午前5時46分。巨大な両手で家を捕まれ、前後左右に強く振り回されました。以来20年が経ちましたが、あの朝味わった揺れの強烈さは感覚の底に未だにこびりついています。その揺れは、何千人もの人々の命を奪い、私の家族をはじめ、何十万もの人々から家や想い出を奪いました。兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災です。1/17が来るたび、この日の思い出が蘇ります。

 幸いなことに私は怪我もなく、阪神間に住んでいた親族も無事でした。しかし、野島断層に生じたずれと、そこから弾けた衝撃波は、私の家と、その後の人生をも大きく揺さぶりました。私にとって生涯忘れることのできない揺れです。とはいえ、20年とは赤子が成人に育つだけの年月です。当時を振り返ろうにも、私の脳裏からはかなりの記憶が失われてしまいました。しかし、記憶に積もった埃を払うには、今が最後の機会かもしれません。大学3回生の、挫折を知らぬ太平楽な青年も、20年の年月が経てば、上京し結婚し2児の父となり、それなりに生きる苦みと素晴らしさを思い知ります。今年に入り、本ブログを本格的に活用しようと決めました。決めた以上は、20年の節目を指をくわえて見過ごすわけにはいきません。払った埃がまだ空中に舞っている間に、思い出せる限り当時のことを書いてみようと思います。私が経験したこと、思ったこと。地震が日本に与えた影響について。両親から当時の写真をデータで頂いたので、写真付で綴ってみようと思います。

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 まずは前日。平成7年1月16日に記憶を巻き戻してみます。

 その日、私は明石に住む友人と会っていました。高校、大学と窓を同じくし、共に過ごした気の置けない友人です。その日何をしていたかは、もはや記憶の藪の中です。彼とは大学は同じでも学部が違っていたので、1月17日から始まる予定の期末試験の相談をしていたとも思えません。おそらくは二人でよくスキー旅行に出かけていたので、季節柄スキーの計画を立てていたのでしょう。

 夕方、明石の彼の家を出た私は、車で西宮の実家に戻りました。その時、何を思ったか、直線コースの2号線、43号線を使わず、長田辺りから山手幹線を通って帰りました。長田といえば翌朝の震度7の揺れとその後の火災旋風でかなりの被害が出た場所です。翌朝にそこが焼野原になることなど知る由もなく、ましてや再び明石に救援に戻ることなど思いのほかでした。予知能力などといった高尚な能力は持ち合わせませんが、偶然の暗合として、未だに思いだすエピソードです。

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 そして当日。平成7年1月17日。午前5時46分。

 当時も今も、私の実家は甲子園の某所にあります。今の家は、地震で全壊した旧宅を更地化し、そこから両親の力で建て直したものです。その朝、2階建て木造一軒家の我が家は震度6の揺れに激しく震えました。築30年の風雪に耐え、あちこちで古びつつあった我が家は、私が幼稚園生の頃に前の持ち主から買い受けた家です。前の持ち主の調度や壁紙、扉などかなり凝っており、建売住宅とは一線を画した造作になっていました。その家の2階の1室が私の部屋でした。部屋の押し入れを寝室として使っており、凄まじい揺れも押し入れで体感しました。気楽な大学生にとって朝の5時46分は深夜も深夜。熟睡中でした。そんな中、ものすごい揺さ振りです。それを夢うつつの中で感じ、起きたのは揺れが収まってからです。でも、巨大な手によって掴まれた家が、強烈に揺さぶられる感覚は、未だに拭い去ることができません。

 襖で隔てられた隣の部屋は家族がクローゼットとして使っていました。丁度その瞬間、早朝からのゴルフの支度に余念のない父に、強烈な揺れで崩れたタンスが襲いかかりました。危うくタンスに命を奪われかけた父ですが、なんとか急所を外し、私の安否を尋ねてくれました。それで私もはっきりと覚醒しました。しかし私の部屋は、多数の本が散らばり、床は一面本の海。しかも、眼鏡が地震の揺れで行方不明となり、探すのに難儀しました。揺れが収まった直後の奇妙な静寂と、やがて近所から聞こえてくる泣き声。何か大変なことが起こったことを、その静寂が教えてくれました。

