沖縄ひとり旅 2017/6/20



ぐっすりと眠った私。すがすがしく目を覚まします。妻からホテルグレイスリー那覇を勧められた理由。それは朝食にあります。とても充実していて種類もたくさんよ、と言われていたのです。寝ぼけ眼で訪れた私は、妻の言葉の意味を理解します。とても良いです。朝食バイキングの品ぞろえはわたしをとても満足させてくれました。海ブドウが食べ放題なのもよいです。


満腹した私は、チェックアウトを済ませ、国際通りへ。昨日の大荒れの天気が一転、晴れ間がのぞいています。今日の旅路やよし。元々の天気予報から計画したとおり、今日は屋外をメインとした場所へと向かいます。斎場御嶽へと。再び沖縄本島の南部へと相棒を駆って向かいます。


やがて車は南城市に着き、太平洋に沿って走る国道331号線へ。このあたりも沖縄南部ののどかさが感じられます。私はそこから海岸線をたどって知念岬へ。ここの道の駅の駐車場に車を停め、斎場御嶽への入場券を買い求めます。連絡があって作業の必要があった私は、道の駅の中でパソコンを広げ作業。道の駅には御嶽についての説明書きがあり、事前に知識を仕入れます。


そしてそこから白砂が敷き詰められた道をのぼり、斎場御嶽へ。この道中がすでに南国感を出しています。いやがおうにも期待は高まるばかり。両側に茂る木々も、私の旅情を掻き立ててくれます。やがて御嶽の入り口へつき、受付を済ませて御嶽の本丸へと急ぎます。


御嶽とは6/18分のブログでも書きましたが、琉球の人々にとって重要な祭祀の場。那覇空港についてすぐに訪れた安次嶺御嶽もよかったのですが、つかみどころのない円形の広場に石造の遺構があるだけでした。それが御嶽の一般的な姿なのか。そう思った私の認識は斎場御嶽で一新されました。


本来なら一般の人は入れない場所。聖地なのですから。それなのに、聖なる由来がありそうな遺構が足元に置かれています。香炉が足元に無造作に置かれた通路には、何も考えなければ普通のハイキングコースのよう。ところが奥に進むにつれ、うっそうとした樹木が覆いはじめ、聖地の装いをまといはじめるのです。まず最初にとおるのは大庫理(ウフグーイ)。岩が祭壇のように見立てられ、聖なる場としての威厳を表わしています。続いて寄満(ユインチ)を向かいましたが、そこもまた、聖地としての面影を濃厚に宿していました。
そして大庫理から寄満への道すがら、大きな池があります。これは実は沖縄戦の艦砲射撃で着弾した跡地が池になったところだとか。あたりにはサンショウウオが群がっており、あちこちでたむろしています。池には白い泡のような物体が浮いており、そこにサンショウウオが群がっています。聖地なのにサンショウウオを餌付けしているのか?と疑問がムラムラと湧きます。それにもまして、沖縄最高の聖地でありながら艦砲射撃の被害から逃れることのできなかった現実。これがこの地が沖縄であることをいやおうなく私に伝えてきます。


さらに歩く私の前に広がったのが巨大な岩盤。上に覆いかぶさるように迫る岩からは二点で水が滴り、受ける石造りのツボのようなものがしつらえられています。シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビーという名前なのですが、こういう見るからに聖なる遺構が、何ら保護されずにおかれていることに、沖縄の器の大きさを物語るようです。


そしてその岩盤の奥の脇には、通路が直角三角形に切り出されたようになっています。その奥にあるのが三庫理。これこそ斎場御嶽の奥の院。琉球最高の聖地です。そしてもちろん、誰でも入れます。奥へ進むと見るからに聖なる道具と思われる遺構が足元におかれています。看板には金製勾玉が近世出土した旨が書かれているのですが、足元は無造作。掘ろうと思えば掘れてしまいます。しかもその壁の反対側には樹木で切り取ったような向こうに海が広がっています。うすく地平に広がるのは久高島。アマミキヨが琉球に渡ってくる前、久高島からやってきたという伝承があります。つまり三庫理こそは琉球の国生み伝説の地でもあるのです。


それなのに、これほどまでに無防備。かつては男子禁制の場だったというここは、聞得大君の仕切る祭祀の地でした。それなのにこれほどひらかれてことがよいのだろうか、と思えます。こうやって私がブログに書くことで斎場御嶽の観光客増加に寄与してしまうのでは、と思えるほど。すでに私が訪れた時にも十数人の観光客が訪れていました。それでもなお、聖地としての厳かさを失っていなかっただけに、何らかの対策が成されるのではないかと思いました。


なお、オオサンショウウオが群がっていた泡の正体。それはモリアオガエルの卵だそうです。受付にわざわざ戻ってスタッフの方に伺ったところ、そうおっしゃっていました。しかもあれは餌付けしているのではなく、自然に産卵されたものだそう。とても貴重なものが見られました。

ここは、ぜひとも再訪したいと思いました。

帰りの道々にで両側に広がる店々にも立ち寄りたかったのですが、一つのお店だけ寄るにとどめました。でも観光地ずれしていない様子はとても良い印象でした。もっとゆっくりしたいところですが、すでに大幅に時間超過の予感が・・・


と思いながら、知念岬郵便局で風景印を押してもらい、知念岬にも歩いて向かう私です。やはり海を一望にして自分の小ささを見つめないと。そしてこれからの自分の未来がこれだけ広がっていることを心を全開にして受け止めないと。そう思って降り立った知念岬から見た海の凪いでいたこと!

そこから一路、ひめゆりの塔へ。誰もが行く場所とはいえ、22年ご無沙汰にしていたとなると行かねばなりません。22年前に強烈な印象を受けた、レクイエムの流れるホールの印象が変わっていないことと、それ以外の展示物をしっかり胸に刻まないと。


到着したひめゆりの塔は、入り口からして記憶の外でした。そして、記念館の傍に壕の入り口が大きく孔を開けているのですが、そこの印象も全くありませんでした。まったく私は22年前に何を見ていたのか。記念館にはいると展示を凝視します。どうやってひめゆり部隊が結成されたのか。彼女たちの学園生活。沖縄戦が始まってからの経過や、彼女たちが少しずつ追い詰められ、傷つけられてゆく様。そして、私が22年前に訪れたホールは同じでした。ひめゆり部隊の皆さんの顔写真、名前、死にざまとなくなった地。もちろん行方不明の人もたくさん。

さらにすっかり忘れていたのですが、上に口を開けていた壕は、地下でこのホールに繋がっているのです。すっかり忘れていました。ホールには生きながらえることのできた方の体験談が読めるようになっています。ホールの手前では体験談を語る語り部の方の動画が流れており、見入ってしまいました。今は上品な老婦人となっている彼女たちが、これほどの地獄を見たのかと思えば複雑な気分に囚われます。

私はこの旅行の2カ月半前に「ひめゆりの塔」を読みました(レビュー)。その中では生徒たちの赤裸々な感情が描かれていていたのですが、先生の役割は幾分薄めでした。しかしひめゆり部隊を引率した先生が戦後贖罪のために尽くしたことも知られています。今回、特別展として先生に焦点を当てた展示も催されていました。私はとてもその展示に感銘を受けました。なぜなら、今の私の年齢とは、当時の先生方が生徒たちを引率した年齢に近いからなのです。私がこの当時の先生たちと同じ立場に置かれたらどのように行動したでしょうか。時勢に迎合し、軍国主義を唱え押し付けていたのでしょうか。それとも生徒と友達のように接していたのでしょうか。それとも頼りにならず生徒たちを真っ先に戦場に迷わせた教師だったのでしょうか。わかりません。ひめゆり部隊が晒された砲弾の嵐は、普通の人間が経験できる場所ではないので、私には想像すらできません。

だから私は先生方の写真や担当教科、そして人となりを伝えるパネルをじっくり読みました。私が彼らだったらどう対処しただろうと思いながら。それは今の私が親としてどう娘たちに接するかの自問自答にも繋がります。また、教育学の教授だった祖父の影響からか、教育を担う者の目線も含んでいたと思うのです。その印象はあまりにも強く、家でもじっくり読んでみるため図録を駆ってしまうほどに。

ひめゆりの塔を出たのはすでに微妙な時間。ですが、駐車場わきのソフトクリーム屋さんでソフトクリームをいただきつつ、客あしらいに慣れたおじさんと話します。すでに沖縄滞在の時間が残されていないと思いつつ、梯梧の塔にも足を延ばします。ここも別の学校の学徒の慰霊の場所です。

この付近には同様にこのような塔があちこちに立っています。そのすべてに幾人もの人々の想いが込められているのでしょう。

さて、帰りは道の駅に二カ所寄って物産を全速力で冷やかした以外は、全力で那覇空港に近いレンタカー屋に向かいます。レンタカー屋に返した後は、帰りは歩いて帰らず素直に送迎バスで空港へ。なぜこんなに急いだかというと、17年ぶりの再会があったから。17年前、辻堂の護摩焚き会でご夫婦と知り合い、そのすぐ後に結婚式の披露宴にも呼んでくださった方。その方は数年していきなり家族で沖縄に移住したのです。以来、Facebookと年賀状だけのやりとりが続いていたのですが、今回思い切って声をかけてみたところ、帰りの那覇空港でお会いすることになったのです。その方の決断力と行動力には尊敬するしかありません。今回お会いしてお話しした内容は、とても参考になりました。ビジネスの面もそうですが、実際に沖縄移住への経緯を本に執筆し、それでアマゾンのカテゴリー別で一位にもなった経験。編集者とのやりとりや、それが本になっていくまでのいきさつ。この方との話し合いから二カ月がたち、私に本音採用での連載「アクアビット航海記」の話が来ます。もちろん即答で引き受けたことはいうまでもありません。

この方と空港の食堂でお話しできたのは1時間もありませんでした。あまりにも濃いお話であっという間に時間が過ぎてしまいました。17年ぶりという思いも忘れるほどに。最後は搭乗時間ギリギリになってしまい。ダッシュで走ってぎりぎり帰りの便に乗れましたが。

帰りは羽田からバスで町田まで。妻に迎えに来てもらいました。素晴らしい旅でした。


沖縄ひとり旅 2017/6/19


朝四時過ぎにおきて、妻に町田駅まで送ってもらいます。羽田空港行きのバスは04:55発。車か徒歩か自転車以外に自宅から駅へと向かうすべはありません。送ってくれた妻に感謝です。ま、私も妻が沖縄に行く時は町田や羽田まで送っているのですが。

バスの中ではまどろんでいましたが、無事に遅れることなくバスは到着。手続きをさっと済ませ、搭乗口からすぐのパソコン用デスクで作業です。今回はパソコンも持って来て合間に仕事をこなしながらの旅なのです。ここらへんが学生だった22年前とは技術の進展でも私の立場でも違うところです。

22年ぶりではないのですが、一人で飛行機に乗るのも相当久しぶり。多分、2006年に仕事で苫小牧に出張して以来です。今回は搭乗口で醜態を晒すことなく搭乗できました。ところが、荷物の中に本を入れっぱなしにするミスをしてしまい。仕方ないのでふて寝です。もっとも、寝不足が続いている私は本を開く前に落ちていたでしょうが。そんなわけで、スカイマークで配ってくれるコラボキットカットをもらう間も無く、着陸前までずっと寝ていました。願わくはいびきや大口あけた寝姿で人様に迷惑をかけていなければよいのですが。

さて、飛行機は何事もなく那覇空港に到着です。ちょっと蒸し暑いかな。大雨と聞いていましたが、かろうじて雨雲の中で水滴はとどまっていてくれてます。22年前に二等船室から降り立った那覇港では、夏でありながら明らかに内地と違う温度差に南国を感じて舞い上がった記憶があります。が、今回はそれほど温度差を感じません。

前日のブログにも書いた通り、22年前の旅の帰りが空路だったのかどうか忘れています。なので、那覇空港を使うのが初めてなのかどうかもわかりません。それもあってか、数キロ先のレンタカー屋まで歩いて行く羽目に。いや、迷ったわけではないのですよ。

どういう事か。まず、レンタカーで手間取りました。妻から聞いていたのは、搭乗券の裏に記載されている電話番号に連絡すれば割引料金でレンタカーが使えるということ。ところが、ウェブサイトにアクセスし、予約したところ「予約仕舞いのため予約できません」との表示が出て焦る焦る。ウェブサイトに記載のあったあるセンターに電話すると、最寄り店で対応するという返答だったので、最寄店への連絡先を教えてもらいます。ところが、最寄店に連絡しても割引できないいうとつれない返事が。そんなはずあらへんと焦ります。空港のレンタカーカウンターに聞いてみたところ、パンフレットの正規料金でしか扱えないと言われてしまう始末です。1日あたり1500円以上は価格差があるのだとか。救いを求める意味で再び予約センターに電話し、事情を説明します。すると、当日予約はウェブからできないという当たり前のような回答をいただき。ウヘェ。じゃあ車で五分とやらの店舗に行って、そこで直接借りるか、と重たい荷物を担いで歩き出します。

ところが、空港って歩いて脱出することを前提とした作りになっていないのですよね。公共機関か自家用車でしか出られない。22年前にはなかった「ゆいレール」かバスかタクシー、またはレンタカー会社の送迎バスを使わないと。そして、車で五分のレンタカー屋の場所は歩いてどれぐらいなのかがわからない。しかも「ゆいレール」とレンタカー屋も離れている。せっかく日本最西端の駅を利用したくてもこれでは無理。

結局、レンタカーの予約センターとお話ししながら日本最西端の駅のシンボルをカメラに収めただけ。「ゆいレール」の軌道にまたがらず、その下を歩くことにしました。しかも、その下に向かうための通路が全く見つからず、まともに道に沿って軌道の下にたどり着こうとすればとんでもなく遠回りになりそう。なので危険を覚悟で片側数車線の道を横断しました。後で調べたら遠回りと言っても約1キロほどでした。さて、到着早々暗雲が立ち込める旅の始まりですが、暗雲では済まず、ついに雨が降り始めます。そんな中、傘を持って来なかった私はテクテクと重い荷物をもって歩きます。この辺りの無鉄砲な行動は22年前となんら変わりません。

軌道下を歩くこと1キロ近く。安次嶺交差点が見えて来ました。信号を渡って、レンタカー屋へ向かおうとした私の目に飛び込んで来たのは、安次嶺御嶽と書かれた石碑。おお、早くも御嶽が。今回の旅は斎場御嶽が目的でしたが、他にも小さな御嶽も観ておきたかったのです。階段を上がったそこにあったのは、円形の広場とでもいうべき場所。御嶽について何も調べず、イメージも持たずに来た私。祭壇めいたものが野ざらしになっている御嶽の姿を見て納得。これを本土の聖域に例えるならなんでしょう。神社とは明らかに違います。広場や公園とも違う。飾り気のない御嶽ですが、何か侵し難いものを感じさせます。うーむ、これが御嶽か。御嶽とは琉球の民族宗教でいう聖地。祭祀が行われ、神に仕える人々のみが入れる場。そんな場の事です。

空港から雨の中を歩き、出だしから悄然としていましたが、災い転じて何とやら、で御嶽の様子を知ることができました。これもまた旅の幸運。

安次嶺御嶽からさらに1キロほど歩き、レンタカー屋にたどり着きます。レンタカー屋と道を挟んで反対側には陳在しているのはローソン。今回の旅で初の初のコンビニエンスストア。それはローソンとなりました。旅の楽しみは地元物産の物色にあります。さぞやこのローソンでも私の購買欲をくすぐる品が待っているはず。ところが、ほとんどの商品は本土と同じ。前はもう少し独自の品ぞろえだった気がするのですが。このあたり、22年の月日が物流環境を変えたことがわかります。

レンタカー屋さんではトヨタのpremioをお借りしました。白。内装も木目調で、レンタカーでありながらとても高級感のある作り。しかも安い。沖繩は車文化なので、レンタカーも安価なのですね。この辺りも22年前と変わりません。車を借りるついでにご好意で傘もレンタル。レンタカサー。なんだかウチナーングチの響きです。ちなみにレンタカサーというのは旅行から戻った翌日、本稿を書いて思いつきました。傘を借りた時は、そんな余裕はなく、早く沖繩に繰り出すことで頭がいっぱいだったので。

那覇空港でパンフレットを集めた私は、さらに空港から歩きながら、今日の行動を考えていました。だてに歩いていたわけではないのです。そして決めた最初の訪問先は忠孝酒造。泡盛製造所です。那覇空港からすぐという売り文句がパンフレットに載っており、そこに書かれていた小さな蒸留所との文句も私の目を惹きます。

「くぅーすの杜 忠孝蔵」というのが忠孝酒造の観光客用施設の名前です。ここの駐車場に駐めたはいいのですが、ちょっとしたトラブル発生。私が外に出ようとするとpremioが泣くのです。この旅で私と相棒の契りを結んだpremioはスマートキーで起動します。スマートなのです。そして若干気位が高い。であるからには、きっと私の扱いのどこかが気にくわなかったはず。premioをなだめようにもスマートキーの扱いがわからず、駐車場でピーチクパーチクと泣くpremioと十分近く過ごすはめに。すでに周りは大雨。駐車場の周りには誰もいませんでした。これが人だかりのある場所だったらかなり恥ずかしいことになっていたはず。結局、ギアがパーキングに入っていないのに鍵をかけて出ようとしたことがpremioの怒りをかったらしい。でも、これでお互いのことがようやく分かり合えました。二日間、いい相棒になれそう。

しかし「くぅーすの杜 忠孝蔵」に入った途端、相棒のことは私の頭から消し飛びます。足を踏み入れた途端に私を包む甘く芳醇な香り。生まれて初めて入った泡盛蒸溜所というだけで素晴らしいのに、さらに。泡盛の象徴でもある甕が存在感を備えてたくさん並んでいます。はやる気持ちを鎮め、まずは見学ツアーを申し込みます。待ち時間の間、売店をさまよう私。ドライバーゆえ、試飲はあきらめるほかないのがつらい。それでももろみ酢やあまざけなどの試飲が豊富にできます。これがまたうまい!泡盛の種類も多く、瓶と甕とが並ぶさまは壮観。甕売りの商品もあれば、ビン詰め商品も。まさに目移りするとはこのこと。忠孝酒造の名は、実は今回の旅行でガイドブックを読むまで知りませんでした。こちらに並んでいるビンを見ると、よく酒屋にあるカラフルな泡盛のラベルとは違って落ち着いた感じです。

