中上健次氏(以下敬称略)の作品で読んだ事があるのは、『枯木灘』くらい。読んだのは記録によると、1996年11月だから二十二年前まで遡らなければならない。内容についてはあまり覚えていない。出口のない閉そく感が濃密だったことだけをかすかな読後感として覚えている。

中上健次が読むべき作家である事は、頭ではわかっていた。だが、私には濃密な世界観に向かい合うだけの余裕も、読み下すだけの自信もなかった。自信がない中、読めないでいた。そんな所に、中上健次の評伝として傑作だ、と本書を勧められた。私に本書を紹介してくれたのは、仕事仲間として知り合った方。だが仕事仲間とはいえ、この方とは文学や音学の趣味が合う。なので、仕事の域を超えて友人としてもお付き合いさせていただいている。この方の推薦とあらば傑作に違いない。

そう思って読み始めた本書は、たしかに評伝として優れていた。そしてすいすいと読み進められた。評伝とは元来、対象人物の由来や育ちを解体し、分析する作業だ。普通ならば劇的な驚きに出会うことは少ない。評伝の対象となる人物の残した業績に、どういったきっかけや学び、またはご縁があるのか。それを知ることで自分のこれからに生かすのが評伝を読む目的だからだ。だが、本書には驚きがあった。それは中上健次の出自が被差別部落にある事が詳細に描かれていた事だ。

もちろん、中上健次の出自が部落にあること自体はおぼろげに知っていた。私の蔵書の中に解体新書というものがある。本の雑誌ダ・ヴィンチが発行した作家を詳しく紹介したMOOKだ。そこで中上健次も取り上げられており、被差別部落の出であることは触れられていた。だが本書を読むまで、中上健次の文学が被差別という立場から書かれたという視点は私から全く抜け落ちていた。

念のため言っておくと、私は自分では、歴史的に差別を受けた出自を持つ方への偏見はあまりないと思っている。今でも被差別の目で周囲から見られる地域があることや、週刊誌などでたまに出自を暴かれる有名人がいることも知っている。

とはいっても、関西に住んでいた頃は全く同和問題には無縁ではなかった。わたしが幼い頃の西宮には明らかにそうと思える場所も残っていた。また、差別されいじめられている人もいた。大学のころには芦原橋にあるリバティ大阪(大阪人権博物館)にも行ったことがあるし、本書を読んだ9カ月ほど後にもリバティ大阪を再訪した。

だが、日常生活の皮膚感覚ではそうした差別意識に出会う機会は日に日にまれになっているように思う。私のようにいろいろな方と仕事や交流会で会う機会が多いと、中にはそういう出自を持つ方にも会っているはずだ。だが、仕事である以上、相手の出自などどうでもいい。要は結果が全てなのだから。だからかもしれないが、東京に出てからの私に同和問題を意識する機会は薄らいでいた。

とはいえ、関西にいまだに被差別部落といわれる地区は存在していることは確かだし、わたしの幼少期に文壇デビューした中上健次にとっては出自の問題はより切実だったに違いない。ましてや中上健二の故郷新宮にあっては、なおのこと切実だったと思う。

数年前、妻と紀伊半島を半周する旅をしたことがある。新宮にも立ち寄ってめはり寿司に舌鼓を打った。この時、新宮駅前や徐福公園、浮島の森に行こうと思い、駅前周辺をあちこち車で移動した。この時は何も感じなかったが、本書を読んで、なんとなくこみごみした路地を車で通ったことを思い出した。今、地図を見てみると中上健次生誕の地は駅のすぐ横のようだ。おそらく、私もすぐそばを通ったはずだ。新宮を旅行した時、私はすでに『枯木灘』は読んでいた。それなのに、その時の私が中上健次のことを思い浮かべることはなかった。

本書は、中上文学が差別の現実に苦しむ露地から何をすくい上げ、どう作品に昇華させたのかが描かれている。

本書の扉には、ソポクレスの『エレクトラ』が引用されている。
「さて、故国の土よ、氏神様よ、願わくはわたしがこの旅路を首尾よく終えて帰国を果たせますように。なつかしい父祖の館よ、そなたもわたしの願いをきいてくれ。」

『エレクトラ』は本書の題名にもなっている。そして、中上健次がまだ無名のころに書いた小説のタイトルでもある。本書は、無名時代の中上健次が、編集者に叱られ、励まされる姿で幕を開ける。続いて著者は、無名の中上健次が文学に青春をささげる背景を探る旅に出る。

著者は中上健次の故郷、新宮の春日地区を取材する。そして、生前の中上健次を知る存命者を訪ねて回る。著者の取材と描写は徹底していて、在りし日の春日地区がよみがえってくるようだ。今や再開発が進み、春日地区にかつての雰囲気は残されていないとか。それでも著者は春日地区で生を受け、成長した中上健次の在りし日をよみがえらせようとしている。春日地区の方々が人生を切り開こうとして苦闘した姿。差別という現実に、ある者は風評に負け、ある者は人生を諦める。そうした人々の哀しみや怒りは、中上健次の作品群にありありと表れていることをしめすため、著者はあらゆる中上作品を豊富に引用する。そこには差別という現実を決して隠そうとせず、文学を通して世の中に叩きつけようとする中上健次の怒りがある。

本書に引用されている詩の豊富さは、特に目を引く。詩とはイメージの氾濫であり、理屈ではない感情の裸の部分だ。これらの詩を読んでいると、発表された小説だけでは 中上健次の世界感は到底理解できないことに気づく。第四章のタイトルにもなっている「故郷を葬る歌」は、なかなかに物騒な内容だが、著者はそのねじれた感情を見破り、最後の締めに中上健次の甘えを見て取り、「尻の青い、甘ったれの詩であった」と両断している。

