再会


「カラマーゾフの妹」をレビューでアップしたことで、あらためて江戸川乱歩賞に興味を持った。レビューの中で、歴代の受賞作品のおおかたは読んでいると書いた。ところがいくつか読めていない作品があった。本書もその一つ。本書は図書館で借りた。本書の次に読んだ「よろずのことに気をつけよ」とともに。

本書はとても手堅く書かれている。そこに好ましい印象を持った。著者はまだ職業作家ではないそうだ。公務員の仕事の合間に八年連続で応募し、今回の受賞に至ったとか。心血を注いで書いた跡が内容から伝わってくる。

正直なところ、本書のプロットはありきたりだ。手垢が付きまくっているといってもよい。幼馴染たちが大人になって故郷で再会し、事件に遭遇する。その事件の鍵は彼らが子供時代にあった何らかの事件にある。そんな展開の小説や漫画、映画は無数にある。著者とて、そのことは分かったうえで本書を書き、応募したはずだ。それでもなお本書で受賞の栄誉に浴したのは、使い古された構成であっても、丁寧にきっちり書き込めば評価されるという証拠だ。

本書は流れも丁寧に書かれている。特に前半部分。冒頭の出来事から徐々に過去があらわになっていく展開。そのあたりはとても自然だ。幼馴染のそれぞれの視点から語られる筆さばきにも強引さは感じない。とても自然に思えた。そうやって複数の視点をからめることで物語の肝心の謎を終盤まで引っ張りつづけながら、次々と新たな謎を登場させる。本書の展開の巧みさは読んでいてとても安心できた。

ただ、前半は流れるように読めたのに、後半の解決に向けた展開で余計な人物が出てきたのが気になった。選評の一つにもご都合主義の典型と批判されていた。私も同じ意見だ。これはちょっと余計な展開だったと思う。あと、もう一つ選評で指摘されていたのが、事件の発端となった少年に対するフォローがないこと。これも私も読みながら思ったことだ。手堅く書かれた本書でありながら余計なことを書いてしまう。そして書くべきところを落としてしまう。小説を書くとは難しいことなのだな、とあらためて思わされた。

気楽な読者の立場で本稿のようなレビューブログを書いている私も、いざ物語を構築しようとすれば本書が指摘されたような傷をいっぱいこしらえるに違いない。著者はそれをものともせず、8年欠かさず挑戦して受賞を勝ち取った。これはとても素晴らしいことだと思う。

読んだ後、私にも小説を書いてみようかな、と思わせる作品にたまに巡り合う。本書もまたその一冊だ。これは本書を否定するのではなく、著者の努力が感じられるからの誉め言葉だ。

‘2017/06/02-2017/06/03


パガージマヌパナス


本書を読んだのは、妻からプレゼントされた沖縄旅行を目前に控えた頃だ。私にとって22年ぶりの沖縄。しかも一人旅。本来ならば下調べをみっちり行い、沖縄を知った上でめぐりたかった。だが、仕事が忙しく、沖縄の本を読む暇はない。電車の中ではあまりガイド本を開くわけにもいかない。そもそも細かい情報がランダムに配されるガイドマップ情報を電車内で読むのは好きじゃない。ならば、小説で雰囲気だけでも、と選んだのが本書だ。文庫本だし、かさばらない。

著者の作品を読むのは本書が『テンペスト』『黙示録』に続いて三冊目だ。『テンペスト』『黙示録』で描かれていたのは王朝時代の琉球だ。その二冊では組踊や琉球音楽が豊かな色彩と音程を伴って描かれていた。そこには魔術的リアリズムを思わせるような超現実的な描写がちりばめられおり、琉球がとても魅力的に描かれていた。私は22年ぶりの沖縄旅行にあたり、著者の作品に描き出されたような異国を味わいたかった。そして異国でありながら日本でもある琉球のことを知りたかった。もちろん、沖縄戦のことは忘れてはならない。だが、沖縄はそれだけではくくれない広がりを持つ島であるはず。

本書は現代の沖縄を描いている。年代は分からないが、描写から推し量るに、本書が出版された1994年の少し前の頃だろう。本土に復帰して20年以上たったとはいえ、基地問題への怒りもまだくすぶり続ける時期。ところが本書に怒りはない。逆にユルい。当時の沖縄ですら、本書で描かれるような暮らしが成り立つのだろうかと思えるほどユルい日常。本書の主役は19歳の仲宗根綾乃だ。あくせく勉強にも追われず、バイトにも励まず、もちろん定職にも就かず、日がな一日、親友のお婆オージャーガンマー86歳とガジュマルの樹の下でだべって過ごしている。将来どころか今も気にしない。そして、過去も顧みない。そんなユルい日々が描かれる。

沖縄のイメージを男女のどちらかに例えるとするなら、私は女性を選ぶ。理由は、沖縄に女性のような柔さとしたたかさを感じるからだ。私が沖縄に対して持つイメージは、本書の中の二人に出会ったことでさらに強まった。

本土であくせくしている私のような者から見れば、本書の二人が送る日々は無為の典型だろう。そもそもこんな生活がとうてい許されない。学生であろうと学校や塾、習い事に翻弄される。生きるために、勝ち抜くために、人よりも優れなければならない、人よりも頭一つ抜け出なければならない。生き馬の目を抜く日々。そこに余裕など生まれるはずがない。

ところが、本書の二人にはその気負いがまったくない。「なんくるないさー」とは、一般的に琉球語で「なんとかなるさ」の意味だと思われている。ところが、これはもう少し深い意味がある。こちらの記事によれば、「まくとぅそーけーなんくるないさー」が正しいのだとか。その意味は「正しいことをしていれば、いつか良い日が来る」ということだ。

ところがオージャーガンマーと綾乃はそうした気負いとは無縁だ。正しいことをしようと襟を正し、日々を品行方正に生きるのではなく、日々をまず飾らず生きる。適当な時間にガジュマルの樹の下に訪れる。そこに決まった時間はない。好きな時に会って、アイスを食べ合い、たわいもない話をして時間を過ごす。やりたい事をやり、人を刺激せずに生きる。

そんな日々を送る綾乃の夢にお告げが下る。それはユタ(巫女)になってほしいとのお告げ。ユタとは代々、琉球に受け継がれた年頃の女性にしかなれない巫女のこと。ところが綾乃はそんなものになるのはごめんだ。オージャーガンマーと楽しく過ごせさえすれば十分。ところが綾乃には祖母の能力が受け継がれ、ユタとしての素質は明らか。ユタとして力を持つカニメガは、そんな綾乃にライバル心を抱く。そして力を誇示し、綾乃を妨害する。だが、綾乃はそんなカニメガをおちょくるように逆にいたずらをしかける。

ここでオージャーガンマーの存在感が増す。オージャーガンマーはただの女性ではない。だてに綾乃と日々を過ごしていたわけではないのだ。オージャーガンマーもかつてはユタとになれとお告げを受けたが、処女じゃなければユタになれないとの掟を逆手に取り、相手を構わず男漁りして自らユタとしての資格を放棄した。でも、オージャーガンマーは自分の過去の行いとは逆に、綾乃にユタになる事を勧める。ここにきてオージャーガンマーの年の功が生かされるのだ。遊んでばかりいて、何も考えていないように見えながら、オージャーガンマーは深い知恵を備えている。それこそが女性が持つ柔軟さとしたたかさだ。それは琉球にも共通する特徴だ。

ユタの営みに徐々に綾乃を触れさせ、ユタとしての伝統に綾乃を誘う。ぶつかりあっていたカニメガも、何気なく綾乃を見守る。こういった緩やかな、そして強いつながりこそが、したたかで強い琉球を、列強の中で生き延びさせて来たのだと思う。本書にはウチナーグチがしきりに出て来る。そこには強いだけでなく、ユーモアとゆとりで歴史を作ってきた琉球の歴史が表れている。本土に負けない琉球の芯の強さが感じられる点だ。

そして綾乃がユタの営みに慣れつつあるころ、役目を果たしたかのように親友オージャーガンマーは死ぬ。人は別れ、そして別れから人は成長する。その繰り返しは、国際政治や国力に関係なく人が世にある限り欠かせない。琉球の真の強さとしたたかさはこの基本的な営みの中にある。そんな日々から「なんくるないさ〜」の真理は伝えられていくのではないだろうか。

私は本書を読んだことで、ユタ、そして御嶽に対して決定的な関心を抱いた。そして本書を読んですぐに訪れた沖縄で斎場御嶽を訪れた。斎場御嶽には琉球文化の中で女性が果たしてきた役割が息づいていた。それは本書の中でオージャーガンマーからカニメガ、そして綾乃へ伝えられた役割でもある。それがよくわかったことが本書の良かったところだ。

‘2017/06/01-2017/06/02


水の家族


著者の作品は一時期よく読んでいた。孤高ともいうべき、極端にせりふの少ない作風。生きるとは孤独を身にまとうことを実践するように、群れることを極端に遠ざける姿勢。著者の作品は私の生き方にも少なからず影響を与えていると思う。

本書は再生復活版として著者があらためて手を入れて出版した作品だそうだ。再生復活版が原書からどのぐらい変わったのか。原書を読んでいない私には、それはわからない。多分、本質的には変わっていないはずだと思う。

セリフを極端に控え、言葉によるコミュニケーションを抑えめにする作風。そのため、著者の語りには一つの傾向がある。それは人でないモノを語り手とすることだ。私が著者を読むきっかけとなった『千日の瑠璃』は、その手法を極端に推し進めている。千日を一日ごとに違う章で書き連ねた 『千日の瑠璃』 は、意表をつく語り手からの独特の視点が印象的だった。なにせ毎回語り手が違うのだから。ある日は犬だったり、別の日は空だったり。『千日の瑠璃』で確立した手法は、源流をたどると一つは本書に行き着くはずだ。なぜなら本書の語り手は死者だから。

本書はタイトル通り、ある家族が描かれる。 草葉町というどこにでもありそうな町。そんな町に住むありふれた家族が本書の主人公だ。草葉町の近くには忘れじ川が流れ、天の灘に注ぐ。餓鬼岳が屹立して、麓に広大な草原を抱える。語り手には八重子という妹がいる。離れの仏間で寝たきりの母がいる。天の灘に毎日繰り出しては海の幸を持ち帰る父がいる。一人餓鬼岳の麓で馬たちと暮らす祖父がいる。夜ごと密漁に精を出すはみ出し者の弟がいる。実直に金融機関に勤める兄と、いささか嫁の立場になじめないように見える兄嫁がいる。そして語り手は生を持て余した死者だ。誰にも知られぬまま餓死しし、あばら屋で死骸と化している。

著者は神の視点を持つ語り手を求めるため、四兄弟の二番目である語り手に死んでもらう。そして死者の立場から語り手へと仕立てる。魂だけの存在であるため動くのは自在だ。 水に交じってどこにでも行き、さえぎる物のない視点で本書を語る。自由な境遇ゆえ、家族の営みや、家族を取り巻く土地の出来事をつぶさに見聞きする。この魂は死してなお自我を持っている。自分が死ぬに至るまでの挫折と蹉跌の日々を反芻して後悔する自我を。

語り手が生家から逐電するに至った理由。それは妹八重子との許されざる関係だ。兄妹の間の超えてはならない一線。それを目撃した母は仏間にこもり切りになってしまう。よりによって知恵遅れの妹に手を出してしまった罪の意識に苛まれた語り手は、良心の呵責に耐え切れず、生家と草葉町を離れて都会の騒がしさに身を投じる。都会のドライで非情な日々は語り手を消耗させ、ほうほうの体で草葉町へと舞い戻らせる。そして、どの面下げて実家に顔を出せようか、というなんの根拠もない面目にこだわる。そんな語り手は、竹林に荒れるがままに忘れ去られていたあばら家に住まううち、ついに餓死する。

著者はそんな語り手を突き放す。突き放しながらも語り手である彼の独白はさえぎらない。さえぎらないので、語り手がぼとぼとと漏らす愚痴とも後悔ともつかない語りを文章として採録する。そこには後ろ向きの気持ちしかない。一方、中途半端な自分の一生を償うかのような前向きな精神も語り手は発揮する。かつての自分を償うかのように、語り手は八重子の生き方に暖かい目を注ぐ。語り手ではないどこかの誰かと子を作った八重子は、子の世話を餓鬼岳の麓に住まう祖父とともに行う。山に住まう祖父は、たくさんの馬と八重子と孫とともに住む。そこにはただ自由がある。世間の干渉も、見えや体裁もない自由が。そんな彼らの日々を語り手は逐一語ることはない。なぜなら語り手は水を伝ってしか動けないからだ。

語り手が常に干渉し、観察できる水の家族たちは水に囚われている。父は日々海に出て作業をする。その一本筋の通った生き方は語り手にはまぶしく映る。何物にも妨げられないだけの堂々とした構えで漁にいそしむ父は、一家の中の重鎮にふさわしい。だが、寡黙すぎるゆえに家の問題に干渉しない。そしてひたすら日々の糧を持ち帰る営みに淫している。そして弟。密漁に情熱を傾ける弟も水に囚われた日々を送っている。地元の金融機関に勤める兄は傍目には堅実な日々を送っているようにみえる。だが、兄嫁の奔放さが兄の日々を脅かす。ある日兄嫁の奔放な行いに衝撃を受けた兄は雨の降りしきる中を泥酔する。兄もまた、水に屈するのだ。いうまでもなく、水とは本書において人間のしがらみの象徴だ。

水の家族の男性陣は水に囚われるが、それに反して水の家族の女性陣は水に囚われない。奔放な兄嫁は水そのものであるかのように、貞操すらも水のように扱い自在に生きる。母は家族の問題に背を向け、自らをよどんだ水として家に渦巻く。水に同化するのだ。妹の八重子もみずみずしい生の喜びを享受し、水の流れのように闊達と生き抜く。

そしてもっとも水に対して動じない者は祖父だ。馬を養いながら、手作りの凧を飛ばして日々を生きる祖父は、もはや何物にも影響を受けない。まさに水の柔軟さと剛直さを備えている。祖父がもっともその真価を発揮するのは大風のシーンだ。凧は竜と化して祖父を空へと運び去ろうとする。それに必死に抗い手なずけようとする祖父。雨風と祖父の戦いは祖父が勝利を収め、龍となった凧は糸が切ればらばらになる。水を制御した祖父が、一家の礎であることを表す場面だ。

それが合図となり、密漁がばれそうになり水の中であわや死にかけた弟は、かろうじて生還し真っ当な生活へのきっかけをつかむ。仏間にこもる母は表にでて漁から帰ってきた父と久しぶりに言葉を交わす。水のように奔放な妻に絶望した兄は、何事もなかったかのように妻を許し、元の暮らしへと収まる。八重子とその子は相も変わらず生を謳歌しする。そして、もっとも水に囚われ続けてきた語り手は、ついに死を脱し、時空を超えた境地へと昇ってゆく。

水に囚われながら、水を逆に生かしてきた人間の営み。それを一家族の在り方をとおして描いた本作は、まさに丸山節ともいうべき魅力に満ちた一編だ。

‘2017/05/25-2017/05/31


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


横浜駅SF


鉄道ファンを称して「鉄ちゃん」という。その中にはさらに細分化されたカテゴリーがあり、乗り鉄、撮り鉄、線路鉄、音鉄などのさまざまなジャンルに分かれるらしい。私の場合、駅が好きなので駅鉄と名乗ることにしている。なぜなら私はさまざまな地域を旅し、その地の駅を訪れるのが好きだからだ。

駅はその土地の玄関口だ。訪問客にその地の文化や風土をアピールする役目を担っている。設置されてからの年月を駅はその土地の音を聞き、匂いを嗅ぎ、景色を見、温度や湿度を感じることに費やしてきた。駅が存在した年月は土地が培って来た歴史の一部でもある。土地の時空の一部となる事で駅は風土の雰囲気を身にまとう。そして土地になじんでゆく。

駅とは人々が通り過ぎ、待ち合わせるための場所だ。駅に求められる機能の本質はそこに尽きる。馬から列車へ人々の移動手段が変わっても駅の本質はブレない。行き交う人々を見守る本質をおろそかにしなかったことで、駅はその土地の栄枯盛衰を今に伝える語り手となった。

駅が本質を保ち続けたことは、車を相手とした道の駅と対照的な方向へ駅を歩ませることになった。物販や産地紹介に資源を割かず、あくまでも玄関口としての駅を全うする。その姿勢こそが私を駅に立ち寄らせる。駅とは本来、旅人の玄関口でよい。駅本屋をその土地のシンボルでかたどったデザイン駅も良いが、見た目は二の次三の次で十分。外見はシンプルでも駅の本質を揺るがせにせず、その地の歴史や文化を芯から体現する。そんな駅がいい。そうした駅に私は惹かれる。

ただし、駅にはいろいろある。ローカル駅から大ターミナルまで。大ターミナルは、その利用客の多さから何度も改修を重ねなければ立ちいかない。そしてその都度、過去の重みをどこかへ脱ぎ捨ててきた。それは大ターミナルの宿命であり、だからこそ私を惹きつけない。何度も改修を重ねてきた駅は、いくら見た目が立派でもどこか軽々しさを感じさせる。とくに、常に工事中でせわしさを感じる駅に対してはまったく興味がもてない。本書の主人公である横浜駅などは特にそう。私は何度となく横浜駅を利用するがいまだに好きになれない。

横浜駅はあまりにも広い。まるで利用客に全容を把握されることを厭うかのように。地下を縦横に侵食するPORTAやザ・ダイヤモンド。空を覆う高島屋やそごうやルミネやJOINUS。駅前を首都高が囲み、コンコースにはゆとりが感じられない。横浜駅のどこにも「横浜」を感じさせる場所はなく、旅人が憩いを感じる遊びの空間もない。ビジネスと日常が利用客の動きとなって奔流をなし、その流れを埋めるように工事中の覆いが点在する。いくら崎陽軒の売店があろうと、赤い靴はいてた女の子像があろうと、横浜駅で「横浜」を探すことは容易ではない。私が二十数年前、初めて関西から鈍行列車で降り立ち、友人と合流したのがまさに横浜駅。その日は港の見える丘公園や中華街やベイブリッジに連れて行ってもらったが、横浜駅に対してはなんの感慨も湧かなかった。そして、今、仕事や待ち合わせなどで日常的に使っていても感慨が湧き出たことはない。

私が横浜駅に魅力を感じないのは、戦後、急激に開発された駅だからなのか。駅前が高速道路とビルとデパートに囲まれている様子は急ごしらえの印象を一層強める。今もなお、せわしなく改造と改良と改修に明け暮れ、落ち着きをどこかに忘れてしまった駅。横浜駅の悪口を書くのはそれぐらいにするが、なぜか私は横浜駅に対して昔から居心地の悪さを感じ続けている。多分、私は横浜駅に不安を覚えているのだろう。私の把握を許さず、漠然と広がる横浜駅に。

そんな私の目にららぽーと横浜の紀伊国屋書店で平積みになっている本書が飛び込んできた。そしてつい、手にとって購入した。横浜駅が好きになれないからこそ本書のタイトルは目に刺さる。しかもタイトルにSFと付け加えられている。SFとはなんだろう。科学で味付けされたウソ。つまりそのウソで横浜駅を根底から覆してくれるのでは、と思わせる。さらには私が横浜駅に対して抱く負の感情を本書が取り除いてくれるのでは、との期待すら抱かせる。

本書で描かれる横浜駅は自立し、さらに自我を持つ。そのアイデアは面白い。本書が取り上げるのが新宿駅でも渋谷駅でもなく横浜駅なのだからなおさら興味深い。なぜ横浜駅が主人公に選ばれたのか。それを考えるだけで脳が刺激される。

