長崎の旅 被曝都市からの再生


遅くまでホテルの部屋で仕事をしていた私ですが、朝は普通に起きました。朝ごはんはハウステンボスで買い込んだパン。いわゆるホテルバイキングではありませんでしたが、これがなかなかうまい。満足です。私は早速、駅レンタカーを予約しておいたJRハウステンボス駅に向かいます。昨日学習したとおり、園内を突っ切ることができないため、外周道路を歩いて向かいます。

東京ディズニー・リゾートは、外周道路からパークの内部が見えないように配慮されています。しかしハウステンボスはそうではありません。普通に歩いていても、ハウステンボスのバックルームが丸見えです。確かに、私が歩いた道は観光客の通らないルートです。とはいっても、私みたいに歩いて駅まで向かう酔狂な客はたまにいるはず。そういった好事家には、スキがありすぎ。でもそういう開けっ広げさも、ハウステンボスの魅力が雑多さであることを発見した後では、好ましく思えます。

駅に着いたはいいけれど、レンタカー屋さんの開店まで時間があります。その間を利用して駅を撮りまくります。駅の裏手は国道205号が通り、山が国道の際まで迫っています。どこにでもある田舎の光景。これが面白い。ハウステンボス側が美しいだけに、ギャップとして私に迫ります。東京ディズニーリゾートを擁する舞浜駅の裏に洗練された住宅街が広がっていることに比べ、こちらにはそういった見た目を繕う努力すら感じられません。むしろすがすがしいほどです。

ホテルに車で戻り、ホテルの前に広がる大村湾を眺めながら荷物を積み込みます。波のない凪いだ海。とても静かです。ハウステンボスという日本有数のテーマパークにいながら偉大な辺境にたたずむ解放感に包まれます。名残惜しいですが、長崎に向けて出発です。米海軍針尾住宅地区の物々しく警備された正門を見つつ、西海パールラインという有料道路に乗って南下していきます。大串インターで一般道に合流した後も、長崎の田舎風景は健在です。長崎オランダ村の跡地をみたり、バイオパークの看板に惹かれたりしつつ、ドライブは続きます。琴浦や時津といった街々を過ぎてゆくと、少しずつ車の量は増え始めてます。そしていつしか、道ノ尾駅前という看板が現れます。道ノ尾駅といえば、長崎の原爆を扱う記録に幾度となく登場する駅です。

長崎市内に入ったわれわれはまず、長崎駅によりました。そこで妻がおススメと買ってきた岩崎本舗の角煮まんをほおばります。とてもおいしかった。朝はハウステンボスのパンだけで、何も食べずにここまで来たのでなおさらおいしく感じました。

さて、私が車を止めたパーキングは、爆心地公園と平和公園の間にあります。目の前を国道206号線が通り、交差点で交わる道路は浦上天主堂へと続いています。後で思い返すと、原爆の遺構を歩いて回るには最適な場所だったようです。

駐車場の脇から目の前を登ってゆく階段をいき、高台へ設けられた平和公園に足を踏み入れます。そしておびただしい数の慰霊碑を視野に入れつつ平和祈念像へと向かいました。この像こそ、私が昨日読んでいた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」で取り上げられたテーマである、長崎が被爆したシンボルを後世に残すべき、に直結しています。

今、被爆都市ナガサキのシンボルはこの平和祈念像が担っています。ヒロシマの原爆ドームが持ついかにもな廃虚感は平和祈念像にはありません。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」の著者が非難するのは、浦上天主堂の廃虚を被爆のシンボルとせず、米国の対外宣伝策に乗せられ、新たな天主堂に建て替えてしまったことです。そして、実質的に浦上天主堂の廃虚の代償として建てられたのが平和祈念像なのです。この平和祈念像は、長崎市の公式観光ページの説明文を引用すると「制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。」とあります。私は、この説明の主旨や平和祈念像自体に何も含むところはありません。平和祈念像は後世に伝えられるにふさわしい。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読んだあとも、平和祈念像を眼前にした後でもその思いは替わりません。この後訪れた浦上天主堂や原爆資料館に行った後でもそうですし、これを書いている今もそうです。

ですが、一つだけ言えることがあります。それは、責任の不在です。責任の不在とは、ヒロシマの原爆死没者慰霊碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言が引き起こした議論でもおなじみです。ここでいう”過ち”が日本を指すのか、アメリカを指すのか、責任はいったいどこにあるのか。ヒロシマの原爆死没者慰霊碑の文言が問いかける主体は何か。そして平和祈念像は責任の所在を示さず、巨大な像として鎮座しています。

昨日のハウステンボスのエントリーでも書きましたが、私が長崎に来たのは16年ぶりです。けど、その時は平和祈念像には訪れませんでした。新婚夫婦が訪れたのは、オランダ坂やグラバー邸、出島、大浦天主堂といった異国情緒の長崎です。原爆資料館や爆心地といった反核平和のナガサキではなく。ですから、私が前回、平和祈念像の前に立ったのはさらにさかのぼること5年。ですから21年ぶりです。

その時は学生時分の気楽さもあり、直前までヒロシマにいました。8/5の朝は原爆ドーム前でテントを立てて野宿して迎え、翌日の投下50周年の投下時刻にはダイ・インにも参加しました。つまり、50年の節目に揺れるヒロシマをそれなりに経験し、ナガサキに乗り込んだといえます。ですが、当時の私は平和祈念像に何の違和感も感じませんでした。そもそも当時は長崎原爆資料館が建て替え中で、ナガサキの原爆の生々しさにあまり触れることができませんでした。ましてや、被爆のシンボルが米国の意向で撤去されたという知識もなく。

ですが、今回は違います。私も40歳を過ぎ、少しは知識がついてきたはず、といううぬぼれがあります。その目でナガサキをきちんと見てまわろうと思って乗り込んでいます。娘たちにナガサキの惨禍を知ってほしい。私自身にも被爆の実相を見せたい。そんな思いで街を歩きます。その目でみたナガサキは、普通の街でした。

まず、平和祈念像の横にある「被爆者の店」に立ち寄ります。長崎の物産を扱うこの店で、私が目にとめたのは書籍コーナー。川上郁子という方が書かれた「牧師の涙 あれから六十五年 老いた被爆者」に惹かれ、少し中身をめくります。著者は官能小説作家として著名な川上宗薫の義理の妹だといいます。内容は、有名作家になってもまったく長崎に帰ってこない義理の兄への恨みつらみでした。この本によると、宗薫自身が被爆死しかけ、母と二人の妹を原爆で喪ったにも関わらず、その事実を作品にほとんど著そうとしなかったとか。発言できる立場にいながら、ナガサキの被爆を語りたがらなかった、ナガサキを遠ざけ続けていたという事実にとても興味を惹かれました。私は川上宗薫の小説は一冊も読んだことがありません。なので本書を購入しようか迷ったのですが、今回は断念しました。

今回の長崎の被爆地巡礼の旅は、妻のリクエストでもありました。詳しくは書きませんが、妻は長崎にある思い入れがあります。なので、今回の被爆遺構巡りの案内は妻に任せます。続いてわれわれが向かったのは永井隆記念館。被爆者として妻を亡くしながら被爆者の治療にあたり、放射線医師としての立場から著した諸作品はよく知られています。記念館の屋外に当時のまま如己堂が残されています。じっくりと見ました。私は如己堂は初めて訪問します。この狭さに起居しながら、命を削って自身の想いを伝えようとした永井博士の意志に頭がさがります。

実は「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」では永井博士は批判的に論じられています。この本でもっとも批判を受けているのは、移設に関わった当時の二人の人物です。浦上天主堂を統括していた山口司祭と田川長崎市長。彼らは著者の非難をもろに浴びています。そして永井博士は彼らに比べると舌鋒は緩めですが、原爆投下を神の摂理と受け入れた永井博士の考えは到底受け入れがたいと、批判の目が注がれています。

しかし、永井博士は別の場所では被爆直後の時期に違うことも言い残しています。原子力の平和利用のため、科学研究が必要、と。これは、なかなかいえないことだと思います。永井博士の言葉の一部を切り取ってあげつらうのは、永井博士の想いを誤解しかねない気がするのです。永井博士だけではありません。どうも、長崎の方は、被爆を被害者として受け取らないように思えます。当時の田川市長は米国の思惑を忖度して転向しただけかもしれません。ですが、山口司祭はなによりも浦上天主堂の再建を考えたようです。また、本島長崎市長が発した昭和天皇の責任問題や、原爆投下は日本軍の犯罪行為の報いだ、という言葉はまだ記憶にも新しいです。

そういった長崎の人々のこころを理解するために、本来ならば永井隆記念館に入ってみるべきだったのでしょう。ですが、今日のスケジュールではとても無理でした。残念なことに。

続いてわれわれは、高台に見える浦上天主堂に向かいます。ここもわたしにとっては初訪問。そして「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」がいうもう一つの原爆ドームとは、被爆遺構の浦上天主堂のことです。ナガサキの被爆のシンボルになりえたのに、建て替えでその機会を永遠に逸した、と著者に嘆かせている場所です。街を歩いていると、あちこちから丘に建つ天主堂が見えます。宗教の施設という見方を抜きにしても、見事な外見です。ここが原爆ドームの廃虚のように今もなお遺構のまま立っていたら、と惜しむ気持ちはわからなくもありません。きっと原爆投下という人類屈指の愚行の証人として長崎のシンボルになっていたことでしょう。原爆ドームのように。グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂よりも、誰もが真っ先にナガサキのランドマークは天主堂として思い描くくらいに。

でも、長崎の街を歩いていて思いました。高台に建つ浦上天主堂は思った以上に目立ちます。今でもそうなのですから、建て替え当時のまだ原子野の気配が濃厚な長崎にあっては、その姿はより目立ったことでしょう。広島の原爆ドームは、大田川沿いで見晴らしのよい場所にあります。でも、高台にはないので街中から見えません。でも、浦上天主堂は常に目に付く場所にたっています。ここが今もなお、被爆の遺構の姿を残していたらどうなっていたでしょう。多分被爆のシンボルではあり続けたことでしょう。でも、それはナガサキの街を今以上に被爆の街として縛ってしまっていたように思うのです。ですが、私が歩いた浦上地区は、平和公園、爆心地公園、長崎原爆資料館の一角を除けば、普通によくある坂の多い街でした。それは浦上天主堂が遺構でなかったから、と仮定するのは言い過ぎでしょうか?街を歩いてみて、ナガサキとヒロシマの被爆のシンボルに対する考え方の違いは、地形にあるのではないかと思うようになりました。

ナガサキが被爆の街として世界の非核化の旗印となるべきか。今もなお、被爆の街として世界にメッセージを発信し続けるべきか。それは、長崎の人が決めるべき話です。私のような長崎に縁の薄い人間がどうこう言う話ではありません。なので、今の浦上天主堂が荘厳な姿で立っていることに、今さら反対も賛成もありません。実は当初「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み終えた後は著者の意見に賛同していました。ですが、こうやって街を歩いてみて賛同の意見が揺らぎました。

被爆のシンボルを残すべきか建て替えるべきか。果たしてどちらが良かったのか。長崎に被爆のシンボルがない事は、確かに後世への痛恨事だったと思います。特に同じ被爆都市ヒロシマとナガサキを比べるとその差は歴然としています。ヒロシマは今や世界遺産である原爆ドームを擁しています。昨年、オバマ米大統領がヒロシマを訪問し、原爆慰霊碑に献花したニュースがありました。そしてオバマ大統領がナガサキに足を延ばすことはありませんでした。毎年挙行されている長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は全国ニュースでもあまり中継されていないようです。ナガサキは被爆都市でありながら、被爆を訴える発信力がヒロシマに比べて弱い。それは当の長崎の皆様が感じていることだと思います。ですが、それは他の地域の方が言うべきことではないと思います。ナガサキの皆様で決めていただくことだと。

われわれは永井隆記念館から歩を進め、浦上天主堂の立つ丘のふもとに着きました。堂々とした天主堂を見上げながら近づき、目にしたのは側溝に落ちた鐘楼。いわゆる長崎の鐘が被爆前まで収まっていた被爆の証人です。実は天主堂の被爆遺構はすべてが撤去されたわけではなかった。被爆の痕跡などなかったかのようにそびえ立つ天主堂の下には、被爆の瞬間を今に伝える遺構が生々しく遺されている。この対照的な景色が持つ意味は、この場に来てみなければ決してわからなかったと思います。

鐘楼の遺構が残されていることは、被爆のシンボルとして天主堂を残さなかったことのささやかな代償だと思います。私は、溝に落ちたままの無残な鐘楼の残骸と、空へと向かう壮麗な天主堂の姿を見比べながら、しばし鐘楼の前にたたずみました。ボランティアガイドの方が鐘楼を由来を修学旅行生に説明している姿が印象的でした。

丘の上に登ると、浦上天主堂の壮麗な建物が目の前に現れます。浦上とは、切支丹禁制の時代からこの地で信仰を守り続け、幾度もの浦上崩れと呼ばれる迫害に耐えた信者の地。天主堂を残骸としてではなく、信者のために建て直したいという当時の山口司祭の願いは理解したいと思います。

礼拝堂の中は撮影禁止でしたが、教会のもつ特有の静けさに包まれていました。見学して、外に出ようとした私は、首だけの小さな像に気づきます。これこそが被爆のマリア像。被爆のマリア像は崩壊した天主堂から首だけ救い出され、45年間各地を転々としたあと天主堂へと戻された数奇な運命の持ち主です。マリア像の、両眼を失い、右ほほに傷を負った姿の前から私はしばらく動けませんでした。その間に私が思ったのは、被爆のマリア像に課せられた使命です。天主堂が再建されたことで、天主堂は被爆のシンボルでなくなりました。日本の中でも一番西洋の宗教を受け入れてきたナガサキを、西洋自身が破壊した罪。その罪を後世に伝えていく役割は本来は天主堂が担うはずでした。しかし、天主堂の遺構はすでにありません。爆心地公園に遺構の一部と、長崎原爆資料館内のジオラマとして再現されているのみです。ですが、この被爆のマリア像が原爆の悪魔的所業を伝える何よりの証人となってくれることでしょう。アメリカが自身の宗教的なバックボーンを破壊し、ミサ中だった信者たちを熱線と暴風と放射線で殺戮した事実。その事実はアメリカの罪の意識をさいなみ、天主堂を再建させようと働きかけさせました。ですが、天主堂の遺構は消えても、被爆のマリア像にはその痕跡が残り続けるのです。西洋文明の母性の象徴をこのように傷つけ汚した証が、被爆のマリア像にくっきりと残っています。そして今も行方不明のマリアの両目は、きっとどこかであの閃光を映し続けているに違いありません。

わたしは、側溝の鐘楼と被爆のマリア像を見て被爆のシンボルがナガサキから撤去された経緯を問うことはやめました。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」にナガサキの被爆のシンボルが撤去されるまでの経緯は書かれています。その是非を私が判断することはもうありません。結局、長崎に縁のない私がそれをどうこういう必要はないのです。もちろん、キリスト教の文化が根強いナガサキに同じ西洋人が悪魔の兵器を落とした事実は消えません。神を信ずるクリスチャンの頭上に、残虐な兵器が落とされた意味も忘れるわけにはいきません。しかし、アメリカの意向によって遺構が撤去されたとしても、原爆がキリスト教会の上に落とされた事実は消えないのです。そのことは、浦上天主堂の前庭に立つ、被爆して焼けただれた神父像も無言で語っています。

続いてわれわれは信徒会館にも向かいます。ここにも残骸の破片が残されています。それは原爆資料館の展示に比べるといくぶんぞんざいに扱われているようにもみえます。でも、被爆のマリア像と側溝の鐘楼が残されている限り、教会自身も原爆を落とされた事を忘れないと思うのです。

続いて、長崎原爆資料館へと歩いていきます。途中、ファミリーマートで少しだけジバニャンマンをおなかに入れ、横のフルーツいわながさんでおいしそうな果物を買って帰ります。原爆資料館へ向かう道を歩いていると、「被爆国首相よ 八月六日九日を人類総ザンゲの日として休日に制定せよ」というビラが貼られています。その近くには鯨料理の店があるのがなんだかおかしい。

坂を上がってゆくと碑が多数現れ、そこは長崎原爆資料館。初めて長崎にきてから21年。ようやく来ることができました。入り口にはオバマ大統領が来日した際、機内で折ったという千羽鶴が飾られていました。原爆資料館の展示については、今さら私がいうことはありません。ただ原爆の非人間性を思いしるのみです。私一人、じっくり見ました。妻子は、展示は見てくれたのでしょうが、先に出て待っていました。そして時刻は、長崎を出発していなければならない時間をとうに過ぎています。私はこういう資料館にきて、時間の許すままじっくり観覧した経験はほとんどありません。毎回、最後のほうは駆け足になってしまいます。

出がけに売店で、記念館に行けなかった埋め合わせに永井隆博士の著書を買い、山口彊さんの二重被爆の本も買います。これらのレビューは後日アップしたいと思います。そして資料館を出て爆心地公園へ。ここには爆心地を示す碑とともに、浦上天主堂の廃虚の一部が移築復元されています。それらも写真だけ撮影して車に急ぎます。雨も降ってきました。出発するべき時刻はとうに過ぎています。

そこから、車を飛ばして福岡へ。天神の繁華街を焦りながら車を走らせます。妻子を薬院駅の近くで下ろし、私は博多駅のレンタカー返却場所へ向かいます。そこから地下鉄と西鉄を乗り継いで薬院へ。妻の昔からの知り合いであるLucaさんは、私にとって初めての訪問でしたが、とてもおいしかったです。今日一日、食事は控えめにしていたのですが、その甲斐がありました。

そのまま地下鉄で福岡空港へ。そして羽田行きの便へ。そして羽田からは家へと。なんとか日が変わる前に帰れました。昨日のハウステンボスと今日の長崎、福岡のあわただしい二日間が終わりました。ですが、とても楽しみました。そして長崎の街を少し理解できたように思います。また、行きたいと思っています。


長崎の旅 ハウステンボスの魅力について


妻と二人で長崎を旅したのは2000年のゴールデン・ウィークの事です。前年秋に結婚してから半年が過ぎ、一緒の生活に慣れてきた頃。そんな時期に訪れた長崎は、妻がハウステンボスでつわりに気付いたこともあり、とても思い出に残っています。

それ以来16年がたちました。娘たちを連れて行きたいね、と言いながら仕事に雑事に追われる日々。なかなか訪れる機会がありませんでした。今回は妻が手配し、娘たちを連れて家族での再訪がようやく実現しました。うれしい。

2016/10/30早朝。駐車場に車を停め、踏み入れた羽田空港第一ターミナルは人影もまばら。諸手続きをこなし、搭乗口へと。私は搭乗口の手前の作業スペースでノートPCを開き、搭乗開始を待ちながら作業します。家族四人揃っての飛行機搭乗は11年ぶり。ハワイに旅行して以来のことです。実は私にとっても飛行機搭乗は10年ぶりとなりました。今回はスカイマークを利用したのですが、LCC(Low Cost Carrier)自体も初めての利用です。機内ではスカイマークデザインのキットカットが配布され、旅情を盛り上げてくれます。

やはり飛行機は速い。2時間ほどで福岡空港に着陸です。私にとって九州に上陸するのも前回のハウステンボス以来です。心踊ります。ただでさえ旅が好きな私。海を渡ると気分も高揚します。空港のコンコースを歩く歩幅も二割り増し。目にはいるすべてが新鮮で、私の心を明るく照らします。

福岡市営地下鉄に乗るのは20年ぶり。全てが懐かしい。ちょくちょく福岡に来ている妻に交通の差配は任せ、JR博多へ。みどりの窓口でハウステンボス号のチケットを購入し、いざホームへ。お店を冷やかし、パンフレットを覗き、街ゆく人の博多弁に耳を澄ませます。よかたいばってん。旅情ですね。

ホームに降り立つと、フォルムも独特なJR九州の車両群がホームにずらりと並んでいます。その光景に浮き立つ気分を抑えられません。鉄ちゃんじゃなくともワクワクさせられる光景です。もともと妻がJR九州には良い印象を持っていて、ユニークなデザインの車両については妻から話を聞いていました。私自身、ハウステンボス号に乗るのも、ユニークな車両群に会えるのをとても楽しみにしていました。そんな期待を裏切らぬかのように、やがて入線して来たハウステンボス号は、二種類の異なる車両が連結されていました。ハウステンボス号にみどり号が連結されているのです。

家族揃っての鉄旅は良いです。かつてスペーシアに乗って日光に行った事が思い出されます。本当はもっと何度もこういう旅がしたかったのですが。ま、過ぎた事を言っても仕方ありません。

鳥栖から長崎方向に転じたハウステンボス号は、佐賀の主要駅に停車していきます。私にとってなじみのない佐賀の駅はそれぞれの地の色あいで私を迎えてくれます。吉野ヶ里遺跡らしきものが見え、世界気球選手権大会が線路側で開催されています。有田では街に林立する窯の数に目をみはります。旅情です。旅です。

私は家族と会話したり、車窓をみたり、国とりゲームをしたり。そして、飛行機に乗っている時から読み耽っていた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み切ったり。この本のレビューは、いずれ読読ブログでもアップする予定です。本を読み終えた翌日、家族で長崎の街を歩いたのですが、この本を読んでおいたことは、長崎の街を歩くにあたって得るものがたくさんありました。

早岐の駅で佐世保に向かうみどり号から切り離され、ハウステンボス号は運河沿いを走ります。そして間も無くハウステンボス駅に到着。駅から、運河を挟んでそびえ立っているホテルオークラJRハウステンボスが見えます。ここからのハウステンボスはとても映えます。写真を撮りまくりました。期待が高まります。

私は今回でハウステンボスに来るのは3回目です。そして、ハウステンボス駅を利用するのはたぶん初めて。小ぶりな駅ですが、駅舎の面構えからしてハウステンボス感を爆発させています。これは駅鉄として、駅の全てをくまなく撮らねば。

入り口に向かったわれわれですが、実はまだこの時点で入園券を買っていませんでした。宿泊するウォーターマークホテル長崎・ハウステンボスのみ予約済の状態。16年ぶりの訪問は、正面から見て一番奥にあるホテルへの行き方もすっかり忘れてしまっています。正門から宿泊者用通行券のようなパスを使って入場すると思ったら、そんなものはないとのこと。外をぐるりと回るか、送迎バスに頼るしかないとか。結局、着いて早々、ハウステンボスの外周を送迎バスで回ってから中に入ることになりました。

前回来手から16年。ハウステンボスは波乱の年月を潜り抜けたといいます。一度は会社更生法が適用されたとも。そんな状態からHIS社のテコ入れで復活し、今や日本屈指のテーマパークになった経緯は、まさにカムバック賞もの。何がそれほどハウステンボスを復活させたのか。どれほどすごくなったのか期待していました。ですが不思議です。正門や外周からみたハウステンボスにオーラが感じられないのです。ディズニー・リゾートのように、エリアごと夢と魔法の世界でラッピングしたような演出には出会えずじまい。統一感がなくバラバラな世界観が散らばっているように思えます。

ホテルでチェックインすると、内装はさすがに洗練されています。今回チェックインしたウォーターマークホテルには、前回も泊まりました。その時はたしかホテルデンハーグという名前だったと覚えています。多分ハウステンボス自体の経営権が移った時に名称を変えたのでしょう。なので、ホテルの中では特段違和感を感じることはありませんでした。でも、ホテルを出て、ハウステンボス方向に向かうと何かが違うのです。このエリアはフリーエリアになっていて、ゲートを通らずに楽しめます。石畳に旅情あふれる欧風の建物が並んでいます。それは、異国情緒を感じさせます。ですが、よくよく見ると建物に入居しているのはココカラファインだったりします。観光土産屋さんが長崎の名産品や地域限定商品を陳列しています。建物の飾り付けも自由気まま。好きなように各店がポップを掲出し、幟を立てています。ディズニー・リゾートのような統一された世界とは対極です。おしゃれな道の駅? のような感じさえ抱きます。

それでも我が家は、見かけた佐世保バーガーのお店に入ります。うわさに聞く佐世保バーガーとはどんなんや?うまいっ!旅の疲れが佐世保バーガーで満たされ、気分も上向きます。

が、せっかく上向いた気分も、北に向かって歩いて行くにつれ、違和感に覆われていきます。レトロゲームの展示コーナーがあります。ここでは私も懐かしいゲームを何プレイかしました。でも、ゲームをやりにハウステンボスに来たわけやない、と違和感だけが募っていきます。海辺のウッドデッキをあしらったような場所には、ONE PIECEをあしらった海賊船が停泊しています。そしてウッドデッキにはフードを深々とかぶった謎の人物、フォースを使いこなしそうな人がのろのろと歩いています。この何でもありな感じは、かつて私がきた時の印象とはあまりにも違っています。ディズニー・リゾートの統一された世界観に慣れた我が家の全員が同じ感想を抱いたはず。ハウステンボスって、ショボくねぇ?という。

モヤモヤした感じを抱きながら、入場券をかざしてゲートを潜ります。ハウステンボスのランドマークともいうべきドムトールンを見上げつつ、跳ね橋を渡るとそこはハウステンボスの中心部。先ほど見た謎の人物にも似た妙な通行人がどっと増えます。そう、今日はハロウィーン前日。街中が仮装であふれています。ハロウィーンがアメリカではなく欧風の街並みに合うのかどうか。それはこの際大した問題ではありません。でも、欧風な街並みに洋風の仮装をした通行人が増えたことで、フリーエリアで感じたショボさがだいぶ払拭されました。でも、何でもありな感じは変わりません。お化け屋敷やARのホラー体験のアトラクションがあり、屋外のトイレは惨劇を思わせる血糊で汚されています。

一体どこに向かえばいいのか、行くあてを見失いそうです。それでも事前に下調べしておいたチョコレートの館や、チーズの館、ワインセラー、長崎の名産物などのアトラクションを巡ります。フリーチケットで入場したとはいえ、追加料金が必要となるアトラクションには結局入りませんでした。ただ、広大な敷地を移動し、道中の景色や種々のバラエティに富んだのぼりや掲示をみていると瞬く間に時間は過ぎて行きます。ハロウィーン期間ということもあって、巨大なイルミネーションが園内で展開されています。長崎ちゃんぽんを食べ、SF映画に顔合成された私たちを登場させてくれるアトラクションや、AAAのホログラムコンサートなど、技術の粋を惜しみなく注いだアトラクションには驚かされます。そんな風に過ごしていると、閉園時間が近づいてきます。結局、園内のかなりの場所を訪れることはできませんでした。北側の風車付近や、マリーナ、庭園や美術館の地区など。

広い園内と、雑多過ぎるほど統一感のない世界観。それでいながら、オランダを模した建物が林立する中、建物を縫うように石畳の街路が縦横に広がります。パトレイバーの等身大像や、運河を挟んだ建物の側面に映し出されたプロジェクションマッピングで太鼓の達人が遊べるアトラクション。徹底的に世界観の統一を拒むかのような園内。飽きるどころか、ほぼ並ばずにアトラクションを訪れていても、遊びきれていない満腹感とは反対の感覚。園内で感じた統一感のなさは、マンネリ感や既視感とは逆の感じです。それはかえってハウステンボスの巨大さを知らしめます。

ところが夜になると印象は一変。イルミネーションが園内に点灯し、統一感のある光で満ち溢れるのです。その素晴らしさは、ドムトールンに登って園内を見下ろすとより鮮やかになります。園内がマクロなレベルで統一されています。日中に見えていたオランダ風の街路や建物は、イルミネーションの影のアクセントとして存在感を増します。光の氾濫は眼をくらませるようでいて、その裏にある街路や建物の存在をかえって主張しています。

ここに至って私のハウステンボスへの認識は改まりました。フリーエリアで抱いたショボいかも、という認識。これはハウステンボスの目指す方向を見誤っていたことによるものだと気づいたのです。

ハウステンボスの目指す方向。それは、統一感のある世界観とは逆を向いています。つまり、東京ディズニー・リゾートの作り上げる夢と魔法の国からの決別です。ディズニーキャラの住むカートゥーンの世界観。それは東京のディズニー・リゾートがガッチリと抑えています。大阪のUSJもそう。ハリウッド映画の世界観が大都市からすぐの場所で楽しめる。