その理由は、見学に先立って観覧した紹介ビデオで理解しました。創業は戦争が終わって間もない頃とのことですが、とても研究に力を入れた熱心な蔵だということがわかります。泡盛業界では初となる自社での甕造りに着手したり、古式泡盛の製法である「シー汁浸漬法」で社員が醸造学博士号を取得したり、沖縄県産マンゴーから採取した酵母での酒造りに取り組んだり。空港に近いという醸造所をうたい、結構、商売っ気のある酒蔵なのかな、という若干の懸念も訪問前に持っていました。ですが、その懸念は杞憂でした。実にしっかりとした泡盛づくりの哲学を持たれている様子。そうやって説明を受けてみると、並んでいる甕の数々がとても神々しく思えてくるから不思議です。

ビデオにつづいて、仕込み工程をガラス越しに見学させてもらいます。清潔な感じの室内では蒸しの工程でしょうか。職人さんが一人、黙々と働いていました。無機的な室内なのに、作業がアナログでそのギャップが面白い。

続いて、甕を作る作業場を案内していただきました。泡盛業界で初となる甕作りを併設しているのですが、私の目の前でロクロを操り、甕ができていきます、素晴らしい。ビデオにもありましたが、全てが試行錯誤の成果だというから大したものです。甕が泡盛の品質や風味に直結するのは樽で熟成させるウイスキーと同じ。さらに熟成が早く進む泡盛では、その重要性は欠かせないはずです。

私のその感想は、次にご案内された木造古酒蔵でますます強まります。シェリーなどの酒精強化ワインで知られるソレラ・システム。泡盛にも仕次ぎという同じような仕組みがあるとか。熟成が進んだ甕から瓶詰めや蒸発で減った分をより若い甕から継ぎ足していく仕組みのことです。これはウイスキーにはない習慣なので、私は興味津々でいろいろと質問しました。ここの蔵は沖縄でも首里城に次ぐ高さがあり、古さでも有数の蔵だそうです。蔵の中も明るく開放感があり、泡盛の香りがふくいくと私の鼻にまとわりつきます。まさに至福の場所。

外は大雨なのに、私はそんなことも忘れるくらい、夢中になって泡盛文化の奥深さに酔いしれ、その文化の粋を吸収しようと夢中になってました。ここはセルフ甕を持て、その説明を聞きながら、よほど申し込もうと思ったくらい。予算面で諦めましたが、代わりにマンゴー酵母で仕込んだ一品を購入。

くぅーすの杜は、おススメです。空港から近いのに、観光客から取ろうとする色気もあまり感じず。名残惜しさを感じながら、車に戻りました。

次の目的地に向かう前に、腹ごしらえ。くぅーすの杜のすぐそばに名嘉地そばの店舗を見かけたので。早速私の目的の一つ、沖縄そばの本場を知る、に臨みます。大雨だというのに私以外に数組のお客様がいました。車も結構止まっていて支持されているお店のようです。肝心の味はといえば、私が内地で食べるそれとあまり変わりなく。ということは、私が内地で食べた味も沖縄そばの正統だったのかも。それをここでは教えてもらいました。これが正統だと知ると、味もおいしく思えます。ラーメンのように味は濃くなく、薄味にも思える味付け。それでいながら、妙に重たいというか野暮ったい食べ応え。おなじみの沖縄そばの味。これが明治以降に広まったという本来の沖縄そばなのかもしれません。まだまだ他にも名店は数あるとは思いますが、これで私の沖縄そばへの好奇心は満たせました。

名嘉地そばの近くには、辺野古基地問題の集会を呼びかける看板もあり、沖縄の現実が垣間見られます。

私はそれを頭に留めつつ、次の目的地、海軍司令部壕跡へ向かいます。相変わらずの猛烈な雨がフロントグラスを叩く中、私の意識も戦場となった沖縄へと向かいます。

高台にある壕には、慰霊碑が。まずそれにお参りし、黙礼してから壕の入り口を兼ねたレストハウスにも似た建物へ、ここの二階には沖縄戦の惨禍を切り取った写真パネルが多く飾られていました。その被写体の多くは軍ではなく民間人です。大戦は日本全土をくまなく戦場と化しましたが、大規模な地上戦の戦場となったのは、サイパン島や沖縄の島々のみ。その現実を忘れてはなりません。

そして、この海軍司令部壕跡は、沖縄戦において、海軍が司令部を置いた場所。一般に、沖縄戦のイメージとは、連合国軍に一矢を報いたい大本営が日本本土での決戦までの時間を稼ぐために沖縄を捨て石としたという印象が強い。沖縄戦を戦った軍人についての印象も、民間人に自決を強要したり、邪魔者扱いするなど、民間人を人とも思わなかったいうといえばステレオタイプな印象が一人歩きしています。そんな軍部のイメージにあって、大田司令官が壕の中から最後に大本営宛に打った電報は軍人の良心を表したものとして名高い。

沖縄県民が沖縄戦で払った犠牲を連綿と書き連ねた電文。そして最後を
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と締めたこの電文を打ってすぐ、大田中将はこの壕の中で自決を遂げました。自決した部屋とされる壁や天井には弾痕のようなものも確認できます。絶望的な戦況の中、このような狭い場所で軍人たちは最後まで諦めまいと戦い続けていたのでしょう。

壕の内部が殺風景なことといったらありません。ここで兵隊や将校が寝起きし、戦っていたとはとても思えないほどの無機質な場。ただ戦場としての最低限の機能しかない場。平和ボケの中にいる私にはとても耐えられないでしょう。なにが耐えられないかといって、文化の匂いが一切排除されていること。私には何よりもそれが辛い。

絶望と殺伐とした壕で書き起こされたのに、電文からは戦陣訓めいた威勢の良い美辞麗句を排されています。それでいながら沖縄県民のことを思いやった文章。その文面から読み取れるのは、軍人である前に人として立派に生きた大田中将の人間性です。極限の場でありながら、最後まで人間で有り続けたその崇高の人格に胸を打たれます。沖縄戦が悲惨で愚劣な戦いなのはもちろん。しかし、その責を負うべきは大本営の面々であり、指導部であるはず。現場で死力を尽くし、努力し続けた軍人を一括りにして責めるのは筋違いだと思います。

君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

これは大田中将の辞世の句ですが、その実物が壁に残されています。その生々しさは私の心を騒めかせます。ここには軍人としての忠誠心、そして軍人ではなく人間として死にたいと願った大田中将の心が現れています。

壕内には沖縄戦の経緯や、電文の写しなどが詳しく展示されています。大田司令官の肖像もあります。とても細かく紹介されているのです。ここは沖縄でも必訪の地だと思います。22年前に来られなかったのが残念です。そして今回来られてよかったです。

そんな思いを抱きつつ壕を出た私。続いて向かったのは高台から市街を一望できる場所です。大雨の中、警備員のおじさんがとても気さくで親切でした。私をあらゆる角度から写真に収めてくださり、壕の現実に暗い気分になっていた私を明るくさせてくれました。この方こそ、今の沖縄の象徴にも思えました。殺伐とした史跡を前にして、なおも明るいハイサイおじさん。

たぶん、このおじさんも「沖縄県民カク生キム」として現実を戦っているのでしょう。それを微塵も感じさせず、明るく振る舞うおじさんがとてもすがすがしかった。おじさんのすがすがしさは私の心が少し晴らしてくれました。そして車に戻ってから次の場所へ向かうにつれ、雨が少しずつやみ始めるのです。私の心を表わすように。続いて私が向かった先は沖縄県平和祈念資料館。道中は猛烈な雨の後遺症があちこちに残っていました。ある場所では道が通行止めになっていて回り道を強いられ、ある場所では池のようになった道路を水しぶきを立てて進む。こういった体験を楽しみ、素朴な風景を愛でる。これが一人旅の醍醐味です。それを存分に味わいました。

沖縄県平和祈念資料館。ここは沖縄戦で亡くなった人たちの氏名が膨大な碑に刻まれる摩文仁の丘で知られます。私にとって22年ぶりの訪問。もちろん前回の訪問の記憶は薄く、展示物もあまり覚えていません。そんな私に資料館の展示物は迫ってきます。沖縄への認識をあらためるようにと。

今の基地問題。そして沖縄戦。沖縄の文化を除けば、今の私たちはこの2つだけで沖縄の現状を判断してしまいがち。ところが、沖縄の抱える問題とは、沖縄戦にいたるまでの歴史を知らねば理解できません。私は平和祈念資料館の展示からそのことを教わりました。19世紀の琉球を取り巻く状況。それは薩摩藩と清に対し、二重に朝貢していた琉球王国の苦労から始まりました。アヘン戦争で清が没落し、アメリカのペリー艦隊の来航を経験し、さらに明治維新によって薩摩藩がなくなる。と、思ったら、明治政府によって琉球王国は廃され、沖縄県として支配下に組み入れられます。薩摩藩が長年にわたって琉球王国から収奪を行っていたことは有名です。ところが明治になって薩摩藩の支配が終わり、沖縄県となっても沖縄をめぐる現実は苦しみの中にありました。それは、八重山諸島に課せられていた人頭税が1893年まで残っていたことでも明らか。さらにはソテツ地獄なる飢饉が沖縄を襲います。つまり、沖縄戦が起こる前から沖縄の人々はとても過酷な状況に置かれていたのです。

この平和祈念資料館では、そのあたりのことがたくさん学べました。もちろん、沖縄戦の過酷な実態も。いまやメディアはおろか、ウェブ上でも見られないようなむごたらしい死体を撮った映像が流れています。それはサイパン戦の悲惨な現実。映像は残酷に戦場の現実を写します。火炎放射器が人々がこもる壕を焼き払います。両手を挙げて投降する住民の姿に、心からの安堵を感じるのは私だけでしょうか。

沖縄戦が終結してから、米軍の軍政下におかれた。米兵による人権蹂躙が横行し、沖縄の人々に安らぎはありません。その時期の政治体制や文化についてのジオラマや資料が私の知識をあらためます。軍政下の沖縄の現実など、内地に住んでいると知りようがありません。日本の統治下に戻るまでの紆余曲折。年表を読むと1972年沖縄の本土復帰の一行で片付けられてしまう事実。内地の私たちからみれば沖縄が日本に戻れてよかったねで済んでしまいます。ところが沖縄の人々にとっては複雑な思惑があったはずです。琉球王国を復活させての独立や、基地の撤去も含めて。

基地問題を考えるためにも、平和祈念資料館は欠かせません。沖縄の今までの歴史を含めて向き合わねば、基地問題は語れないと思います。左傾した活動家が基地問題に乗じて暗躍する。基地問題をめぐる報道を眺めると、日本がおかれた現実を盾に基地移転をごり押しする本土の都合と、そんな日本国にただ歯向かうだけの左派の思惑だけがクローズアップされます。そうではなく、もっと違うアプローチで基地を考えなければならないと思うのです。私は内地に住む人間として、基地を沖縄に押し付けてそれで終わりだとは思いません。地理の関係から沖縄に基地が置かれる理屈もわかります。そして、内地に基地を置くことが今となっては難しい現実も分かります。ましてや私自身が横田基地と厚木基地の間に住み、飛行機の騒音に悩まされていただけになおさら。

私たちにできることは、沖縄に基地を押し付けて終わりではなく、まず今の沖縄を知ることだと思います。それも今の沖縄ではなく過去の経緯を含めて。そして、この問題に関しては軽々しくブログやツイートで意見することは控えなければなりません。単純に右や左のイデオロギーで語るには、沖縄の基地問題は複雑なのです。内地の人間、沖縄の人間といった立場によっても意見は揺れるのですから。理想だけで沖縄のこれからを改善できるはずはなく、現実の地理が仕方ないからといって沖縄の基地問題から目をそらすことも愚策です。22年ぶりに訪れた平和祈念資料館は私にいろいろなことを考えさせてくれました。3時間ほどしかいられませんでしたが。

再び雨脚が強くなってきた中、資料館の近くに立つ韓国人慰霊塔に向かいました。そして摩文仁の丘で慰霊碑に刻まれた膨大な数の名前を目にします。ただ、そこにたたずみます。降りしきる雨が何かを私に訴えます。

すでに閉館時間は過ぎてしまいました。名残惜しいですが那覇への岐路につきます。那覇市街までの道は混雑していましたが、無事に国際通りへ。今回の宿はホテルグレイスリー那覇。ところが駐車場が併設されていません。少し離れた場所にある駐車場の案内され、そこまで戻る羽目になりました。

チェックインを済ませると開放感が私を包みます。久しぶりの一人旅。そして宿泊。羽根を存分に伸ばしている自分を満喫します。持ってきたパソコンでしばし作業を行ってから夜の街へ繰り出します。まずは妻がお勧めしてくれた龍泉へ。ここは龍泉酒造が直営する店だそうです。ところが私はあえてオリオンビールを飲みます。ビールがうまい。そして私が沖縄料理で一番好きなゴーヤチャンプルが感動的。うまい。

そして再び土砂降りになってきた国際通りを歩き回ります。土産物屋を冷やかし、泡盛蔵国際店で圧倒的な品ぞろえの泡盛を。当然忠孝酒造の銘柄をまっさきに探すのは言うまでもありません。歩いているとヘリオスパブを発見。クラフトビールとしてヘリオス酒造は有名な存在になりつつあります。ここではヘリオス酒造の3年古酒の「主(ぬ~し)」をいただきます。昼に訪れた忠孝酒造では飲めなかったのでようやく泡盛を味わえました。やはり訪れた地ではその地の酒を飲むに限ります。

そしてヘリオス酒造のビールを。私が頼んだのは変わり種のシークワーサーホワイトエールを。これまたライトでうまい!

満足した私はさらに古酒屋へ。ここでも膨大な泡盛が私を迎えてくれます。これほどの品ぞろえがある泡盛は、もっと内地でも見直されるべき。沖縄の食文化を広めたい。そんな思いに駆られます。お土産屋では海ブドウが試食でき、その味わいにも癒やされます。

靴をぐちょぐちょにしつつ、ホテルの1階にあるローソンへ立ち寄ります。ここで沖縄限定の缶コーヒーを仕入れました。部屋で靴を乾かし(私の足の香りが強烈でこの靴は家に帰ってから処分しました)、作業に戻ります。パソコンで作業しつつ、明日の予定を立てようと地図を眺めます。ところが、いつの間にか寝入っていました。満ち足りた初日はあっという間に終わりを告げたのです。


沖縄ひとり旅 2017/6/18


6/6は私の誕生日。6/18は父の日。その二つの記念日のお祝いに、と妻から今回の沖縄旅行をプレゼントされたのは3月ごろでした。2月に妻が沖縄旅行に行き、その延長で私へのプレゼントを思いついたのでしょう。

それ以来、沖縄旅行が私をどれだけ支えてくれたか。とても言い表せません。その頃の私が関わっていたプロジェクトやその他の激務。これらを乗り切れたのも目の前に沖縄旅行がぶら下がっていたからでした。3,4,5,6月をしのげたのも沖縄旅行があったからだといっても言い過ぎではありません。

それ以来、折に触れて沖縄のガイドブックを読み、行きたい場所をイメージしていました。沖縄を題材にした池上永一氏の著作も読みました。ですが上に書いたように仕事が落ち着かず、結局まとまって行きたい場所を考えられたのは出発前夜になってから。それまでは沖縄に行くことは決まっていながら、自分の中で旅行のイメージがなかなか焦点を結ばぬままでした。

なにせ、私が沖縄を訪れたのは1995年の秋。22年の時は私からすっかり記憶を奪っています。それも無理はなく、22年前、1995年とは私の人生に多くの思い出が刻まれた年だからです。その年は、阪神・淡路大震災で開け、地下鉄サリン事件とオウム事件で世が殺伐としていました。その時の私の思いは各ブログで記しています。

中でもその年の夏。それは私の人生で最も旅に明け暮れた幸せな時期。1995年の夏は終戦50年の節目でした。若狭での海水浴から始まり、一人列車を乗り継いで豊岡米子三原を経由して広島へ。ヒロシマでは原爆ドーム前にテントを立て、翌朝は世界中の人たちとダイ・インに参加し。さらに福岡や柳川、ハウステンボス。そして平和公園やグラバー園や諫早へ。そして休む間もなく台湾一周の旅へと。 旅に次ぐ旅の夏でしたが、当時の私は全くそれを苦にしませんでした。

私が沖縄へ向かったのは二週間にわたる台湾旅行から戻ってすぐ。大学の政治学研究部の合宿でした。大阪南港のフェリーターミナルに集合し、船で那覇港へ。タクシーで名護のホテルに向かい、そこで一泊。翌日は、海に入ったあとレンタカーを駆って南部へと。おきなわワールドに寄ってひめゆりの塔へ。夜は国際通りで飲み、その近くのホテルに泊まりました。翌朝は首里城を訪れ、そして帰路へと。こういった行動は覚えているし、ところどころの記憶もあるのですが、他はあまり覚えていません。例えば帰りは飛行機だったのか、それとも行きと同じく船だったのか。それも覚えていません。その夏の思い出があまりにも濃かったこと、さらに22年の時は私から沖縄旅行の記憶を薄れさせてしまいました。SNSもない当時ですし、日々の充実にかまけて記録を取る習慣すらありませんでした。この時の沖縄旅行の写真すら残っていない始末。私はずっと、そのことに忸怩たる思いを持っていました。

沖縄旅行の印象が薄れていることをあらためて痛感したこと。それは先日、小説「ひめゆりの塔」のレビューを書いていた時のことです。22年前の旅行でひめゆりの塔には確実に訪れました。にもかかわらず、荘厳なレクイエムが流れるホールで受けた印象が強烈すぎて、ひめゆりの塔がどんな姿だったかなど、ほとんど思い出せないのです。これはまずい。空白になっている記憶に、新たなる経験を埋めなおさないと。

また、22年の日々は、私にさまざまな知識や考えを与えてくれました。その知識とは例えば、大田司令官による「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文であり、昨今の沖縄の基地問題です。22年の年月がたち、今の私は町田に家を構えています。町田といえば、厚木基地と横田基地の中間に位置しています。米軍機がかつて中心街に墜落し、死者も出しています。沖縄の基地問題は決して人ごとではないのです。沖縄の払った犠牲を知った上で、基地問題にどう向き合うのか。国際政治と住民の意見のどちらを優先すべきなのか。そもそも沖縄の民意は基地に反対なのが総意なのか。

あと、池永氏の著作「バガージマヌパナス わが島のはなし」を読み、御嶽の存在が沖縄文化に欠かせないことも知りました。それと組踊です。池永氏の他の著作で情緒豊かに、魅力的に描かれていました。組踊とはどんなものか一度は観てみたい。さらに、この22年は私に酒文化の奥深さとその魅力をがっちり教えてくれました。沖縄といえばすなわち泡盛です。これもどんなものか見てみたい。