知ってのとおり、横浜駅はいつ終わるともしれないリニューアル工事の真っ最中だ。新宿駅や渋谷駅でも同様の光景がみられる。ところが渋谷駅は谷あいにあるため膨張には限度がある。新宿駅も駅の周囲に散らばる都庁や中央公園や御苑や歌舞伎町が駅に侵食されることを許すまい。東京駅も大阪駅も同じ。ところが横浜駅には海がある。みなとみらい地区や駅の浜側に広がる広大な空間。その空間の広がりはそごうやタカシマヤや首都高に囲まれているにもかかわらず、横浜駅に膨張の余地を与えている。横浜駅の周囲に広がる空間は他の大ターミナルには見られない。強いて言うなら品川駅や神戸駅が近いだろうか。だが、この両駅の工事は一段落している。だからこそ本書の主役は横浜駅であるべきなのだ。

ただでさえつかみどころがない横浜駅。それなのに横浜駅の自我は満ち足りることなく増殖し膨張する。そんな横浜駅の不気味な本質を著者は小説の設定に仕立て上げた。不条理であり不気味な駅。それを誰もが知る横浜駅になぞらえたことが本書の肝だ。

自我を持つ構造体=駅。それは今の人工知能の考えそのままだ。自立を突き詰めたあまり人間の制御の及ばなくなった知性の脅威。それは人工知能に警鐘を鳴らす識者の論ではおなじみのテーマだ。本書に登場する横浜駅もそう。人の統制の網から自立し、自己防衛と自己複製と自己膨張に腐心する。人工知能に自己の膨張を制御する機構を組み込まなければ際限なくロジックに沿って膨張し、ついには宇宙を埋め尽くすだろう。人工知能の危険に警鐘を鳴らす文脈の中でよくいわれることだ。本書の横浜駅もまさにそう。横浜市や神奈川県や関東どころか、日本を蹂躙しようと領域を増やし続ける。

本書は駅の膨張性の他にもう一つ駅の属性を取り上げている。それは排他性だ。駅には外界と駅を遮断するシンボルとなるものがある。言うまでもなく自動改札だ。自動改札はよくよく考えるとユニークな存在だ。家やビルの扉はいったん閉ざされると外界と内を隔てる壁と一体化する。一度閉まった扉は侵入者を排除する攻撃的な印象が薄れるのだ。ところが自動改札は違う。改札の向こう側が見えていながら、不正な入場者を警告音とフラップドアによってこれ見よがしに締め出す。そこには排除の意図があからさまに表れている。自動改札は駅だけでなく一部のオフィスビルにも設けられている。だが、普通に生活を送っていれば自動改札に出くわすのは駅のほかはない。自動改札とは駅が内部を統制し、外界を排除する象徴なのだ。そして、自動改札はローカル駅にはない。大規模駅だけがこれ見よがしの排他性を持つ。それこそが、私が大規模駅を好きになれない理由の一つだと思う。

駅の膨張性と排他性に着目し、同時に描いた著者。その着眼の鋭さは素晴らしい。本書で惜しいのは、後半に物語の舞台が横浜駅を飛び出した後の展開だ。物語は日本を数カ所に割拠する駅構造体同士の争いにフォーカスをあわせる。その設定は今の分割されたJRを思わせる。ところが、横浜駅に対立する存在を外界の複数のJRにしてしまったことで、横浜駅に敵対する対象がぼやけてしまったように思うのだ。横浜駅に対立するのは外界だけでよかったはず。その対立物を複数のJRに設定したことで、駅の本質が何かという本書の焦点がずれてしまった。それは駅の特異さ、不条理さという本書の着眼点のユニークさすら危うくしたと思う。

駅が構造を増殖するのは人工物を通してであり、自然物ではその増殖に歯止めがかかるとの設定も良い。横浜駅の中を結ぶ情報ネットをスイカネットと名付けたのも面白い。日本を割拠するJRとの設定もよい。本書のいたるところに駅の本質に切り込んだネタがちりばめられており、駅が好きな私には面白い。鉄ちゃんではなく、本書はSFファンにとってお勧めできる内容だ。ところがSF的な展開に移った後半、駅に関する考察が顧みられなくなってしまったのだ。それは本書の虚構の面白さを少し損ねた。それが私には惜しい。

むしろ、本書は駅の本質を突き詰めたほうがより面白くなったと思う。まだまだ駅の本質には探るべき対象が眠っているはずだ。本書に登場する改札ロボットの存在がどことなくユーモラスであるだけに、その不条理さを追うだけで本書は一つの世界観として成り立ったと思う。だからこそ、条件が合致する横浜駅に特化し、駅の閉鎖性や不条理性を突き詰めていった方が良かった。多分、読者にも読みごたえがぐっと増したはず。その上で続編として各地のJR間の抗争を描いてもよかったと思う。短編でも中編でもよい。ところが少し急ぎすぎて一冊にすべての物語を詰め込んでしまい、焦点がぼやけた。それが惜しまれる。

ともあれ、本書をきっかけに私が横浜駅に抱く感情のありかが明確になった。それは本書から得た収穫だ。私は引き続き、各地の駅をめぐる旅を続けるつもりだ。そして駅の本質が何かを探し求めて行こうと思う。今まではあまり興味を持っていなかった大ターミナルの構造も含めて。

‘2017/05/12-2017/05/13


出版社と書店はいかにして消えていくか


本書は、紙の本が好きな人にとって「諦めの書」となるだろう。諦めといっても紙の本それ自体を諦めるのではなく、書店で本を買う文化への決別の書だ。本書のタイトルがすでに出版社と書店の衰退を決定事項にしている。

そして、本書は出版社と取次と書店が形成してきた近代出版流通システムがもはや終わりを迎えていることを宣言する。

私は紙の本を常に携えている。どこにいくにも。そうしないと、落ち着かないのだ。本書の内容は、私のような者の気分を落ち込ませる。私はまだ、かたくなに紙の本にしがみついている。電子書籍の媒体も持っているが、それで読むのは漫画だ。それもごくたまに。文字を中心とした本については電子書籍を遠ざけている。それは、仕事で資料チェックを行う際、紙とディスプレイでどちらが誤植や落丁を見つけられるか、経験した方なら明らか。紙の方が不思議なことに間違いを見つけやすいのだ。それはつまり、紙の本を読む方が内容をよく理解できることを意味する。だが、本書に書かれた内容から予感できるのは、私が紙の本を読めるのもあとわずかということだ。

私にとって本書から受けた一番の衝撃。それは出版物流通システムが制度疲労を起こしている事実ではなく、本を読み本を読んだ体験を共有する文化の消滅が間近であることが本書から伝わってきたことだ。それは、読んだ本のレビューをつづる当ブログの存在意義にも関わる。

もとより当ブログはさほど宣伝をしていない。扱う本も話題の本ではない。私が書店に平積みにされたベストセラーリストに載るような本を読むことはほぼないからだ。話題から外れて少したった本を読み、読んでから一年近くたってようやくレビューとしてアップしている。だからPVが稼げるはずもない。もともと当ブログはほぼ個人の趣味的な空間なのだ。それを承知でブログを始め、今も続けている。それは私が本を読むことに喜びを感じ、それを共有したいと思うからだ。ところが、本書の内容からは読書文化の衰退が漂ってくる。私はそのことに哀しみすら覚える。

そう書いている私自身、新刊本を平積みのうちに買うことはめったにない。話題になった本は数年後に図書館で借りてくるか、ブックオフで安く買う。または話題になって数年後に買うか。何のことはない、私自身が出版文化の衰退に一役買っているのだ。それを自覚しているだけになおさら切ない。

私の世代が多感な時期を過ごしたのはデジタルが世を席巻する前だ。まだ商店街にいくつもの本屋が並んでいた頃。ネットどころか、コンビニエンスストアで本を買う習慣が珍しい頃。本は本屋で買うことが当たり前だった世代だ。例えばJR甲子園口駅の南北に伸びる商店街。私は子供の頃この商店街の近くに住んでいた。この商店街にもしょっちゅう訪れていた。覚えている限りでこの商店街に本屋は五店あったが、今やすべて閉店している。近隣の阪神甲子園駅や鳴尾駅の前にも本屋があったが、それらも一掃されている。今、ここに挙げた三つの駅の近くに本屋があったことを覚えている人は少ないだろう。

また、本書には、書店史の重要なトピックとして郊外型書店が登場する。この郊外型書店も西宮市内に数店あった。私もよく通ったものだ。だが、今やその姿を見ることはない。今の西宮市に残っている本屋は、スーパーの店内や大規模ショッピングセンターのテナントとして間借りする大規模チェーンしかないと思う。それらの動きの背後にブックオフに代表される新古書店の存在があったことは忘れてはならない。

あと一つ忘れてはならないのは市立図書館の存在だ。私が初めて図書館を利用したのは小学校三年生の頃。その当時、西宮市立図書館は古びたいかめしい建物だった。その図書館も間もなく閉館し、市内数カ所に分かれて立派な図書館として生まれ変わった。その様子を私は客として利用者として見てきた。

このように西宮市内という狭い範囲とはいえ、私は本屋業界の変遷を目撃してきた。多分西宮だけでなく、日本各地でも似たような状況をたどったのではないかと思う。だが、それはあくまで消費者側から見た話だ。本書が限界を指摘する近代出版流通システムは、出版社と取次と書店の三者が作り上げてきた。

本書を読むと、そのどこにどうやって歪みがたまっていったのかが理解できる。その中で私のような消費者がどのような役割を演じたのかも。

著者は出版業界の経営者だ。そして、出版業界のあり方に長年警鐘を鳴らし続けてきた。著作の中には「ブックオフと出版業界」がある。この本は2000年に出版されている。わたしが付けている読書記録によると、この本を読んだのは2002年8月のこと。ブックオフに代表される新古書店の進出が書店業界に与える影響について警告を発していたと記憶している。当時すでにブックオフのヘビーユーザーだった私は、この本を読んだことでブックオフで購入する量が減りはしなかったものの、安易にブックオフを利用するだけでなく、新刊本も買わなければと自らを戒めた。まだ、圧倒的に新刊で買う頻度は低いが。

本書は全5章からなっている。
第1章 出版社・取次・書店の危機
第2章 近代出版流通システムの誕生・成長・衰退
第3章 出版社・取次・書店はどうなるのか
第4章 過剰消費社会の臨界点
第5章 検証・近代出版流通システムの臨界点

初めの3章が本書の肝で、最後の2章はまとめの章だ。

なお、本書は1999年に出版された。上述の「ブックオフと出版業界」よりも前に上梓されている。また、最後の2章は、1999年に初版が出された際は収められておらず、2000年前後にまとめられた文章を改版時に収めたらしい。どちらにしても2000年前後ということは、Amazonなどのネット書店の影響がまだ薄い時期だ。そのため、インターネットについてはあまり筆が割かれていない。インターネットが与えた出版業界への影響は、本書の続編にあたる「出版業界の危機と社会構造」に書かれていると思われる。

最初の章では、現在の書店や取次の財務状況を見る。そして書店や取次が倒産しつつある状況を危機的に描く。 特に再販制と委託制については、出版業界が抱える最大の病巣であると再三指摘する。また、郊外型書店が大量に出店した背景も指摘する。

再販制とは、再販売価格維持行為を指す。つまり、出版社が定めた価格が書店での販売価格になる。書店の裁量で価格を変えることを認めない定価制度だ。もう一つの委託制とは、売買時に返品条件を定めておき、一定期間書店に置かれた書籍や雑誌が売れなかったら返品条件に従い取次に返品できる制度だ。

これらの制度によって、書店経営のハードルはさがり、小規模であっても経営が成り立っていた。そして返品され新刊ルートから外れた書籍は中古市場に回り、書籍として第二の活躍の場が用意されていた。また、開店口座という方法で初期在庫の書籍代を取次が建て替える制度によって郊外型書店の出店が容易になった。75年に名古屋の三洋堂書店が郊外店を出店したのがはしりだという。このような書店界に脈々と受け継がれたシステムは外側からみてもかなり独特だ。

本書の二章で描かれる近代出版流通システムの変遷は、我が国の出版の歴史を知る上でとても参考になる。出版社の成り立ち、取次の成り立ち、書店の成り立ち。本書にはそれらがどうやって生まれたが示される。「小説神髄」や「当世書生気質」といった文明開化の音に合わせて読まれた小説。この二冊の小説の奥付(本の末尾に示される出版社の名称や発行日などの情報)が画像として掲示される。奥付に書かれた出版に関わる業者の名前。そこには出版システムの成り立ちが刻まれていると著者はいう。

どうやって書籍の定価販売が始まり、取次が興っては消えていったか。雑誌から始まった委託返品制度が書籍に波及したのはなぜか。そのきっかけである円本の大ヒットはどのように出版界を変えたのか。戦時体制の中、取次が整理され、委託返品制ではなく注文本位となったいきさつ。そして戦後、委託返品制の復活と再販制の導入。これらの歴史が時代を追って示される。

出版システムの歴史の中で特筆すべきなのは流通革命だ。ダイエーの中内氏が先駆者となり、メーカー主導から小売、消費者主導に世の潮目を変えた流通革命。その時代の流れに取り残されたのか、耐え抜いたのか、出版業界は洗礼を受けなかった。これが今の出版の危機の遠因だと著者は指摘する。本書はインターネットや電子書籍が読書界を侵食する以前の時代に書かれた。それなのに大量の本があふれ、本屋や出版社が倒産し、ちまたに売られる本は新古書店で一律価格で売られる状況がある。そして、これだけの危機がありながら、さらにインターネットの発達が出版界を壊滅に追い込んでいったのかが本書には描かれていない。それがとても気になる。

私の思いは出版流通がどうあれ、ネットの発達がどうあれ、コンテンツには価値が与えられ、コンテンツの創作者には相応の対価が支払われるべきという点で変わらない。だからこそ出版物の流通には変革が必要だし、前時代の流通システムにしがみついている限り淘汰されても仕方ないと思う。コンテンツの価値が正当に認められる限り、コンテンツの創作者に対価が還元される限りにおいて、抜本的な変革は避けられないだろう。

‘2017/05/01-2017/05/11


SFを実現する 3Dプリンタの想像力


今、世を騒がせている情報技術に関する言葉たちをあげてみる。クラウド、ビッグデータ、暗号(仮想)通貨、ブロックチェーン、人工知能、シンギュラリティ、ナノロボット、IoT。このほとんどは、実は目には見えない仕組みで動いている。目に見えない仕組みとはロジックやデータのこと。IoTにせよ、pepperで分かりやすい人工知能にせよ、裏側はロジックとデータの支配する世界。データ集約と分散の繰り返しからなっている。

そんな中、本書で扱う3Dプリンタのみが少し異彩を放っている。どう異彩を放っているかというと、動作の時間軸が人間の感覚に近いことだ。3次元のモデリングや、それを形にするロジックは人間など比ではなく速い。だが、それを形にするスピードにおいて、人間の感覚に近いのだ。それは、上にあげたキーワードでいうと、人工知能の一部に近い。人工知能の中には絵を描いたり歩いたりする物があり、そのスピードはヒトの動作に近いのだ。つまり、言い方を変えれば、すでに情報処理の発展は人類の動作に近づきつつあるのだ。

長らく、情報処理の入出力は二次元の地平に閉じ込められてきた。二次元とはディスプレイやプリンタ上の出力を想像してもらえれば容易に思い起こせる。ディスプレイも10年ほどでポリゴンから3Dの質感を持つ動きや姿の再現が可能になってきた。が、それらもスクリーンやディスプレイで表現されているうちは、二次元のかべをやぶれなかった。あくまでも陰影や色相で立体感を表現していただけだ。一方、プリンタも伝票をひたすら破り続けるような音を立てるドットインパクトプリンタから、インクジェットに至るまで、紙の平面に出力することがせいぜいだった。

入力もそう。キーボードも二次元の産物。QRコードやEAN、CODE39なども全て二次元。音声入力ですら波長に還元すれば二次元となる。平面スキャンされた画像も二次元でOCRで読み取ってテキストデータに変えるのも二次元。つまり、情報処理の入出力とは二次元の縦横の中で発展してきた技術なのだ。

ところが本書で紹介される3Dプリンタは違う。もはや入出力ともに3次元の空間を自在になぞる。縦横奥行き。それは大多数のヒトが持つ視覚に近い。一流の工芸作家が生み出す工芸品は、私も去年、超絶技巧の世界展で目にしてきた。空間の座標から質感を含めて再現する技には感嘆の言葉すらむなしく聞こえるばかりだ。ところが、3Dプリンタのスキャニング能力と再現能力は、すでに一流工芸作家の技に近づき、追い越し、凌駕しつつある。

本書が扱う概念は、それだけではない。そもそもデータが目に見えないと書いた先の指摘すら今や古い。3Dプリンタとは、データを物質に変えられるのだから。つまり触れられるデータを具現化するのが3Dプリンタなのだ。ということは3Dプリンタは、机を工場にできる。そして、物質のデータさえ完全に手に入れれば、データを転送して離れた場所で再構成も可能。つまり、すでに実験室ではSFの世界が実現されつつあるのだ。

3Dプリンタはまだあまり市販されていない。市販はされているが、一家に一台どころか、好事家でもない限り普及もしていない。なので一般的には3Dプリンタがどこまで進化しているのか知らない方も多いはずだ。本書は、大学で研究生活を送る著者が、最先端の3Dプリンタ事情を紹介してくれる。

本書は何がいいかというと、技術と社会の関わり方を紹介していることだ。それは、研究室の中で産まれる概念でもある。その概念とは実生活と遊離し、役に立たないのでは。そんな懸念もあるはずだ。たしかに、本書で紹介されているほとんどは、実生活であまり見かけないからだ。ところが本書が紹介する事のほとんどは、FABスペースと呼ばれる街中の工房で体験も見学もできるのだ。

例えば、コワーキングスペースという言葉がある。私のような技術者が作業したり仕様を打ち合わせたり、黙々と作業する場だ。各地にそうしたスペースがあり、私も十数カ所は訪れた。FABスペースとはこのスペースに工具を置き、自由に工作し、実験を行える場所だ。私が訪れたコワーキングスペースでもそうした工具を設置しているところがあった。だがFABスペースはさらに工具や実験精神に溢れている。コーディングや打ち合わせよりも手を動かしたい人のための場所だ。私はFABスペースをまだ訪れた事はない。だが、本書の記述からはそのような創造精神にあふれる場所であることがわかる。

創造とは、一人から産まれることもあるが、協働によってさらに膨らんでゆく。本書で紹介されるたくさんのアイデア。それはこういうFABスペースや著者の研究室での共同研究から産まれている。本書を読むまで、自走する3Dプリンタの存在は知らなかった。エルサレムの嘆きの壁の前で壁をスキャンし、その模様を再現した木の机をつくる試みも。また、自己を複製する3Dプリンタがあることすらも。本書にちりばめられた膨大な知見は、目に見えないデータの連動が多くを占めている今の技術の流れに確実に一石を投じている。そして、本書の至る所で太字で記されているキーワードの多彩さは、私たちが気づくべきパラダイムの変化について注意を喚起している。

地方創生どころか、インドの片田舎には工場がないのに、3Dプリンタだけで日常の道具を作る村があること。グローカルとはここ数年聞く言葉だが、もはやグローカルはそこまで進んでいるのだ。それは、データでモノを転送できる3Dプリンタがなし得る奇跡なのだ。

パラダイムの変化。グローバルからグローカルへ。いわゆる情報技術の発展とは違う何か。3Dプリンタが成し遂げる変化には何かがある。おそらくそれは、人工知能が人間をはるか後方に置いていってしまった後に、人類の救いとなる何かではないだろうか。本書を読んでいると著者もその部分に期待しているように思えてならない。著者はその究極の状態を「情報と物質が等価になる世界」226Pと表現している。違う言い方では「フィジカルなものが、デジタルの特徴を吸収してしまう、という反転」(226P)ともいう。

