー戦の最後のカウンターアタックも、性急に攻めたとの批判をあるようですが、私はそれを含めて誉めたいとおもいます。その姿は守りの姿勢では日本代表は強くなれないことの何よりの証明です。そして人生も守りに入るとそこで成長は終わりです。

おそらくファンの方には性急な結果を求める人もいることでしょう。ベスト8に進みたかったと。でも、私には今回の戦いで日本が成長していることを世界の人々に分かってもらったことで十分です。そしてピッチの中だけでなくスタンドでもそう。サポーターの皆さんがスタンドの清掃を率先して行うことで、日本が世界の中で存在感を見せてくれました。ベルギー戦の敗戦後もロッカールームをきちんと清掃した日本代表の姿も称賛されました。

私がサッカーを見始めたころの日本にとって、ワールドカップとは夢の世界でした。三菱ダイヤモンド・サッカー(かつて放映していたテレビ番組)の中で髪を振り乱して疾走するマリオ・ケンペスの姿に印象を受けた頃、私は日本がワールドカップに出られるなんて考えてもいませんでした。それから30何年。いまや日本は世界から称賛される国になりました。これを成長と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう。成長を続けていけば、いずれは日本もベスト8に勝ち残り、ゆくゆくは決勝の舞台を戦うことだってあるでしょう。私が存命中に日本のキャプテンがトロフィーを掲げる姿が見られることもあるはず。女子がすでにそれを成し遂げているのですから。

私はサッカーと政治を結び付けることはくだらないと思います。政治とは関係なく、まずサッカーでさらなる成長を遂げること。それが望みです。そして日本サッカーの成長を楽しみながら、これからの人生を歩みたいと思っています。その望みを叶えるためには、もっと関心が高まらないと。日本が敗退したから「はい、ワールドカップみるのやんぴ」というのではなく、引き続きサッカーを見てほしいのです。これから準々決勝、準決勝、決勝と世界の強豪チームによる素晴らしい試合が見られるはず。今回も私が観た中でスペインVSポルトガル、アルゼンチンVSフランス、日本VSセネガル、日本VSベルギーといった名勝負がありました。同じように素晴らしい試合をまだ楽しめるはず。決して一過性のブームでやり過ごすのではなく、サッカーを楽しみ、サッカーに興味を持ってほしい。人々が祭りだけでなく、普段からサッカーに関心を持ってくれれば日本はさらに成長できるはず。

そんな私もここ十年ほどは、J1、J2の試合を年に一度見に行くぐらいの、ワールドカップの時に湧き出るにわかサッカーファンの一人に成り下がっていました。だからこそ私は、今回の日本代表の戦いに感銘を受け、これではいかんと思いました。そんなわけで、弊社にできることといえば地元チームのサポートです。今回、弊社は地元の町田ゼルビアの一口サポーターになりました。まだ弊社には余裕がないので一口しかサポートできませんし、オフィシャルサイトに名前も載りません。そもそも登録してくれたのはうちの妻ですし。ですが、私もこの機会に町田ゼルビアをまた応援しようと思います。町田ゼルビアは娘たちがチアリーディングチームに属し、お世話になったチーム。私もその頃は何度も観戦に行きました。なので、この機会にまず地元から協力しようと思います。そしてここ二年ほど、応援にも行けていないので、サポーターに登録したことを機会にゼルビアの試合から観に行こうと思います。日本がより強くなるためにも。


弁論の力


先日、一人で相模原の旧津久井町にある尾崎咢堂記念館に行ってきました。

尾崎咢堂翁は、またの名を尾崎行雄ともいい、明治から昭和にかけ政界で重きをなした方です。「憲政の神様」の異名も持ち、憲政記念館の中庭には銅像も立っています。憲政記念館自体、もともと尾崎咢堂を記念して建てられた建物。国家議事堂のそばに建つ憲政記念館を訪れるとすぐに翁の銅像に出会えます。私は昨年、二度ほどセミナーで憲政記念館を訪れました。そして中庭に立つ咢堂翁の銅像と対峙し、手前にある碑に刻まれた翁の言葉を心に刻みました。その言葉とは、
「人生の本舞台は常に将来にあり」
これは、私が常々思っていることです。



尾崎咢堂記念館は、私が結婚して町田に住みはじめてすぐの頃に一度行ったことがあります。自転車で寄り道しながら十数キロ走って記念館にたどり着いたのは夕方。すでに記念館は閉まっていました。以来、18年の月日が流れました。記念館の付近は橋本から相模湖や道志へ向かう交通の要です。18年の間には何度も通りかかる機会もありました。それなのに行く機会を逸し続けていました。しかし、憲政記念館で尾崎翁のまなざしに接したことがきっかけで、私の中で記念館を一度訪れなければとの思いが再燃。この度、良い機会があったので訪れました。

翁の生涯については近代史が好きな私はある程度知っていました。憲政記念館の展示でも振り返りましたし。少しの知識を持っていても、翁の生誕地でもある記念館に訪れて良かったです。なぜなら、生涯をたどったビデオと、展示室で館長さんから説明いただきながら振り返った翁の生涯は、私い新しい知識を教えてくれたからです。翁の生涯には幾度もの起伏があり、その度に翁はそれらを乗り越えました。その中で学んだことは、翁が憲政の神様と呼ばれるようになった理由です。その理由とは、弁論の力。