たぶん、かつてのハウステンボスは、オランダの異国情緒を体験できるとの触れ込みで統一感のある世界として創りあげられたはずです。しかし、長崎という日本のはしでは無理があった。ではどうすればいいか。HISはハウステンボスが日本の周辺に位置しているという条件を逆手に取ったのです。そして、それにふさわしい方針転換をしたのだと思います。すなわち、なんでもありの世界。統一感のない世界の実現へと。

何度も東京ディズニー・リゾートに行っていると、統一された世界観に、次第にマンネリズムを感じていきます。いくら趣向を凝らしたディスプレイで飾られていても、しょせんはディズニーキャラの世界。世界観が強固であれば、そのぶん閉塞感も増します。春夏秋冬、季節ごとにイベントで色合いを変えても、ディズニーキャラの世界観の延長でしかありません。それは、観客の達成感や飽和感につながります。ハウステンボスは、世界観に左右されないがため、逆に自由な発想が展開できます。オランダ風の建物や路地はただのベースに過ぎないのです。

逆説的ですが、そのことに気づいた時、私は最近のハウステンボスが盛り返している理由をおぼろげに理解したように思いました。ディズニー・リゾートと同じ土俵にあがらず、統一感をあえて出さずに勝負する。そして訪問客に満足感を感じさせない。それが、次なるリピートにつながる。実際、ハウステンボスをくまなく訪れられなかったことで、かえって園内の広さに満足感を持ったくらいなので。聞くところによれば、USJも雑多ななんでもありの路線を打ち出し始めているようです。上に書いたように従来のUSJはハリウッド映画の世界観で統一していました。でも、今は何でもありの世界観を出すことで、ディズニー・リゾートと一線を画しています。そしてディズニー・リゾートを凌駕しつつあります。成功の理由とは、世界観の統一を放棄したことにあるといってもよいのではないでしょうか。いまや、世界観の統一という満足だけだと、訪問客に見切られてしまうのでしょう。

地方を活性化するヒントも、ここにあります。田舎の何でもあり感は、洗練されたスタイリッシュな都心に住んでいるとかえって新鮮です。都心は、人が多すぎる。それゆえに、固定客をつかめば経営が成り立つのです。固定客とはつまり世界観が確立している店へのリピートです。つまり、都心では世界観を固定させることが繁盛へのキーワードだったといえます。しかし、ハウステンボスは田舎にあります。田舎で都会並みの統一感を出したところで、都会の人間にははまらないのです。オランダの街並みがはまった人にはリピーターになってもらったでしょうが、そうでない方には世界観の限界を見切られてしまいます。それこそが、当初のハウステンボスの凋落の原因だったと思います。すでに都会の世界観に疲れている私には、ハウステンボスが展開するこのとりとめのなさが、とても魅力的に映りました。そして、東京ディズニー・リゾートのような感覚で、テーマパークを当てはめてしまっていた自分の感性の衰えも感じました。

すでに寝静まろうとしている店を訪れ、少しでも長く多くハウステンボスを経験しようとする我が家。ホテルに一度戻り、娘たちを寝かせた後、夫婦で再びハウステンボスに戻ります。フリーエリアと有料エリアを分ける跳ね橋のそば。ここに、深夜までやっているbarがあります。「カフェ ド ハーフェン」。16年前もここに来ました。そして妻はジン・トニックの味が違うことにいぶかしさを感じました。それはもちろんつわりの一症状でした。このbarにはそんな思い出があります。今回、大きくなった娘たちを連れて来たことに万感の思いを抱きつつ、結婚生活を振り返りました。そして、16年ぶりのハウステンボスが、世界観を変えてよみがえったことに満足しつつ、お酒を楽しみました。

また、訪れようと思います。


今さらメールがすごいと言われても


先日、フォーブスジャパンのオンライン版でこんな記事を見つけました(SNS時代でも、メールがやっぱりすごい理由)。メールを礼賛するようなタイトルに、この期に及んでメール?と逆に興味をもって読んだのですが、正直いってあまりにも現状にさからった記事内容にがっかりしました。

メールって、コミュニケーションツールだったはずですよね?普通、コミュニケーションといえば、双方向のやり取りを指すはず。ところがこの記事を読むと、双方向の視点が見事に欠けています。双方向ではなく一方通行のツール。それも配信業者にとって都合の良い配信手段として。この記事の中で礼賛されるメールとはコミュニケーションツールではなく配信手段でしかありません。送り手側に都合のよいだけの一方通行のコミュニケーション手段の可能性を力説されても、シラケてしまいます。

私の感覚では、メールはもはや主流のコミュニケーションツールではありません。もちろん、私もコミュニケーション手段としてメールは残しています。一部のお客様とはいまだにメールでやり取りしているので。

おそらくオンライン上で行う双方向のやりとりの手段として、メールはもうしばらく生き残るでしょう。ですが私が技術者同士のやり取りでメールを使うことはほぼありません。chatworkやLINE、Facebook メッセンジャーやSlackで仕事のやりとりはほぼ事足ります。メールに頼らずともお手軽なコミュニケーション手段は十分用意されているのです。

なぜメールが使われなくなったのか。その理由を知りたければ最適な情報があります。それはサイボウズ社が以前展開していたNo email キャンペーンです。この中に理由が書かれています。(キャンペーンサイトは無くなってしまったようですが、スライドシェア上にアップされています)。
・整理されない
・引き継げない
・取り消せない
・添付できない
・集計できない
・経緯を追いづらい
・見落とす

サイボウズ社の主力製品の一つはグループウエアやんか、アンチemailの主張は差し引いて受け取らなあかん、という声もあるでしょう。でもここに列挙したアンチemailの理由は今もなお有効です。少なくともフォーブスジャパンの記事にはここに挙げたemailの欠点を補う記述は見当たりませんでした。

それどころかフォーブスジャパンの記事にはこう書かれています。「ウェブサイトのデザインに使われるHTML5やCSS3などの技術が進化し、メールは一方通行の「読み物」から、ウェブサイトばりにインタラクティブなツールになった」。ところが、こういったインタラクティブなHTMLメールは、メーラーによっては完全に読めません(こちらに英文ですがメーラーのCSS対応状況が掲載されています)。メールでやりとりする上で不可欠なメーラーが、インタラクティブなHTMLメールに対応し切れておらず、しかもそれが改善される気配がない。これは、メール市場の拡大を謳うこの記事の説得力を完全に損なっています。もう一つフォーブスジャパンの記事に抜けていると思ったのが暗号化への対応です。実はほとんどのメーラーでは暗号化設定が実装されています。ですが、メールサーバーの設定によって利用者がメーラーの設定を変えねばなりません。それなのに、フォーブスジャパンの記事にはそのことに触れていません。そもそも双方向性が考慮されていないため、暗号化の問題に触れる必要がないのでしょう。でも、この点はメールの将来性にとって不可欠な視点のはず。

なぜメーラー開発各社がHTMLメール対応に本腰を入れないのか。それは私見ですが、ひとたびその機能を許せば通信データ量を食うHTMLメールによる一方的な配信が増大し、通信料も莫大になるからではないでしょうか。No emailキャンペーンでは触れられていませんが、そもそもメールとは送信者が受信先のアドレスさえ知っていれば、自由な内容、自由な容量のメールが送り放題です(メールサーバーを持っていれば流量制限も無尽蔵です)。それに比べて、LINEやchatworkやSlackでメッセージを送るには、受信者側の許可が必要です。

そういう許可制が敷かれたプラットホームでは、メール配信会社は大量配信が出来なくなります。この点を抜きにしたフォーブスジャパンのこの記事には、配信会社の思惑を感じずにはいられません。

とはいえ、フォーブスジャパンの記事にはメールの優位性として情報量を盛り込める点が指摘されています。これはchatworkやLINEにない利点であることは認めざるをえません。また、記事内に登場するハイムス社の紹介では、効果的なメール配信を行う仕組みを備えているそうです。だとしたら一目置くべきかもしれません。ですから、一概にメールを否定するのもまた賢い対応ではないのです。どうにか双方の良い点を兼ね備えたコミュニケーション手段ができればいいのに、と常々思います。

もし、フォーブスジャパンの記事にあるような配信業者が、本気でメールプラットホームに未来を賭けたいのであれば、まずは下手な鉄砲も数撃ちゃ式手法より、本当に記事が読まれるべき内容にすべきだし、対象も絞るべきではないでしょうか。一方通行ではなく、読み手からも適切なフィードバックが戻るようなツールであるべきだと思います。そのためにはメーラーにも改善の余地があります。上に書いたようにメーラーのCSS対応もまだまだです。本来ならばウェブサイトと同じレベルでCSSによるデザインが施されたページが読まれるべきでしょう。ですが今の対応状況は発展途上もいいところです。それ以外にもメーラーでできることがあるはずです。例えばメルマガの末尾には配信停止のリンクが記載されています。これをもう少し改善し、メーラー側に配信停止機能を持たせるというのはどうでしょうか。その都度メール末端のURLをクリックして配信停止を行わせるのではなく、メール一覧から右クリックで配信停止を実現する機能。この機能をメーラーが実装するだけで、余分な一方通行メールが減るのではないかと思います。

コミュニケーションツールにはまだまだ改善の余地がありそうです。これを読んだIT技術者の方。よかったら改善に取り組んでみられてはいかがでしょうか? え? おまえがやれって? うむむ、興味はありますが、多分私一人には荷が重いですね。もし興味がある方、一緒にやりませんか?


この六年を契機にSNSの過去投稿について思ったこと


今日で東日本大震災が発生して六年が経ちました。テレビやブログでも六年の日々が取り上げられているようですね。

今日の14:46を私は家で仕事しながら迎えました。六年前のその瞬間も同じ。あの時も家で仕事していました。違う事といえば、今日は直前に町田市の広域放送で黙祷を促されたことでしょうか。よい機会をもらえたと思い、しばし目を閉じ自分なりに物思いにふけります。

この六年を自分なりに振り返ろうかと思ったのですが、やめておきます。昨年秋に二回ほど郡山に仕事でお呼ばれしました。郡山の素敵な方々や産物や美しい風景の数々。地震が起きてから東北の方々に何も貢献できていなかった自分に少しは区切りはつけられました。でも私はいまだに浜通りや三陸を訪問できていません。私が東日本大地震を語るには時期が早いようです。
弊社は、福島を応援します。(まとめ版)
弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/1版)
弊社は、福島を応援します。(10/2版)

ふと、3.11前後の日記を覗いてみたくなりました。その頃の日記には一体何を書いていたのか。そして何を思ったのか。当時の私はまだmixiを利用していました。今や全くログインすることのないmixi。今回の機会に久々に当時のmixi日記を覗いてみることにしました。

久々に訪れるmixiはユーザーインターフェースが刷新された以外は案外同じでした。六年前の3.11の前後に書いた日記にもすぐアクセスできました。時間軸ではなく、年と月でカテゴライズされたmixi日記へのアクセスはFacebookに慣れた身には逆に新鮮です。日記ごとにタイトルが付けられるのも、後から日記を見たいニーズには適しています。私のようにSNS利用のモチベーションが自己ログ保存にあるような人にはうってつけですね。

最近のSNSはタイムライン表示が全盛です。Facebook、Twitter、Instagram、Snapchat。どれもがタイムライン表示を採用しています。mixiも過去日記の閲覧が容易とはいえ、基本はタイムライン表示です。多分、膨大に飛び込んでくる情報量をさばくには、タイムライン表示が適しているのでしょう。Snapchatに至っては投稿してもすぐ自動消去され、それが絶大な支持を得ているのですから。

mixiのように後から投稿を容易に閲覧できる機能はもはや流行から外れているのでしょう。今を生きる若者にはそもそも、後日のために投稿を取っておくという発想すらないのかもしれません。私も二十歳前後の記録は友達と撮りまくった写真以外はほとんど残っていないし。

でも、3.11の時のような天災では、アーカイブされた記録が後になって大きな意味を持つと思うのです。つい先日にも膨大にアップされたYouTube動画を場所や時間でアーカイブし、検索できる仕組みが東北大学によって公開されたとか。動画でふりかえる3.11ー東日本大震災公開動画ファインダーー

各種SNSでは、システムAPIなどを使って一括アーカイブはできるはずですし、Facebookでは一般アカウント設定から過去投稿の一括ダウンロードもできます。ただ、それだけでは足りません。mixiのように、容易に利用者が過去のウォール投稿やツイートにカテゴリーツリー経由でアクセスできるようにしても良いと思うのですよ。システム実装はあまり難しくないと思いますし。学術的な投稿アーカイブだけでなく、利用者にとっても過去日記を閲覧できる機能はあってもよいと思うのですが。

今回、過去の日記を久々に読み返して、過去の自分に向き合うのも悪くないと思いました。仕事を多数抱え、過去の日記を読み返す暇などほとんど無い今だからこそなおさらに。

とはいえ、気恥ずかしい記述があるのも事実。地震前最後に書いた日記は2011/3/8のこと。長女と二人で風呂に入ったこと。学校で性教育の授業を受けたと教えてもらったことが書かれてました。うーむ、、、これは気恥ずかしい。さらに、実名が求められないmixiでは私の書く筆致が全体的にのびのびしている気がしました。これは今の自分の書きっぷりについて反省しないと。


日本の未来は暗いという新成人へ


日本の未来は暗い。

成人の日を前に、マクロミル社が新成人にアンケートをとったそうです。その結果、「あなたは、「日本の未来」について、どのようにお考えですか。」という問いにたいし、67.2%の人が「暗いと思う」「どちらかといえば、暗いと思う」と答えたとか。つまり冒頭に挙げたような感想を持った人がそれだけいたということですね。http://www.macromill.com/honote/20170104/report.html

うーん、そうか。と納得の思いも。いや、それはあかんやろ、ていう歯がゆさも。

この設問にある「日本」が日本の社会制度のことを指すのだったら、まだ分からなくもないのですよ。だけど、「日本」が新成人が頼りとする共同体日本を指すのであれば、ちょっと待てと言いたい。

今の日本の社会制度は、個人が寄りかかるには疲れすぎています。残念ですけどね。これからの日本は、文化的なアイデンティティの拠り所になっていくか、最低限の社会保障基盤でしかなくなる。そんな気がしてなりません。今の日本の社会制度を信じて国や会社に寄りかかっていると、共倒れしかねません。個人の食い扶持すらおぼつかなくなるでしょう。

トランプ大統領、少子高齢化、人工知能。今年の日本を占うキーワードです。どうでしょう。どれも日本に影響を与えかねないキーワードですよね。

でも、どういう未来が日本に訪れようとも、個々人が国や会社におんぶやだっこを決め込むのではなく、人生を切り開く気概を養いさえすれば乗り切れると思うのです。戦後の高度経済成長もそう。戦前の価値観に頼っていた個々人の反動が、原動力になったともいえるのですから。

これからの日本の未来は暗いかもしれませんが、それは疲弊した社会制度の話。組織や国に寄りかかるのではなく、個人で未来を切り開く気概があれば、未来は明るいですよ、と言いたいです。

それは、何も個人主義にはしり、日本の良さを否定するのではありません。むしろ「和を以て貴しとなす」でいいのです。要は、組織にあって個人が埋没さえしなければ。だから、組織を離れるとなにをすればよいかわからない、ではマズいです。週末の時間をもて余してしまう、なんてのはもってのほか。

学問を究めようが、政治に興味を持とうが、サブカルに没頭しようがなんでもいいのです。常に客観的に自分自身を見つめ、個人としてのあり方や成長を意識する。それが大事だと思います。その意識こそが新成人に求められるスキルだといってもよいです。

だから、アンケートの設問で「あなたはどのような方法で、世の中のニュースや話題を得ていますか?[情報を得ているもの]」でテレビが89.6%とほぼ9割であることに若干不安を覚えます。なぜならテレビとは受け身の媒体だから。特定の番組を選び、意識して見に行くのならまだしも、何となくテレビの前でチャンネルザッピングして飛び込んでくる情報を眺めているだけなら、個人の自立は遠い先の話です。やがて日本の社会制度の疲弊に巻き込まれ、尾羽打ち枯らすのが関の山です。

でも、アンケートの結果からは救いも見えます。それは、皆さん日本の未来については悲観的ですが、ご自分の未来については楽観的なことです。アンケートの中に「あなたは、「自分の未来」について、どのようにお考えですか。」という設問があり、65.8%が楽観的な答えだったのです。これはとても良いこと。未来は暗いと言っている場合ではないのですから。同じく「あなたは、自分たちの世代が日本の将来を変えてゆきたいと思いますか。」の問いに61.4%の方が肯定的な回答をしていたことにも希望が持てます。

日本に誇りをもちつつ、日本に頼らない。日本の文化に属しつつ個人としての感性を磨き、充実の社会人生活を送ってほしいものです。

ま、私もこんな偉そうなことを言える新成人ではなかったのですが。私も人のことを言ってる場合やない。私という個人をもっと磨かねば。そして子供たちにも個人の意識を打ち立てるように教え諭さないと!


弊社は、福島を応援します。(10/2版)


10/1

7:00-9:50

目覚ましなしで朝を迎える。かなり楽しく飲んだが、あまりアルコールは残っていない。

昨日の朝と同じく、無料の朝食サービスで腹ごしらえ。ここの朝食サービス、スープがうまい。

さて、今日をどうすごすか。大町商店街での宝探しイベントにも行きたい。あと、銚子ケ滝は必訪だ。さらにはお勧めいただいた達沢不動滝にも足を延ばしたい。さらには湖南公民館でマンホールカードをコンプリートするミッションも発生中。そもそも私にそのミッションを授けた開成館で安積疎水について見聞を深めねばなるまい。だが、宝探しイベントの開始は11時からと遅めだ。さてどうする?

作業もあったので、それをこなしつつ、作戦を練り、カーシェアリングの予約を完了させる。結局あれやこれやでホテルをチェックアウトしたのは9:45。カーシェアリングの予約は9:50。実はカーシェアリングの駐車場はホテルから50メートルしか離れていない。

9:50-11:15
駐車場で私を待っていた相棒
カーシェアリングを使うのは今回が初めてだ。郡山に来る前日の昼に紀尾井町にある受付カウンターでカードも作っておいた。ウェブからの予約も順調に終わる。予約したのはHUSTLER。車にはうとい私もアラレちゃんでお馴染みであることは分かる。だが、HUSTLERの形がよく分からない。車が見つからず、広大な駐車場をウロウロする羽目に。今回の相棒は昨日に続いて赤色。野郎一人のドライブとしてはなかなか勇気のいる色合わせ? ま、私はあまりそういうの気にしないたちだが。

私の作戦はこう。まず開成館に行って建物をじっくり。それから街の中心部にもどってイベントに参加し、そこから湖南公民館や滝方面に向かうというもの。

松方正義卿による茂松清風舎の扁額

開成館外観
開成館扁額
そして訪れた開成館。おととい受付にいらっしゃった親切なおじさんの姿はなかった。でも、開館したての敷地には清新の気が満ちている。敷地内には数棟建物が。それぞれの建物は中にも入れるようだ。そして中では明治初頭の暮らしが実感できる。そこには明治政府の要人が何人も宿泊した記録が残され、そこかしこに揮毫の書や掛け軸が飾られている。開成館とその周囲の建物が安積地域にとって重要だった事が見て取れる。この開成館を拠点に、明治政府の一大事業、安積開拓は行われた。開成館の前庭には、ざくろの木が実を成らせていた。
開拓の 成果を語る ざくろの実

展示の中の一つ。猪苗代湖と郡山市街地
そもそも安積開拓とは何かというと、古来この地はあまり水利が良くなかった。阿武隈川の水は引き上げねばならず、当時の技術では困難。一方、すぐ近くには猪苗代湖という巨大な水瓶が満々と水をたたえている。この水を利用すれば、この地は肥沃な地に一変し、日本にとって重要な穀倉地帯となるに違いない。これが明治政府の思惑だ。そして大久保内務卿の肝いりの政策といっても良い。だからこそ何人も明治政府の要人たちが訪れたのだ。何十キロもかなたの湖から水を流す水路を通すわけだから 、当時の日本にとっては一大事業であったことは容易に想像できる。

こういった知識は全て、開成館の展示で知った事だ。ここに書いたことの100倍以上の情報量が、開成館には詰まっていた。そしてそれが私の計画を狂わせる事になる。あまりにも展示が充実しているので、私の予定時間を過ぎても観きれないのだ。

だが、安積開拓を知らねば、郡山を知った事にはならない。ここはどうしても観ておきたい。そんな訳で、私の観覧時間はどんどん延びてしまい、これでは滝にも行けない恐れがでてきた。

そんな訳で、予定を変更。イベントの参加は後回しにする。そもそも今回の郡山訪問はイベント実施の話から始まった話。イベントに参加しないとなると主客転倒になってしまう。正直言ってかなり迷った。が、逡巡の末、滝を優先する。これが功を奏したかどうか。。。はこの後の私の行動次第。

11:15-12:10

予定を大幅に超過してしまったが、作戦変更した私は開成館を出る。実は時間があったら安積歴史博物館や郡山市歴史資料館への訪問も考えていたのだが、開成館の展示があまりに充実していたのでパス。だが、開成館の展示だけでも郡山市がなぜ県庁所在地である福島市を差し置いて県下第一の商業都市となったか理解できた気がする。
開拓地 実りの秋に kintone

さらに理解できたのは、なぜこの地への風評被害に心を痛める方がいるのかについて。それは、汗水垂らして開拓を成し遂げた先祖への申し訳なさではないだろうか。安積の地が平静なのに、いわれなき風評被害を受け、科学的評価が定まっていないうちから人体への影響をうんぬんされ、それがために県外の方に忌避される。それは、先祖から脈々と受け継がれた開拓の精神からすると到底受け入れられない事に違いない。

猪苗代湖が安積地域に果たした役割を知ったところで、それでは、明治の先人達が安積発展の希望とした猪苗代湖へと、いざ向かわん!

開成館からはひたすら西へ。これが結構遠い。距離にして30キロほど。急峻ではないが、山道もトンネルもそれなりに通る。この距離と勾配をモノともせずに疎水を開通させた先人の苦労がしのばれるというものだ。そして道中には農地が広がっているが、それら畑は放棄されず、稲穂を実らせていたこと、休耕地のような荒地めいた風景には出会わなかったことも書いておきたい。ここで農地保全の努力が放棄されているようなら、今回、私が書いてきた事がうそになってしまう。だが、風評被害にも負けず、栽培から収穫までの一連の作業が営まれている事に安堵を感じる。

収穫の風景は、三森トンネルを越えたあたりからいよいよ顕著になる。福島県を縦に三本に割ると、東から順に浜通り、中通り、会津と分けられるが、三森トンネルは、会津と中通りの分水嶺となるのだろう。そして農村風景は続く。しかし、猪苗代湖のきらめきには行けども巡り合えない。この付近の地形については、私のような訪問者には一筋縄では行かないらしい。

湖南公民館の特徴的な外観
そうしているうちに目的地である湖南公民館に到着。ここでは2枚目となるマンホールカードが配られている。係の方も心得たもので「台紙要りますか?」と声を掛けていただく。台紙はすでに開成館で入手していたのでお断りし、2枚目となるマンホールカードをいただいた。湖南公民館にはマンホールを立派なパネル状にしたものが置かれ、全国マンホールカード発行の告知ポスターまで貼られていた。

さて、マンホールカードを入手した事で、続いては猪苗代湖だ。HUSTLERを駆ってむかったのは、青松浜湖水浴場。

猪苗代湖と磐梯山
駐車場に乗り付けた私の眼前に、猪苗代湖の水面が横たわる。その彼方には一目で磐梯山とわかる山塊が水と空をくっきりわけている。空と山と湖。この三つが調和し、溶け合い、自然の持つ味わい本質を携えて私の前に展開されている。紛れも無く福島の象徴。私の前に降臨したのは、度重なる戦乱や噴火や地震や事故の中、一貫してあり続ける自然の姿。

空と山と湖を前に英気を養う相棒
ここに、HUSTLERの赤をアクセントとして加える事で、この完璧な調和を乱す事にならないか。いろいろ撮影アングルを変えて試して見たがどうだろう。一番マシと思える一枚を載せてみる。

HUSTLERと猪苗代湖と磐梯山
かつて、この山が大爆発を起こした際、ここからの眺めはどんなものだったか、想像せずにはいられない。いま、湖面には水上スキーヤーがボートと疾走し、天鏡湖とも言われる猪苗代湖の湖面を波立たせる。それすらもこの調和を乱すことはない。一点の曇りもないこの風景。これこそが福島や郡山や会津の人々の心のよりどころとなって来たことが実感できた一瞬だった。
磐梯を まばゆく飾る 稲穂かな

12:10-12:50

稲穂の中の紅一点
あまり時間もないので、HUSTLERのエンジンを始動し次の目的地へと向かう。が、走り始めてすぐ、輝くばかりの稲穂たちに囲まれる。ここにHUSTLERの赤をなじませてみたくなった。昨日は小柄な自転車の赤だったが、今日は大柄なクルマの赤を。うん、似合うかも。
磐梯を まばゆく飾る 稲穂かな

湖岸から見える湖そして山
湖岸を北上する私の視野には、常に磐梯山と猪苗代湖のペアがついて回る。切っても切れない関係。砂浜や船着き場や畑が現れては去って行くが、主役となる両者は相譲らず。常に視界に陣取って私を魅了しつづける。
青色を 湖面と空と 競いあい

やがてHUSTLERはT字路へと至る。左に折れると猪苗代町内や会津若松へと至る道。そちらの方角にも興味深い出会いがあるはず。が、今日は素直に右に折れる事にする。そしてすぐに上戸駅という看板を見つける。これはJR磐越西線の駅のようだ。今回の旅では機会があればこの辺りの小さな駅にも行こうと思っていたので寄ってみる。

上戸駅舎箱型の駅舎に単線ホームが伸びる単純な構造。だが、これがいい。そっと集落の一員として溶け込んでいる様が。実はこの駅は旅客としてかつて通り過ぎたことがある。12年ほど前に、友人と二人で八王子、小渕沢、小諸、姨捨、長岡、新潟、会津若松と一泊二日の旅を楽しんだ。新潟から会津若松まではSLばんえつ物語というイベント列車に乗り、会津若松から郡山で乗り換えて東北新幹線で帰った。その際、確かにこの上戸駅は通ったはず。上戸駅の駅名標
だが、全く記憶にない。ついでに言えば、その際に乗り換え駅として利用したはずの郡山駅の記憶も全く残っていない。当時は全く郡山の街にも駅にも興味がなかったことが分かる。その当時の写真を出して見ても、猪苗代駅の次の写真が池袋なのだから。猪苗代湖の湖面もおぼろげに記憶はあるが、じっくり見ずに通り過ぎただけだった。あかべぇの書かれた車両が発車する瞬間

だが、今回はしっかりと猪苗代湖、そして上戸駅を心に刻んだ。写真を撮っているとちょうど郡山行きの列車がやって来た。側面に会津若松のマスコットあかべぇが描かれた車両だ。黒みの車体が何だか似合っていてかわいい。車掌さんも女性だし。

12:50-13:50
磐梯熱海駅構内
次に車に乗って向かったのは、磐梯熱海駅。この駅は東北の駅百選にも選ばれている。なので寄ってみるつもりだった。熱海という名には由来があって源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした合戦の後、磐梯熱海駅舎鎌倉出身の武士が地元の熱海の名を付けたのが始まりだという。つまり、安積開拓の行われるはるか以前から、郡山にも土地の名所はあったのだ。ここは覚えておかねば。磐梯熱海駅の駅名標

磐梯熱海駅の足湯
駅前には足湯が設けられ、のどかな時間が駅前を覆っている。駅舎にもホームにも入って撮影した。誰もホームで電車を待っておらず、百選の駅らしからぬ人気のなさ。個人的には自由にホームを歩きまわれたので問題ない。が、これは2011年3月以前からも変わらぬ光景なのだろうか。少し心配になる。

13:50-15:20
続いて向かったのは銚子ケ滝、昨日の乙字ケ滝に続いて日本の滝百選に選出された滝だ。カーブ続きの山道を登ったところ駐車場があったが、駐車場から上に登ると車道が。そしてその車道をさらに登ることになる。それならこの車道を車できたほうが早く行かれるんじゃね?ということで、カーブ続きの山道を戻り、郡山市ふれあい牧場の敷地にはいる。その中を突っ切ると、先ほどの車道を通って銚子ケ滝入り口へ。ここからもさらに20分ほど山道を歩く。たまに人にすれ違う以外は、一人の山歩き。そしてこのあたり、熊が出没するそうで。熊出没注意の看板
うーん、出遭った時はその時。と覚悟を決めて山道。ここからは安達太良山への登山道にもつながっているのね。時間があったら登ってみたい。が、私の思いとは裏腹に、道は急激な下りに。これがまた、実にきつい下りだった。鎖場も途中にあるほどの急坂。入り口に軽装禁止と注意書きされていたのが良く分かる。
熊の住む 道行く声も 高らかに
誰一人 見えぬ山道 息荒く

銚子ヶ滝
それだけの苦労の甲斐あって、眼前に見る銚子ヶ滝は見事。途中にある大岩に水流がぶつかり、水がぶわっと広がりつつ落下する。その形が酒を入れる銚子のように見える。自然の造形の妙が味わえる滝といってよいだろう。私にとって銚子ヶ滝は日本の滝百選の中で訪れた21箇所目。その中でもこちらは形のユニークさとアプローチの急峻さで記憶に残るに違いない。

帰路には、森閑とした木立の向こうできつつきが立てる音を生で聴く。得がたい経験。
きつつきの リズムにしばし立ち竦む

誰も居ない山道を急ぎつつ、私の頭には次の行動をどうするか目まぐるしく考えていた。すでに時刻は15:10。ここで今日の行動を終了させるのか。それともあと一つ達沢不動滝にも足を向けるか。

15:20-17:15
車に戻った私は、車のカーナビで達沢不動滝の位置を探す。すると、ここからそんなに離れていないことを知る。これは、、、、行けるかも!