IoTの開発では感じられないその境地への接近。私は何やらこちらのフィジタルの世界に惹かれているようだ。早いうちに著者も参画しているというファブラボ鎌倉に行って見て試してみたいと思う。

‘2017/04/24-2017/04/29


神様のパズル


人生で最後のモラトリアム。扶養される立場を享受する日々。もはや取り戻せない貴重な時間。懐かしく愛おしい。本書を読んでそんな自分の大学四回生の日々を思い出した。

私の四回生の日々は、今思うと躁状態すれすれな日々だった。一月の阪神・淡路大震災の影響も甚大な上に、オウム真理教によるサリン事件の衝撃もある中で始まった就活の日々。デタラメな就活をとっとと切り上げ旅行三昧の夏をへて、内定なしのまま卒論を出して卒業。将来のことなど何も考えていなかった。とても懐かしい。

本書は四回生が所属するゼミが決まる三月末から幕を開ける。本書の主人公綿貫は大学の四回生。物理学部に在籍している。彼が入ることにした鳩村ゼミは素粒子物理研究室という名が付いている。鳩村ゼミを選んだのは、保積さんがそのゼミを選んだから。まったく脈がないのに思いだけを募らせている保積さんに告白する勇気も持てぬまま、ズルズルと四回生へ。ところが、物理学部に属しているわりに物理の素養がない綿貫は、何を見込まれたのか鳩村教授よりある頼み事をされる。それは早熟の天才美少女ともてはやされたのに最近学校に姿を見せない穂瑞をゼミに連れてくること。

穂瑞家に訪問するも、天才にありがちな穂瑞の剣もホロロな対応で追い返される綿貫。ところが、物理学部の名物聴講老人の橋詰から「宇宙が無から生まれたというのは本当か」という問いをぶつけられる。困った綿貫が橋詰老人を連れて穂瑞のもとに伺ったところ、老人の問いに何かを感じた穂瑞がゼミに訪れて、、、というのが序盤だ。

鳩村教授より卒論に加えて評価の材料にするから、と言われて付けた日記がそのまま本書になっている。この辺りの設定と展開の流れはとても自然だ。

素粒子物理研究室は、穂瑞の提案で宇宙は人間に作れるかというディベートを行う場となる。作れる側には綿貫と穂瑞。反対側には保積さん。ますます片思いが実る可能性は遠のいて行く。折しも鳩村教授は責任者である大型加速器「むげん」の稼働開始に向けて忙しい時。しかもむげんの稼働テストが思わしくなく、むげんの素のアイデアを提案した穂瑞の立場も危うい。

ループ状になっているむげんの中心部には棚田があり、そこには婆さんが独りでほそぼそと農家を営んでいる。むげんの設置でお世話になった事から、鳩村ゼミでは毎年農作業のボランティアをしている。綿貫は農作業にも駆り出される毎日を送っている。

本書は綿貫の日記の体を取っている。綿貫の日々の暮らしと心情がつづられていく日記には、ゼミのディベートの様子、保積さんに振り向いてもらえず話すことすらままならない切なさ、穂瑞がむげん問題でスケープゴートに祭りあげられてゆくさま、農作業の手伝いの大変さ、内定が決まらない焦り、そして卒論が書けない悩みが記される。

本書は主人公の日記の体をなっている。物理学部の学生でありながら物理を知らない綿貫の書く日記が本書にある効果を与えている。それは、穂瑞の考える難解な素粒子論を綿貫の脳内のフィルターを通し、グッとわかりやすく読者に伝えることだ。難解なテーマを扱いながらも、わかりやすく理論を読者に伝える。それはなかなか難しいことだ。物理学部の学生の日記の体を取ったのは絶妙な設定だと思う。

さらに本書は農作業をスパイスに配する事で、複数の対立軸を生み出している。深遠な宇宙と地道な農作業。天才美少女とぼくとつな農婆。就職活動と研究活動。それらは本書に天才たちが繰り広げる理論小説ではなく、生活と未来に悩む若者の青春小説の体を与えている。そこがいい。SFでありながら理論やロジックの世界ばかりを描いていたら、本書は全く別の色合いを帯びていただろう。しかし本書は青春の悩みという、論理とは対立するものを取り上げている。それが本書に単なるSFではない違う魅力を与えているのだ。

また、本書で見逃せないことはもう一つある。それは対人コミュニケーションによって小説の筋が進むことだ。技術者といえばコミュニケーション障害の人物の集まり。そんなステレオタイプの登場人物だったら私は本書を途中で放り投げていたかもしれない。もちろん本書にも研究に閉じこもる学生も登場する。実際の技術者にもコミュニケーションが不得手な方が多い。だが、そうでない人物もいる。技術者や物理屋にもコミュニケーションに長けた人は当然いる。本書は会話によって話が展開していくのだから。そして、本書がコミュニケーションを描いたとすれば、それはとにかくコミュニケーションに不足が取り沙汰される技術者にとって培うべきスキルのヒントとなる。なぜなら、研究も成果もコミュニケーションあってこそ世に出るものだから。

技術者の方には、庭いじりを趣味とする方もいるという。私もたまに行う。同じように宇宙論も物理学も全ては農作業から始まっている。私はそのつながりを本書から教えられた。そのつながりをわかりやすく小説に表現した本書は秀作だと思う。

‘2017/04/22-2017/04/23


図説滝と人間の歴史


滝が好きだ。

みていて飽きない稀有なもの。それが滝だ。旅先で名瀑を訪れると時間のたつのを忘れてつい見入ってしまう。滝ばかりは写真や動画、本を見ただけではどうにもならない。滝の前に立つと、ディスプレイ越しに見る滝との次元の違いを感じる。見て聞いて嗅いで感じて。滝の周囲に漂う空気を五感の全てで味わう。たとえ4K技術が今以上に発達しても、その場で感じる五感は味わえないに違いない。

私の生涯で日本の滝百選は全て訪れる予定だ。本稿をアップする時点で訪れたのは25カ所。まだまだ訪れる予定だ。私が目指す滝には海外も含まれている。特にビクトリア、 ナイアガラ、イグアス、エンジェル、プリトヴィツェの五つの名瀑は必ず訪れる予定だ。

今までの私は滝を訪問し、眼前に轟音を立てる姿を拝むことで満足していた。そして訪れるたびに滝の何が私をここまで魅了するのかについて思いを巡らしていた。そこにはもっと深いなにかが含まれているのではないか。滝をもっと理解したい。直瀑渓流瀑ナメ瀑段瀑といった区分けやハイキングガイドに書かれた情報よりもさらに上の、滝がありのままに見せる魅力の本質を知りたい。そう思っていたところ、本書に出会った。

著者はオーストラリアの大学で土木工学や都市計画について教えている人物だ。本書はいわば著者の余技の産物だ。しかし、著者が考察する滝は、私の期待のはるか先を行く。本書が取り上げるのは滝が持つ多くの魅力とそれを見るための視点だ。その視点の中には私が全く思いもよらなかった角度からのものもある。

例えば絵画。不覚にも私は滝が描かれた絵画を知らなかった。もちろんエッシャーの滝はパズルでも組み立てたことがある。だがそれ以外の西洋の滝を扱った絵画となるとさっぱりだ。本書は絵画や写真がカラーでふんだんに掲載されている。数えてみたら本書には滝そのものを撮った写真は67点、絵画は41点が載っている。それらの滝のほとんどは私にとってはじめて知った。自らの教養の足りなさを思い知らされる。

本書では、滝を地学の観点から扱うことに重きを置いていない。滝が生まれる諸条件は本書でも簡潔に解説されており抜かりはない。滝の生成と消滅、そして学問で扱う滝の種別。それらはまるで滝を語る上でさも重要でないかのようにさらりと記される。そういったハイキングガイドのような記述を本書に期待するとしたら肩透かしを食うことになるだろう。

本書の原書は英語で書かれている。翻訳だ。この翻訳が少し練れていないというか、生硬な文章になっている。少し読みにくい。本書はそこが残念。監修者も付いているため、内容については問題ないはず。だが、文章が生硬なので学術的な雰囲気が漂ってしまっている。

だが、この文章に惑わされて本書を読むのをやめるのはもったいない。本書の真骨頂はその先にあるのだから。

地質学の視点から滝を紹介した後、本書は滝がなぜ人を魅了するのかを分析する。この分析が優れておりユニーク。五感で味わう滝の魅力。そして季節毎に違った顔をみせる滝の表情。増水時と渇水時で全く違う表情を見せる滝。著者は世界中の滝を紹介しつつ、滝についての造詣の深さを披露する。

そして、著者は滝の何が人を魅了するのかを考察する。これが、本書の素晴らしい点だ。まず、滝の姿は人々に大地の崇高さを感じさせる。そして滝は人の感情を呼び覚ます。その覚醒効果は滝に訪れると私の心をリフレッシュしてくれる。また、眺望-隠れ場理論と呼ばれるジェイ・アプルトンの理論も紹介する。この理論とは、眺望の良いところは危険を回避するための隠れ場となるとの考えだ。「相手に見られることなく、こちらから相手を見る能力は、生物としての生存に好ましい自然環境の利用につながり、したがってそうした環境を目にすることが喜びの源泉になる」(72p)。本能と滝を結び付けるこのような観点は私にはなかった。

また、もう一つ私に印象を残したのは、滝とエロティシズムを組み合わせる視点だ。私は滝をそういう視点で見たことがなかった。しかしその分析には説得力がある。滝は吹き出す。滝は濡れる。滝はなだらかに滑る。このような滝の姿から想像されるのは、エロスのメタファーだ。あるいは私も無意識のうちに滝をエロティシズムの視点で感じていて、そこから生命の根源としての力を受け取っているのかもしれない。

また、楽園のイメージも著者にとっては滝を語る上で欠かせない要素のようだ。楽園のイメージを著者は滝がもたらすマイナスイオン効果から結びつけようとしている。マイナスイオンが科学的に正しい定義かどうかはさておき、レナード効果として滝の近くの空気が負の電荷を帯びることは間違いないようだ。マイナスイオンが体をリフレッシュする、つまり滝の周りにいると癒やされる。その事実から著者は滝に楽園のイメージを持ってきているように受け取れた。ただ、マイナスイオンを持ち出すまでもなく、そもそも滝には楽園のイメージが付き物だ。本書は滝に付いて回る楽園のイメージの例をたくさん挙げることで、楽園のイメージと滝が分かちがたいことを説いている。

著者による分析は、さらに芸術の分野へと分け入る。絵画、映画、文学、音楽。滝を扱った芸術作品のいかに多いことか。本書で紹介されるそれら作品の多くは、私にとってほとんど未知だ。唯一知っていたのがシャーロック・ホームズ・シリーズだ。ホームズがモリアーティ教授と戦い、ともに滝へと落ちたライヘンバッハの滝のシーンは有名だ。また、ファウストの一節で滝が取り上げられていることも本書を読んでおぼろげに思い出した。そして滝を扱った芸術といえば絵画を外すわけにはいかない。本書は41点の絵画が掲示されている。その中には日本や中国の滝を扱った絵画まで紹介されている。著者の博識ぶりには圧倒される。日本だと周文、巨勢金岡、円山応挙、葛飾北斎の絵について言及されており、葛飾北斎の作品は本書にも掲載されている。私が本書に掲載されている絵画で気に入ったのはアルバート・ビアスタット『セントアンソニーの滝』とフランシス・ニコルソン『ストーンバイアーズのクライドの滝』だ。

芸術に取り上げられた滝の数々は滝が人間に与えた影響の大きさの表れだ。その影響は今や滝や流れそのものを人間がデザインするまでに至っている。古くまでさかのぼると、古代ローマの噴水もその一つだ。ハドリアヌス帝の庭園の噴水などはよく知られている。また、純然にデザイン目的で作られた滝もある。本書はそれらを紹介し、効果やデザインを紹介し、人工的な滝のありかたについてもきちんと触れている。

滝を美的にデザインできるのならば、滝をもっと人間に役立つように改良できるはずだ。例えば用水のために人工的に作られたマルモレの滝。マルモレの滝の作られた由来が改良の代表例として本書に取り上げられる。他にも水力発電に使われるために水量を大幅に減らされ、滝姿を大幅に変えられた滝。そういった滝がいくつも本書には紹介される。改良された滝が多いことは、滝の本来の姿を慈しみたい滝愛好家には残念な話だ。

人工的に姿を変えられる前に滝を守る。そのため、観光化によって滝の保全が図られる例もある。本書には観光化の例や工夫が豊富に紹介される。私が日本で訪れた多くの滝でも鑑瀑台を設け、歩道を整備することで観光資源として滝を生かす取り組みはおなじみだ。観光化も行き過ぎると問題だし、人によっては滝原理主義のような考えを持つ人もいるだろう。私は華厳の滝(栃木)や仙娥滝(山梨)や袋田の滝(茨城)ぐらいの観光化であれば、特に気にならない。もちろん滝そのものに改変を加えるような観光化には大反対だが。

こうして本書を読んでくると、滝とは実にさまざまな切り口で触れ合えることがわかる。このような豊富な切り口で物事を見る。そして物事の本質を考える。それが大切なのだ。私も引き続き滝を愛好することは間違いない。何も考えずに滝の眼前で何時間もたたずむ愛しかたもよいと思うし、場合によっては滝を考え哲学する時間があってもよい。本書を読むと滝の多様な楽しみ方に気づく。そうした意味でもとても参考になる一冊だ。図書館で借りた一冊だが、機会があれば買おうと思っている。

‘2017/04/21-2017/04/22


プレミアムテキーラ


私の家にはちょっとしたミニバーを設えている。

並んでいるボトルはほとんどがウイスキーだ。だが、ウイスキー以外にもリキュール、ラム、ジン、焼酎(米・芋・麦・黒糖)、ウォッカ、ブランデー、アクアビット、ピンガ、アラックなどをそろえている。かつてはカルヴァドスやミードも棚に並んでいた。

だが、一度も並んだことのない蒸留酒があった。それがテキーラ。どうも苦手意識を持っていたのだ。その状態が改まったのは2年ほど前。仕事で西荻窪に数度訪れる機会があり、「Bar Frida」さんに伺った。テキーラ専門のバーという珍しさにふらっと寄らせていただき、テキーラの量に圧倒された。私がそれまで知っていたテキーラのブランドと言えば、SAUZAやJose Quervoくらい。だが「Bar Frida」さんのバックバーには私の知らないテキーラがずらりと並んでいた。メニューにも詳細に各銘柄の味や特徴が記されており、私のような初心者にも頼みやすかった。

その時はバーテンダーさんが常連さんとの会話に入ってしまい、あまり喋る事ができなかった。私もあまり長居しなかったのでどういった銘柄を頼んだのかは覚えていない。だが、テキーラがバラエティにあふれ、おいしい事だけは私の知識として刻み付けられた。それは同時に、私の長年のテキーラへの苦手意識を払拭してくれた。ただそれ以来、いくつものBarに訪れているが、どうしてもウイスキーに目が行き、頼んでしまう。そしてテキーラを飲む機会はなかなか訪れなかった。

そんなところに図書館で本書を見つけた。装丁には気合が入っている。中身もほぼカラー。意気込みが感じられる。著者はメキシカンの方。長年日本で仕事をし、今はテキーラを日本に紹介・輸入する仕事をしているそうだ。

私は本書で初めてテキーラを体系的に知った。多分、私のような方は多いのではないか。テキーラについてはあまり知らないという方が。そんな方のために、本書は冒頭からテキーラに関する誤解を解きにかかる。例えば。テキーラはサボテンでできている。テキーラには虫が入っている。テキーラは強い酒で二日酔いする、などなど。

実は私も誤解していた。テキーラの原料がリュウゼツランであることは知っていたが、なんとなくそれはサボテンの一種だと思っていた。でも全く違う種だ。テキーラに虫がはいっていることもそう。一部のテキーラには虫が入っていると思っていたが、正確には「一部のメスカルには虫を衛生的に処理して入れている」が正しい。メスカルはリュウゼツランを使ったメキシコの蒸留酒だが、特定産地で育った特定種のリュウゼツランをテキーラ村周辺で蒸留したメスカルがテキーラと呼ばれるのだ。そして虫を入れたテキーラはない。虫を入れたメスカルはあるが。そしてテキーラはメキシコ政府や業界団体によって品質管理や統制をきっちり行っており、メスカルとテキーラには一線が引かれている。また強い酒で二日酔いするとは、幻覚症状が出るとの誤解もあったようだ。実際は他の蒸留酒と同じぐらいの度数。他の蒸留酒では二日酔いしてもテキーラは平気な方がいるらしい。もっともそれは体質にもよるのだろうが。

本書は製法や産地、特徴など網羅してテキーラを紹介している。特定種のリュウゼツランであるブルーアガベと水のみを使った製品がプレミアムテキーラと呼ばれるとか。ラムのようにさとうきびの糖蜜を原料に混ぜることもあり、そちらはミクストテキーラと呼ぶようだ。そして本書はプレミアムテキーラを特に紹介している。写真と解説付きで図版で紹介しているが、読んでいるだけで楽しくなる。ウイスキーやラムにも同様にカラーを駆使した図説をちりばめた図鑑のような本がある。本書もそれらの本と同じように精細に楽しくテキーラを紹介している。それらの図面はとてもおいしそうで、読みながら飲みたくてたまらなくなったほどだ。他にもカクテルレシピやテキーラに合う料理など、全てがカラー図版で占められている。とてもぜいたくな一冊だと思う。

本書は全ての蒸溜酒愛好者にオススメの一冊だ。私はこれを読んだ後、テキーラを衝動的に飲みたくてたまらなくなり、スーパーの酒売り場に足を運んでしまった程だ。そこにプレミアムテキーラが見つからなかったので、翌日には酒の専門店に行きLUNAZULのレポサドを購入してしまった。LUNAZULは我が家のミニバーに収まった初めてのテキーラ。それぐらい本書に載っているテキーラはおいしそうなのだ。

さらに本稿をアップする数カ月前、たまたま見ていたテレビの「クレイジージャーニー」で日本人で唯一、本場のテキーラ蒸留所でテキレロ(テキーラ職人)として働いている景田哲夫氏のことを知った。カスカウィン蒸留所で働く氏の、フロンティア精神に溢れた旅を見ていると、またまたテキーラに惹かれてしまったのだ。LUNAZULもそろそろ空きそうなので、次はカスカウィンを購入したいと思っている。

‘2017/04/20-2017/04/20


少年は残酷な弓を射る 下


幼稚園でも問題行動を起こすケヴィン。シーリアという妹ができれば兄として自覚を持ち落ち着いてくれるのでは。そんな両親の願いを軽々と裏切り、ケヴィンの悪行には拍車がかかる。むしろ始末が悪くなる一方。悪知恵がついた分、単なるやんちゃを超え、より悪質な方へと向かう。

下巻が幕を開けてすぐ、ケヴィンは同じ幼稚園に通う園児の心に一生残るであろう楔を打ち込む。その楔の深さはその園児に一生涯消えない傷として残るはず。知恵をつけ始めるとともに、ケヴィンの行いは狡猾な色を帯びてゆく。エヴァから見た息子の行動や発言は見過ごせないほどの異常さが感じられる。だが、それらの邪悪さは夫フランクリンには映らない。それどころかケヴィンの異常さを訴えること自体が母親エヴァの育児の至らなさの結果と映る。会社の経営にかまけて、母としての役割がおろそかになっていないか、というわけだ。実際、ケヴィンは母に対して見せる姿と、父に対しての態度を巧妙に演じ分けるのだ。エヴァの訴えは夫には通じず、エヴァは手をこまねくしかない。エヴァが手を打てずにいる間にクラスメイトだけでなく、担任や隣人、ペットなど身の回りのあらゆるものにケヴィンの悪意は向けられてゆく。