検討した結果、今回の旅で絶対に行こうと思ったのは以下の三カ所です。斎場御嶽、海軍司令部壕、ひめゆりの塔。そしてどこかの泡盛醸造所。

前の晩、妻がおすすめするお店を一緒にグーグルストリートビューで確認し、旅の雰囲気をつかみながら、あらためて行きたい場所に思いを馳せます。

妻からは国際通りにあるゴーヤチャンプルーのうまい店を妻に勧められました。私もゴーヤチャンプルーは好きで、沖縄料理を食べる際はかならず注文します。あと、沖縄料理といえば、沖縄そばが有名です。ところが、どうもあのシンプルで武骨な味になじめていませんでした。それもあって、今回の度は私を唸らせる沖縄そばを味わいたい、と思いました。

他にも候補はたくさんありました。たとえば妻からは首里城を見ることを勧められていました。首里城は22年前に行ったはずなのですが、上に書いた通り記憶の彼方です。他にも滝巡りや水族館めぐりなど、22年前の私の興味を惹かなくても今の私には魅力的な場所がたくさんあります。ですが日本の滝百選に選ばれたマリュドウの滝は西表島。飛行機で行ってみることも考えましたが、一泊では時間的にも難しく、費用の問題もあって断念。比地大滝も国頭半島の方まで行かねばならず、一泊二日の日程に組み込むと滝だけで終わってしまいかねない。同じ理由で美ら海水族館も断念しました。

さて、翌日の沖縄の天気予報を確認します。すると雨。大雨のため、那覇で催される予定だったAKB48の野外ライブが中止になったというニュースが飛び込んできます。でも、私の行きたい場所に天気など関係ありません。それよりも目的地が絞れたことの方が重要です。ようやく行く場所が定まったことで、2時か3時ごろまで仕事をして就寝。


長崎の旅 被曝都市からの再生


遅くまでホテルの部屋で仕事をしていた私ですが、朝は普通に起きました。朝ごはんはハウステンボスで買い込んだパン。いわゆるホテルバイキングではありませんでしたが、これがなかなかうまい。満足です。私は早速、駅レンタカーを予約しておいたJRハウステンボス駅に向かいます。昨日学習したとおり、園内を突っ切ることができないため、外周道路を歩いて向かいます。

東京ディズニー・リゾートは、外周道路からパークの内部が見えないように配慮されています。しかしハウステンボスはそうではありません。普通に歩いていても、ハウステンボスのバックルームが丸見えです。確かに、私が歩いた道は観光客の通らないルートです。とはいっても、私みたいに歩いて駅まで向かう酔狂な客はたまにいるはず。そういった好事家には、スキがありすぎ。でもそういう開けっ広げさも、ハウステンボスの魅力が雑多さであることを発見した後では、好ましく思えます。

駅に着いたはいいけれど、レンタカー屋さんの開店まで時間があります。その間を利用して駅を撮りまくります。駅の裏手は国道205号が通り、山が国道の際まで迫っています。どこにでもある田舎の光景。これが面白い。ハウステンボス側が美しいだけに、ギャップとして私に迫ります。東京ディズニーリゾートを擁する舞浜駅の裏に洗練された住宅街が広がっていることに比べ、こちらにはそういった見た目を繕う努力すら感じられません。むしろすがすがしいほどです。

ホテルに車で戻り、ホテルの前に広がる大村湾を眺めながら荷物を積み込みます。波のない凪いだ海。とても静かです。ハウステンボスという日本有数のテーマパークにいながら偉大な辺境にたたずむ解放感に包まれます。名残惜しいですが、長崎に向けて出発です。米海軍針尾住宅地区の物々しく警備された正門を見つつ、西海パールラインという有料道路に乗って南下していきます。大串インターで一般道に合流した後も、長崎の田舎風景は健在です。長崎オランダ村の跡地をみたり、バイオパークの看板に惹かれたりしつつ、ドライブは続きます。琴浦や時津といった街々を過ぎてゆくと、少しずつ車の量は増え始めてます。そしていつしか、道ノ尾駅前という看板が現れます。道ノ尾駅といえば、長崎の原爆を扱う記録に幾度となく登場する駅です。

長崎市内に入ったわれわれはまず、長崎駅によりました。そこで妻がおススメと買ってきた岩崎本舗の角煮まんをほおばります。とてもおいしかった。朝はハウステンボスのパンだけで、何も食べずにここまで来たのでなおさらおいしく感じました。

さて、私が車を止めたパーキングは、爆心地公園と平和公園の間にあります。目の前を国道206号線が通り、交差点で交わる道路は浦上天主堂へと続いています。後で思い返すと、原爆の遺構を歩いて回るには最適な場所だったようです。

駐車場の脇から目の前を登ってゆく階段をいき、高台へ設けられた平和公園に足を踏み入れます。そしておびただしい数の慰霊碑を視野に入れつつ平和祈念像へと向かいました。この像こそ、私が昨日読んでいた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」で取り上げられたテーマである、長崎が被爆したシンボルを後世に残すべき、に直結しています。

今、被爆都市ナガサキのシンボルはこの平和祈念像が担っています。ヒロシマの原爆ドームが持ついかにもな廃虚感は平和祈念像にはありません。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」の著者が非難するのは、浦上天主堂の廃虚を被爆のシンボルとせず、米国の対外宣伝策に乗せられ、新たな天主堂に建て替えてしまったことです。そして、実質的に浦上天主堂の廃虚の代償として建てられたのが平和祈念像なのです。この平和祈念像は、長崎市の公式観光ページの説明文を引用すると「制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。」とあります。私は、この説明の主旨や平和祈念像自体に何も含むところはありません。平和祈念像は後世に伝えられるにふさわしい。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読んだあとも、平和祈念像を眼前にした後でもその思いは替わりません。この後訪れた浦上天主堂や原爆資料館に行った後でもそうですし、これを書いている今もそうです。

ですが、一つだけ言えることがあります。それは、責任の不在です。責任の不在とは、ヒロシマの原爆死没者慰霊碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言が引き起こした議論でもおなじみです。ここでいう”過ち”が日本を指すのか、アメリカを指すのか、責任はいったいどこにあるのか。ヒロシマの原爆死没者慰霊碑の文言が問いかける主体は何か。そして平和祈念像は責任の所在を示さず、巨大な像として鎮座しています。

昨日のハウステンボスのエントリーでも書きましたが、私が長崎に来たのは16年ぶりです。けど、その時は平和祈念像には訪れませんでした。新婚夫婦が訪れたのは、オランダ坂やグラバー邸、出島、大浦天主堂といった異国情緒の長崎です。原爆資料館や爆心地といった反核平和のナガサキではなく。ですから、私が前回、平和祈念像の前に立ったのはさらにさかのぼること5年。ですから21年ぶりです。

その時は学生時分の気楽さもあり、直前までヒロシマにいました。8/5の朝は原爆ドーム前でテントを立てて野宿して迎え、翌日の投下50周年の投下時刻にはダイ・インにも参加しました。つまり、50年の節目に揺れるヒロシマをそれなりに経験し、ナガサキに乗り込んだといえます。ですが、当時の私は平和祈念像に何の違和感も感じませんでした。そもそも当時は長崎原爆資料館が建て替え中で、ナガサキの原爆の生々しさにあまり触れることができませんでした。ましてや、被爆のシンボルが米国の意向で撤去されたという知識もなく。

ですが、今回は違います。私も40歳を過ぎ、少しは知識がついてきたはず、といううぬぼれがあります。その目でナガサキをきちんと見てまわろうと思って乗り込んでいます。娘たちにナガサキの惨禍を知ってほしい。私自身にも被爆の実相を見せたい。そんな思いで街を歩きます。その目でみたナガサキは、普通の街でした。

まず、平和祈念像の横にある「被爆者の店」に立ち寄ります。長崎の物産を扱うこの店で、私が目にとめたのは書籍コーナー。川上郁子という方が書かれた「牧師の涙 あれから六十五年 老いた被爆者」に惹かれ、少し中身をめくります。著者は官能小説作家として著名な川上宗薫の義理の妹だといいます。内容は、有名作家になってもまったく長崎に帰ってこない義理の兄への恨みつらみでした。この本によると、宗薫自身が被爆死しかけ、母と二人の妹を原爆で喪ったにも関わらず、その事実を作品にほとんど著そうとしなかったとか。発言できる立場にいながら、ナガサキの被爆を語りたがらなかった、ナガサキを遠ざけ続けていたという事実にとても興味を惹かれました。私は川上宗薫の小説は一冊も読んだことがありません。なので本書を購入しようか迷ったのですが、今回は断念しました。

今回の長崎の被爆地巡礼の旅は、妻のリクエストでもありました。詳しくは書きませんが、妻は長崎にある思い入れがあります。なので、今回の被爆遺構巡りの案内は妻に任せます。続いてわれわれが向かったのは永井隆記念館。被爆者として妻を亡くしながら被爆者の治療にあたり、放射線医師としての立場から著した諸作品はよく知られています。記念館の屋外に当時のまま如己堂が残されています。じっくりと見ました。私は如己堂は初めて訪問します。この狭さに起居しながら、命を削って自身の想いを伝えようとした永井博士の意志に頭がさがります。

実は「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」では永井博士は批判的に論じられています。この本でもっとも批判を受けているのは、移設に関わった当時の二人の人物です。浦上天主堂を統括していた山口司祭と田川長崎市長。彼らは著者の非難をもろに浴びています。そして永井博士は彼らに比べると舌鋒は緩めですが、原爆投下を神の摂理と受け入れた永井博士の考えは到底受け入れがたいと、批判の目が注がれています。

しかし、永井博士は別の場所では被爆直後の時期に違うことも言い残しています。原子力の平和利用のため、科学研究が必要、と。これは、なかなかいえないことだと思います。永井博士の言葉の一部を切り取ってあげつらうのは、永井博士の想いを誤解しかねない気がするのです。永井博士だけではありません。どうも、長崎の方は、被爆を被害者として受け取らないように思えます。当時の田川市長は米国の思惑を忖度して転向しただけかもしれません。ですが、山口司祭はなによりも浦上天主堂の再建を考えたようです。また、本島長崎市長が発した昭和天皇の責任問題や、原爆投下は日本軍の犯罪行為の報いだ、という言葉はまだ記憶にも新しいです。

そういった長崎の人々のこころを理解するために、本来ならば永井隆記念館に入ってみるべきだったのでしょう。ですが、今日のスケジュールではとても無理でした。残念なことに。

続いてわれわれは、高台に見える浦上天主堂に向かいます。ここもわたしにとっては初訪問。そして「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」がいうもう一つの原爆ドームとは、被爆遺構の浦上天主堂のことです。ナガサキの被爆のシンボルになりえたのに、建て替えでその機会を永遠に逸した、と著者に嘆かせている場所です。街を歩いていると、あちこちから丘に建つ天主堂が見えます。宗教の施設という見方を抜きにしても、見事な外見です。ここが原爆ドームの廃虚のように今もなお遺構のまま立っていたら、と惜しむ気持ちはわからなくもありません。きっと原爆投下という人類屈指の愚行の証人として長崎のシンボルになっていたことでしょう。原爆ドームのように。グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂よりも、誰もが真っ先にナガサキのランドマークは天主堂として思い描くくらいに。

でも、長崎の街を歩いていて思いました。高台に建つ浦上天主堂は思った以上に目立ちます。今でもそうなのですから、建て替え当時のまだ原子野の気配が濃厚な長崎にあっては、その姿はより目立ったことでしょう。広島の原爆ドームは、大田川沿いで見晴らしのよい場所にあります。でも、高台にはないので街中から見えません。でも、浦上天主堂は常に目に付く場所にたっています。ここが今もなお、被爆の遺構の姿を残していたらどうなっていたでしょう。多分被爆のシンボルではあり続けたことでしょう。でも、それはナガサキの街を今以上に被爆の街として縛ってしまっていたように思うのです。ですが、私が歩いた浦上地区は、平和公園、爆心地公園、長崎原爆資料館の一角を除けば、普通によくある坂の多い街でした。それは浦上天主堂が遺構でなかったから、と仮定するのは言い過ぎでしょうか?街を歩いてみて、ナガサキとヒロシマの被爆のシンボルに対する考え方の違いは、地形にあるのではないかと思うようになりました。

ナガサキが被爆の街として世界の非核化の旗印となるべきか。今もなお、被爆の街として世界にメッセージを発信し続けるべきか。それは、長崎の人が決めるべき話です。私のような長崎に縁の薄い人間がどうこう言う話ではありません。なので、今の浦上天主堂が荘厳な姿で立っていることに、今さら反対も賛成もありません。実は当初「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み終えた後は著者の意見に賛同していました。ですが、こうやって街を歩いてみて賛同の意見が揺らぎました。

被爆のシンボルを残すべきか建て替えるべきか。果たしてどちらが良かったのか。長崎に被爆のシンボルがない事は、確かに後世への痛恨事だったと思います。特に同じ被爆都市ヒロシマとナガサキを比べるとその差は歴然としています。ヒロシマは今や世界遺産である原爆ドームを擁しています。昨年、オバマ米大統領がヒロシマを訪問し、原爆慰霊碑に献花したニュースがありました。そしてオバマ大統領がナガサキに足を延ばすことはありませんでした。毎年挙行されている長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は全国ニュースでもあまり中継されていないようです。ナガサキは被爆都市でありながら、被爆を訴える発信力がヒロシマに比べて弱い。それは当の長崎の皆様が感じていることだと思います。ですが、それは他の地域の方が言うべきことではないと思います。ナガサキの皆様で決めていただくことだと。

われわれは永井隆記念館から歩を進め、浦上天主堂の立つ丘のふもとに着きました。堂々とした天主堂を見上げながら近づき、目にしたのは側溝に落ちた鐘楼。いわゆる長崎の鐘が被爆前まで収まっていた被爆の証人です。実は天主堂の被爆遺構はすべてが撤去されたわけではなかった。被爆の痕跡などなかったかのようにそびえ立つ天主堂の下には、被爆の瞬間を今に伝える遺構が生々しく遺されている。この対照的な景色が持つ意味は、この場に来てみなければ決してわからなかったと思います。

鐘楼の遺構が残されていることは、被爆のシンボルとして天主堂を残さなかったことのささやかな代償だと思います。私は、溝に落ちたままの無残な鐘楼の残骸と、空へと向かう壮麗な天主堂の姿を見比べながら、しばし鐘楼の前にたたずみました。ボランティアガイドの方が鐘楼を由来を修学旅行生に説明している姿が印象的でした。

丘の上に登ると、浦上天主堂の壮麗な建物が目の前に現れます。浦上とは、切支丹禁制の時代からこの地で信仰を守り続け、幾度もの浦上崩れと呼ばれる迫害に耐えた信者の地。天主堂を残骸としてではなく、信者のために建て直したいという当時の山口司祭の願いは理解したいと思います。

礼拝堂の中は撮影禁止でしたが、教会のもつ特有の静けさに包まれていました。見学して、外に出ようとした私は、首だけの小さな像に気づきます。これこそが被爆のマリア像。被爆のマリア像は崩壊した天主堂から首だけ救い出され、45年間各地を転々としたあと天主堂へと戻された数奇な運命の持ち主です。マリア像の、両眼を失い、右ほほに傷を負った姿の前から私はしばらく動けませんでした。その間に私が思ったのは、被爆のマリア像に課せられた使命です。天主堂が再建されたことで、天主堂は被爆のシンボルでなくなりました。日本の中でも一番西洋の宗教を受け入れてきたナガサキを、西洋自身が破壊した罪。その罪を後世に伝えていく役割は本来は天主堂が担うはずでした。しかし、天主堂の遺構はすでにありません。爆心地公園に遺構の一部と、長崎原爆資料館内のジオラマとして再現されているのみです。ですが、この被爆のマリア像が原爆の悪魔的所業を伝える何よりの証人となってくれることでしょう。アメリカが自身の宗教的なバックボーンを破壊し、ミサ中だった信者たちを熱線と暴風と放射線で殺戮した事実。その事実はアメリカの罪の意識をさいなみ、天主堂を再建させようと働きかけさせました。ですが、天主堂の遺構は消えても、被爆のマリア像にはその痕跡が残り続けるのです。西洋文明の母性の象徴をこのように傷つけ汚した証が、被爆のマリア像にくっきりと残っています。そして今も行方不明のマリアの両目は、きっとどこかであの閃光を映し続けているに違いありません。

わたしは、側溝の鐘楼と被爆のマリア像を見て被爆のシンボルがナガサキから撤去された経緯を問うことはやめました。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」にナガサキの被爆のシンボルが撤去されるまでの経緯は書かれています。その是非を私が判断することはもうありません。結局、長崎に縁のない私がそれをどうこういう必要はないのです。もちろん、キリスト教の文化が根強いナガサキに同じ西洋人が悪魔の兵器を落とした事実は消えません。神を信ずるクリスチャンの頭上に、残虐な兵器が落とされた意味も忘れるわけにはいきません。しかし、アメリカの意向によって遺構が撤去されたとしても、原爆がキリスト教会の上に落とされた事実は消えないのです。そのことは、浦上天主堂の前庭に立つ、被爆して焼けただれた神父像も無言で語っています。

続いてわれわれは信徒会館にも向かいます。ここにも残骸の破片が残されています。それは原爆資料館の展示に比べるといくぶんぞんざいに扱われているようにもみえます。でも、被爆のマリア像と側溝の鐘楼が残されている限り、教会自身も原爆を落とされた事を忘れないと思うのです。

続いて、長崎原爆資料館へと歩いていきます。途中、ファミリーマートで少しだけジバニャンマンをおなかに入れ、横のフルーツいわながさんでおいしそうな果物を買って帰ります。原爆資料館へ向かう道を歩いていると、「被爆国首相よ 八月六日九日を人類総ザンゲの日として休日に制定せよ」というビラが貼られています。その近くには鯨料理の店があるのがなんだかおかしい。

坂を上がってゆくと碑が多数現れ、そこは長崎原爆資料館。初めて長崎にきてから21年。ようやく来ることができました。入り口にはオバマ大統領が来日した際、機内で折ったという千羽鶴が飾られていました。原爆資料館の展示については、今さら私がいうことはありません。ただ原爆の非人間性を思いしるのみです。私一人、じっくり見ました。妻子は、展示は見てくれたのでしょうが、先に出て待っていました。そして時刻は、長崎を出発していなければならない時間をとうに過ぎています。私はこういう資料館にきて、時間の許すままじっくり観覧した経験はほとんどありません。毎回、最後のほうは駆け足になってしまいます。

