2014年の後半に読んだ「人はなぜ宗教を必要とするのか」。この本によって、浄土真宗の創始者である法然、親鸞に興味を持った。

念仏を唱えさえすれば善人だけでなく悪人も極楽浄土に往生できる、いわゆる悪人正機の教え。一切の自力による努力を虚しいものとする他力本願の教え。鎌倉時代に現れたこの二つの教えは、今の秩序ある競争社会の目には異質に映る。人の世の清濁や人間の営みを退けず、むしろ受け入れた上で宏大な包容力で包むような教義は、我々に自らの小ささを思い知らせる。さしずめ、勤め人の状況からなんとか逃れよう、日々が同じ日々にならぬよう、バタバタしている私もまた、小さき人の一人に過ぎないのだろう。

本書は新書ではある。しかし内容は実に濃い。新書の紙数を最大限に使い、親鸞の教えについて緻密な検証を繰り広げる。その緻密さは、難解さでもある。本書において著者は親鸞の教えとがっぷり四つに組んで格闘している。半可な私には、その高度な闘いのほんの一部分しか理解できなかった。親鸞の思想の深みを知れば知るほど、私などの手には届かぬ距離を感じた。よしんば触れえたとしてもそれを掴み上げることは今の私にはまだ無理である。しかし、努力は放棄したくない。今回本稿の形で改めてレビューに起こすにあたり、本書で繰り広げられる著者と親鸞の格闘を見届け、中継と解説を試みたいと思う。

序章 悪への視角
序章からして、深い。著者の筆致は端正であり、冷静だ。読者への媚びもない。序章から早くも、親鸞の思想への切り込み方が示される。

冒頭から歎異抄の有名な一説が提示される。

善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。

ここでいう悪人とはなにか。親鸞はどういう視角から、悪人を定義したのか。序章には「悪への視角」という題が付されている。その名にふさわしく、著者は悪への視角を追求する。

親鸞が起こした浄土真宗は、加賀の蓮如によって大いに栄えた。だが、蓮如は歎異抄を聖教の書としつつ、みだりに信者に読ませることを禁じたという。当時にあっても、この内容は誤解を招きかねないと思われていたのだろう。また、著者は親鸞の思想の深みに踏み入れる前に断りを入れる。それは、歎異抄が親鸞の教えを伝えている書かどうかについてである。歎異抄は、親鸞の弟子唯円によって書かれたが、親鸞が悪人正機の考えを持っていたことは確かであり、歎異抄の内容も親鸞の教えに相違ないという。実際、明治以降になって歎異抄については従来考えられていた論とは違う角度からの様々な論が提示されたという。そのような様々な論に対し、著者は次々と論破を試みる。その中には梅原猛氏や山折哲雄氏といった現代の碵学も含まれる。両氏もまた、歎異抄については疑問を述べ、独自の論を展開する。果たして唯円が表した歎異抄は、親鸞の思想を的確に伝えているか。著者は伝えていると考え、梅原、山折両氏は伝えていないとする。著者は両氏の論に真っ向から対論を挑み、序章からしてすでに濃密な論理が展開される。

また、返す刀で著者は思想研究のあり方についても論を進める。過去の思想を検証するにあたっては、現在の立ち位置から検証されなければならないと言う。客観的な親鸞像よりも、わたしたちにとっての親鸞像が重要という訳だ。

この視点はかなり私にとって重要だ。というのも、私は歴史問題を考える際は、時代背景が違う後世の人間が過去を断罪するなどおこがましいと考えているからだ。ただ、本書がいうように過去の研究が今に活かせないとすれば、それはただの骨董趣味という意見もその通り。上記の箇所を読み、私も今後、近代史や戦史について考える際は改めてその事を意識しなければと思った。