妻の訴えを信じず、理解ある父を懸命に演じようとする父フランクリンは滑稽だ。だが、彼の滑稽さを笑える世の父は私も含めそういないはず。もちろん、私だって娘たちに対してはよき父であろうと心がけている。至らぬところも多々あるし、実際に至らないと自覚もしている。だが、子どもは成長すると知恵を身に付けてゆくもの。親といえども子が何を考えているか完璧に見抜けるのはずはない。

あまたの人間の織りなす社会。そこでは、硬軟や裏表、公私を使い分けなければ世を渡ることすらままならない。素の姿で飾らず、まっすぐ真っ当に生きたい。だれもが思うことだ。それは当然、子供との関係にも当てはまる。純粋で無垢な理想の父子を、せめて子供との関係では守りたい。本書で描かれるフランクリンからはその意思が痛々しいほど感じられる。

エヴァはフランクリンに向けてつづる便りの中で、ケヴィンが裏表を使い分けずる賢くフランクリンを欺いていたことも暴く。そして、フランクリンが息子に騙され続けていた事実も指摘する。だが、ケヴィンが取り返しのつかない犯罪を起こしてしまった今、何を言っても過去の繰り言にすぎない。実際、エヴァは、フランクリンを難詰しない。ただ騙されていたことを指摘するだけで。後から当時を振り返り、分析するエヴァの手紙には、諦めどころか傍観者のおもむきさえ漂っている。今さら夫を責めたところで過去は変えられないとの達観。

この達観は、大量殺戮犯の息子を持たない限り、普通の人が至ることのない境地だ。一瞬、魔がさして過ちを犯したのならまだわかる。だが、将来の殺人犯を育てる長年の過ちとは一瞬の過ちが入り込む余地はない。一瞬ではなく、徐々に積み重なった過ちだからこそ本書はリアルに怖い。本書はリアルな恐怖を読者に与える。自らの子どもが殺人犯になる未来が子育ての先に黒い口を開けて待ち構えている。そんな恐ろしい可能性は、どの親にも平等に与えられている。だからこそ恐ろしいのだ。その恐怖は本書がフィクションであろうと、そうでなかろうと変わりがない。親として子育てに携わる限り、そのリスクを避けるすべはない。どの親にも殺人犯の親になってしまう機会は均等にある。

上巻のレビューの冒頭にも書いたが、子育てとは、とても深淵で取り返しのつかない営みだ。本書は、その事を私たちに思い知らせてくれる。普通の親がいともやすやすとやり遂げているように思える子育て。そこには親子の間に交わされる無数のコミュニケーションと駆け引きと思惑がある。それほどまでに難しい営みで有りながら、結果は出てしまう。そして全ては結果で判断される。ああ、あそこの家の子は教育がよかったから◯◯大に行っただの、△△省に就職しただの。逆もまたしかり。やれニートだ、やれ不良だ、やれ引きこもりだ。極端な例になると、本書のケヴィンのように全国に汚名を轟かせることになる。

でも、それはあくまで結果論に過ぎない。子育ては細かい触れ合いやコミュニケーション、イベントや感情の積み重ねの連続だ。ことさらに記念日やイベントを持ち出すまでもなく。経緯をないがしろにして結果だけをあげつらうのはフェアではない。そしてその経緯を知っているのは当の親子だけ。全ての親子。いや、親子ですら、そこまでに積み重ねたあらゆる選択肢を反省することは不可能。だからこそ、子育ては真剣な営みであるべきだし、取り返しがつかない営みなのだ。私自身、幼い頃に親から言われた事がしつけの結果として脳裏をよぎる事がいまもある。逆に、言われなかった、しつけられなかった事によって私の行動に欠陥だってあるはずだ。

本書は子育ての恐ろしさを世に知らしめるには格好の題材だと思う。子を持つ親として、私はその事を本書から痛いほど突きつけられた。

エヴァの追懐は、事件の日ヘ一刻と近づいてゆく。夫に対して語りかけながら、息子の罪に向き合う。そして少年院で囚われのケヴィンとの面会に臨む。エヴァやフランクリン、シーリア、そしてケヴィン。この一家は今、どうしているのか。エヴァが認める自らの罪、そして失敗の先にはなにが待っているのか。エヴァが親として人間として向き合おうとする心はケヴィンに届くのか。これは実際に本書を読んで確かめてほしいと思う。

本書を読み終えた時、さまざまな感情が渦巻くはずだ。親であることの恐れ多さ。今まで自分が真っ当に育てられたことの感謝。親として子への接し方に襟を正す思い。人であること、親であることの難しさ。母とは、父とは、そして母性とは。

本書は重い。だが傑作だ。子を持つ親にはぜひ読んでほしいと思う。

‘2017/04/15-2017/04/19


少年は残酷な弓を射る 上


本書は子をもつ親にこそ勧めたい。特に、難しい年齢の子をもつ親に。

子作りとはなんと罪作りな行いなのか。子育てとはなんて深淵で取り返しのつかない営みなのか。特に今のような中途半端に人間関係が希薄になり、中途半端に情報が流通している社会では、親が子を育てることはますます難しい。

子供を育てる。それは私がまさに日々直面する親としての現実だ。私も自分なりによき父であろうと努力して来たつもりだ。が、娘達からすれば物足りない点、欠けている点もあちこち目につくことだろう。とくに仕事の忙しさにかまけるのがもっともよろしくない。仕事に忙殺され、子どもをないがしろにすると、自らの子どもから手痛いしっぺ返しを食らう。これは私も経験済み。

親の一挙手一投足は、一刻一刻が取り返しの付かない影響を子供に与えている。良くも悪くも。本書を読むとその事実が重くのしかかってくる。重く歪んだ読後感を伴う本書だが、まぎれもない傑作だと思う。

本書は妻エヴァから夫フランクリンへの手紙に似た語りかけの形式をとる。離れた場所にいる夫への語りかけは、物語に定まった視点を生む。全てはエヴァの一人称で話が進んでゆく。近況を報告し、二人の間の過去の思い出を語るエヴァの語りを読み進めていくうちに、読者は二人の息子ケヴィンが大量殺人を犯した事実を知る。

冒頭からまもなくエヴァの語りは、少年院に面会に行き、ケヴィンと対峙する経緯に差しかかる。反省の色を浮かべるどころか、実の母を挑発するケヴィンとの一部始終を夫に語るエヴァ。事件後、二年たってもまだエヴァは事件の後始末に関わっている。本書は、事件が起こった後の混乱が収まった後もなお、自身の人生と子育ての日々を見つめ直そうとするエヴァの探求の旅だ。エヴァの胸につかえる思い 。彼女の胸を満たすのは、いったい何が悪かったのか、どこで間違えてしまったのか、との後悔。

本書の設定では、ケヴィンが大量殺戮を犯してすぐにコロンバイン高校の銃乱射事件が起こったことになっている。それはケヴィンの犯行が世間に与えた衝撃の度合いを薄めた。ケヴィンは憤る。コロンバイン高校で銃乱射を行った二人の少年が自分の行いを薄めたことに。そこには反省など微塵もない。そして、エヴァの求める答えも救いもない。それでもエヴァは、息子から逃げずに定期的に少年院に通う。そしてその様子を逐一フランクリンに報告する。

エヴァは夫に便りを書きながら、同時に自分へと問いかける。二人が出会ったころのなれそめから遡れば、その問いへの答えがわかるとでもいうように。

ロケーション・ハンティングを営み、家を留守にすることの多いフランクリンと、海外へ向かうトラベラー向けの出版社経営に没頭するエヴァ。結婚してからも二人の仲は熱く、子作りの必要など感じないくらい。だが、エヴァとフランクリンの温度差はある日臨界を迎え、衝動的に避妊せずにセックスする。高年齢での妊娠はリスク。そしてエヴァにとっては今まで築き上げたライフスタイルが失われる恐れを抱きながらの妊娠。この辺り、女性の女性が描く細やかな描写が読者にさまざまな思いを抱かせる。

なお、著者の名前がライオネルとなっている。が、著者は女性だ。著者自身の意思で男性の名に思えるライオネルに改名したそうだ。著者の紹介によると、著者には子がいないらしい。それにもかかわらず、子を持つ母の思いがリアルに描かれている。著書の想像力の豊かさが見てとれる。

エヴァの語りから感じられるのは、自分の感情と責任に正直でありたいという率直さだ。すでに殺人犯の母と汚名を被った以上、自分を飾る必要もないということだろう。エヴァの語りを追うと、他の母親並みに妊婦学級に参加したり、我が子との対面を待ち望む気持ちがあるかと思えば、全てがどこかで間違った方向に進んでいるのではないかとおののき惑う気持ちも描く。そんな正直な心境をエヴァは夫に向けてつづる。その率直さはケヴィン誕生の瞬間の気持ちにも現れる。その気持ちとは感動がないという驚き。

著者は本書をありきたりの母と子として描かない。ケヴィンが大量殺戮に走った理由が今までの歩みのどこかに潜んでいなくてはならない。エヴァは、その原因を思い出すために当時の自分に向き合う。

子を持つことに積極的でないエヴァとそんな母の元に生まれたケヴィン。受胎の瞬間から破局は始まっていたかのようにエヴァの語りはケヴィンが誕生してからの日々を描き出す。母乳に興味を持たずひたすら泣きわめくケヴィンとそれを持て余すエヴァ。エヴァも愚かではない。ヒステリックに怒鳴り散らしたい気持ちを抑え、良き母であろうと努力する。だが、そんなエヴァをあざ笑うかのように、ケヴィンは父フランクリンの前では良き幼子として振る舞う。

以後、上巻では、ケヴィンとエヴァの緊張をはらんだ関係と、無邪気にケヴィンに騙され続ける父フランクリンの関係が描かれる。成長するにつれ行動に不穏な気配を帯びてゆくケヴィンに恐れを抱きながら母を演じようとするエヴァと、最初から自分が理想の父を演じていることに一瞬たりとも疑いを挟まないフランクリン。二人の夫婦としての温度にも微妙な差が生じ始める。

おそろしいのは、三人の関係だけではない。この展開を自然にグイグイ読ませる著者の力量も恐ろしい。本書がケヴィンの起こした破局に向かって突き進んでゆくことは予想できるのだが、それがどういう方向に向かうのか読者はわからぬままだ。わかっているのはケヴィンの起こした事件が重大であり、大勢を殺傷したこと。それ以外は詳細が語られぬまま物語が進んでゆく。読者は、スリリングな気持ちと不気味さを同時に味わうことになる。上巻も終わりを迎える頃には、夫婦が事態を打開するためシーリアという娘ももうける。シーリアはケヴィンと違って全く手のかからない天使のような娘。それが物語に一層の波乱の予感を与えつつ、本書は、下巻へと向かう。

‘2017/04/12-2017/04/15


沖で待つ


私は芥川賞の受賞作をよく読む。芥川賞の受賞作は薄めの文春文庫に二話められていることが多い。一話は受賞作で、もう一編は同じぐらいの量の短編というように。ところが本書には三編が収められている。しかも行間はたっぷりとられ、フォントも大き目に。それはつまり、各編が短いということだ。著者の作品を読むのは初めてだが、短めの話を得意とされているのだろうか。

著者についても本書についても予備知識がゼロで読み始めた。ところが始めの二編はサクサク読める。著者の経験に題材を採ったと思われる二編は、状況も展開もとっぴではない。誰にでも訪れそうな日常のイベント。そんな普通のイベントに向き合った主人公の日々が読者の心のみぞおちをくくっと押す。

「勤労感謝の日」はお見合いの話だ。アラフォーの主人公恭子のもとにお見合い話が舞い込む。見合いなんて、さして珍しい話でもない。だが、冒頭で勤労感謝の日に毒づく恭子の内面が露になるにつれ、恭子が無職である事が徐々に明らかになる。そんな恭子に残されたのは逃げ道としての結婚だ。

ところが見合いの席に現れた野辺山という男は恭子をがっかりさせる。風采、態度、言動のすべてが冴えないのだ。野辺山の全部に反感をもつあまり、見合いの席を中座してしまう恭子。恭子からは結婚の逃げ道すら遠のいてしまう。気の置けない後輩を渋谷に呼びつけて呑みなおす。が、この後輩も空気の読めない女なので、カイコはサナギまでが美しいけど成虫になると醜くなるというなどとやくたいもない話を婚期を逃しつつある恭子に語り、さらには彼氏と行く旅行の話までのたまう。家に帰っても恭子には見合いに同席した母から今日の逃げ出した振る舞いを愚痴られる。いたたまれず一人でなじみの店を訪れて愚痴を聞いてもらおうと思っても、折あしく生理が来てしまう。女である事の負の面だけが重く心に沈む。

でも、なじみの店でふっと心の重荷を下ろしてはじめて、恭子は今日が勤労感謝の日であることに気づく。勤労って、仕事のことだけじゃなく、生きることもまた勤労。そんな人生の中にぽっと浮かんだ救いにも似た終わりかたが印象的だ。本編は芥川賞の候補にも挙がった。

「沖で待つ」は、主人公と太っちゃんの交流を描いた一編だ。同期入社の男女。恋愛でもなくただの顔見知りでもない不思議な関係。会社で新卒された同期とはじっくり考えると不思議な関係だ。共学のクラスメイトよりも交流が生じる。同僚とはある種特有の結びつきが生まれるのかもしれない。新卒で入社していない私にはわからないが。

新卒で会社に入らなかった私は、同期など一人もいない。一度だけ中途で入った会社では、10人ほど同時に入社した。彼らはたぶん、同期と呼べるのだろう。けど、入社から3カ月以内に私も含めてほぼ全滅した。社内ではあまりにも追いまくられたため、写真すら撮っていない。一度ぐらい一緒にカラオケに行った程度か。今では顔も忘れてしまった彼/彼女らを同期と呼ぶのは無理がある気がする。そんな私だから本書に描かれた及川さんと太っちゃんの関係はうらやましい。

会社にはいろんな出来事が起こる。例えばクレーム対応、営業、出張、転勤など。会社に入ればどれもが避けようのないイベントだ。本編にはそれらがつぶさに描かれる。そんな中で二人の関係は付かず離れず続く。そしてある日、不慮の事故で太っちゃんは死んでしまう。

そこからが本書の独特の展開に入る。生前の二人が交わした約束。それはどちらかが先に死んだら片方の家にあるパソコンのハードディスクを使用不能にするというもの。ハードディスクの形を棺桶と表現し、中の円盤を死の象徴にたとえるあたりに作家の感性を感じる。

本編は2005年の芥川賞受賞作だ。その頃からわが国でもSNSがはやり始めた。私たちが死んだとき、ブログやSNSにアップしたデータはどこにゆくのか。今の私たちはその機能がFacebookに備わっているのを知っている。だが当時なこのような発想は目新しかったように思う。この点に着目した著者の視点を評価したい。

信頼できる関係とは何か。同じ性別だから、一つ屋根の下に住む家族だから信頼できるのか。そうでもない。同じ会社に勤めていれば、利害を同じくするから信頼できるのか。そうでもない。人と人とが心を許し合うことが、どれだけ難しいか。だが、人は一人では生きられない。自分が死んだ後始末を託せるだれかは必ず持っておいたほうがいい。例えばパソコンの中の個人情報を託せる誰かに。人の信頼関係を無機質なハードディスクに見立てたことが本編の優れた点だ。

「みなみのしまのぶんたろう」は、全編がひらがなとカタカナのみで構成されている。本編を読みながら、私の脳裏に去来したのは、筒井康隆氏の「大いなる助走」だ。「大いなる助走」は文学賞選考にまつわるドタバタが描かれている。何度も落選させられた作家が選考委員に復讐するラストは筒井氏の真骨頂が味わえる。本編の主人公「ぶんたろう」は大臣の経験者で作家との設定だ。となれば「ぶんたろう」に擬されているのは石原慎太郎氏のほかはありえない。

ふとした失策で南の島の原発に流された「ぶんたろう」の日々が描かれている。かなとカナだけの内容は、童話的な語りを装っているが、内容はほぼ完全に慎太郎氏を揶揄している。そうとしか読めない。

著者が「沖で待つ」で芥川賞を受賞するまでに三たび芥川賞の候補者となった。直木賞にも一度候補に挙がっている。その中で著者が石原慎太郎氏に対して含むところでもあったのだろうか。芥川・直木賞の選評を紹介するサイトもみたが、そこには石原慎太郎氏による著者の作品への選評と批判が載っていた。が、そこまでひどい選評には思えなかった。ここまで著者に書かせた石原慎太郎氏への感情がなんだったのか、私にはわからない。でも、「みなみのしまのぶんたろう」を書かせた著者の思いの強さはなんだか伝わって来る。

‘2017/04/11-2017/04/11


民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


ジョイランド


著者の作品は短編も長編も含めて好きだ。とくに著者の長編はそのボリュームでも目を惹く。あれだけのボリュームでありながら一気に読ませるところに著者のすごさがある。著者の長編が果てしなく長くなる理由。それは伏線を張り巡らせ、起承転結を固め、登場人物を浮き彫りにするため周囲を細かく描くからだ。登場人物が多くなればなるほど、著者は周到に伏線を張り巡らせる。その分、全体が長くなるのは仕方ないのだ。

ところが本書のサイズは著者の長編の中ではめずらしく薄い。文庫本で1.5センチほどの厚み。薄いとはいえ、本書のサイズは世の小説でいえば長編に位置付けられる。だが、著者にしては短めだ。その理由は、舞台がジョイランドにほぼ限定されていて、登場人物もそう多くないためだと思う。

本書はいわゆるホラーではない。確かに本書には若干の怪異現象も登場する。それもまた、本書を構成する重要な要素だ。だが、どちらかと言えば本書は主人公デヴィンの青春を描くことに重きが置かれている。つまり、じわじわと読者の恐怖感を高めなくてもよい。そのため伏線も読者の恐怖をかき立てる必要もない。それも本書が短めになっている理由の一つだと思う。

主人公のデヴィンは大学生。時代は1973年。舞台はノースカロライナ州の海沿いの遊戯施設ジョイランドとその周辺だ。

大学生の夏を3カ月のバイトで埋めようと思ったデヴィンは、ジョイランドに来て早々、付き合っていた彼女ウェンディと別れてしまう。失恋の痛みを仕事で発散しようとしたデヴィンは、ジョイランドでのあらゆる仕事に熱意を持って取り組む。コーヒーカップや観覧車の操作。もぎりや屋台販売。着ぐるみに入って子供達との触れ合い。危うく窒息しかけた子供を救った事で新聞にも載る。デヴィンがジョイランドに雇われた時、ディーン氏にこう言われる。
「客には笑顔で帰ってもらわなくちゃならない」
ジョイランドは客だけでなく、従業員をも笑顔にする。そこに本書の特色がある。

著者はこういうカウンティー・フェア(郡の祭り)や遊戯施設をよく小説に登場させる。このような施設は読者に恐怖を与える絶好の舞台だ。小説の効果のためもあるが、それだけではない。多分、著者もこういった施設が好きなのではないか。そして好きだからこそ、ホラー効果をところ演出するのに絶好の舞台と登場させるのだろう。ところが本書に登場するジョイランドからはホラー要素がほぼ取り除かれている。その代わりに著者は古き良き遊戯施設としてジョイランドを描く。客だけでなく従業員をも笑顔にする場所として。今までに発表された著者の作品で、遊戯施設は何度も登場している。だが、本書ほどに喜ばしい場所として遊戯施設を描いたことはなかったはずだ。

ただし、一カ所だけジョイランドはホラーを引きずっている。それはかつて屋内施設で起きた殺人事件だ。そしてその施設では殺人事件の被害者が幽霊となって登場するうわさがある。今までの著者の作品であれば、ここからホラーの世界に読者をぐいぐいと引っ張ってゆくはず。ところが本書はホラーではない。その設定は本書を違う方向へと導いてゆく。