出がけに売店で、記念館に行けなかった埋め合わせに永井隆博士の著書を買い、山口彊さんの二重被爆の本も買います。これらのレビューは後日アップしたいと思います。そして資料館を出て爆心地公園へ。ここには爆心地を示す碑とともに、浦上天主堂の廃虚の一部が移築復元されています。それらも写真だけ撮影して車に急ぎます。雨も降ってきました。出発するべき時刻はとうに過ぎています。

そこから、車を飛ばして福岡へ。天神の繁華街を焦りながら車を走らせます。妻子を薬院駅の近くで下ろし、私は博多駅のレンタカー返却場所へ向かいます。そこから地下鉄と西鉄を乗り継いで薬院へ。妻の昔からの知り合いであるLucaさんは、私にとって初めての訪問でしたが、とてもおいしかったです。今日一日、食事は控えめにしていたのですが、その甲斐がありました。

そのまま地下鉄で福岡空港へ。そして羽田行きの便へ。そして羽田からは家へと。なんとか日が変わる前に帰れました。昨日のハウステンボスと今日の長崎、福岡のあわただしい二日間が終わりました。ですが、とても楽しみました。そして長崎の街を少し理解できたように思います。また、行きたいと思っています。


長崎の旅 ハウステンボスの魅力について


妻と二人で長崎を旅したのは2000年のゴールデン・ウィークの事です。前年秋に結婚してから半年が過ぎ、一緒の生活に慣れてきた頃。そんな時期に訪れた長崎は、妻がハウステンボスでつわりに気付いたこともあり、とても思い出に残っています。

それ以来16年がたちました。娘たちを連れて行きたいね、と言いながら仕事に雑事に追われる日々。なかなか訪れる機会がありませんでした。今回は妻が手配し、娘たちを連れて家族での再訪がようやく実現しました。うれしい。

2016/10/30早朝。駐車場に車を停め、踏み入れた羽田空港第一ターミナルは人影もまばら。諸手続きをこなし、搭乗口へと。私は搭乗口の手前の作業スペースでノートPCを開き、搭乗開始を待ちながら作業します。家族四人揃っての飛行機搭乗は11年ぶり。ハワイに旅行して以来のことです。実は私にとっても飛行機搭乗は10年ぶりとなりました。今回はスカイマークを利用したのですが、LCC(Low Cost Carrier)自体も初めての利用です。機内ではスカイマークデザインのキットカットが配布され、旅情を盛り上げてくれます。

やはり飛行機は速い。2時間ほどで福岡空港に着陸です。私にとって九州に上陸するのも前回のハウステンボス以来です。心踊ります。ただでさえ旅が好きな私。海を渡ると気分も高揚します。空港のコンコースを歩く歩幅も二割り増し。目にはいるすべてが新鮮で、私の心を明るく照らします。

福岡市営地下鉄に乗るのは20年ぶり。全てが懐かしい。ちょくちょく福岡に来ている妻に交通の差配は任せ、JR博多へ。みどりの窓口でハウステンボス号のチケットを購入し、いざホームへ。お店を冷やかし、パンフレットを覗き、街ゆく人の博多弁に耳を澄ませます。よかたいばってん。旅情ですね。

ホームに降り立つと、フォルムも独特なJR九州の車両群がホームにずらりと並んでいます。その光景に浮き立つ気分を抑えられません。鉄ちゃんじゃなくともワクワクさせられる光景です。もともと妻がJR九州には良い印象を持っていて、ユニークなデザインの車両については妻から話を聞いていました。私自身、ハウステンボス号に乗るのも、ユニークな車両群に会えるのをとても楽しみにしていました。そんな期待を裏切らぬかのように、やがて入線して来たハウステンボス号は、二種類の異なる車両が連結されていました。ハウステンボス号にみどり号が連結されているのです。

家族揃っての鉄旅は良いです。かつてスペーシアに乗って日光に行った事が思い出されます。本当はもっと何度もこういう旅がしたかったのですが。ま、過ぎた事を言っても仕方ありません。

鳥栖から長崎方向に転じたハウステンボス号は、佐賀の主要駅に停車していきます。私にとってなじみのない佐賀の駅はそれぞれの地の色あいで私を迎えてくれます。吉野ヶ里遺跡らしきものが見え、世界気球選手権大会が線路側で開催されています。有田では街に林立する窯の数に目をみはります。旅情です。旅です。

私は家族と会話したり、車窓をみたり、国とりゲームをしたり。そして、飛行機に乗っている時から読み耽っていた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み切ったり。この本のレビューは、いずれ読読ブログでもアップする予定です。本を読み終えた翌日、家族で長崎の街を歩いたのですが、この本を読んでおいたことは、長崎の街を歩くにあたって得るものがたくさんありました。

早岐の駅で佐世保に向かうみどり号から切り離され、ハウステンボス号は運河沿いを走ります。そして間も無くハウステンボス駅に到着。駅から、運河を挟んでそびえ立っているホテルオークラJRハウステンボスが見えます。ここからのハウステンボスはとても映えます。写真を撮りまくりました。期待が高まります。

私は今回でハウステンボスに来るのは3回目です。そして、ハウステンボス駅を利用するのはたぶん初めて。小ぶりな駅ですが、駅舎の面構えからしてハウステンボス感を爆発させています。これは駅鉄として、駅の全てをくまなく撮らねば。

入り口に向かったわれわれですが、実はまだこの時点で入園券を買っていませんでした。宿泊するウォーターマークホテル長崎・ハウステンボスのみ予約済の状態。16年ぶりの訪問は、正面から見て一番奥にあるホテルへの行き方もすっかり忘れてしまっています。正門から宿泊者用通行券のようなパスを使って入場すると思ったら、そんなものはないとのこと。外をぐるりと回るか、送迎バスに頼るしかないとか。結局、着いて早々、ハウステンボスの外周を送迎バスで回ってから中に入ることになりました。

前回来手から16年。ハウステンボスは波乱の年月を潜り抜けたといいます。一度は会社更生法が適用されたとも。そんな状態からHIS社のテコ入れで復活し、今や日本屈指のテーマパークになった経緯は、まさにカムバック賞もの。何がそれほどハウステンボスを復活させたのか。どれほどすごくなったのか期待していました。ですが不思議です。正門や外周からみたハウステンボスにオーラが感じられないのです。ディズニー・リゾートのように、エリアごと夢と魔法の世界でラッピングしたような演出には出会えずじまい。統一感がなくバラバラな世界観が散らばっているように思えます。

ホテルでチェックインすると、内装はさすがに洗練されています。今回チェックインしたウォーターマークホテルには、前回も泊まりました。その時はたしかホテルデンハーグという名前だったと覚えています。多分ハウステンボス自体の経営権が移った時に名称を変えたのでしょう。なので、ホテルの中では特段違和感を感じることはありませんでした。でも、ホテルを出て、ハウステンボス方向に向かうと何かが違うのです。このエリアはフリーエリアになっていて、ゲートを通らずに楽しめます。石畳に旅情あふれる欧風の建物が並んでいます。それは、異国情緒を感じさせます。ですが、よくよく見ると建物に入居しているのはココカラファインだったりします。観光土産屋さんが長崎の名産品や地域限定商品を陳列しています。建物の飾り付けも自由気まま。好きなように各店がポップを掲出し、幟を立てています。ディズニー・リゾートのような統一された世界とは対極です。おしゃれな道の駅? のような感じさえ抱きます。

それでも我が家は、見かけた佐世保バーガーのお店に入ります。うわさに聞く佐世保バーガーとはどんなんや?うまいっ!旅の疲れが佐世保バーガーで満たされ、気分も上向きます。

が、せっかく上向いた気分も、北に向かって歩いて行くにつれ、違和感に覆われていきます。レトロゲームの展示コーナーがあります。ここでは私も懐かしいゲームを何プレイかしました。でも、ゲームをやりにハウステンボスに来たわけやない、と違和感だけが募っていきます。海辺のウッドデッキをあしらったような場所には、ONE PIECEをあしらった海賊船が停泊しています。そしてウッドデッキにはフードを深々とかぶった謎の人物、フォースを使いこなしそうな人がのろのろと歩いています。この何でもありな感じは、かつて私がきた時の印象とはあまりにも違っています。ディズニー・リゾートの統一された世界観に慣れた我が家の全員が同じ感想を抱いたはず。ハウステンボスって、ショボくねぇ?という。

モヤモヤした感じを抱きながら、入場券をかざしてゲートを潜ります。ハウステンボスのランドマークともいうべきドムトールンを見上げつつ、跳ね橋を渡るとそこはハウステンボスの中心部。先ほど見た謎の人物にも似た妙な通行人がどっと増えます。そう、今日はハロウィーン前日。街中が仮装であふれています。ハロウィーンがアメリカではなく欧風の街並みに合うのかどうか。それはこの際大した問題ではありません。でも、欧風な街並みに洋風の仮装をした通行人が増えたことで、フリーエリアで感じたショボさがだいぶ払拭されました。でも、何でもありな感じは変わりません。お化け屋敷やARのホラー体験のアトラクションがあり、屋外のトイレは惨劇を思わせる血糊で汚されています。

一体どこに向かえばいいのか、行くあてを見失いそうです。それでも事前に下調べしておいたチョコレートの館や、チーズの館、ワインセラー、長崎の名産物などのアトラクションを巡ります。フリーチケットで入場したとはいえ、追加料金が必要となるアトラクションには結局入りませんでした。ただ、広大な敷地を移動し、道中の景色や種々のバラエティに富んだのぼりや掲示をみていると瞬く間に時間は過ぎて行きます。ハロウィーン期間ということもあって、巨大なイルミネーションが園内で展開されています。長崎ちゃんぽんを食べ、SF映画に顔合成された私たちを登場させてくれるアトラクションや、AAAのホログラムコンサートなど、技術の粋を惜しみなく注いだアトラクションには驚かされます。そんな風に過ごしていると、閉園時間が近づいてきます。結局、園内のかなりの場所を訪れることはできませんでした。北側の風車付近や、マリーナ、庭園や美術館の地区など。

広い園内と、雑多過ぎるほど統一感のない世界観。それでいながら、オランダを模した建物が林立する中、建物を縫うように石畳の街路が縦横に広がります。パトレイバーの等身大像や、運河を挟んだ建物の側面に映し出されたプロジェクションマッピングで太鼓の達人が遊べるアトラクション。徹底的に世界観の統一を拒むかのような園内。飽きるどころか、ほぼ並ばずにアトラクションを訪れていても、遊びきれていない満腹感とは反対の感覚。園内で感じた統一感のなさは、マンネリ感や既視感とは逆の感じです。それはかえってハウステンボスの巨大さを知らしめます。

ところが夜になると印象は一変。イルミネーションが園内に点灯し、統一感のある光で満ち溢れるのです。その素晴らしさは、ドムトールンに登って園内を見下ろすとより鮮やかになります。園内がマクロなレベルで統一されています。日中に見えていたオランダ風の街路や建物は、イルミネーションの影のアクセントとして存在感を増します。光の氾濫は眼をくらませるようでいて、その裏にある街路や建物の存在をかえって主張しています。

ここに至って私のハウステンボスへの認識は改まりました。フリーエリアで抱いたショボいかも、という認識。これはハウステンボスの目指す方向を見誤っていたことによるものだと気づいたのです。

ハウステンボスの目指す方向。それは、統一感のある世界観とは逆を向いています。つまり、東京ディズニー・リゾートの作り上げる夢と魔法の国からの決別です。ディズニーキャラの住むカートゥーンの世界観。それは東京のディズニー・リゾートがガッチリと抑えています。大阪のUSJもそう。ハリウッド映画の世界観が大都市からすぐの場所で楽しめる。

たぶん、かつてのハウステンボスは、オランダの異国情緒を体験できるとの触れ込みで統一感のある世界として創りあげられたはずです。しかし、長崎という日本のはしでは無理があった。ではどうすればいいか。HISはハウステンボスが日本の周辺に位置しているという条件を逆手に取ったのです。そして、それにふさわしい方針転換をしたのだと思います。すなわち、なんでもありの世界。統一感のない世界の実現へと。

何度も東京ディズニー・リゾートに行っていると、統一された世界観に、次第にマンネリズムを感じていきます。いくら趣向を凝らしたディスプレイで飾られていても、しょせんはディズニーキャラの世界。世界観が強固であれば、そのぶん閉塞感も増します。春夏秋冬、季節ごとにイベントで色合いを変えても、ディズニーキャラの世界観の延長でしかありません。それは、観客の達成感や飽和感につながります。ハウステンボスは、世界観に左右されないがため、逆に自由な発想が展開できます。オランダ風の建物や路地はただのベースに過ぎないのです。

逆説的ですが、そのことに気づいた時、私は最近のハウステンボスが盛り返している理由をおぼろげに理解したように思いました。ディズニー・リゾートと同じ土俵にあがらず、統一感をあえて出さずに勝負する。そして訪問客に満足感を感じさせない。それが、次なるリピートにつながる。実際、ハウステンボスをくまなく訪れられなかったことで、かえって園内の広さに満足感を持ったくらいなので。聞くところによれば、USJも雑多ななんでもありの路線を打ち出し始めているようです。上に書いたように従来のUSJはハリウッド映画の世界観で統一していました。でも、今は何でもありの世界観を出すことで、ディズニー・リゾートと一線を画しています。そしてディズニー・リゾートを凌駕しつつあります。成功の理由とは、世界観の統一を放棄したことにあるといってもよいのではないでしょうか。いまや、世界観の統一という満足だけだと、訪問客に見切られてしまうのでしょう。

地方を活性化するヒントも、ここにあります。田舎の何でもあり感は、洗練されたスタイリッシュな都心に住んでいるとかえって新鮮です。都心は、人が多すぎる。それゆえに、固定客をつかめば経営が成り立つのです。固定客とはつまり世界観が確立している店へのリピートです。つまり、都心では世界観を固定させることが繁盛へのキーワードだったといえます。しかし、ハウステンボスは田舎にあります。田舎で都会並みの統一感を出したところで、都会の人間にははまらないのです。オランダの街並みがはまった人にはリピーターになってもらったでしょうが、そうでない方には世界観の限界を見切られてしまいます。それこそが、当初のハウステンボスの凋落の原因だったと思います。すでに都会の世界観に疲れている私には、ハウステンボスが展開するこのとりとめのなさが、とても魅力的に映りました。そして、東京ディズニー・リゾートのような感覚で、テーマパークを当てはめてしまっていた自分の感性の衰えも感じました。

すでに寝静まろうとしている店を訪れ、少しでも長く多くハウステンボスを経験しようとする我が家。ホテルに一度戻り、娘たちを寝かせた後、夫婦で再びハウステンボスに戻ります。フリーエリアと有料エリアを分ける跳ね橋のそば。ここに、深夜までやっているbarがあります。「カフェ ド ハーフェン」。16年前もここに来ました。そして妻はジン・トニックの味が違うことにいぶかしさを感じました。それはもちろんつわりの一症状でした。このbarにはそんな思い出があります。今回、大きくなった娘たちを連れて来たことに万感の思いを抱きつつ、結婚生活を振り返りました。そして、16年ぶりのハウステンボスが、世界観を変えてよみがえったことに満足しつつ、お酒を楽しみました。

また、訪れようと思います。


弊社は、福島を応援します。(10/2版)


10/1

7:00-9:50

目覚ましなしで朝を迎える。かなり楽しく飲んだが、あまりアルコールは残っていない。

昨日の朝と同じく、無料の朝食サービスで腹ごしらえ。ここの朝食サービス、スープがうまい。

さて、今日をどうすごすか。大町商店街での宝探しイベントにも行きたい。あと、銚子ケ滝は必訪だ。さらにはお勧めいただいた達沢不動滝にも足を延ばしたい。さらには湖南公民館でマンホールカードをコンプリートするミッションも発生中。そもそも私にそのミッションを授けた開成館で安積疎水について見聞を深めねばなるまい。だが、宝探しイベントの開始は11時からと遅めだ。さてどうする?

作業もあったので、それをこなしつつ、作戦を練り、カーシェアリングの予約を完了させる。結局あれやこれやでホテルをチェックアウトしたのは9:45。カーシェアリングの予約は9:50。実はカーシェアリングの駐車場はホテルから50メートルしか離れていない。

9:50-11:15
駐車場で私を待っていた相棒
カーシェアリングを使うのは今回が初めてだ。郡山に来る前日の昼に紀尾井町にある受付カウンターでカードも作っておいた。ウェブからの予約も順調に終わる。予約したのはHUSTLER。車にはうとい私もアラレちゃんでお馴染みであることは分かる。だが、HUSTLERの形がよく分からない。車が見つからず、広大な駐車場をウロウロする羽目に。今回の相棒は昨日に続いて赤色。野郎一人のドライブとしてはなかなか勇気のいる色合わせ? ま、私はあまりそういうの気にしないたちだが。

私の作戦はこう。まず開成館に行って建物をじっくり。それから街の中心部にもどってイベントに参加し、そこから湖南公民館や滝方面に向かうというもの。

松方正義卿による茂松清風舎の扁額

開成館外観
開成館扁額
そして訪れた開成館。おととい受付にいらっしゃった親切なおじさんの姿はなかった。でも、開館したての敷地には清新の気が満ちている。敷地内には数棟建物が。それぞれの建物は中にも入れるようだ。そして中では明治初頭の暮らしが実感できる。そこには明治政府の要人が何人も宿泊した記録が残され、そこかしこに揮毫の書や掛け軸が飾られている。開成館とその周囲の建物が安積地域にとって重要だった事が見て取れる。この開成館を拠点に、明治政府の一大事業、安積開拓は行われた。開成館の前庭には、ざくろの木が実を成らせていた。
開拓の 成果を語る ざくろの実

展示の中の一つ。猪苗代湖と郡山市街地
そもそも安積開拓とは何かというと、古来この地はあまり水利が良くなかった。阿武隈川の水は引き上げねばならず、当時の技術では困難。一方、すぐ近くには猪苗代湖という巨大な水瓶が満々と水をたたえている。この水を利用すれば、この地は肥沃な地に一変し、日本にとって重要な穀倉地帯となるに違いない。これが明治政府の思惑だ。そして大久保内務卿の肝いりの政策といっても良い。だからこそ何人も明治政府の要人たちが訪れたのだ。何十キロもかなたの湖から水を流す水路を通すわけだから 、当時の日本にとっては一大事業であったことは容易に想像できる。

こういった知識は全て、開成館の展示で知った事だ。ここに書いたことの100倍以上の情報量が、開成館には詰まっていた。そしてそれが私の計画を狂わせる事になる。あまりにも展示が充実しているので、私の予定時間を過ぎても観きれないのだ。

だが、安積開拓を知らねば、郡山を知った事にはならない。ここはどうしても観ておきたい。そんな訳で、私の観覧時間はどんどん延びてしまい、これでは滝にも行けない恐れがでてきた。

そんな訳で、予定を変更。イベントの参加は後回しにする。そもそも今回の郡山訪問はイベント実施の話から始まった話。イベントに参加しないとなると主客転倒になってしまう。正直言ってかなり迷った。が、逡巡の末、滝を優先する。これが功を奏したかどうか。。。はこの後の私の行動次第。

11:15-12:10

予定を大幅に超過してしまったが、作戦変更した私は開成館を出る。実は時間があったら安積歴史博物館や郡山市歴史資料館への訪問も考えていたのだが、開成館の展示があまりに充実していたのでパス。だが、開成館の展示だけでも郡山市がなぜ県庁所在地である福島市を差し置いて県下第一の商業都市となったか理解できた気がする。
開拓地 実りの秋に kintone

さらに理解できたのは、なぜこの地への風評被害に心を痛める方がいるのかについて。それは、汗水垂らして開拓を成し遂げた先祖への申し訳なさではないだろうか。安積の地が平静なのに、いわれなき風評被害を受け、科学的評価が定まっていないうちから人体への影響をうんぬんされ、それがために県外の方に忌避される。それは、先祖から脈々と受け継がれた開拓の精神からすると到底受け入れられない事に違いない。

猪苗代湖が安積地域に果たした役割を知ったところで、それでは、明治の先人達が安積発展の希望とした猪苗代湖へと、いざ向かわん!