第一章 思想史のなかの親鸞
序章からして著者のペンの切っ先は鋭い。鋭く端正で、丁寧だ。翻って第一章では、その鋭さを一旦鞘に納め、著者は万葉集を例にとり、日本の無常をめぐる考えの移り変わりを説く。平安末期からの戦乱とそこにはびこった末法思想。その混乱の中で師法然がたどり着いた易行による救済。それらの時代背景を踏まえた上で親鸞の生涯が描かれ始める。天台宗の中で性欲に悩み、如意輪観音から啓示を得、法然の弟子となる経緯。浄土宗が弾圧され、流刑が解けた後も関東で布教を積んだ日々。20年後に京に戻るも、実子の善鸞が教えを曲げたとして義絶せざるを得なかった苦悩。孤独と苦悩のうちに90歳で亡くなった晩年。その中で親鸞自身が自分の中の欲望に悩み、「罪悪有力 善根無力」の法然の教えにすがる経緯や、それでいて、悪しき凡夫である自身から逃れられなかった苦しみに呻吟していたことなど、親鸞の生涯が簡潔になぞられていく。また、親鸞死後の浄土真宗の歩みを蓮如の時期まで概説し、蓮如の歎異抄にたいする考えを批判する。衆目に歎異抄を晒すことを禁じた蓮如は、悪人正機の一説を道徳・倫理の視点からでしか読み解かなかった。しかし、この一説は人間存在の根本に肉薄する重要な言説であること。

第二章 悪人正機の説
一章の最後で指摘した内容を受け、悪人正機説に切り込むのが本章だ。ここでは先に挙げた一節「善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。」と、それ以下に続く文章が引用される。その引用箇所では、他力本願の教えが明確に書かれている。つまり、一切を弥陀の本願に委ねきって他力の立場に立つ悪人こそが、まさしく救いにあずかるべき身である。したがって、善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は当然だ、と。これこそが他力本願の教えである。この引用文からは、悪人正機と他力本願の教えは歎異抄の中ですぐ隣に書かれていることがわかる。

ここで著者は悪人を道徳的・倫理的悪ではないとする。文字通りに読むと親鸞は悪人こそが往生できると述べた破戒僧になってしまう。だが、門人に対して悪行を諌める文書が残っているという。つまり、破戒を推奨した人物だったわけではないという。後世の暁烏敏による解釈では悪人と善人のそれぞれの意味は逆説的ではないかとあったが、それも違うと著者はいう。つまりは、悪を道徳的・倫理的悪と見るのではなく、存在論的悪とみることで、これらの疑問は解消されるという。

存在論的悪とは、何か。それは存在することとは、他人を殺すことによって生かされているということを意味する。仏教の考えでは生きとし生けるものは皆仏性を持つとある。つまり仏性を持つ他の生き物を殺さねば自分が生きられない。これこそが存在論的悪である著者は云う。

また、著者は存在論的悪の例をもう一つ上げる。それは私のような商売人にとって致命的ともいえる悪だ。つまり商売の悪である。商売とはつまるところ他人により自分を売り込むことであり、他人の損を自分の得につなげる営みである。商売とは、自らの利益を追う営みであることは否定しようがない。また、入学試験のように自らが入学できたことは、反対に落とされる人がいることも意味する。また、仮に皆で人助けをしたとしても、それすらも別の人に被害を及ぼす可能性は否めない。それらを著者は排除という言葉で表す。そこに存在することで例え悪意がなくとも他人に被害を及ぼしうる。まさに存在論的悪である。人が生きる限り避けられない悪。親鸞のいう悪人とは、存在論的悪をなす我々全てと見てよい、と著者はいう。

親鸞の自己への視線はあくまで客観的で、突き放している。我々煩悩に生きる人々にも、ふと物思いにふける瞬間がある。そんな時、自らの存在について、生きものを食べねばいきられない業について、利益を追う日々について自省することもある。しかし、私も含めたほとんどの方は、日々の多忙にかまけ、その様な考察を深めることをしない。またはしても忘れる。そもそも親鸞のように、四六時中、自らの存在や存在していることで生ずる悪業に考えを廻らすことなどできるはずもない。我々の精神は親鸞のようにそこまで頑丈ではないのだ。私は常に思うのだが、仕事という仕組みには、一面ではそういった思考に落ち込まないため、我々自身を多忙に追い込むために考えた仕組みではないかともいえる。