本書がホラーではない証拠が一つある。それは、幽霊とそれに伴う怪異が主人公デヴィンの前に現れないことだ。しかしジョイランドでデヴィンの終生の友となるトムは幽霊を目撃する。それなのに主人公デヴィンの前に幽霊が現れない。それは主人公の目を通して直接読者に怪異を見せないことを意味する。ホラーを直接に見せず間接に表現することで、著者は本書がホラーではないことをほのめかしている。その代わりに読者には謎だけが提示されるのだ。つまりミステリー。近年の著者はホラーからミステリーへと軸足を移しつつあるが、本書はその転換期の一冊として挙げられると思う。

デヴィンは結局、3カ月の勤務期間を大幅に延長してジョイランドにとどまり続ける。それは失恋の痛みを忘れるためだけではなく、デヴィン自身がジョイランドの中で何かをつかみ取るためだ。デヴィンが何かをつかみ取るのはジョイランドの中だけではない。ジョイランドの外でもそう。その何かとはアニーとマイクのロス親子だ。

車椅子生活を余儀なくされ、余命もあまりないマイクと心を通わせたデヴィンは、彼のため、ジョイランドを貸し切りにするプレゼントを企画する。

ロス親子との交流はデヴィンをさまざまなものから解き放つ。失恋、青春時代、ジョイランド。そしてホラーハウスにまつわるミステリー。さらにはアニーやマイクとの交流。最後の40ページで、デヴィンは一気に解き放たれる。その急転直下の展開は著者ならではの開放感を読者に与える。

青年が大人になってゆく瞬間。その瞬間は誰もが持っているはず。だが、それを描くことは簡単ではない。そしてそこを本書のように鮮やかに描くところに、著者の巨匠たるゆえんがあるのだ。

マイクとデヴィンが揚げた凧が空の彼方へ消えてゆくラストシーン。それは、本書の余韻としていつまでも残る名シーンだ。地上に青年期を残し、新たな人生へのステージへと昇ってゆく凧。それは著者が示した極上の青春小説である本書を象徴するシーンだ。そして、著者が示した新たな作風の象徴でもある。本書は著者の小説を読んだことのない方にもお勧めできる一作だ。

‘2017/04/08-2017/04/09


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


美女と竹林


滝が好きな長井氏は竹林は好きじゃない。けれども、竹林の幽玄な感じには惹かれる。竹それ自体にはそれほど惹かれないのに。でも、滝を好む長井氏は「たけ」と「たき」という一文字の違いに親近感を感じる。気がつけばいつの間にやら滝から竹の愛好家に宗旨替えし、何食わぬ顔で竹林の魅力を語り始めるかもしれない。

きっと長井氏は本書の中で登美彦氏が幾度も訪れる洛西、桂の竹林には行ったことがないはずだ。でも、嵯峨野々宮神社の竹の小径などには惹かれるらしい。同じ京都だから、野々宮神社の竹も本書に登場する鍵屋家の竹も似たようなものだろう。で、行ったら行ったでコロっとその魅力にとり付かれるのだ。そして竹林に分け入っては本書の登美彦氏や明石氏のようにあり余る余暇をのこぎりを振り回すことで費やすに違いない。なんといっても長井氏の良いところは常にアンテナ全開、他人からの感化も辞さないことにあるのだから。

長井氏はいわゆる雇われ人ではない。零細ながらも会社を持っているし、法人化する前は個人で事業を9年の長きにわたり営んでいる。仕事をよそ様から恵んでいただく立場だ。そしていったん仕事を請けるとそちらを優先するしかない。そんなところも登美彦氏のなりわいに相通ずるものがある。なので、長井氏には登美彦氏が竹に惹かれる気持ちがとてもよくわかる。そして登美彦氏が竹伐採をしたくてもできない多忙の理由も理解できるのだ。要するに長井氏は、本書に書かれた登美彦氏の竹をめぐる日々を読み、とても共感してしまったのだ。

登美彦氏は作家としての己に限界を予感し、作家も多角化経営すべし、と竹林経営に舵を切る。多角化経営。それは、若者を惑わす危険なまたたび。

登美彦氏がその誘惑にふらふらと揺られたように、長井氏も若かりしころ、その陥穽に落ちた。だが違うのは職種だ。登美彦氏は竹林経営を文章に起こせばそれが日々の糧として報われる。長井氏の場合、いくら滝で己を清冽に磨きたてようが何もない。成果をブログを書いたところで登美彦氏のように報われない。登美彦氏がモリミ・バンブー・カンパニーを立ち上げたように、竹をネタに商いを営めないのが情報屋の宿命だ。長井氏の営みの中で滝や竹のビッグデータを集めてみても、誰も見向きもしないだろう。せいぜいがオ「タク」的な感性と「タカ」望みの欲望と満たすため、指にキーボード「タコ」を作るくらいが関の山。無理やり結びつけてみても「タキ」にも「タケ」にも無縁なのがつらい。

長井氏は悟る。そしてうらやむ。登美彦氏の作家としての宇宙の広がりを。竹への探究心を竹林経営に結びつけられるだけのことはある、農学部で竹を研究したその素養を。何よりも無理やり文章を紡ぎだせる文才を。日々の営みを客観的に登美彦氏の営みとして書きかえられる視野の広さを。それらは長井氏にとってとうてい及ばぬ高みだ。

長井氏も本稿のようなレビューをあれこれ書いている。が、まだまだだ。でも長井氏は思うのだ。己が登美彦氏にたどり着けるとすれば、己の好奇心と無鉄砲さではないか。それを突破口とすれば、なんとかなるのではないか、と。竹林で薮蚊と戦い、竹をぶった切り、たけのこを掘る行いに楽しみを見いだせる心のありよう。それは長井氏だって似たり寄ったりなのでは。そんなかすかな望みを頼りに、長井氏は今日も仕事と文章を書くことに精を出す。いつの日か桂の竹林を訪れんと決意しつつ。

‘2017/04/03-2017/04/03


塩の街


著者のデビュー作ともいえる本書をようやく読む。「海の底」「空の中」と本書を合わせて自衛隊三部作というらしい。

「海の底」「空の中」と同じく、本書も災厄に遭う人間を描いている。本書で人類を襲う災厄とは、流星群から落下した塩の結晶。巨大な塩の結晶は、人間を塩に変えてしまう。それは、旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの逸話を思い出させる。神によって滅ぼされたソドムとゴモラから逃げるロトの妻は、振り返ってはいけないという教えをやぶって振り返ったために塩の柱とされてしまう。本書134ページで入江が語るのもこのエピソードだ。つまり、著者は明らかに旧約聖書のエピソードを意識して本書を書いたことが分かる。だが、たとえ旧約聖書からの閃きがあったにせよ、滅びのイメージと塩を結びつけたのは著者の慧眼だと思う。

本書は、無人の街を一人行く遼一の姿で始まる。塩に侵され廃虚と化した街並み。徐々に遼一の前に広がる景色の異様さが描かれてゆく。ところどころに屹立する白い結晶。塩の柱。白く染まった町並みに人はほとんどいない。

著者は災厄が世界を襲った半年後からを書く。人が塩と化し、混乱と破壊が街を襲った瞬間を直接書くことはしない。なぜなら本書はパニック小説ではないからだ。普通、パニック小説は人間の弱さに焦点が当てられる。天災や外敵の猛威の中、なすすべもない人間の弱さ。そこに文明に驕る人類の弱さを教訓と当てはめる演出がパニックものによくある。だが、著者はパニックの瞬間を書かない。パニックのさ中の破壊や崩壊による轟音は書かず、壊れるべきものが壊れた後の静寂を書く。パニックが一息ついた後、人の言動に表れるのは弱さよりも脆さ。著者が本書で書こうとしているのはその弱さだ。そしてその脆さとは、塩の結晶の脆さに結びついている。そこに本書の注目すべき点がある。

人類と人類の作り上げた文明の脆さ。インフラが断絶し、あらゆる社会機能が崩壊した社会に林立する塩の柱。脆さを塩のイメージに置き換える想像力こそ本書の肝だと思う。

そして塩にはもう一つの意味がある。それは浄化だ。保存食に塩を揉み込み、盛り塩をして邪気を祓う。古き時代より受け継がれてきた知恵は、塩を浄化の象徴に祭り上げた。

普通、有機物である人体が死ねば即、腐敗が始まる。細菌や虫、野生動物などあらゆる生物が人体を分解しにかかる。腐敗と崩壊が穢れた色で彩られてゆく。その様子は決して気持ちのよいものではない。だが、塩の結晶と化した人間はそのような醜さからは無縁の存在としてあり続ける。遼一が海に帰そうと群馬から持って来た海月の首もそう。それはもはや美にも等しい白く清浄な塩の像だ。醜さとは対極の姿のまま、母なる海へ同化して返ってゆく。そんな遼一と海月の挿話で始まる本書はとても美しい。そんな遼一を世話し、望みをかなえてやろうとする真奈と秋庭の二人の心のあり方もまた美しい。

著者は本書で人間を醜さよりも脆さで扱おうとする。その象徴がScene 2に登場するトモヤだ。塩害に罹って自暴自棄になった彼は、登場するなり本書のヒロインである真奈を犯そうとする。だが、自らの醜さを貫けぬまま秋庭にひねり上げられてしまう。トモヤは自分の人生を悔やみ、許しを請いながら白い結晶と化す。醜さが醜さのまま保ち得ず、脆さに入れ替わってしまうのだ。

そんな本書の世界観は、Scene 3の後に訪れるインターミッションを境に変化する。秋庭と真奈の元に訪れてきた入江。彼の精緻な頭脳とそこから生まれる冷酷な論理。入江の思惑に巻き込まれる秋庭と、真奈の秋庭への愛。二人の男女に訪れる相克が本書の後半を占めるテーマだ。そこにはScene 1と2に見られた人類の脆さはない。むしろ入江に象徴される強さこそが正義。そんな新たな価値観が持ち込まれたようにも受け取れる。醜さすら見え隠れする入江の傲岸さと、真奈のいちずな思い。どちらが最後に勝つのか。著者はぐいぐいと本書を結末へと導いてゆく。

そして本書の色合いが変わったタイミングで、航空自衛隊のエースパイロットとしての秋庭の素性がさらけ出され、一気に本書の筋は剣呑な方向に突き進む。前半とは打って変わったこの展開は、筋書きを優先したものだ。読者によってはその変化に戸惑う方もいることだろう。前半は白や塩のイメージが本書の背後にとても深い懐を感じさせていた。それなのに、後半ではその深みが消え去ってしまうからだ。確かに真奈の秋庭を思う真情は気高く純粋だ。だが、世界なんかどうなってもいい。あの人が無事だったらほかには何も要らない。そんな真奈の思いは独善に通じる。そこから人間の醜さへはあと一歩だ。そして秋庭の活躍で文明はかろうじて滅びをまぬがれ、再建への一歩を記す。つまり物語の先に慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会を予感させるのだ。

結局のところ、脆さと醜さの間を行き来しながら存在し続けるのが人類。それが著者の結論なのだろうか。さまざまに余韻を残す結末だ。

本書はいったん幕を閉じる。本書の残りは、秋庭と真奈をめぐる周囲の人物の挿話が収められている。ルポライターを志望するノブオは、秋庭と真奈の旅にしばらく同行する。そして二人の関係や災厄に襲われた世界のあり方を見聞きする。当初は浅い功名心でこの事実を報道するつもりが、心でこの災厄を受け止めてゆく。そんな少年の成長が描かれる話だ。また、続いての挿話は自衛官の由美と正の夫妻が書かれる。この夫妻は本編でも重要人物として登場する。塩の災厄を通じて恋人から夫婦へと絆を固める二人。二人のあり方からは夫婦のあり方の微妙なバランスと、なぜ恋人ではなく夫婦なのかを考えさせられる。男女の心の通い方を描かせれば著者の筆は勢いを帯びる。続いて登場する一編は、入江が塩の災厄で独断で行った処置についての手痛いしっぺ返しだ。入江はその独特なキャラで本書に重要な役割を果たす。が、本編では彼の心の奥底がさらされる。ここで書かれるのは個人の内面だ。あとがきでも著者は一番入江を書くのが難しかったと書いていた。最後の一編では家族のあり方が書かれる。長年確執のあった秋庭と父。その和解が語られ、そして真奈の中には秋庭の子が宿る。胎児は慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会とは対極にある存在だ。脆くて清浄な塩のような存在。その存在が真奈の中に宿ったことも著者のメッセージの一つだろう。

最後の四編は言ってみれば本書の筋を囲む周りの話でしかない。本書に登場する人物達をよく知る上では確かに必要だが、あまり本編とは関わりはない。だが、著者のその後の著作を読むと、最後の四編の中に著者のテーマの多くが現れていることに気づく。四編はあとから書き足された話とはいえ著者はデビュー時点でそれらのテーマを扱うことに決めていたのだろうか。私にはわからない。だが、デビューとそれに続く作品に著者のテーマが登場しているのは、著者の作品を読むうえでヒントになる。

‘2017/04/01-2017/04/02


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。http://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


つつましい英雄


著者がノーベル文学賞を受賞したこと。それは、以前から著者の作品に親しんでいた私にも喜ばしいニュースだった。なぜなら著者の作品が邦訳される機会が増すから。本書は著者が文学賞を受賞してから最初の作品だそうだ。すぐに翻訳され、このように読めることがうれしくてしょうがない。

ノーベル文学賞といえば高尚なイメージがついて回る。それを意識したからだろうか、本書は読みやすく仕立て上げられている。たぶん受賞作家について回る難解なイメージを覆すためにも本書ぐらい分かりやすい方がいいのだろう。そのため、私が読んだ著者の作品の中では本書は楽に読める部類だ。

もちろん、著者の独特の癖は本書でも健在だ。文中の展開を無視するかのようにいきなり会話が挟み込まれる。その会話は地の文で展開されているのとは関係ない、他の時間、別の場所でやりとりされたものだ。だが、唐突に現れる登場人物のセリフがその箇所の展開を補足し、読者が本筋を理解する助けとなる。著者のその癖は慣れていない読者だと面食らうだろう。が、慣れてくると本筋の理解に欠かせないことに気づいてくる。

でも著者の作品を読んだことがない方にとって戸惑うことがあるとすればその点くらいだ。他の点はとても読みやすいはずだ。

本書では二つの話が並行して語られる。

一つはフェリシト・ヤナケの物語だ。彼はペルーの北西部に位置するピウラでナリアウラ運送会社を経営している。ある日、マフィアらしき組織からみかじめ料を要求される。だが彼はその要求をきっぱりとはね付ける。彼が父から教わったこと。それは、男はこの世で誰にも踏みつけにされてはならないこと。彼は父から教わった遺訓に従い、マフィアからの踏みつけをきっぱりと断ったのだ。

フェリシトはミゲルとティブルシオという二人の息子に会社の後継者としての教育を施しながら、妻のヘルトゥルディスとは愛のない結婚生活を続けており、愛人のマベルと過ごす一時の情事に慰めを見いだす人物だ。

フェリシトはマフィアからの脅しに対し、真っ先にピウラの警察署に相談に行く。そこでフェリシトを応対したのがリトゥーマ軍曹。著者の作品に頻繁に登場する人物だ。これは著者のファンへの贈り物なのだろう。

そして本書で語られるもう一つの話。そこでも著者のファンへのサービスが惜しげなく振る舞われる。こちらの主役はドン・リゴベルト。そしてリゴベルトの傍には妻のルクレシアと息子のフォンチートがいる。この三人は「継母礼賛」「ドン・リゴベルトの手帖」でお馴染みの家族だ。その二作品では彼らはエロチシズムとフェティシズムの怪しくも艶やかな世界を見せてくれた。だが本書ではそのような精神性やスノビズムとは無縁の登場人物として描かれる。

それどころか、本書のドン・リゴベルトは世俗のあれこれに振り回される普通の人物だ。ドン・リゴベルトは長い間勤めた保険会社を退職する決意を固める。保険会社のオーナー、イスマエルとは上司と部下の関係を超えた友情で結ばれている。だが、かねてからの憧れていた芸術と精神性に満ちた世界の中で余生を過ごそうと決めたのだ。そんなリゴベルトに老齢のイスマエルは再婚の意思を告げる。前妻をなくしてから長らくやもめ暮らしを過ごしていたイスマエルだが、前妻の間に作った二人の息子が道楽息子に堕ちてしまい、彼らの露骨な遺産狙いに辟易した対応として、老いらくの恋として屋敷のメイドを妻に迎えたのだ。そしてそのままハネムーンと称してヨーロッパに旅立ってしまう。後始末を腹心のリゴベルトに託して。

その仕打ちに激高した息子たちは、会社の後を託されたリゴベルトに向かって父の結婚の無効を訴え、遺産を譲渡させるためのあらゆる嫌がらせを仕掛ける。もはやリゴベルトの望む精神性はかけらもないままの俗にまみれた下世話な話が飛び交う。しかもそれに追い打ちを掛けるように息子フォンチートに異変が生じる。フォンチートの周りに夢かうつつかは分からず、フォンチートの心が生み出したのかはわからないが謎の人物が見え隠れする。フォンチートの言動に振り回された夫妻は、息子の正気を信じられなくなり、それがリゴベルトをさらに弱らせる。

本書ではこの二つのエピソードが交互に描かれる。ところが、リゴベルトの表われるエピソードは全てペルーの首都リマでの話だ。一方、フェリシトのエピソードはペルーの北西部ピウラの話だ。二つの場所は距離にして約千キロ離れている。つまり全く接点がない話が交互に続くのだ。

果たして、お互いの話はどのように関わっていくのだろうか、という興味が読者を引っ張る。果たしてどうなってゆくのか。それを思わせるヒントが本書の扉に記されている。
 「人間のすばらしき本分は、迷宮と一筋の糸があると想像することである。」
これはホルヘ・ルイス・ボルヘスの「寓話の糸」の一文だ。それを頼りに本書を読み直し、お互いの話を結び付ける一筋の糸を探してみると面白いかもしれない。

本書に描かれた二つの話が、どう絡み合っているか。それは訳者が解説を加えていてくれている。そこで知ったのだがマフィアに脅されて屈しないフェリシトには実在のモデルがいるらしい。著者が本書について語った言葉によると、フェリシトの姿を通して社会とは彼のような「つつましい英雄」によって支えられていることを書きたかったそうだ。では、リゴベルトは本書で何を象徴しているのだろうか。おそらくは、彼が志向する精神性や芸術性に満ちた生活もフェリシトのような「つつましい英雄」たちが作り上げる社会の上にあること。彼らのような無名の英雄が動かす土台があってこそ、を意図しているのではないだろうか。それは、ノーベル文学賞を受賞した著者が自らを戒める意図もあるはずだ。著者の謙虚な姿勢をよしとしなければならないだろう。

それと併せて、本書は今のペルーを知る上で興味深い一冊だと思う。

‘2017/03/18-2017/03/29


モナドの領域


本書の帯にはこう書かれている。「我が最高傑作にしておそらく最後の長編」

本書が著者の最高傑作かどうかは、書き手と読み手の主観の問題だ。私にとって著者の傑作短篇はいくつも脳裏に浮かぶ。が、長編の最高傑作と言われてもすぐには選べない。だが一つだけ確かにいえるのは、本書が著者の思索の到達点であることだ。

作品の舞台を全くの異世界に置き、異世界を訪れた人類が認識のギャップに右往左往する様を描いたSF的手法から始まった著者の作家生活。著者の文学的冒険は、読み手と書き手の世界を客観的に描写するメタ手法へと進む。さらに認識や現象の本質に迫る哲学的な作品まで。著者の扱うテーマはどんどんと進化を遂げてきた。

そして本書だ。

本書で著者は、あらゆる存在の創造主を登場させる。地球や地球の属する宇宙よりもさらに上のレベルの枠組みを創造した存在。人間が思い浮かべる神よりももっと先の超越した「それ」。「それ」が本書に出てくる創造者だ。