開成館からはひたすら西へ。これが結構遠い。距離にして30キロほど。急峻ではないが、山道もトンネルもそれなりに通る。この距離と勾配をモノともせずに疎水を開通させた先人の苦労がしのばれるというものだ。そして道中には農地が広がっているが、それら畑は放棄されず、稲穂を実らせていたこと、休耕地のような荒地めいた風景には出会わなかったことも書いておきたい。ここで農地保全の努力が放棄されているようなら、今回、私が書いてきた事がうそになってしまう。だが、風評被害にも負けず、栽培から収穫までの一連の作業が営まれている事に安堵を感じる。

収穫の風景は、三森トンネルを越えたあたりからいよいよ顕著になる。福島県を縦に三本に割ると、東から順に浜通り、中通り、会津と分けられるが、三森トンネルは、会津と中通りの分水嶺となるのだろう。そして農村風景は続く。しかし、猪苗代湖のきらめきには行けども巡り合えない。この付近の地形については、私のような訪問者には一筋縄では行かないらしい。

湖南公民館の特徴的な外観
そうしているうちに目的地である湖南公民館に到着。ここでは2枚目となるマンホールカードが配られている。係の方も心得たもので「台紙要りますか?」と声を掛けていただく。台紙はすでに開成館で入手していたのでお断りし、2枚目となるマンホールカードをいただいた。湖南公民館にはマンホールを立派なパネル状にしたものが置かれ、全国マンホールカード発行の告知ポスターまで貼られていた。

さて、マンホールカードを入手した事で、続いては猪苗代湖だ。HUSTLERを駆ってむかったのは、青松浜湖水浴場。

猪苗代湖と磐梯山
駐車場に乗り付けた私の眼前に、猪苗代湖の水面が横たわる。その彼方には一目で磐梯山とわかる山塊が水と空をくっきりわけている。空と山と湖。この三つが調和し、溶け合い、自然の持つ味わい本質を携えて私の前に展開されている。紛れも無く福島の象徴。私の前に降臨したのは、度重なる戦乱や噴火や地震や事故の中、一貫してあり続ける自然の姿。

空と山と湖を前に英気を養う相棒
ここに、HUSTLERの赤をアクセントとして加える事で、この完璧な調和を乱す事にならないか。いろいろ撮影アングルを変えて試して見たがどうだろう。一番マシと思える一枚を載せてみる。

HUSTLERと猪苗代湖と磐梯山
かつて、この山が大爆発を起こした際、ここからの眺めはどんなものだったか、想像せずにはいられない。いま、湖面には水上スキーヤーがボートと疾走し、天鏡湖とも言われる猪苗代湖の湖面を波立たせる。それすらもこの調和を乱すことはない。一点の曇りもないこの風景。これこそが福島や郡山や会津の人々の心のよりどころとなって来たことが実感できた一瞬だった。
磐梯を まばゆく飾る 稲穂かな

12:10-12:50

稲穂の中の紅一点
あまり時間もないので、HUSTLERのエンジンを始動し次の目的地へと向かう。が、走り始めてすぐ、輝くばかりの稲穂たちに囲まれる。ここにHUSTLERの赤をなじませてみたくなった。昨日は小柄な自転車の赤だったが、今日は大柄なクルマの赤を。うん、似合うかも。
磐梯を まばゆく飾る 稲穂かな

湖岸から見える湖そして山
湖岸を北上する私の視野には、常に磐梯山と猪苗代湖のペアがついて回る。切っても切れない関係。砂浜や船着き場や畑が現れては去って行くが、主役となる両者は相譲らず。常に視界に陣取って私を魅了しつづける。
青色を 湖面と空と 競いあい

やがてHUSTLERはT字路へと至る。左に折れると猪苗代町内や会津若松へと至る道。そちらの方角にも興味深い出会いがあるはず。が、今日は素直に右に折れる事にする。そしてすぐに上戸駅という看板を見つける。これはJR磐越西線の駅のようだ。今回の旅では機会があればこの辺りの小さな駅にも行こうと思っていたので寄ってみる。

上戸駅舎箱型の駅舎に単線ホームが伸びる単純な構造。だが、これがいい。そっと集落の一員として溶け込んでいる様が。実はこの駅は旅客としてかつて通り過ぎたことがある。12年ほど前に、友人と二人で八王子、小渕沢、小諸、姨捨、長岡、新潟、会津若松と一泊二日の旅を楽しんだ。新潟から会津若松まではSLばんえつ物語というイベント列車に乗り、会津若松から郡山で乗り換えて東北新幹線で帰った。その際、確かにこの上戸駅は通ったはず。上戸駅の駅名標
だが、全く記憶にない。ついでに言えば、その際に乗り換え駅として利用したはずの郡山駅の記憶も全く残っていない。当時は全く郡山の街にも駅にも興味がなかったことが分かる。その当時の写真を出して見ても、猪苗代駅の次の写真が池袋なのだから。猪苗代湖の湖面もおぼろげに記憶はあるが、じっくり見ずに通り過ぎただけだった。あかべぇの書かれた車両が発車する瞬間

だが、今回はしっかりと猪苗代湖、そして上戸駅を心に刻んだ。写真を撮っているとちょうど郡山行きの列車がやって来た。側面に会津若松のマスコットあかべぇが描かれた車両だ。黒みの車体が何だか似合っていてかわいい。車掌さんも女性だし。

12:50-13:50
磐梯熱海駅構内
次に車に乗って向かったのは、磐梯熱海駅。この駅は東北の駅百選にも選ばれている。なので寄ってみるつもりだった。熱海という名には由来があって源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした合戦の後、磐梯熱海駅舎鎌倉出身の武士が地元の熱海の名を付けたのが始まりだという。つまり、安積開拓の行われるはるか以前から、郡山にも土地の名所はあったのだ。ここは覚えておかねば。磐梯熱海駅の駅名標

磐梯熱海駅の足湯
駅前には足湯が設けられ、のどかな時間が駅前を覆っている。駅舎にもホームにも入って撮影した。誰もホームで電車を待っておらず、百選の駅らしからぬ人気のなさ。個人的には自由にホームを歩きまわれたので問題ない。が、これは2011年3月以前からも変わらぬ光景なのだろうか。少し心配になる。

13:50-15:20
続いて向かったのは銚子ケ滝、昨日の乙字ケ滝に続いて日本の滝百選に選出された滝だ。カーブ続きの山道を登ったところ駐車場があったが、駐車場から上に登ると車道が。そしてその車道をさらに登ることになる。それならこの車道を車できたほうが早く行かれるんじゃね?ということで、カーブ続きの山道を戻り、郡山市ふれあい牧場の敷地にはいる。その中を突っ切ると、先ほどの車道を通って銚子ケ滝入り口へ。ここからもさらに20分ほど山道を歩く。たまに人にすれ違う以外は、一人の山歩き。そしてこのあたり、熊が出没するそうで。熊出没注意の看板
うーん、出遭った時はその時。と覚悟を決めて山道。ここからは安達太良山への登山道にもつながっているのね。時間があったら登ってみたい。が、私の思いとは裏腹に、道は急激な下りに。これがまた、実にきつい下りだった。鎖場も途中にあるほどの急坂。入り口に軽装禁止と注意書きされていたのが良く分かる。
熊の住む 道行く声も 高らかに
誰一人 見えぬ山道 息荒く

銚子ヶ滝
それだけの苦労の甲斐あって、眼前に見る銚子ヶ滝は見事。途中にある大岩に水流がぶつかり、水がぶわっと広がりつつ落下する。その形が酒を入れる銚子のように見える。自然の造形の妙が味わえる滝といってよいだろう。私にとって銚子ヶ滝は日本の滝百選の中で訪れた21箇所目。その中でもこちらは形のユニークさとアプローチの急峻さで記憶に残るに違いない。

帰路には、森閑とした木立の向こうできつつきが立てる音を生で聴く。得がたい経験。
きつつきの リズムにしばし立ち竦む

誰も居ない山道を急ぎつつ、私の頭には次の行動をどうするか目まぐるしく考えていた。すでに時刻は15:10。ここで今日の行動を終了させるのか。それともあと一つ達沢不動滝にも足を向けるか。

15:20-17:15
車に戻った私は、車のカーナビで達沢不動滝の位置を探す。すると、ここからそんなに離れていないことを知る。これは、、、、行けるかも!

HUSTLERには少々酷だが、カーブの度にタイヤが悲鳴を上げる。ふれあい牧場までかっ飛ばす。そしてカーブ続きの山道を登り、裏磐梯の高原地帯を一路、達沢不動滝まで。この道路もじっくり運転すれば見ごたえのある景色が続いていたが、私にはただ達沢不動滝しか見えない。かなりの速度で突っ走る。

私の無茶な運転は、達沢不動滝前の駐車場で終わりを告げる。そこから渓流と木立に沿った道を走る。居合わせた10数名の人に、走る私はさぞや人目を引いたことだろう。

不動堂
が、不動堂を前に先客が。足腰の不自由な年配の方が杖をつき、介添えの方二人と一緒に歩を進めている。ここで、私も深呼吸。17:30までにHUSTLERを郡山駅東口のカーポートに返さなければという焦りはあれど、ここで強引に前を行くのは諌めなければ。自分の運の強さを信じ、まずは不動明王の碑に向かって一礼。そして前の二人を待ち、滝へと踏み出す。

達沢不動滝
達沢不動滝。実に端正な滝姿だ。巨大な一枚岩の幅の全てに水が流れ落ち、滝と岩が一体となっている。そしてこの造形には人の手は関わらず、自然によるものだ。この姿を見て仏性が宿っていると古人が考えたのもうなづける。私もしばし滝の前に立ち尽くし、時間のたつのも忘れ、ただ見とれる。だが、よくよく見ると一見すると端正なこの滝だが、滝つぼにあたる岩の前には大小の岩が並んでいる。おそらくは上流から運ばれてきた岩なのだろう。角も粗削りで、険のある様子。端正なだけではないこの滝の本性を見た気がする。不動明王をこの滝になぞらえた事も納得。
端正な 滝の本性 壺の岩
先駆けて 寒気に慣れし 紅葉かな
滝打たれ 巌の末も 砂ならん

じっくりと滝を見ていると、奥まったところにもう一つの滝も見える。よくみると「女滝」という案内板も掲げられている。なるほど、先に見たほうは「男滝」に当たるのか。「女滝」のほうは奥まったところで縦に長く水が糸を引いているような姿をしている。二つの滝の比較にも興が湧く。対比の妙が楽しめることもポイントが高い。

さて、離れがたいが、そろそろ行かなくてはならない。レンタカーをの延長は避けたいところ。

HUSTLERに最後の一踏ん張りをお願いし、郡山市街まで車を駆る。 行楽帰りの車が多く、渋滞っぽい速度減もあったが、17:15に無事に到着する。返却期限の15分前には到着出来た。それにしてもカーシェアリングは初めて利用したが、カーナビの仕組みをうまくビジネス用途に改造している。これもkintoneと連携したいと思いたくなる。

さて、郡山に戻ったからには、イベントに顔を出さねば。。。という望みは、実はすでに潰えていた。郡山市街に向けて最後の工程に入る前にウェブで調べたのだ。終了15:00だとか。申し訳ない。

だが、最後にまざっせプラザに行って後片付けの現場で一言ご挨拶出来れば。。。と思ってまざっせプラザに着いたら普段通りの平常営業モード。果たしてイベントやってた?という感じの。店の中には昨日と一昨日お世話になった皆様がいらっしゃったので、一言声掛けて行こうか迷ったのだが、わざわざどうかと思って声をかけずに去る。こう言うのって多分都会の人間の駄目なところなんやろなあ、と後から反省する。でも、まざっせプラザの皆様にはいい郡山の印象を与えて頂き感謝。そして、それを潮に離れがたく思っていた郡山を去る決心をつける。

The Bar Watanabeの前を通り、フルーツたっぷりカクテルで店構えが引かれるAikaにも寄りたかったが、我慢して駅へ。郡山駅コンコースに掲げられている歴程

郡山駅で買った切符のつり銭
駅では郡山の思い出をモノで残そうと、お酒やお土産を買う。そしていよいよ切符を買う。すると戻ってきたのは十円玉数枚。しかも全て新品の。郡山を去るにあたって新品の銅貨が戻ってきたことに何かの示唆を感じる。これはまた郡山に来るということを示しているのではないか。帰りに乗ったはやぶさ

郡山から帰って数日の後、高幡不動を訪問した。高幡不動は新撰組に縁のある地。すなわち会津に縁のある寺だ。そこに何かの機縁を感じ、私も郡山駅で得た新品の10円玉数枚を賽銭として使った。

そのご縁からか、再び郡山に訪れることになった。訪れるのは11/12、13の両日。私が郡山で話した何がしかが評価を頂いたのか、それとも10円玉に込めた思いが通じたのかは分からない。でも、一つだけいえるのは、再度郡山に呼んでもらったからには、また全力でお話をさせていただこうと思う。

地図集

コンフォートホテル郡山から郡山駅東口駐車場への経路

郡山駅東口駐車場から郡山市開成館への経路

郡山市開成館から湖南公民館への経路

湖南公民館から青松浜湖水浴場への経路

青松浜湖水浴場から上戸駅までの経路

上戸駅から磐梯熱海駅までの経路

磐梯熱海駅から銚子ヶ滝入口駐車場への経路

銚子ヶ滝入口駐車場からふれあい牧場入口までの経路

銚子ヶ滝入口からふれあい牧場までの経路

ふれあい牧場から達沢不動滝への経路

達沢不動滝から郡山駅東口駐車場への経路

郡山駅東口駐車場からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから郡山駅への経路


弊社は、福島を応援します。(10/1版)


10/1

7:00-11:00
前夜は結構度数の強い酒を飲み、かなり酔っ払って寝てしまった。だが、目覚ましもなく起きる。10月の朝を迎え、昨晩やり残した月初仕事も終わらせてしまわねば。そんなわけで朝から仕事に精を出す。そしてこちらのコンフォートホテル、朝ごはんが無料で食べ放題。これは結構重宝した。

さて、朝から仕事をしながら私の心はかなり揺れていた。乙字ヶ滝に行くべきか見送るべきか。実はそのことについては郡山に来る10日ほど前から決めかねていた。kintone Café 福島 Vol.1の開演時間は15:00。そして会場となるco-ba koriyamaは駅からかなり離れている。自転車の返却期限はセミナー開催中にあたるので、その前に返しておかねばならない。つまり会場へはタクシーかバスか歩きで向かう必要がある。その時間も見ておかないと。一方、乙字ヶ滝へは片道19km。自転車で行けない距離ではない。そして、次に郡山に来られるのはいつになるか分からない。であるなら、今行かねばいつ行くのか。明日やろうは馬鹿やろう、だ。即断即決と猪突猛進の精神を発揮!

そんなわけで、昨日に続いてまざっせプラザへ。昨日はお見掛けしなかったお姉さま方に自転車の貸し出し手続きをお願いする。そしてお姉さま方はとても親切だった。15:00にco-ba koriyamaに行かねばならない旨を伝えると、その場で会場までの行き方を案内してくださった。しかもそこに行くためのバスの時刻表を調べてくださるとか。さらには昨日紙で作った会員証もラミネートまでしてくださるとか。そして全ての作業は私が自転車を返しに戻るまでに進めておいてくださるとか!すげえぜ!まざっせプラザ!やるな郡山!もはや私の抱く郡山への好感度は盤石の物に。

さて、顔中にまざっせプラザへの感謝の意を浮かべながら表に出た私は、力強くペダルを漕いで出発する。昨日借りたのはママチャリだったが、今日は少しスポーティーな赤い自転車。私の脚力を託すに相応しい相棒だ。ともに目指すは19キロ先の乙字ケ滝。4時間で戻ります!いや、戻らねば!

