先週、4/26日に帰省した折、HAT神戸にある「人と防災未来センター」を訪問してきました。

のっけから結論をいうと、
「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき。
これです。

さらに言えば、
特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。
これです。

このセンターの目的は、再び阪神・淡路大震災の被害を繰り返さぬため、後世に、未来に向けてメッセージを発信することにあると思います。確かに、阪神・淡路大震災の被災者にとり、遠い未来の阪神・淡路地域の防災を願うのは当然のことです。

しかし、それだけでよいのでしょうか。

私は、当センターの展示物の持つメッセージは、今の首都圏に住む人々にとってこそ切実に発信されるべきだと思うのです。江戸の昔から、東京には地震がつきもの。これは云うまでもありません。ここ150年に限っても安政江戸地震、関東大震災が発生しました。間隔から算出すると首都圏が大地震に襲われることは必至と言われています。

先日の東日本大震災では、首都圏も大きな揺れに襲われました。とはいえ、震源地は宮城県沖です。地震による直接の被害といってもお台場のビルが燃え、京葉工業地帯で爆発が起こったぐらいでした。首都圏に住まわれるほとんどの方にとって、地震の被害として記憶に残っているとすればなんでしょう。計画停電や電車遅延による心労、放射能汚染に対する恐れがせいぜいではないでしょうか。いづれも直接の地震被害ではありません。二次被害です。

しかし、このセンターの展示で阪神・淡路大震災の被害を見ると、東日本大震災で首都圏が被った地震による直接被害は、まったく過小なものであったと思わされます。そして、憂うべきなのは、そのことによって首都圏に住む方々が、地震への畏れを過小に認識し、それを定着させてしまったことでしょう。地震と言ってもたいしたことではない、という無意識の油断。このような油断が地震災害を広げることは云うまでもありません。当センターの目的は、そういった油断を諌め、将来の教訓とするためにこそあります。

なぜこのようなことを書くかというと、私自身、1.17と3.11の揺れをともに体験しているからです。といっても、1.17と3.11の揺れや建物被害の程度は比較にもなりません。町田で体験した3.11の震度五強の揺れは、1.17で体験した震度六強の揺れに比べても僅かなものでした。では、阪神・淡路大震災と同じ程度の揺れが首都圏を襲ったら何が起こるか。その被害の程度については私にも想像がつきません。相当な被害になる事は間違いないでしょう。私自身、あるいは命を落とすこともあるでしょう。

今回、初めて当センターを訪問し、そのことを強く感じたからこそ、自分への戒めとして本文を書くこととしました。

以下に、センターを訪問しての感想を述べていますが、結論は冒頭に書いた通りです。首都圏が阪神・淡路大震災と同じ揺れが起きたらどうなるか。そのことについて、首都圏の人はあまりに無関心です。首都移転の議論もすっかり下火となり、2020の東京オリンピックだけが先走っているように思えてなりません。私はそのことを強く危惧しています。少しでも多くの首都圏の方に、このセンターと同じような展示を見て頂きたい。

承知のとおり、今年は兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生して20年の節目の年です。1/17には追悼行事の報道で、当時の記憶を新たにした方も多いのではないでしょうか。わたし自身、薄れる一方の記憶を呼び起こし、当日にこのような一文をしたためました。

人と防災未来センターでは、20年を総括する特別展が催されています。今回の帰省は高校時代の友人達に招かれたのですが、良い機会と捉え、まだ未訪問だった当センターに足を運びました。IMG_3532

ガラスで覆われた印象的な外観のセンターは、西館と東館に別れています。西館一階から入場した私は、エレベーターで四階に案内されました。四階から二階へと下り、一度降りると上階へは戻れないようになっています。

四階は震災追体験フロアと銘打たれています。案内されたのは、立ち席のシアター。シアターの入り口には震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいと看板が立てられています。この看板の意味するところは、シアターを体験すればすぐに分かります。