HUSTLERには少々酷だが、カーブの度にタイヤが悲鳴を上げる。ふれあい牧場までかっ飛ばす。そしてカーブ続きの山道を登り、裏磐梯の高原地帯を一路、達沢不動滝まで。この道路もじっくり運転すれば見ごたえのある景色が続いていたが、私にはただ達沢不動滝しか見えない。かなりの速度で突っ走る。

私の無茶な運転は、達沢不動滝前の駐車場で終わりを告げる。そこから渓流と木立に沿った道を走る。居合わせた10数名の人に、走る私はさぞや人目を引いたことだろう。

不動堂
が、不動堂を前に先客が。足腰の不自由な年配の方が杖をつき、介添えの方二人と一緒に歩を進めている。ここで、私も深呼吸。17:30までにHUSTLERを郡山駅東口のカーポートに返さなければという焦りはあれど、ここで強引に前を行くのは諌めなければ。自分の運の強さを信じ、まずは不動明王の碑に向かって一礼。そして前の二人を待ち、滝へと踏み出す。

達沢不動滝
達沢不動滝。実に端正な滝姿だ。巨大な一枚岩の幅の全てに水が流れ落ち、滝と岩が一体となっている。そしてこの造形には人の手は関わらず、自然によるものだ。この姿を見て仏性が宿っていると古人が考えたのもうなづける。私もしばし滝の前に立ち尽くし、時間のたつのも忘れ、ただ見とれる。だが、よくよく見ると一見すると端正なこの滝だが、滝つぼにあたる岩の前には大小の岩が並んでいる。おそらくは上流から運ばれてきた岩なのだろう。角も粗削りで、険のある様子。端正なだけではないこの滝の本性を見た気がする。不動明王をこの滝になぞらえた事も納得。
端正な 滝の本性 壺の岩
先駆けて 寒気に慣れし 紅葉かな
滝打たれ 巌の末も 砂ならん

じっくりと滝を見ていると、奥まったところにもう一つの滝も見える。よくみると「女滝」という案内板も掲げられている。なるほど、先に見たほうは「男滝」に当たるのか。「女滝」のほうは奥まったところで縦に長く水が糸を引いているような姿をしている。二つの滝の比較にも興が湧く。対比の妙が楽しめることもポイントが高い。

さて、離れがたいが、そろそろ行かなくてはならない。レンタカーをの延長は避けたいところ。

HUSTLERに最後の一踏ん張りをお願いし、郡山市街まで車を駆る。 行楽帰りの車が多く、渋滞っぽい速度減もあったが、17:15に無事に到着する。返却期限の15分前には到着出来た。それにしてもカーシェアリングは初めて利用したが、カーナビの仕組みをうまくビジネス用途に改造している。これもkintoneと連携したいと思いたくなる。

さて、郡山に戻ったからには、イベントに顔を出さねば。。。という望みは、実はすでに潰えていた。郡山市街に向けて最後の工程に入る前にウェブで調べたのだ。終了15:00だとか。申し訳ない。

だが、最後にまざっせプラザに行って後片付けの現場で一言ご挨拶出来れば。。。と思ってまざっせプラザに着いたら普段通りの平常営業モード。果たしてイベントやってた?という感じの。店の中には昨日と一昨日お世話になった皆様がいらっしゃったので、一言声掛けて行こうか迷ったのだが、わざわざどうかと思って声をかけずに去る。こう言うのって多分都会の人間の駄目なところなんやろなあ、と後から反省する。でも、まざっせプラザの皆様にはいい郡山の印象を与えて頂き感謝。そして、それを潮に離れがたく思っていた郡山を去る決心をつける。

The Bar Watanabeの前を通り、フルーツたっぷりカクテルで店構えが引かれるAikaにも寄りたかったが、我慢して駅へ。郡山駅コンコースに掲げられている歴程

郡山駅で買った切符のつり銭
駅では郡山の思い出をモノで残そうと、お酒やお土産を買う。そしていよいよ切符を買う。すると戻ってきたのは十円玉数枚。しかも全て新品の。郡山を去るにあたって新品の銅貨が戻ってきたことに何かの示唆を感じる。これはまた郡山に来るということを示しているのではないか。帰りに乗ったはやぶさ

郡山から帰って数日の後、高幡不動を訪問した。高幡不動は新撰組に縁のある地。すなわち会津に縁のある寺だ。そこに何かの機縁を感じ、私も郡山駅で得た新品の10円玉数枚を賽銭として使った。

そのご縁からか、再び郡山に訪れることになった。訪れるのは11/12、13の両日。私が郡山で話した何がしかが評価を頂いたのか、それとも10円玉に込めた思いが通じたのかは分からない。でも、一つだけいえるのは、再度郡山に呼んでもらったからには、また全力でお話をさせていただこうと思う。

地図集

コンフォートホテル郡山から郡山駅東口駐車場への経路

郡山駅東口駐車場から郡山市開成館への経路

郡山市開成館から湖南公民館への経路

湖南公民館から青松浜湖水浴場への経路

青松浜湖水浴場から上戸駅までの経路

上戸駅から磐梯熱海駅までの経路

磐梯熱海駅から銚子ヶ滝入口駐車場への経路

銚子ヶ滝入口駐車場からふれあい牧場入口までの経路

銚子ヶ滝入口からふれあい牧場までの経路

ふれあい牧場から達沢不動滝への経路

達沢不動滝から郡山駅東口駐車場への経路

郡山駅東口駐車場からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから郡山駅への経路


弊社は、福島を応援します。(10/1版)


10/1

7:00-11:00
前夜は結構度数の強い酒を飲み、かなり酔っ払って寝てしまった。だが、目覚ましもなく起きる。10月の朝を迎え、昨晩やり残した月初仕事も終わらせてしまわねば。そんなわけで朝から仕事に精を出す。そしてこちらのコンフォートホテル、朝ごはんが無料で食べ放題。これは結構重宝した。

さて、朝から仕事をしながら私の心はかなり揺れていた。乙字ヶ滝に行くべきか見送るべきか。実はそのことについては郡山に来る10日ほど前から決めかねていた。kintone Café 福島 Vol.1の開演時間は15:00。そして会場となるco-ba koriyamaは駅からかなり離れている。自転車の返却期限はセミナー開催中にあたるので、その前に返しておかねばならない。つまり会場へはタクシーかバスか歩きで向かう必要がある。その時間も見ておかないと。一方、乙字ヶ滝へは片道19km。自転車で行けない距離ではない。そして、次に郡山に来られるのはいつになるか分からない。であるなら、今行かねばいつ行くのか。明日やろうは馬鹿やろう、だ。即断即決と猪突猛進の精神を発揮!

そんなわけで、昨日に続いてまざっせプラザへ。昨日はお見掛けしなかったお姉さま方に自転車の貸し出し手続きをお願いする。そしてお姉さま方はとても親切だった。15:00にco-ba koriyamaに行かねばならない旨を伝えると、その場で会場までの行き方を案内してくださった。しかもそこに行くためのバスの時刻表を調べてくださるとか。さらには昨日紙で作った会員証もラミネートまでしてくださるとか。そして全ての作業は私が自転車を返しに戻るまでに進めておいてくださるとか!すげえぜ!まざっせプラザ!やるな郡山!もはや私の抱く郡山への好感度は盤石の物に。

さて、顔中にまざっせプラザへの感謝の意を浮かべながら表に出た私は、力強くペダルを漕いで出発する。昨日借りたのはママチャリだったが、今日は少しスポーティーな赤い自転車。私の脚力を託すに相応しい相棒だ。ともに目指すは19キロ先の乙字ケ滝。4時間で戻ります!いや、戻らねば!

11:00-12:00
安積永盛駅北側ですれ違った貨物列車ここから私の旅路は南へ。県道17号線(旧国道4号)を南に下る。途中安積永盛駅へ寄り道しながら、須賀川市境で国道4号線へ合流。ここからは緩やかなアップダウンが続く国道沿いを疾走する。正直、私の脚力については全く不安はなかった。だが、もしタイヤがパンクしたら、チェーンが外れたら、という恐れがなかったといえばうそになる。でもここは自分の運と想いの強さを信ずるのみ。

この旅は自転車が頼り。それゆえ、悠長にタブレットの地図を見る間がない。まざっせプラザでいただいた大まかな地図を見ながらの旅となる。しかもその地図は郡山の地図。なので、須賀川市の詳細が全く分からない。そんな訳で須賀川市内ではかなりの迷走を余儀なくされた。後日確かめたところ、私の走ったルートは市内をかなり迷走していたようだ。末尾に地図をつけているのでもし興味があれば参照していただければと思う。だが、迷走もやがて国道118号線にたどり着き、終わりを迎える。迷いながらも私は始めて訪れる須賀川市に興味津々だ。道中には円谷幸吉記念マラソン大会の看板も掲げられている。須賀川市はウルトラマンの生みの親こと円谷英二氏で有名だが、悲劇の自死を遂げた円谷幸吉氏のふるさとでもあったのだ。両名は名字が同じだけでなく、同じ市内のご出身であることを知る。

沿道に並ぶ果実屋さん須賀川牡丹園を過ぎた辺りから、沿道には急に果物屋の路面店が立ち並ぶ。実はその時まで福島県がフルーツ王国である認識が抜け落ちてしまっていた。だが、この果物屋の立ち並ぶ様は、ここが果実生産の盛んな地であることを示すのに十分だった。このあたりの店主の皆様は風評被害にも負けず、がんばって営業されている模様。シャッターが下りている気配は感じられない。頑張って欲しいと思いながら通り過ぎる。ももがとてもおいしそうだったが、こちらは往復38キロを時間までに走破せねばならぬ身。皆さんが頑張っていることをブログに書くことを誓い、通り過ぎる。

橋の上から見る乙字ヶ滝そして、さらに進むと乙字ヶ滝の案内が。118号線を逸れ、少し下ると大きな橋が行く手に見える。どうもここが乙字ヶ滝のようだ。はて?日本の滝百選を擁する場所にしては広がりのある空間。どこに滝が?と思う間もなく、橋の上から見えるは滝の怒涛が散らす水しぶき。滝音も聞こえてくる。長さ100メートルほど、高さ10メートルの橋から見下ろす滝は、落差よりも広がりに見所があるようだ。橋の向こうには観光バスが停まっており、近づくと石碑も立っている。

乙字ヶ滝の石碑ここがまぎれもなく乙字ヶ滝。無事到着したようだ。時刻は12時少し過ぎ。須賀川市内で迷ったとはいえ、目標の1時間で到着できた。

12:00-12:30
乙字ヶ滝は、かの俳聖松尾芭蕉翁が奥の細道の途中で立ち寄った地。「おくのほそ道」は二年程前に読んだ。その旅情溢れる内容にとても憧れたものだ。その時に私を捉えた俳句の心についてはブログにも書いた。それ以来、旅立ちの地である千住大橋を除けば初めて訪れる「おくのほそ道」ゆかりの地がこちら。芭蕉句碑滝不動尊が鎮座し、境内は公園として整備されている。聖徳太子の石像や芭蕉翁と同行の曾良の石像も閑静な公園に立っている。また、芭蕉翁の詠んだ句が句碑として残されている。
五月雨の滝降りうづむ水かさ哉

河原から見る乙字ヶ滝の滝姿橋の上から見た乙字ヶ滝は、少々拍子抜けする佇まいであった。が、滝不動尊から、そして河原から見る乙字ヶ滝は、百選に選ばれることも納得の威容。落差こそないものの、川を横切る段差のそこここで滝が落ちるさまは必見。先日の台風の余波が水量に表れているのだろうか、中央部の段差がくぼんだ箇所には轟音としぶきが存在感を放つ。落差を求める向きには物足りないだろうが、私には旅情を誘うに十分。19km自転車を漕いできた苦労も報われた想いだ。ただひたすらにシャッターを切りまくる。

台風の 傷を癒して 海行かん
秋雨や 舞台に集い 水しぶき

12:30-13:20
38キロの友滝を目前にすると1時間2時間は苦にならない私だが、さすがにkintone Café 福島 Vol.1を控える今、長居はできない。名残の想いを遺しつつ去る。橋を渡り、国道118号に合流する道を進む。と、ふと思いつき仮初めの相棒となった愛車を写真に残す。今回はパンクもチェーン外れも無縁の、頼もしい相棒だった。感謝!

乙字に倒れた稲帰りは同じ道を迷わぬように郡山へ進路を取る。が、帰りは迷わぬよう一直線に、、、ところがそんな私を惑わすモノが道中にはたくさん・・・まずは、田植えを目前にした稲。これが先日の台風の影響だろうか、綺麗に乙字型に倒れている。これもまた旅の一情景。
台風に 薙がれて稲穂 乙字かな

ウルトラマンゴモラ

エレキング
エレキング
ゼットン
ゼットン

須賀川駅せっかくなので、須賀川駅にも立ち寄る。ここは須賀川市の玄関口。駅前広場にはウルトラマンの像が変身のポーズで立っている。ウルトラマンと町を結びつける面白い試みは駅舎内でも見られた。そこで知ったのだが、M78星雲 光の国と須賀川市は姉妹都市提携を結んでいるという。一般市民も光の国に住民登録できたりするのだ。実は訪問前まで、失礼ながら須賀川市とは郡山市の陰に隠れがちの衛星都市のように考えていた。しかし、こうやって訪れてみると魅力的な街づくりに力を入れていることに気付く。坂が多く、自転車でうろつき回るには難儀する街だが、観光資源の豊かさではお隣の郡山にも引けを取らない。しかもゆくゆくは円谷英二、円谷幸吉の両氏を顕彰する記念館もできるのだとか。須賀川市にはまた来てみたいと思った。

13:20-14:40

さて、須賀川駅を後にした私、この時点で時間は13時20分過ぎ。そろそろ郡山に向かわねばまずい・・・。と急ぐ私の行く末には、福島の魅力がさまざまに形を変えて立ちはだかる。

下江持橋からの阿武隈川須賀川駅から北に進路を向けてしばらく走ると阿武隈川を渡る下江持橋にたどり着く。乙字ヶ滝以来、久々に見る阿武隈川だ。この橋から見る阿武隈川は実にゆったりと流れていた。大河の持つ器の広さとでも言おうか。この後も阿武隈川とは付かず離れず郡山に向かうことになる。阿武隈川と付き合ってみて思ったのは、安積地域の起伏が穏やかな地勢には、阿武隈川の穏やかな感じが似合っているということだ。今回郡山に訪れる前に私が印象として持っていたのは、郡山を中心とした安積地域が原発事故の風評被害に苦しんでいるということ。私はそれに何かしらの助けをしたいと思ってやって来た訳だ。そして、こうやって安積地域を走り回って思ったのが、まったく普段通りの姿であること。痛々しい姿も、肩肘張った姿も、人々の言動や山河のたたずまいからは感じられなかった。それも、阿武隈川のゆったりした流れから受けた印象なのかもしれない。

残土処理場の看板そんな私が、今回の2泊3日の間に唯一見かけた原発事故の余韻がこちら。下江持橋をわたってすぐの場所に掲げられていたこちらの看板からは、須賀川市もまた原発の余波に苦しんだ街であることが見て取れた。しかし、先ほど通りがかったフルーツ街道も、乙字ヶ滝のしぶきも、この後見る稲穂のざわめきも、原発事故などなかったかのように普段通りの日々を営んでいる。

みちのく自転車道とかかしさて、看板の存在を考えながら自転車を漕ぐこと数分、みちのく自転車道という案内看板を見かけた。実は下江持橋を渡った時点で、すでに往路とは違った道を通っていた。迷いかねない行いの上に、ここにきてさらにこのような魅力的な名前の自転車道が、、、。そして私はこの自転車道に乗り入れることを決意してしまう。頼れるのは己の方向感覚のみ。往路に須賀川の街中で迷ったことも忘れ、自分を過信するのが私の欠点であり長所なのだが。。。自転車道の入り口でこんな風にかかしに招かれたら普通は見過ごせないでしょ?

見えるはただ稲穂のみさて、みちのく自転車道に入り込んだ私。すぐに不安を一掃するような景色に出会う。それがこちらの写真。人家はおろか、文明の痕跡すらほとんど画面に映らぬ中、ひたすら続く黄金の稲穂の絨毯。しばしkintone Café 福島 Vol.1までのタイムリミットも忘れ、呆然と立ち尽くした。自然の力とは偉大だ。風評被害などというものは、この写真一つで吹き飛ばせるのではないか。畑に少し近づくと、路肩から次々と無数のバッタやカエルが母なる田んぼへと飛び込んでゆく。太古から繰り返されてきた微笑ましい生命の営みがここにはあった。先ほど見かけた除染処理の看板のことなど忘れさせるほど変わらない普段通りの光景。収穫の時を迎えようとする稲穂からは、豊穣の香りが立ち上る。
旅人を 迎えて稲穂 おもてなし

こんな素晴らしい景色を前にして、子供達を避難させよという主張の意味が分からない。
実は、昨晩、夜の郡山駅前で数名による街頭演説を見かけた。そののぼりに書かれた文章を読む限り、子供達を郡山から避難させよというのが彼らの主張らしい。だが、彼らのアジテーションたるや、今まで私が聞いたアジの中で最もひどく、聞くに耐えない内容だった。郡山の人々を罵倒し、自分たちの主張に従わないことが愚の骨頂のように言い募る。別の方のしゃべりは滑舌もリズムも悪く、何を言っているか良く聞き取れない。彼らはわざわざ彼らの主張の反対者を増やすために演説をしているようにしか見えない。これでよく郡山の人々が怒らないなあと思えるほど。アジテーション以前の拙劣極まりない内容だった。そして私は思う。彼らは郡山や須賀川近郊の全ての光景を目にした上でなお、子供を逃せという主張を述べているのだろうか、と。
私とて、まったく放射能が郡山に及んでいない、とは言わない。しかし、それを云えば私が住む東京都町田市も似たようなもの。だが、原子炉周辺の明らかに人体に害を及ぼすシーベルトは郡山では検知されていない。であるならば、ことさらに人々を惑わせてどうするのか。すでに郡山に生活基盤を築き上げた人々に、何をもって全てを捨てて移住せよいうのか。あまりに暴論。あまりに拙劣なアジテーション。郡山の人々に触れ合い、郡山周辺に広がる美しい山河を見た私は、彼らの主張にはっきり反対を申し上げたい。

阿武隈川を渡る水郡線の橋梁稲穂に出迎えられているかのような錯覚と感動の中、私は自分の方向感覚を信じ、みちのく自転車道にある看板から得られる情報を確かめながら北上した。それにしても、この自転車道、ほとんど人に遭わない。こんなに風情に溢れた自転車道だというのに。あまり存在が知られていないとしたら、実にもったいないことだと思う。だが、そのお蔭もあって、私は快適にみちのくの風を感じながら走ることができた。そして、かなり走ったところで水郡線の鉄橋が見えてきた。確か私の記憶では水郡線の鉄橋が見えたら郡山市ではなかったか?そして、それを裏付けるように、私が持っていた郡山の地図にそれが載っている。私の地図が再び役に立つようになった。ようやく郡山市に戻ってきた。あと少しだ。
それにしても、この鉄橋、なかなかよい感じ。鉄ちゃんにはとてもよい撮影ポイントではないか。私が通り過ぎた際にも一台の車が待機していた。多分鉄っちゃんが撮影を狙い済ましつつ、カップラーメンを食べている現場だったのだろう。あくまでも想像だが・・・私も時間に余裕があれば、一緒に麺をすすりながら、撮影のタイミングを待っただろう。

東北新幹線の阿武隈川橋梁水郡線の撮影を諦め、早くホテルに戻って一ッ風呂浴び、kintone Café 福島 Vol.1の会場に駆けつけねば、という私の思い。だが、そんな私の思いは、川の土手をさらに北上したところで頓挫する。そこには東北新幹線が阿武隈川を渡河する絵画的な景色があった。彼岸花ですよ。阿武隈川ですよ。そして東北新幹線ですよ。こんな絶好の写真ポイントを見つけて逃さない訳には行かないじゃありませんか。本数の少ない水郡線の通過に巡り合える幸運を待つよりは、頻繁に行き来する東北新幹線ですよ。シャッターチャンスにも恵まれるはず。このチャンスを活かさない手はないでしょ。

阿武隈川を渡るはやぶさと
彼岸花そう思った私だが、10分近く土手にしゃがんで待つことになる。ちょうど前の列車が通過した後だったらしい。しかし、迫り来るタイムリミットに耐えつつ待った私の前に轟音を立てつつやって来たのは多分はやぶさ。そしてこれが私の撮影の成果である。実に満足。
橋わたる はやぶさ追って 彼岸花

さて、写真を撮り終えた時点で、14:10分が迫っている。さすがにやばい。この土手からは、郡山の駅前で無類の高さを誇るビッグアイが見える。しかしそのサイズたるや、まだ肉眼で10cm程度。そしてこの時点ですでに私の足腰は疲れを見せ始めている。さすがに寄り道しすぎた、やばい・・・。ここからは寄り道せずに土手を疾走することになる。

私がコンフォートホテル郡山に戻ったのは、14:25のこと。駆け込むように部屋に戻ると、手早くシャワーを浴び、PCを準備して、エバンジェリストのポロシャツを着て飛び出す。まざっせプラザのお姉さんに伝えていた返却予定時間は14:30。結局私が返却したのは14:39頃のことだった。この十数分の私の行動たるや、疾きこと風のごとし。自分でも後から思い返してよくやったと思えるほどだ。ホテルからまざっせプラザまでは結構距離があるというのに。

14:40-18:00
まざっせプラザ入り口まざっせプラザのお姉さんからは、しっかりとラミネート化された会員カードを渡される。そればかりか、co-ba koriyamaへのバスルートもきちんと調べてくださっていた。素晴らしいご対応には感謝の言葉しかない。そしてお姉さんによると、私が向かうべきバス停の名前は、中央大町バス停という。場所はまざっせプラザから駅前大通りを挟んだ反対側。私の足は今にも攣りそうだったが、気合でわたる。バス停で時間を調べると14:41発のバスに間に合う!しめた!とやって来たバスに乗ろうとすると、そこで見知った方とばったり。

バス停にいらっしゃったのは、昨日のセミナーでお世話になった主催者の方。同じくkintone Café 福島 Vol.1会場へ向かうところで、私がまざっせプラザでバスの行き方を聞いていたことを知り、果たしてバスに乗れるかと気にかけてくださっていたのだ。なんと親切な。昨日に引き続き、郡山の人々の人情に触れた思いだ。会場までのバスの道中では、もう一方ともお知り合いに。昨日のセミナーにはいらっしゃらなかったけど、kintone Café 福島 Vol.1には参加されるとか。しかも町田を深くご存じの方。郡山の観光振興をされているその方も一緒に、私の行きたてほやほやの須賀川への旅の話題で盛り上がる。先にも書いた両円谷氏の記念館が開館予定であることは、その話題の中で教えてもらった話だ。いろいろなご縁が郡山を中心につながっていく様は、実に喜ばしい。

co-ba koriyama外観
あっという間にバス停に到着し、バス停からすぐ近くのco-ba koriyamaへ。なんと、15:00の開場に間に合った。38km以上走った末のぎりぎりの到着。開場には東京や横浜、秋田や仙台からのお客様も交え、大勢の人で熱気が渦巻いていた。私も、まだ息があがったままで汗がだらだらと流れている状態であったが、あらためて気合いが入る。

終了後の集合写真↑kintone Café 福島 Vol.1については、こちらのブログに記載しています。

18:00-23:00
ハイカラヤでの懇親会第一部の様子さて、kintone Caféは、kintoneを通した勉強会と親睦を兼ねた集まりだ。懇親会は欠かせない。昨日のセミナー後は飲まなかったので、この集まりでは郡山の人々と語らってみたいという思いがあった。そして実際、この酒席は実に楽しかった。接待のような上下関係のある飲み会が苦手な私。だが、この飲み会では、セミナー講師や登壇者としての意識の断絶を全く感じさせず、以前からの郡山に住む人のように酒席に溶け込めた。テーブルの下では私の足が痙攣し、飲み会の最後では寝てしまうという失態をやらかしたにも関わらず。とても気持ちよくお酒が飲めた。この二日間で思ったのが、私は郡山という街と相性が良いということだ。郡山には今までご縁がなかったはずなのに。出席されていた皆様、ありがとうございます!