11:00-12:00
安積永盛駅北側ですれ違った貨物列車ここから私の旅路は南へ。県道17号線(旧国道4号)を南に下る。途中安積永盛駅へ寄り道しながら、須賀川市境で国道4号線へ合流。ここからは緩やかなアップダウンが続く国道沿いを疾走する。正直、私の脚力については全く不安はなかった。だが、もしタイヤがパンクしたら、チェーンが外れたら、という恐れがなかったといえばうそになる。でもここは自分の運と想いの強さを信ずるのみ。

この旅は自転車が頼り。それゆえ、悠長にタブレットの地図を見る間がない。まざっせプラザでいただいた大まかな地図を見ながらの旅となる。しかもその地図は郡山の地図。なので、須賀川市の詳細が全く分からない。そんな訳で須賀川市内ではかなりの迷走を余儀なくされた。後日確かめたところ、私の走ったルートは市内をかなり迷走していたようだ。末尾に地図をつけているのでもし興味があれば参照していただければと思う。だが、迷走もやがて国道118号線にたどり着き、終わりを迎える。迷いながらも私は始めて訪れる須賀川市に興味津々だ。道中には円谷幸吉記念マラソン大会の看板も掲げられている。須賀川市はウルトラマンの生みの親こと円谷英二氏で有名だが、悲劇の自死を遂げた円谷幸吉氏のふるさとでもあったのだ。両名は名字が同じだけでなく、同じ市内のご出身であることを知る。

沿道に並ぶ果実屋さん須賀川牡丹園を過ぎた辺りから、沿道には急に果物屋の路面店が立ち並ぶ。実はその時まで福島県がフルーツ王国である認識が抜け落ちてしまっていた。だが、この果物屋の立ち並ぶ様は、ここが果実生産の盛んな地であることを示すのに十分だった。このあたりの店主の皆様は風評被害にも負けず、がんばって営業されている模様。シャッターが下りている気配は感じられない。頑張って欲しいと思いながら通り過ぎる。ももがとてもおいしそうだったが、こちらは往復38キロを時間までに走破せねばならぬ身。皆さんが頑張っていることをブログに書くことを誓い、通り過ぎる。

橋の上から見る乙字ヶ滝そして、さらに進むと乙字ヶ滝の案内が。118号線を逸れ、少し下ると大きな橋が行く手に見える。どうもここが乙字ヶ滝のようだ。はて?日本の滝百選を擁する場所にしては広がりのある空間。どこに滝が?と思う間もなく、橋の上から見えるは滝の怒涛が散らす水しぶき。滝音も聞こえてくる。長さ100メートルほど、高さ10メートルの橋から見下ろす滝は、落差よりも広がりに見所があるようだ。橋の向こうには観光バスが停まっており、近づくと石碑も立っている。

乙字ヶ滝の石碑ここがまぎれもなく乙字ヶ滝。無事到着したようだ。時刻は12時少し過ぎ。須賀川市内で迷ったとはいえ、目標の1時間で到着できた。

12:00-12:30
乙字ヶ滝は、かの俳聖松尾芭蕉翁が奥の細道の途中で立ち寄った地。「おくのほそ道」は二年程前に読んだ。その旅情溢れる内容にとても憧れたものだ。その時に私を捉えた俳句の心についてはブログにも書いた。それ以来、旅立ちの地である千住大橋を除けば初めて訪れる「おくのほそ道」ゆかりの地がこちら。芭蕉句碑滝不動尊が鎮座し、境内は公園として整備されている。聖徳太子の石像や芭蕉翁と同行の曾良の石像も閑静な公園に立っている。また、芭蕉翁の詠んだ句が句碑として残されている。
五月雨の滝降りうづむ水かさ哉

河原から見る乙字ヶ滝の滝姿橋の上から見た乙字ヶ滝は、少々拍子抜けする佇まいであった。が、滝不動尊から、そして河原から見る乙字ヶ滝は、百選に選ばれることも納得の威容。落差こそないものの、川を横切る段差のそこここで滝が落ちるさまは必見。先日の台風の余波が水量に表れているのだろうか、中央部の段差がくぼんだ箇所には轟音としぶきが存在感を放つ。落差を求める向きには物足りないだろうが、私には旅情を誘うに十分。19km自転車を漕いできた苦労も報われた想いだ。ただひたすらにシャッターを切りまくる。

台風の 傷を癒して 海行かん
秋雨や 舞台に集い 水しぶき

12:30-13:20
38キロの友滝を目前にすると1時間2時間は苦にならない私だが、さすがにkintone Café 福島 Vol.1を控える今、長居はできない。名残の想いを遺しつつ去る。橋を渡り、国道118号に合流する道を進む。と、ふと思いつき仮初めの相棒となった愛車を写真に残す。今回はパンクもチェーン外れも無縁の、頼もしい相棒だった。感謝!

乙字に倒れた稲帰りは同じ道を迷わぬように郡山へ進路を取る。が、帰りは迷わぬよう一直線に、、、ところがそんな私を惑わすモノが道中にはたくさん・・・まずは、田植えを目前にした稲。これが先日の台風の影響だろうか、綺麗に乙字型に倒れている。これもまた旅の一情景。
台風に 薙がれて稲穂 乙字かな

ウルトラマンゴモラ

エレキング
エレキング
ゼットン
ゼットン

須賀川駅せっかくなので、須賀川駅にも立ち寄る。ここは須賀川市の玄関口。駅前広場にはウルトラマンの像が変身のポーズで立っている。ウルトラマンと町を結びつける面白い試みは駅舎内でも見られた。そこで知ったのだが、M78星雲 光の国と須賀川市は姉妹都市提携を結んでいるという。一般市民も光の国に住民登録できたりするのだ。実は訪問前まで、失礼ながら須賀川市とは郡山市の陰に隠れがちの衛星都市のように考えていた。しかし、こうやって訪れてみると魅力的な街づくりに力を入れていることに気付く。坂が多く、自転車でうろつき回るには難儀する街だが、観光資源の豊かさではお隣の郡山にも引けを取らない。しかもゆくゆくは円谷英二、円谷幸吉の両氏を顕彰する記念館もできるのだとか。須賀川市にはまた来てみたいと思った。

13:20-14:40

さて、須賀川駅を後にした私、この時点で時間は13時20分過ぎ。そろそろ郡山に向かわねばまずい・・・。と急ぐ私の行く末には、福島の魅力がさまざまに形を変えて立ちはだかる。

下江持橋からの阿武隈川須賀川駅から北に進路を向けてしばらく走ると阿武隈川を渡る下江持橋にたどり着く。乙字ヶ滝以来、久々に見る阿武隈川だ。この橋から見る阿武隈川は実にゆったりと流れていた。大河の持つ器の広さとでも言おうか。この後も阿武隈川とは付かず離れず郡山に向かうことになる。阿武隈川と付き合ってみて思ったのは、安積地域の起伏が穏やかな地勢には、阿武隈川の穏やかな感じが似合っているということだ。今回郡山に訪れる前に私が印象として持っていたのは、郡山を中心とした安積地域が原発事故の風評被害に苦しんでいるということ。私はそれに何かしらの助けをしたいと思ってやって来た訳だ。そして、こうやって安積地域を走り回って思ったのが、まったく普段通りの姿であること。痛々しい姿も、肩肘張った姿も、人々の言動や山河のたたずまいからは感じられなかった。それも、阿武隈川のゆったりした流れから受けた印象なのかもしれない。

残土処理場の看板そんな私が、今回の2泊3日の間に唯一見かけた原発事故の余韻がこちら。下江持橋をわたってすぐの場所に掲げられていたこちらの看板からは、須賀川市もまた原発の余波に苦しんだ街であることが見て取れた。しかし、先ほど通りがかったフルーツ街道も、乙字ヶ滝のしぶきも、この後見る稲穂のざわめきも、原発事故などなかったかのように普段通りの日々を営んでいる。

みちのく自転車道とかかしさて、看板の存在を考えながら自転車を漕ぐこと数分、みちのく自転車道という案内看板を見かけた。実は下江持橋を渡った時点で、すでに往路とは違った道を通っていた。迷いかねない行いの上に、ここにきてさらにこのような魅力的な名前の自転車道が、、、。そして私はこの自転車道に乗り入れることを決意してしまう。頼れるのは己の方向感覚のみ。往路に須賀川の街中で迷ったことも忘れ、自分を過信するのが私の欠点であり長所なのだが。。。自転車道の入り口でこんな風にかかしに招かれたら普通は見過ごせないでしょ?

見えるはただ稲穂のみさて、みちのく自転車道に入り込んだ私。すぐに不安を一掃するような景色に出会う。それがこちらの写真。人家はおろか、文明の痕跡すらほとんど画面に映らぬ中、ひたすら続く黄金の稲穂の絨毯。しばしkintone Café 福島 Vol.1までのタイムリミットも忘れ、呆然と立ち尽くした。自然の力とは偉大だ。風評被害などというものは、この写真一つで吹き飛ばせるのではないか。畑に少し近づくと、路肩から次々と無数のバッタやカエルが母なる田んぼへと飛び込んでゆく。太古から繰り返されてきた微笑ましい生命の営みがここにはあった。先ほど見かけた除染処理の看板のことなど忘れさせるほど変わらない普段通りの光景。収穫の時を迎えようとする稲穂からは、豊穣の香りが立ち上る。
旅人を 迎えて稲穂 おもてなし

こんな素晴らしい景色を前にして、子供達を避難させよという主張の意味が分からない。
実は、昨晩、夜の郡山駅前で数名による街頭演説を見かけた。そののぼりに書かれた文章を読む限り、子供達を郡山から避難させよというのが彼らの主張らしい。だが、彼らのアジテーションたるや、今まで私が聞いたアジの中で最もひどく、聞くに耐えない内容だった。郡山の人々を罵倒し、自分たちの主張に従わないことが愚の骨頂のように言い募る。別の方のしゃべりは滑舌もリズムも悪く、何を言っているか良く聞き取れない。彼らはわざわざ彼らの主張の反対者を増やすために演説をしているようにしか見えない。これでよく郡山の人々が怒らないなあと思えるほど。アジテーション以前の拙劣極まりない内容だった。そして私は思う。彼らは郡山や須賀川近郊の全ての光景を目にした上でなお、子供を逃せという主張を述べているのだろうか、と。
私とて、まったく放射能が郡山に及んでいない、とは言わない。しかし、それを云えば私が住む東京都町田市も似たようなもの。だが、原子炉周辺の明らかに人体に害を及ぼすシーベルトは郡山では検知されていない。であるならば、ことさらに人々を惑わせてどうするのか。すでに郡山に生活基盤を築き上げた人々に、何をもって全てを捨てて移住せよいうのか。あまりに暴論。あまりに拙劣なアジテーション。郡山の人々に触れ合い、郡山周辺に広がる美しい山河を見た私は、彼らの主張にはっきり反対を申し上げたい。

阿武隈川を渡る水郡線の橋梁稲穂に出迎えられているかのような錯覚と感動の中、私は自分の方向感覚を信じ、みちのく自転車道にある看板から得られる情報を確かめながら北上した。それにしても、この自転車道、ほとんど人に遭わない。こんなに風情に溢れた自転車道だというのに。あまり存在が知られていないとしたら、実にもったいないことだと思う。だが、そのお蔭もあって、私は快適にみちのくの風を感じながら走ることができた。そして、かなり走ったところで水郡線の鉄橋が見えてきた。確か私の記憶では水郡線の鉄橋が見えたら郡山市ではなかったか?そして、それを裏付けるように、私が持っていた郡山の地図にそれが載っている。私の地図が再び役に立つようになった。ようやく郡山市に戻ってきた。あと少しだ。
それにしても、この鉄橋、なかなかよい感じ。鉄ちゃんにはとてもよい撮影ポイントではないか。私が通り過ぎた際にも一台の車が待機していた。多分鉄っちゃんが撮影を狙い済ましつつ、カップラーメンを食べている現場だったのだろう。あくまでも想像だが・・・私も時間に余裕があれば、一緒に麺をすすりながら、撮影のタイミングを待っただろう。

東北新幹線の阿武隈川橋梁水郡線の撮影を諦め、早くホテルに戻って一ッ風呂浴び、kintone Café 福島 Vol.1の会場に駆けつけねば、という私の思い。だが、そんな私の思いは、川の土手をさらに北上したところで頓挫する。そこには東北新幹線が阿武隈川を渡河する絵画的な景色があった。彼岸花ですよ。阿武隈川ですよ。そして東北新幹線ですよ。こんな絶好の写真ポイントを見つけて逃さない訳には行かないじゃありませんか。本数の少ない水郡線の通過に巡り合える幸運を待つよりは、頻繁に行き来する東北新幹線ですよ。シャッターチャンスにも恵まれるはず。このチャンスを活かさない手はないでしょ。

阿武隈川を渡るはやぶさと
彼岸花そう思った私だが、10分近く土手にしゃがんで待つことになる。ちょうど前の列車が通過した後だったらしい。しかし、迫り来るタイムリミットに耐えつつ待った私の前に轟音を立てつつやって来たのは多分はやぶさ。そしてこれが私の撮影の成果である。実に満足。
橋わたる はやぶさ追って 彼岸花

さて、写真を撮り終えた時点で、14:10分が迫っている。さすがにやばい。この土手からは、郡山の駅前で無類の高さを誇るビッグアイが見える。しかしそのサイズたるや、まだ肉眼で10cm程度。そしてこの時点ですでに私の足腰は疲れを見せ始めている。さすがに寄り道しすぎた、やばい・・・。ここからは寄り道せずに土手を疾走することになる。

私がコンフォートホテル郡山に戻ったのは、14:25のこと。駆け込むように部屋に戻ると、手早くシャワーを浴び、PCを準備して、エバンジェリストのポロシャツを着て飛び出す。まざっせプラザのお姉さんに伝えていた返却予定時間は14:30。結局私が返却したのは14:39頃のことだった。この十数分の私の行動たるや、疾きこと風のごとし。自分でも後から思い返してよくやったと思えるほどだ。ホテルからまざっせプラザまでは結構距離があるというのに。

14:40-18:00
まざっせプラザ入り口まざっせプラザのお姉さんからは、しっかりとラミネート化された会員カードを渡される。そればかりか、co-ba koriyamaへのバスルートもきちんと調べてくださっていた。素晴らしいご対応には感謝の言葉しかない。そしてお姉さんによると、私が向かうべきバス停の名前は、中央大町バス停という。場所はまざっせプラザから駅前大通りを挟んだ反対側。私の足は今にも攣りそうだったが、気合でわたる。バス停で時間を調べると14:41発のバスに間に合う!しめた!とやって来たバスに乗ろうとすると、そこで見知った方とばったり。

バス停にいらっしゃったのは、昨日のセミナーでお世話になった主催者の方。同じくkintone Café 福島 Vol.1会場へ向かうところで、私がまざっせプラザでバスの行き方を聞いていたことを知り、果たしてバスに乗れるかと気にかけてくださっていたのだ。なんと親切な。昨日に引き続き、郡山の人々の人情に触れた思いだ。会場までのバスの道中では、もう一方ともお知り合いに。昨日のセミナーにはいらっしゃらなかったけど、kintone Café 福島 Vol.1には参加されるとか。しかも町田を深くご存じの方。郡山の観光振興をされているその方も一緒に、私の行きたてほやほやの須賀川への旅の話題で盛り上がる。先にも書いた両円谷氏の記念館が開館予定であることは、その話題の中で教えてもらった話だ。いろいろなご縁が郡山を中心につながっていく様は、実に喜ばしい。

co-ba koriyama外観
あっという間にバス停に到着し、バス停からすぐ近くのco-ba koriyamaへ。なんと、15:00の開場に間に合った。38km以上走った末のぎりぎりの到着。開場には東京や横浜、秋田や仙台からのお客様も交え、大勢の人で熱気が渦巻いていた。私も、まだ息があがったままで汗がだらだらと流れている状態であったが、あらためて気合いが入る。

終了後の集合写真↑kintone Café 福島 Vol.1については、こちらのブログに記載しています。

18:00-23:00
ハイカラヤでの懇親会第一部の様子さて、kintone Caféは、kintoneを通した勉強会と親睦を兼ねた集まりだ。懇親会は欠かせない。昨日のセミナー後は飲まなかったので、この集まりでは郡山の人々と語らってみたいという思いがあった。そして実際、この酒席は実に楽しかった。接待のような上下関係のある飲み会が苦手な私。だが、この飲み会では、セミナー講師や登壇者としての意識の断絶を全く感じさせず、以前からの郡山に住む人のように酒席に溶け込めた。テーブルの下では私の足が痙攣し、飲み会の最後では寝てしまうという失態をやらかしたにも関わらず。とても気持ちよくお酒が飲めた。この二日間で思ったのが、私は郡山という街と相性が良いということだ。郡山には今までご縁がなかったはずなのに。出席されていた皆様、ありがとうございます!

また、この飲み会では、郡山の方の風評被害への憤りも少し伺えた。昨晩郡山駅前で見かけた街頭演説や、今日の須賀川で見かけた除染施設の看板など、原発事故がいまだ影響を及ぼしていることは感じられた。が、郡山と福島の街をあれこれ巡ってみて、そういった過度の不安は杞憂に過ぎないことも体感した。郡山は普通であり平常なのだ。郡山に住むほとんどの人はそう思っているし、私も実際に訪問してみてそのことを強く思った。それだけに県外から届く風評被害の心無い意見には悲しさと憤りを感ずるのだろう。私もこちらのエントリーを通して、そういった風評には異を唱えたい。

一次会会場のハイカラヤでは少し寝てしまった私。気持ちよく酔っ払ってしまったが、二次会の古酒屋では持ち直す。遠方からの方は一次会で帰ってしまったが、二次会では6人で楽しく語らうことができた。駅から数キロはなれた場所にもこういったおしゃれなお店が点在するあたり、郡山という町が一朝一夕に作り上げられた街でないことが良く分かる。古酒屋から郡山駅までは約3km。私にとっては楽勝の徒歩圏内だが、私に付き合ってか皆様も一緒に歩いてくださる。その道中では、夜風に吹かれながら徒歩でしか気づくことのない郡山の魅力を教えてもらう。地元の人々と街を語りながら歩くという機会はそうそうあるものではない。郡山という街がどうやって成り立って来たのか、酔った頭にも好奇心が沸いた。

同行の皆様とは三々五々別れたが、最後のお一方は、コンフォートホテル郡山まで、私のことをお送りしてくださった。郡山の方は掛け値なしに親切だなあと思う。感謝の念とアルコールに深酔いしつつ二日目の夜は幕を閉じる。

地図集

コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(Google Map)
まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路

まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(須賀川市境まで)(Google Map)
まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(須賀川市境まで)

まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(須賀川市内迷走)(Google Map)
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まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(乙字ヶ滝付近)(Google Map)
まざっせプラザから乙字ヶ滝への経路(乙字ヶ滝付近)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(下江持橋まで)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(下江持橋まで)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道1)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道1)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道2)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(みちのく自転車道2)

乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(コンフォートホテル郡山まで)(Google Map)
乙字ヶ滝からコンフォートホテル郡山への経路(コンフォートホテル郡山まで)

コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザからco-ba koriyamaへの経路(Google Map)
まざっせプラザからco-ba koriyamaへの経路

co-ba koriyamaからハイカラヤ郡山あさひ通り店への経路(Google Map)
co-ba koriyamaからハイカラヤ郡山あさひ通り店への経路

古酒屋からコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
古酒屋からコンフォートホテル郡山への経路


弊社は、福島を応援します。(9/30版)


9/30

9:00-10:00
小田急線で新宿へ。そこから埼京線の通勤快速で大宮へ。道中、並走する東北新幹線を意識する。まもなくこれに乗って東北へ行く。ビジネスの旅とはいえ、高揚する思いは旅の始まりのそれと同じだ。不安は微塵もない。

