貧しい資源の上に危うく乗っかった日本の繁栄。福島第一原発の事故によって、改めて我々にはその事実が突き付けられた。資源に乏しい我が国が、今の繁栄をどのように維持するのか。多くの人々が忘れ去ってしまったこの問いは、実は全く解決されていない。問題は棚上げされ、事故から4年以上の時が過ぎている。本書は、この問いに答える上で、重要な資料となるかもしれない。一読してそんな感想を抱いた。

著者は経済産業省で資源エネルギー政策の課長などを歴任した人物である。原発推進を国策とした経緯に当事者として関わり、政策の立案者として貢献してきた。いわば我が国原発推進の中心人物であり、その主張は原発推進の立場に依っている。

なぜ日本が原発に頼らざるをえないのか、どうして即時原発廃止が現実的でないのか。クリーンエネルギーが主流にならないのは何が問題か。そういった疑問に対し、本書では精神論に頼った議論を切り捨て、実務の立場からの解説に終始している。本書の題には「精神論ぬき」という言葉が含まれている。なぜそのような言葉を入れる必要があったのだろうか。それは、原発事故の後、精神論で今の電力危機を乗り切ろうとする風潮への警告なのだろう。

私も実は、当時精神論寄りの意見を吐いた一人だ。ただし、単純な精神論だけを唱えていた訳ではない。「電気が無ければただの箱」であるIT技術に生活の糧を得る者として、電力の安定的な供給=原発は必須と考えていた。そのため、原発の即時廃止についても慎重論に立っていたように覚えている。そして、原発は将来的には廃止の方向で考えるべきだが、代替エネルギーの無い現状では稼働せざるをえず、稼働させ続けた上で電力使用量を減らして徐々に原発から脱却すべきという意見を述べた。その意見は今も変わっていない。

夜間に煌々と明かりをつける住宅展示場や、繁華街の過剰にまぶしい光。これらをもう少し抑えるだけで、夜間電力量は減らせるのではないか。重要なのは昼夜の電力使用量の節約云々ではなく、万が一に備えて普段から節約(MOTTAINAI)の精神に慣れておくこと。それが資源貧国の民としてあるべきではないか、というのが私の思いだったように思う。今思い返しても、一歩間違えると精神論の罠に落ち込みかねない意見だ。しかし間違った意見だとは今でも思っていない。間違っていないが、私がその意見を述べるにあたり、裏付けとなる確かなデータや知識を持っていた訳ではないことは率直に認めたい。だが、本書は意見を述べるためのデータや知識を持つ、実務の第一線の著者が描いた本である。

著者の論考は、徹底して実務の立場に立っている。そこには一切の希望的観測は含まれない。理想論や希望論を排する姿勢は清々しいほどだ。冷徹な立場に徹して電力事情について解説された本書には、精神論の入り込む隙間もない。それでいて、本書が原発バラ色未来だけを描いた本かというと、そうでもない。原発利権や電力会社の構造問題にもきっちりとメスを入れている。著者の視線は常に原発の存在について、理想論や希望論を抜きにした、精神論からは遠く離れた場所に留まっている。著者の立場からいえば難しい、単純な原発擁護論とは一線を画しているのが本書の素晴らしい点の一つといえる。

第1章 電力不足の打撃と損失
第2章 原発依存にかたむいた事情
第3章 エネルギー政策の基礎とルール
第4章 再生可能エネルギーの不都合な真実
第5章 原子力をめぐる不毛な論争
第6章 賠償を抱えた東電の行く末
第7章 電力自由化の空論と誤解
第8章 「東日本卸電力」という発想の転換

ここに各章の表題を挙げたが、論じるべき点は全て論じきっているといえる。日本の電力を考える上で、本書で提示された現状を出発点とすることは重要ではないかと思う。

ただし、事故当時、精神論を唱えた私としては、まだ理想論や精神論は捨て去りたくない気持ちもある。精神論を排した本書には一矢でも報いておきたいところである。例えば、本書の第一章、第二章。電力使用量を下げねばならないという市井からの主張に対して、著者は現実的でないと一刀の元に切り捨てている。ここは少し納得が行かない。著者の唱えるすべての施策が実現しても尚、また、仮に原発事故が起こらなかったとしても尚、電力を無尽蔵に消費し尽す今のライフスタイルは見直さねばならないのではないか。これは電力問題にとどまらず、日本の将来を考える上で重要な論点ではないだろうか。

もう一点、本書ではクリーンエネルギーについても国内外の事情を紹介した上で、現時点では質量ともに代替電力としては期待できないと結論付けている。この結論は現時点では認めざるをえない。だが、著者は決してクリーンエネルギーの将来を見捨てている訳ではない。それは本書を読んでも明らかである。本書を読んだクリーンエネルギー開発の技術者の方は、是非とも本書を読み、発奮してクリーンエネルギーを開発して頂きたい。精神論にも似非科学にも無縁の、文句のつけようのないクリーンエネルギーを。その点は、私も著者も思いは一緒だと思う。

最後に、本稿を書く段になって、著者のブログhttp://ieei.or.jp/2015/06/sawa-akihiro-blog150623/ を読む機会があった。そこには、原発推進派としての著者からの贖罪にも似た言葉が綴られていた。本書ではそういった贖罪の言葉は見られない。おそらくはあえて外したのだろう。だが、このブログからは著者の真摯な態度が伝わってくる。本書を読んで、所詮は原発推進派の都合にそったことしか書かれていないんでしょ、と思う向きは、このブログを読まれることをお勧めする。クリーンエネルギーを望む声が高まってもなお、原発を推進せざるをえない日本の貧しい資源事情について、思いを致すこと間違いない。

著者とて、決して手放しで原発が最適解と考えている訳ではないのだ。著者一人にその重荷を背負わせるのではなく、我々市民として電力の節約を唱えることは、決して精神論ではないと思うのだが。本書とブログを読み、著者の真摯な姿勢に感銘を受けても尚、私が抱く電力節約についての想いだけは変わることはなかった。

という内容を書いたまま、8か月近く本稿を眠らせていた。読んだ順に読読ブログをアップするという方針のため、他のレビューを待っていたのだ。今日、本稿をアップするわけだが、結果として本書を読み終えて一年以上が経ってしまった。しかも、あろうことかその間に著者は病魔に侵され、この世から去ってしまった。今年の1月16日のことである。著者と面識があった訳ではないけれど、ブログから著者の想いに触れていただけに衝撃を受けた。当ブログが存命中の著者の目に触れることはなかっただろうことは分かっている。だが、著者の存命中に本稿をアップしたかった。アップが著者の死後になってしまったことは慙愧に堪えない。

私が偉そうなことは言えないことは重々承知だ。IT業界に生きるものとして、電気に縛り付けられた一人にすぎない。プライベートでも電気の点けっぱなしは始終やらかす。著者からみれば私もまた電気を湯水のように使い倒す大衆の一人なのだろう。それは分かっている。だからこそせめて、こういった文章をものし、著者の想いに少しでも報いたかったと思うのだ。

著者亡き今、東京は都知事が辞任するという体たらく。それでいて2020年のオリンピックは着々と迫っている。電力問題など真面目に考えている人などほんのわずかしかいないに違いない。さぞ無念だったことだろう。本書や著者の遺したブログが少しでも多くの方の目に触れることを望みたい。

‘2015/6/20-2015/6/24


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