また、この飲み会では、郡山の方の風評被害への憤りも少し伺えた。昨晩郡山駅前で見かけた街頭演説や、今日の須賀川で見かけた除染施設の看板など、原発事故がいまだ影響を及ぼしていることは感じられた。が、郡山と福島の街をあれこれ巡ってみて、そういった過度の不安は杞憂に過ぎないことも体感した。郡山は普通であり平常なのだ。郡山に住むほとんどの人はそう思っているし、私も実際に訪問してみてそのことを強く思った。それだけに県外から届く風評被害の心無い意見には悲しさと憤りを感ずるのだろう。私もこちらのエントリーを通して、そういった風評には異を唱えたい。

一次会会場のハイカラヤでは少し寝てしまった私。気持ちよく酔っ払ってしまったが、二次会の古酒屋では持ち直す。遠方からの方は一次会で帰ってしまったが、二次会では6人で楽しく語らうことができた。駅から数キロはなれた場所にもこういったおしゃれなお店が点在するあたり、郡山という町が一朝一夕に作り上げられた街でないことが良く分かる。古酒屋から郡山駅までは約3km。私にとっては楽勝の徒歩圏内だが、私に付き合ってか皆様も一緒に歩いてくださる。その道中では、夜風に吹かれながら徒歩でしか気づくことのない郡山の魅力を教えてもらう。地元の人々と街を語りながら歩くという機会はそうそうあるものではない。郡山という街がどうやって成り立って来たのか、酔った頭にも好奇心が沸いた。

同行の皆様とは三々五々別れたが、最後のお一方は、コンフォートホテル郡山まで、私のことをお送りしてくださった。郡山の方は掛け値なしに親切だなあと思う。感謝の念とアルコールに深酔いしつつ二日目の夜は幕を閉じる。

地図集

コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(Google Map)
まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路

まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(須賀川市境まで)(Google Map)
まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(須賀川市境まで)

まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(須賀川市内迷走)(Google Map)
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まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(乙字ヶ滝付近)(Google Map)
まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(乙字ヶ滝付近)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(下江持橋まで)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(下江持橋まで)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道1)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道1)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道2)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道2)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(コンフォートホテル郡山まで)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(コンフォートホテル郡山まで)

コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザからco-ba koriyamaへの経路(Google Map)
まざっせプラザからco-ba koriyamaへの経路

co-ba koriyamaからハイカラヤ郡山あさひ通り店への経路(Google Map)
co-ba koriyamaからハイカラヤ郡山あさひ通り店への経路

古酒屋からコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
古酒屋からコンフォートホテル郡山への経路


弊社は、福島を応援します。(9/30版)


9/30

9:00-10:00
小田急線で新宿へ。そこから埼京線の通勤快速で大宮へ。道中、並走する東北新幹線を意識する。まもなくこれに乗って東北へ行く。ビジネスの旅とはいえ、高揚する思いは旅の始まりのそれと同じだ。不安は微塵もない。

10:00-11:00
郡山駅に到着したやまびこ45号10:06発のやまびこ45号に首尾よく乗車。宇都宮に停まると次が郡山。わずか二駅の旅。とはいえ、旅情に浸る間も惜しんでプレゼン資料の最終チェックを行う。文字の字切れや不鮮明箇所はないか、話す内容の構成に破綻はないか。うん。問題ないようだ。チェックの最中にも、ケータイ国盗り合戦も併せてチェック。特に宇都宮以北は未踏の地であり、全てが初制覇だらけなのだから。那須を過ぎると急にあたりの光景は山あいのそれへと変わる。自分のビジネスキャリアが今まさに白河の関を越えようとしている事を実感する。空は青く、たなびく雲は白い。不思議なほど緊張していない自分がいる。むしろワクワク感のほうが強い。

11:00-12:00
郡山駅前の広々した広場郡山到着。早速荷物を担いで駅コンコースへ。で、でかい・・・私の想像よりもかなり立派なコンコース。長野や仙台、盛岡のような県庁所在地の駅に降り立ったような感がある。郡山という街を軽くみていたのかもしれない。想像していた以上に大規模な駅のようだ。そして、そんな驚きは駅前広場でさらに強まる。堂々たる駅の面構え。駅前広場に集っては散るバス達。広場には滝が流れ、ベンチでくつろぐ人々にすら田舎の日向ぼっこの雰囲気は皆無。都会のベンチでくつろぐ人々のそれだ。

郡山駅前の広々した広場おや? 駅前広場に手形が・・・何やろ? あ、Greeeenの。あ、そうか、Greeeenって郡山か。この鮮やかな緑のドアは、何かのオブジェかな? あ、Greeeenにちなんだドアやった。セミナーに先立って郡山に縁のある人物や作品を調べてきたつもりが、すっかりGreeeenが抜けていた。そういえばミューカルとかいう音楽ホールも郡山にはあったような・・・

福島到着の第一印象は、駅の玄関口としての威容である。このような立派な面構えの駅前から受ける印象は都会以外の何物でもない。このような都会の商工会議所でセミナーを務めさせていただくことにあらためて襟を正す思いでまざっせプラザへと向かう。

まざっせプラザへは、レンタサイクルを借りるために向かった。事前に調べたところではまざっせプラザは郡山の観光案内所のような役割を担っているとか。自転車の予約空き状況も調べたところ、借りられそうだったので事前予約はせずに訪問。 開店早々だったのでまだお客様もおらず暇だったのだろうか。スタッフのお兄さんがとても親身に対応してくださった。郡山が初めての私に、惜しみなく情報を提供してくださる。開成館に行きたいというと、「お目が高い」とお褒めの言葉を頂戴してしまった。そして、夜のお勧め飲み屋や、郡山に来たならこれを食べてほしい、というクリームボックスの情報までも。もちろん、飲み屋のことは知らなかったし、クリームボックスも初耳。まざっせプラザでこうも親切な助言に触れたことで、幸先よく郡山に溶け込めそうな感触を受けた。まざっせプラザのお兄さんには感謝しないと。 http://www.mazasse.com/

さて、郡山の足を手に入れた私。この時点ですでに時間は11:30近く。13:00には郡山商工会議所に伺うお約束。しかも、一番大きいスポーツバッグが自転車の籠に入らないことが判明。お兄さんからは近くのうすい百貨店の地下にコインロッカーがあるという有益情報が。この情報もすごく助かった。

うすい百貨店ロッカー前のガラス戸
うすい百貨店へ。そして私は、ここでも郡山の人の親切心に触れることになる。入り口から地下に降りるとよくデパートにある大きなガラス戸がある。そしてその戸は閉まっていた。大きな荷物を持った私が戸を開けようとする間もなく、向こうからやってきた通りすがりのお姉さんが開けてくださったのだ。しかも、私がお礼したところ、「どういたしまして」とちゃんと言葉で応答がある。こういう何気ない動作に、郡山の皆様の民度と人柄が表れる。惚れてまうやろ~郡山~♪

さて、身軽になった私は、一目散に駅前大通りを西へ。目指すは開成館。でも、途中で大友パンに寄らねば!まざっせプラザのお兄さんからはガイドブックに載っている何店舗かのクリームボックスの扱い店を教えていただいた。中でも発祥の地である大友パンがおすすめだとか。地図を見たところ、大友パンは具合のいいことに開成館への道の途上にある。これは寄らねば!そしてクリームボックスを昼飯にしようではないか!

大友パンでのクリームボックス大友パンに着いた私は、早速クリームボックスを購入。プレーン味とカフェオレ味の二種類。食パンの上に、たっぷりとクリームを乗せたその姿は、他の地域では見られないインパクト。なるほど、確かに名物を謳うだけのことはあるなぁ。Retty

食料も調達できたことだし、あとは開成館へと向かうだけ。道中、マンホールの写真を撮りながら、自転車をこぎ続け、無事開成館へ到着。結局着いたのは12:00頃だった。

なぜセミナー前のわずかな時間に開成館に来ようと思ったか。その理由は二つある。一つは、マンホールカードの配布場所が開成館だったから。セミナーの自己紹介の際に「つかみ」としてマンホールカードの実物をぜひお見せしようと思った。そしてもう一つの理由は、郡山の街の風土を知るのに、安積開拓の生き証人である開成館を見るのがよいと思ったから。初めてお会いする方々の前でセミナーを始めるに当たっては、最低限その街のことを知っておくのが礼儀と思う。なので、たとえ1時間半しか余裕がなかろうと、自分の脚と眼で開成館を見、安積開拓の苦労と、その後の発展のきっかけを知りたいと思っていた。

↑今回、開成館で入手したマンホールカードについてはこちらのブログに記載しています。

12:00-13:00
郡山市開成館入り口上に紹介したブログにも書いたが、開成館の入り口にはマンホールカードが飾られている。「欲しいのですが」という私の言葉に受付のおじさんは快く応じてくださった。そればかりか、台紙までつけてマンホールカードについてのご説明をしてくださる。その台紙にはもう一箇所、郡山で配布するもう一枚のマンホールカードを挟み込むスペースがある。そのもう一枚の入手先である湖南公民館への行きかたを一生懸命に説明するおじさん。一連のやりとりを通し、郡山の人柄がこのおじさんに集約されている気がして、ますます郡山を好きになる。

門扉越しの開成館門扉越しに見る開成館の威容たるや、まさに明治の男たちの夢そのもの。ぜひ中に入りたかったのだが、ここで中に入るとセミナーに間に合わない。郡山滞在中に必ず再訪することを誓う。また、クリームボックスも開成館で食べようと思っていたが、良く見ると開成館の傍には斎場が。斎場の前でフォーマルな格好のおじさんがレンタサイクルにまたがり大口開けてクリームボックス・・・万が一にもこんな姿をセミナー参加者にさらすわけには行くまい・・・・断念して戻る途中で見かけた良さげな公園を昼食場所に定める。

開成山公園と今日の愛車さて、私が訪れたのは開成山公園。なかなかよさげな公園だ。郡山の街中を走って思ったのが、公園の多さ。この公園もにわか写真家の魂をうずかせる・・・そういえばまだ今日の愛車を撮っていなかったので、こちらで一枚。

開成山公園でクリームボックス
こちらが郡山でいただく初のお食事。郡山のご当地グルメことクリームボックス。うん。うまい。このこんもり感がたまらんね。時間がない私にはちょうどよい食事だった。あらためてまざっせプラザのお兄さんに感謝。

不死鳥舞う開成山公園それにしても、空が青い。なんという天気。こんな空の下で食べるクリームボックスはうまい。セミナー開始まであと1時間強というのがとても信じられないほど。ベンチに座って目の前の小僧の銅像を眺めていると・・・目の前の雲が不死鳥に見えてきた。いや、これはどう考えても不死鳥に違いない。クリームボックスを平らげた私は写真を撮りまくる。そして空に見惚れる。私が郡山でのセミナーが成功することを確信したのはこの時だった。すくなくとも壇上であがって支離滅裂になったり、プロジェクターや通信環境が途絶して立ち尽くす様なことはあるまい。
それだけの確信を、私はこの青空と不死鳥から受け取った。なんといってもこの雲は郡山、そして福島の再生。そして私自身のこれからの象徴なのだから。

不死鳥が 空に羽ばたき 旅路かな

開成山の大シダレザクラ麗山公園帰りの自転車を漕ぐペダルにも力が入る。途中立ち止まったのは開成山の大シダレザクラ。こういうのが道端に何気なくたたずんでいるのもよし。さらには麗山公園へ。この公園も開放感があり、それでいて洗練されている。ここまでで私にとっての郡山の街中のイメージはほぼ定まった。駅前は立派。通り過ぎた駅前すぐの歓楽街も淫靡に染まらず、あくまで夜の社交場の節度を保っているように見える。目抜き通りも活気を保っている。少し離れると公園や落ち着いた住宅街、歴史的建造物が控えている。グラウンドも開成山公園で見掛けた。郡山という街を走り回って感得したのは、街を形作るさまざまな要素がうまく配置されているという印象。街歩きが趣味の私にとって、住んでみたいと思わせる町だった。

安積国造神社商工会議所の場所を確認しつつ、街中に戻った私。うすい百貨店で荷物を取り出したのだが、またしてもガラス戸でお手伝いしてもらう。さっきとは違う方だったが私の発するお礼に対して返答が返ってくるのは同じ。なんというフレンドリーな街なんだろう。この期に至り、私はすっかり郡山が好きになってしまった。そんな高揚した気持ちのまま、まざっせプラザに無事自転車を返却し、お礼を述べつつ、荷物を持って商工会議所まで歩く。
おっと、まだお伺い時間には時間があるなぁ。安積国造神社で参拝をしなければ。その土地の国津神には参拝をし、その土地に敬意を表さないと。今回は旅人としてではなく、一人のビジネス人として来ているのだから。参拝を済ませ、いよいよ郡山商工会議所へ。

13:00-16:00

郡山商工会議所外観敢然と郡山商工会議所に入る。セミナー開始まであと1時間。それにしても洗面所で見た私はかなり汗だく、そして顔色も悪く見える。睡眠不足が続いたとはいえ、かなり病的。これはいかんと洗面所で念入りに顔を整える。そして会場となる五階会議室へ。私の第一印象は皆様にどう映っただろうか・・・

↑このセミナーの内容については、こちらのブログに記載しています。10/4付けの福島民報でも記事にしていただきました。

16:00-19:00

郡山駅東口セミナーが終わった私は、そのまま歩いて駅の反対へ。私が投宿するホテルは郡山駅の東口から少し歩いたコンフォートホテル郡山。このホテルはセミナー主催者の方に教えていただいた。評判も上々なのだとか。高揚した気分の私は、立体交差を越え、遠回りしてホテルへと向かった。郡山駅は西口が栄えているが、東口は一転して静か。それもそのはずで、駅の東口は貨物ヤードが広がり、その横には保土谷化学の郡山工場が広大な敷地を占めている。ホテルの窓からみた郡山駅東口は、西口とは違った顔を持っているようだ。
ホテルにチェックインした私は、しばらく旅の疲れを落とした後、夜の仕事の準備を行う。月末日なので月替わり処理の準備や、翌日に控えたkintone Café 福島 Vol.1の準備も進めないと。

夜の郡山駅東西連絡通路いったん、偵察もかねて夜の街に食事に向かった私。先ほどと違って駅の東西自由通路を通る。この自由通路が結構長い。400メートルほどあるらしい。なので、駅前にあるはずのコンフォートホテルからは600メートルは歩かないと駅のコンコースにはたどり着けないことになる。これが今後の郡山市の発展の上で障害とならねばよいのだが。東口では何かの工事が進んでいたようだが、すでに市当局も改善に向けて策を打っているのだろうか。

19:00-25:00

夜の街を歩き回ってラーメンを食べ、ホテルに戻った私。猛烈に作業を行い、23時過ぎにもう一度駅前へ臨むことになる。

金曜夜の郡山。それは昼間見ただけでは気付きようもない郡山の別の顔。私が毎月恒例の一人飲みの宿り木として伺おうと決めていたのはThe Bar Watanabe。こちらのバーは、kintone Café 福島 Vol.1の主催者の方よりお勧めバーとして教えてもらっていた。ところがこれが見つからない。同じブロックを三周ほどしてようやく見つけた。そしてその間に呼び込みのお兄さんお姉さんに何回も声を掛けられる。黒服の方々は、この界隈だけでも50人近くは見かけただろうか。でも、その呼び込みはしつこくない。こちらが手を振って断るとすっと引き下がってくれる。結構洗練されているかも。郡山って。

そして、私がようやく見つけたThe Bar Watanabeは、東京でもなかなか見られないほどの隠れ家度。The Bar Watanabeの入り口
内装も酒の種類も雰囲気も良い感じ。結局閉店の1時までお店にいついてしまった。The Bar WatanabeではArdbegとMaker’s Markの46プルーフ、さらに店主秘蔵酒をいただく。この秘蔵酒の正体とは、、、うー、書きたい。でもこちらの秘蔵酒は写真撮影すらNG。それもその筈で、この酒がこの値段で飲めるとは!という逸品だった。これ飲むためにもう一度訪れたいぐらいの。うー書きたい、けど書かないし載せない。Barへと続く通路

通路と外の世界を隔てる扉
でも、郡山のナイトライフも堪能できたのでよしとしよう。郡山の洋酒文化の成熟度も知ることができたし。なお、お勧めいただいたBarは他にも3軒。全てが良さそうで、行きたかったのだがすでに時間的に閉店の模様。これは再訪したい!満足しつつ郡山で過ごす最初の夜は更けて行く。

地図集

郡山駅からうすい百貨店への経路(Google Map)
郡山駅からうすい百貨店への経路

うすい百貨店から郡山市開成館への経路(Google Map)
うすい百貨店から郡山市開成館への経路

郡山市開成館からまざっせプラザへの経路(Google Map)
郡山市開成館からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから郡山商工会議所への経路(Google Map)
まざっせプラザから郡山商工会議所への経路

郡山商工会議所からコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
郡山商工会議所からコンフォートホテル郡山への経路

コンフォートホテル郡山からあさくさラーメンへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からあさくさラーメンへの経路

あさくさラーメンからコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
あさくさラーメンからコンフォートホテル郡山への経路

コンフォートホテル郡山からThe Bar Watanabeへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からThe Bar Watanabeへの経路


弊社は、福島を応援します。(まとめ版)


先日ブログに書いたとおり、9/30~10/2にかけて福島県郡山市に滞在していました。私の生涯で初めての郡山訪問。そして福島県の方々との触れ合い。今回の旅は、私の心にとても強い印象を与えました。

郡山は、私が個人として招待された初めての都市です。組織の名を背負っての訪問ではなく、物見遊山としての一人旅でもありません。仕事として個人の責任で訪問した初めての都市。それが郡山市です。

今回の郡山訪問は、郡山商工会議所でのセミナー講師として、kintone Café 福島 Vol.1の登壇者としての訪問です。それは一期一会で通りすがるだけの旅人としての訪問とは明らかに違います。旅人として受け取るだけではなく、ビジネスとして与えなくてはなりません。そこが、今まで私が経験してきた旅とは明らかに違う点です。

また、私にとって郡山を含む福島県は、特別な意味を持っています。それは福島県が東日本大震災で未曽有の被害にあった県だからです。2011年3月11日の揺れとその後の混乱。それは私に阪神・淡路大震災で味わった経験を思い出させました。しかし、東日本大震災の被害を前に、私は仕事にかまけ何一つ手伝うことができませんでした。せいぜいがPray For Japanのアルバムを購入したり、石巻の酒屋で津波から救い出されたWhiskyを梅田のBarで頂いたりした程度です。それらの行動はチャリティー参加とはいえ、単なる消費でしかありません。また、地震から2年半後に家族でいわき市のスパ・リゾートハワイアンズを訪れもしましたが、それすらも単に気楽な旅人としての訪問にすぎません。

自分が東北の人々に何も貢献できていない引け目は、5年半の間、私の心に巣食っていました。今回、初めて仕事で郡山を訪れ、郡山の皆様の前で何がしかのお話ができたことで、少しは私の中の引け目が軽くなったように思います。もちろん、これが私の個人的な自己満足に過ぎないことは承知の上ですが。

このエントリーに続いて、私が郡山に訪れて感じた印象を、三日間に分けて日記調に記そうと思います。また、三日間に撮りためた数百枚の写真の中から数十枚を選んで載せようと思います。それらの写真には、他の地域となにも変わりない、美しい日本の風景が写っています。郡山、須賀川、そして猪苗代。これら写真に写る光景は、私の心を癒やしてくれました。美しい福島の光景を皆様にもお伝えできたらと思います。そして私が郡山や福島の人々の温かみに触れたことで、何を得、何を感じたか。それが皆様に伝わればよいと願っています。


ロックとは止まらないこと


ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したとのニュース。何年も前から候補には挙がっていましたが、受賞が現実になるとあらためてうれしいですね。と言っても私は別にボブ・ディランのファンというわけではありません。ただ、一洋楽ファンとしてうれしいのです。

ボブ・ディランはポピュラー音楽の世界で名声を築いた方。文学者でないのに受賞したことで異論もあるようですが、それは的外れな意見といえます。まず、氏は歴とした詩人です。たまたま氏が紡ぎ出す詩にメロディーが載っているだけの話。今までにも多数の詩人がノーベル文学賞を受賞しているのだから、ボブ・ディランが受賞することに何の違和感も感じません。

三年ほど前、無為な作業の待ち時間を有効活用するため、歌詞を暗記する事に励んだ時期があります。その時に真っ先に取り上げたのがBrowin’ in the Wind。1973年生まれの私にとって、ボブ・ディランはWe Are The Worldに登場するぐらいしか接点がなく、曲も超有名曲のほかはピンと来るものがありませんでした。が、氏の詩を暗記することによって、私はようやく 詩人としてのボブ・ディランのすごみの一端を知ることができたように思います。

今、ボブ・ディランは受賞に対し、沈黙を貫いています。その姿勢を称してロックである、という意見もあるようです。そもそもノーベル文学賞という権威に頭を垂れる事は果たしてロックか否か。 それもまた 私には本質ではない議論に思えます。だいたい、今のロックに反抗をイメージする人ってどれぐらいいるのでしょうか。それこそが古臭いイデオロギーではないかと。私にはビートルズが出現した時点ですでにロックに反抗や反逆のレッテルを貼るのは無意味だと思っています。

あえて、私がロックに精神的な意味を与えるとすれば、それは動き続ける、という事。停滞せず、活動し続ける事。それこそがロックではないでしょうか。

ボブ・ディランは70代に入ってもアルバムを発表しています。2009年に発表されたTogether Through Lifeは全米と全英でアルバム初登場一位にも輝きました。今もなお、Never Ending Tourと称したライブを続けているとか。動き続けている氏はまさにロックの権化そのものです。また、ボブ・ディランの文学賞受賞発表から数日後には、かのチャック・ベリーのニューアルバム発表のニュースも飛び込んで来ましたよね。90歳になるチャック・ベリーなど、いわばロックのレジェンド中のレジェンドです。止まらずに今もなお活動し続ける姿はまさにロックそのものです。素晴らしい!

確かにノーベル賞の科学分野賞は功成り名遂げた人への功労賞の性格が強いです。それは、科学分野の実績は、当初の研究発表の時点から他の科学者による検証を経るまでの時間が必要だからです。その時間は、研究者自身を権威に祭り上げるには十分の長さです。だからと言って、ボブ・ディランの今回の受賞は過去のロックスターへの功労賞と見るのはいかがでしょう。現役のロッカーに向かって功労賞と思われるとすれば、ボブ・ディランが沈黙するのもうなづけます。

でも、ボブ・ディランは断じて過去の人ではありません。今もロックを体現し続けている人です。なので今回の文学賞は堂々と受賞してもらって良いのではないでしょうか。

動き続ける。それがロックの精神。Rock Around the Clockそのものです。ただ時計を刻み続け、動き続ける。であれば、私も負けずに動き続けるのみ!


ローカル線で地域を元気にする方法: いすみ鉄道公募社長の昭和流ビジネス論


2015年は、私にとって地方創生を意識した年であった。地方創生に関するイベントにも参加したし、今年2016年には実際にその現場にも訪れた。先覚者達の見識を吸収した一年。その流れは本稿を書いている今もなお続いている。

本書は、その流れの中で読んだ一冊だ。著者は大手外資系航空会社の職を擲ち、いすみ鉄道の公募社長に就いた人物。鉄ちゃんとしてその世界ではよく知られる人物らしい。

いすみ鉄道とは、千葉県にある私鉄である。旧国鉄木原線を第三セクター転換し、今に至っている。しかし、房総半島の太平洋側から内陸に向けて延びる立地ゆえ、発展の望みは薄い。言い方は悪いが倒産廃止寸前の零細私鉄だったといえる。少なくとも著者が社長就任時点でもまだまだ予断を許さない状態だったようだ。

こう書くと誤解を与えるかも知れない。その誤解とは、本書の内容が功なり名遂げた経営者による過去の業績を誇る類の本という誤解だ。

だが、本書は少し違う。著者は今もなお、いすみ鉄道の社長である。そして、いすみ鉄道は今もなお、著者を筆頭に社員たちによって必死の経営努力が続けられている。とうに潰れてもおかしくないのに、著者の繰り出す経営施策によって延命している。やれることはなんでもやる。社長が自ら広告塔役を背負うことは当然。著者自らもブログで情報や理念を発信し、賛同者を募っている。本書はそのブログを書籍化したものだ。つまり、本書は過去の業績を誇るどころか、現在進行形で進む存続への苦闘をブログにして刻んだ成果なのだ。本書に書かれた内容は今もなお、活きている。

いすみ鉄道は国鉄木原線の時代、国鉄久留里線と接続し、市原へと繋がる構想があったらしい。房総半島横断線として。しかし、時代は効率化優先の車社会へと変わってしまう。そればかりか国鉄からJRへと経営母体も変わってしまう。そんな向かい風の中、市原への延伸計画は棚上げされる。都心へのアクセスが断たれたいすみ鉄道の存在意義はますます薄れるばかり。名所名刹といった観光資源もなく、遠方からの旅行者は見込めない。

存続の見込みなく、座して廃止を待つのみ。

普通の経営者はそこで諦める。しかし、著者は違う。著者はおのれが鉄ちゃんとして培ってきた想いをすべていすみ鉄道に注ぎ込む。その姿は、芸は身を助ける、を地で行くようだ。もっともいすみ鉄道の場合、趣味は会社を助ける、が正しい訳だが。

鉄ちゃんとして外野からあれこれ評論し批評するだけでなく、経営者として実践しているのが著者の凄いところだ。鉄道ファンとしての究極の夢の一つは鉄道会社の経営者ではないだろうか。著者が安定した職を捨て、いすみ鉄道の公募社長に転身したのも、夢の実現の過程なのだろう。鉄道を中心とした街づくりをシミュレートする「A列車で行こう」という有名なゲームがある。著者が日々行う経営とは、 「A列車で行こう」 の様な机上のデータで済むようなスマートなものではないはずだ。足と知恵と口で地域をこまめに回るような泥臭いものなのだろう。恐らくは苦しいこともあるだろう。けれども、著者の日々は充実しているに違いない。そういった泥臭い経営の積み重ねで著者が得た気づきが本書には記されている。

著者の行った施策のうち、よく聞くのは運転士公募制だ。運転士公募制とは、運転士になるための授業料700〜800万円を自己負担すれば、運転士として雇用するというものだ。鉄ちゃんとしての究極の夢の一つは電車の運転士になること。自らも鉄ちゃんである著者だからこそ思いつける企画だと思う。その夢への憧れも、実現への難しさもよく分かっているからこそ発想できたに違いない。そして同時に、鉄ちゃんが鉄道会社の社長に、という夢を実現した著者だからこそ、運転士という夢が実現できないはずはない!と世の鉄ちゃんに発破をかけているのだと思う。

もう一つ、本書で印象的なのは逆転の発想だ。いすみ鉄道のアクセスの悪さ。これもまた、著者の手にかかればいすみ鉄道の売りとなる。「なにもない、がある」は、いすみ鉄道の状況を逆手にとった名コピーだ。そこには開き直りとも云える美学がある。開き直りといっても捨て鉢なそれではない。むしろ開き直ることで、余計な虚飾や見栄が省かれる。いすみ鉄道の素の姿、いすみ鉄道の本質が売りとなる。素顔を晒し、ありのままを見せた者に、人は敵意を捨て丸腰で相対してくれるものだ。

マーケティングとは、あえて斜めにいうと、金を抱える消費者の警戒心の裏をつく作業だ。そのマーケティングに腐心するのが大抵の企業だとすると、明け透けに消費者に相対するいすみ鉄道は、その真逆を行く。「ありのままそこにある」いすみ鉄道に、消費者が勝手に魅力を付与していく。これは、なまなかの経営者に出来る発想ではない。もはや悟りの境地の経営といっても良いほどだ。

いすみ鉄道の普通とは逆を行くマーケティングは、いすみ鉄道に遊びに来ても列車に乗らなくてもいい、という著者の言葉にもつながる。それはもはや鉄道会社の存在意義を自ら否定するに等しい。常識をひっくり返すような著者の経営手法は、おそらくは外資系出身の著者が養った素養にも求められるのではないか。

だが、このままでは志を持った著者のような経営者が跡を継がない限り、いすみ鉄道の将来は心細い。いすみ鉄道にとっての悲願は、小湊鉄道と接続し、東京湾からの直通列車を走らせる事だろう。相互接続については、本書によれば著者自らが小湊鉄道に働きかけているようだ。私もそれが実現する事を願ってやまない。

実は本書を読み終えて10ヶ月経った2016年8月に、家族で養老渓谷を訪れた。その帰りに少し足を伸ばし、上総中野駅を訪れた。上総中野駅はいすみ鉄道と小湊鉄道が接続する駅である。だだっ広い駅前広場に、竹をあしらったトイレが異彩を放っている。駅舎は一つで、その中は待合室が一つあるきりの構造。片側を小湊鉄道が、もう片方をいすみ鉄道使用エリアとして分けられていた。そこにあるポスターやちらしの内容からも、いすみ鉄道が一生懸命PRに努めている事が見て取れた。待合室の一方の小湊鉄道と比べると経営への熱意は歴然と表れていた。駅のホームは二つ。両社が一つずつ使っていた。ここでも両社の違いはすぐに分かる。いすみ鉄道のホーム上にある自販機にはラッピングが施されていた。ホームにも世話を欠かしていない花壇が設えられており、いすみ鉄道が一生懸命存続への企業努力を続けていることは痛いほど感じられた。

なのに、線路は繋がっていない。すぐ横を並走しているのに、線路は切り離されたままだ。ほんの一足で、横の線路に飛び移れるほどの近さなのに、互い違いとなっている線路。ほんの少しだが無限に遠いその距離が、いすみ鉄道の現状と著者の無念さを表しているように思えてならない。著者もさぞや歯がゆい思いでいる事だろう。同情を禁じ得ない。そしてこの線路が早く繋がる日の来ることを私も待ちたいと思う。

この時、私が訪れたいすみ鉄道の駅は上総中野駅のみだった。他の駅、特にいすみ鉄道の中心駅である大多喜駅には訪れる時間がなかった。なのでいすみ鉄道の様子がわかったとはとても言えない。しかし地方の駅の醸し出す雰囲気がとても好きな私としては、応援したいと思う。それ以上に、同じ経営者として著者の経営努力に対して尊敬の念を惜しまない。ローカル線再生は、地方再生にもつながる。地方再生において求められる発想とは、官僚的発想ではなく、著者のような在野の実務家からしか生まれ得ないのではないか。私もそんな著者の努力については、できる事があればまた訪れるなどして応援したいと考えている。

と、本稿を書いていて、まだそれが実践できていないことに気付いた。慌てて上総中野駅でちらしを見かけたローカル鉄道.comにも会員登録した次第だ。皆様も是非登録して応援してあげて欲しい。

‘2015/10/18-2015/10/18


また一人昭和30年代の野球を知る方が・・・


8月14日、野球評論家の豊田泰光氏の訃報が飛び込んできました。享年81歳。

豊田氏は昭和30年代のプロ野球を知る上で欠かせない人物です。昭和30年代のプロ野球を語るには西鉄ライオンズは外せません。豊田氏は黄金期の西鉄ライオンズの主軸として必ず名のあがる選手でした。野武士軍団とも称された個性派集団にあって、一層の個性を放っていたのが豊田氏です。