ある目的があって人間の体を借りた創造者は、人々の過去や正体をこともなげに当ててゆく。おりしも、街には片腕と片足だけが突如現れる事件が起こり、物騒な雰囲気が漂っている。創造者はあえて自分を公衆の目に晒す。創造主の目的は、本稿では書かない。だが、本書を掌る役目なのは創造者だ。そして創造者は著者の分身となって物語を自在に進行させる。

本書で圧巻なのは創造者と人々の対話シーンだろう。いや、対話とは言いすぎか。人々と創造者が対等なはずがないからだ。そのシーンでは人々が創造者に問い掛け、創造者がそれに答える。その様子は師と弟子の問答のよう。人々が創造者に問いたいことは様々だ。検事が、クリスチャンが、哲学者が、サラリーマンが、弁護士が、科学評論家が、経営者が、政治評論家が、それぞれの悩みを創造者に問う。

彼らの問いは、彼ら自身にとっては切実なものだ。創造者はそれらの問いを造作なくさばいてゆく。創造者にとっては取るに足りない問いといわんばかりに。多分、82歳の著者にとってもそれらの問いの多くは取るに足りないものなのだと思う。そして、本書に登場する問いからは、著者の関心分野も読み取れて興味深い。ちなみに問いの中には宗教間の争いも、科学技術の行く末や、環境問題の解決法についても登場する。ところが、国際政治、特に日中韓の関係について問いかけようとする人物はいるが、その質問者はすぐに退場させられる。本書で取り上げられる他の問題に比べれば、国と国の間の関係はあまり大したことではない、という著者の考えが垣間見える。国際政治に関する著者のスタンスがうかがえて興味深い。

さらに本書を読んで感じたのは集合知の未熟だ。本書を読んでいると、ITがもたらしたはずの集合知が人々の切実な問いに答えられない事実を痛感する。知恵袋やOK waveといったQAサイトはあるが、それらのサイト内で人々の悩みに答えるのは他の回答者。つまり人力だ。哲学的な問題や科学技術の問題もそう。ITがそれらの問題に回答できる日が来るのはいつの日だろうか。今のITに期待される知恵とは、ビッグデータの集積から導き出される人工知能による回答をさす。だが、今のITに蓄積されつつある集合知とは、人間の知恵の延長線上にある。つまり今の段階ではITは神にはなり得ていないのだ。

そして著者はSF的な設定手法を本書に持ち込みつつも、技術論や科学論の袋小路に入り込んむ過ちを犯さない。しかもそれでいて難解な人間存在のあり方について分かりやすく説く。SFにはこういうアプローチもあるのだと感心させられた。

思索の内容といい、アプローチの手法といい、本書は著者の思索の到達点だ。その思索の成果を創造者の口を借りて語ったのが本書だ。だからこそ、著者をして最高傑作と言わせたのだろう。私も本書を著者の代表作の一つに推したい。ただ著者のファンとしては、ここまでの高みに登ってからの作家活動が気になる。可能ならばあと一編は著者の長編を読みたいものだ。そんな願いを抱きつつ、著者のブログ「偽文士日録」をチェックしよう。

‘2017/03/17-2017/03/17


悟浄出立


本書によって著者は正統な作家の仲間入りを果たしたのではないか。

のっけからこう書いたはよいが、正統な作家とは曖昧な呼び方だ。そして誤解を招きかねない。何をもって正統な作家と呼べばよいのか。そもそも正統な作家など存在するのか。正当な作家とは、あえていうなら奇をてらわない小説を書く作家とでもいえばよいかもしれない。では本書はどうなのか、といえばまさに奇をてらわない小説なのだ。そう言って差し支えないほど本書の語り口や筋書きには正統な一本の芯が通っている。

今まで私は著者が世に問うてきた著作のほとんど読んできた。そして作品ごとに凝らされた奇想天外なプロットに親しんできた。その奇想は著者の作風である。そして私が著者の新作に期待する理由でもある。ところが本書の内容はいたって正統だ。それは私を落胆させるどころか驚かせ、そして喜ばせた。

文体には今までの著者の作風がにじんでいる。だが、その文体から紡ぎだされる物語は簡潔であり、起承転結の形を備えている。驚くほど真っ当な内容だ。そして正統な歴史小説や時代小説作家が書くような品格に満ちている。例えば井上靖のような。または中島敦のような。

著者の持ち味を損なわず、本書のような作品を生み出したことを、著者の新たなステージとして喜びたいと思う。

本書に収められた五編は、いずれも中国の古典小説や故事に題材を採っている。「悟浄出立」は西遊記。「趙雲西行」は三国志演義。「虞姫寂静」は史記の項羽伝。「法家孤憤」は史記に収められた荊軻の挿話。「父司馬遷」は司馬遷の挿話。

それぞれは単に有名小説を範としただけの内容ではない。著者による独自の解釈と、そこに由来する独自の翻案が施されている。それらは本書に優れた短編小説から読者が得られる人生の糧を与えている。

「悟浄出立」は沙悟浄の視点で描かれる。沙悟浄は知っての通り河童の妖怪だ。三蔵法師を師父と崇め、孫悟空と猪八戒と共に天竺へと旅している。活発で短気だが滅法強い孫悟空に、対極的な怠け癖を持つ猪八戒。個性的な二人の間で沙悟浄は傍観者の立場を堅持し、目立たぬ従者のように個性の薄い妖怪であることを意識している。ただ従者としてついて歩くだけの存在。そのことを自覚しているがそれを積極的に直そうともしない。

そんな沙悟浄は、怠け癖の極致にある猪八戒がかつて無敵の天蓬元帥として尊敬されていたことを知る。なにが彼をそこまで堕落させたのか。沙悟浄は問わず語りに猪八戒から聞き出してみる。それに対して猪八戒から返ってきた答えが沙悟浄に自覚をもたらす。猪八戒はかつて天蓬元帥だった頃、天神地仙とは完成された存在であることを当たり前と思い込んでいた。ところが過ちがもとで天から追放された人間界では、すでに完成されていることではなく、完成に至るまでの過程に尊さがあることを知る。猪八戒の怠け癖やぐうたらな態度も全ては過程を存分に味わうための姿。

そんな猪八戒の人生観に感化された沙悟浄は、自ら進んで完成までの経過を歩みたいと思う。そして従者であることをやめ、一団を先導する一歩を踏み出す。それはまさに「出立」である。

「趙雲西航」は、趙雲が主人公だ。趙雲といえば三国志の蜀の五虎将軍の一人としてあまりにも有名だ。蜀を建国したのは劉備。だが、劉備率いる軍勢は魏の曹操や呉の孫権と比べて基盤が未熟で国力も定まっていない流浪の時期が長かった。劉備玄徳の人徳の下、関羽や張飛と共に各地を転戦する中、諸葛亮孔明という稀有の人物を軍師に迎え、運が開ける。諸葛亮の献策により、劉備の軍勢は蜀の地に活路を見いだす。本編は蜀へと向かって長江を遡上する舟の上が舞台だ。

慣れぬ舟の上で船酔いに苦しむ趙雲は、自らの心が晴れぬことを気にしていた。それは間も無く50に手が届く自らの年齢によるものか、それとも心が弱くなったからか。冷静沈着を旨とする趙雲子龍の心からは迷いが去らない。

先行していた諸葛亮孔明より招きを受け、陸に上がった趙雲は、陸に上がったにもかかわらず、気が一向に晴れない心をいぶかしく思う。なぜなのか。理由は模糊としてつかみ取れない。

そんな趙雲の心の曇りが晴れるきっかけは、諸葛亮孔明が発した言葉によって得られた。諸葛亮が言外ににおわせたそれは、郷愁。趙雲は中原でも北東にある沛県の出身だ。そこから各地を転戦し、今は中原でも真逆の南西にある蜀へ向かいつつある。名声はそれなりに得てきたが、逐電してきた故郷にはいまだ錦が飾れずにいる。それが今でも残念に思っていた。そしてこのまま蜀の地に向かうことは、故郷の母と永遠に別れることを意味する。天下に轟かせた自らの名声も、親不孝をなした自らの両親に届かなければ何の意味があろうか。そんな真面目な英雄の迷いと孝心からくる悔いが描かれる。これまた味わい深い一篇だ。私のような故郷から出てきた者にとってはなおさら。

「虞姫寂静」は、虞美人草の由来ともなった虞姫と項羽の関係を描いている。虞姫は項羽の寵愛を一身に受けていた。だが項羽は劉邦に敗れて形勢不利となり、ついには垓下において四面楚歌の故事で知られるとおり劉邦軍に包囲されてしまう。

自らの死期を悟った項羽は、虞姫を逃がすために暇を申しつける。項羽と共に最期を遂げたいと泣いて願う虞姫に対し、項羽は虞の名を召し上げる。そうすることで、虞姫を項羽の所有物でなくし、自由にしようとする。意味が解らず呆然とする彼女の前に表れたのは范賈。項羽の軍師として有名な范増の甥に当たる人物だ。そもそも虞姫を項羽に娶わせたのも范増だ。その甥の范賈が虞姫に対し、なぜ項羽がここまで虞姫を寵愛したのか理由を明かす。

その理由とは、虞姫が項羽の殺された正妃に瓜二つだったから。誰よりも項羽に愛されていた自らの驕りに恥じ入り、その愚かさに絶望する虞姫。やがて死地に赴こうとする項羽の前に再び現れた虞姫は渾身の舞を披露し、再び項羽から信頼と虞の名を取り戻すと、その場で自死し果てる。虞美人草の逸話の陰にこのような女の誇りが隠れていたなど、私は著者が詳らかにするまでは想像すらできなかった。これまた愛の業を堪能できる一篇だ。

「法家孤憤」は、荊軻の話だ。荊軻とは秦の始皇帝の暗殺に後一歩のところまで迫った男。燕の高官に短期間で上り詰め、正規の使者として始皇帝の下に近づく機会を得る。だが、後ほんのわずかなところで暗殺に失敗する。

だが、本編が主題とするのは暗殺失敗の様子ではない。しかも主人公は荊軻ですらない。荊軻と同じ読みを持つ京科が主人公だ。同じ読みであるため官吏の試験で一緒になった二人。しかも試験官の間違いから京科だけが官吏に受かってしまう。望みを絶たれた荊軻は京科に法家の竹簡を託すといずこともなく姿を消してしまう。

数年後、暗殺者として姿を現した荊軻は、始皇帝暗殺の挙に出る。そして失敗する。一方、荊軻より劣っていたはずの京科は官吏として実務経験を積み、今や秦が歩もうとする法治国家の担い手の一員だ。京科は、かつて己に法家の竹簡を託した荊軻は法家の徒ではなく、己こそが正統な法家の徒であることを宣言する。

歴史とはその時代を生きた人の織りなすドラマだ。そこに主義を実現するための手段の優劣はなく、個人と組織の相克もない。そこにあるのは、歴史が後世の読者に諭す人として生きる道の複雑さと滋味だけだ。

「父司馬遷」。これは末尾を飾る一編である。そして印象的な一編だ。あえて漢の武帝に逆らい、匈奴に囚われの身となった友人の李陵をかばったことで宮刑に処された司馬遷。宮刑とは、宦官と同じく男を男でなくする刑だ。腐刑ともいわれ、当時の男子にとっては死にも勝る屈辱だった。本編の主人公は司馬遷の娘だ。兄たちや母が宮刑を受けた父から遠ざかる中、彼女は父に近づく。そして生きる意味を失いかけていた父に対して「士は、己を知る者のため、死す」と啖呵を切る。娘から投げられた厳しい言葉は、司馬遷を絶望から救いだす。今なお中国の史書として不朽の名声を得ている史記が知られるようになったきっかけは、司馬遷の娘の子供が当時の帝に祖父の遺した書を伝えてことによるという。

娘が父の心を救う。それは封建的な考えが支配的だった当時では考えにくい。だが、それをあえて成し、父の心を奮い立たせた娘の行いこそ父を思いやる強さがある。そんなことを味わいながら読みたい一編だ。

五編のどれもが正統で味わい深い。まさに本書は著者にとって転機となる一冊だと思う。

‘2017/03/16-2017/03/16


異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


EXCELを使っていて、誰もが一度は遭遇したことがある #DIV/0エラー。セルの関数式で、ある数または関数の結果が0で割られた際に出現するエラーだ。0で割ると正常な結果を得られない。これはEXCELでもどうしようもない仕様だ。もちろんバグではない。数を0で割ることは高等数学でもできないのだから。本書の第0章では、米国軍艦ヨークタウンがプログラム内に潜んでいた0で割るバグによって止まってしまったエピソードも紹介される。

本書はこの0に焦点をあて、人類が0を使いこなそうと努力して来た歴史がつづられる。

第1章は古代バビロニアからエジプト、ギリシャ、ローマ、マヤの諸文明の0の扱いをみていく。そしてもちろんそれらの文明は0を知らぬ文明だった。数を数えたり、暦を作ったり、面積を調べる上で、数があることが前提だから当然だ。数がないという概念を数体系に含める必要はなかったのだから無理もない。実務に不要な0はこれら文明では顧みられなかった。逆にマヤ文明に0の概念があったことのほうがすごい。

第2章では、ギリシャに焦点が当てられる。そこでは0に迫ろうとする者たちが現れるからだ。その者の名はゼノン。彼によるアキレスと亀のパラドックスだ。亀の歩みにアキレスは永遠に追いつけないというアレだ。あのパラドックスが0の概念を如実に表していること、それを私は本書で知った。つまりこのころすでに無限に小さな数として0は発明されていたかもしれないのだ。だが、そのチャンスはアリストテレスがゼロを退けたことで一千年以上遠ざかる。なぜ彼の学説がそれほど長く用いられたか。それは彼の学説が神の存在証明に有用だったからに他ならない。

アリストテレスは0を忌避すると同時に無限の証明も拒否した。無限とは外側の数だ。地球は不動である事は当時の常識だった。では何が天体を動かすのか。それはさらに外の天体が動かすからに違いない。ではその外の天体は、さらに別の天体によって動かされている。ではその天体を動かすのは、、、と考えて行くと最終的に仕組み全体を動かす存在が求められる。アリストテレスはそれを神となぞらえた。神とは人知を超えるところにあるから神なのだ。0も無限も。

その考えはのちにキリスト教会によって布教に取り入れられる。神の存在が信仰の前提であるキリスト教会にとっては、アリストレテスの考えは金科玉条とすべきものだったのだろう。そのため、神の存在を証明するアリストテレスの学説が長きにわたり西洋世界を覆い続ける。

西洋にとっては不運とでも言おうか。0がなくてもギリシャは繁栄し、ローマは版図を広げてしまったのだから。さらに0にとっては不運なことにローマ崩壊後、神の存在が広く求められる。アリストレテスの神学を受け継いだキリスト教の繁栄だ。0を忌避したアリストレテスの神学は、西洋から0の存在する余地を奪い去ってしまう。その結果が西洋にとっての暗黒期だ。

本書を読んでいて気づくのは、数学の発展と文明の発展が対になっていることだ。あたかも寄り添い合う双子のように。そしてローマ崩壊後の西洋は暗黒期に突入し、東洋は逆に発展してゆく。その事実が対の関係を如実に表す。

足踏みを続ける西洋を尻目に0は東洋で産声を上げる。インドで。

0123456789。これらをいわゆるアラビア数字と呼ぶ。でも、実はこれらの数字はインドで産まれたのだ。インド生まれの数字が、なぜアラビア数字と呼ばれるようになったのか。この由来にも文明の伝播と数学の伝播が重なっていて興味深い。当時の西洋は、イスラム教とともにやって来たアラブ商人が席巻していた。アラブ商人が商売を行う上で0はすこぶる便利な数だったのだ。そして当時のイスラム社会は数学でも世界最先端を行っていた。アルゴリズムという言葉の語源は、当時のイスラム世界の大数学者アル=フワリズミの名前に由来することなど興味深い記述がたくさん出てくる。

そして、この時期に1を0で割ると無限大になる無限の観念が西洋に伝わる。いまや旧弊となった神の理論に徐々にほころびが見え始める。その結果、起こったのがルネサンスだ。ルネサンスと言えば後世のわれわれにはきらびやかな美術品の数々でその栄華の残照を知るのみ。だが、数学は美術の世界にも多大な影響を与えた。

例えばフィボナッチが発見したフィボナッチ数列は、黄金比率の確立に貢献した。また、ブルネレスキが見いだした消失点は、絵に奥行きを与えた。無限の彼方の一点に絵の焦点を凝縮させるこの考えは、無限の考えに基づいている。この辺りの事実も興奮して読める。

ルネサンスは教会の権威が揺らぐに連れ進展する。教会の権威に挑戦した皮切りはコペルニクスの地動説の証明だ。その後、数学者たちが次々に神の領域に挑んで行く。以後の本書は、数学者たちによる証明の喜びが中心となる。いまや神は発展を謳歌し始める数学と文明に置いていかれるのみ。

まずはデカルトとパスカル。デカルトによる座標の発明は、軸の交点である0の存在なしにはありえない。パスカルは真空の発見とともに確率論の祖として知られる。パスカルの賭けとは、神の存在確率を証明したものだ。だが、その論理を支えているのはパスカル本人による信仰しかない。すでに神が科学の前に劣勢であることは揺らがない。

ニュートンによる微積分の発見は、無限小と無限大が数式で表せるようになったことが革命的だ。そしてこれによって科学者たちの関心は神の存在証明から離れて行く。替わりに彼らが追い求めるのはゼロと無限だ。この二つは常に相対する双子の観念だ。しかし、その正体はなかなか姿を見せない。ニュートンの微分はそもそも無限小の二乗を無限に小さい数であるため0に等しいとみなしたことに突破口を見い出した。無限小を二乗したら0と扱い、なかったこととすることで、証明のわずかなほころびを繕ったのだという。それによって微分の考え方を確立したニュートンは、微分によってリンゴの落下から惑星の軌道まであらゆるものが数式で説明できることを示したのだ。その考え方は同時期に微積分を考案したライプニッツも表記法は違えど根本の解決は一緒だったらしい。ニュートンとライプニッツがともに抱えた根本の矛盾―0で割る矛盾や無限小を二乗すると0として扱うことも、無限小で割ってなかったことにすれば解消しうるのだと述べられている。

そしてこの辺りから私の理解は怪しくなってくる。二次関数グラフや曲線に対する接線など、かつて苦労させられた数学の魔物が私を襲う。ついには虚数や複素数がまでもが登場して私の苦手意識をうずかせる。複素平面、そして空間座標や球が登場するともうお手上げだ。

有理数と無理数の定義上、あらゆる数を覆えるほど小さい単位。それがゼロ。そのような定理は私の理解力に負えない。私には論理の飛躍とすら思えてしまう。

だが、それを発見してからの量子力学や物理学の世界はまさに0の概念から飛躍手に発展した。相対性理論やブラックホールなど、話は宇宙論に広がって行く。ひも理論や超弦理論、そしてビッグバンや宇宙定数、赤方偏移。それらは最新の宇宙論を学ぶ人には常識と言える概念だそうだ。それらはすべて無限とゼロの完全な理解の元に展開される理論なのだ。一つだけ私の腑に落ちたのは、あらゆる物質の基本要素をゼロ次元のゼロとしてしまうと、成り立たない理論がでるため、紐のような次元のあるもので物質を成り立たせる、それがひも理論という下りだ。といっても数式のレベルではまったく理解していないのだが。

本書は宇宙の終わりまで話を広げる。宇宙に終わりが来るのか。来るとすればそれはどんな終わりか。無限に広がり続け、やがて熱が冷めてゆくのか。宇宙はある一点で収縮へと転じ、収縮の果てにビッグバンの瞬間の膨大な熱に終わるのか。

