昨日、神奈川県立近代文学館で催されていた「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ -「遠野物語」から「海上の道」まで」を観に行きました。残念なことに朝から山手洋館めぐりをしていた関係で、ここでの観覧時間は1時間しか取れませんでした。そのため駆け足の観覧しかできなかったのが惜しいところです。

しかし、そんな中でも少しでも日本の民俗学の巨人の足跡を追い、その業績の一部に触れることができたのではないかと思っています。この展示会は柳田國男の学問的な業績を云々することよりも、生涯を概観することが主眼に置かれていたような印象を受けました。

なぜ柳田國男の生涯に主題を置いたのか。それは本展編集委員の山折哲雄氏の意図するところでもあったのでしょう。宗教学の泰斗として知られる山折氏の考えは分かりません。ただ、私が思うに、柳田國男の生涯がすなわち日本の近代化の過程に等しいからではないかと思います。近代化の過程で都心部と農村の生活の差が激しくなり、農村に残っていた民俗的なモノ、例えば風習や民話、妖怪のようなモノが失われつつ時代に柳田國男は生きました。そして近代化によって失われつつあるものの膨大なことを、誰よりも憂えたのが柳田國男だったと云えます。そしてそのことは、柳田國男が農商務省の官吏であったからこそ、大所高所で農村の現状を観ることができたからこそ気づき、民俗学の体系を築きあげることが出来たのではないかと思います。本展からは、山折氏の意図をそのように見て取ることができました。

実際のところ、柳田國男の民俗学研究には独断や恣意的な部分も少なくないと聞きます。なので、本展ではそれら妖怪研究の詳しいところまでは立ち行っていません。でも、それでよいと思うのです。今の民俗学研究は、柳田國男の研究成果から、独断や恣意部分を取り除けるレベルに到達しつつあるとの著述も別の書籍で読みました。ならば、現代の我々は柳田國男が膨大なフィールドワークで集めた素材を尊重し、そこから料理された成果については批判する必要はないと思うのです。なので、本展でそういった研究成果を云々しなかった編集委員の判断も支持したいと思います。

むしろ、情報が貧弱な柳田國男の時代に出来て、現代の我々に出来ないことは何かを考えた方が良いのではないでしょうか。現代の我々はインターネットで瞬時に世界中の情報を集められる時代に生きています。そのため、地方と都会の情報格差も取っ払われていると思います。が、一方では都心への一極集中は収まる兆しを見せません。地方が都会のコピーと化し、地方の文化はどんどん薄まり衰えつつあるのが現代と言えます。

私は地方が都会に同化されること自体はもう避けようがないと思っています。しかし、それによって地方に残された貴重な文化を軽視するような風潮は、柳田國男が存命であったとしたならば許さなかったと思うのです。先年起きた東日本大震災の津波で、遠く江戸時代初期の石碑が、津波の最大到達範囲を示していたことが明らかになりました。また、同じく先年起きた広島の山津波の被害では、地名がその土地の被害を今に伝えていたことが明らかとなりました。しかし、それら古人の知恵を、今の現代人が活かせなかったことはそれらの被害が如実に示しています。

文字や碑に残せない言葉や文化が地方から消えつつあることは避けえないとしても、文字で伝えられるものは現代の感覚で安易に変えることなかれ。柳田國男の民俗学が懐古趣味ではなく、実学として世の中に役立てられるとすれば、その教訓にあるのでは、と本展を観て感じました。

先日、縁を頂いて奈良県の某自治体の街おこしについて、知恵を貸してくれと頼まれました。なかなかに難しく、私の拙い知識には荷が重い課題です。古来、伝えられてきたその地の土着地名のかなりが○○ヶ丘といった現代的な地名に変えられ、景観すらも新興住宅地やショッピングセンターに姿を変えた今となっては、かなりの難題と言っても良いでしょう。しかし、その地にはまだ古代から連綿と伝えられてきた独特な祭りや古墳の数々が残っています。これらを活用し、本当の街おこしに繋がるヒントが、実は柳田國男が現代に残した業績から得られるのではないか、そう期待しています。