豊田氏の訃報については、球界の様々な方から追悼コメントが寄せられました。中でも長嶋巨人名誉監督からのコメントは、長嶋氏の訃報と読めなくもない見出しがつけられ紛らわしいとの批判を浴びました。

見出し云々はともかくとして、長嶋氏のコメントは、豊田氏の輝かしい現役時を的確に表していると思えます。

「素晴らしい打者でした。巨人が3年連続で西鉄に破れた1956年から58年の日本シリーズでの大活躍は、強く印象に残っています。ご冥福をお祈りします」

見事なコメントですよね。ミスタープロ野球とも言われた長嶋氏にここまで言わしめた豊田氏の実力が伝わってきます。

豊田氏は現役を退いたのち、評論家として活躍しました。私が見た氏は、すでに球界のご意見番としてスポーツニュースの中の人でした。辛口な評論家として立ち位置を作った豊田氏は、その一方で、プロ野球の歴史の伝道師でもありました。過去を知らないプロ野球ファンに、今のプロ野球の隆盛が過去の積み重ねの上にあることを訴え続けました。

豊田氏の業績の一つは、ライオンズ・クラシックです。2008年から2014年まで、豊田氏の監修のもと催されました。在りし日の西鉄ライオンズの栄光を顕彰しつつ、西武ライオンズが確かに西鉄ライオンズの伝統を継ぐ後裔球団であることを宣言する感動的なイベントでした。それは黒い霧事件という残念な事件によって閉ざされた西鉄ライオンズの歴史を掘り起こす作業でもありました。黒い霧事件は西鉄ライオンズの輝かしい歴史に泥を塗ったばかりか、ライオンズの歴史を作ったであろう名投手を球界から葬り去りました。数年前、池永投手の復権はなり、さらにライオンズ・クラシックによって西鉄ライオンズの栄光も復権なったといえます。

私は当時、とてもこのイベントに行きたかったのですが、仕事があって行かれずじまいでした。今年は三連覇の最初の年から60年という節目の年。きっとやってくれるはずと期待していたのですが、豊田氏の訃報によってその願いは霧消しました。それだけにこの度の豊田氏の訃報が残念でなりません。

それにしても、60年もたってしまったのだと思わずにはいられません。赤ちゃんが赤いちゃんちゃんこを着るまでの年月です。長嶋氏のコメントがご自身の訃報と間違えられるほど長嶋氏も老いました。豊田氏もいつの間にか齢80を過ぎていた訳です。気がつけば西鉄ライオンズの黄金期を闘った戦士たちのかなりがあの世へ旅立ちました。

昭和30年代のプロ野球を輝かしいものにした生き証人の皆様が、次々と旅立っていきます。多分、これからも次々と訃報が飛び込んでくることでしょう。昭和30年代のプロ野球を彩った荒武者達が居なくなるに連れ、昭和30年代のプロ野球が我々から遠ざかっていきます。

今までに何度もブログなどで書いてきましたが、私は昭和30年代のプロ野球にとても強い憧れを抱いています。その憧れの対象は、豊田氏を筆頭に野武士軍団として巨人を叩きのめした西鉄ライオンズだけではありません。他のチームにも個性派が揃っていたのが昭和30年代のプロ野球だったように思うのです。

野球がまだ洗練から程遠い荒くれものの集まりによって戦われていた時代。巨人・大鵬・卵焼きと持て囃される前の時代。そして高給取りとして高嶺の花扱いされる前の時代。それは日本が、もはや戦後ではない、と宣言し、右肩上がりする一方の時期に重なります。いわば昭和30年代のプロ野球とは、日本が一番活気あり、伸び盛りだった頃を象徴する存在だったのではないでしょうか。

私がプロ野球をみはじめた時期は1980年代です。甲子園に住んでいた私は、甲子園球場の熱狂も寅キチ達の声援もよく知っています。バックスクリーン三連発に、長崎選手の満塁ホームランに狂喜した阪神ファンです。

でも、何か物足りなかったのですね。阪神タイガースよりも、その戦う相手に。阪神以外のチームがスマート過ぎた、というのは言い過ぎでしょうか。巨人にしてもそう。当時の巨人監督は藤田氏。球界の紳士たる巨人を代弁するかのような紳士キャラでした。阪神が日本シリーズで闘った相手監督は、管理野球でしられる広岡氏でした。皮肉にも野武士軍団の後裔チームは当時黒い霧イメージを払拭するため管理野球に活路を見いだしたわけです。

当時の私にとって、阪神タイガースの敵とは魅力的なキャラでなければならない。そう思っていたのかも知れません。でも敵キャラとしては何か飽きたらない。そう思ったからこそ当時の私は大人向けの高校野球史やプロ野球史を読み耽る小学生となった。ひょっとしたらですが。でも、今思っても難しい本をよく読んでいたと思います。たぶん当時の私にはそこに描かれる個性的な選手達が魅力的に映ったのでしょう。かつてプロ野球の試合とはこれほどまでに魅力的だったのかと。

ひょっとすると私は当時のプロ野球選手たちに武士の憧れを抱いていたのかも知れません。ちょうどいまの子供たちが戦国武将に夢中になるように。

下剋上上等。高卒出の新人投手が神様仏様と持ち上げられる実力主義。分業制が幅をきかせる前の、グラゼニが正しいとされる世界。

私にとって、昭和30年代のプロ野球とはそのような魅力に溢れた世界だったのです。スポーツグラフィックナンバーがまだ二桁の頃の西鉄ライオンズ特集号も持っていたし、ベースボールマガジンが刊行した選手たちの自伝も読み漁りました。ナンバーが出した西鉄ライオンズ銘々伝というビデオももっています。

多分当時の野球は、いまの野球に比べてレベルが低かったことでしょう。それは日米野球の結果を見ても明らかです。しかし、巧さと魅力は似て非なるもの。たしかに今の日本プロ野球は格段にレベルアップしました。その象徴がイチロー選手です。イチロー選手の偉業は、メジャーリーグでの3000本安打達成で不滅となりました。ただただイチロー選手の才能と努力の賜物です。そして、イチロー選手の姿にかつてのプロ野球をしるオールドファンは、野球が輝いていた時代の時めきを感じるのではないでしょうか。イチロー選手を見出だしたのは当時の仰木監督。黄金期の西鉄ライオンズのメンバーです。昭和30年代の個性を重んずるプロ野球の遺伝子は、イチロー選手の中に確かに息づいているはずです。魅力の上にある巧さとして。

そしてイチローの偉業の前に、プロ野球を育て上げた選手たちの戦いの積み重ねがあったことを忘れてはならないと思うのです。それは単なる懐古趣味ではありません。まだプロ野球選手の社会的な地位が低い頃、ただ野球が好きな選手たちによって行われていただけ。でに魅力だけはたっぷり詰まっていたと思うのです。

でも野球の粗野な魅力が失われ、人気スポーツになった時期に起こったのが黒い霧事件です。奇しくも昨年から今年にかけ、あろうことか球界の紳士の巨人軍の内部で発生した賭博事件は、何かの暗示のように思えてなりません。

人によっては60年前の三連覇を、一極集中が進む東京への地方の意地とみる人もいるでしょう。または、かつて西鉄ライオンズを率いた三原監督が自分を追いやった巨人を見返したのと同じ姿をソフトバンクの王会長にみる人もいるかもしれません。しかし私はかつて福岡で猛威を振るった賭博が東京で起こったことに、東京と地方の立場の逆転を感じます。

もし、東京が再び野球でも都市としても日本の盟主でありたいのであれば、昭和30年代のプロ野球から学ぶべきものは多いように思います。水戸出身の豊田氏は辛口にそれをどこから見守っていることでしょう。


オバマ大統領の謝罪を経ての原爆忌


毎年この時期が来ると必ず原爆関連の写真集やその他書籍に目を通します。私自身が平和記念資料館を訪れた際、何を感じ何を目に焼き付けたのか。あの夏の朝、何が人類に起こり、何を人類は行ったのか。その記憶を新たにするため、この時期は広島・長崎への原爆投下関連資料に目を通すようにしています。

先日、重松清さんの「赤ヘル1975」を読みました。1975年の広島東洋カープが、原爆からの復興に向け努力する広島市民にとってどれだけ劇的な存在だったか。カープの優勝が原爆投下から30年という節目の年に広島市民からどれほど歓迎されたか。そのことが「赤ヘル1975」には書かれています。すでにレビューとしてまとめているので、いずれアップしたいと思います。

今年のカープは強い。カープがこのまま優勝まで突き進んだとすれば、それは広島市民にとって1975年の初優勝に匹敵する出来事になるかもしれません。セ・パ12球団の中でもっとも優勝から遠ざかったチームであるカープ。しかし今年は優勝に向けて力強くペナントレースを戦っています。それは今年の広島を象徴するに相応しい戦い振りです。というのも、今年は広島にとって重要な出来事があったからです。

この5月にオバマ大統領が広島を訪問しました。云うまでもなく原爆を落とした当事国である米国の現職大統領です。オバマ大統領の広島訪問でのスピーチには、米国の責任を回避するためのレトリックが注意深く散りばめられていました。おそらく、そのことに一番違和感を覚えたのは被爆者の方々でしょう。でも、たとえポーズであったとしても、訪問したという事実を作るだけであったとしても、私はオバマ大統領が訪れたという事実を評価したい。

私はオバマ大統領のスピーチから米国の抱える投下国としての罪の意識と、それを認めまいとする面子のせめぎあいを感じました。当時の人々の行為を断罪できるのは当時の人々だけ、というのが私の持論です。当時のアメリカの行為を断罪できるのは、云うまでもなくあの夏の朝、原爆の惨禍を目の当たりにした被爆者の方々です。断罪という言葉では言い足りないくらいでしょう。しかし、様々な資料を読むと、当時のアメリカ国民の多くが本気で大日本帝国による本土侵略を脅威に思っていたことは事実のようです。ナチスドイツや日本でも原爆開発が行われていたこともよく知られています。マンハッタン計画に邁進したアメリカの判断はいまさらどうこう非難できるものではないと思っています。ただ、すでに死に体となっていた敗戦間際の日本に敢えて原爆を投下した当時のトルーマン大統領の判断は、明らかに戦争犯罪といえます。もはや戦争の勝利よりも戦後の国際関係の主導権掌握のためだけに原爆を投下したようなものですから。30万以上の人々の上に。

繰り返しますが、原爆投下というアメリカの戦争犯罪を真の意味で断罪できるのは、被爆者の方々だけです。被爆者の方々はもっと怒っていいはずです。ですが、広島・長崎の人々はもっと広く高い立場からアメリカを断罪しています。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑に刻まれた文面はまさにその象徴です。あの文面から読み取れるのはただ平和を求める想いです。被爆者の方々にとってそれほどまでにも平和への想いは切実だったといえます。焼け爛れたヒトや町並みを目の当たりにした方々だからこそ、そう思えたのかもしれません。私は原爆死没者慰霊碑の碑文を敗戦国による勝者への阿りとは思いません。あの碑文の価値はおそらくこれから先よりいっそう真価を発揮していくと思っています。あの碑文が被爆者としての直接的な恨み辛みを書いたものであれば、たぶんこの碑の意義はもっと低くなっていたことでしょう。オバマ大統領による献花もなかったかもしれません。とはいえ、今回のオバマ大統領の広島訪問にあたっては、被爆者の方々はもっとオバマ大統領個人の、アメリカの面子に拘らぬオバマ大統領の肉声の謝罪を聞きたかったことでしょう。その気持ちはもっともです。でも、オバマ大統領も戦後産まれの方です。あのような微妙に責任をぼかしたようなスピーチ以上のことは言えなかったのではないでしょうか。私は偽善やポーズだけといった批判を承知でなお、広島に行くことを望んだオバマ大統領の行為そのものに大統領の謝罪の気持ちと誠意が顕れていると思いました。

たぶん、アメリカで原爆投下への罪の意識が大勢を占めるのは、第二次大戦に実際に参加した軍人や政治家が全て亡くなった後のことになろうかと思います。たとえパールハーバーで日本から騙まし討ちを受けたとしても、その報復としてはリトルボーイとファットマンはあまりに過剰なものだった。アメリカでもそういった歴史的評価が定まることでしょう。でも、そのときには被爆体験をした方々も全てお亡くなりになっていることでしょう。それは被爆者の方々にとって実に無念なことだと思います。

だからこそ、われわれのような平和な時代しか知らない人間は、資料や書簡や書籍から、特定のイデオロギーやトンデモ陰謀論に惑わされることなく、客観的な姿を伝えていかなければならない、と思っています。「過ち」を繰り返さないためにも。

今年ばかりは広島東洋カープを応援しています。カープ出身のアニキ率いる阪神タイガースにも頑張ってほしいのですが。1975年の赤ヘル旋風を知らない私にとって、カープ女子の席巻する広島が祝賀ムードに染まる姿が観てみたい。米国大統領による実質上の謝罪があった年を締めくくるイベントとして。

写真は3年半前に家族で訪れた際に撮影した原爆死没者慰霊碑。秋に訪れられれば訪れたい。IMG_8677


フェスティバルでも選挙は選挙


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今週末に迫った都知事選ですが、政見放送ようやく視ました。特に後藤氏のアレ。

昨年の千代田区議選での全裸ポスターで、選挙芸人として一躍脚光を浴びた後藤氏。今回は放送禁止用語を連発し、音声ミュートを休まる暇もなく発動させるという芸風で勝負に出た模様です。

選挙をなんと心得るか、と、こういった選挙芸人の出現を苦々しく思う方もいらっしゃることでしょう。公共の電波や掲示板を自己顕示の場として利用しているだけではないか、と。

古くは内田裕也氏のそれが有名です。ロックについて滔々と語る芸風で政見放送の新時代を切り開きました。まあ、この方は芸風がそもそもロックンロールなのでよいのですが。他にも東郷氏の政見放送は、放送禁止用語でカットされたはしりではないかと思います。ほかにも外山氏や又吉氏、松下氏、赤尾氏、中松氏。近年ではマック赤坂氏が選挙芸で名を売っています。ここに来て参戦を果たし、選挙芸人として新風を吹きいれたのが後藤氏という構図でしょうか。

単なる税金の無駄、目障り。そういった批判もあることでしょう。でも、私、こういう方々って必要だと思うのですよね。

彼らは三百万円の供託金をきっちりと支払った上で選挙芸を披露しているわけです。しかも、一定の得票数が得られなければ、公費で認められる筈の諸費用も自腹。実は、彼らが立候補することで、都民の懐ってそんなに痛まないのではないか、と思うのです。

選挙掲示板は、彼らが興行ポスターを貼ろうが貼るまいが一定枠用意されています。政見放送は彼ら選挙芸人の晴れ舞台ですが、これも事前に放送枠が設けられているはず。彼らが何人いようとも、人気投票所の数は一定なら、立会人の数も一定。精々、投票用紙記入用の氏名等掲示の作成やチェック、集計の手間が増えるくらいではないかと。あとは、選挙広報のスペース増による印刷代が増えることくらいでしょうか。

彼らが選挙芸を披露することで税支出が増えるのであれば問題です。が、彼らの興行はそれほど都民の懐を痛めていないのではないか、税金にとって負担になっていないのでは、と思うのです。まあ政見放送の視聴者の時間を浪費させることに変わりないのですが。

選挙広報には、それぞれの想いが書かれています。大マスコミに取り上げられているお三方はともかく、取り上げられていない候補者の中には泡沫候補と呼ぶのも失礼な経歴をお持ちの方も想いを書かれています。もちろん、我らが選挙エンターテイナーの面々は言うまでもなく。

広報に書かれた内容は、是非読まれた方がよいと思います。今の世相が見えます。選挙プランナーによる大政党、今回でいうとお三方のそれはマスを相手にしているので、いわば今の東京を語るサマリー。一方、真面目に選挙に臨む方々の内容にはそれぞれの候補者の想いが書かれています。それらを読むと、視野が広がります。都知事選で天下国家を語る。よいではないですか。自らの得意分野からの視点で都政を語る。参考になることも多いです。案外読み捨てるには惜しい視点が見受けられます。まあ、たまに電波系の書き込みもあるのですが、そこは娯楽の一環としてご笑覧頂ければ。と私が弁護してもしょうがないですが。

でも、今回の都知事選では、電波系の広報はあまり見受けられませんでした。冒頭の後藤氏は興行ポスターこそ時代を巻き戻したかのような軍服姿で芸人としての矜持を示しましたが、広報には案外まともなことを書いていました。あくまで芸風に比べてまとも、という意味ですが。あとは、某テレビ局への批判一辺倒の広報や政見放送で目を引いた立花氏。都政に私憤を持ち込むという芸風にはそれほどの新鮮味はありませんし、都政とNHKがどう関係するのか、私のような凡夫にはさっぱりですが、広報としての体裁は守っていました。他の候補者の方々の広報も、マック赤坂氏も含めまともに見えました。そう見えたのは私だけでしょうか。もちろん突っ込むべき点は多々ありました。都政と国政の混同は普通に見られましたし。でも、公示の全てをじっくり読むと、政治家による大上段に構えた都政とは違う視点での東京都の課題が浮き彫りになった気がします。

公示も政見放送も、結構読み物として面白い視点で問題提起して下さっています。大マスコミが取り上げるお三方だけしか注目しないのはもったいないですよ。政見放送や演説の書き起こしであれば、http://politas.jp/ にも載っていますので、是非観てみてください。

今回の都知事選は、週刊誌による情報操作ともいうべき報道合戦が目立ちました。介入と言っても良いほどの。第三者による解説や憶測記事はもう良いでしょう。そもそも週刊誌で取り上げられるのは政党がバックについた有力候補ですし。まずはマスコミ経由ではなく、直接の候補者による直接の声を聞くべきでしょう。マスコミの報道に振り回されるのは避けたいところです。

一説には東京都知事選を行う度に四十億の金がかかるそうです。泡沫候補や選挙芸人の皆様はその費用の一部を負担し、なおかつ新たな視点と旬の娯楽を提供して下さる訳ですから、これからも是非、ご活躍をお願いしたいところです。特に今回の都知事選には、お亡くなりになった秀吉公やご高齢の中松氏の姿がなく、寂しさを感じるのでなおさらです。

え?
誰にいれるのか、って?

それは秘密です。実は私はすでに投票済なのです。投票日前日に、期日前投票で投票しました。本稿は投票後に書いたものです。全員の公示を読み、全員の政見放送の書き起こしを読んだ上で判断し、投票しました。

残念ながら、選挙芸人の方には一票を投じていません。彼らの選挙芸は娯楽として楽しませてもらいましたが、投票となると別です。そこは冷静に判断しないと。先日の参院選では三宅氏による選挙フェスという言葉が注目されました。選挙フェス大いに結構。何にせよ選挙に注目が集まるのは良いことです。選挙が厳粛で厳かなものでなければならない道理はありません。公平性が担保されるのであれば選挙がフェスティバルでも良いのではないでしょうか。ただ、選挙フェスの雰囲気に流されることは避けるべきでしょう。マスコミの報道に流されないようにする事と同じく。そのためにもリアルな候補者の中に散見する虚構の選挙芸人は有用である、と私は思います。

自分の意思の表現としての一票は、何も選挙結果のための一票に止まりません。自分の人生をどうしていくかという一票でもあるのですから。一票の行使は大切にしたいですね。


Pokemon GOはしばらく見送ろうと思います


話題のPokemon GOですが、しばらく参加を見送ろうと思います。
実は私も、20日にアップストアを二、三度覗いてみたクチです。この時にリリースされていれば、間違いなくインストールしたことでしょう。でも、結局20日にはリリースされませんでした。そしてこの時から、私の気持ちは静観に傾いていました。

22日になってリリースされたニュースを目にしても食指は動かず。Facebook上で皆さんがプレイする多数の投稿を目にしましたが、その気持ちはやはり変わらず。そもそも私、iPadしか持ってません。Pokemon GOにiPad版はなく、iPhone版を入れなければ使えません。

でも、Pokemon GOを否定するつもりはないんですよね。そもそも私、位置取得ゲームは結構愛好者なのです。ガラケーのケータイ国盗り合戦は2010年の5月からやってます。280国制覇してます。タブレットではSwarm+FourSquareを2013年の4月からやってます。3466チェックインしてます。遠方のところに行くと、未踏地だらけで大変です。新たな土地を征服する喜びは位置ゲームの醍醐味だと思います。

だからこそ、Pokemon GOはまだいいかな、と思うのです。3つも位置ゲームやる必要はないかな、と。あと、私が位置ゲームをやるのは、自分の訪問履歴を記録したいからなんですよね。私の場合、訪問履歴を集めるというゲーム性を求めているのであって、モンスター達の収集となると、うーん、かなぁ。

実は上に書いたケータイ国盗り合戦にも、モンスターと戦って集めるという機能があるのです。三年ぐらい前から実装されています。でも、私、それはあまりやりませんでした。多分それは、土地限定のモンスターに巡り合えなかったからだと思ってます。ケータイ国盗り物語もFourSquareもチェックインはするものの、それ以上のことはしないです。

ただ、そこで出会うモンスターが、単なるモンスター集めではなく、地域の特性を備えたキャラだといいかもしれません。だから、Pokemon GOでも、特定の場所でしか特定のモンスターと戦えないというのならともかく、Pokemon GO専門の地域のモンスターを作るとか。例えばスカイツリー近辺ではスカイツリーをあしらったモンスターを出すとか。

今のままだと位置ゲームというよりも、ポケモンとのバトルに重点が置かれている気がしてなりません。つまり、せっかく新たな地を訪れても、モンスターを捕まえるためのバトルに忙殺され、リアルでその地を訪れた感動が薄れてしまうのです。これは、旅好きにはつらい。逆に新たな地を訪れる感動をそんなに覚えない人が、ポケモンのためだけに色んな場所に訪れてくれるでしょうか。そこがちょっと違和感を覚えます。

ただ、それは私がまだプレイしてないが為の無知から来る誤解かもしれません。私ももう少ししたら試してみようと思います。ただし、それは今のフィーバーが落ち着いてからです。

今日、所沢航空公園に行ったのですが、大勢の人々が、普段なら人が溜まるはずのない場所でスマホを操作していました。ちょっと異様に思える光景でした。うーん、私があの中に混じって一生懸命ポケモンを捕まえる事になろうとは思えないですね〜。そこが初めて訪れる場所ならなおさらです。初めての地を目に焼き付け、カメラに焼き付けるので必死で、ポケモンを捕まえる暇はなさそうです。


今上天皇の生前譲位から思ったこと


今上天皇が生前譲位の意思を漏らされたとのスクープが世を舞っています。

嘘か真かは、宮内庁からの発表や天皇陛下ご自身のご発言を待つほかありません。でも、その噂にはゴシップや憶測よりも真実に近い色を帯びていると思うのは私だけではないでしょう。そこには陛下ご自身の82歳という年齢もあります。御高齢にも関わらず未だに天皇としての責任を疎かにせず、全うされているとか。

日々潔斎し、神事も行い、国事行為をこなされる日々。その合間を縫って、東日本大震災や熊本地震のお見舞い、沖縄の対馬丸記念館への訪問など、昭和天皇の御代に起こった出来事にまで向き合おうとされているのだから頭が下がります。

その大変な仕事については、『天皇陛下の全仕事』という本に紹介されています。それを読む限り、天皇陛下がこなされる公務は並大抵の心根では勤まらなさそうです。

この1月、私の妻が皇居の奉仕活動に参加しました。そして陛下のお姿を目にすることが出来ました。そこでお会いした陛下から放たれる気品に圧倒されたと聞きます。82歳を感じさせない凛とした雰囲気を身にまとわれていたとか。煩悩を微塵も感じさせない気をまとうには、一朝一夕の付け焼き刃ではだめでしょう。そこには、昭和天皇から受け継いだ皇室の在り方も無関係ではないと思われます。

先代の昭和天皇の御代、日本は激動の中にありました。大正デモクラシーと第一次大戦の好景気から一転、昭和恐慌と軍部の専横を経て、日本は国策を誤り、アジアへの侵略に打って出、そして国土は空襲の下で焦土と化しました。そして、その廃墟の中から、日本は戦後は世界史上の奇跡と呼ばれる高度経済成長を果たし、先進国の一角として迎えられるまでになりました。そんな中、昭和天皇は現人神から人間へと移り変わり、全国を巡って人間裕仁として国民の前に姿を晒しました。その生涯は激動という言葉では語り尽くせないほどの転変に次ぐ転変でした。私自身の考えでは、昭和天皇と戦争責任は切り離せません。立場的にも責任は逃れられないですし、昭和天皇ご自身のご判断にも過ちはあったと思います。でも、その失敗を受け止め、安易に退位という身の処し方を採らなかったところに昭和天皇の真の価値があると思っています。完全無欠の聖人君子としての昭和天皇で終わったとしたら、それは単なるお飾りにしかすぎません。そうではなく、天皇という役目を引き受けた一人の人間として、失敗をやらかしながらもそこから逃げず、波乱の人生を生き切ったところに昭和天皇の偉大さがあると思っています。並大抵の人ならとっくに擦り切れてしまうほどの過酷な人生を。

その遺訓は今上天皇にも確実に受け継がれているのではないでしょうか。父の苦悩を間近に見聞きし、激動の時代を生きた人として。実は今上天皇とは、戦前の現人神としての天皇、そして日本の破滅と復興、さらにはバブル後の停滞までの日本の歴史を全て見届けることのできた稀有な方だと思っています。

平成の御世はバブルの破裂で幕を開ける苦難の時期でした。オウム真理教の事件や、阪神淡路大震災、そして東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故という災害にも遭遇しました。特にオウムによる地下鉄サリンや福島第一原子力発電所の事故は、昭和に我が国の築き上げた立場を一挙に喪いかけないほどの大事件だったと言えるでしょう。しかし、今上天皇は皇太子時代から昭和天皇のし残した仕事に取り組み、その遺志を立派に汲み取ったと思います。平成とは波乱の年号だったかも知れませんが、その振幅の幅は昭和よりは遥かに平らです。乱高下した昭和に比べれば、平成という語感の通り落ち着いた日本でいられたのではなかったでしょうか。少なくとも昭和よりは平らかな歴史を取り戻すことができた時代だったと言えます。今上天皇は、象徴天皇としてこれ以上ない得難い方だったと思います。

しかし、日本は経済大国としてではなく、次なる価値観で世界に存在感を示す時期に来ています。今は人工知能が人類の英知を凌駕せんとする時代です。そんな人類としての在り方が揺らぐ時代にあって、求められるべきは経済成長ではありません。おそらくは思想であり、文化なのでは無いでしょうか。これからの日本が世界に存在感を示し、かつ貢献出来るとすれば、もはやエコノミックアニマルとしての国威ではありません。技術立国としての日本でもありません。独自の培った文化や価値観を持つ日本の文化によってだと思います。

それを見据えての今回の生前譲位では無いでしょうか。世界から見た日本は過去の経済大国かもしれませんが、実は違う価値観で世界をリードする。これからの日本がそんな日本である事を願いたいと思います。


4256本より3000本


イチロー選手の記録達成の話題で世間は盛り上がっていますね。私も毎日スポーツ記事をわくわくしながら見ています。根詰めて作業に没頭しているここ数日はニュースを見ることが一瞬の息抜きといいますか。

イチロー選手の偉大さは今さら書くまでもありません。私もイチロー選手も1973年生まれ。42歳と云えばプロ野球では引退しない方が珍しいぐらい。サラリーマンでも現場から管理職へと配置される年齢です。ですが、彼は生涯一選手として少なくとも50才まで現場でやると公言しています。その姿勢は、私にとって励みになります。励みどころか、私にとって同世代で尊敬できる人といえばまずイチロー選手の名前が上がります。今まで成果を積み上げてきた彼の姿にどれだけ鼓舞されたことか。

さて、これを書いている2016/6/15現在、イチロー選手が日米両国で積み上げたヒットの数は4255本。あのピート・ローズ氏がメジャーリーグで成し遂げた4256本まであと一本と迫っています。そしてその記録をもって通算安打数世界一と見なすかどうかについて、日米であれこれ取り沙汰されています。ピート・ローズ氏もあれこれと意見を述べているようですね。