本書の答えは前者だ。ゼロから生まれた宇宙は無限に広がり、冷たくなるゼロを迎えると結論を出している。本書は以下に挙げる一文で幕を閉じる。

宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ。

本書には付録として三つの証明がついている。
ウィンストン・チャーチルが人参であることの数学的証明。
黄金比の算出方法。
現代の導関数の定義。
カントール、有理数を数える
自家製ワームホールタイムマシンをつくろう

こうやって見ると数学とはかくも魅力的で学びがいのある学問に思える。そう思って数式を見た瞬間、私の意欲は萎えるのだ。普段プログラムロジックをいじくり回しているはずの私なのに。

‘2017/03/11-2017/03/15


被爆のマリア


本書のタイトルに惹かれた。なにしろ「被爆のマリア」だ。私が浦上天主堂で見つめたあの被爆のマリアを指しているに違いない。

2016年の秋、家族で訪れた長崎。その際、私は三度目の長崎訪問にして初めて浦上天主堂を訪れた。そこで礼拝堂の片隅に置かれていたのが頭部だけのマリア像だ。戦前は浦上の信者たちの信心を集めていたであろうマリア像。被爆したのち、廃虚の中に行方不明となってしまった。そして何十年たった後に数奇な運命の末、頭部だけが浦上天主堂へと戻された。

私は被爆のマリア像の存在を浦上天主堂を訪れるまで知らなかった。そして実物を目にして衝撃を受けた。マリア像の顔半分は焼け爛れ、目の嵌め込まれていた部分は虚ろな洞になっている。目がないマリア像の感情は茫洋として推し量れない。その呆然とした印象が、被爆を体験した身の瞬間の非現実さ物語っているよう。私の目を逸らさせない何かが被曝のマリア像には宿っていた。マリア像にくぎ付けになってしまった私は、視線を引きはがすのに苦労した。せめて写真を撮りたかったが、浦上天主堂の堂内は写真撮影ができない。なので絵はがきを買って帰った。

被爆のマリアは、被爆の語り部であることを放棄した浦上天主堂の遺構のほとんどが喪われた今、破壊され側溝に転んだままとなっている鐘楼とともに私の心に深い印象を与えた。浦上天主堂の訪問の前日、私は浦上天主堂が被爆遺構であることを放棄した経緯が記されたノンフィクション「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読んでいた。それだけに、被爆遺構のほとんどが喪われた浦上天主堂の中で出会った被爆のマリア像は私の心に刺さった。

実は、著者の作品を読むのは初めて。名前は知っていたが読む機会がないままだった。本書が初めての著者の作品でよかった。本当にそう思う。

本書は四編からなっている。「永遠の火」「時の川」「イワガミ」「被爆のマリア」の四編だ。

戦後に産まれた私たちがどうやって戦争体験と向き合うか。その課題は私の心の中でずっとくすぶっていた。それはある種の切実さをはらんでいた。

表題作「被曝のマリア」に登場する主人公”佐藤さん”は、高校の頃から原爆に関する本を読むのが好きだったとある。それはまさしく私のことだ。私も小学生の頃から原爆に関する本を読むのが好きな子供だった。

また「イワガミ」では作家の主人公”私”がヒロシマを題材に小説を書こうともがく。そして途方にくれる。その心情には心から共感できた。

冒頭の「永遠の火」ではイチローとの結婚を控えた”キャシー”が、原爆の火をキャンドルサービスの火に使えと提案する父に反抗し、なぜそんなものを今さら使わねばならないのか、と戦後世代の正直な気持ちをぶつける。私自身、平和な今を生きる身だ。歴史の中にあるものが、実生活に登場してきたら戸惑うに違いない。それが原爆の歴史を今に引きずるものであればなおさら。

それは「時の川」に登場する”タカオ”のように、私が子供のころに広島を訪れ、ミツコのような語り部から話を伺っていたとしてもそう思うはずだ。子供の頃の私は、たとえ原爆に興味を持っていたとしても語り部の話を今ほどの気持ちで受け止められなかったからだ。

多分、著者は正直な人だと思う。おそらく本書に収められた四編の主人公”キャシー”、”タカオ”、”私”、”佐藤さん”がヒロシマや被爆のマリアに対して抱く思い。それは著者の気持ちを投影しているはずだ。

私たちはついつい綺麗事や理想論でヒロシマやナガサキを見ようとしてしまう。それはそれで悪いことではない。だが、平和な戦後に生きるわれわれがいくら被曝の実情に迫ろうとしても、悲劇の上澄みしかすくえない。著者の素直な姿勢は、上澄みではない被曝の悲劇を何とかして今にすくい取り、描写しようと苦闘する。その過程で著者が被曝の投影対象として見すえたのが、原爆の火に戸惑いつつ伝える行為の意味を掴みかけようとする”キャシー”であり、語り部の中に自らの弱さと対照的な強さを見いだした”タカオ”の心であり、ヒロシマを被爆の一瞬ではなく過去から今に至る広島の時空の一つとして捉え直す”私”の試みであり、虐げられた日々の救いを被曝のマリアに託そうとする”佐藤さん”の思いだったのではないか。

原爆という題材は、作家自身の立場を誤解されかねない危険をはらんでいる。実際、著者の意図は誤解されなかったのだろうか。私はそれが不安だ。本書は著者のイデオロギーの主張でもなければ、立場の右左を問うものでもない。著者は人類のしでかした悪の究極、つまり原爆投下をより深く広い軸の中で解釈しようとする。広島や長崎が土地として成立してから今まで、いったいどれほどの時間が過ぎ去り、広大な空間の中に属してきたのだろうか。その悠久の次元の中では、原爆もまた些細な出来事に過ぎない。だが一方で原爆に被爆した体験は、当事者にとっては一生をかけて問い続ける真摯な歴史のはずだ。そのギャップを捉えようとして、文章に著そうとした著者の成果。それこそが本書のような気がする。

著者が本書で示したアプローチは、私に新たなヒロシマとナガサキ像を与えてくれた。

‘2017/03/09-2017/03/10


神のロジック・人間のマジック


実は著者の作品を読むのは初めてかもしれない。本書を読み終えてからそのことに気づいた。本書は文藝春秋の本格Mystery Mastersの中の一冊だ。本格Mystery Mastersといえば、そうそうたる作家が執筆陣にそろっている。私もシリーズに収められた作品はいくつか読んでいる。

本書を無理やりカテゴライズするとすれば孤島物になるだろうか。孤島物とは、閉ざされた空間ー人里離れた島や洋館などーで起こる事件を扱うミステリの一ジャンルだ。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」が有名だ。本作はどことも知れない広大な土地にポツンと建つ施設(ファシリティ)を舞台にしている。周りは建物どころか木や山も見えない平原。その中で集められた11、12歳前後の少年少女六人。主人公のマモルは日本の神戸出身。 それにハワード(ちゅうりつ)、ビル(けらい)、ステラ、ケイト(妃殿下)、ケネス(詩人)の五人の生徒で構成されている。ファシリティを運営するのは校長先生(プリンシパル)のシウォード博士と寮長(RA)のミスター・パーキンス。そして食事その他の日常の世話をするミズ・コットンの三名だ。

少年少女らは幾分大人びた話し方をする。彼らの日常は、授業と実習(ワークショップ)で埋められている。そして縛られてもいる。ワークショップとは二班に分かれて寮長から出される課題を解く実習だ。そのような単調な日々は、彼らの心に疑問を生む。一体何のためにこのような場所に集められたのか。その謎こそ本書の肝だ。さらに、彼らにとって気になるものはまだある。それはファシリティに潜むあるモノだ。その正体が何かについても気になる。たまに入って来る新入生は、その彼らが抱える謎をさらに深める。それだけでなく動揺すら与える。新入生の存在がファシリティに潜むあるモノを目覚めさせると悲劇がおこるというからだ。

そして本書はお約束どおりに悲劇が起こる。その辺りは推理小説の骨法にのっとっている。本書は道具立がシンプルだ。そして布石として効果的に配置されている。なので曖昧な舞台設定であっても、全てが解決した時に爽快感が感じられる。

本書は最近話題となっている「約束のネバーランド」に影響を与えているのではないか、と私には思える。本書は2003年の作品だし。「約束のネバーランド」の設定に本書のそれが感じられる。

本書の末尾には「疎外感とアメリカー西澤保彦論」という円堂都司昭氏による作家論が収められている。著者の作風を分析し本書の構造を描いた優れた書評だ。
・人物と世界の齟齬
・心理分析の多さとセクシュアリティへの関心
・ディスカッションによる推理
この三つを円堂氏は著者の作風として挙げている。さらに著者の作品には科学と宗教の相克がテーマとして取り上げられていると氏は指摘する。前者は個々を固定的に体系化する象徴、後者は認識の共有の象徴であると分析する。アメリカでは個々の体系化はアメリカン・ドリームに代表される個人主義となり、認識の共有は民主主義として現れる。そう著者は分析する。

そんなアメリカナイズされた著者の認識が、エッセンスとして作品になったのが本書だ。これについて私の意見も書きたいところだ。だがこれ以上書くと本書の核心に迫ってしまうかもしれない。それは本稿を読んでくださっている方の興覚めになりかねない。だからここらでやめておこう。

本書は著者にとっては会心作だったようだ。上に触れた円堂氏による論考の後、円堂氏が著者にインタビューしたやり取りが本書には収められている。そのやり取りの中で著者が会心作だと述べている。つまり実験精神と著者が小説で表したいアメリカ精神が表現されたのが本書なのだという。となれば他の作品も読んでみなければ、と思わされるではないか。

‘2017/03/04-2017/03/08


CO2と温暖化の正体


地球温暖化は人類の経済活動による現象なのか。それとも太陽と地球の位置関係によって引き起こされるのか。人類が今の消費型の経済活動をやめなければならないのはいつか。それともすでに手遅れなのか。それとは逆に、いや、地球は温暖化などしていない。地球は寒冷化しつつあるのだと主張する向きもある。さらには海洋が大気中の二酸化炭素を吸収してくれるため温暖化することはないとの説も聞こえてくる。地球温暖化に関する全ての懸念は杞憂だという意見も。

地球に住むの全人類の中で、上に書いたような温暖化の問題に日々関心を持つ方はどれぐらいいるのだろう。

先進国民(私を含んだ)は、大小の差はあれ今の快適な暮らしに慣れている。衣食住はあり余るほど満ち、文化への好奇心や自己実現の機会に事欠かない現代。その特権を失いたくないと思っている方がほとんどだろう。既得権益を守ろうとする思いが先鋭化するあまり「地球温暖化は嘘っぱちだ」と口走る米国トランプ大統領のような方もいる。

それとは真逆の方向に奔走する人もいる。国全体が海中に沈む危機に瀕している南洋の島国キリバスの状況を悲観的に解釈し、今の世界の大都市の多くもキリバスと同じように海に沈むと煽る方々だ。

地球温暖化の懸念が真実であるならば、本来なら人類全体で共有すべき喫緊の課題であるはず。なのに、それがイデオロギーの対立にすり替わっている現状。その状況にいらだつ人は私以外にもいるはずだ。いい加減、何が正しいのかを知りたい。何が起こっているのか。または、何が起ころうとしているのか。私たちにはいつまで時間が残されているのか。文明に慣れた今の先進国の暮らしは未来の人類からは非難されるのか。それとも全ては杞憂なのか。それを知りたい。そう思って手に取ったのが本書だ。

本書の著者の筆頭に名の挙がるウォレス・S・ブロッカー教授は、1950年代から地球温暖化の問題を研究するこの分野の泰斗だ。世界で始めて地球温暖化が起きていることを公式に報告した人物でもある。教授は地球の地理と歴史を総じて視野に入れ、この問題に取り組んで来た方だ。つまり本書に書かれる内容は、根拠なき自説を無責任に振りかざすような内容ではないはず。そう信じて本書を読んだ。

本書の著者として挙がっているのは二名。教授とロバート・クンジグ氏だ。そして実際に本書を執筆したのはロバート氏の方だという。ロバート氏はサイエンスライターが本業であり、その職能をフルに生かしている。では教授は何をしているのか。おそらく、本書の監修のような立場だと思われる。本書には教授の生い立ちから研究に携わるまでの生涯、そして研究の内容と成果が書かれている。それらの記載が正しいか監修する立場で著者に名前を連ねているのだろう。

本書の序盤はロバート氏からみた教授の紹介にページが費やされている。温暖化の真実を本書からつかみ取ろうと意気込む読者は拍子抜けする。また、退屈さすら感じるかもしれない。だが、なぜ教授がこの道に入ったのかを知ることはとても大切だ。教授の生い立ちからうかがい知れること。それは、教授のバックグラウンドに宗教的、経済的な影響が少ないことだ。それはつまり、地球温暖化を指摘した教授の背景にはイデオロギーの色が薄いことを示唆している。あえて本書を教授の生い立ちから語るロバート氏の意図はそこにあるはずだ。

 ・教授の家族が敬虔なクリスチャンとなったこと。
 ・それに背を向けるようにブロッカー少年は科学への興味が勝り研究者の道を選んだこと。
 ・初期の研究テーマは炭素測定法による年代分析だったこと。
 ・この研究に踏み込んだのは偶然の出会いからだったこと。

炭素測定法の研究を通して世界各地に赴いた教授は、地球の気温の変化に着目する。それが地球が温暖化しているとの発見につながり、その事実を公表するに至る。本書は教授の研究が豊富に引用される。また、気候学者、考古気候学者など教授の研究に関する人々の研究成果やその人物像なども多彩に紹介される。

本書を読んで特に驚くこと。それは、過去の気温を類推するための手法がとても多岐にわたっていることだ。炭素測定だけではない。地層に含まれる花粉量。氷河が削り取った山肌の岩屑量。木の年輪の幅。もちろん、天文学の成果も忘れるわけにはいかない。地球が自転する軸のブレが周期的に変わること、太陽の周りを公転する軌道が歪んでいることや、太陽活動に周期があること。などなど。本書の中で言及され、積み上げられる研究成果は、本書だけでなく温暖化問題そのものへの信憑性を高める。

本書で紹介される研究成果から指摘できるのは、地球が一定の期間ごとに温暖化と寒冷化を繰り返して来た事実だ。長い周期、短い周期、中間の周期。そして、今の時期とは寒冷期と寒冷期の間なのだという。つまり、今の人類の発展とはたまたま地球が暖かいからだ、との結論が導き出される。

ならば、地球温暖化とは幻想に過ぎないのだろうか。人類の経済活動など地球にとっては取るに足りず、長期的に見ればその影響など微々たるもの。今の経済活動に一片たりとも非はない。既得権益に満ち足りていると、そういう結論に飛びつきがち。トランプ米大統領のように。

だが違う。

本書で紹介される科学者たちの研究は、そういう楽観的な早合点を一蹴する。観測結果から導き出される大気中の二酸化炭素の量は、天文単位の周期から予想される濃度を明らかに逸脱している。そしてその逸脱は産業革命以降に顕著なのだ。つまり、人類の経済活動が地球温暖化の主犯であることは動かしようもない明確な事実なのだ。

そして、海洋が二酸化炭素を吸収できる量を算出すると、あと数世紀分のゆとりがあるらしい。だが、その吸収速度は遅々としている。人類が排出する二酸化炭素を吸収するには到底追いつけないのだ。

学者たちが危惧するのは二酸化炭素の量そのものではない。むしろ気候のバランスが大幅かつ急激に崩れる可能性だ。そのバランスは二酸化炭素の割合によってかろうじて保たれている。過去の気候変動の痕跡を観察し、そこから推測できる結論とは、気候の変化が緩やかに起こったのではなく、地域によっては急激だったことだ。世界各地の神話に頻出する大洪水の伝説が示すように。例えばノアの箱舟が活躍した大洪水のような。

ある時点を境に南極の棚氷が一気に崩落する可能性。各所に残る氷河が一気に融解する可能性。そしてメキシコ湾流を起点として世界の海洋を長い期間かけて還流する大海流が突然ストップしてしまう可能性。世界の各地に残されている数々の証拠は、急激な気候変化が確実に起こっていたことを如実に示している。

今のままでは人類に残された時間はそう多くない。それが本書の結論だ。では、本書は単なる警世の書に過ぎないのだろうか。

いや、そうではない。

科学者たちは地球規模で発生しうるカタストロフィから救うため、さまざまなな可能性を研究している。本書に紹介されているのはそれらの研究の中でも温暖化抑止にとって有望と見られるアイデアだ。

アイデアのタネはシンプルなものだ。
「人間は自ら排泄したものを浄化するために下水システムを作り上げた。ならば排泄した二酸化炭素を浄化する仕組みがない現状こそがおかしい」

この原則は、私にとって目から鱗がはがれるようなインパクトをもたらした。私たちは排泄し垂れ流してきた二酸化炭素の処置についてあまりにも無関心だった。無味無臭で影も形もない二酸化炭素。それがために、何の良心の呵責を感じることなく放棄してきた。今、そのツケが人類を窮地に陥れようとしている。

教授の同僚ラックナー氏は、とあるプラスティックが二酸化炭素を有効に吸収することを発見した。あとはそれを炭酸ナトリウムで流して重曹に変化させ、そこからCO2を分離するだけだ。では、分離したCO2はどこに貯蔵するべきなのか。

一つは海洋だ。今も海洋は、 自然のプロセスの一環として二酸化炭素を吸収し続けている。このプロセスを人為的に行うのだ。深海に大量の液化二酸化炭素を注入し、海水と溶けあわせる。だが、この方法は既存の海洋生物への影響が未知数だ。

では、陸地に保存すればいいのか。CO2はカルシウムと結合して重炭酸カルシウムとなる。それはもはや固体。気体となって大気に拡散することはない。そしてカルシウムは玄武岩に豊富に含まれるという。ということは玄武岩の岩盤を深く掘り進め、地下にCO2を注入するとよいのではないか。その理論に沿って検証したところアイスランドが有力な貯蔵場所として上がっているそうだ。有効な温暖化対策としてプロジェクトは進んでいることが紹介されている。

他にも、成層圏に二酸化硫黄のガスを流すことで、太陽光線を反射して温暖化を回避する案も真面目に研究され議論されている。

このうちのどれが地球と人類と生物圏を救うことになるのか。おそらく温暖化の修復には数百年単位の時間がかかることだろう。その結末は誰にも分からない。だが、分かっているのは今、二酸化炭素の処分プロセスの対策をはじめないと、全ての人類の文明は無に帰してしまうということだ。営々と築き上げてきた建造物。世界中に張り巡らされたインターネット網。ビジネスのあらゆる成果。美しい景色。人類の文化のめざましい成果。それらがすべてうしなわれてゆく。

私たちは今、何のために生きているのだろう。家族を構え、子を育て、ビジネスに邁進する。それらの営為は、全て後世に自分の人生を伝えるためではないのか。少なくとも私にはそうだ。でなければこんなブログなど書かない。一方で刹那的にその場さえ楽しければそれでいいとの考えもあるだろう。だが、それすらもカタストロフィが起こったら叶わなくなる可能性が高いのだ。

私は情報業界の人間だ。つまり電気が断たれると飯が食えなくなる。そして、私は自然が好きだ。旅も好き。だが、旅先への移動は車や電車、飛行機だ。そのどれもが電気や燃料がないとただの重い代物。つまり私とは旅や自然が好きでありながら、電気や燃料を食い物にして自分の欲求を満たす矛盾した生き物なのだ。その矛盾を自覚していながら、即効性のある対策が打てないもどかしさに苦しんでいる。その矛盾はちまちまと電源のOn/Offを励行したからといって解消できる次元ではない。だから私はブログを書く。そして自然を紹介する。その行き着く先は、地球環境にビジネス上で貢献したいとの考えだ。

本書は、もっと世に知られるべきだ。そして、私たちは二酸化炭素の排出について意識を高めなければならない。もはや温暖化のあるなしなど議論している場合ではないのだ。本書は環境保護と経済優先の両イデオロギーの対立など眼中にないほど先を見ている。そして確固たる科学的確証のもと、データを提示し温暖化の現実を突きつける。そして突きつけるだけではなく、その解決策も提示しているのだ。