10:00-11:00
郡山駅に到着したやまびこ45号10:06発のやまびこ45号に首尾よく乗車。宇都宮に停まると次が郡山。わずか二駅の旅。とはいえ、旅情に浸る間も惜しんでプレゼン資料の最終チェックを行う。文字の字切れや不鮮明箇所はないか、話す内容の構成に破綻はないか。うん。問題ないようだ。チェックの最中にも、ケータイ国盗り合戦も併せてチェック。特に宇都宮以北は未踏の地であり、全てが初制覇だらけなのだから。那須を過ぎると急にあたりの光景は山あいのそれへと変わる。自分のビジネスキャリアが今まさに白河の関を越えようとしている事を実感する。空は青く、たなびく雲は白い。不思議なほど緊張していない自分がいる。むしろワクワク感のほうが強い。

11:00-12:00
郡山駅前の広々した広場郡山到着。早速荷物を担いで駅コンコースへ。で、でかい・・・私の想像よりもかなり立派なコンコース。長野や仙台、盛岡のような県庁所在地の駅に降り立ったような感がある。郡山という街を軽くみていたのかもしれない。想像していた以上に大規模な駅のようだ。そして、そんな驚きは駅前広場でさらに強まる。堂々たる駅の面構え。駅前広場に集っては散るバス達。広場には滝が流れ、ベンチでくつろぐ人々にすら田舎の日向ぼっこの雰囲気は皆無。都会のベンチでくつろぐ人々のそれだ。

郡山駅前の広々した広場おや? 駅前広場に手形が・・・何やろ? あ、Greeeenの。あ、そうか、Greeeenって郡山か。この鮮やかな緑のドアは、何かのオブジェかな? あ、Greeeenにちなんだドアやった。セミナーに先立って郡山に縁のある人物や作品を調べてきたつもりが、すっかりGreeeenが抜けていた。そういえばミューカルとかいう音楽ホールも郡山にはあったような・・・

福島到着の第一印象は、駅の玄関口としての威容である。このような立派な面構えの駅前から受ける印象は都会以外の何物でもない。このような都会の商工会議所でセミナーを務めさせていただくことにあらためて襟を正す思いでまざっせプラザへと向かう。

まざっせプラザへは、レンタサイクルを借りるために向かった。事前に調べたところではまざっせプラザは郡山の観光案内所のような役割を担っているとか。自転車の予約空き状況も調べたところ、借りられそうだったので事前予約はせずに訪問。 開店早々だったのでまだお客様もおらず暇だったのだろうか。スタッフのお兄さんがとても親身に対応してくださった。郡山が初めての私に、惜しみなく情報を提供してくださる。開成館に行きたいというと、「お目が高い」とお褒めの言葉を頂戴してしまった。そして、夜のお勧め飲み屋や、郡山に来たならこれを食べてほしい、というクリームボックスの情報までも。もちろん、飲み屋のことは知らなかったし、クリームボックスも初耳。まざっせプラザでこうも親切な助言に触れたことで、幸先よく郡山に溶け込めそうな感触を受けた。まざっせプラザのお兄さんには感謝しないと。 http://www.mazasse.com/

さて、郡山の足を手に入れた私。この時点ですでに時間は11:30近く。13:00には郡山商工会議所に伺うお約束。しかも、一番大きいスポーツバッグが自転車の籠に入らないことが判明。お兄さんからは近くのうすい百貨店の地下にコインロッカーがあるという有益情報が。この情報もすごく助かった。

うすい百貨店ロッカー前のガラス戸
うすい百貨店へ。そして私は、ここでも郡山の人の親切心に触れることになる。入り口から地下に降りるとよくデパートにある大きなガラス戸がある。そしてその戸は閉まっていた。大きな荷物を持った私が戸を開けようとする間もなく、向こうからやってきた通りすがりのお姉さんが開けてくださったのだ。しかも、私がお礼したところ、「どういたしまして」とちゃんと言葉で応答がある。こういう何気ない動作に、郡山の皆様の民度と人柄が表れる。惚れてまうやろ~郡山~♪

さて、身軽になった私は、一目散に駅前大通りを西へ。目指すは開成館。でも、途中で大友パンに寄らねば!まざっせプラザのお兄さんからはガイドブックに載っている何店舗かのクリームボックスの扱い店を教えていただいた。中でも発祥の地である大友パンがおすすめだとか。地図を見たところ、大友パンは具合のいいことに開成館への道の途上にある。これは寄らねば!そしてクリームボックスを昼飯にしようではないか!

大友パンでのクリームボックス大友パンに着いた私は、早速クリームボックスを購入。プレーン味とカフェオレ味の二種類。食パンの上に、たっぷりとクリームを乗せたその姿は、他の地域では見られないインパクト。なるほど、確かに名物を謳うだけのことはあるなぁ。Retty

食料も調達できたことだし、あとは開成館へと向かうだけ。道中、マンホールの写真を撮りながら、自転車をこぎ続け、無事開成館へ到着。結局着いたのは12:00頃だった。

なぜセミナー前のわずかな時間に開成館に来ようと思ったか。その理由は二つある。一つは、マンホールカードの配布場所が開成館だったから。セミナーの自己紹介の際に「つかみ」としてマンホールカードの実物をぜひお見せしようと思った。そしてもう一つの理由は、郡山の街の風土を知るのに、安積開拓の生き証人である開成館を見るのがよいと思ったから。初めてお会いする方々の前でセミナーを始めるに当たっては、最低限その街のことを知っておくのが礼儀と思う。なので、たとえ1時間半しか余裕がなかろうと、自分の脚と眼で開成館を見、安積開拓の苦労と、その後の発展のきっかけを知りたいと思っていた。

↑今回、開成館で入手したマンホールカードについてはこちらのブログに記載しています。

12:00-13:00
郡山市開成館入り口上に紹介したブログにも書いたが、開成館の入り口にはマンホールカードが飾られている。「欲しいのですが」という私の言葉に受付のおじさんは快く応じてくださった。そればかりか、台紙までつけてマンホールカードについてのご説明をしてくださる。その台紙にはもう一箇所、郡山で配布するもう一枚のマンホールカードを挟み込むスペースがある。そのもう一枚の入手先である湖南公民館への行きかたを一生懸命に説明するおじさん。一連のやりとりを通し、郡山の人柄がこのおじさんに集約されている気がして、ますます郡山を好きになる。

門扉越しの開成館門扉越しに見る開成館の威容たるや、まさに明治の男たちの夢そのもの。ぜひ中に入りたかったのだが、ここで中に入るとセミナーに間に合わない。郡山滞在中に必ず再訪することを誓う。また、クリームボックスも開成館で食べようと思っていたが、良く見ると開成館の傍には斎場が。斎場の前でフォーマルな格好のおじさんがレンタサイクルにまたがり大口開けてクリームボックス・・・万が一にもこんな姿をセミナー参加者にさらすわけには行くまい・・・・断念して戻る途中で見かけた良さげな公園を昼食場所に定める。

開成山公園と今日の愛車さて、私が訪れたのは開成山公園。なかなかよさげな公園だ。郡山の街中を走って思ったのが、公園の多さ。この公園もにわか写真家の魂をうずかせる・・・そういえばまだ今日の愛車を撮っていなかったので、こちらで一枚。

開成山公園でクリームボックス
こちらが郡山でいただく初のお食事。郡山のご当地グルメことクリームボックス。うん。うまい。このこんもり感がたまらんね。時間がない私にはちょうどよい食事だった。あらためてまざっせプラザのお兄さんに感謝。

不死鳥舞う開成山公園それにしても、空が青い。なんという天気。こんな空の下で食べるクリームボックスはうまい。セミナー開始まであと1時間強というのがとても信じられないほど。ベンチに座って目の前の小僧の銅像を眺めていると・・・目の前の雲が不死鳥に見えてきた。いや、これはどう考えても不死鳥に違いない。クリームボックスを平らげた私は写真を撮りまくる。そして空に見惚れる。私が郡山でのセミナーが成功することを確信したのはこの時だった。すくなくとも壇上であがって支離滅裂になったり、プロジェクターや通信環境が途絶して立ち尽くす様なことはあるまい。
それだけの確信を、私はこの青空と不死鳥から受け取った。なんといってもこの雲は郡山、そして福島の再生。そして私自身のこれからの象徴なのだから。

不死鳥が 空に羽ばたき 旅路かな

開成山の大シダレザクラ麗山公園帰りの自転車を漕ぐペダルにも力が入る。途中立ち止まったのは開成山の大シダレザクラ。こういうのが道端に何気なくたたずんでいるのもよし。さらには麗山公園へ。この公園も開放感があり、それでいて洗練されている。ここまでで私にとっての郡山の街中のイメージはほぼ定まった。駅前は立派。通り過ぎた駅前すぐの歓楽街も淫靡に染まらず、あくまで夜の社交場の節度を保っているように見える。目抜き通りも活気を保っている。少し離れると公園や落ち着いた住宅街、歴史的建造物が控えている。グラウンドも開成山公園で見掛けた。郡山という街を走り回って感得したのは、街を形作るさまざまな要素がうまく配置されているという印象。街歩きが趣味の私にとって、住んでみたいと思わせる町だった。

安積国造神社商工会議所の場所を確認しつつ、街中に戻った私。うすい百貨店で荷物を取り出したのだが、またしてもガラス戸でお手伝いしてもらう。さっきとは違う方だったが私の発するお礼に対して返答が返ってくるのは同じ。なんというフレンドリーな街なんだろう。この期に至り、私はすっかり郡山が好きになってしまった。そんな高揚した気持ちのまま、まざっせプラザに無事自転車を返却し、お礼を述べつつ、荷物を持って商工会議所まで歩く。
おっと、まだお伺い時間には時間があるなぁ。安積国造神社で参拝をしなければ。その土地の国津神には参拝をし、その土地に敬意を表さないと。今回は旅人としてではなく、一人のビジネス人として来ているのだから。参拝を済ませ、いよいよ郡山商工会議所へ。

13:00-16:00

郡山商工会議所外観敢然と郡山商工会議所に入る。セミナー開始まであと1時間。それにしても洗面所で見た私はかなり汗だく、そして顔色も悪く見える。睡眠不足が続いたとはいえ、かなり病的。これはいかんと洗面所で念入りに顔を整える。そして会場となる五階会議室へ。私の第一印象は皆様にどう映っただろうか・・・

↑このセミナーの内容については、こちらのブログに記載しています。10/4付けの福島民報でも記事にしていただきました。

16:00-19:00

郡山駅東口セミナーが終わった私は、そのまま歩いて駅の反対へ。私が投宿するホテルは郡山駅の東口から少し歩いたコンフォートホテル郡山。このホテルはセミナー主催者の方に教えていただいた。評判も上々なのだとか。高揚した気分の私は、立体交差を越え、遠回りしてホテルへと向かった。郡山駅は西口が栄えているが、東口は一転して静か。それもそのはずで、駅の東口は貨物ヤードが広がり、その横には保土谷化学の郡山工場が広大な敷地を占めている。ホテルの窓からみた郡山駅東口は、西口とは違った顔を持っているようだ。
ホテルにチェックインした私は、しばらく旅の疲れを落とした後、夜の仕事の準備を行う。月末日なので月替わり処理の準備や、翌日に控えたkintone Café 福島 Vol.1の準備も進めないと。

夜の郡山駅東西連絡通路いったん、偵察もかねて夜の街に食事に向かった私。先ほどと違って駅の東西自由通路を通る。この自由通路が結構長い。400メートルほどあるらしい。なので、駅前にあるはずのコンフォートホテルからは600メートルは歩かないと駅のコンコースにはたどり着けないことになる。これが今後の郡山市の発展の上で障害とならねばよいのだが。東口では何かの工事が進んでいたようだが、すでに市当局も改善に向けて策を打っているのだろうか。

19:00-25:00

夜の街を歩き回ってラーメンを食べ、ホテルに戻った私。猛烈に作業を行い、23時過ぎにもう一度駅前へ臨むことになる。

金曜夜の郡山。それは昼間見ただけでは気付きようもない郡山の別の顔。私が毎月恒例の一人飲みの宿り木として伺おうと決めていたのはThe Bar Watanabe。こちらのバーは、kintone Café 福島 Vol.1の主催者の方よりお勧めバーとして教えてもらっていた。ところがこれが見つからない。同じブロックを三周ほどしてようやく見つけた。そしてその間に呼び込みのお兄さんお姉さんに何回も声を掛けられる。黒服の方々は、この界隈だけでも50人近くは見かけただろうか。でも、その呼び込みはしつこくない。こちらが手を振って断るとすっと引き下がってくれる。結構洗練されているかも。郡山って。

そして、私がようやく見つけたThe Bar Watanabeは、東京でもなかなか見られないほどの隠れ家度。The Bar Watanabeの入り口
内装も酒の種類も雰囲気も良い感じ。結局閉店の1時までお店にいついてしまった。The Bar WatanabeではArdbegとMaker’s Markの46プルーフ、さらに店主秘蔵酒をいただく。この秘蔵酒の正体とは、、、うー、書きたい。でもこちらの秘蔵酒は写真撮影すらNG。それもその筈で、この酒がこの値段で飲めるとは!という逸品だった。これ飲むためにもう一度訪れたいぐらいの。うー書きたい、けど書かないし載せない。Barへと続く通路

通路と外の世界を隔てる扉
でも、郡山のナイトライフも堪能できたのでよしとしよう。郡山の洋酒文化の成熟度も知ることができたし。なお、お勧めいただいたBarは他にも3軒。全てが良さそうで、行きたかったのだがすでに時間的に閉店の模様。これは再訪したい!満足しつつ郡山で過ごす最初の夜は更けて行く。

地図集

郡山駅からうすい百貨店への経路(Google Map)
郡山駅からうすい百貨店への経路

うすい百貨店から郡山市開成館への経路(Google Map)
うすい百貨店から郡山市開成館への経路

郡山市開成館からまざっせプラザへの経路(Google Map)
郡山市開成館からまざっせプラザへの経路

まざっせプラザから郡山商工会議所への経路(Google Map)
まざっせプラザから郡山商工会議所への経路

郡山商工会議所からコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
郡山商工会議所からコンフォートホテル郡山への経路

コンフォートホテル郡山からあさくさラーメンへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からあさくさラーメンへの経路

あさくさラーメンからコンフォートホテル郡山への経路(Google Map)
あさくさラーメンからコンフォートホテル郡山への経路

コンフォートホテル郡山からThe Bar Watanabeへの経路(Google Map)
コンフォートホテル郡山からThe Bar Watanabeへの経路


福崎の町に日本民俗学の礎を求めて


4月に福崎を訪れました。

福崎と言えば、日本民俗学の泰斗として著名な柳田國男氏の出身地です。

昨秋、友人たちと横浜山手の洋館巡りをした際、神奈川県立文学館で催されていた柳田國男展を訪れました。ただ、入館した時点ですでに閉館時間まで1時間しかなく、駆け足の観覧を余儀なくされました。短い間でしたが、柳田氏の生涯を概観して印象付けられた事があります。それは、氏が官僚を辞し、本格的に民俗学の探求を始めたのが40代半ばという事です。それなのに氏は日本民俗学を創始し、後世に巨大な足跡を遺しました。そのことは私のように中年にさしかかった者にとっては励まされる事です。柳田國男展の観覧記についてはこちらにアップしました。
生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

それ以来、福崎には一度行きたいとの思いは募るばかり。今回の関西出張に際し、1日休みを確保して福崎を訪れる事にしました。

なのに、例によって旅先で行きたいところを詰め込む悪癖が発症。福崎に滞在した時間は4時間と少し。そんな短時間では到底福崎を回りきれる訳もなく、次回の再訪に持ち越しとした箇所は両手に余ります。 そんな駆け足の訪問でしたが、柳田民俗学の揺籃の地としての福崎は目に焼き付けてきました。柳田氏自身が「日本一小さい家」と呼んだ生家と柳田國男・松岡家顕彰会記念館をじっくりと観て回れたのが良かったです。

福崎訪問マップ1
福崎インターから福崎駅までのルート
(クリックすると拡大します)

柳田國男生家を訪れる前に、福崎の町を車で流しました。福崎インターで高速を下り、典型的な郊外ロードサイドの風景を眺めつつ駅へ。駅の近くには旧市街の風情を残した道並みにも巡り会えました。駅からは福崎インターの方角へ戻り、インターを通り過ぎて柳田國男生家のある辻川界隈へ。車による移動だったため、街中を隈なく歩いたわけではありません。が、福崎を走って感じた捉えどころのない町という印象は今も拭えません。その印象は後日地図で確認しても同じです。どこが中心なのか分かり難い町。


福崎訪問マップ2
福崎駅から柳田國男生家付近までのルート
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その印象は今も変わりありません。 銀行の支店や各種公共施設のある場所が町の中心点。私が今までに趣味の町歩きで得た経験則です。その伝でいけば福崎の中心とはすなわち銀行の支店のある場所と見なしてよいでしょう。福崎の町にある銀行の支店は駅周辺と福崎インター周辺に点在しているようです。福崎インターのすぐ側には町役場もあります。播但線の福崎駅と福崎インターという交通の結節点がすなわち町の中心点。地図から読み取れる福崎の地理はそのような構造になっています。ですが、私が訪れた際、福崎インター周辺に繁華街は見当たりませんでした。福崎駅近辺も同じ。駅付近には旧市街らしき由緒ありげな町並みはありました。が、その街並みも福崎の町のへそではなさそうです。結局、福崎にいる間、町の中心を見出せないままでした。

町の中心がないという事は、福崎の抱える地理的な条件による気がします。まず、町の東西を分断する市川の存在。さらには生野街道から離れた場所に設置された播但線の福崎駅の位置。それらは、福崎の発展に大きな影響を与えたと思われます。さらには播但有料道路が旧生野街道に取って替わるように南北を貫き、東西には中国自動車道が町を太く横切っています。昔よりも福崎の町が交通の結節点としての色を強めていることは間違いないでしょう。なのに、交通の要衝ではなく通過点でしかないのが今の福崎といえます。それらの交通網が町を結束させるどころか分断しているように思えました。

福崎訪問マップ3
柳田國男生家周辺の地図
そのようなとらえどころのない町の佇まいの中、柳田國男生家の周辺は、訪れた人の期待を裏切りませんでした。柳田少年が見たそれとは違い、今の風景が観光地化していることは確かでしょう。でも、現代人にはほっとできる風景であることに違いありません。