尾崎咢堂翁の生涯を追うと、幾度かのターニングポイントと呼べる時期があります。そこで翁の人生を変えたのは、文章の力です。若き日に慶應義塾で学んだ翁が福沢諭吉に認められたのも論文なら、福沢諭吉の紹介で入社した新潟新報でも論説の力で台頭します。

ただ、そこからが違う。翁が神様と呼ばれるまでになったゆえん。そこには弁論の力がありました。まず、翁が認められ、新潟から東京に官僚に取り立てられたきっかけは講演です。政治の世界に入ってからも、桂首相弾劾演説や、普通選挙法の決議を訴える翁の遊説は全国に尾崎行雄の名を轟かせました。国が右傾化する中、翁は議会の壇上で弁論によって軍に反抗し、議会制民主主義の良心を訴え続けます。


世界に類をみない63年もの議員生活。それを支えたのは文章力に加え、弁論の力だった。特に後者の力が翁を世界的な影響力を持たせた。その影響力は、戦争中に米軍が巻いたビラの中で翁は日本における自由人の代表として挙げられています。私は、記念館でそのことを教えられました。そしてその気づきを心にしっかりと刻みました。

ひるがえって今、です。

いまは誰もがライター、誰もがジャーナリスト、誰もがインフルエンサーの時代です。しかもほとんどが志望者。バズれば当たるが、ライバルは無数。いつでもどこでも誰もが世界に向けて文章を発信でき、匿名と実名を問わず意見を問えます。ですが、誰もが意見を発信するため、情報の奔流の中に埋もれてしまうのがオチ。あまりの情報量の多さに、私はSNSからの情報収集をやめてしまいました。最近は論壇メディア(左右を問わず)や書籍から情報を絞って取り込むようにしています。

そんな今、無数の発信者の中で一頭地を抜く方々がいます。それらの方々に共通するのは、弁論の力、です。

例えば、経営者がプレゼンの達人である会社。いわゆるトップ営業を得意とする企業には活気が漲っている印象を受けます。代表的な人物は米アップル社の故スティーヴ・ジョブズ氏でしょう。また、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる方々は、ブログやツイートだけでなく、イベントでのトークがもてはやされます。また、文章での表現に秀でた方は、講演にも秀でている方が多い。そんな印象を受けます。

実際、彼らのトークを聞くと、何かしら心が高揚します。そして、高揚した気持ちとトーク内容が積極的に記憶されます。正直なところ、トーク自体に含まれる情報量は、文章よりも少ないことがほとんどです。しかし、記憶に残っているのは文章よりもトークの内容。そんな経験をされた方もいるのではないでしょうか。

なぜか。考えてみました。

多分、感情と理性がうまく脳内で混ざり合った時にこそ、情報は記憶されるから、というのが私の素人なりの考えです。文章を読む時、人の脳は理性が勝る。そこには感情の関わりが薄い。その一方、手練れの講演者は間に笑いを挟み、聴衆の注意を引きつける。笑うことは感情を刺激し、聞いた内容を脳内に刻む。そのため、講演内容が記憶され、肚に落ちる。私はそんな風に考えています。また、講演をじかに聞く時、私たちは視覚と聴覚を使います。文章を読むときは視覚だけ。その差もあると思います。

つまり、今や文章をアップするだけではだめなのです。もちろん発信することは大切です。ただそれだけでは無数のネット上の文章に埋もれます。文章に加え、人前で弁論をふるい、視覚と聴覚で訴えるスキルが求められると思うのです。それは私のように普段から商談に臨む者にとってみればスキルの延長です。もちろん、提案書だけで一度も会わずに受注いただくこともあります。でもそれはレアケース。一対一の商談に加え、一対多でも表現して、発信するスキル。人前でしゃべる機会を持ち、スキルを磨くことで受注ばかりか、引き合いの機会も増えてゆく。その取り組みが大切なのだと思います。それは私のように経営者だけに限りません。勤め人の方だって同じです。日々の業務とは自己発信のよい機会なのですから。

私は三年前に法人化しました。それからというもの、文章でアピールするだけでは今の時代、生き延びられないと考えていました。それでおととしはしゃべる機会を増やしました。人前でしゃべる技術。それは一朝一夕には得られません。とくに私のようにプログラミングをしていたらプログラマーに、システムの構成を考えていたらシステムエンジニアに、文章を書いていたらライターになってしまう要領の悪い脳を持っている人にとっては切実に欲しいスキルです。

ところが昨年の私は年末に総括した通り、開発やブログを書くことに集中してしまいました。人前で発信する機会は一、二度とほど。サッパリでした。失敗しました。売り上げこそかろうじて前年比増を達成したとはいえ、それでは今後、生き残れません。去年の失敗を挽回するため、今年は人前で話す機会を増やしています。ここ数日も人前で二、三度しゃべりました。その一度目の成果として、明日5/16にサイボウズ社本社で行われるセミナーに登壇します。リンク

明日に向けてリハーサルも何回か行い、内容は練りつつあります。が、まだまだ私のトークスキルには向上の余地があるはず。少なくとも尾崎咢堂翁のように人に影響を与えるには、さらなる研鑽が必要です。そのためにも今回に限らず、今年は積極的にお話しする機会に手を挙げるつもりです。私の知己にも、紙芝居形式のプレゼンを行う方や人前で話すことに長けた方がいます。そういった方の教えを請いつつ、少しでも尾崎翁に追いつきたいと決意を新たにしました。

弁論の力こそ、ポストA.I.時代を生きるすべではないか。そんな風に思った尾崎咢堂記念館でのひと時でした。