イデオロギーに毒された科学啓蒙書の類はたまに目にする。だが、本書はこれからの人類にとって真に有益な書物だと思う。少しでも多くの人の目に本書が触れることを願いたい。

‘2017/02/28-2017/03/03


骨の袋 下


上巻でマイクはマッティとカイラ親子に出会う。その出会いからほどなく、マイクとマッティは男と女として惹かれ合い、カイラはマイクに実の父のように懐いてくる。しかしそんな三人に、IT業界の立志伝中の人物、老いぼれたマックス・デヴォアの魔の手が迫る。マックスは死んだ息子が残した一粒種のカイラをわが手に得るためならどんな手を使うことも厭わない。マックスの莫大な財産がカイラの親権を奪うためだけに使われる。権力と資金に物を言わせたマックスの妨害はマッティの生活を脅かす。それだけではなく、マッティとの絆を深めるマイクにも妨害として牙を剥く。

一方でセーラ・ラフスに住むマイクにも怪異がつきまとう。それは正体の分からぬ幽霊の仕業。マイクの夢の中を跳梁し、現実の世界にも侵食してマイクにメッセージを知らせようとする幽霊。それは果たして、あの世からジョアンナが伝えるメッセージなのか。そのメッセージはマッティ親子を助けようとする。それによってマイクはマッティとカイラ親子とますます離れがたくなってゆく。義理の父娘として、そして男と女として。

下巻ではカイラの監護権をめぐってマイクとマックス・デヴォアの間に起こる争いが書かれる。本書に法廷場面はあまり登場しないが、法的な話がたくさんでてくる。法律だけでない。歴史までもが登場する。マイクの知らぬうちにジョアンナが何度も一人でセーラ・ラフスにやってきては何事かを調べていた。果たしてジョアンナは何を調べていたのか。

本書は、過去の出来事の謎が作中の鍵となる。謎を探ってゆく過程で置かれてきた布石や伏線。それらが謎の解明に大きな貢献を果たす。著者が布石や伏線の使い方に長けていることはいうまでもない。著者の作品には、こうした伏線が後々効いてくることがとても多い。本書の謎とは「TR-90」で20世紀初めに起こったとされる悲劇に端を発している。かつてジョアンナが探ったという謎を、今マイクが探る。時間を超えた謎解きの過程は、ある種のミステリーを読んでいる気分にさせられる。本書を発表した後、著者は「ミスター・メルセデス」でミステリーの最高賞となるエドガー賞を受賞し、ミステリーの分野でも評価を得ている。著者が培ったミステリーを書く上でのノウハウは、ひょっとすると本書をものにしたことで会得したのではないか。そう思える。

ただでさえ、ホラー作品において他の作家の追随を許さない著者がミステリーの手法を身につければ鬼に金棒だ。その上、本書は、ゴーストラブストーリーと帯に書かれている。つまり、ホラーにミステリー、さらには恋愛まで盛り込まれているのが本書なのだ。付け加えればそこに歴史探訪と法律、文学史が味付けされている。なんとぜいたくな作品だろう。

もう一つ下巻で加わるのは音楽史だ。アメリカがロックを生んだ地であることは今さら言うまでもない。著者の今までの作品には、さまざまなロックの有名な曲が効果的に使われる。本書でもそれは同じだ。特にマッティがドン・ヘンリーの「All she wants to do is dance」に乗って踊るシーンは、本書の中でも一つのクライマックスとなっている。ドン・ヘンリーの同曲が収められているアルバム「Building The Perfect Beast」は私の愛聴盤の一つなので、本書で同曲が出てきたときは驚きながらもうれしさがこみあげてきた。

そしてロックといえば、そのルーツに黒人によるゴスペルやブルースが大きく寄与していることは有名だ。ロックに影響を与えた頃のそれらの音楽の音源はいまや残っていない。音源が残っていない分、野卑でありながらエネルギーに満ち溢れていたはずだ。本書で著者はその猥雑な音楽の魅力を存分に描き出す。

抑圧された黒人のエネルギー。それがロックを産み出し、さらに本書の物語を産んだ。著者は黒人が差別されてきた歴史も臆せずに書く。それはこの「TR-90」の地に暗さを投げ掛ける。マイクは夢と現実の両方でジョアンナと思われる幽霊に導かれ、過去を幻視させられる。果たしてジョアンナの幽霊は何からマイクを護ろうとするのか。そもそもマイクやマッティやカイラを襲おうとするのはマックスだけでなく他にもいるのか。

その過去からの抑圧されたエネルギーが解き放たれた時、何がおこるのか。本書のクライマックスの凄まじさは著者の多くの作品の中でも有数ではないか。たとえば「ニードフル・シングス」のがキャッスル・ロックの町を壊滅させたように。

上巻のレビューで、本書を読んでいると著者の他の作品を読んだ気になったと書いた。とんでもない。私が間違っていた。やはり本書も傑作だった。

基本的なプロットは似通っているかもしれない。だが、その上に物語を肉づけることにおいて、著者の筆力はもはや神業にも思える。本書でも今までの著者の作品にはそれほど出てこなかった文学や歴史、法律といった要素で肉付けをしつつ、起伏に富んだ物語を編んでいるのだから。

‘2017/02/27-2017/02/27


骨の袋 上


1999年に著者がバイク事故を起こし、死の縁をさまよった話は著者のファンにはよく知られている。

私は、日本で出版された著者の本の九割は読んだと自負している。自分ではファンのつもりだ。著者が事故に巻き込まれるまでに上梓された作品に絞れば、読んでいない作品といえば本書を除けばあと二、三冊ほどだろうか。その他の作品はほとんど読んでいる。そして、本書を読み終えたことでさらに未読作品の数は減ったと思う。

これだけたくさん著者の本を読んでいると、今までに読んだ著者の作品と似通った展開や語りが脳裏に思い浮かぶ。

本書も実はそうだった。読みながら既読感にとらわれてしまい、ひょっとして以前に読んだのかも、と20年以上前から付けている読書履歴を読み返そうとしたくらいに。それくらい、本書の出だしは著者の今までの作品を思わせるような節と構成だったのだ。

それはきっと、妻をなくしたショックで小説が書けなくなった、という主人公の設定がそう思わせたのだろう。

結論からいうと、本書をよんだのは今回が初めてだった。そして、著者の他の作品と同じく結末まで一気に読み終えた。もちろん面白さは折り紙つきで。

著者の作品に既読感を感じる理由を二つ挙げてみる。一つは作家が主人公であることが多いこと。もう一つは、作品舞台が狭い地域に集まっていることだ。メイン州のデリーやキャッスルロック周辺。著者の著作をたどると、この辺りで起こった怪異は尋常ではない回数で起こっている。

本書もそうだ。キャッスルロックの近くが舞台だ。著者の他の著作でも名前だけはよく出てくる「TR-90」という土地。本書の舞台はここだ。奇妙な名前なのには理由がある。それはここが自治体の管轄外の地だからだ。いわば番外地とでも言えばよいか。

主人公マイク・ヌーナンは作家としてニューヨークタイムズのベストセラーリストに名前が載るほどの売れっ子。だが、ある暑い日に妻ジョアンナが急死してしまう。その衝撃からライターズ・ブロックに陥ってしまう。つまり小説が書けなくなったのだ。

エージェントのハロルドや出版社の評価はマイクが新たな作品を出す度に高まるばかり。だが新作と称する代物は、マイクが事前に書き溜めていた作品にすぎない。ジョアンナをなくして四年、全く小説が書けないまま、マイクは無為な日々を送っていた。

ハロルドは、マイクの意欲を高め、ベストセラー作家として存在感を示し続けるための処方箋を示し続ける。アメリカのベストセラー作家たちの熾烈なトップ争い。それが実名で記される。例えばそれはジョン・アーヴィングだったり、ディーン・R・クーンツだったり。いずれも私の知る作家だ。

だが、面白いことにその中に著者の名前はない。ここで自身の名前を出さないところが、著者の慎み深さを示すようで微笑ましい。ベストセラー作家のトップ争いをひとごとのように描くあたり、本当のトップを走る著者の余裕なのだろうなと思う。

本書は、小説家の裏側の世界だけでなく、表も描く。表とはつまり作品だ。本書には、文学作品がかなり登場する。例えば、本書のタイトル「骨の袋」は、トマス・ハーディが語ったとされる言葉だ。それは以下の通り。
「あらゆる小説のうちでもっとも生彩ゆたかに描きこまれた人間といえども」「地上を歩きまわって影を落としているすべての人間たちのなかで、もっとも生彩を欠く退屈きわまる人間とくらべた場合でさえ、しょせんは骨の袋にすぎない」(45P)。
骨の袋とは言うまでもなく骸骨だ。そしてその例えは作家の想像力が実在の人間に及ばぬことを表している。また、作家に復帰しようとするマイクの目標がはかないことを象徴しているかのようにも思える。

トマス・ハーディ以外にも本書で言及される作家かいる。それはサマセット・モーム。モームの代表作と言えば「月と六ペンス」だ。その小説の主人公であるストリックランドの名前も本書には幾度も登場する。モームはジョアンナの好きや作家だからだ。

このように、本書には純文学に属する作家が登場する。そこが本書の性格をほのめかせていて興味深い。本書は、著者が得意とするホラーの手法を忠実になぞりつつ、文学的な味わいを与えることに挑戦したのではないか。私はその象徴がトマス・ハーディであり、サマセット・モームの引用だと思えた。

壮絶な描写の冴えは相変わらずだ。それは本書に何度も出てくる怪異現象の描写で味わえる。私の感想だが、本書からは著者の他の作品よりも脳裏にイメージが想起しやすかった。なぜかを考えて思ったのが、本書にはアメリカならではの生活感が薄いことだ。ロック、駄菓子に日用雑貨。著者の作品にはアメリカの日常を彩るガジェットがふんだんにあらわれる。それらが本書にはあまり出てこないだ。その分著者は、自然そのものを描写することに相当熱を込めたのだろう。だから、日本人の私にもイメージしやすかったように思う。

マイクは無為な日々から逃げるかのように「TR-90」を訪れる。マイクとジョアンナの別荘「セーラ・ラフス」があるからだ。ここでならライターズ・ブロックを抜け出せるのではないか、との期待もあって。マイクは、訪れてすぐにマイクはマッティというシングル・マザーに出会う。マッティの三歳になる娘カイラにも慕われたマイクは、「TR-90」に長期間逗留することをきめる。

カイラとマッティには、その義理の父であり祖父のマックス・デヴォアの魔手も伸びる。マッティは地元の名士だったマックスの息子と熱愛の末結婚したが、その息子は不慮の事故で無くなってしまう。もともとマックスにとってマッティは息子と釣り合わぬ女でしかない。しかも、息子が死んだことでマックスの血を受け継ぐのはカイラしかいない。そこでマックスはカイラを養女にするため、あらゆる手を使う。それがたとえマッティにとって不利益であろうとも。

さらにマイクがセーラ・ラフスについてから、不可解な出来事が続く。さらに、生前のジョアンナがセーラ・ラフスで不可解な行動をしたとの証言も聞こえてくる。上巻で、徐々に話を広げてゆく著者のストーリーテリングはさすがである。

‘2017/02/24-2017/02/27


対岸


本書は、著者の処女短編集だそうだ。

著者は私が好きな作家の一人だ。簡潔な文体でありながら、奇想天外な作品を紡ぎ出すところなど特に。

本書はまだ著者がデビュー前、アルゼンチンで教員をしていた頃に書かれた作品を主に編まれている。

後年に発表された作品ほどではないが、本書からはすでに著者の才気のきらめきが感じられる。

本書に収められた諸編。その誕生の背景は訳者が解説で詳しく記してくださっている。田舎の閉鎖的で垢抜けない環境に閉口した著者が、懸命に作家を目指して励んだ結果。それらが本書に収められた短編だ。

本書は大きく四部に分かれている。最初の三部は「剽窃と翻訳」「ガブリエル・メドラーノの物語」「天文学序説」と名付けられている。各部はそれぞれ四、五編の短編からなっている。そして最後の一部は「短編小説の諸相」と題した著者の講演録だ。著者は短編小説の名手として世界的な名声を得た。そして短編小説を題材に講演できるまでに大成した。この講演は、晩年の著者がとても肩入れしたキューバにおいてなされたという。

著者の習作時代の作品を並べた後で、最後に著者自身が短編小説を語るのが、本書をこのように編集した意図だと思われる。

まずは前半の三部に収められた各編について寸想を記してみたい。

まず最初の「剽窃と翻訳」から。

「吸血鬼の息子」
吸血鬼伝説に想をとっている本編。一般に吸血鬼が描かれる際は、食欲だけが取り上げられる。つまり血液だ。

だが、美女の生き血を欲する欲とは、美女の体を欲する性欲のメタファーではないか。そこに着目しているのが印象に残る。吸血鬼が永遠に近い命を持つからといって性欲を持たなくてよいとの理はないはず。

吸血鬼の子を身ごもったレディ・ヴァンダから、どのような子どもが生まれるのか。それは読者の興味をつなぎとめるにふさわしい。その後、予想もしない形で吸血鬼の息子は誕生する。その予想外の結末が鮮やかな一編。

「大きくなる手」
本編は、本書に収められた13編の中でもっとも分かりやすいと思う。そして、後年の著者が発表したいくつもの名短編を思わせる秀編だ。主人公プラックが自らの詩をけなしたカリーを殴った後、プラックの手が異常に腫れる。その腫れ具合は車に乗せるにも一苦労するほど。

主人公を襲うその超現実的な描写。それが、著者の後年の名編を思わせる。大きくなりすぎた手を持て余すプラックの狼狽はユーモラスで、読者は主人公に待ち受ける出来事に興味を引かれつつ結末へ誘われて行く。そして著者は最期の一文でさらに本編をひっくり返すのだ。その手腕はお見事だ。

「電話して、デリア」
電話というコミュニケーション媒体がまだ充分に機能していた時期に書かれた一編。本書に収められた短編のほとんどは1930年代に書かれているが、本編は1938年に書かれたと記されている。けんかして出て行った恋人から掛かってきた電話。それは要領を得ない内容だった。だが、彼から電話をかけてきたことに感激したデリアは、彼と懸命に会話する。電話を通じて短い応答の応酬がつながってゆく。

結末で、デリアは思いもよらぬ事実を知ることになる。正直言ってその結末は使い古されている。だが、編末でラジオから流れるアナウンサーの話すCM文句。これが、当時には電話がコミュニケーション手段の最先端であった事実を示唆していて時代を感じさせる。著者が今の時代に生きていて、本書を書き直すとすれば、電話のかわりに何を当てるのだろう。

「レミの深い午睡」
本編はなかなか難解だ。自分があらゆる場所あらゆる時代で死刑執行される夢を普段から見る癖のあるレミ。今日もまたその妄想に囚われたまま、レミは午睡から起きる。そしてモレッラのところに連絡するが、何か様子がおかしい。

モレッラのところにはドーソン中尉がいて、銃声と叫び声が響く。執行人は脈をとって死人の死を確認し、立会人は去って行く。果たしてレミは妄想どおり死刑執行されたのか。それともレミが死刑を執行したのか。主体と客体は混然とし、読者は物語の中に惑わされたまま本編を終えることになる。

「パズル」
これまた難解な一編だ。殺人現場において、見事に殺害をし遂げる人物。そして殺害されたラルフを待ち続けるレベッカと主人公「あなた」の兄妹。彼らを尋問して警察が帰った後、二人の間で何が起こったのか問答が続く。

果たしてラルフはどこで殺されたのか。謎が明かされて行く一瞬ごとの驚きと戸惑い。本書は注意深く読まねば誰が誰を殺したのかわからぬままになってしまう。読者の読解力を鍛えるには好都合の短編だ。

続いて第二部にあたる「ガブリエル・メドラーノの物語 」から。

「夜の帰還」
死後の幽体離脱を文学的に取り扱えば本編のようになるだろうか。死して後、自分の体を上から見下ろす体験の異常さ。それだけでなく、主人公は自分を世話してくれていた老婆が自分の死を目にして動転しないよう、死体に戻って自分の体を動かそうと焦る。主人公の焦りは死という現象の不条理さを表しているようで興味深い。

死を客観的に見るとはこういう経験なのかもしれない。

「魔女」
万能の魔女として生きること。それは人のうらやみやねたみを一身に受けることでもある。また。それは自分の欲望を我慢する必要もなく生きられるだけに不幸なのかもしれない。

本編の結末はありがちな結果だともいえる。だが、単に自分の欲望に忠実に生きること。その生き方の果てにはなにがあるのか、ということを寓話的に描いた一編とも言える。抑制を知って初めて、欲望とは充足される。そんな教訓すら読み取ることは可能だ。

「転居」
本編も著者が後年に発表したような短編の奇想に満ちた雰囲気を味わえる。仕事に没頭するライムンドは、ある日突然家が微妙に変化していることに気づく。家人も同じだし家の間取りにも変わりはない。だが、微妙に細部が違うのだ。その戸惑いは会計事務所につとめ、完結した会計の世界に安住するライムンドの心にねじれを産む。

周囲が違えば、人は自らの心を周辺に合わせて折り合いを付ける。そんな人の適応能力に潜む危うさを描いたのが本編だ。

「遠い鏡」
著者が教員をしていた街での出来事。それがメタフィクションの手法で描かれる。ドアの向こうには入れ子のようにもう一つの自分の世界が広がる。

街から逃げ出したくて逃避の機会を探しているはずが、いつの間にか迷い込むのは内面の入れ子の世界。それは鏡よりもたちがわるい。抜け出そうにも抜け出せない。そんな著者の習作時代の焦りのようなものすら感じられる。

続いて第三部にあたる「天文学序説」から。

「天体間対称」
「星の清掃部隊」
「海洋学短講」
この三編は著者が作家としての突破口をSFの分野に探していた時期に書かれたものだろう。そう言われてみれば、著者の奇想とはSFの分野でこそ生かせそうだ。だが、本書に収められた三編はまだ習作のレベルにとどまっている。おそらく著者の文才とは、現実世界の中に裂け目として生じる異質なものを描くことにあるのてばないか。つまり、世界そのものが虚構であれば、著者の作り出す虚構が埋もれてしまい効果を発揮しなくなってしまう。多分著者がSFの世界に進まなかったのはそのためではないかと思う。

「手の休憩所」
こちらは逆に、著者の奇想がうまく生かされた一編だ。体から離れ、自立して動き回る手。その手と共存する日々。手は細工や手遊びに才能を自在に発揮する。しかし私に訪れた妄想、つまり私の片手と動き回る手が手を取り合って逃げてしまうという妄想。それがこの膠着状況に終止符を打ってしまう。

続いては末尾を飾る「短編小説の諸相」
これは、冒頭に書いたとおり、著者の講演を採録したものだ。ここで著者は短編小説の極意を語る。

長編小説と違い、短編小説には緊張感が求められると著者はいう。じわじわと効果を高めていく長編とは違い、効果的かつ鋭利に読者の心に風穴を開けねばならない。それが短編小説なのだという。テーマそのものではなく、いかにして精神的・形式的に圧力をかけ、作品の圧力で時空間を圧縮するか。著者が強調するのは「暗示力」「凝縮性」「緊張感」の三つだ。

この講演の中では、著者が好む短編が挙げられている。それはとても興味深い。ここに収められた講演の内容は何度も読み返すべきなのだろう。含蓄に溢れている。そして、本講演の内容は、おそらく今まで著者のどの作品集にも収められなかったに違いない。私もいずれ、機会を見て本書は所持したいと思っている。

そして確固とした短編の名作を生み出してみたいと思っている。

‘2017/02/21-2017/02/24