道徳的・倫理的意思に関わらず人は例外なく悪人である。親鸞の悪人正機説は、そこに基点を置く。だから、善人なおもって往生す、の善人とは「もし善人というものがありうるならば」との注釈が入るはずだ、というのが著者の解釈となる。

また、我々が悪を避けられないならば、全てを念仏に託し、念仏を通して阿弥陀の救いにすがる、という理屈も分かる。我々の存在がどうあっても悪でしかない以上、人間が善悪を云々するのもまた愚か、というわけだ。つまり、善人になろうと努力する人は在りもしない善を求め、悪を自覚できず存在の根本から誤っていることになる。親鸞のいう善人悪人について、著者はこう解釈している。つまり、悪人が自らの存在故に無力な悪人であるため、阿弥陀によって救済される、ここに親鸞の悪人正機説があると著者はいう。ただし、第四章で触れられるが、信心を持たず、悪業の限りを尽くす、道徳的・倫理的悪人が弥陀の本願として救われない存在であることはいうまでもない。

著者はその結論を携えて次章に移る前に、信仰の定義を確認しておくことを忘れない。その中で著者が訴えたいのは、科学的立場から、宗教を退けることの不毛さである。自然科学も根本まで突き詰めれば、この定理が正しいはずという「信仰」にすぎないと著者はいう。

この辺りの議論は、本書を読むきっかけとなった「人はなぜ宗教を必要とするのか」で展開された論理と同じである。

第三章 「信」の構造
ここでは、信仰の在り方について、親鸞の考えが述べられる。法然の忠実な弟子であった親鸞は、弟子を持っていなかったという。門人は多数いたが、仏門にあっては共に弥陀の弟子であり、弥陀の前では等しいと。信仰とは、弥陀から衆生に等しく一方向に与えられるもの。弥陀の前にはただ単独者として相対するだけ。単独者のはずなのに、別の単独者を弟子とすることは矛盾しているのではないか。親鸞はこう見ているのだという。しかし一方で、仏への理解には差があるため、親鸞は師弟関係は認めていたという。

ここからは、徹底的に仏の前にあっては皆無力であり、小賢しく徒党を組むことを拒むのが親鸞の思いであることが見てとれる。宗派の勢力争いなどもってのほか。また、親鸞は師法然の念仏という行の重要性も認めつつ、信、つまり思いこそを重視する。念が優先されるとするならば、言語が不自由な方は往生できなくなる。親鸞がこの事を認識していたこともまた、当時にあっては尊敬すべき点だと思う。

ここで著者はアウグスティヌスを引き合いに出す。神から一方的に与えられる信仰。そしてキリスト教に知られる原罪の考え。著者は敢えて書かないが、キリスト教への真摯な宗教心と、親鸞の意図した信には共通点があると言いたいのではないか。そして著者は、徹底した受動性が信であるとするならば、不信心者が自らの不信心を述べることについても、その基盤が不徹底であればそもそも不信心とすら云えないと喝破する。この点も「人はなぜ宗教を必要とするのか」に書かれていた。

第四章 悲憐
前章では、受動性が説かれた。では我々にできることはないのか。親鸞は何も行わず、誰にも与えようとしなかったのか。本章ではこの点に詳しく触れる。

まず、往相廻向と還相廻向の考えが示される。前者は、人間が自分の力に基づいて自己を弥陀に駆り立てることではなく、弥陀が人間を弥陀自身にむかって駆り立てる(往生させる)ことだという。後者は、浄土に往生した者が現生に帰ってくることと同義だという。その上で親鸞は、まず往相廻向によって人は弥陀によって導かれ、そして往生後、還相廻向によってこの世に現れ、人々を弥陀道へと導くという。そして還相廻向の営みおいては、悲憐の情を伴うべきという。つまり往相廻向が受動性であるならば、人々に弥陀の悲憐を差し向ける営みこそが能動性、還相廻向であると著者はいう。それはまた、共に悲しむ共悲にも通ずるものだろう。