私の意見としては、4256本の達成よりも3000本の達成を祝うべきだと思っています。3000本というのはメジャーリーグでイチロー選手が打つはずの安打数。今現在、2977安打ですから、あと23本です。私としてはメジャーリーグのみでイチロー選手が成し遂げた3000本安打の達成こそが真に評価されるべき指標なのだと思っています。

日米両国で積み上げたイチロー選手の偉業については誰も異議を挟みますまい。でも、それは参考記録として留めておくべきです。歴代一位というのは文字通り歴代の記録です。かつてとルールが違った時代、例えば19世紀の記録も含んでいます。ルールが違っていても歴代記録として含めて良いのなら、他の国のリーグでの記録も合算してよいのではないかという意見もあるでしょう。でも、歴代記録として認められるのはルールが違う時期を含んでいても、やはりメジャーリーグで成し遂げた記録に限定されるのです。

http://mlb.mlb.comを見れば分かりますが、あのサイトにはありとあらゆる選手の記録が網羅されています。年毎の記録や通算記録すらも。その記録は1876年まで遡って掲載されています。1876年といえば、日本で言うと明治8年。散切り頭や文明開化の時代です。そんな昔から、記録が残っているって凄いと思いませんか。つまりアメリカ人とは記録についてのこだわりも強い一方、記録に対する尊敬の念も人一倍払う国なのです。

アメリカの四大スポーツといえばNFL(アメリカンフットボール)、NHL(アイスホッケー)、NBA(バスケットボール)に加えてMLB(ベースボール)を指すのが一般的です。それらスポーツに共通するのは記録することの執念です。

NFL:http://www.nfljapan.com/stats/
NHL:http://www.nhl.com/stats/
NBA:http://stats.nba.com/
MLB:http://mlb.mlb.com/stats/

上に挙げたのは四大スポーツのサイトに設けられた成績のページです。これらページを見るとわかりますが、とにかくあらゆる角度からチームごと、選手ごと、年ごと、月ごとに成績が網羅されています。それがアメリカ流です。

MLBでいうと、その記録は上にも書いた通り1876年まで遡って参照することができます。1876年というのはメジャーリーグの二つあるリーグのうちナショナルリーグの設立された年です。ストライクに対するアンフェアボールのルールが出来たのは1872年で、それからまだ4年しかたっていません。アンフェアボールというのは、打者に打ちやすい球を投げることが前提であった当時の野球ルールから発生したルールです。つまり当時は圧倒的に打者有利のルールになっていたということです。でも、MLBのサイトにはその時代の記録がきちんと残されています。残されているだけでなく、歴代記録としてカウントまでされています。普通はそういった打者有利のルールの下での記録は参考扱いになってもおかしくありません。でも、メジャーリーグの公式記録として採録されています。

メジャーリーグにあって、記録というのはかくも神聖なものです。そこまで記録に対して敬意を払うアメリカのメジャーリーグに対して、日米両国の合算を世界一として認めてもらうのは出来ない相談です。これはお互いのレベルがどうとかいう以前に、記録に対する文化の違いだと思います。

イチロー選手が4256本を打ったとしても、それは多分王選手の868本の本塁打と同じような参考記録扱いとなるのではないでしょうか。でもそれでいいと思います。それによってその偉業が損なわれる訳ではないのですから。当時王選手が参考記録ながら追い抜いたのはハンク・アーロン選手の755本でした。ですが、今でも王・アーロン両選手は野球大会の開催などで協力しあう関係と聞きます。つまりお互いがお互いの記録を尊重しているのです。お互いの力を認め合った選手同士にとって、記録が参考かどうかは二の次なのでしょう。4257本をイチロー選手が打ったとしてもそれがアメリカの中で世界一の記録として認識されることは多分ないでしょう。でも、それによってイチロー選手の偉業が損なわれるわけではありません。なぜなら、イチロー選手はメジャーリーグだけで3000本を打つはずだから。3000本安打というのは、限られた選手しか到達していない高みです。メジャーリーグの140の歴史でもまだ達成者は30人弱しかいません。

繰り返しますと、メジャーリーグは記録を重んずる文化です。どこの国の選手だろうが、女性だろうが、性転換をしようが、片足が義足だろうが、メジャーリーグの中で成し遂げた記録であれば、メジャーリーグの記録として尊重される。とすれば、イチロー選手の3000本安打こそは、メジャーリーグの中で積み上げた偉業として、正当に評価され尊重される記録となることでしょう。

4256本も素晴らしいことですし、楽しみにしたいと思います。が、それは一つの通過点。それよりもあと23本に迫った3000本を楽しみにしようではありませんか。そしてその後も50歳まで生涯一選手として活躍してくれるよう応援したいと思います。かつてシアトルにイチロー選手を応援に行く機会が間近にあったのですが、それを逸してしまっています。私にとってイチロー選手を見に行くことは念願といっても良いです。アメリカに行ったら行きたい場所は多数ありますが、イチロー選手の活躍を目にすることと、クーパーズタウンの野球殿堂博物館には何を差し置いても行きたいと思っています。それを支えに私も同世代として頑張りたいと思います。少なくとも50歳までは。

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これは昨日うちのワンちゃんと散歩の際に撮った近所の球場。


福崎の町に日本民俗学の礎を求めて


4月に福崎を訪れました。

福崎と言えば、日本民俗学の泰斗として著名な柳田國男氏の出身地です。

昨秋、友人たちと横浜山手の洋館巡りをした際、神奈川県立文学館で催されていた柳田國男展を訪れました。ただ、入館した時点ですでに閉館時間まで1時間しかなく、駆け足の観覧を余儀なくされました。短い間でしたが、柳田氏の生涯を概観して印象付けられた事があります。それは、氏が官僚を辞し、本格的に民俗学の探求を始めたのが40代半ばという事です。それなのに氏は日本民俗学を創始し、後世に巨大な足跡を遺しました。そのことは私のように中年にさしかかった者にとっては励まされる事です。柳田國男展の観覧記についてはこちらにアップしました。
生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

それ以来、福崎には一度行きたいとの思いは募るばかり。今回の関西出張に際し、1日休みを確保して福崎を訪れる事にしました。

なのに、例によって旅先で行きたいところを詰め込む悪癖が発症。福崎に滞在した時間は4時間と少し。そんな短時間では到底福崎を回りきれる訳もなく、次回の再訪に持ち越しとした箇所は両手に余ります。 そんな駆け足の訪問でしたが、柳田民俗学の揺籃の地としての福崎は目に焼き付けてきました。柳田氏自身が「日本一小さい家」と呼んだ生家と柳田國男・松岡家顕彰会記念館をじっくりと観て回れたのが良かったです。

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福崎インターから福崎駅までのルート
(クリックすると拡大します)

柳田國男生家を訪れる前に、福崎の町を車で流しました。福崎インターで高速を下り、典型的な郊外ロードサイドの風景を眺めつつ駅へ。駅の近くには旧市街の風情を残した道並みにも巡り会えました。駅からは福崎インターの方角へ戻り、インターを通り過ぎて柳田國男生家のある辻川界隈へ。車による移動だったため、街中を隈なく歩いたわけではありません。が、福崎を走って感じた捉えどころのない町という印象は今も拭えません。その印象は後日地図で確認しても同じです。どこが中心なのか分かり難い町。


福崎訪問マップ2
福崎駅から柳田國男生家付近までのルート
(クリックすると拡大します)
その印象は今も変わりありません。 銀行の支店や各種公共施設のある場所が町の中心点。私が今までに趣味の町歩きで得た経験則です。その伝でいけば福崎の中心とはすなわち銀行の支店のある場所と見なしてよいでしょう。福崎の町にある銀行の支店は駅周辺と福崎インター周辺に点在しているようです。福崎インターのすぐ側には町役場もあります。播但線の福崎駅と福崎インターという交通の結節点がすなわち町の中心点。地図から読み取れる福崎の地理はそのような構造になっています。ですが、私が訪れた際、福崎インター周辺に繁華街は見当たりませんでした。福崎駅近辺も同じ。駅付近には旧市街らしき由緒ありげな町並みはありました。が、その街並みも福崎の町のへそではなさそうです。結局、福崎にいる間、町の中心を見出せないままでした。

町の中心がないという事は、福崎の抱える地理的な条件による気がします。まず、町の東西を分断する市川の存在。さらには生野街道から離れた場所に設置された播但線の福崎駅の位置。それらは、福崎の発展に大きな影響を与えたと思われます。さらには播但有料道路が旧生野街道に取って替わるように南北を貫き、東西には中国自動車道が町を太く横切っています。昔よりも福崎の町が交通の結節点としての色を強めていることは間違いないでしょう。なのに、交通の要衝ではなく通過点でしかないのが今の福崎といえます。それらの交通網が町を結束させるどころか分断しているように思えました。

福崎訪問マップ3
柳田國男生家周辺の地図
そのようなとらえどころのない町の佇まいの中、柳田國男生家の周辺は、訪れた人の期待を裏切りませんでした。柳田少年が見たそれとは違い、今の風景が観光地化していることは確かでしょう。でも、現代人にはほっとできる風景であることに違いありません。

ただ、柳田國男生家の周辺が昔の風景を残していたとして、それは風景の中の話。私の目に映る福崎が、柳田國男少年にとってのそれと似通っている事が確認できただけの話です。肝心なのは柳田國男氏の築き上げた民俗学の礎を福崎に見つけられるかどうかです。その為に福崎に来たのですから。

そう考えると、生家周辺が農村風景を維持していようがいまいが、それは柳田國男氏の業績とは関係のない話です。確かに、福崎の町にヘソのない事は、柳田少年の心を旅人へと仕立て上げるには充分だったことでしょう。茫洋とした福崎の町並みにあって、その中に漂う風土のエッセンスを確かめたいという衝動。この衝動が少年を長じて民俗学へと向かわせたと言えなくもないのですから。

もちろん、柳田國男少年を民族学へと駆り立てたのは、そのような衝動だけではなかったはずです。福崎にあって松岡家は裕福ではありませんでした。それは五人兄弟という子沢山だったこともあるでしょう。でも、その五人が五人とも後に名を成したのですからすごいことです。柳田國男・松岡家顕彰会記念館と名づけられているのももっともで、この記念館で展示されているのは柳田國男氏のみではありません。他の四兄弟の業績や、父母のことまで紹介されています。長兄は医師で政治家としてあり、今でいう千葉の我孫子あたりの布佐町の町長まで務めた人物。次兄は眼科医の傍ら歌人としても皇室の御歌所寄人に撰ばれるほどの国文学の研究者。真ん中には柳田家に養子に入った國男氏。その下の弟は海軍軍人として大佐まで進み、病気で退役してからは言語学の学者として名を成しています。末弟は映丘という雅号で美大の教授として大和絵の大家となっています。五人ともがWikipediaに項目が設けられています。松岡五兄弟と称され後世でも顕彰されるだけのことはあります。おそらくは松岡家が貧乏だったのは、教育に金を使ったからでしょう。でもそれが後世に名を残すことになったのですから、そのことは安易に否定すべきではありません。記念館にはご両親の肖像画も飾られていましたが、この兄弟にしてこの親ありという面構えで私を射すくめました。

IMG_6504IMG_6491私が訪れた柳田國男生家は、昔ながらの茅葺の日本家屋。間取りとしては決して狭い家とは思えませんでした。少なくとも私には、柳田國男氏が日本一小さい家と呼んだのが卑下にすら思えました。でも、よく考えるとこの家屋に男五兄弟は狭すぎます。後には長兄が嫁をとり、その奥さんも同居したといいます。であれば、國男少年の記憶に日本一小さい家という記憶が染み付いたのも分からなくもないです。

この生家も随分昔、柳田國男少年が10歳のときに人手にわたり、辻川周辺を二箇所ほど転々とした後に福崎町が柳田國男生家として今の場所に移築した経緯があるようです。松岡五兄弟にとってみれば、福崎という町は終生郷愁を掻き立てられる地であったようです。しかし、身寄りのある親戚がいなかったため気軽に帰れる地ではなくなってしまいました。結局、長じた五兄弟の誰も福崎で暮らすことはありませんでした。でも、それぞれが郷愁を感じたのは確かのようです。柳田國男氏も「故郷七十年」という著書の中でこう述べています。

「村に帰っても、私には伯父も伯母もないので、すぐにお宮に詣って山の上から自分たちの昔住んでいた家の、だんだんと変形して心から遠く離れてゆくのを寂しく思い行く所といえばやはり三木の家であった。ゆっくり村の路を歩いて誰か声をかけてくれるかと期待しても、向うが遠慮して声をかけてくれない。私にとっては、山水と友だちになるとか、村人全体と友だちになるような気持ちで故郷に帰るのであったが、故處子の『帰省』の気持ちとだんだん違ったものになってきた」

この文章に柳田國男氏を民俗学へ向かわせたエネルギーが潜んでいると見るのは私だけでしょうか? もはや身寄りなく寄る辺もない故郷。しかしその故郷の風景や人々の暮らしが懐かしく思えてならない。喪われた故郷を自分の裡に再生するため、日本中を旅し、風俗を研究し、言葉の変遷を調べた。故郷再生こそが柳田氏の民俗学への情熱を支えた。私はこの文を目にしてそんな思いにとらわれました。

上の引用文にあるお宮、とは生家のすぐ脇に鎮座している鈴が森神社を指しているのだと思います。私も参拝しました。また、生家とお宮の間には路が上へと延びています。その先にあるのが上の引用文に出てくる山に違いありません。IMG_6502IMG_6507今回、この山へは時間を惜しんで登りませんでした。今更ながら登っておけば、と思います。登って山の上から辻川や福崎の町並みを一望するべきだったと思います。それぐらいこの付近は柳田國男少年の当時を保っているように思えたからです。かつてのよすがを思い起こさせるような静謐な環境の一方で、家族連れを呼び込むように、生家のすぐ前には辻川山公園が設けられ、その中の池には30分置きに河童の河次郎が現れます。これは私も目撃しました。池のほとりには河童の河太郎と天狗が待ち受けています。子供たちがうれしそうに河童の兄弟の30分おきの出会いを見守っていました。そのすぐ横には逆さ天狗が30分毎に現れるような仕掛けもできています。IMG_6479
辻川山公園からみたもちむぎの館
IMG_6488報道によれば丁度私が訪れる前の週から設置されたそうです。今回はタイミングを逃したのか見られませんでした。また、池のすぐ近くには福崎の物産を集め、食事もできる「もちむぎの館」といった施設も備わっています。きっかけはこういった観光施設でもいいのです。私も含めた観光客がこの地に訪れたことをきっかけに、柳田國男氏が生涯をかけて見つけようとしたものが何かを考えられればいいなと思います。少なくとも私には得られるものがありました。

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私が思う柳田國男氏とは、民俗学者である前に一人の旅人でした。違う土地の暮らしや人々の習俗に興味を持ち、調べて文章に著す。私がやりたいようなことを柳田國男氏は一生の業として歩まれました。氏が旅した当時、まだ日本にはかろうじて旧弊の文化が残されていました。それでいて、文明の利器-汽車-の力を借りて、効率的に各地を訪問できました。云わば、一番良い時期に旅に明け暮れる日々を送った訳です。それはただただ羨ましいばかりです。今回、四時間という時間ではあるものの福崎の地を訪問しました。そして民俗学者、旅人としての柳田氏の故郷を目にしたことで、ますます氏のような人生を歩みたいという思いが強くなりました。冒頭に書いたとおり、柳田氏が本格的に民俗学の探求を始めたのは40台に入ってからのこと。私もまだ間に合うはず。そのためにも今できる仕事をきっちりと仕上げ、自分の望む仕事スタイルを全うできるような基盤を作りたいと思います。IMG_6509


淡路島に地方創生の未来を見た


先日、4/23に淡路島に行って来ました。

淡路島といえば兵庫県。私の故郷です。海峡を挟んだ明石は父の出身地であり、つい数年前まで祖父母が住んでいた地です。淡路島は国産み神話の息づく、花咲く島としても知られています。しかし、そんな身近にありながら、私は淡路島をそれほど訪れていません。今回の訪問が生涯で10回目というところでしょうか。今回の旅は、淡路島の魅力を再認識すると共に、そこを舞台にビジネスと暮らしを両立させる試みに触れさせて頂く貴重な機会となりました。

昨年の秋、10/29に東京の上野でセミナーに参加しました。
「東京×兵庫 移住・起業促進セミナー〜暮らし方と働き方を選んで自分らしく生きる〜」
Facebookページ

今回の淡路訪問は、このセミナーへの出席がきっかけです。当時、私は兵庫で週半分とはいえuターン起業を企図していました。お仕事で懇意にしている方からのご招待を頂いたのを機縁に起業の人脈作りも兼ねて参加しました。実際、こちらで拝聴したセミナー内容や試食させて頂いた産物はとても魅力がありました。が、それだけではありません。ここで得たご縁は、今回の淡路だけでなく、それ以外にも様々なビジネスの展開を私にもたらしてくれました。このセミナーへの出席は私にとって一つの転機となりました。

このセミナーで知り合った方には、実際に東京での地位を擲ち、淡路で新たな勉強をし直す方がいました。東京から淡路に移住し、腰を据えてビジネスを展開されている方もいました。また、関西を舞台に様々な町づくり、コミュニティ再生をされている方もいました。実際にビジネス展開の上でITを使ったお手伝いのご相談も頂きました。ここで得た貴重な御縁を一期のものとしないためにも、今回の淡路訪問は何を置いても優先すべきものでした。

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まず最初に訪れたのは、トキワ庵様。サブタイトルに「~淡路島サテライト&コワーキングオフィス~」と名付けられています。古民家を丸ごとリノベーションし、合宿も出来るコワーキングスペースとして再生利用しているのがトキワ庵様です。広々とした窓や縁側から見える景色は飾り気なしの素朴な農村風景。生の素材をそのままに提供したロケーションは文句なしです。雑念に惑わされず集中するのには打ってつけの環境といえるでしょう。ましてやディスプレイを凝視することの多い技術者にとっては、目の健康に欠かせない緑が存分に味わえます。目に良いだけでなく、耳にも心地良いウグイスの鳴き声がそこら中で春の訪れをしきりに告げています。心身の疲れを癒すにはとてもよい環境です。

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淡路訪問の前後、私はとある案件を請け負っていました。一人きりの開発を選択したゆえ、相談相手といえば、Google先生かstackoverflow教授のみ。でも、トキワ庵さんで合宿していれば、誘惑に流されることなくチーム単位でのさくさく開発ができたことでしょう。孤独な闘いを挑んでいた私には、トキワ庵さんはとても魅力的な場所に映りました。

関西で開発をされている会社様はもちろんの事、関東に拠点ある会社にとっても、社員旅行先としても候補に挙げて良いかもしれません。お値段分以上の価値はあると言ってよいと思います。
トキワ庵さんFacebookページ

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さて、我々が続いて案内して頂いたのが、challenge Farmです。こちらの農場、実は株式会社パソナ様が近隣の農場を借り上げて運営しています。近隣のこういった農場を何か所か借り上げ、パソナさんの事業として使用されているのだとか。我々が訪れた時、パソナグループの新入社員達が新入社員研修の一環として農作業を行っていました。パソナさんと言えば、日本橋の自社ビル内に農園を設けている事で知られます。私も見させて頂きました。こういった農を重視するパソナさんの姿勢は、全グループの新入社員研修という形にも現れています。

数年前に楽天グループが、社内公用語を英語に指定して話題を集めました。私は実はこの事をあまり評価していません。何故なら言語の違いはITの進化によって、ここ10年以内に意識されなくなると踏んでいるからです。もちろん、英語を公用語化する事で、論理的な考えやビジネスマインドが身につくという効果はあるでしょう。しかし、論理力やビジネスマインドを身に付けたところで、ITの進化の前には霞んでしまうに違いありません。

一方、農という人間のプリミティブな可能性に着目したパソナさんの選択には大いに賛成します。地に足のついた農の重要性を学んだ人材が、あるいは将来の日本を背負って立つのかもしれません。こちらのchallenge Farmでは、新入社員一人一人が農作業に従事し、同時に、自らの労働時間、原材料、肥料、シートや柵に至るまで、全てをコスト計算する事が求められているとか。単なる土に還れ的な精神論、泥まみれの根性論だけではありません。農作業を通じて社員として必要なビジネス感覚の養成の場として位置付けているのです。私はその事にとても感銘を受けました。かつて私はパソナグループの社員として働いていました。もし当時の自分がこういった研修を受けていたら、今の私は果たしてどうだったろうか、という空想にまで思いを馳せました。

challenge Farmでは、企業研修の受け入れや、団体観光客の農業体験の受け入れで収入を得ているようです。ゆくゆくは私自身も利用させて頂く機会があれば嬉しく思います。

IMG_6434さて、農業は生産だけではありません。小売りまでカバーしての農業です。その発想から出た実践の場こそが、我々が続いてご案内頂いた「のじまスコーラ」です。ここは旧淡路市立野島小学校の建物をパソナグループが無償で譲り受け、全面的に改装して使用しています。その結果、街の商業施設として賑わいの中心を担っています。
のじまスコーラWebサイト

「のじまスコーラ」の随所に元小学校の名残が残されていました。地元の卒業生にとってみれば懐かしき母校が再利用されている姿は嬉しいものです。地元の農家から見れば農作物の販売拠点として恰好の存在になってくれれば作物の育て甲斐もあります。観光客にとっては道の駅とは違う、ユニークな観光スポットとして分かりやすい存在です。私自身、「のじまスコーラ」の存在は東京にいた時から知っていました。実際に訪れた「のじまスコーラ」は、とても繁盛しており、順調な様子が見受けられました。教室がお洒落なレストランと化し、フィギュアの博物館と化し、美味なパン屋さんと化し、BBQの場と化して有効利用されている姿は、地方創生の活きた実例として申し分ないと云えます。

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写真 2016-04-23 12 35 18われわれは、次いでMieleという播磨灘に面したレストランに案内頂きました。ここもパソナグループの手による運営だそうです。スタッフの中の何人かは新入社員で、社員研修の一環として働いているのだとか。名物である玉ねぎや淡路牛を使ったハンバーガーは正に絶品。我々四人はノンアルコールビールで乾杯しましたが、お店の雰囲気だけで十分に酔えました。
Miele

トキワ庵からMieleに至るまで、パソナさんの地方創生に掛ける意気込みはしかと受け止めました。運営している方々はパソナグループの中で募ったところ手を挙げた有志だそうです。それぞれがかなりの裁量を持って運営していることが伺えます。我々を案内して下さったIさんもまさにその一人。充実した感じが眩しいぐらいでした。

パソナ創業者の南部氏といえば、私にとっては大学の先輩にあたる方。とはいえ今回の訪問まで南部氏の御出身が淡路島の対岸の舞子とは知りませんでした。しかし、淡路島への資本投下も、単に故郷に錦を飾るだけとは思えぬほどの本気度です。そしてその本気こそが、一流企業の社会的責任-CSRの在るべき姿ではないかと思えます。

今の日本社会が抱える問題は多々あります。保育園不足や過疎化、医師不足など。そして、その問題のいくつかを解決する為の有効な処方箋とは、一極集中の解消にあるのではないでしょうか。さらに言えば、一極集中に対して有効な策を打てるのは、国や自治体、中小企業よりも潤沢な資本を持つ大企業です。本社こそ東京にあれ、地方にくまなく拠点網を廻らす大企業は、経営者の意思一つで地方に重心を移すことも出来ます。ましてやネットがこれだけ発達した現代ならなおさらです。

パソナさんの淡路島における地方創生事業は先進的な取り組みとして、あるいはCSRの在るべき姿として評価したいと思います。

さて、我々が続いて向かったのは、兵庫県立淡路景観園芸学校です。こちらは、園芸や景観といった緑を活用したノウハウを教える社会人大学としての性格が強い学校です。淡路といえば玉ねぎやハンバーガーといった名物以外にも花や園芸が盛んであることでも知られています。かつて、淡路島ではジャパンフローラ2000、いわゆる淡路花博も開催されました。新婚当時、私も見に行きました。

IMG_6447学校の中をご案内して下さったのは、Tさん。東京での華麗なキャリアから一転、新たなビジネス創出のため淡路で一から園芸を学ぼうとする向上心の持ち主です。その行動力にはただ頭を垂れるのみです。Tさんには寮の自室から教室、教授室、温室、さらには畑や飾り壇、学食のカフェテリアなどを案内頂きました。瀟洒な校舎を囲むように園芸や景観を学ぶための諸施設が点在し、じつに贅沢な環境が設えられています。
学校ホームページ

IMG_6449その贅沢さは人口密度の少なさにも表れています。我々が訪れた土曜日というタイミングを考えても、ほとんど人に会うことなく闊歩できたキャンパス。それはほぼ独り占めと言ってもよいほどです。近所の馬場から遠乗りでやって来た二頭のお馬さんに遭遇しました。サボテンと乗馬の取り合わせはまるでメキシコ。そのような偶然の演出さえも、観客は我々のみという贅沢さ。素敵な出会いもこの学校ならではです。地元の主婦の方々がフリマらしくお店を出されていましたが、売り上げが上がったのかどうか心配になります。誰も客のいないカフェテリアは営業中でしたが、パートさんお二人がシフトに就かれていました。客は我々三人以外には老夫婦のみ。収支状況が気になります。

とにかく浮世離れしたような環境ですが、学び舎としての魅力は抜群です。ただし、あまりにも贅沢な空間の広がりに、逆に採算性が心配になって来るほど。Tさんもその辺りを心配されていました。私も淡路の片隅に花咲いたこの別天地が立ちいかなくなる事態は望みません。機会があれば東京でもこちらの学校のPRのお手伝いをしたいものです。

園芸や緑化は公の仕事。そんな暗黙の了解があります。でも、本当に私企業が園芸や緑化の事業に参入する余地は無いのでしょうか。アイデア次第では、ビジネスとして成り立ちつつ、働く当人が癒されるような仕事のタネは転がっているはず。その気付きが、こちらの学校で得られなければ、一体どこで得られるというのでしょう。特にITと園芸とのコラボレーションには、新たなビジネスの鉱脈が埋もれて居る気がしてなりません。畑を耕して得られるものは何も作物だけではありません。ビジネスの種もきっと掘り起こされるのを待っているはずです。実際、IT技術者には心なしか土いじりが好きな人が多いように思います。案外、ITと園芸とは、相性の良いもの同士かもしれませんよ。こちらの学校への入学にあたっては、兵庫県からも手厚い補助金が出るようですし、興味ある方はセカンドライフの有望な選択肢として含めてみてはいかがでしょうか。もちろん私自身も含めて。

終わりに。

今回、淡路島に来て思った事があります。それは、今や淡路島は行き来に不便な島ではない、という事です。帰路は一緒に同行して頂いたHさんに淡路サービスエリアまで送って頂き、そこから独り、バスでJR舞子まで出ました。片道運賃はわずかに410円。安価な出費で海峡バス渡りの贅沢が楽しめました。かつてのように西宮から甲子園フェリーに乗ったり、明石からたこフェリーに乗ったりといった船旅のイメージはもはや過去のもの。未だに淡路島を遠隔の地として見ているのであれば、その認識は改めなければなりません。少なくとも私はそう思いました。淡路島の魅力は、関西のみならず中京や首都圏の方々にこそ伝えられるべきです。それも単なるレクリエーションの場としてだけではなく、ビジネス創出の場として。

淡路島から、新たな日本の国産み神話が生まれる。そんな感想さえ抱いた今回の旅でした。最後になりましたが、今回の旅でお世話になった皆様、特にIさんTさんHさん、本当にありがとうございました!