本書は一人の少年が、熊野から上京し、芥川賞受賞を果たし、小説家として押しも押されもせぬ存在になるまでが描かれる。そこには、なぜ小説家にならねばならないのか、という一人の人間の切実な動機があったのだ。そしてそれを見抜き、小説家としての大成を見守った編集者の役割も見逃せない。本書は高橋一清、鈴木孝一の二人の編集者による作家を養成する軌跡でもある。二人の編集者による魂を削るかのような叱咤と激励が中上健次を大成させたと言っても言い過ぎではない。私は本書ほど編集者が作家に与える影響力の大きさを描いた書物を読んだことがない。編集者が小説家を生かしもするし殺しもするのだ。本書で印象に残る表現に梅干の種がある。梅干の種までは小説家なら誰でもたどり着ける。その種をさらに割って、核までたどり着く。そのような覚悟を鈴木氏は幾度も中上健次に迫ったという。

いうまでもなく、ここで言う核とは被差別の出自を示しているのだろう。種をどうやって割り、どうやって核を引きずり出すのか。中上健次は詩や散文などあらゆるやり方で己の中にある核に迫ろうと奮闘する。新宿での無頼で自由な日々をへて、連続射殺魔として世を騒がした永山則夫に共感を抱き、結婚して家族を持つ。中上健次はそこでいったん現実を見つめ、国分寺に家を構え、毎日仕事をしに羽田空港まで出かける。たいていの人はそのまま一生を終えてしまうが、彼はその長距離通勤にも負けず、家族を守りながら小説家として一本立ちする。そのいきさつが本書にはつぶさに書かれている。日々の仕事をこなしながら、彼が小説家への志を捨てなかったのも核を持っていたからだろう。被差別を出自とした自らの故郷への愛憎、それに立ち向かわねばならないという確固たる意志。そこに中上健次の作家の真価がある。そしてそれに気づき、引き出そうとした編集者の慧眼。

中上健次の核は、『十九歳の地図』『火宅』『蛇淫』『岬』といった諸作で種の表皮に徐々にひびがはいり、ついに『岬』で芥川賞を受賞して日の目をみる。本書において著者は、芥川賞を受賞して以降の作品にあまり重きを置かない。『枯木灘』でさえも。『枯木灘』とはそれら短編で研ぎ澄まされた作品世界を長編として生まれ変わらせた作品であり、それ自体に新鮮さを求めるのは間違いかもしれない。いうなれば総集編というかベスト盤。となると『枯木灘』しか読んでいない私は、中上健次の真価に触れずにいるのだろう。

『岬』で一躍、世間的に脚光を浴びた中上健次。それ以降の作品で本書が多くを触れるのは熊野のルポルタージュである『紀州 木の国・根の国物語』の苦闘のいきさつだ。その他の作品は本書ではほとんど触れられない。小説家として不動の地位を築いてからの作品にも高い評価を受けた作品は多い。だが、著者によれば、それらの作品はいまや核を割ることに成功した小説家の、いかに核を味わうか、の技巧の結果でしかないようだ。

自らの中にある核を取り出した後、中上健次にできることは己の出自にけじめをつけることだけ。熊野の被差別部落を葬ったのは実質、中上健次自身であることが本書には記される。改善事業や文化会の開催など、春日地区の改善に貢献したあと、やるべきことがなくなったかのように、中上健次はガンに侵される。本書では特に触れられていなかったが、死の前に中上健次は、路地、つまり被差別をモチーフとしない作品への転換を模索していたらしい。ところがその成果は世に出る事はなかった。それもまた運命なのだろうか。中上健次がなくなったのは那智勝浦。故郷に帰って死ねたのがせめてもの慰めだったと思うほかはない。

46歳の死はあまりにも早い。また、惜しい。そして私はその年齢に近づきつつある。それなのに、総集編としての『枯木灘』しか読んでいない私の読書体験の乏しさに焦りが生まれる。まだ間に合うはずだ。読むべき本の多さに圧倒される思いだが、読んでおかなくては。本書はよい機会となった。友人に感謝するしかない。

‘2017/06/04-2017/06/08


2 thoughts on “エレクトラ

  1. まぶりん麻呂。

    この作家さんは初見でしたが46歳でガンで亡くなったと知り、44歳で妻が亡くなったのが遠い日の記憶になりつつあります。1ヶ月程前から事情により母親の支援が難しくなり、完全自立化しました。当然のごとく残業はなくなり(というか、定時で帰らないと家事がこなせません。)藤沢周平氏の代表作「たそがれ清兵衛」の主人公の様な生活を送っています。

    話は変わりますが、ガンダムの「THE ORIGIN」はご存知ですか?ファーストガンダムより以前の話なのですが、これがなかなか面白いのです。もしよろしかったらブルーレイに焼いてお貸しします。公私共々通常の3倍のスピードでノルマをこなしています。

    1. 長井祥和 Post author

      まぶりん麻呂さん、こんにちは。

      中上さんは、本書のエレクトラでも触れられていましたが、一節にはノーベル文学賞に近いと言われた作家でした。
      結局、没後に大江健三郎氏が受賞されましたが。

      過程によって色々とありますよね。頑張ってください。落ち着いたらお出かけしましょう。

      THE ORIGINは漫画の原作は持っています。劇場でも公開時に観に行こうと思ったのですが、いけませんでした。
      観たいですね。ぜひお願いします!

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