思うに、往相廻向と還相廻向の違いとは、仏教の成り立ちからついて回る小乗仏教と大乗仏教との違いに当てはまるのではないか。自己の研鑽とそれによる成仏が小乗仏教とすれば、民に等しく仏の慈悲を広めるのが大乗仏教であると。こう考えると、仏教とは、大きな二つの考えの間を揺れなから育ってきた宗教だと思える。(これを書くにあたって調べた所、現在は小乗仏教という言葉は差別的な意味を含むため使われなくなっているらしい。)

ここで、著者は歎異抄のそもそもの成り立ちに読者の注意を向ける。歎異抄は唯円が親鸞の教えと異なる教えが横行することの歎きを書いたものという。そして、歎異抄について唯円は、親鸞の教えから逸脱した教えを信ずる人々を非難せず、共悲の心をもって歎異抄を編んでいるはずだと著者はいう。そして、その姿勢にこそ、歎異抄が親鸞の教えを正統に受け継いでいる所以ではないかと。

結章 悪の比較論
ここでは、まとめに入る。まとめではアウグスティヌスが再び登場し、親鸞のいう悪とアウグスティヌスのいう原罪について、精緻な比較がなされる。そこでは存在論的悪こそが神に救われ、高ぶるものや傲慢といった道徳的・倫理的悪は神に見出されることすらない。このあたりの論理はアウグスティヌスと親鸞に共通していると思う。

アウグスティヌスは、マニ教とキリスト教のどちらを選ぶか悩んでいたことが示される。マニ教。高校の世界史で出てきたことは覚えているが、私にとってほぼノーマークの存在。マニ教は、キリスト教にとある問いを突きつけたという。

  悪はどこから来るのか

つまり、全知全能な神が作り上げた善なる世界において、現実に悪は存在する。その悪とはどこから来るのか、という問いだ。そこでアウグスティヌスは、自らの放蕩の過去も踏まえ、悪の一切を拒絶したマニ教でなく、罪びとをも包容する力を持ったキリスト教を選んだ。だが、悪はどこから来るのかという問いは解消されぬままであり、アウグスティヌスは答えを出す必要があった。

その結果、善の欠如が悪であり、悪は神にかかわるものでなく人間の自由意思に生ずるとアウグスティヌスは考えた。

そして、理性を持つかどうかによって、下位の動物に対する生殺与奪の権利を持つと規定し、原罪の考えを解決しようと試みた。それは現代にも通ずる科学中心、人間中心の考えに繋がる、西洋式の考えに繋がるはずだ。著者もその点には気づいており、そこにアウグスティヌスの限界があったとしている。

一方で親鸞はそうした逃げを打たなかったとする。人間が存在する限り逃れられない悪。アウグスティヌスや他の思索者が道徳的・倫理的悪で思索を止めてしまったのに対し、親鸞はその先を行った。が、著者は親鸞ですら矛盾を完全に超克したわけではないと補足する。つまり、すべての存在が仏性を持つはずなのに、なぜ存在論的悪が存在するのか、との理屈だ。

著者は結びとしてこう提言する。存在論的悪を受け入れ、そのことを有り難く、申し訳ないと思うことが、他人への配慮に繋がる。そして、その謙虚さは、自らの存在を無反省に認識すべきではなく、自らの存在論的悪を見続けてこそ、新たな変貌を遂げられるはずだ。そこに、親鸞の思想が現代にも通ずる余地がある。このような結論で本書を締める。

私の理解は親鸞の思想の深淵には程遠いが、著者の闘いの跡だけはかろうじて追えたのではないかとおもっている。

‘2015/02/17-2015/02/26


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