プログレッシブ・ポップの偉大さ


今朝のプリンス死去の報にはやはり驚きました。

このところ、デヴィッド・ボウイにはじまり、グレン・フライ、モーリス・ホワイト、キース・エマーソンと、70-80年代の洋楽好きにとっては残念なお知らせが続いています。

人はいつかは死ぬ。という事がわかっていても、プリンスの死は早すぎた、と言えます。

私のようなプリンスの全盛期を知らぬ者にとってはなおさら。一般的な売上だけでなく、批評家受けもし、マルチプレイヤーであり、俳優であり。発表された作品からも、才能の豊かさに圧倒されます。

洋楽を聴き始めてすぐ、プリンスのbatdanceに衝撃を受けました。洋楽に対する知識もほのかにしかなく、プログレッシブ・ロックも未知の私。そんな私にとって、batdanceの変幻自在な構成はまさに驚愕でした。PVではプリンス自身が様々な楽器を自在にあやつる様が映し出され、音楽の才能とはこういう事を指すのか、と思いました。

私にとってプリンスの好きな曲は、little red corvetteや、when doves cryにとってかわられましたが、batdanceの衝撃は今なお色褪せないですね。プログレッシブ・ポップというジャンルは聞いたことがありませんが、もしそのようなジャンルがあるとしたら、batdanceこそは金字塔の一曲として挙げても良いのではと思います。

私の友人の歌うlet’s get crazyは絶品なのですが、今度洋楽カラオケに行ったら、プリンス祭りでも催して、その偉大な才能に酔い痴れたいと思います。


地震に備える仕事と生活


熊本で大きな地震がありました。

奇しくも兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)と同じマグニチュードだったそうですね。
断層を震源とした都市直下型としても同じ構造のように思えます。

当時、兵庫県南部地震で被災した者としては、今回の地震には思うところが多々あります。

その思いは、どうしても目前に迫っているといわれる首都圏直下型地震にたどり着きます。2020年のオリンピックも近づいている東京ですが、耐震対策については依然として改善の兆しが見えません。

私はこの4月からワークスタイルを変えました。3月までは月~金は都心で客先に常駐するスタイル。4月からは週の半分を弊社事務所や町田近辺で仕事するスタイル。ワークスタイル切り替えの理由の一つは、地震に対するリスク回避です。

2011/3/11。東日本大震災が起きた日の私はたまたま家で仕事をしていました。当時、私は日本橋の某金融機関本店で勤務していました。しかし、この日は個人で請けていたお仕事を進めたくて、家で仕事をしていたのです。一方、妻は地震発生の瞬間、仕事で錦糸町にいました。結局妻が帰って来たのは翌朝のこと。小学校に通っていた娘たちを迎えに行ったのは私でした。

もしそのとき、私が普段どおり日本橋に向かっていたら、娘たちは父や母の迎えもないまま、心細い思いを抱えて学校で一夜を過ごすことになったことでしょう。

その経験は、私に都心常駐の仕事が抱えるリスクを否応なしに意識させました。個人事業主となってから5年。ゆくゆくは常駐に頼らぬ仕事を目指そうと漠然とは思っていました。でも、都心常駐から町田近辺での仕事へ、という切り替えを真剣に模索するようになったのは3.11の後です。そして昨年は1.17の阪神・淡路大震災が発生して20年の節目でした。自分の被災者としての思い出を振り返るにつれ、ワークスタイル切り替えの思いはさらに強まりました。

私が個人事業を法人化したのはその余韻もさめない4/1のことです。法人化にあたって、どこにビジネスの基盤を置けばよいか、かなり考えました。個人事業主であれば身軽です。仮に首都圏直下型地震が起き、都心で受託していた仕事が継続できなくなったとしても、別の場所で仕事を頂くことができたかもしれません。でも法人化を成した後ではそうも身軽ではいられません。いざ都心が地震で甚大な被害を蒙ったとして、ビジネスの重心が都心に偏っていると、経営基盤にも深刻なダメージが及ぶでしょう。弊社のような創立間もない零細会社としてはなおさらです。そのようなリスクを軽視することはできませんでした。

法人化当初から描いていたワークスタイルの変更は、1年を経てこの4月から一部ではありますが成し遂げることができました。しかしまだまだです。私の目標は日本全国にあります。人を雇って支店を置くのもよいですが、できれば私自身が日本を巡り、巡った各地域の人々と交流できるような仕事がしたいと思っています。いわば旅の趣味と仕事を両立できるようなワークスタイル。

実際、私が大阪で非常にお世話になり、東京でも度々お世話になった方は、堅実な士業に従事しながらも、全国から引き合いを受けては地方を度々訪れているそうです。この方のワークスタイルやライフスタイルは、昔から私の目標とするところです。

私がそういったワークスタイルを実現できたあかつきには、各地を訪れてみたいと思います。地震の被害から復興され、ますます名城としての風格を備えた熊本城を見つつ、地域振興の仕事をお手伝いできているかもしれません。東北の沿岸部では活発な市場の掛け声の中、IT化のお手伝いができるかもしれません。雪深い新潟の山里では、うまい日本酒を頂きながら地元の人々と日本酒文化を世界に発信するための戦略を肴に歓談しているかもしれません。実家に帰った際には、30年前の阪神・淡路大震災からの歴史をかみ締めながら、地元の友人たちと飲んでいるかもしれません。

でも、まずは足元です。足元を固めないと。そのためにはワークスタイルの変革をぜひとも成功させるために努力することが必要です。町田にビジネスの拠点を置いたとして、首都圏直下型地震のリスクは少しは軽減されますが、立川断層を震源とした地震が起きた場合は甚大な被害を受けるでしょう。富士山が仮に噴火した場合もそうです。火山灰による被害は都心よりもさらにひどいものになるでしょう。結局、問題とすべきでは場所ではなく、一箇所に長く留まるようなライフスタイルといえるのかもしれません。

また、どこにいても災害が起こりうるのであれば、いつも災害に関して備えておく必要があります。昨年の秋、東京都民には充実した防災手帳が配布されました。内容はすばらしいの一言です。これを再び読むことを怠ってはならないでしょうね。また、普段から「いつも」地震に備えるためには、以前にも読ん読ブログでも紹介しました以下の本が参考になります。
地震イツモノート―阪神・淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル

なお、こちらの内容はWebでも無料で公開されています。是非お読み頂くことをお勧めします。

最後になりますが、熊本で被災された方々に平穏の日々がなるべくはやく訪れますように。私個人の体験から、被災された方にとって外部でどういった報道がされようが、どういったブログが書かれようが、何のイベントが自粛されようが、全く関係ないことはよくわかっているつもりです。私が書いたこのブログにしても、ほとんどの被災者の方には届かないことでしょう。

でも、私自身にとって熊本の地震には何かのご縁を感じるのです。それは冒頭に挙げたような阪神・淡路大震災の類似もあるでしょう。さらには、ここ2週間私が開発で使っているCodeIgniterというフレームワークを介したご縁もあります。3.11が起きた日、私が自宅で作業していたのが、まさにCodeIgniterを使った開発でした。それ以来数年ぶりに使っていたら今回の地震に遭遇しました。

そんな訳で、熊本の地震には何かの縁を感じます。その縁を私がどういう行動で太くするか、それはこの後考えてみようと思います。まずは先に紹介した地震イツモノートを紹介して、これからの地震への備えについて注意喚起しようと思います。


受験生に向けて-偏差値に負けるな


そこら中で梅の花が咲き誇っています。紅白が美しい季節です。

この季節はまた、受験の季節でもあります。受験が終わった方、まだこれからの方。喜びや悲しみが、それぞれの方に届けられていることでしょう。

我が家も長女が初受験に臨みました。幸いにして第一志望の学校に受かることが出来ましたが、不合格も経験しています。初めての試験がどうだったか。本人にはまだきちんと聞けていません。成長にあたっての通過点として記憶に残してくれればよいのですが。少なくとも偏差値の高低よりも、自分の行きたい道を選んでくれたことは評価したいと思います。

私自身、かつては高校受験生でした。受験した高校は、通っていた小学校の隣に立っていました。私にとって通い慣れた場所です。何もなければ全く印象に残らぬまま、人生の単なる通過点として過ぎてしまったことでしょう。でも、この通過点は結構覚えています。なぜなら生まれてこの方、緊張のあまり胃が痛くなったのは高校受験の時だけだからです。受験前の2、3週間はとにかく胃が痛くて痛くて。

その後の私の人生を考えれば、高校受験で胃を痛めた経験は微笑ましくすら思えます。高校受験よりも胃の痛い試練や苦難など、それこそたくさん潜り抜けてきたので。でも、今の私が胃を痛くするとしたら、食べすぎか呑みすぎが関の山です。多分今後も、私がディナーバイキング以外で胃を痛めることはないでしょう。それはなぜかというと、私が個人事業主の時期を長く過ごし、今は法人の代表という立場に就いているからだと思います。

個人事業や法人経営。それは常に成果が求められる世界です。成果を出せなかったら二度と発注を頂けないだけの話。落選通知すら来ません。これが就職活動であれば「厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが」のような文が届くのでしょう。しかしビジネスの世界ではそれすら来ないことがほとんどです。その度にいちいち胃を痛めていたら、太田胃酸やパンシロンがいくつあっても足りません。

「偏差値」というのは受験生にとってはとかく悪評の高い言葉です。でも、私のような立場からいうと恵まれた言葉です。相対であれ絶対であれ、目標値が明確に設定されているのですから。そして、もっと恵まれていると思うのは、一度「偏差値」の門を潜り抜けてさえしまえば、その評価は生涯変わることがないことです。

同じことは偏差値が設定されている高校や大学受験に限らず言えます。例えば国家資格。医者や教員、税理士や公認会計士、法曹資格のような資格がそうです。それらの国家資格は、更新試験が設けられていません、そのため一度取得すればほぼ不変です。自ら返上するか、不祥事による資格はく奪が無い限りは生涯持ち続けていられます。また、公私企業の正社員もそうです。終身雇用を錦の御旗として掲げてきた我が国としては、一度正社員になるとそうそうクビになることはありません。

立場が守られているという状況は、緊張感を喪わせやすい。これは皆さんも認めるところでしょう。それはまた、既得権益の死守という動機をも産みかねません。

もちろん、私が知っている方は皆さん努力されています。セミナーに出席したり勉強会を開いたり。私の妻は歯医者ですが、最近は歯や口の健康から体全体の健康寿命を取り入れるため勉強しているようです。そういった方々は、一度得た立場に安住することなく、努力を重ねられている方として尊敬したいと思います

でも、色んな事件やニュースを見ていると、どうも我が国の活力を失わせているのは、そういった努力家ではない、立場に安住してしまった方のような気がしてなりません。

最近の日本に活力がなくなっていることは色んな方が指摘しています。それぞれに説得力がある意見だと思います。私はここにもう一つ追加しておきたいと思います。それは、努力が不要な社会になってしまっているということです。一度入ってしまえば、一度得てしまえばさらなる成長努力をせずに既得利益が得られる社会。組織内での立場だけを気にしておけばよい社会。これでは活力も出て来ませんし、他のハングリーな国々に負ける一方です。仮に今後我が国が移民を増やしていくとして、今のような状況が続けばどんどん優秀な移民者に職を取って代わられかねません。

今後は、こういった意識は改められるべきではないかと思います。常にある程度の緊張を保つような社会。努力しなければ安易に地位を追われてしまうような社会。それは流動性のある社会といってもよいでしょう。また、あらゆる方にチャンスが広がる社会でもあります。働きたいのに働けない不定期労働者や結婚したいのに収入がない独身の方や子供が欲しいのに収入も保育園もないご夫婦にとってチャンスが巡る社会。

そして、絶えざる努力が求められる社会にあっては、受験の意味すら変わってくるでしょう。入学のハードルは低いが、卒業時に学問の成果が問われる学校。大学時代遊びまわっていた私がいうのもなんですが、卒業時に学位を容易に与えすぎだったのでしょうね。今までは。

今の受験生の方々には、一旦受かったからといってゆめゆめ努力を怠ることのないようにして頂きたいです。また、自分の思う志望校に行けなかった方も、決して今後の人生を諦めることのないようにして頂きたいです。偏差値が低い学校だっていいじゃないですか。偏差値が高い学校に入学して気を抜いた連中を追い抜く時間はまだ沢山あります。社会に出たら大学や高校がどこだったかなんて大手企業の学閥しか気にしませんよ。それよりも大切なのは、いかに仕事が出来るかです。社会に出てからも自らの評価を取り戻すチャンスは沢山転がっています。これは間違いありません。

私自身、関西では名の通った大学を卒業しましたが、上京して以来、その威光に頼ることは殆どありません。そもそも誰も知らなかったので頼りようもありませんでしたし。己のほんのちょっとの才覚と、それを補うかなりの努力でこれまで何とかやって来ました。また、これからも勉強を惜しまず世を渡っていこうと思っています。

そういった姿勢を今回合格した娘には教えて行きたいと思っています。そのためには、私自身も常に勉強の意欲を持ち続けねば。そう強く思います。


クラウドワークスさんの直接契約禁止条項を考える


クラウドワークスさんの件が話題になっています。

GoTheDistanceさんのブログ
クラウドワークスで月収20万超え、わずか111名。働き方革命の未来はどこにある?

ふくゆきブログさん
「クラウドワークスで月収20万超え、わずか111名」は嘘だと思う。

やまもといちろうさん オフィシャルブログ
クラウドワークスが悩ましい件で

かく云う弊社もクラウドワークスさんには登録はしているものの、まだ一度も利用していないのですよね。受注どころかこちらからの提案すらまだ。そもそもプロフィールが完全に埋め切れていないという。

替わりに、なぜかクラウドワークスさんからは仕事提案を色々と頂きます。しかもなぜかライター案件ばかり。ビジネス案件にしても、よくあるテンプレートを使ったタイトルや文面が目立ちます。

このあたりの柔らかさが、「クラウドワークスが悩ましい件で」という批判にも繋がっているのでしょうね。ある種の商売の温床に使われているような微妙な香りが漂っていて。堅実なマッチングサイトに徹して頂ければ我々も安心して使えるのに。

これでは「クラウドワークスで月収20万超え、わずか111名」というフレーズでサービス自体を揶揄されてしまうのも分かります。ただ、一方では、ふくゆきブログさんの「「クラウドワークスで月収20万超え、わずか111名」は嘘だと思う。」との指摘もあります。いったい何が正しいのでしょうか。

弊社がクラウドワークスさんの利用を躊躇う理由の一つに、クラウドワークスさんの利用規約に記載のある直接契約の禁止条項があります。この件については、kintone活用研究会を主宰する株式会社テクネコの加藤和幸さんも指摘されています。以下にその部分を抜粋させて頂きます。

クラウドワークス利用規約
第5条 本サービスの内容
14. 会員又は過去5年以内に会員であった者は、会員又は過去5年以内に会員であった者と、本サービスを利用せずに、直接に本サービスを通じて委託可能な内容に関する業務委託契約を締結すること及びその勧誘をすることを行ってはならないものとします。但し、弊社が事前に承諾した場合はこの限りではありません。
出典元:https://crowdworks.jp/pages/agreement.html

この条文って我々利用者にとっては結構重大だと思うのですよね。今年の年頭に弊社は一年の計を考えました。その中でクラウドワークスさんの利用促進を考えねば、と利用規約を読みました。それで、上記の一文に行き当たり、なんやこれ? と思いました。

弊社が今年年頭にクラウドワークスさんの利用促進を考えたのには、理由があります。それは2015年末に楽天ビジネスさんがサービスを終了したことです。楽天ビジネスさんには、2010、2011年度にかなりお世話になりました。弊社がまだ法人化する前、個人事業主として活動していた頃です。

今回のサービス終了にあたり、楽天サービスさんのサイトも3月末でアクセス不可になるようです。よい機会なのでサイト内に残された弊社の利用情報の取得を行いました。その上で2010年度の利用状況はどうだったかを簡単にまとめてみました。

見積り数
商談数
受注数
受注金額
月額利用料
紹介手数料
税抜純利益
:67件
:21件
:6件
:1,318,000円
:6800円×12か月=81600円
:1000円×21件=21000円
:1,215,400円

2010年4月~2011年3月 楽天ビジネス利用概況

12か月で121万円ですから、月に均すと10万円。今回話題になったクラウドワークスさんの決算報告で出てくる20万円の半額です。ちなみに弊社の2010年度のお仕事は楽天ビジネスさん経由が全てではないので念のため。他のお客様からも多数のお仕事を頂いておりましたよ。ありがたいことに。

で、何が云いたいかというと、この年、楽天ビジネスさん経由で頂いた恩恵は131万に限らないということです。最初のご縁こそ楽天ビジネスさんを通じ、結果として131万円を頂きました。でも、お仕事って一度きりのご縁では終わらないですよね。楽天ビジネスの案件が終わって以降もこの時受注した方々からは継続的にお仕事を頂いています。また、この時ご縁が出来た中の幾人かの方とは未だにプライベートも含めてお付き合いを続けさせて頂いています。要はこの時のご縁から受けた恩恵は131万という金銭だけでは評価できないということです。この時のご縁からは、長きにわたって金額やそれ以外の部分も含めて何倍もの恩恵を受けています。感謝です。

でも、仮に楽天ビジネスさんの利用規約に直接契約の禁止条項が定められていたら? 楽天ビジネスさんを通じて繋がったご縁を直接取引に切り替えることが禁止されていたとしたら? あるいは弊社も今に至るご縁は頂けていなかったもしれません。

弊社(個人事業主時代)と楽天ビジネスさんで締結した契約によれば、金額体系は以下の通りです。月額固定のシステム利用料6800円と商談成立毎に1000円、それと初回の研修受講料として20000円のみ。個人事業主であったため、安価でしかも単純明快な料金体系でした。しかも当該案件に関しない直接取引については全く自由でした。楽天ビジネスさんの出展規約を改めて読み直してみましたが、該当しそうな条項は精々以下の箇所ぐらいでしょうか。

第8条(本サービスの利用)
4.出展者は、本サービスに関し以下の事項を遵守するものとします。
(3)本サービスの利用の結果、サービス希望者との間で契約(口頭、書面を問いません。)を締結した場合において、当社から要請があった場合には、直ちに、サービス希望者の名称、契約に関する代金の金額、支払方法その他当社の定める事項を当社の定める様式にしたがって当社に報告すること。
出典元:http://business.rakuten.co.jp/docs/info/terms_exhibitor/terms_exhibition.html

楽天ビジネスさんがサービスを終了した理由はわかりません。プレスリリース上にも理由は書かれていませんでしたし。ならば仮に、クラウドワークスさんのように当該案件が終わった後の取引も、サービス運営元を経由することを義務付けていたらどうだったでしょうか。継続的にサービス運営元に収入が入る仕組みにしていれば、楽天ビジネスさんのビジネスは中止の憂き目を見なかったのでしょうか。それもわかりません。分かるのは、楽天ビジネスさんのように月額固定でのシステム利用料を徴収していても、案件成立毎に固定の手数料を頂く料金体系でも、サービス継続を行う理由にはならなかったということです。

クラウドワークスさんの場合、料金体系はもっと単純です。契約額の一定割合を徴収します。そして楽天ビジネスさんと同じく、案件を提示する側は原則無料で案件を提示できるのです。基本利用料の発生しない料金体系は出展者には魅力的に映りますよね。しかしその料金体系を採用している限り、案件数が多くなければサービス運営元にとって収益になりません。

案件数を増やしたいのであれば、案件を出す発注元は大切にしなければなりません。発注元の負担が増すような仕組みはもってのほかです。でも、直接取引の禁止という規約は発注元の負担を増すだけのように思えます。折角最初の取引で馬が合う業者さんを見つけても、5年間は発注の際にクラウドワークスさんの仕組みを通さなければならないのですから。メールやLINEやChatworkでひょいっと「こういう仕掛けってちゃちゃっと作れない?工数見合いでお金はきちっと出すからさぁ?」といった依頼も出せなくなります。これって案件を出す発注元にとってクラウドワークスさんを使う意欲を萎えさせませんか? 発注元にとって魅力的な仕組みであってこそ案件数も増え、クラウドワークスさんの収益モデルにとって有益になると思うのですが。優良な発注元が減り、長期的なお付き合いなど無用で一回切りでよいから安価な提案を集めたいという発注元ばかりになると、出展者にとってクラウドワークスさんが魅力的なサービスでなくなってしまう気がします。

とっかかりのご縁はとても重要です。案件マッチングサイトの存在意義は間違いなく今後もあります。でも、発注者と出展者にとっては、そのご縁をきっかけに築きあげる直接の信頼関係もとても重要なのです。クラウドワークスさんには、是非とも直接契約の禁止条項(第5条14項)の撤廃検討をお願いしたいところです。または、条項に記載されているような「但し、弊社が事前に承諾した場合はこの限りではありません」の“場合”が何かをきっちり定義して頂くとか。

その替わり、クラウドワークスさんが継続的にサービスを継続できるための料金体系の構築は、我々出展者や発注元も真剣に考えていかねばなりません。クラウドワークスさんのようなサービスが今後も生き残るためには、サービス運営元としての利益確保は蔑ろにはできないのですから。楽天ビジネスさんのサービス終了は出展者にとっては商流チャネルの消失でもあります。避けたいところなのです。

例えば出展者へのオプションとして月額利用料有りのプランを設けるとか。発注元にも成約金額の一定割合の負担をお願いするとか。当該取引によって得た業務改善効果や収益改善効果の記事をクラウドサービス内にアップしてもらうことを義務付けるとか。この記事はクラウドワークスさんだけでなく、発注元、出典者にとっても外部リンク効果や広告効果として長期的な利益になるかもしれません。

是非ともご検討をお願いしたいところです。


処方箋の電子化はクラウドの追い風となるのか


本日、このようなニュースが報道されました。

「処方箋電子化解禁へ…医療機関と薬局で情報共有」YOMIURI ONLINE
リンク

電子データ化の波は、ついにここまで来ました。とはいえ、実は調剤薬局内に限定された部分では、すでにデータ化は進んでいます。今回のニュースの主旨は、薬局と医療機関の間のデータ共有が主となります。

なので、患者側にとってのメリットはそれほどないのではないかと思っています。

むしろ、薬事日報のサイトの記事によると、レセコンの処理待ちによる処理時間の増加すら懸念されています。レセコンとはレセプトコンピューターのことです。

妻が歯科医であることから、レセプト(医療報酬の明細書)処理の実態については私も話を聞いています。また、最近介護関係の方と話す機会も増えています。皆さま、レセプト処理の改善については思うところが強いようです。

結局のところ、レセプトとは、健康保険の加入者が負担する医療費の算出に必要なものです。つまり、診療行為ごとに診療報酬点数が決められているため、その点数を算出し、そこから医療機関と患者の負担額を導出するのです。この点数算出の方法が頻繁に切り替わるため、医療事務方の負担となっています。

では、IT化すればよいじゃないか、という意見がありそうです。ですが、上に書いた理由から、レセプト処理についてはあまりにも仕様が煩雑で頻繁に変わるため、汎用化や共通化が遅れています。そのため、専門のソフトやハードが未だに残されています。レセプト処理専門のキーボードすらあるほどです。106キーボードやJISキーボードとは似てもつかない様々なレセプト処理に特化したキーボードです。そういった事情から、レセプト処理を専門とするIT業者も存在します。

オープン化の波がIT業界を席巻してかなりの年月が経ちました。汎用機という名のメーカー専門機はどんどん脇に追いやられています。しかし、医療業界ではまだレセプト専門機や専用ソフトが幅を利かせています。クラウド化やオープンソース化はまだまだ先の話でしょう。

今回の処方箋の電子化は調剤薬局にとってはゆくゆくは事務作業の軽減化になりえるでしょう。しかし、患者にとってはその恩恵を顕著に感じられるまではまだ掛かると思ったほうがよいでしょう。弊社を含めた一般のIT業者にとっても今回の電子共有化にあたっては、特に利点はないと思っておいたほうがよさそうです。

ただし、少しずつ、医療業界においてもIT化の影響は及びつつあります。クラウド化の流れはこの分野においても避けることはできないでしょう。すでに医療分野でも着々とクラウド化は進んでいます。その時に備え、弊社でも対応できるよう、この流れは注視したいと思っています。


野球博物館の役割-断罪ではなく感動を伝える


先日、2/11に東京ドームの野球殿堂博物館に行ってきました。記憶が確かなら私にとって四回目の訪問です。四回目といっても、前回の訪問からはだいぶ間が開いてしまいました。前回の訪問がいつかはよく覚えていませんが、10年ぶりでしょうか。展示内容も大分忘れていました。今回久々に訪れてみて、野球殿堂博物館が狭く感じました。私の記憶ではもっと広かったような気がしたのですが。あれ?こんな狭かったっけ?と。

多分、それは甲子園歴史館に慣れたからでしょう。私が野球殿堂博物館から遠ざかっていた10年の間、甲子園歴史館には足繁く通いました。毎年、帰省の度に足を運んだと言っても過言ではありません。甲子園歴史館は広さもさることながら、その資料の豊かさで他の追随を許しません。

中等野球から始まる高校野球100年の歴史はざらではありません。幾多の名勝負が豊中球場、鳴尾球場、そして甲子園球場で繰り広げられました。甲子園歴史館には、それら歴史の生き証人であるボールやグラブ、旗やスコアブックが展示されています。映像資料もふんだんに用意され、動画で熱戦の様子が流されています。私などは、訪れる度に毎回資料を見ているだけで目頭が熱くなります。

甲子園歴史館に展示されている品々は、歴史に残る熱戦の目撃者でもあります。その日、甲子園のグラウンドで飛び交った白球の行方や、スタンドの熱気や応援団の歓声を無言で今に伝えてくれているのが、それらの展示品なのです。例えそれら品々の持ち主がどのような人生を歩もうとも、ボールやグラブが歴史的な一戦に一役かったことは事実です。それら展示品を無かったことは誰にもできません。
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ここ10日ばかり、清原さんの覚醒剤による逮捕の件が世を騒がせています。中には、ゴシップ記事に近いものも見受けられます。反響の大きさからも清原さんが野球界に残した足跡の大きさがうかがえます。このことについては先日ブログにも書きました。

今回の清原さん逮捕に関し、私にとって印象に残ったニュースが二つあります。
一つは甲子園歴史館からの清原さん関連資料の撤去。記事
もう一つは日本プロ野球名球会による除名するつもりはないとの柴田副理事長による談話。記事

実に対照的な措置です。日本プロ野球名球会が清原さんを除名しないし、するつもりもないと明言したことは大いに評価したいと思います。今回、私が野球殿堂博物館を訪れたのは二つ目的がありました。一つは戦没野球人を慰霊する鎮魂の碑が見たかったこと。もう一つは清原さんの業績が残されているかを確認したかったことです。後者の目的については果たせませんでした。そもそも清原さんの展示スペースは用意されていなかったようです。野球殿堂博物館のプロ野球の展示スペースが狭く、おそらく今回の騒動で展示品を入れ替えることもしていないのでしょう。つまり日本プロ野球名球会と野球殿堂博物館は、今回の件については現時点では静観の態度をとるという事を意味します。

一方、甲子園歴史館の判断には疑問が付きます。記事を読むと「教育上の配慮から」との取ってつけたようなコメントが出されています。しかし教育上の配慮というのはあまりにも解せない文句です。事大主義の極致ともいえる判断であり、利用者としては困惑するほかありません。

今回の一連の報道の中には、清原さんがプロ野球選手として現役で活躍している時から覚醒剤を使用していたという記事もあります。その真偽はまだわかりません。しかし仮に清原さんが現役の際に覚せい剤を使用したとして、穢されるのはプロ野球選手としての実績のはずです。その点、日本プロ野球名球会や野球殿堂博物館が何らかの措置をとるのならまだ分かります。しかし甲子園歴史館が展示しているのは、清原さんの高校時代の実績です。まさかPL学園の選手として成し遂げた数多の実績すら、覚せい剤の影響下にあったと疑っているのでしょうか? まさか。たとえその後の人生で転落したからといって、高校時代の実績は実績として認めるべきでしょう。あの時スタンドで味わった感動や興奮が、何十年か後の過ちで全て否定されてしまうのでしょうか。それは一高校野球ファンとして到底納得のいくものではありません。

人によって振幅の差こそありますが、深みも高みも栄光も挫折もあってこその人生ではありませんか。一度の過ちで過去の実績を否定することは、人間の一生をあまりに平板に単純にみる態度です。人の生をそのような平板な単純な営みとみなすことこそ、教育上の配慮が足りないと思えるのですが。

野球殿堂博物館と日本プロ野球名球会は、全くの別組織ですが、ともにプロ野球の歴史に敬意を払う点で同門ともいえます。名球会については発足時の経緯もあって批判的な意見も良く耳にします。が、私は名球会の会員の方々が成し遂げた実績は素直に凄いと思っています。対象外だった大正生まれの川上氏や別所氏、若林氏、野口氏、杉下氏、中尾氏、藤本氏の実績と併せて一つの基準として尊重すべきと思います。もちろんそれは清原さんの実績にも当てはまります。名球会の会員には同じく覚醒剤で服役した江夏豊氏の名前もあります。服役して一旦自主退会したものの、見事に更生した江夏氏を名球会は受け入れています。実に懐の深い対応ではありませんか。

ブログにも書いた通り、甲子園歴史館は高校野球の歴史に加え、阪神タイガースの歴史も展示されています。私が昨秋に訪れた際は、江夏豊氏はちゃんと阪神タイガースの名投手の一人として取り上げられていました。江夏氏は容疑者ではなく、実刑判決を受けて服役したにも関わらず。一方、清原さんはまだ判決前の容疑者の状態です。それなのに覚醒剤に縁のないはずの高校時代の実績すら否定されようとしています。これはあまりに不公平です。

甲子園歴史館と野球殿堂博物館(日本プロ野球名球会)。両者のこの対応の違いはなにかを考えてみました。それはプロとアマチュアの意識の違いなのかもしれません。甲子園歴史館はアマチュアイズムを標榜するあまり、今回の事件に過剰反応してしまったのではないでしょうか。

でも、私はそうじゃないと思うのですよね。プロやアマチュア以前に、野球をテーマにした博物館が持つべき視点は別にあると思うのです。それは「野球とはこんなに人を感動させるスポーツなんですよ」というシンプルなものです。過去に幾多の名勝負がグラウンドで繰り広げられ、過去に先人たちが作り上げてきた歴史の積み重ねの上に今の野球がある。このことを展示し、野球の素晴らしさを伝えることが、この両施設に課せられた使命ではないでしょうか。野球の素晴らしさとは、グラウンド上で選手たちが魅せるプレイに限定されるはずです。何十年も後の一選手の私生活の過ちが、野球の魅力を損なうとはとても思えません。甲子園歴史館の関係者の方がもしこの拙いブログを読まれることがあれば、是非とも清原さんに関する展示品の復活をお願いします!