私も浅学ではありますが、柳田國男の本は今後も読み込み、街づくりの課題を与えられた際には役立てるようにしたいと思っています。街づくりだけではなく、日本人として得られる知見もまだまだ埋もれているはずです。それぐらい、偉大な知の巨人だったと思います。今回は素晴らしい展示会を見られたことに、同行の友人たちに感謝したいと思います。


3 thoughts on “生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

  1. 水谷 学

    今年は初っ端から柳田國男に始まりました。今回の展示の編集委員である山折哲雄氏の柳田國男論の著作を発端に、文庫化されている目ぼしい文献を片っ端から電子書籍にて読破していました。主要な作品を読み終えた後、感じたのは地道なフィールドワーク、文献の出展を明らかにした膨大な調査でした。顎足付きで出版社に勤めながらフィールドワークに出かけるという恵まれた日々もあったようです。昨年読んで自分の歴史小説に生かそうとしている「石神問答」と「海上の道」での日本人は黒潮に乗って南からやって来たとする説を諏訪大明神に託そうと目論んでします。

    吐噶喇列島の火山島のひとつに諏訪之瀬島という島があります。柳田國男の説と共に最近注目しているのが古代ポリネシア語にルーツを持つ現代のマオリ語で多くの日本の地名などの説明をすることが可能なことです。柳田國男の「石神問答」の中に「サ」行と「カ」行の組み合わせが境界を表わすという所に注目しています。絶海の孤島に幽閉されていた大国主命(関裕二氏によると、天皇家の陰の要素の一派スサノオの末裔でニギハヤヒと同一人物で物部氏は末裔)の息子である建御名方命がフォッサマグナに沿って移動し、諏訪の地に落ち着いたという説を展開する中で、地名の謎解きをしつつ、物部守屋と神長官守矢氏との関連性、秦氏を絡めた古代イスラエルの失われた10氏族の末裔とキリスト教と絡めて、諏訪大明神は実は原始キリスト教の一派であり、天皇家の流れを汲む大祝諏訪家の神聖性を利用した武田信玄が失われた聖櫃を守屋山に隠蔽したという極めて複雑で難解のテーマにしたいというのが現在考えている3つの小説の内、一番書きたい題材なのです。

    その中で一番参考になるのが「妖怪」です。柳田國男よりもかなり前の世代ですが、建築家伊東忠太が妖怪にひとかたならぬ興味を抱き、水木しげるにも勝るとも劣らない妖怪達の絵を描いていたことも知るにつけ、陰陽師が使役した式神や天皇家や諏訪家の神聖性と共存する物部氏に表れている「モノ」=「鬼」をうまく伝奇小説として取り込んでいけたらなあという認識を新たにしました。その中で影の主人公になりうる大祝諏訪家とよしみがある人物が浮かんできました。海野平の合戦の後、禰津元信と共に武田信玄に真っ先に許された真田幸隆の弟である矢澤頼綱です。主人公として小説に取り上げられることはないものの、幸隆の手足となって働き、鬼神のような働きで頼綱は合戦でほとんど負けたという話を聞いたことがありません。

    一昨年から始めた武田家の研究はひとまず置いておいて、小笠原氏「とんぼさま」、村上氏「合戦屋3部作」、長野氏「業政駈ける」、真田氏の作品などで甲斐の周辺諸国の大名の小説を読み漁っています。剣豪物も好きなので、武田信玄と関りを持った長野業政の家老だった上泉伊勢守を描いた作品も読みたいと思います。

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん、おはようございます。返信が遅れすみません。

      今回の展示でも山から海へというのは一つの学問の到達点として興味深いものがありました。

      日本人や日本文化に興味がある人にとっては、起源については避けては通れないですよね。

      いまの日本各地に残る文化にも確実にその名残は残っていると思っています。私自身は南方の島々や中国南部や朝鮮半島や沿海州のそれぞれからやってきた文化が混交し、いまの日本文化が形作られたと考えています。

      水谷さんの企図する、諏訪地域で一つの文化の結節点として、様々な習俗や文化が残ったという着想はすごいと思います。ぜひ形にできるよう、わたしも陰ながら応援したいと思います。

  2. Pingback: 福崎の町に日本民俗学の礎を求めて | Case Of Akvabit

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