 1階に寝ていた母と2階の別の部屋で寝ていた弟は無事でした。1階に集合し、まずラジオを点けました。ラジオが伝える報道では、震源地は明石海峡付近であるとのこと。明石には父の両親が住んでいます。しかも住まっている家は戦前から変わらぬ佇まい。リフォーム知らずの老朽度は、かなりの年季入りです。震源地を間近にし、80代の老夫婦がそのような家に住んでいたら、何が起こるか。

 混乱覚めやらぬ中、確か私から父に申し出たように覚えています。「明石に行ってくる」と。父からは瞬時の逡巡の後、「よし、行ってきてくれ」との返事がありました。かくて、震災の朝、私の明石への救出行は始まりました。車を駆って震災の混乱の中、西宮から明石へ。もちろん、何の準備も情報もありません。あるのはただただ無鉄砲な祖父母を案ずる思いだけでした。私が家を出たのは、確か朝の6時半頃だったように思います。

 家の近くを走る国道2号線。まずここまで出ました。車の量は少ないとはいえ、信号が全く作動していません。作動していない信号を、注意深く何度も横切ります。行き交う車がお互い注意し合えれば、何とか通行できる程度の交通量でした。私は車を西へ西へと運転します。しかしその運転も長くは続きませんでした。2号線と171号線が交差する札場辻交差点。ここから車が動かなくなり、進む様子を見せません。私はここで車の向きを変える決断を下しました。すなわち、北へ。171号線から、市立体育館の横を抜け、廣田神社の参道を通ります。道すがら見た街の様子は一変していました。一方通行を逆走した記憶もあります。崩れた土砂の上を渡ったような記憶もあります、が、そのほかの風景はあまり覚えていません。それだけ運転に必死だったのでしょう。目指すは盤滝トンネル。西宮の北部から山道を越え、有馬温泉から六甲の北を回って明石に抜けるルートです。高校時代の友人の家が岡場にあり、当時よく遊びに行っていたので地理勘もあります。

 ところが、この道が大変な難所でした。西宮市街地から船坂地区へは盤滝トンネルをくぐります。震災の数年前に開通した盤滝トンネルへの道は、甲山の脇を抜け、六甲山最高峰への道に重なります。ところがその朝、盤滝トンネルは地震の影響で閉鎖されていました。ここで私は再度決断を下します。盤滝トンネルが開通するまで、船坂地区と西宮市街地を結ぶ唯一の道だった、小笠峠を越えるルートに車を進めました。やむを得ない決断とはいえ、真冬の早朝、道は凍結しています。さほど広くない道には地割れや落石が頻発し、道路のあちこちを塞いでいます。落石と言っても小さい物から、軽トラックほどの大きさの岩まで様々な障害物が転がっています。万が一、上から落ち掛かられたら命はありません。凍結と地割れと落石をどうやってやり過ごしたのか、全く記憶にありませんが、なんとか峠を越えて船坂地区へ。そこからは比較的被害が少ないように見える道を、順調に明石へと向かいます。船坂からは金仙寺湖、流通センター、岡場と過ぎ、押部谷へと至ります。この間、北側の八多、淡河を通るルートと、南側の神戸電鉄有馬線沿いのルートがありますが、どちらを通ったのか、全く覚えていません。思いはただ、西へ、明石へ。

 押部谷に着きさえすれば、あとは明石までは南下するだけです。明石までどのようなルートを辿ったのか覚えがありませんが、側溝に横転してはまり込んだ軽自動車や、神戸方面の空が妙に赤かったことは記憶にあります。よく、戦災体験の手記を読むと、彼方の空が赤く底光りしていた、といった記述を見かけます。まさにそのような空の色だったように思います。といっても視覚イメージは私の脳裏から失われてしまい、その時にそう思った思考の残滓だけがいつまでも焼き付いているだけですが。20年の月日が記憶を風化させてしまいました。