蛇足ですが、今回の訪問で思ったことを最後に書きます。それは野球殿堂博物館のことです。そろそろ野球殿堂博物館は施設を拡充すべきです。野球殿堂博物館の展示は、プロ野球に留まらず、日本代表のスペースや女子プロ野球や高校大学社会人まで含めています。それは、日本の野球を巡る状況を網羅的に展示する意味で、実に素晴らしいことだと思います。でも、限られたスペースですべてを紹介しようとするあまり、一つ一つの紹介が中途半端になっているように思えてなりません。それこそ、東京ドームなのですから、栄光の巨人軍の歴史を大々的に展示するスペースがあってもよいはずです。少なくとも甲子園歴史館の阪神タイガースの展示スペース並の広さは欲しいところです。過去に後楽園球場を本拠地にしていた日本ハムファイターズの展示もありですよね。私は阪神ファンですが、巨人の歴史が今のプロ野球を作り上げたことを否定するつもりはありません。

それでは野球殿堂博物館を拡充するにはどうしたらよいでしょう。左隣のグッズショップは残しても良いと思います。が、反対側の飲食店は移動してもらい、その空きスペースを使って野球殿堂博物館の展示スペースを広げるべきでしょう。東京ドームが出来て間もなく28年を迎えようとしています。東京ドーム開業30周年あたりの目玉として、野球殿堂博物館の大幅拡充があっても良いのではないでしょうか。

広がった博物館には、日本の野球の歴史を全て網羅し、幾多の名選手の品々が展示されるとよいですね。江夏氏と清原さんの展示ももちろん。もっともお二方の殿堂入りまでは望みません。しかし野球の歴史において一時代を築いたお二人の実績は顕彰されるべきです。二人ともそれだけの実績と積み重ね、数多くの感動を我々に与えてきたのですから。


甦れ、甲子園のヒーローよ!


清原さんが覚醒剤所持の疑いで逮捕されましたね。

正直、あまり驚きませんでした。ブログや報道からも孤独感漂っていましたし。かつての甲子園での活躍を知る私としては、ただただ寂しいです。

私は人生で一度だけ、日射病になりかけたことがあります。それは、甲子園球場のレフトスタンドでした。グラウンドでは、PL学園の打棒が爆発し、東海大山形のナインを打ちのめしていました。29-7というワンサイドゲーム。あまりの点差に余裕が出たのか、清原さんもマウンドで投球を披露した熱暑の中の試合です。

子供の頃甲子園に住んでいた私にとって、球場は馴染みの場でした。夏休みは暇さえあれば観戦に行ったものです。外野は無料だったし。

小学生の私にとって、グラウンドで躍動する高校球児達は、憧れを通り越して、畏敬する存在でした。実際の歳の差よりずっとずっと大人に見えたものです。
今回の逮捕で改めて知ったのは、清原さんが、私のたった6才しか上でないということ。当時の感覚では20歳くらい上の印象だったのに。

数年前、娘たちが通う小学校に桑田氏が講演に来てくださいました。桑田氏といえば、PL学園でKKコンビとして清原さんと並び称された方です。私ももちろん講演を拝聴しました。子供の頃の憧れの対象を目の前にして興奮しないわけがありません。とはいえ、私は桑田氏については永らく誤った印象を持っていました。憎き巨人に入ったことだけでも敵だったのに、面白おかしく歪められた報道が加われば、キライにならないはずがありません。しかし、子供たちやかつての子供たちである我々に語りかける桑田氏の素顔は、実に丁寧でした。私は一気に氏のファンとなりました。子供の頃に感じた、20歳年上との感覚は揺らぎませんでした。桑田氏は、「氏」のままです。

しかし、今回の逮捕によって、清原さんは、「さん」付けになってしまいました。たった6歳しか違わない清原さんに。

挫折は人を強くするといいます。今回のニュースで一番残念に思うのは、清原さんが巨人に入団できなかったという挫折から這い上がった姿を見せてくれなかったことです。意中の巨人に入団出来ず、翌年の日本シリーズでライオンズの一員として巨人を倒す直前、感極まって一塁ベース上で泣いた姿はよく知られています。その姿は美しかった。

一方、順風満帆に巨人に入団した桑田氏は、偏向報道に泣かされ、肘の重傷に苦しめられました。復活のマウンドで膝まずいてプレートに手をおいた所作には感動させられました。その姿は我々に真の挫折から立ち直った人の美しさを教えてくれました。

数年前の講演でも、挫折から立ち直る美しさ、夢を求め続ける姿勢を子供たちや親たちに語り伝えて下さいました。娘たちにとっても私にとっても得難い経験だったと思います。

挫折は人を強くします。思うに清原さんにとって、ドラフトで巨人に選ばれなかったことは挫折ではなかったのではないか。今回の逮捕こそが人生で初めて味わう挫折だったのではないかと思います。日本シリーズで巨人に勝ち、西武黄金時代を作り上げました。満足な成績を挙げられなかったとしても、意中の巨人で四番を勤めました。無冠の帝王と呼ばれながらも、2000本安打も500本塁打も成し遂げました。挫折どころか、まぶしいばかりの野球人生でしょう。

面識もなく、かつては20歳以上も年下だった私ごときが清原さんの心中を推し量ることは、おそらくはおこがましいことなのでしょう。しかし、今回の件が清原さんにとって初めて味わう挫折に違いない。そう思います。

そしてその姿は、かつて同じプロ野球人として覚醒剤に手を出し、服役した江夏豊氏を思い出させます。江夏氏も、孤独感に負けてつい出来心でヤクに手を出してしまったと聞きます。が、プロ野球界の仲間たち多数に支えられ、立派に更正されたとか。今春の阪神のキャンプでも臨時コーチを任じられたとの嬉しいニュースはまだ耳に心地よく残っています。

清原さんにも、江夏氏と同じように立ち直って頂きたい。そう切に願っています。そして、清原さんのプレーする姿に見とれた少年の私が畏敬の念を思い出させるように、清原さんではなく清原氏と呼べる存在になって戻ってきて欲しい。心からそう思います。

いつの日か、臨時コーチ扱いではなく、タイガースの一軍コーチや監督として、江夏氏と清原氏が甲子園に並び立つ日がくる。そんな楽しい想像したっていいじゃないですか。それが現実の光景となれば、これほど嬉しいことはありません。植草アナの名台詞を引くまでもなく、二人とも甲子園の申し子といっても良い存在なのですから。

そんなことを想いつつ、書いてみました。
甦れ、我が甲子園のヒーローよ!


「我が国を観光立国に」の成果を支持します。


1/30付の菅内閣官房長官のブログは、日本の観光立国化がテーマです。内容は、安部内閣における観光立国政策の成果を自賛するものです。

私もこの成果には全面的に賛同します。むしろ、安部内閣の一連の実績の中でも特筆すべき成果ではないかと思っています。

アベノミクスは頑張ってはいるものの、その評価はまだ定まっていません。その評価はおそらくは歴史に委ねられるでしょう。少なくとも今の我々には景気浮揚策の成果は実感として感じられません。改憲についても、道半ばです。私自身、ここここに書いたとおり、改憲派です。それでも今の安部内閣の動きには拙速との思いが拭えません。沖縄の基地問題にしても、同じです。国際政治のバランスからするとやむを得ない判断かもしれませんが、沖縄県民の一定割合の民意が蔑ろにされていることは否めません。

それに比べ、安部内閣が成し遂げた観光立国の成果については文句の付け入る隙がありません。積極的に評価すべきでしょう。

2010/7/26に民主党の前原氏の講演を拝聴したことがあります。当時の前原氏は民主党政権にあって国土交通大臣の重責を担っていました。講演の中で羽田や成田のハブ空港化について熱く語っていらしたことは覚えています。が、観光立国に向けては具体的な案はありませんでした。多少は触れていたものの、具体的な案までは踏み込むことなく、まだ観光立国化への案は練れていない印象を受けました。

それに比べ安部政権は、我が国の観光立国化を着実にやり遂げつつあります。掛け声だけではなく、良し悪しはあれ爆買いという成果は挙げています。観光立国化こそ、今後の日本が目指すべき政策。私はそう思います。日本は今、どのような国として世界から見られているのか。今後の日本のあり方とはどういうものなのか。日本が積極的に世界に主張し、発信すべきという意見も良く耳にします。しかし日本は東洋の果てに位置しています。終着点として諸国の文化を受け入れ、日本独自の文化として咀嚼することにこそ、日本の本分がある気がしてなりません。

日本が技術立国であった過去も今は危うい状態です。技術は移転します。残るとすればITではカバーできない職人技の部分でしょう。しかし、日本人が誇るべきものは、職人技でもない気がします。技術よりも職人技よりも、その背後にある職人気質ともいえるメンタリティー。この心性をこそ誇るべきではなかったか。日本が世界に範を示せるとすれば、日本人の心性こそ相応しい。そう思います。「MOTTAINAI」や「武士道」、先の東日本大震災の際に見せた統制。敗戦直後は混乱の極みにあり、マナーがてんで成っていなかった日本人も、今や世界にその民度を誇ることができるまでになりました。

一方、今の日本の少子化はもう挽回不可能なレベルに達しています。残念ながら、今後は移民受け入れもやむを得ないでしょう。というか、移民受け入れすることなしには、日本の将来は立ち行かない。そんな状態にまで追い込まれています。移民受け入れにあたっては、日本国民の外国人に対する態度も変えねばなりません。かつての日本は中国や朝鮮半島からの移民を受け入れ、日本文化に取り込んでいきました。その時の経験を活かし、拙速に移民を受け入れずに、緩やかな移民の受け入れを日本全土均一に行うことが重要だと思います。

昨年来日した観光客は、空前の数を達成しました。皆さん、意識してはいなかったかもしれませんが、日本人のメンタリティーの由来を知りたくて来日したのではないでしょうか。日本人の心性の秘密は何か。このミステリアスな国の真髄はどこにあるのか。観光客が求めた場所は、以下のリストに挙がっています。

そのリストは、世界的に知られた観光情報サイトであるTripAdvisorが発表しました。「外国人に人気の日本の観光スポット ランキング 2015」。ここに上げられた30の観光地のうち、現代日本を反映する場所は僅かです。17位の「横浜みなとみらい21」と26位の「渋谷センター街」と30位の「六本木ヒルズ展望台」くらいでしょうか。技術面に範囲を広げても27位の「トヨタ産業技術記念館」が入るくらい。あとは、日本の伝統に根差した場所がほとんどです。

このリストにはもう一つ特徴があります。それは東京や奈良、京都以外の場所も多数ランクインしていることです。東京は世界有数の大都会です。しかし観光客の多くは東京をそれほど重視していません。東京ではなく地方にこそ日本の心性が残っているとでも云うかのように。このリストを見ているだけで、そういった意思が感じ取れます。戦後、多くの観光客が日本に惹かれて訪れました。その中には永住された方もいます。そういった方々は自らが身を置く世界のあり方に疑問を感じ、日本に単なるオリエンタリズムではない何かを求めに来たと思いたい。なので、本リストから知る限りでは、それら観光客の方々が東京だけを見ていないことに、私はむしろ安心しました。むしろ、世界は東京に日本を求めていないのでは、という気にすらなります。もちろん、ビジネスや政治の場としての東京は、引き続き存在感を残すでしょう。でも観光客が日本の躍進の秘密や謎めいた文化の根源を東京に求めていないとすれば? 東京は現代日本の繁栄の証。戦後復興し発展した日本を展示する場に過ぎないのかもしれません。ショーウインドウは着飾っていても、バックヤードが荒廃していればそれは虚飾です。そのことは我々日本人が一度認識を改めるべきだと思います。

まずは日本の全土を魅力的にする。そのためにも安部内閣による観光立国化への取組は、後世に残る政策となるかもしれません。日本の観光立国化が成れば、観光振興を通して地方分散に進むまであと一息です。地方分散と移民受け入れが同時に進み、なおかつ日本文化が見直され、活性化される。そうなればいうことはありません。

とかくタカ派扱いされがちな安部政権ですが、こういった取り組みは応援したいと思います。「美しい国へ」がこういったやり方で達成されるとすれば、望ましいことこの上ないでしょう。


音楽は多様であってこそ-1970年代の音楽について


今日はグレン・フライが亡くなりました。先日のデヴィッド・ボウイに続き、私の好きなアーティスト達が去っていく事にショックを隠せません。

グレン・フライといえばイーグルスのフロントです。1970年代に数々のヒット曲を送り出したイーグルス。中でも「One Of These Nights」と「Hotel California」は大好きな二曲です。Google Play Musicで私の好きな洋楽曲を百曲以上リスト化していますが、上の二曲ともにトップ10に入っています。

Google Play Musicでリスト化した百曲以上のうち、1970年代の曲は他にも沢山あります。それらの曲は1973年生まれの私にとっては、全て物心つく前に流行ったものです。でも、親がカーペンターズやサイモン&ガーファンクルのレコードを良く掛けていたので、私の耳にはよく馴染んでいるのです。

中三で洋楽に興味を持ってから、1970年代の曲やアルバムはよく聞きます。レッド・ツェッペリンやディープ・パープル、イエスやジェネシス、ビリー・ジョエルにスティーブ・ミラー・バンド、あとデヴィッド・ボウイやクィーン、その他色々。彼らの多くは1980年代にも名盤と呼ばれるアルバムを出しています。

でも彼らの遺したアルバムで、私が好きなものは70年代に発表されたものばかりです。「最終楽章(コーダ)」よりは「レッド・ツェッペリンⅣ」。「パーフェクト・ストレンジャーズ」よりは「マシン・ヘッド」。「ロンリー・ハート」よりは「こわれもの」。「インヴィジブル・タッチ」よりは「眩惑のブロードウェイ」。「イノセント・マン」よりは「ニューヨーク物語」。「アブラカダブラ」よりは「フライ・ライク・アン・イーグル」。「レッツ・ダンス」よりは「ジギー・スターダスト」。「カインド・オブ・マジック」よりは「オペラ座の夜」。

所詮は私個人の趣味嗜好に過ぎないのかもしれません。幼時の音楽体験を引きずっているだけなのかも。

でも、ひょっとしたらそれ以外に理由があるのかも。今回、私を立て続けに襲った悲しいお知らせに、改めて1970年代の洋楽とはなんぞ?を考えてみました。

1960年代は、モータウンに代表されるアフリカルーツのサウンドが一世を風靡 しました。ブルースがロックミュージシャンに取り上げられたのもこのころ。一方、1980年代はイギリス色が強く、洗練されたきらびやかなサウンドがシーンを席巻しました。

では、1970年代とは何だったのでしょう。私は音楽の多様性が一斉に花開いた時代だったと思っています。ハードロックやメタル。フォークロックやブルースロックにシンガーソングライターたち。サザンロックそしてプログレッシブロック。パンクやディスコやグラムロックも1970年代。百花繚乱です。さらには英米だけではありません。ABBAに知られたスウェディッシュポップや、ボブ・マーリーによるジャマイカン・レゲエも広まりました。また、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジル、ガル・コスタなどによるブラジルMPBのムーブメントも忘れてはなりません。1970年代の音楽を一言で云い現わすとすれば、多様性につきると思います。そして、それこそが私が1970年代の音楽に惹かれる理由なのでしょう。多様性。素晴らしい言葉です。

冒頭に挙げた「ホテル・カリフォルニア」には、あまりにも有名な歌詞の一節があります。

“We haven’t had that spirit here since 1969”

「ホテル・カリフォルニア」は音楽ビジネスの繁栄の裏にある虚しさを描いた曲として、あまりにも有名です。ここに挙げた歌詞の1969とは、ウッドストック・フェスティバルが催された年。要は1970年代以降の音楽にはスピリッツ、つまり魂がないと自虐的に歌ったのが「ホテル・カリフォルニア」です。それを歌ったのが1970年代を代表するアーティストであるイーグルスであるところがまたしびれます。

でも、魂を失ったからこそ、それを求めてミュージシャン達は様々な方向性を模索したのですよね。

1970年代の音楽ビジネスの裏側はすでにどろどろしていたかもしれませんが、真の音楽を求めるスピリッツだけは喪っていなかった年代。私は1970年代をそう位置づけています。私自身が意識することなく、それでいて幼い感性で空気を感じていた時代。それこそが1970年代なのです。

今、日本の音楽シーンもにぎやかなようです。しかし残念なことに、音楽性とはかけ離れた俗な話題でにぎわっているに過ぎません。

ゲスの極み乙女は、サカナクションと並んで私が最近興味を持って聞いている日本のバンドです。が、今回の騒動ではバンド名を絡めて揶揄される存在に成り下がっています。それはとても残念なことです。せっかく光る音楽性を持っているのに。

smapは音痴ネタが独り歩きするなど、音楽よりも他で才能を発揮したグループだったかもしれません。でも、音楽面で全く聴くに値しないグループだったとも思いません。「ライオンハート」はよく聴きましたし。昨秋もパラ駅伝で彼らのステージを偶然観る機会がありましたが、まぎれもなく日本の一時代を築いたグループであると感じました。今回の騒動の結果、彼らが仮に独立出来ていたとすれば、新たな事務所のもとで新境地に至ることが出来たかもしれません。

今回の騒動がゲスの極み乙女やsmapのあり方を損なうことにならなければいいのですが。そう願ってやみません。デヴィッド・ボウイやグレン・フライと系統は違うかもしれませんが、彼らもまた、音楽の多様性を担う存在なのですから。

1970年代に多大な遺産を遺したアーティスト達も、やがては独りずつ舞台を去っていくのでしょう。でも音楽は消えることはないし、彼らの音楽を伝承し、発展させてゆくであろうアーティストには頑張ってほしいです。ゴシップ記事のネタに堕ちるよりよっぽどいいです。

今夜はイーグルスを聴きながら、仕事をすることにします。


デヴィッド・ボウイは成人式に出たのだろうか


昨日、デヴィッド・ボウイ死去のニュースが世界を駆け巡りました。

そのニュースに触れたとき、私と妻はコンサルティングを受けている最中でした。変化し続けるために。歯科医院の経営を良くしていくために。奇しくもそれは成人式の日でした。

ショックでした。でも一方では幸せでした。コンサルティングを受けながら、今までココデンタルクリニックの経営に欠けていたピースが目の前で次々と嵌っていくのですから。デヴィッド・ボウイ逝去のニュースを知った時、私はそういう相反する感情に捉われていました。

ショックでしたとはいいましたが、私はデヴィッド・ボウイの全盛期をリアルに体験していません。私が洋楽に興味を持ち始めた頃、デヴィッド・ボウイはティン・マシーンというユニットを組んでいました。今から思えば、彼の長い音楽キャリアの中でも試行錯誤の時期だったのでしょう。1989年、厨三病たけなわの私にとってデヴィッド・ボウイはすでに過去の人でした。

デヴィッド・ボウイの名前を初めて知ったのも音楽ではなく映画だったし。ラビリンスというファンタジー映画の魔王役だったように記憶しています。

IMG_4844以来、洋楽にはまった私は、80年代、70年代、60年代と色んな音楽にどっぷり浸かった高校時代を送ります。その中でデヴィッド・ボウイが輝いていたことも知りました。80年代の「Let’s Dance」や「China Girl」だけでなく、70年代のベルリン三部作「Low」「”Heroes”」「Lodger」も恰好よく、グラムロックのアイコンであった頃や「Space Oddity」や「・・・Ziggy Stardust and ・・・」ももちろん。凄いと思いました。高校生が背伸びして大人の世界を覗き見るには、あまりにも眩しい存在でした。ここにアップした本はその頃に買いました。初版1986年だから古本屋で買ったのかな?

目まぐるしく変貌を繰り返し、音楽的冒険に果敢に乗り出すデヴィッド・ボウイ。私が初めてリアルタイムで触れたのは「Earthling」。当時drum’n baseに少しはまり、興味を持っていた私は、デヴィッド・ボウイのこのアルバムをすぐ買い、その格好よさにしびれました。

先日もニューアルバムの「★」が出るニュースを知り、買おうかなあ、と思った矢先に今回の訃報です。残念でなりません。

訃報の知らせを聞いたのが、成人式。そしてその時の私は、変わりゆく過程の途中でした。そしてデヴィッド・ボウイといえば、変化の人。changesbowieです。Changesです。

ふと、デヴィッド・ボウイは成人式に出たのだろうか。そんな疑問が頭によぎりました。イギリスに成人式に相当する儀式があるのかどうかはしりません。多分あったとしても、彼自身はそこに何の意味も見いだしていなかったと思います。なぜなら彼の人生そのものが、変貌そして変革。変身そして変身だったからです。

周りにお膳立てしてもらわなくても、自分で変化を遂げられたことでしょう。大人にお膳立てされた場所で暴れて自己表現しなくても、自分で暴れ場所を作り出したことでしょう。それがデヴィッド・ボウイだったのだと思います。

ここ数年、成人式といえば一部の輩による発散の場となっているようです。毎年のように繰り返される「成人式で新成人暴れる」のニュースにはうんざり以前に全く関心がありませんでした。そもそも私自身、成人式には特に思い入れもありません。成人式には行きましたが、市民会館の中には入りませんでしたし。中でやってる式典など眼中になく、市民会館の外で即席の同窓会をやっていた記憶しかありません。同窓会を楽しみ、夜も多数で酒を酌み交わした記憶だけが残っています。

今思い起こしても、成人式に出たからといって何かが変わった実感はありません。成人式よりも、人生に変化をもたらす出来事には沢山出会ってきました。その出来事にうまく乗れたこともあれば、乗り損ねた後悔もあります。でも、私の今までの人生で、変化の切っ掛けが成人式だったとは全く思っていません。

もう、成人式はいいのではないでしょうか。色んな方がブログで書かれているようですが、私ももう成人式は無くしても良いと思います。もっと個人個人の世界で、例えば仲良しでやるもよし、家族で祝うもよし。そんな感じでいいのではないでしょうか。

成人式よりも、その後の人生でいかにして変化の兆しを掴み取り、人生を生きていくか。これこそが大事な気がします。周りに儀式をお膳立てされなくても、人は変わります。変わっていきます。また、変わっていかざるをえません。それが人生だと思います。

そのことを世界中の人々に対し、自分の人生として示し続けたのが、デヴィッド・ボウイだったと思います。残念ながら彼はこの世からいなくなりました。おそらくはジギー・スターダストかトム少佐かシン・ホワイト・デュークかの別人格になって。が、彼の人生の証、人は変われるという証は、26枚のアルバムになって残されています。ゆっくりその遺産を聴きながら、彼を偲びたいと思います。


つぶやきはビジネスになり得ないのか


文字制限を140字から10000文字へ。Twitter社がこのような仕様変更を計画していることが各種ニュースサイトで報じられています。

それについては、すでに反対意見もいくつか挙がっているようです。私の意見も反対です。

もし文字制限撤廃が事実とすれば、株価低迷を打開するためのてこ入れ策であることは明らかです。

これら報道の真偽はともかくとして、よい機会なので改めてTwitterの140字制限について考えてみました。

140字という制限。制限というと何やら短所のように聞こえますが、これは紛れもなくTwitterを特色づける長所です。すでにブログも乱立していた2006年の時点で140字という制限を敢えて設けたTwitterは画期的でした。

その手軽さは人々を惹き付けました。人々はこぞってつぶやき、好きなだけさえずりました。私もまた、その一人。

リツイートやハッシュタグなどの機能は、拡散させるという新たな情報流通の手法を産み出しました。また、しがらみの緩やかなフォロー・フォロワーの仕掛けは気軽なつぶやきを促す助けとなりました。

しかし、ここに来て、Twitterの限界が見えてきたことも事実です。それは、Twitterの最大の特徴である140字の制限によるものです。一言でまとめると、140字ではビジネスを消費者に訴えられない。これに尽きます。そのため、企業が自社サービスをツイートする場合、告知サイトのURLを記載し誘導することが主になりました。企業アカウント上で敢えて軽いノリでつぶやくことで、企業の柔軟さをアピールするための企業ブランディングツールとする試みもありましたが、これはつぶやき担当者にセンスが求められることから主流とはなりませんでした。

また、意見を述べる場としても140字の制限では短く、まとまった意見を述べるには外部ブログへと誘導する他に手はありません。中には複数のツイートを跨いで長文の意見を書き込む方もいらっしゃいますが、各ツイートが下から上に配置されているにも関わらず、ツイート内の文章は上から下に読むというヘンテコなことになっています。

こういったTwitterを特徴付ける仕様が、逆にTwitterをビジネスユースとして若干使いづらいツールにさせているようです。

ビジネスとして使いづらいこと。それは、Twitter社の今後の成長を阻みます。阻むどころか売上減へとつながりかねません。売上減は同社への投資の打ち止めを招き、企業価値の低下に直結します。その危機感が今回の判断に繋がったのではないでしょうか。

危機感の打開策として140字から10000文字に増やすという判断は解らなくもありません。しかし、それはもはやTwitterではなく、別サービスとすべきでしょう。そして、それはMediumというサービスとしてすでにリリースされています。しかもTwitter創業者Evan Williams氏の手によって。今さらTwitterの文字制限を10000文字に増やしたところで、Twitter創業者がTwitterの短所を補うために作ったMediumを上回るとは思えません。下手をすれば二番煎じとの汚名を被るだけで終わり、何も得るものがない気がします。

では、Twitterは今後どこに向かうべきなのでしょうか。

私は、今の140文字制限というTwitterの特徴は変えるべきでないと思います。その上で、短文発信ツールとして唯一無二の存在であり続けるのが得策ではないかと思います。世界中の人々によって発信された短文ツイートは、今も今後も世論やトレンド分析にとって役立つことでしょう。それは、検索ワード分析やブログ文脈、SNSの投稿分析とは違った切り口を提示してくれるはずです。

その上で、ツイートをより気軽に行えるような改修を掛けるのがよいでしょう。それには最近のアップル社のSiriやマイクロソフト社のCortanaといった音声認識アシスタントの出現がヒントになるのではないでしょうか。SiriやCortanaの出現は、Twitter社にとって真の追い風となるはずです。今や、人前で端末に向かって語りかけることは普通の光景となりつつあります。つまり、端末に向かって語った言葉をそのままツイートとしてアップする仕組み。起承転結が求められる長文ブログでは、音声入力は不向きです。短文のTwitterこそ、音声認識の仕組みを正しく活用できるサービスだと思います。もちろん、この仕組みをうまく運用するためには、Twitterのインターフェース改良が求められます。例えば語った内容が140字を越えた場合、同一の連続ツイートとして分割しつつアップするような仕様が不可欠です。また、Twitterアプリも、最新ツイートが一番上に来るのではなく、一番下に来るような仕様変更を検討してもよいでしょう。

140文字の制限を撤廃してTwitterのアイデンティティーを捨てる前に、140字にしか表現しえないTwitterの唯一無二の切り札を活かすべき。今回の報道を目にして、そう思いました。