当センターの目的は、防災の精神を未来に伝える事と受け止めました。防災の精神は、単に写真や遺物や文章を眺めるだけでは養われません。揺れの凄まじさに堅牢な建造物がいとも簡単に破壊される都市直下型地震の恐怖。この恐怖が刷り込まれてこそ、防災の必要性に目覚める。私はこのシアターの意味をそう体験し、心に刻みました。

shockと名付けられたシアターは、不規則で大きな凹凸が覆われたスクリーンが立体的に設置されています。直角三角形の長辺を想像すると分かりやすいです。観客は、震動を体感できる台のような場所に立ちます。前面のシアターには地震の揺れの凄まじさが映り、フラッシュが幾度も鋭く明滅し、サラウンド音響がシアター内に轟き、足元は揺れます。揺れるといっても、震度七の揺れではありません。それでは観客は映像を体験するところではなくなってしまうでしょう。揺れは抑えられているとはいえ、凸凹スクリーンに映る揺れの映像は凄まじい出来です。正直言って、これCGですよね?現実の映像ではないですよね?と聞こうかと思った程です。野島断層が断裂する瞬間を、阪急伊丹駅が崩壊する刹那を、長田区の住宅が粉々になる過程を、センター街のアーケードか原型を失う一瞬を、阪神高速神戸線が倒壊する数秒を、明石の天文科学館が揺れに翻弄される様子を、走行中の阪神電車が脱線する衝撃を、これら揺れの瞬間を偶然納めたアマチュアカメラマンの映像が残っており、それが上映されたかのよう。そのくらいリアルな映像でした。 

起震車という車があります。機械の力で震度七が体験できるというものです。私も体験したことがあります。その揺れに比べたらこのシアターの揺れはそれほどのことはありません。あの日の朝、両手で家を捕まれてめちゃくちゃに振り回されたような感覚を知る私にすればシアターの揺れは遠く及びません。でも、映像のリアルさがあまりにも真に迫っているため、20年前の恐怖が呼び起こされたようです。小学生以下のお子さんだと泣くかもしれません。

揺れの衝撃を味わった我ら観客は、シアターの外へ誘われます。そして、そこで目にするのは、病院の待合室。強烈な揺れに翻弄され、様々なものが散乱した病院に迷いこみます。20年前の朝に引き戻されたような空間です。病院の一方の壁は大破し、5時46分の明け方の暗い空が見えます。外に出ると、崩落した家の瓦礫が道路を塞ぎ、傾いた電柱から垂れ下がった電線が頭上に迫ります。高架からは路盤が崩れ、ずり落ちた線路が。これらのリアルな等身大ジオラマが、あの朝の、辺りを満たす奇妙な静寂を思い起こさせます。

ずり落ちた線路を潜ると、大震災ホールへと続きます。このシアターには、光も揺れも音響もありません。語り手は地震当時15歳の女性。激震により家は大破し、瓦礫の中に生き埋めとなるも、火の迫るなか、近隣の住民に助けられた経験を語ります。隣の部屋にいた姉は、「いいから、早よ行き!」という言葉を残し、焼死します。彼女がそのあと体験した、不安と寒さ、避難所生活のストレス、救急物資のありがたみが語られます。町は徐々に復興していきますが、土地を離れた人、賑わいを取り戻せない商店街の寂れなどをへて、彼女は震災体験を活かし、看護師になります。

ブログにも書いたように、私自身、地震当日からしばらくの時期は生きるのに必死で、復興の様子や街並みの様子はあまり覚えていません。しかし、こうやってシアターの彼女の体験を追ううちに、20年経って忘れてしまったこと、20年の時間の中に封じ込めてしまったものが思い出されます。感動しました。小学生の姉妹を連れた家族連れも来ていましたが、最初のshockでは平気だったのに、こちらのシアターではずっとすすり泣きの声を上げていました。

最初のshockの入り口に、震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいとの看板のことを書きました。その意味がよくわかりました。人によってはこれらの展示は余りにも強く当時を思い出させます。PTSDの症状に襲われる可能性も否定できません。常連客が再度の追体験を省くためだけといった理由もあるのでしょうが、シアターの内容にショックを受ける人への配慮もありそうです。この二つの映像と等身大ジオラマにはそうさせるだけの力があります。