 明石の祖父母の家は、到着前に抱いていた暗い予想を裏切り、祖父母とともに無事でした。室内の物が雪崩れたとはいえ、拍子抜けするほどに被害がありませんでした。これは後学ですが、野島断層からの亀裂は真っ直ぐ東の神戸方向に伸びました。そのため、天文科学館のすぐ裏手だった祖父母の家はさほど揺れず、被害が最小限に抑えられたのかもしれません。片づけを手伝おうにも切迫した危機も、近隣の住宅が崩れたといったこともありませんでした。すると今度は西宮の家が心配になります。なので、あまり明石の祖父母宅に長居せず、再び来た道を戻ることにしました。電話はもちろん不通で、携帯電話もない時代です。全ては自分の判断が頼りでした。

 途中、腹ごしらえに神戸学院大近くのローソンに寄りました。店内の商品はきれいになくなっていました。道中、何を食べたのか覚えていません。ローソンでわずかに売れ残っていた食料を買ったのか、お菓子を買ったのか。時刻は昼ごろだったと思いますが、災害時の買い占めといった事態に初めて出会いました。その前に通りがかった明舞団地あたりでは、ガス漏れの匂いがあたりに立ち込めていたことも思い出されます。でも、総じて、明石近辺の被害は、第一報の印象よりもはるかに僅少でした。そしてその頃には、大震災の被害状況が少しずつ私の耳に入ってきていました。

 その朝、私が運転中にずっと聞いていたのはラジオ関西でした。普段はAMラジオなどめったに聞くことのなかった私ですが、道中、ひたすらラジオ関西の報道だけが頼りでした。後日、ラジオ関西は震災当日とその後の一連の報道によって、賞を受けたとか。それも然りと思わせるほど、冷静で感情を抑えたCM抜きの報道にどれだけ救われたことか。感謝の気持ちただそれだけです。

 ラジオ関西からの情報により、一番ひどい被害が須磨区から長田区、兵庫区、中央区と東に向かって帯状の地帯に集中していることを知りました。であれば、昨夕通った2号線と43号線ルートは使えません。行きと同じく、六甲の北を回るルートで帰りました。行きのルートもあまり記憶にありませんが、帰りのルートもほとんど記憶に残っていません。ただ、早朝に命からがら峠越えした小笠峠のルートは通らず、176号線を宝塚まで出て、そこから武庫川沿いに南下したことは覚えています。

 家に帰ると、すでに辺りは夕闇でした。電気・ガス・水道はもちろん通じません。ガラス窓も大方割れてしまい、床も散々な有様でしたが、私が明石へと往復している間に、家族が応急処置をしてくれたのでしょう。家族4人、無事に夜を迎えることができました。といっても、帰宅してからの記憶は殆どありません。どこで寝たのかも、家族4人が一緒の部屋で寝たのかも忘却の中です。ただ、この日は期末試験で、どうせ試験も中止、と決めつけたような記憶はあります。電話も使えず、せっかく明石に行ってきたのに、その前日に会ったばかりの友人の安否も知らず、我が家の安否すら誰にも教えられぬまま、不安の夜を過ごしました。

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 1月18日から、2月初めの吹田への引っ越しまでの間。

 震災翌日から、私は色々と動きました。西宮市役所へ被災届を出しに行ったのも私。西宮市役所の職員の方が充血した目と無精ひげのまま応対して下さったこと、未だによく覚えています。顔すらぼんやりと思いだせるほどに。父が公務員であったにもかかわらず、偏った世間知らずの学生知識で、公務員は楽な仕事といった少しの偏見を持っていました。が、この職員の姿を見てから、そのような誤った考えは私から消えました。直接に助けられる機会はありませんでしたが、自衛隊に対する考えが一変したのもこの時からです。国防は脇に置くとしても、災害時の救助活動で自衛隊の活躍に及ぶ物はない、という考えに。また、これを書いている震災20年を迎えた今、仕事の法人化準備を進めているのですが、その中でNPOについても勉強しています。NPOの意義が世間に遍く行き渡ったのも、阪神・淡路大震災であること。これも学んだことの一つです。

 もう一つ忘れられないのが、先輩からの届け物です。これは確か震災翌日だったように思います。隣の尼崎に住んでいた大学の先輩が、自転車で食料を届けにきて下さいました。後日、様々な方から沢山の助けを頂きましたが、一番最初に手を差し伸べて下さったのがこの先輩です。震災の翌年には、職に就かずにいた私に芦屋市役所でのデータ入力の仕事を紹介し、私をITへの道に導いて下さりました。私にとって終生の恩人です。残念なことに、東日本大震災の数日前、逝去されました。2つの大地震の発生日に近づくと、この先輩のことを偲ばずにはいられません。

