本書はどこにでもいそうな平凡な女の子、知寿の日常を描いている。本書を読んでいても、筋に大きな流れや起伏は出てこない。筋だけを追うと、本書からは平板な物語という感想しか出てこないかも。

でも、なんだかほっとする物語だ。

人と上手く関係を持てない女の子が、東京に出てきて、親族のおばちゃん家に居候する話。といえばそれだけ。人との関係がうまく作れない分、人のちょっとしたものをくすねてしまう性癖がある。うまく自分の感情を出せないくせに、落ち込むととことん落ち込んでしまう。感情の動きが激しいのに、それを表に出すのが苦手というのは今の女の子にありがちな性格なのだろうか。

知寿が居候するのは、母方の祖母の弟の奥さんという設定の吟子さん家。ご厄介になるうちに、笹塚駅のキオスクのバイトで知り合った藤田君と恋仲になり、藤田君を連れて吟子さん宅でごろごろしたりとドラマティックな展開とは無縁の冴えなくも気負わない日常が淡々と書かれる。起こる出来事としたらたまにデートで高尾山に行くくらい。行った帰りに人身事故に遭遇して2,3駅歩いて帰るぐらい。

でも、話には起伏がない分、知寿の心の動きは山あり谷あり。著者はそのあたりの心の動きを実に丁寧に書いている。そもそも日常に劇的なイベントが立て続けに起こるのが異常なのかもしれない。たいていの女の子の日常とは知寿のようなものなのかもしれない。そこがとてもリアル。リアルでほっとする。それが本書。

本書は京王線沿線が舞台となっている。吟子さんの家は某駅ホームの端から見える位置にあるという。本書を読み進めていくと、京王線沿線を知る人にはどこが舞台になっているか絞れるのではないだろうか。私がみたところ、吟子さんの家の最寄駅とは仙川か八幡山ではないかと思ったのだけれど。そうやって推測できるぐらい、本書には京王線近隣の駅が良く出てくる。

藤田君に振られ、吟子さんの年までワープしたいという主人公。吟子さんのボーイフレンドホースケさんとの交流もあって、知寿の日常はますます年寄染みたものになる。いわゆる欝状態。

でも、そこから知寿は回復してゆく。ふっとしたきっかけを手がかりに。そこの描写が実によい。女性にしか書けないかもしれない心の移ろい。中途半端に満たされた日々の中、ぬるま湯にいてふと気づく、冷えた水がまとわり付く感覚。

今は昔のように女性に決まりきった役割が求められていない。その分、不安定な年頃の幅が広まっているのだろう。甘えようと思えば甘えられてしまう、幸せと胸を張って言えない中途半端な立ち位置。

しかし知寿はそこから再生への道を歩む。藤田君への未練もすっぱりとなくし、吟子さんへの依存もなくすために別の家、別の仕事へ。そうして、知寿は、今までくすねてきた無価値な品々をもすっぱりと捨てる。

つまり、本書は現状から抜け出すための応援小説でもあるのだ。外部のイベントに頼らなくても、復活するきっかけは自分自身の中にあるはずという。

人との関係が希薄になったとよく言われる。ネットでのやりとりがその元凶であるとも言われる。しかし、知寿は不器用であっても吟子さんや藤田君とのコミュニケーションを試みる。吟子さんと知寿のやりとりの微妙な距離感は、本書を楽しむ上で外せないのだが、あえて71歳の吟子さんをパートナーに持ってきたことで、リアルの会話でしかコミュニケーションを取らないように知寿を追い込んでいる。吟子さんと恋人であるホースケさんとの関係もまた、緊張とは程遠いほのぼのとしたものだ。でもそこには血の通った交流がある。

知寿や吟子さん、ホースケさん、そして藤田君を通し、コミュニケーションのあり方を探っているのも本書の隠されたテーマなのだろう。

‘2015/5/14-2015/5/17


2 thoughts on “ひとり日和

  1. 水谷 学

    レビューから読み取った印象としては、「阪急電車」の舞台を京王線に持ってきた感じでしょうか?

    現在読破している童門先生の宮本武蔵の歴史小説では、武蔵が先を見通す力を重視するのに対し、

    黒田如水は人間関係の方がはるかに重要であると説く。

    人づきあいが苦手で、出来る事なら避けて通ってきた自分にとって身につまされるような話でありますが、

    今後の人生のあり方を考える上で、少しでも努力して苦手な人づきあいを克服していきたいものです。

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん,、おはようございます。
      阪急電車は今津線の往復の中で、一駅一駅ごとに起こる人間ドラマでしたよね。
      駅と駅を結ぶ電車の動きに合わせて人の関係も動き、そこにドラマが生じるという。
      いうなれば物語の推進軸を阪急電車に丸ごと委ね、コミュニケーションの発火点を電車の運行に合わせたような。
      だから推進軸は阪急電車だけども、主役は乗客なのです。

      本書の中での京王線は、あくまで日常の舞台でしかないのですよね。
      主役の知寿も吟子さんも、乗客ではなく観客なのです。家や駅のキオスクから発着を見届ける観客。
      本書に乗客として京王線を使う描写はほとんど出てきません。唯一あるとすれば高尾山への
      ハイキングですが、それすらも帰りは途中で降ろされ観客として沿線をそぞろ歩きします。

      吟子さんの家からは毎日発着する京王線の電車が見え、完全に日常の風景と化しています。
      笹塚駅のキオスクバイトにしても、高尾山のハイキングにしても、これが京王線である
      必要はあまりなくて、小田急でも西武t線でも別によいのです。

      だから本書では知寿は京王線の動きに触発されて復活へと行動に移すことはありません。
      京王線の発着の動きは、コミュニケーションの発火点にはなっていません。そこが阪急電車と本書の違いでしょうか。

      人間関係は重要だと思います。ITの進化は人間の事務能力をはるかに超えています。
      私的にはプログラミングスキルやシステム最適化スキルは早晩AIに持っていかれると思っています。
      となれば、あとは発注される方がシステムに託したい要件や思想をいかに引き出し、それを機械向けに翻訳するかだと思うのです。
      つまりコミュニケーション能力。

      武蔵の先を見通す能力は、プログラムのロジックの整合性を完璧に落とし込む作業にも通じます。
      一方で、如水のいう人間関係は、その人が何を求めるのかを察し、柔軟に対応する能力。

      残念ながら、ITという分野に絞れば、武蔵の磨いた能力はITに取って代わられてしまいました。
      如水のいう人間関係だけが、これからのIT業界で生き残るためのよすがとなると思います。

      個人的には武蔵の自分を突き詰めるところに惹かれるのですがね・・・・今回も武蔵の里でそんなことを思いました。

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