続いて下りのみのエスカレーターで三階に降ります。震災の記憶フロアと名付けられたここは被害と互助、復興についての場です。かなり濃密な空間となっています。正直すべての展示を見るには体力と気力がいります。一字一句くまなく追うことは断念しました。でも、鷹取商店街の高熱でぐにゃぐにゃに溶けたアーケードの残骸や、揺れによってひどく歪んだ側溝の蓋など、印象に残る展示物も多かったです。様々な方の震災体験が豊富に展示され、行政の動きやNPOの活動など、実に濃い空間です。NPOには私も関心を持っており、ことさらじっくりと拝見しました。阪神・淡路大震災の起きた平成七年が日本のNPO元年とも言われるぐらい、地震後のNPO活動には特筆すべきものがありました。こういった専門的なことも学べるのがこちらのフロアです。IMG_3534

続いて二階へと下りました。一度二階に下ると三階のフロアには戻れないため、三階は生半可な気持ちでは見て回れません。しかし、防災・減災体験フロアという名の二階フロアは、比較的子供向けのワークショップや体験的な展示物が多く、少し拍子抜けしました。とはいえ、日本各地のハザードマップを集めたコーナーや多数用意されたPCによる災害ページの閲覧コーナーなど、じっくり腰を据えると学ぶべき点は多いです。家庭に備蓄すべき防災グッズも数多く展示されており、首都圏の人にこそ見てもらいたいフロアといえるでしょう。

こちらのセンターは西館と東館に別れていると書きました。二階には渡り廊下が設けられていて、東館に渡ることができます。東館の展示は、根本の限られた地球の資源や環境の大切さを学べる展示となっています。そして特別展示の場所としても。常設展はどちらかというと子供向けの内容が多く、帰京の時間が迫っていた私は、じっくりと見て回りませんでした。でも、特別展示は別です。

「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」と題された特別展はじっくりと見て回りました。手作り感あふれるボードに書かれた当日の被害やその後の復興が分かりやすくまとめられています。被災地の全ての家屋が白地図で貼りだされ、被害度に応じて色分けされています。被災して全壊認定を受けた私の実家も白地図でくっきりと示されており、色も塗られていました。しかしこうやって全体で見ると、我が家よりも重度の被害に遭った家屋の多さに言葉を失います。IMG_3550

こちらの特別展で首都圏の人々に特に見て欲しいのは、南海トラフ巨大地震や首都直下地震など将来発生する大規模災害についての展示です。首都圏に住む人々にはお馴染みの景色が手書きイラストで30枚近く展示されています。戸越銀座や三軒茶屋、押上やお台場、新宿や多摩センターといった景色の。あえてキャプションは付されていませんが、首都圏に住む人にとってはどこを描いたか想像の付くイラストです。これらのイラストは全てあるテーマを基に描かれています。それは、地震発生後の人々が避難する様子です。あえて建物は想像し易くするため原型のまま描かれていますが、そこに登場する人々の様子は切迫しています。普段住んでいる街が被災したとき、何が起こるか想像してみて欲しいというのがこの展示の主旨なのです。

しかし、私は展示を観ながら素朴な疑問を抱くに至りました。それは、阪神間に住む人々はこれらのイラストをみてどこか想像つくのだろうかというものです。さらには、果たしてこの展示を首都圏の方々が見ることはあるのだろうか、という展示自体への疑問にもつながります。

ここにきて、冒頭にもあげた結論に繋がる訳です。「特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。」という結論に。今のままではこの展示は首都圏のほとんどの人の眼に触れることなく、特別展示の期間が終われば破棄されてしまうでしょう。それはあまりにも惜しい。防災がいま日本でもっとも必要な都市はどこかといえば、東京を中心とした首都圏に他なりません。当センターの展示物をもっとも見るべき人々が住まう場所も同じです。なのに、それが首都圏の人々に届いていないもどかしさ。私が本文を書こうと思い立ったきっかけもまさにそこにあります。

 叶うならば、東京に地震が来ないで欲しい。でも、科学的見地から、東京が地震に襲われることは免れない。であれば、少しでも被害が減らせるような方策を取るしかない。そのためには、首都圏に住まう人々に少しでも当センターのことを知らせるような運動を起こさねば。そのような動機から、本文を書きました。願わくはこの文をきっかけとし、首都圏の方々が当センターの展示に関心を持って下さるように。

 そうでなければ、20年前に亡くなられた6434人の犠牲が活かされなくなってしまいます。


One thought on “「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき

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