 混乱の中、市は僅かずつ、機能を取り戻しつつありました。ご担当者が早めに動いて下さり、我が家は全壊認定を受けました。赤紙です。強い余震でぺしゃんこになってしまう恐れがあります。なので、私以外の家族3人は、家から徒歩5分の自治会館で寝泊まりすることになりました。夜の留守番は私独りです。おのずと感覚も鋭敏になります。なんと、地震の揺れがくる数秒前に、地震を予知できるようになりました。1階の部屋で寝ていると地震が来るのがわかるのです。ゴゴゴゴゴ・・・と遠くから徐々に音が大きくなり、近づいてきたその音が寝床の真下に来ると、グラグラっと家が揺れます。この戦慄の感覚は今でも明確に脳裏にあります。しかし、地震が頻発する東京に住んで15年になりますが、この時に会得した地震予知能力は喪われてしまいました。残念です。地震直後の異常な状況が、私の感覚を研ぎ澄ましていたのでしょう。

一見するとあまり被害を受けていないように見えるが、全壊認定を受けた我が家。img034
門柱には亀裂が走り、塀は今にも倒れそうな状態。img035
一番被害が甚大だった浴室と洗面所。足を踏み入れることすらできない状態に。img036
水場は地震の被害に特に弱いことを痛感しました。img057
洗面所は、鏡が残って居なければ、何だったかすら定かではありません。img046
私の当時の部屋。大分片付けたのですが、地震直後は床が本で埋まりました。ゲルググやドダイのプラモデルが懐かしい。部屋の真ん中につるしていたハリセンボンが懐かしい。ペリー・ローダンの文庫本が懐かしい。KENWOODのミニコンポが懐かしい。各地で買い集めた通行手形が懐かしい。20年前の自分よ、私はこんなおじさんになりました。
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 家は全壊認定を受け、もはや壊すほかなくなりました。地震のため、大学の期末試験は代替レポート提出で免除されることになり、私は日々買い出しで尼崎や大阪まで出る日々が続きました。家のすぐそばを武庫川が流れているのですが、武庫川を渡ると、そこは全くの別世界。被害状況たるや西宮と尼崎では天地の開きがあります。阪急伊丹駅こそ全壊しましたが、西宮以西の惨状とは違う光景に戸惑いの日々でした。風呂に入れなかったので、高槻の親戚の家まで風呂を浴びさせにもらいにいったり、吹田の大学に行ったり。そんな中、家探しも並行して行っていました。それは専ら私の役目。私がお願いしたのは大学の友人達。大学が吹田にあり、私の友人たちが大阪府や奈良県に散らばっていたので、彼らに助けを乞い、めぼしい物件を探してもらいました。そしてはやくも2月の初めには、吹田市のめぼしい物件を契約できました。阪急千里線の南千里駅からすぐ、高級住宅地の一角にある家でした。この家を見つけてもらった友人とは、大学時代はよく会っていたにも関わらず、大学卒業後に連絡が途絶えてしまいました。以来20年、彼の消息は常に気に掛かっています。一度改めてお礼したいと願っているのですが。

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 家は地震から3か月半後、5月2日に、取り壊し始めました。昭和54年から住み始め、16年弱。この解体は父が見届けました。

手前にみえる部屋の壁は私の部屋の壁です。img060
手前にみえる部屋の壁は、地震の日の朝、父がタンスに襲われた部屋です。img078
近隣の家屋はほとんど全壊となり、時期を同じくして解体されました。
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 地震は、私の人生観を一変させました。人がいかに不安定な現実の上に依っているか。腹が据わったとも云えましょうか。冒頭にも書いたとおり、家族・親族こそ無事でしたが、私の知人で亡くなった方は何人もいます。九死に一生を得た知人もいます。恥ずかしい話ですが、この地震から初めて、自分の人生を生きねば、という自覚を持ったように思います。それまで順風満帆な21年間を生きてきた私が、初めて遭遇した異常時。それがこの地震でした。

