特定の組織に属することを好まぬ私。そんな私にとって、宗教団体への入信は、今のところ人生の選択肢には入っていない。

とはいえ、私は神社仏閣に詣でることはむしろ好きな方である。各地の名刹古刹や神社には旅行の際によく訪れている。そのくせ、結婚式はキリスト教会で挙げている(しかも日本とハワイの二か所で)。私の宗教に対する無節操さは、日本人の典型ともいえる無宗教者そのものの在り方に違いない。

本書は、私のような迷える無宗教者に対して宗教の意味を説く。宗教は決して避けるべきものではなく、付き合い方によって人生を豊かにすることを紹介するのが本書の主旨といえる。

ここでわたしにとっての宗教の意味を再度確認してみる。私にとって宗教とは、現世をいかに生きるかの道標の一つ。これに尽きる。宗教に来世の救いも期待しないし、現世の利益も望まない。その替わり、現世を生きるための深い知恵と思索の蓄積を求める。なぜ生かされているのか、何故人は罪深いのか。人として正しい生き方は果たしてあり得るのか。利己と利他の境目とは何か。所詮は人も生物の一つ、社会に流され、本能の赴くままに生きるしかないのか。

なかでも、物心ついてから持ち続けている疑問については、是非とも知りたい。それは、自分が死ねば世界は続いてゆくのか、というものだ。

全ての人間に自我や意志が備わっている。それは頭では分かっているつもりだ。しかし、頭では分かっていても、他人の思考を読み取ることはできない。そして、自我という縛りは頑なで、自我の外に出ることは不可能である。そのような事実を前にすると、他の人と共通の認識に基づいているはずの現実は、私が死ねば誰が認識するのかという疑問に通じる。私の思念が他の生物、例えばおけらやもぐらやアメンボに転生したあと、引き続き現実を認識させてもらえるのかも分からない。それとも、自我が消えれば未来永劫の無があるだけなのか。その恐れは止むことがない。

この疑問は私が小学校低学年の頃から抱きはじめたのだが、おそらく解決できぬまま死ぬまで持ち続けるに違いない。社会人、つまり大人が世に出てから仕事や子育てに奔走させられる仕組みとは、この疑問を抱かせぬための、人類が築き上げた知恵ではないか、とまで思う。

物心ついてからのこの疑問について、私が今まで読んだ中で一番解答に迫ろうとする意思を感じたのが、哲学者の永井均氏の著作「〈子ども〉のための哲学」である。永井氏も私と同様の疑問を抱き、その命題に沿って思索を重ねられている。それにも関わらず、かなりの精緻な思索の結果を読んでも尚、私の根本的な疑問は解消されないままだった。

永井氏の著書を例にあげたが、自我の問題は宗教よりもむしろ哲学でよく取り上げられている。つまり、私の求める、生きることへの根本的な設問は、宗教よりも哲学の範疇らしい。つまり、私が宗教に求めるものがあるとすれば、その答えは哲学の思索の中に潜んでいるのかもしれない。こう考えると、私が宗教への入信に興味が持てないのも理解できる。

絶対的な帰依や奇跡に対する盲目的な確信といった信心では、私の求める人生への答えが得られない。宗教よりも哲学へ。20歳前半で人生の壁にぶつかり、哲学書を読み始めた私が得た当座の答えは、宗教から我が身を遠ざけることだった。ましてや宗教団体という組織に身を置くことは論外。今から考えると、私がそう考えた理由が、宗教団体という特定の組織の傘下に入ることで自分流の生活が脅かされることを恐れたことにあったことも理解できる。所詮は利己的な動機でしかなかった。

前置きが長くなったが、私は自分を「なんとなくの無信心者」から一線を画して位置づけている。それは上記のような葛藤を経た後の自覚だ。それなりの宗教的な意識を抱きながらも、あえて無信心者としての人生を歩んでいるのが自分であると規定している。なぜこのようなことを書くかというと、本書が想定する読者は、「なんとなくの無信心者」を対象としていないと思うからである。そうでなはなく、理由あっての無信心者を対象としているように思える。つまり、私のような理屈っぽい無信心者にとってこそ、本書の内容は活かされる。そう思い、真摯に読ませて頂いた。

本書は以下の章立てで構成されている。
はじめに
第1章 死ねば「無」になる
第2章 「無宗教」を支える心
第3章 「無宗教」者の宗教批判
第4章 宗教への踏切板
第5章 「凡夫」という人間観
第6章 兼好法師からのメッセージ
おわりに

はじめに、で著者は宗教を大まかに創唱宗教と自然宗教にわける。創唱宗教は教祖がいて、その教えを示す聖典の類があり、その教えを信じる信者団体が存在する宗教。自然宗教は「自然発生的」な宗教と定義する。その上で我が国の場合、無宗教とは創唱宗教に対して距離を置くことではないか、と指摘する。日本人の多くが墓地に対する宗派は問わない、という文句に惹かれることから、日本人の宗教心は創唱宗教にはなくても自然宗教に対しては今なお生き続けているのではないかと著者はいう。