ただ、柳田國男生家の周辺が昔の風景を残していたとして、それは風景の中の話。私の目に映る福崎が、柳田國男少年にとってのそれと似通っている事が確認できただけの話です。肝心なのは柳田國男氏の築き上げた民俗学の礎を福崎に見つけられるかどうかです。その為に福崎に来たのですから。

そう考えると、生家周辺が農村風景を維持していようがいまいが、それは柳田國男氏の業績とは関係のない話です。確かに、福崎の町にヘソのない事は、柳田少年の心を旅人へと仕立て上げるには充分だったことでしょう。茫洋とした福崎の町並みにあって、その中に漂う風土のエッセンスを確かめたいという衝動。この衝動が少年を長じて民俗学へと向かわせたと言えなくもないのですから。

もちろん、柳田國男少年を民族学へと駆り立てたのは、そのような衝動だけではなかったはずです。福崎にあって松岡家は裕福ではありませんでした。それは五人兄弟という子沢山だったこともあるでしょう。でも、その五人が五人とも後に名を成したのですからすごいことです。柳田國男・松岡家顕彰会記念館と名づけられているのももっともで、この記念館で展示されているのは柳田國男氏のみではありません。他の四兄弟の業績や、父母のことまで紹介されています。長兄は医師で政治家としてあり、今でいう千葉の我孫子あたりの布佐町の町長まで務めた人物。次兄は眼科医の傍ら歌人としても皇室の御歌所寄人に撰ばれるほどの国文学の研究者。真ん中には柳田家に養子に入った國男氏。その下の弟は海軍軍人として大佐まで進み、病気で退役してからは言語学の学者として名を成しています。末弟は映丘という雅号で美大の教授として大和絵の大家となっています。五人ともがWikipediaに項目が設けられています。松岡五兄弟と称され後世でも顕彰されるだけのことはあります。おそらくは松岡家が貧乏だったのは、教育に金を使ったからでしょう。でもそれが後世に名を残すことになったのですから、そのことは安易に否定すべきではありません。記念館にはご両親の肖像画も飾られていましたが、この兄弟にしてこの親ありという面構えで私を射すくめました。

IMG_6504IMG_6491私が訪れた柳田國男生家は、昔ながらの茅葺の日本家屋。間取りとしては決して狭い家とは思えませんでした。少なくとも私には、柳田國男氏が日本一小さい家と呼んだのが卑下にすら思えました。でも、よく考えるとこの家屋に男五兄弟は狭すぎます。後には長兄が嫁をとり、その奥さんも同居したといいます。であれば、國男少年の記憶に日本一小さい家という記憶が染み付いたのも分からなくもないです。

この生家も随分昔、柳田國男少年が10歳のときに人手にわたり、辻川周辺を二箇所ほど転々とした後に福崎町が柳田國男生家として今の場所に移築した経緯があるようです。松岡五兄弟にとってみれば、福崎という町は終生郷愁を掻き立てられる地であったようです。しかし、身寄りのある親戚がいなかったため気軽に帰れる地ではなくなってしまいました。結局、長じた五兄弟の誰も福崎で暮らすことはありませんでした。でも、それぞれが郷愁を感じたのは確かのようです。柳田國男氏も「故郷七十年」という著書の中でこう述べています。

「村に帰っても、私には伯父も伯母もないので、すぐにお宮に詣って山の上から自分たちの昔住んでいた家の、だんだんと変形して心から遠く離れてゆくのを寂しく思い行く所といえばやはり三木の家であった。ゆっくり村の路を歩いて誰か声をかけてくれるかと期待しても、向うが遠慮して声をかけてくれない。私にとっては、山水と友だちになるとか、村人全体と友だちになるような気持ちで故郷に帰るのであったが、故處子の『帰省』の気持ちとだんだん違ったものになってきた」

この文章に柳田國男氏を民俗学へ向かわせたエネルギーが潜んでいると見るのは私だけでしょうか? もはや身寄りなく寄る辺もない故郷。しかしその故郷の風景や人々の暮らしが懐かしく思えてならない。喪われた故郷を自分の裡に再生するため、日本中を旅し、風俗を研究し、言葉の変遷を調べた。故郷再生こそが柳田氏の民俗学への情熱を支えた。私はこの文を目にしてそんな思いにとらわれました。

上の引用文にあるお宮、とは生家のすぐ脇に鎮座している鈴が森神社を指しているのだと思います。私も参拝しました。また、生家とお宮の間には路が上へと延びています。その先にあるのが上の引用文に出てくる山に違いありません。IMG_6502IMG_6507今回、この山へは時間を惜しんで登りませんでした。今更ながら登っておけば、と思います。登って山の上から辻川や福崎の町並みを一望するべきだったと思います。それぐらいこの付近は柳田國男少年の当時を保っているように思えたからです。かつてのよすがを思い起こさせるような静謐な環境の一方で、家族連れを呼び込むように、生家のすぐ前には辻川山公園が設けられ、その中の池には30分置きに河童の河次郎が現れます。これは私も目撃しました。池のほとりには河童の河太郎と天狗が待ち受けています。子供たちがうれしそうに河童の兄弟の30分おきの出会いを見守っていました。そのすぐ横には逆さ天狗が30分毎に現れるような仕掛けもできています。IMG_6479
辻川山公園からみたもちむぎの館
IMG_6488報道によれば丁度私が訪れる前の週から設置されたそうです。今回はタイミングを逃したのか見られませんでした。また、池のすぐ近くには福崎の物産を集め、食事もできる「もちむぎの館」といった施設も備わっています。きっかけはこういった観光施設でもいいのです。私も含めた観光客がこの地に訪れたことをきっかけに、柳田國男氏が生涯をかけて見つけようとしたものが何かを考えられればいいなと思います。少なくとも私には得られるものがありました。

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私が思う柳田國男氏とは、民俗学者である前に一人の旅人でした。違う土地の暮らしや人々の習俗に興味を持ち、調べて文章に著す。私がやりたいようなことを柳田國男氏は一生の業として歩まれました。氏が旅した当時、まだ日本にはかろうじて旧弊の文化が残されていました。それでいて、文明の利器-汽車-の力を借りて、効率的に各地を訪問できました。云わば、一番良い時期に旅に明け暮れる日々を送った訳です。それはただただ羨ましいばかりです。今回、四時間という時間ではあるものの福崎の地を訪問しました。そして民俗学者、旅人としての柳田氏の故郷を目にしたことで、ますます氏のような人生を歩みたいという思いが強くなりました。冒頭に書いたとおり、柳田氏が本格的に民俗学の探求を始めたのは40台に入ってからのこと。私もまだ間に合うはず。そのためにも今できる仕事をきっちりと仕上げ、自分の望む仕事スタイルを全うできるような基盤を作りたいと思います。IMG_6509


淡路島に地方創生の未来を見た


先日、4/23に淡路島に行って来ました。

淡路島といえば兵庫県。私の故郷です。海峡を挟んだ明石は父の出身地であり、つい数年前まで祖父母が住んでいた地です。淡路島は国産み神話の息づく、花咲く島としても知られています。しかし、そんな身近にありながら、私は淡路島をそれほど訪れていません。今回の訪問が生涯で10回目というところでしょうか。今回の旅は、淡路島の魅力を再認識すると共に、そこを舞台にビジネスと暮らしを両立させる試みに触れさせて頂く貴重な機会となりました。

昨年の秋、10/29に東京の上野でセミナーに参加しました。
「東京×兵庫 移住・起業促進セミナー〜暮らし方と働き方を選んで自分らしく生きる〜」
Facebookページ

今回の淡路訪問は、このセミナーへの出席がきっかけです。当時、私は兵庫で週半分とはいえuターン起業を企図していました。お仕事で懇意にしている方からのご招待を頂いたのを機縁に起業の人脈作りも兼ねて参加しました。実際、こちらで拝聴したセミナー内容や試食させて頂いた産物はとても魅力がありました。が、それだけではありません。ここで得たご縁は、今回の淡路だけでなく、それ以外にも様々なビジネスの展開を私にもたらしてくれました。このセミナーへの出席は私にとって一つの転機となりました。

このセミナーで知り合った方には、実際に東京での地位を擲ち、淡路で新たな勉強をし直す方がいました。東京から淡路に移住し、腰を据えてビジネスを展開されている方もいました。また、関西を舞台に様々な町づくり、コミュニティ再生をされている方もいました。実際にビジネス展開の上でITを使ったお手伝いのご相談も頂きました。ここで得た貴重な御縁を一期のものとしないためにも、今回の淡路訪問は何を置いても優先すべきものでした。

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まず最初に訪れたのは、トキワ庵様。サブタイトルに「~淡路島サテライト&コワーキングオフィス~」と名付けられています。古民家を丸ごとリノベーションし、合宿も出来るコワーキングスペースとして再生利用しているのがトキワ庵様です。広々とした窓や縁側から見える景色は飾り気なしの素朴な農村風景。生の素材をそのままに提供したロケーションは文句なしです。雑念に惑わされず集中するのには打ってつけの環境といえるでしょう。ましてやディスプレイを凝視することの多い技術者にとっては、目の健康に欠かせない緑が存分に味わえます。目に良いだけでなく、耳にも心地良いウグイスの鳴き声がそこら中で春の訪れをしきりに告げています。心身の疲れを癒すにはとてもよい環境です。

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淡路訪問の前後、私はとある案件を請け負っていました。一人きりの開発を選択したゆえ、相談相手といえば、Google先生かstackoverflow教授のみ。でも、トキワ庵さんで合宿していれば、誘惑に流されることなくチーム単位でのさくさく開発ができたことでしょう。孤独な闘いを挑んでいた私には、トキワ庵さんはとても魅力的な場所に映りました。

関西で開発をされている会社様はもちろんの事、関東に拠点ある会社にとっても、社員旅行先としても候補に挙げて良いかもしれません。お値段分以上の価値はあると言ってよいと思います。
トキワ庵さんFacebookページ

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さて、我々が続いて案内して頂いたのが、challenge Farmです。こちらの農場、実は株式会社パソナ様が近隣の農場を借り上げて運営しています。近隣のこういった農場を何か所か借り上げ、パソナさんの事業として使用されているのだとか。我々が訪れた時、パソナグループの新入社員達が新入社員研修の一環として農作業を行っていました。パソナさんと言えば、日本橋の自社ビル内に農園を設けている事で知られます。私も見させて頂きました。こういった農を重視するパソナさんの姿勢は、全グループの新入社員研修という形にも現れています。

数年前に楽天グループが、社内公用語を英語に指定して話題を集めました。私は実はこの事をあまり評価していません。何故なら言語の違いはITの進化によって、ここ10年以内に意識されなくなると踏んでいるからです。もちろん、英語を公用語化する事で、論理的な考えやビジネスマインドが身につくという効果はあるでしょう。しかし、論理力やビジネスマインドを身に付けたところで、ITの進化の前には霞んでしまうに違いありません。

一方、農という人間のプリミティブな可能性に着目したパソナさんの選択には大いに賛成します。地に足のついた農の重要性を学んだ人材が、あるいは将来の日本を背負って立つのかもしれません。こちらのchallenge Farmでは、新入社員一人一人が農作業に従事し、同時に、自らの労働時間、原材料、肥料、シートや柵に至るまで、全てをコスト計算する事が求められているとか。単なる土に還れ的な精神論、泥まみれの根性論だけではありません。農作業を通じて社員として必要なビジネス感覚の養成の場として位置付けているのです。私はその事にとても感銘を受けました。かつて私はパソナグループの社員として働いていました。もし当時の自分がこういった研修を受けていたら、今の私は果たしてどうだったろうか、という空想にまで思いを馳せました。

challenge Farmでは、企業研修の受け入れや、団体観光客の農業体験の受け入れで収入を得ているようです。ゆくゆくは私自身も利用させて頂く機会があれば嬉しく思います。

IMG_6434さて、農業は生産だけではありません。小売りまでカバーしての農業です。その発想から出た実践の場こそが、我々が続いてご案内頂いた「のじまスコーラ」です。ここは旧淡路市立野島小学校の建物をパソナグループが無償で譲り受け、全面的に改装して使用しています。その結果、街の商業施設として賑わいの中心を担っています。
のじまスコーラWebサイト

「のじまスコーラ」の随所に元小学校の名残が残されていました。地元の卒業生にとってみれば懐かしき母校が再利用されている姿は嬉しいものです。地元の農家から見れば農作物の販売拠点として恰好の存在になってくれれば作物の育て甲斐もあります。観光客にとっては道の駅とは違う、ユニークな観光スポットとして分かりやすい存在です。私自身、「のじまスコーラ」の存在は東京にいた時から知っていました。実際に訪れた「のじまスコーラ」は、とても繁盛しており、順調な様子が見受けられました。教室がお洒落なレストランと化し、フィギュアの博物館と化し、美味なパン屋さんと化し、BBQの場と化して有効利用されている姿は、地方創生の活きた実例として申し分ないと云えます。

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写真 2016-04-23 12 35 18われわれは、次いでMieleという播磨灘に面したレストランに案内頂きました。ここもパソナグループの手による運営だそうです。スタッフの中の何人かは新入社員で、社員研修の一環として働いているのだとか。名物である玉ねぎや淡路牛を使ったハンバーガーは正に絶品。我々四人はノンアルコールビールで乾杯しましたが、お店の雰囲気だけで十分に酔えました。
Miele

トキワ庵からMieleに至るまで、パソナさんの地方創生に掛ける意気込みはしかと受け止めました。運営している方々はパソナグループの中で募ったところ手を挙げた有志だそうです。それぞれがかなりの裁量を持って運営していることが伺えます。我々を案内して下さったIさんもまさにその一人。充実した感じが眩しいぐらいでした。

パソナ創業者の南部氏といえば、私にとっては大学の先輩にあたる方。とはいえ今回の訪問まで南部氏の御出身が淡路島の対岸の舞子とは知りませんでした。しかし、淡路島への資本投下も、単に故郷に錦を飾るだけとは思えぬほどの本気度です。そしてその本気こそが、一流企業の社会的責任-CSRの在るべき姿ではないかと思えます。

今の日本社会が抱える問題は多々あります。保育園不足や過疎化、医師不足など。そして、その問題のいくつかを解決する為の有効な処方箋とは、一極集中の解消にあるのではないでしょうか。さらに言えば、一極集中に対して有効な策を打てるのは、国や自治体、中小企業よりも潤沢な資本を持つ大企業です。本社こそ東京にあれ、地方にくまなく拠点網を廻らす大企業は、経営者の意思一つで地方に重心を移すことも出来ます。ましてやネットがこれだけ発達した現代ならなおさらです。

パソナさんの淡路島における地方創生事業は先進的な取り組みとして、あるいはCSRの在るべき姿として評価したいと思います。

さて、我々が続いて向かったのは、兵庫県立淡路景観園芸学校です。こちらは、園芸や景観といった緑を活用したノウハウを教える社会人大学としての性格が強い学校です。淡路といえば玉ねぎやハンバーガーといった名物以外にも花や園芸が盛んであることでも知られています。かつて、淡路島ではジャパンフローラ2000、いわゆる淡路花博も開催されました。新婚当時、私も見に行きました。

IMG_6447学校の中をご案内して下さったのは、Tさん。東京での華麗なキャリアから一転、新たなビジネス創出のため淡路で一から園芸を学ぼうとする向上心の持ち主です。その行動力にはただ頭を垂れるのみです。Tさんには寮の自室から教室、教授室、温室、さらには畑や飾り壇、学食のカフェテリアなどを案内頂きました。瀟洒な校舎を囲むように園芸や景観を学ぶための諸施設が点在し、じつに贅沢な環境が設えられています。
学校ホームページ

IMG_6449その贅沢さは人口密度の少なさにも表れています。我々が訪れた土曜日というタイミングを考えても、ほとんど人に会うことなく闊歩できたキャンパス。それはほぼ独り占めと言ってもよいほどです。近所の馬場から遠乗りでやって来た二頭のお馬さんに遭遇しました。サボテンと乗馬の取り合わせはまるでメキシコ。そのような偶然の演出さえも、観客は我々のみという贅沢さ。素敵な出会いもこの学校ならではです。地元の主婦の方々がフリマらしくお店を出されていましたが、売り上げが上がったのかどうか心配になります。誰も客のいないカフェテリアは営業中でしたが、パートさんお二人がシフトに就かれていました。客は我々三人以外には老夫婦のみ。収支状況が気になります。

とにかく浮世離れしたような環境ですが、学び舎としての魅力は抜群です。ただし、あまりにも贅沢な空間の広がりに、逆に採算性が心配になって来るほど。Tさんもその辺りを心配されていました。私も淡路の片隅に花咲いたこの別天地が立ちいかなくなる事態は望みません。機会があれば東京でもこちらの学校のPRのお手伝いをしたいものです。

園芸や緑化は公の仕事。そんな暗黙の了解があります。でも、本当に私企業が園芸や緑化の事業に参入する余地は無いのでしょうか。アイデア次第では、ビジネスとして成り立ちつつ、働く当人が癒されるような仕事のタネは転がっているはず。その気付きが、こちらの学校で得られなければ、一体どこで得られるというのでしょう。特にITと園芸とのコラボレーションには、新たなビジネスの鉱脈が埋もれて居る気がしてなりません。畑を耕して得られるものは何も作物だけではありません。ビジネスの種もきっと掘り起こされるのを待っているはずです。実際、IT技術者には心なしか土いじりが好きな人が多いように思います。案外、ITと園芸とは、相性の良いもの同士かもしれませんよ。こちらの学校への入学にあたっては、兵庫県からも手厚い補助金が出るようですし、興味ある方はセカンドライフの有望な選択肢として含めてみてはいかがでしょうか。もちろん私自身も含めて。

終わりに。

今回、淡路島に来て思った事があります。それは、今や淡路島は行き来に不便な島ではない、という事です。帰路は一緒に同行して頂いたHさんに淡路サービスエリアまで送って頂き、そこから独り、バスでJR舞子まで出ました。片道運賃はわずかに410円。安価な出費で海峡バス渡りの贅沢が楽しめました。かつてのように西宮から甲子園フェリーに乗ったり、明石からたこフェリーに乗ったりといった船旅のイメージはもはや過去のもの。未だに淡路島を遠隔の地として見ているのであれば、その認識は改めなければなりません。少なくとも私はそう思いました。淡路島の魅力は、関西のみならず中京や首都圏の方々にこそ伝えられるべきです。それも単なるレクリエーションの場としてだけではなく、ビジネス創出の場として。

淡路島から、新たな日本の国産み神話が生まれる。そんな感想さえ抱いた今回の旅でした。最後になりましたが、今回の旅でお世話になった皆様、特にIさんTさんHさん、本当にありがとうございました!