 東日本大震災の際、世間が自粛モードに染まりつつある中、私は自粛の態度を取りませんでした。それはこの地震で被災者となった経験によるものです。災害に巻き込まれた当事者にとって、身の回りの世界の外に住む人が自粛していようがいまいが全く関わりのないことです。そんなことに気を回す間もないほど、身の回りのことだけで忙殺される。それが被災者です。自粛に意味があるとすれば、地震当日、私が聴き続けたラジオ関西のように、CMよりも役に立つ安否情報や被害情報を流す必要に迫られた場合です。こういう自粛は意味ある自粛です。

 写真というメディアの有効性は、地震から年を追うごとに私の中で高まりました。地震当日の貴重な記憶が、上にも書いたようにほとんどすっ飛んでしまっています。非常時、心に目の前の光景を焼きつけるだけの余裕は与えられません。撮っている余裕があったかどうかはさておき、当日の朝にこの目で見た状況を記録するカメラを持たなかったことは痛恨の極みです。後年、旅行先でカメラを手放さず、風景を撮りまくるようになったのも、この経験を心象イメージとして記憶できなかった自分への戒めから来ています。Facebookに日々写真をアップするのもその一環です。その当時、写真の重要性に気付かなかった私は、我が家周辺の被害状況を写真に収めることすらしませんでした。下に挙げる写真は弟が撮ってきたものです。

有名な高速道路の落下現場。甲子園球場のすぐ傍、久寿川に掛かる橋です。img064
阪急電車の高架崩落現場。西宮北口⇔夙川間。img066
西宮市役所前に並べられた支援物資。img083

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 2月より吹田に引っ越した我が家。地震により期末試験の代替レポート提出を課せられた私ですが、地震後の片づけやら手続きやら引越やらをしていて、すっかりレポート提出を忘れる始末。大学で独り反省文を書かされたのは苦い思い出です。オウム真理教が日本を震撼させる中、大学の部室に入り浸る日々。4回生になり、就職活動が始まるも、高揚した気分のまま、勢いで就職活動をこなし、就職氷河期の中、するっと最終試験へ。そこで調子にのって就職活動を辞めた所、それらの最終試験が全滅。しかし私の舞い上がった気持ちは、その夏のほとんどを西日本、九州、沖縄、台湾への旅へと駆り立てました。

 そんな無軌道な4回生のキャンパスライフを過ごした私。翌年3月に大学は卒業したものの、内定無しという現実が待っていました。とはいえ、地震の経験から吹っ切れた就職浪人の私は、吹田の家で自由な時間を謳歌する日々。やがて地震の翌年、平成8年の10月に更地から家を建て直し、西宮に戻ることになります。そのタイミングで、先にも紹介した先輩が私の身を案じ、芦屋市役所のアルバイトを紹介して下さいました。ここでITの道に開眼する私ですが、舞い上がった気持ちは反動でどん底へ。生涯で一番きつい鬱の日々が続きます。この時に読みまくった本達。その後の新たな出会いを求めての活動。さらにはインターネットを通じて今の妻との出会い。ブラック企業での理不尽で不条理な日々。その悔しさからの一念発起の上京。結婚や家土地売却の試練、娘達の誕生、個人事業主への独立。歯科医院の開業。そして今、法人化に向けてようやく踏み出そうとする私があります。

 阪神・淡路大震災。戦後の日本が遭遇した有数の出来事です。ここに書いたことはあくまで私の、私自身の体験でしかありません。しかし、その体験は、私自身の人生を確実に変えました。そして人生に対する、世の中に対する考え方をも変えました。20年の月日が経ち、改めて地震の日を振り返る機会を持てたこと、それによって積もった埃を振り払い、こうやって一文をモノすることもできました。自分の今後の行く末を占ううえで、有意義な振り返りだったと思います。挫折を知らぬ青年が、20年を経て世間に揉まれ、とうとう法人化を企てるまでになりました。法人化を為そうとするに当り、一体自分はどういう人間で、どういう信条を語り、自分の来し方にどう落とし前をつけるのか。本文を著す経過の中、そういった一つのけじめが出来たように思います。


5 thoughts on “あの日から20年

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