私自身は、八百万の神、または、森羅万象全てに神が宿ると考えている。それが私の宗教に対する折り合いの付け方である。今の人類の叡知では及びもつかない無限から微小までのあらゆる仕組み。これらをグランドデザインした知性がいたとすれば、それは神だろうし、いなかったとしてもこれほどの仕組みがただ存在すること自体が神の御業といえる。私に信心があるとすれば、それは仕組みについての畏敬である。これらは30歳前後の頃に私の中で自然発生的に芽生えた考えであり、すなわち自然宗教だと思っている。

科学万能の世になりつつある今、自然宗教が衰退するのも必然なのかもしれない。宗教などに頼らなくても、心を満たしてくれるアイテムはそこらに溢れている。それは仕事だったりスマホだったりゲームだったりSNSだったり飲む打つ買うだったりする。先祖の概念ももはや不要だ。墓はどんどんコンパクトになり、様々な年中行事も形骸化している。あえて宗教に頼らずとも、人生の不安や虚しさを埋める事物に事欠かないのが現代社会であり、人の心の拠り所も宗教から離れる一方といえる。

衰えた自然宗教の代替として、著者はいくつかの道を挙げる。
① 創唱宗教への入信
② 自覚的な無神論者になる
③ 創唱宗教には関心を持ちつつ教団から距離を置く
④ 俳句短歌茶道華道といった道を究める
著者が挙げた道以外には、先に挙げた仕事~飲む打つ買うの類いもあるだろう。

「はじめに」で取り上げられた内容は、著者の前書「日本人はなぜ無宗教なのか」で追求した内容を追っている内容だそうだ。私も2009年の5月に読んでいる本である。当時は本を読んでも読みっ放しであり、本ブログのようにあとから自分なりにレビューという形で振り返っていなかった。なので、内容も忘れてしまっている。改めて読んでみようと思う。

第1章は、北杜夫の死生観や夏目漱石の臨死体験を例に挙げる。死ねば無となる、その「無」の根拠が否定や肯定に基づくものであれ、科学的に証明できないことを述べる。科学的な常識とやらに毒された現代の認識に対して一石を投じる内容となっている。まずは科学万能の頭を論破しておかねば、宗教心の生じる余地がないのはもちろんだ。

第2章では、前章で素材に上げられた「無」について詳しく分け入って行く。「無」とは、人間のはかなさであり、無常の感覚。時間的な永遠の尺度でも、宇宙の宏大な中でも、一人一人の人間の小ささについて、考えればはかないとの結論に行きつくのは分かる。著者は、このはかなさを単に人生を乗りきるための方便でなく、もう一段階上に展開することで救済に至れるのではないかと説く。そして、志賀直哉の暗夜行路の主人公、時任謙作の経験を引用する。また、夏目漱石の大病経験も引用する。謙作も漱石も、自己と自然との一体感によって救われたことが文章に残っている。本章は、それらの記述を引用し、論拠としている。また、佐藤春夫の風流論からは、自然に対抗する努力を放棄するという文章を引用し、自然の流れに委ねることが、日本人の宗教的営みであることを述べる。そして短歌や俳句も含めたそれらの営みが、日本人の無宗教の源流であると指摘する。

第3章では、第2章の結果を受けて、なぜ日本人が創唱宗教に否定的かという設問について筆を進める。著者はその問いに二つの理由を提示する。一に非科学的で時代遅れであること。二に人生の問題は人間の智恵によって解決できること。その二つが正しいと思い込まれているため、日本人は創唱宗教に否定的だと著者は主張する。

さらなる理由として、既存宗教への信頼が喪われたことは忘れずに指摘しなければならない。私腹を肥やし、俗に堕ちた聖職者たちの例。彼らが創唱宗教への信頼に傷をつけたことは否めない。識見を蓄え、苦行を乗り越えた存在、つまりは凡人とは及びもつかぬ霊力の持ち主。このような聖職者に出会うことが稀になったことを著者は大いに批判する。中江兆民の病床に押しかけ、帰依を迫ったという雲照律師のエピソードを紹介し、葬式仏教と堕した既存仏教への失望感をあげる。

本書は題名からすると宗教への入信を進める類の本と思われがちだが、実は違う。本書は、既存の宗教への思い切った糾弾と問題提起が含まれている、本章ではその点が顕著に出ている。その筆先は古くからの4大宗教だけでなく、この100年ほどで発生した新興宗教にも及んでいる。本章ではインチキ宗教かどうかを見分ける方法として一つの手立てが紹介されている。「その宗教に近づいてみて精神が明るくなれば真正の宗教であり、逆に精神が暗くなれば、それはまちがいなく「インチキ」宗教だ」と84頁で言い切っている。さらに呪術と宗教の違いも漏れなく指摘している。それによると呪術の因果は人を説得しきれないのだという。それは逆にいうと、人を惑わすのではなく説得できるだけの強さを持った宗教こそが、人の宗教心を受け止められることを意味している。ここで俎上に上げられるのは、法然や親鸞が基礎を作った浄土真宗だ。聖職者が全て清廉たるべきという法然の教えを例に挙げながらも、俗な考え方を抱いた仏教、中でも現代の浄土真宗の在り方には憤りを覚えるとまで著者は云う。そこには説得できるだけの強さもない、と著者は云いたいのであろう。

第4章はそれでもなお、宗教に救いを求める人のこころについて考察を深め、入信に対して踏み出すための切っ掛けをつくる章になっている。ここで著者は井上靖著「化石」を例に挙げる。経済の世界で成功を収めてきた主人公が、がんに犯された自分の死期を前に、本当の生き方を模索する話だ。また、この章では作家の丹羽文雄の生き方を例に挙げ、さらに葉っぱのフレディまでも俎上に上げ、命の消えゆく自覚を前にして、本当の生き方を見つけ出そうとする人々や自然の営みが紹介されている。ただし、本章では本当の生き方を見つける努力が直ちに宗教への道に通じている訳ではないことに言及している。そのことには注意が必要だ。124頁から125頁にかけて、詳しく説明されている。例えば「我が死を一つの現象、変化として客観視する態度からは、宗教への道はひらかれない」や「長年、死や人生の問題を突き詰めて考えることもなく人生を過ごしてきた人が、ついに自己の死に直面せざるをえなくなったからといって、その人が突如宗教的人間になるということは、むつかしいことなのです。自己の有限性に苦しみ、悲しむ心が堆積していてはじめて、目前に迫る氏が宗教への踏切板になるのです」という文は、常日頃の心の置き方を考える上で肝に銘じておかねばならないと思う。

第5章は凡夫についての考察に視点を移す。浄土真宗の法然や親鸞が突き詰めて考えた結果が、ただひたすらに念仏を唱えることで成仏できるという他力本願の考えであることはよく知られている。つまりは修行によって、悟りを啓き、仏になるとの考えとは真反対の立場であり、もともと努力したところで人は凡夫にすぎないという考え方を推し進めたのが浄土真宗の凄味と解釈している。本章でもその解釈に依って、個人を個人主義の枠の中に押し込めるのではなく、集団や社会の業縁に縛られた存在として見直し、その社会倫理の中でとらえ直すことを提唱している。それは冒頭に私が書いた宗教団体といった組織へ入ることにつながるはずであるが、本章ではそこには触れていない。しかし私を含めた宗教から距離を置く人々の多くが、宗教組織への参加忌避であることを考えるとすると、この点は宗教への道を考える上で避けられない問題と著者は考えたのではないだろうか。ただ、私は著者の提唱にも関わらず、なおも個人で個人の内面の宗教的意思を純化できないものだろうかと考えるのだが。

また、法然や親鸞の考えを現代に薦めるには、第3章で糾弾された浄土真宗の宗教としての強さが問われることはいうまでもない。個人の努力ではなく社会倫理に身を委ねることを推し進めるのであれば、社会倫理の規範の在り方が問われるのは当然である。浄土真宗がそのような強さを取り戻し得るのか否か。あえてその点は本章では触れられていない。が、著者の厳しい視線が注がれていることは、浄土真宗や日本の仏教界の方々は忘れてはならないだろう。今のままでは著者の求める宗教への道の受け皿として、日本の仏教、特に浄土真宗は取り除かれてしまうからだ。

第六章は、兼好法師からのメッセージということで、徒然草の中にある法然仏教への共感を紹介する。上にも書いたが、著者は創唱時の浄土真宗の考え方に強く共感し、そこに宗教的な道を拓くことが出来ないか、ということを考えている。189頁にはそれを論ずるための二つの文章がある。二つの文章を一言で云うと「信心が神仏の存在を決定する」または「宗教は主観的事実だ」に集約されている。全ては読者の心次第だ、というわけである。結論としては読者の信心に委ねたわけである。本書が入信を薦めることを主題としていない以上、このような結論を肩透かしと批判することは相応しくない。

本書を通じ、私自身の宗教心の由来や求めるところが少しは整理できたように思う。そして本書を読んで、私の中で法然や親鸞の教えについての関心が高まったのも収穫といえる。この後、親鸞に挑戦してみるのだが、それはまた後日のレビューにて紹介したいと思う。

‘2014/12/12-2014/12/19


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